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やく小角おがく

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役行者えんのぎょうじゃから転送てんそう
やく 小角おがく
舒明天皇てんのう6ねん634ねんつて大寶たいほう元年がんねん701ねん)6がつ7にちでん
役行者像(キンベル美術館)
役行者えんのぎょうじゃぞうキンベル美術館びじゅつかん
幼名ようみょう 小角おがくきむきね麿まろこんじょまろ
諡号しごう 神變しんぺんだい菩薩ぼさつ
尊称そんしょう 役行者えんのぎょうじゃやくゆうばばふさが(えんの うばそく)
生地きじ 大和やまとこく葛城かつらぎ上郡かみごおり茅原かやはらさと
げん奈良ならけん御所ごしょ茅原かやはら[1]
ぼつ 天上てんじょうだけ箕面みのお
宗派しゅうは 修験しゅげんどう
寺院じいん 役行者えんのぎょうじゃれいあと札所ふだしょなど
弟子でし 韓国かんこく広足ひろたり
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やく 小角おがく(えんの おづぬ / えんの おづの / えんの おつの、舒明天皇てんのう6ねん634ねんつたえ - 大宝たいほう元年がんねん6月7にち701ねん7がつ16にちつて)は、飛鳥あすか時代ときよ呪術じゅじゅつしゃ[2]役行者えんのぎょうじゃえんのぎょうじゃやくゆうばばふさがえんのうばそくなどともばれている[3]せいきみ

いくつかの文献ぶんけんでは実在じつざい人物じんぶつとされているがなま没年ぼつねんしょう[2]人物じんぶつぞう後世こうせい伝説でんせつおおきく、ぜんおにこうおに弟子でしにしたといわれる。てんかわだい弁財天べざいてんしゃ大峯山おおみねさん龍泉寺りゅうせんじなどおおくの修験しゅげんどう霊場れいじょうでもやく小角おがく役行者えんのぎょうじゃ開祖かいそとしていたり、修行しゅぎょうとしたという伝承でんしょうがある。

出自しゅつじ

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やくえんうじやくきみえん の きみさんりんけい氏族しぞくぞくする地祇ちぎけい氏族しぞくで、葛城かつらぎながれ賀茂かもから氏族しぞくであることから、加茂かもやくくん賀茂かもやくくんかも の えん の きみともばれている[4]やくみん[ちゅう 1]管掌かんしょうした一族いちぞくであったために、「やく」のをもってとしたという[5]。また、この氏族しぞく大和やまとこく河内かわうちこくおお分布ぶんぷしていたとされる[4]

生涯しょうがい

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舒明天皇てんのう6ねん634ねん)に大和やまとこくかずら上郡かみごおり茅原かやはらさと現在げんざい奈良ならけん御所ごしょ茅原かやはら)にまれる[ちゅう 2]ちちは、出雲いずもからはい婿むこした大角おおすみははしろせんおんな伝説でんせつではかたなりょうおんなともばれた)。生誕せいたんとされる場所ばしょには、吉祥きっしょうくさてら建立こんりゅうされている。

しろ雉元ねん(650ねん)、16さいときやまこく(山城やましろこく)に志明しめいいん創建そうけん翌年よくねん17さいとき元興寺がんこうじ孔雀くじゃく明王みょうおう呪法じゅほうまなんだ。その葛城山かつらぎさん現在げんざい金剛山こんごうざん大和やまと葛城山かつらぎさん)で山岳さんがく修行しゅぎょうおこない、熊野くまの大峰おおみね大峯おおみね)の山々やまやま修行しゅぎょうかさね、吉野よしの金峯山こんごうざんきむつよし蔵王ざおうだい権現ごんげん感得かんとくし、修験しゅげんどう基礎きそきず[ちゅう 3]。20だいころ藤原鎌足ふじわらのかまたり病気びょうき治癒ちゆさせたという伝説でんせつがあるなど、呪術じゅじゅつすぐれ、神仏しんぶつ調和ちょうわとなえた。命令めいれいしたがわないときにはのろい鬼神きじんしばった[7]人々ひとびと小角おがく鬼神きじん使役しえきしてみずたきぎらせているとうわさした。高弟こうてい国家こっか医療いりょうのろいきんつかさど典薬てんやくりょう長官ちょうかんである典薬てんやくあたまにんぜられた韓国かんこく広足ひろたりがいる。

文武ぶんぶ天皇てんのう3ねん5月24にちユリウスれき699ねん6月26にち)に、人々ひとびと言葉ことばまどわしていると讒言ざんげんされて伊豆島いずしま流罪るざいとなる。

2ねん大宝たいほう元年がんねん701ねん)1がつ大赦たいしゃがあり、茅原かやはらかえるが、同年どうねん6月7にちに、大阪おおさか箕面みのおにある箕面みのおさん瀧安寺たきあんじおくいんにあたる天上てんじょうだけ標高ひょうこう499m北緯ほくい3451ふん47.503びょう 東経とうけい13528ふん5.485びょう)にて入寂にゅうじゃくしたとつたわる。享年きょうねん68。山頂さんちょうには「役行者えんのぎょうじゃ昇天しょうてんしょ」の石碑せきひ墓石はかいしとブロンズぞう護摩壇ごまだん平成へいせい26ねんてられている[8]。なお、石鎚山いしづちさん山中さんちゅうくなったとも石鎚山いしづちさんではわれている。

中世ちゅうせいとく室町むろまち時代じだいはいると、金峰山きんぷさん熊野山くまのさんなどの諸山しょざんでは、役行者えんのぎょうじゃ伝承でんしょうふくんだ縁起えんぎ教義きょうぎしょ成立せいりつした。金峰山きんぷさん熊野山くまのさん縁起えんぎわせてつくられた『りょうみね問答もんどう鈔』、『修験しゅげん指南しなん鈔』などがあり、『ぞく日本にっぽん』の記述きじゅつより桁違けたちがいに詳細しょうさいな『役行者えんのぎょうじゃほん』という小角おがく伝記でんきまであらわれた。こうした書物しょもつ刊行かんこうあわせて種々しゅじゅ絵巻えまき役行者えんのぎょうじゃかたどった彫像ちょうぞう画像がぞう制作せいさくされるようになり、今日きょうつたわっている。[6]

寛政かんせい11ねん1799ねん)には、聖護院しょうごいんみやみつるじん法親王ほうしんのうひかりかく天皇てんのう役行者えんのぎょうじゃ遠忌えんき没後ぼつご)1100ねんむかえることを上表じょうひょうした。同年どうねん正月しょうがつ25にちひかりかく天皇てんのうは、烏丸からすま大納言だいなごん勅使ちょくしとして聖護院しょうごいんつかわして神変しんぺんだい菩薩ぼさつじんべんだいぼさつおくりなおくった。勅書ちょくしょ全文ぜんぶんひかりかく天皇てんのう真筆しんぴつによる。聖護院しょうごいん寺宝じほうとしてのこされている[9]

伝説でんせつ

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葛飾かつしか北斎ほくさい北斎ほくさい漫画まんが』より、前鬼ぜんきこうおにしたがえたやく小角おがく

役行者えんのぎょうじゃは、鬼神きじん使役しえきできるほどの法力ほうりきっていたという。左右さゆうぜんおにこうおにしたがえた図像ずぞう有名ゆうめいである。あるとき葛木かつらぎさん金峯山こんごうざんあいだ石橋いしばしけようとおもち、諸国しょこくかみ々を動員どういんしてこれを実現じつげんしようとした。しかし、葛木かつらぎさんにいるかみ一言ひとことぬしは、みずからの醜悪しゅうあく姿すがたにして夜間やかんしかはたらかなかった。そこで役行者えんのぎょうじゃ一言ひとことぬしかみであるにもかかわらず、折檻せっかんしててた。すると、それにえかねた一言ひとことぬしは、天皇てんのう役行者えんのぎょうじゃ謀叛ぼうほんたくらんでいると讒訴ざんそしたため、役行者えんのぎょうじゃかれ母親ははおや人質ひとじちにした朝廷ちょうていによって捕縛ほばくされ、伊豆いず大島おおしまへと流刑りゅうけいになった。こうして、架橋かきょう沙汰さたやみになったという。

役行者えんのぎょうじゃは、流刑りゅうけいさき伊豆いず大島おおしま[ちゅう 4]から、毎晩まいばん海上かいじょうあるいて富士山ふじさんへとのぼっていったともわれている。富士ふじ山麓さんろく御殿場ごてんばにあるあおりゅうてら役行者えんのぎょうじゃ建立こんりゅうといわれている。また同様どうようしまして熱海あたみ東部とうぶにあたる伊豆山いずさん修行しゅぎょうし、また伊豆山いずさん温泉おんせん源泉げんせんであるはし発見はっけんしたとされる。

また、あるとき日本にっぽんから中国ちゅうごく留学りゅうがくした道昭みちあきが、途中とちゅうしん山中さんちゅうひゃくとら相手あいて法華経ほけきょう講義こうぎおこなっていると、聴衆ちょうしゅうなか役行者えんのぎょうじゃがいて、道昭みちあき質問しつもんしたとう。

ぞく日本にっぽん

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小角おがく生涯しょうがい伝承でんしょうによるところがおおきいが、史料しりょうとしては『ぞく日本にっぽんまきだい一文武天皇三年五月丁丑条の記述きじゅつがある。

ちょううしやくくん小角おがくりゅう伊豆島いずしまはつ小角おがくじゅう於葛木山きやま。以咒じゅつしょうそとしたがえ五位下韓國連廣足師焉。こうがい其能。讒以妖惑。はいとおしょ世相せそうでんうん小角おがくのうやく使鬼神きじん汲水きゅうすいたきぎわか用命ようめいそく以咒ばく

文武ぶんぶ天皇てんのう3ねん5月24にち[ちゅう 5]やくくんしょうかく伊豆いず大島おおしま配流はいるした。そもそも、小角おがく葛城山かつらぎさんみ、呪術じゅじゅつ称賛しょうさんされていた。のちにそとしたがえかん国連こくれん広足ひろたりあおいでいたほどであった。ところがその、あるひとかれ能力のうりょくねた[ちゅう 6]、妖惑のかどで讒言ざんげんした。それゆえ、かれ遠方えんぽう配流はいるしたのである。世間せけんあいつたえて、「小角おがく鬼神きじん使役しえきすることができ、みずませたり、たきぎらせたりした。もし鬼神きじんかれ命令めいれいしたがわなければ、かれらを呪縛じゅばくした」という。

だい1国史こくし大系たいけい だい意訳いやく

解釈かいしゃくとして、まつしめ助字じょじの焉をかしてぶんつなげ、「そとしたがえ韓国かんこく広足ひろたり小角おがくとしていたが、その能力のうりょくねたんで讒言ざんげんした」とするせつもある[11]広足ひろたりせいろくじょうからそとしたがえ昇進しょうしんしたのは、やく小角おがくぼっしたとされる時期じきからやく30ねん天平てんぺい3ねん731ねん)である[12]。さらには、広足ひろたり韓国かんこくであることからか誤解ごかいされることおおいが、[11]韓国かんこく物部ものべ支族しぞく[ちゅう 7]

この記録きろく内容ないよう前半ぜんはん部分ぶぶん事実じじつ記録きろくであるが、後段こうだんの「世相せそうでんうんク…」のはなしは、すでになかば伝説でんせつのような内容ないようになっている。やく小角おがくかんする信頼しんらいされる記録きろく正史せいしかれたわずかこれだけのものであるが、のちかれる役行者えんのぎょうじゃ伝説でんせつ説話せつわはほとんどすべてこれを基本きほんにしている[14]

日本にっぽん霊異れいい

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やく小角おがくにまつわるはなしは、ややくだって成立せいりつした『日本にっぽんげんほう善悪ぜんあく霊異れいい』に採録さいろくされた。後世こうせいひろまったやく小角おがくぞう原型げんけいである。荒唐無稽こうとうむけいはなしおお仏教ぶっきょう説話せつわしゅうであるから、史実しじつとしてめられるものではないが、著者ちょしゃ完全かんぜん創作そうさくではなく、当時とうじ流布るふしていたはなしもとにしているとかんがえられる。

日本にっぽん霊異れいい』がかれたのはひろしひとし年間ねんかん(810ねん - 824ねん)であるが、説話せつわ自体じたい神護かんごけいくも2ねん768ねん以降いこうにつくられたものであろうとされている[15]

日本にっぽん霊異れいい』でやく小角おがくは、仏法ぶっぽうあつくうやまったゆうばばふさがそうではない在家ありいえ信者しんじゃ)としてあらわれる。上巻じょうかんの28にある「孔雀くじゃくおう呪法じゅほうおさむもた不思議ふしぎ威力いりょくげん仙人せんにんとなりててんえん」のはなしである。

やくゆうばばふさが大和やまとこくかずら木上きのうえぐん茅原かやばらむらひとで、賀茂かもやくこうみんだしである。わかくしてくもって仙人せんにんあそび、孔雀くじゃくおうのろいけい呪法じゅほうおさめ、鬼神きじん自在じざいあやつった。鬼神きじんめいじて大和やまとこく金峯山こんごうざん葛木かつらぎさんあいだはしをかけようとしたところ、葛木かつらぎやまかみである一言ひとことぬしひとうつって文武ぶんぶ天皇てんのうやくゆうばばふさが謀反むほん讒言ざんげんした。ゆうばばふさが天皇てんのう使つかいにはらえられなかったが、はは人質ひとじちにとられるとおとなしくらえられた。伊豆いず大島おおしまながされたが、ひるだけ伊豆いずにおり、よるには富士山ふじさんって修行しゅぎょうした。大宝たいほう元年がんねん701ねん正月しょうがつゆるされてかえり、仙人せんにんになっててんった。道昭みちあき法師ほうししんくにひゃくとらいをけて法華経ほけきょう講義こうぎをしたときに、とらしゅうなか一人ひとりひとがいて日本語にほんご質問しつもんしてきた。法師ほうしは「だれですか」とうと「やくゆうばばふさが」であるとこたえた。法師ほうし高座こうざからりてさがしたがすでになかった。一言ひとことぬしは、やくゆうばばふさが呪法じゅほうしばられていま(『日本にっぽん霊異れいい執筆しっぴつ時点じてん)になってもけないでいる。

ぞく日本にっぽん』とのおおきなちがいはやく小角おがく告訴こくそしたのが一言ひとことぬしかみとなっていることで、この一言ひとこと主神しゅしん後々あとあとのいろいろな説話せつわ物語ものがたりなどに登場とうじょうしてくる。また、道昭みちあきしんくにやく小角おがくはなしはじめててくる。この『日本にっぽん霊異れいい』にある説話せつわは『ぞく日本にっぽん』の記録きろくとともに、その役行者えんのぎょうじゃ伝記でんき説話せつわ根幹こんかんになっている[16]

在地ざいち伝説でんせつ

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奥田おくだ伝説でんせつ

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大和高田やまとたかだ奥田おくだ伝説でんせつ奥田おくだ蓮池はすいけひとかえる」によると、役行者えんのぎょうじゃははかたなりょうおんなとらめは、奥田おくだ蓮池はすいけやまいやしなっていたが、あるなつ捨篠神社じんじゃまいると、かえるごえこえ、光輝ひかりかがやいけはちすくきび、2つの白蓮びゃくれんき、そこには金色きんいろかえるうたっていた。そこでかたなりょうおんな何気なにげなくかや一本いっぽんきとってかえるかってげたところ、かえる片目かためたってしまい、射貫いぬかれたかえるはそのまま水中すいちゅうふかもぐってしまった。その瞬間しゅんかんいけめんをいろどった五色ごしきつゆいちくきはな白蓮びゃくれんえ、かえるみにく褐色かっしょくしょくになってかんでた。かたなりょうおんな自責じせきねんからやまいおもくなり、42さいくなる。ははくした役行者えんのぎょうじゃ発心ほっしんして修験しゅげんどうひらき、吉野山よしのやまはいると、吉野山よしのやま蔵王ざおう権現ごんげんあがめ、かえる追善ついぜん供養くようおこない、はは菩提ぼだいとむらった。毎年まいとし、7がつ7にちには、山伏やまぶし吉野よしのて、ここの行者ぎょうじゃどうかたなりょう女塚おなづかこうはなけんじ、蓮池はすいけはちす180ほんって、蔵王ざおうどうから大峯山おおみねさんまでの街道かいどうまつられる祠堂しどうはちすけんじて、かえる供養くようをした[17]。 この伝説でんせつでは役行者えんのぎょうじゃははぼっした年齢ねんれい、および修験しゅげんどうひらいたきっかけが、ははくしたこととしてかたられている。

石鎚山いしづちさんだい天狗てんぐ伝説でんせつ

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やく小角おがくは701ねん大阪おおさか箕面みのお天上てんじょうだけ昇天しょうてんしたのちわかころ開山かいさんした石鎚山いしづちさんにやってきて「石鎚山いしづちさんほうおこりぼうだい天狗てんぐ」となって当地とうち[18]守護しゅごし、前鬼ぜんき大峰山おおみねさん前鬼ぜんきぼうという天狗てんぐになり吉野よしの方面ほうめん守護しゅごをしたという。なお、神変しんぺんだい菩薩ぼさつ諡号しごうおくられるまで、ほうおこり菩薩ぼさつばれていた[19]

信仰しんこう

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役行者えんのぎょうじゃぞう金峯山こんごうざんてら

役行者えんのぎょうじゃ信仰しんこうひとつとして、役行者えんのぎょうじゃゆかりの大阪おおさか奈良ならけん滋賀しがけん京都きょうと和歌山わかやまけん三重みえけん所在しょざいする36寺社じしゃ巡礼じゅんれいする役行者えんのぎょうじゃれいあと札所ふだしょがある。また、神変しんぺんだい菩薩ぼさつ役行者えんのぎょうじゃ尊称そんしょうとして使つかわれ、寺院じいんまつられている役行者えんのぎょうじゃぞう名称めいしょうとして使つかわれていたり、南無なむ神変しんぺんだい菩薩ぼさつしるした奉納ほうのうのぼりなどがられることがある。

肖像しょうぞう

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修験しゅげんどうけい寺院じいん役行者えんのぎょうじゃ姿すがた肖像しょうぞう)をえがいた御札おさつ頒布はんぷしていることがあるが、その姿すがた老人ろうじんで、いわすわり、ずねすね露出ろしゅつさせて、あたま頭巾ずきんこうむり、一本いっぽん高下駄たかげたいて、右手みぎて巻物まきもの左手ひだりて錫杖しゃくじょうしゃくじょうち、前鬼ぜんきこうおに一緒いっしょえがかれている。道具どうぐ密教みっきょうほうであることもあり、頒布はんぷしている寺院じいんにより差異さいがある。

真言しんごん

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日本にっぽんまれの役行者えんのぎょうじゃたいし、そもそもがサンスクリットマントラ訳語やくごである真言しんごんがつけられるのはかんがえにくく、聖護院しょうごいん本山もとやま修験しゅげん)などではひかりかく天皇てんのうよりあたえられた諡号しごう使つか下記かきのようにとなえる。

  • 南無なむ神変しんぺんだい菩薩ぼさつなむ じんべん だいぼさつ

宗派しゅうはによっては下記かき真言しんごんさだめているところもある。

  • おんぎゃくぎゃくえんのうばそくあらんきゃそわか[20]

石鎚山いしづちさんほうおこりぼう真言しんごん下記かきとなる。

  • オン ビラビラ ケンビラ ケンノウ ソワカ

修験しゅげんどう系譜けいふ

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修験しゅげん役行者えんのぎょうじゃ〜1.がくさとし)−2.義元よしもとけん)−3.しん−4.寿ことぶきもと彦山ひこさん開山かいさん)−5.よしもとだい山伏やまぶし)−6.じょおと−7.くろめずらし羽黒山はぐろさん)−8.日代ひしろ−9.にちえん天台てんだい 熊野くまのしゃ)−10.長円ちょうえん天台てんだい 法華ほっけ行者ぎょうじゃじゅうだい山伏やまぶし》→11.円珍えんちんさとししょう大師だいし 天台寺てんだいじ門派もんぱ

文芸ぶんげい作品さくひん

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作品さくひんにより、「やく小角おがく」「役行者えんのぎょうじゃ」「やく行者ぎょうじゃ」といった表記ひょうきちがいがある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 律令制りつりょうせいした租税そぜい一種いっしゅとして、無償むしょう労働ろうどうにかりされたもののこと。
  2. ^ 生地きじは『役行者えんのぎょうじゃほん修験しゅげんどう最初さいしょ開祖かいそでんでは「茅原かやはらさとはこむら」のせつ記述きじゅつされているが、その内容ないよう奥書おくがきから「ぶんかめ元年がんねん(1501ねん伊豆いず国分寺こくぶんじ沙門しゃもん慈雲じうんか、天正てんしょう8ねん(1580ねんてんさき達弘たつひろじゅんぼういった伊豆いず修験しゅげんしゃ作者さくしゃ」ともかんがえられている[6]
  3. ^ 兵庫ひょうごけん西宮にしのみや甲山こうざん六甲山ろっこうざんけい神山かみやま弁財天べざいてん感得かんとくしたことと関連かんれんして、役行者えんのぎょうじゃ奈良ならてんかわ洞川どろがわどろかわきん縁者えんじゃよんおにめいじて、唐櫃からびつ移住いじゅうさせ、吉祥院きっしょういん多聞たもんてらおくいんとされるしんけいがん六甲ろっこういのち神社じんじゃくもいわ一帯いったい守護しゅごさせた。以後いごよんおに六甲ろっこう修験しゅげんそう元締もとじめとして、六甲山ろっこうざん西部せいぶ管理かんりしていた。
  4. ^ 東京とうきょう大島おおしままち泉津せんづ地区ちくに、旧跡きゅうせき指定してい役行者えんのぎょうじゃこごめ現存げんそん前面ぜんめん海岸かいがん大島おおしままち地図ちず行者ぎょうじゃはま記載きさいされている。
  5. ^ 文武ぶんぶ天皇てんのう3ねん5がつ24にちは、西暦せいれき699ねん6月26にち7がつ1にちせつもあり[10])。
  6. ^ 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん』「がいする」に3つ意味いみとして、「そねむ。ねたむ。いむ。」 出典しゅってんは『史記しきこごめはらつてそうちょう而心がい其能
  7. ^ のべれき9ねん790ねん)11がつ10日とおか韓国かんこくげんらが「韓国かんこくは、かつて物部ものべしお先祖せんぞだい朝鮮半島ちょうせんはんとうへの外交がいこうかんつとめていることを記念きねんしてあらためした氏族しぞくで、純粋じゅんすい日本人にっぽんじんであるのに、名前なまえのせいで最近さいきんえてきた渡来とらいじん間違まちがえられてこまる」とうったえ、居住きょじゅうをとって高原たかはらあらためしている[13]

出典しゅってん

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  1. ^ かや原山はらやま 吉祥きっしょうくさてら役行者えんのぎょうじゃ誕生たんじょうしょ 吉祥きっしょうくさてら 公式こうしきホームページ)御所ごしょ企画きかく 商工しょうこう観光かんこう[1]
  2. ^ a b 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus,百科ひゃっか事典じてんマイペディア,日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ),世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんない言及げんきゅう, ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん,ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん,精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん,デジタルばん. “やく小角おがくとは”. コトバンク. 2022ねん7がつ28にち閲覧えつらん
  3. ^ やく小角おがくとは コトバンク/大辞林だいじりん/日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん
  4. ^ a b 太田おおたあきら姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん角川書店かどかわしょてん、1963ねん
  5. ^ ぞく日本にっぽんうけたまわ10ねん正月しょうがつ27にちじょう
  6. ^ a b 宮瀧みやたき交二「役行者えんのぎょうじゃ」 / 小野おの一之かずゆき鈴木すずきあきら谷口たにぐちさかえ樋口ひぐちしゅうおとこへん人物じんぶつでんしょう辞典じてん 古代こだい中世ちゅうせいへん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2004ねん、45ぺーじ
  7. ^ ぞく日本にっぽん文武ぶんぶ天皇てんのう3ねん5がつ24にちじょう
  8. ^ 瀧安寺たきあんじホームページ
  9. ^ 神変しんぺんだい菩薩ぼさつ 諡号しごう勅書ちょくしょ聖護院しょうごいん所蔵しょぞう)(龍谷大りゅうこくだいがく龍谷りゅうざくミュージアム, 京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん & 読売新聞社よみうりしんぶんしゃ 2015, p. 147) [左記さき文献ぶんけん写真しゃしん掲載けいさい]
  10. ^ 役行者えんのぎょうじゃ伝記でんき集成しゅうせい』 12ぺーじ
  11. ^ a b やく小角おがく」『国史こくしだい辞典じてん
  12. ^ ぞく日本にっぽんまきだいじゅう一天平三年春正月庚戌朔丙子条
  13. ^ ぞく日本にっぽんまきだい四十延暦九年十一月壬申条
  14. ^ 役行者えんのぎょうじゃ伝記でんき集成しゅうせい』 14ぺーじ
  15. ^ 役行者えんのぎょうじゃ伝記でんき集成しゅうせい』 15ぺーじ
  16. ^ 役行者えんのぎょうじゃ伝記でんき集成しゅうせい』 18ぺーじ
  17. ^ 仲川なかがわあきら子供こどものための大和やまと伝説でんせつ奈良新聞社ならしんぶんしゃ、12さつ1978ねん初版しょはん70ねん)、124 - 125ぺーじ
  18. ^ 石鎚山いしづちさんへの表参道おもてさんどうであるロープーウエイふもとえきかう参道さんどうには石鎚山いしづちさん極楽寺ごくらくじさかいがいほうおこりぼうどうや、黒川くろかわみちにあり女人にょにんどううつした役行者えんのぎょうじゃどうなどがなら
  19. ^ 大峰山おおみねさん前鬼ぜんきぼう日本にっぽんはちだい天狗てんぐいちいぬとして、ほうおこりぼうはそれらを統括とうかつする別格べっかくとなる
  20. ^ 田中たなか利典としのりからだ使つかってしんをおさめる修験しゅげんどう入門にゅうもん集英社しゅうえいしゃ新書しんしょ集英社しゅうえいしゃ新書しんしょ〉、2014ねん、20ぺーじ
  21. ^ a b c d e 役行者えんのぎょうじゃ伝記でんき集成しゅうせい』 199 - 200ぺーじ文献ぶんけんにおいては『幻魔げんま大戦たいせん』は『幻魔げんま大王だいおう』と誤記ごき

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ぜにたに武平たけひら役行者えんのぎょうじゃ伝記でんき集成しゅうせい東方とうほう出版しゅっぱん、1994ねんISBN 4-88591-414-0
  • 龍谷大りゅうこくだいがく龍谷りゅうざくミュージアム; 京都きょうと文化ぶんか博物館はくぶつかん; 読売新聞社よみうりしんぶんしゃ聖護院しょうごいん門跡もんぜき名宝めいほう ぞうほまれ大僧正だいそうじょう900ねん遠忌えんき記念きねん龍谷大りゅうこくだいがく龍谷りゅうざくミュージアム・読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、2015ねん 

関連かんれん項目こうもく

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投入とうにゅうどう

外部がいぶリンク

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