最澄さいちょう

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最澄さいちょう
神護かんごけいくも元年がんねん8がつ18にち[1] - ひろしひとし13ねん6月4にち旧暦きゅうれき
767ねん9月15にち - 822ねん6月26にち新暦しんれき〉)
法名ほうみょう 最澄さいちょう
法号ほうごう ぶく金剛こんごう(ふくじゅこんごう)
諡号しごう つてきょうつてきょう大師だいし
生地きじ 近江おうみこく滋賀しがぐん古市ふるいちきょうげん滋賀しがけん大津おおつ)もしくは坂本さかもと
ぼつ 中道ちゅうどういん比叡山ひえいざん
宗派しゅうは 天台宗てんだいしゅう
寺院じいん いちじょう止観しかんいんげん根本中堂こんぽんちゅうどう
みちくだりみつる翛然じゅんあかつき
弟子でし しん円仁えんにんほか
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最澄さいちょう(さいちょう、766ねん天平てんぺい神護かんご2ねん[1]もしくは767ねん神護かんごけいくも元年がんねん〉 - 822ねんひろしひとし13ねん〉)は、平安へいあん時代じだい初期しょき日本にっぽん仏教ぶっきょうそう[2][3]日本にっぽん天台宗てんだいしゅう開祖かいそであり、伝教大師でんぎょうだいし(でんぎょうだいし)としてひろられる[注釈ちゅうしゃく 1]近江おうみこく現在げんざい滋賀しがけん滋賀しがぐん古市ふるいちきょうげん大津おおつ)もしくは生源寺せいげんじげん大津おおつ坂本さかもと)のうまれ、俗名ぞくみょう三津みつづくび広野こうや(みつのおびとひろの)。とうわたって仏教ぶっきょうまなび、帰国きこく比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじてて日本にっぽんにおける天台宗てんだいしゅうひらいた[4]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

まれ[編集へんしゅう]

最澄さいちょうぞう能福寺のうふくじ

最澄さいちょうまれについての記録きろくは、最澄さいちょうぼつしるされた伝記でんきるいによるものと、存命ぞんめい当時とうじ公文こうぶん書類しょるいによるものの2つがあり、若干じゃっかん齟齬そごがある[5]

最澄さいちょうちちは『叡山えいざんだい師伝しでん』は三津みつづくびひゃくえだ(みつのおびとももえ)としる[6]たからひさし11ねん(780ねん)の『国府こくふ牒』によればちち戸主こしゅ)は三津首浄足(きよあし)で、身分みぶんせいはちしたふく知事ちじのような地位ちいであったとされる[7][注釈ちゅうしゃく 2]ほんぬきは、『国府こくふ牒』は近江おうみこく滋賀しがぐん古市ふるいちきょうつたえるが[7][注釈ちゅうしゃく 3]天台宗てんだいしゅう伝承でんしょうによると大津おおつ坂本さかもと生源寺せいげんじまれであったとされる[5]三津みつづくびについて天台宗てんだいしゅう最澄さいちょうたたえる『伝教大師でんぎょうだいし和讃わさん』や『叡山えいざんだい師伝しでん』ではこうかん皇帝こうてい子孫しそんとうまんおう末裔まつえいとしている[注釈ちゅうしゃく 4][7]最澄さいちょうははは10世紀せいき成立せいりつの『伝教大師でんぎょうだいし由緒ゆいしょ』は藤原ふじわら鷹取たかとりむすめ藤子とうことし、『あおれんいん門跡もんぜき系譜けいふ』は応神天皇おうじんてんのう9せいまごとするが、いずれも後世こうせいのいいつたえで史実しじつせい不明ふめいである。『叡山えいざんだい師伝しでん』は両親りょうしんめぐまれなかったが比叡山ひえいざん神宮じんぐういのりしょうしたところ最澄さいちょう身籠みごもったとしる[6]

最澄さいちょうまれねんにも2せつある。『叡山えいざんだい師伝しでん』などがつたえるぼつ年齢ねんれいによると神護かんごけいくも元年がんねん(767ねんまれであるが、『国府こくふ牒』『牒』『戒牒』といった最澄さいちょうかんそうになるさい公文書こうぶんしょによると天平てんぴょう神護かんご2ねん(766ねんまれである[6]。この2せつについて専門せんもん意見いけん統一とういつていないが、戸籍こせきじょうは766ねんまれであったが、最澄さいちょう自身じしんが767ねんかんがえていたというせつもある[5]

国府こくふ牒』などによれば、最澄さいちょう幼名ようみょう広野ひろの(ひろの)。伝記でんきにはおさなころ小学しょうがくという初等しょとう教育きょういく機関きかんで「陰陽いんよう医方いほうこうたくみなどをおさめる」など非凡ひぼんざいせ、7さいころ仏道ぶつどうこころざすとつたえる[8]

出家しゅっけ[編集へんしゅう]

国府こくふ牒』は近江おうみ国分寺こくぶんじそう欠員けついんができたので広野こうや得度とくどさせるよう指示しじした公文書こうぶんしょである。これによればこのころ広野こうやは『法華経ほけきょう』『さいかちおうけい』『薬師やくしけい』『きむつよし般若はんにゃけい』などをむとしるされる[9]当時とうじれいにもれず、広野こうやゆうばばふさがとして3ねんほど国分寺こくぶんじ雑用ざつよう奉仕ほうしをしつつ経典きょうてんまなんでいたとかんがえられる[9]宝亀ほうき11ねん(780ねん)11月12にちに、広野こうや近江おうみ国分寺こくぶんじにて得度とくど沙弥さやとなり最澄さいちょう名付なづけられる。それ以降いこう近江おうみ国師こくしくだりひょう師事しじするが[10]、のちに最澄さいちょうこうひょうから禅宗ぜんしゅうおしえられたとしたうえで、おしえについて「しんいちじょうすべきこと」と『内証ないしょう仏法ぶっぽう相承そうしょう血脈けちみゃく』にしるしており、おしえがその最澄さいちょうもとめる仏教ぶっきょうのありかた方向ほうこうづけたとおもわれる[11][12][13]。つづいてのべれき4ねん(785ねん)4がつ6にち東大寺とうだいじ戒壇かいだんいん具足ぐそく戒をけて比丘びくとなる[14][15]

比叡ひえい入山にゅうざん[編集へんしゅう]

ここまでかんそうとして順調じゅんちょうすすめた最澄さいちょうだが、具足ぐそく戒をけてほどないのべれき4ねん(785ねん)7がつ中旬ちゅうじゅん比叡山ひえいざんこも[16]。『僧尼そうにれい』には「ぜんぎょう修道しゅうどうあって、しん静寂しじまねがい、ぞくまじわらず、山居さんきょもとめてふくえさせんとほっすれば、三綱さんこう連署れんしょせよ」とあり、最澄さいちょうもこのような公的こうてき手続てつづきをんで入山にゅうざんしたとかんがえられる[17]。『叡山えいざんだい師伝しでん』によれば、まず比叡山ひえいざんふもと神宮じんぐうぜんいん懺悔ざんげくだりおさめ、つづいて『願文がんもん』をあらわしたとされる[15]

前略ぜんりゃくふくしてねがいわくば、解脱げだつあじ一人ひとりまず、安楽あんらくはてひとしょうせず。法界ほうかい衆生しゅじょうおなじくみょうさとしのぼり、法界ほうかい衆生しゅじょうおなじく、妙味みょうみふくせん。(後略こうりゃく — 最澄さいちょう、『願文がんもん[18]

この願文がんもんから最澄さいちょうみずからも大乗だいじょう経典きょうてん菩薩ぼさつのようになることをこころざしていることがかる[18]。『叡山えいざんだい師伝しでん』はこの願文がんもんんだうち供奉ぐぶ寿ことぶききょう最澄さいちょうかたまじわりをむすんだとする[19]

叡山えいざんだい師伝しでん』によると、のべれき7ねん(788ねん)に比叡山ひえいざんしょうどうこく薬師くすしぞう安置あんちした[20]場所ばしょ現在げんざい根本中堂こんぽんちゅうどう位置いちとされ、のちいちじょう止観しかんいんしょうする[13]。そこにこもった最澄さいちょうは『法華経ほけきょう』の研究けんきゅうかさね「さとし教学きょうがくにふれて、天台てんだい法門ほうもんたい」とおもいたる。そしてあるとき天台てんだい法門ほうもん所在しょざいひと邂逅かいこうし、鑑真がんじん将来しょうらいした経典きょうてんうつしとることができたとされる[21][注釈ちゅうしゃく 5]

のべれき10ねん(791ねん)12月28にち最澄さいちょう修行しゅぎょういれという僧位そういさずかる。のちに伝燈でんとうさずかる最澄さいちょうだが、修行しゅぎょうさずかったこと当時とうじ最澄さいちょう評価ひょうかいちめんかんがえられる[22]。『天台てんだいかすみしるべ』によればのべれき16ねん(797ねん)12がつ10日とおかうち供奉ぐぶ欠員けついんおぎなうためにこれににんぜられた。うち供奉ぐぶ宮中きゅうちゅううち道場どうじょうで読師などをおこなそうで10めい定員ていいん欠員けついんある場合ばあい清行きよゆきものおぎない、任期にんき生涯しょうがいであった。前述ぜんじゅつのように寿ことぶききょう交流こうりゅうがあったことから最澄さいちょう推薦すいせんされたとかんがえられる[22]

のべれき16ねん(797ねん)に最澄さいちょう比叡山ひえいざん一切経いっさいきょうそろえる写経しゃきょう事業じぎょう発願ほつがんする。弟子でしたちに写経しゃきょうをさせたほか、助力じょりょくうため南都なんとしょてら願文がんもんおくっている[23]。このびかけにこたえたのが大安寺だいあんじの聞寂や東国とうごくみちただしである。延暦寺えんりゃくじ浄土じょうどいんに2かんのみ現存げんそんする『華厳けごん要義ようぎ問答もんどう』はのべれき18ねんくだりぶくというそう写経しゃきょうしたとしるされるが、このとき経典きょうてんとされている[22]。なおみちちゅう門弟もんていにはまどかきよし円仁えんにん[23][24]のべれき17ねん(798ねん)10がつ法華ほっけじゅうこう法会ほうえおこなう。これは最澄さいちょう法華ほっけさんけい講義こうぎおこなったとされ毎年まいとしおこなわれた[25]。さらにのべれき20ねん(801ねん)11月24にちには南都なんとかくむね高僧こうそうびかけ法華ほっけじゅうこうもよおしている[23]

最澄さいちょう比叡山ひえいざんこもった理由りゆうさだかではないが、入山にゅうざんかんそうとしてのつとめをたし南都なんとかくしゅうとも交流こうりゅうっていることはあきらかであり、「既存きそん仏教ぶっきょう嫌気いやけがさし」などのうしきな理由りゆうではなかったとかんがえられる[26]

高尾たかおこうかい[編集へんしゅう]

のべれき21ねん(802ねん)に和気わけ弘世ひろよてら高尾たかお山寺やまでらもよおした天台てんだい法門ほうもんこうかいで、最澄さいちょうまねかれ講師こうしつとめる[注釈ちゅうしゃく 6]。このこうかいについて『叡山えいざんだい師伝しでん』はいちじょう仏教ぶっきょう興隆こうりゅうためしるしている。また『つてじゅついちしん戒文』などには桓武かんむ天皇てんのう意思いしによってもよおされたとしるされるが、史実しじつせいうたがわしい[25]。しかしこの法会ほうえこといた桓武かんむ天皇てんのう天台てんだいいちじょう興隆こうりゅう発願ほつがんし、同年どうねん9がつ7にち弘世ひろよみことのりといし、弘世ひろよ最澄さいちょう相談そうだんしたとされる[25][27]

この時代じだい仏教ぶっきょう宗派しゅうは南都なんとろくむねかぎられていた。とく法相ほうしょうむねさんろんむねおおくの学生がくせいあつまり、のべれき21ねん正月しょうがつ(802ねん)の太政官だじょうかんに「さんろん法相ほうしょう彼此ひしかくそう」とあるようにりょうむね衝突しょうとつしていた。こうしたこうそう収束しゅうそくさせたい朝廷ちょうていあたらしい仏教ぶっきょうかい秩序ちつじょづくりを目指めざ仏教ぶっきょう政策せいさくこととなり、結果けっかとして天台宗てんだいしゅうひらきむね後押あとおしされたとかんがえられる[28]

入唐にっとう求法ぐほう[編集へんしゅう]

伝教大師でんぎょうだいし入唐にっとう牒』のうちあかりしゅう牒(延暦寺えんりゃくじぞう国宝こくほう
伝教大師でんぎょうだいし請来しょうらい目録もくろくこししゅうろく)』(延暦寺えんりゃくじぞう最澄さいちょう直筆じきひつ国宝こくほう
最澄さいちょう大師だいしとくほうしるした碑文ひぶん天台山てんだいざん国清寺こくせいじ

叡山えいざんだい師伝しでん』によれば、桓武かんむ天皇てんのうみことのりといけた弘世ひろよ最澄さいちょう相談そうだんし、とう天台山てんだいざん国清寺こくせいじへのかえ学生がくせい留学生りゅうがくせい[注釈ちゅうしゃく 7]かく1めい派遣はけん必要ひつようせいうったえる上表じょうひょうぶんしる[29]

前略ぜんりゃく天台てんだいひとり、ろんむねしりぞけてとくけいむねつ。ろんけいすえけいろんほんなり。(中略ちゅうりゃく
してねがわくはせいすめらぎ御代みよえんむね妙義みょうぎからあさまなばしめ、法華ほっけたからしゃ日本にっぽんうんらしめん。(後略こうりゃく — 和気わけ弘世ひろよ、『上表じょうひょうぶん[29]

ろんしゅうとは『ちゅうろん』にもとづくさんろんむねと『なり唯識ゆいしきろん』にもとづく法相ほうしょうむねし、天台宗てんだいしゅう釈尊しゃくそんいたけいもとづくけいむねであると主張しゅちょうしている。この上表じょうひょうによりえんもとみょうきよしとうへの派遣はけんまったものの、9月12にちになると天皇てんのう最澄さいちょう本人ほんにん入唐にっとうするようみことのりした。翌日よくじつ最澄さいちょうは「天朝てんちょういのちこたえん」と返答へんとうかえ学生がくせいとなり、さらに10がつ20日はつかしん訳語やくごそうとして同行どうこうすることをねがゆるされている[27][29][注釈ちゅうしゃく 8]。このさい入唐にっとう費用ひようとして金銀きんぎんすうひゃくりょうあたえられたが、から大使たいしが200りょう副使ふくしが150りょうであったことくら非常ひじょうおおきながくであったことがかる[29]

のべれき23ねん(804ねん)7がつ6にち最澄さいちょう遣唐使けんとうし肥前ひぜんこく松浦まつうらぐん田浦たのうらから出港しゅっこう最澄さいちょう乗船じょうせんしただい2せんは9月1にちあきらしゅう鄮県到着とうちゃくした。やまいにかかっていた最澄さいちょうはしばらく休養きゅうようし、9月15にち天台山てんだいざん出発しゅっぱつ[30]、9月26にちうてなしゅう到着とうちゃくする。刺史ししりくあつし面会めんかいした最澄さいちょうは、講演こうえんかいおとずれていた天台山てんだいざん修禅寺しゅぜんじみち紹介しょうかいされる。『叡山えいざんだい師伝しでん』によれば、みち邃は最澄さいちょうもとめにおうじて写経しゃきょう手筈てはずととのえた。貞元さだもと20ねんのべれき23ねん・804ねん)10がつには最澄さいちょう天台山てんだいざんのぼる。『伝法でんぼう』によれば10がつ7にちふつ隴寺でくだりみつる出会であい、経典きょうてん82かんしるししんじ弟子でしさずかる書状しょじょう)をさずかる。同年どうねん12がつ7にち沙弥さやであったよししん天台山てんだいざん国清寺こくせいじにて翰を戒師として具足ぐそく戒をける。よく貞元さだもと21ねんのべれき24ねん・805ねん)3がつ2にち最澄さいちょうよししんみち邃から菩薩戒ぼさつかいけるが、これが最澄さいちょう天台てんだい法華ほっけきょうむねによる大乗だいじょう戒との出会であいとなった。天台山てんだいざんにおける求法ぐほう成果せいかは『伝教大師でんぎょうだいし将来しょうらいうてなしゅうろく』によれば書物しょもつ120345かんおよんだ[31][32]。またこのあきらしゅう滞在たいざいあいだ禅林寺ぜんりんじ牛頭ごずぜん国清寺こくせいじ密教みっきょうまなんだほか、国清寺こくせいじ一堂いちどう建立こんりゅうしている[32]

同年どうねん3がつ上旬じょうじゅん最澄さいちょういちぎょうあきらしゅうもどる。同年どうねん1がつくずれじたとくむねいちけん日本にっぽんつたえるため遣唐使けんとうし帰国きこくまったためとおもわれる。遣唐使けんとうしせん順風じゅんぷうあいだ最澄さいちょうこししゅう龍興寺りゅうこうじ目指めざ[33]。『叡山えいざんだい師伝しでん』によればこのこししゅうきは「真言しんごんもとめるため」とするが、『あらわ戒論』には「あきらしゅう刺史ししすすめによって」としるされている[34]。4月8にちごろあかりしゅう出発しゅっぱつして4がつ18にちには峯山みねやま道場どうじょうじゅんあかつきから灌頂けるというあわただしい日程にっていであった[33]。『内証ないしょう仏法ぶっぽう相承そうしょう血脈けちみゃく』や『あらわ戒論』によれば、この灌頂は金剛こんごうかい・胎蔵かい両部りょうぶであったとしるされている[34]。また『伝教大師でんぎょうだいし将来しょうらいこししゅうろく』によれば、これにより書物しょもつ102115かん密教みっきょう供養くよう道具どうぐ5てん入手にゅうしゅしたとされる。こののちの5がつ5にちまでにあかりしゅうふたたもどった最澄さいちょうは、ひらき元寺もとてら法華ほっけいん霊光れいこうなどから密教みっきょう軌をるなどし、5月18にちあかりしゅうから帰国きこくった[33]

天台てんだい法華宗ほっけしゅう[編集へんしゅう]

のべれき24ねん(805ねん)6がつ5にち対馬つしまいた最澄さいちょうただちに上京じょうきょうする。『叡山えいざんだい師伝しでん』によると、最澄さいちょう将来しょうらいした天台てんだい法門ほうもん勅命ちょくめいにより7つう書写しょしゃめいじられ、さんろんむね法相ほうしょうむねまなばせた。この経典きょうてんひろじん6ねん(815ねん)に嵯峨天皇さがてんのうによるだいけて完成かんせいしたとされる[35][36]一方いっぽう最澄さいちょうがもたらした密教みっきょう歓迎かんげいされる。かえ密教みっきょうの灌頂や祈祷きとうなどがおこなわれたことが伝記でんきしるされているが、これらは桓武かんむ天皇てんのうやまいせていたこと関係かんけいがあるとかんがえられる[35]

のべれき25ねん(806ねん正月しょうがつ3にち最澄さいちょうとしぶんしゃ天台てんだい法華宗ほっけしゅうくわえる改正かいせい上奏じょうそうする。

一目いちもく(あみ)はとりることあたわず。一両いちりょうむねなんぞあまねむにらん — 最澄さいちょう、『上奏じょうそうぶん[37]

これ以前いぜんとしぶんしゃさんろんむね法相ほうしょうむねのみにみとめられていたが、最澄さいちょう提案ていあん天台てんだい法華宗ほっけしゅうふくむ5むね[注釈ちゅうしゃく 9]くわえるものであった。上奏じょうそうぶんからは天台てんだい法華宗ほっけしゅう公認こうにんさせる意味いみ以上いじょうに、あたらしい仏教ぶっきょうかい秩序ちつじょつくろうとする意図いとがうかがえる[37]。この上奏じょうそうただちにそうつな意見いけんもとめられそうつな同意どういし、1がつ26にち太政官だじょうかんにより制定せいていされた[注釈ちゅうしゃく 10]かんにはとしぶんしゃ学業がくぎょう任用にんようなど具体ぐたいてき規定きていふくんでいることが特徴とくちょうで、天台てんだい法華宗ほっけしゅうには『だい日経にっけい』をませるさえぎぎょう密教みっきょう)と『訶止かん』をませる止観しかんぎょう天台てんだい)、かくいちめいてられた。しかしこの時点じてんでの公認こうにんはあくまで奈良なら仏教ぶっきょうそうつなしたみとめられたものであった[38]。『天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶん得度とくど学生がくせいめいちょう』によると、この制度せいどによって天台てんだい法華宗ほっけしゅうでは、ひろしひとし9ねん(818ねん)までに24めい得度とくどけた。しかし比叡山ひえいざんったものが14めいおり、そのうち法相ほうしょうむねうばったもの6めい記録きろくされている。このことについて最澄さいちょうは「天台てんだい学生がくせいしょうにとらわれてきょうはせする。まさにえんどうたやせんとす」と『あらわ戒論』にしるし、危機ききかんあらわにしている[39]

空海くうかいとの関係かんけい[編集へんしゅう]

『灌頂れきめい』には最澄さいちょう泰範やすのりえる(神護かんごてらぞう空海くうかい直筆じきひつ国宝こくほう

前述ぜんじゅつのようにとうからもどった最澄さいちょうつたえた密教みっきょう歓迎かんげいされる。『叡山えいざんだい師伝しでん』は桓武かんむ天皇てんのうよろこびを「真言しんごん秘教ひきょうとういまだ此のつてるをず。しかるに最澄さいちょうはこのみち、まことに国師こくしたり」とつたえる[40]最澄さいちょうとうからもどったよく大同だいどう元年がんねん(806ねん)に長安ながやす密教みっきょうまなんだ空海くうかい帰朝きちょうする[41]。まもなく最澄さいちょう空海くうかい密教みっきょうの習学をもうているが[42]、その理由りゆう天台てんだい法華宗ほっけしゅうとしぶんしゃさえぎぎょう密教みっきょう)1めいてられていたこと関連かんれんがあるとかんがえられる[42][40]

たださえぎむね天台てんだい融通ゆうずうす。(中略ちゅうりゃく法華ほっけ金光かねみつあきら先帝せんてい御願ごがん。またいちじょうむね真言しんごんとことなることなし。してう、さえぎもとめて、年年ねんねんあいはかりてつてとおせしめん。 — 最澄さいちょう大同だいどう3ねん8がつ19にち空海くうかいてた手紙てがみ[42]

伝教大師でんぎょうだいし消息しょうそく』にしるされた書簡しょかんによると、最澄さいちょう弟子でし空海くうかいしたおくり、借用しゃくようした経典きょうてんうつすといったことを、大同だいどう4ねん(809ねん)からひろしひとし7ねん(816ねんごろまでかえした[41]

ひろじん3ねん(812ねん)10がつ27にちには乙訓おとくにてらにいた空海くうかい最澄さいちょうたずねた。このさい空海くうかい最澄さいちょう伝法でんぼうすることをめたという[41]神護かんごてらのこる『灌頂』によれば、最澄さいちょうは11月15にち金剛こんごうかい灌頂を、12月14にちに胎蔵かい灌頂を空海くうかいからけた。しかしこのころ最澄さいちょう手紙てがみをみると灌頂をけるについて混乱こんらんられる。このてんについて最澄さいちょうは灌頂が金剛こんごうかいと胎蔵かい両部りょうぶ独立どくりつしていちついになっているということをらなかったというせつがある[42]。のちに最澄さいちょうこししゅうまなんだ密教みっきょうについて両部りょうぶの灌頂をけたと『あらわ戒論』などにしるしているが、おそらく最澄さいちょうまなんだ密教みっきょう両部りょうぶわせた亜流ありゅうであり、空海くうかい長安ながやすまなつたえた法門ほうもんくらべておとっていること最澄さいちょういていたとかんがえられる[43][44]

灌頂をけた最澄さいちょう空海くうかい弟子でしとなったことを意味いみする。のちまどかきよし空海くうかいてた書簡しょかんによれば、空海くうかい最澄さいちょう大法たいほう軌をけるためには3年間ねんかんまるようにつたえていたがたせなかったとある。空海くうかいしたでの修行しゅぎょうは、すでいちむね責任せきにんしゃとなっていた最澄さいちょうにはかなわぬことであり、最澄さいちょうもまた空海くうかいてた書簡しょかん訪問ほうもんできないことへのびをかえしるしている[41]。なお最澄さいちょうが『おもむきしゃくけい』の借用しゃくようもとめたことたいして、空海くうかいが「おもむきろんじてしんからしんつたえるもので、いれだんものには真言しんごんつたえない」とことわったことが二人ふたりかつことになったとするせつがあるが、この根拠こんきょとなった書簡しょかんにある「きよし法師ほうし」は最澄さいちょうではなくまどかきよしとするせつもある。しかしその真偽しんぎべつとしても、空海くうかいした最澄さいちょう修業しゅうぎょうできなかったこと両者りょうしゃ疎遠そえんにした根本こんぽん理由りゆうであったとかんがえられる[41]。もうひとつ両者りょうしゃことなるてん真言しんごん天台てんだい位置いちづけである。最澄さいちょう天台てんだい真言しんごん一致いっちしており、おないちじょうであるとしている。一方いっぽう空海くうかい天台てんだい真言しんごんよりひくおしえとている。この教理きょうり相違そうい両者りょうしゃかつ理由りゆうかんがえられる[45]

さらに両者りょうしゃあいだ泰範やすのり去就きょしゅう問題もんだいがある。元々もともと泰範やすのり天台宗てんだいしゅう以外いがいそうであったが、比叡山ひえいざんはいって密教みっきょうまなんでいたとかんがえられる。優秀ゆうしゅう弟子でしであったようで、ひろじん3ねん(812ねん)5がつ8にちけの最澄さいちょう遺書いしょには泰範やすのりそう別当べっとう比叡山ひえいざん管理かんり責任せきにんしゃ)に指名しめいしている。しかし直後ちょくごの6がつ29にち泰範やすのりひまうて比叡山ひえいざんからりる。その書簡しょかんんだ最澄さいちょう返信へんしんおくるが、そこから最澄さいちょうおどろきと泰範やすのり最澄さいちょう弟子でしから戒をやぶったこと批判ひはんけていたことがかる。その最澄さいちょう泰範やすのり慰留いりゅうしたようで、最澄さいちょう泰範やすのりともに胎蔵かい灌頂をけている。しかし泰範やすのり比叡山ひえいざんにはもどらず、空海くうかいもとせた。ひろじん7ねん最澄さいちょう泰範やすのりてた書簡しょかんには深刻しんこく自己じこ反省はんせい泰範やすのりへの期待きたい表明ひょうめいされている。しかしその書簡しょかんへの返信へんしん空海くうかい代筆だいひつによるもので「真言しんごんおしえが天台てんだいよりもすぐれる」としるされている。泰範やすのり空海くうかいじゅうだい弟子でしかぞえられている[46]

ろくしょ宝塔ほうとう[編集へんしゅう]

延暦寺えんりゃくじ法華ほっけ総持院そうじいんひがしとう

最澄さいちょう天台てんだい法華宗ほっけしゅうひろめるためにろくしょ宝塔ほうとう建立こんりゅうする計画けいかくてる。ろくしょ宝塔ほうとうとは『比叡山ひえいざんそうとういんとう』にしるされる全国ぜんこく6箇所かしょ[注釈ちゅうしゃく 11]法華経ほけきょういちせん安置あんちするための宝塔ほうとうである[47]。『叡山えいざんだい師伝しでん』によると、最澄さいちょうひろじん5ねん(814ねんはる宇佐うさ八幡やはた香春かわら神宮寺じんぐうじ参詣さんけいし、入唐にっとう無事ぶじ感謝かんしゃ妙法みょうほう蓮華れんげけいとう奉納ほうのう[49]つづいてひろじん8ねん(817ねんはる東国とうごくかう。このたびでは最澄さいちょう無名むめいころ写経しゃきょう助力じょりょくしたみちちゅう弟子でしらのてら々を訪問ほうもんする。同年どうねん3がつ6にちには大慈寺だいじじにて円仁えんにんとくえん菩薩戒ぼさつかいさづけ、5月15にちには緑野りょくやてらにてまどかきよしこうさとし両部りょうぶ灌頂をさづけている[50]。またこのさいにも法華ほっけ大乗だいじょうけいせんうつして宝塔ほうとう安置あんちしたとしるされている[47]ろくしょ宝塔ほうとうすべ完成かんせいするのは最澄さいちょう没後ぼつごである[48]

天台てんだい法華宗ほっけしゅう批判ひはん徳一とくいち[編集へんしゅう]

天台てんだい法華宗ほっけしゅうひろがりをみせると法相ほうしょうむね中心ちゅうしん批判ひはんあつまるようになる。研究けんきゅうしゃによると論争ろんそう発端ほったん最澄さいちょうひろじん4ねん(813ねん)にあらわした『憑天だいしゅう』などとされる[51]ひろじん5ねん正月しょうがつときかいにて嵯峨天皇さがてんのう希望きぼう殿上てんじょうにて最澄さいちょう南都なんとそう対論たいろんおこなわれた。ひろじん6ねん8がつには大安寺だいあんじにて最澄さいちょう天台てんだいこうじ、南都なんとそうらとだい論争ろんそうおこなう。このさい主題しゅだいはいわゆるさんいちけんじつ論争ろんそうである[52][50]。『叡山えいざんだい師伝しでん』によると南都なんとそうらは攻撃こうげきてき姿勢しせい議論ぎろんのぞんだとある[53]

つづいてひろじん8ねん(817ねん)2がつ東国とうごくおもむいていた最澄さいちょうは、めぐみにちてら法相ほうしょうむねそう徳一とくいちあらわした『仏性ぶっしょうしょう』への反論はんろんとして『あきらけんきょう』をあらわす。これ以降いこう二人ふたり論争ろんそう最澄さいちょう死去しきょ前年ぜんねんひろじん12ねん(821ねん)にいたるまでつづけられた[54]。なお最澄さいちょう著作ちょさく大半たいはんとくいちとの論争ろんそう関連かんれんするものである[55]二人ふたり論争ろんそうは2つの主題しゅだいけることができ、ひとつは天台てんだい法相ほうしょう教学きょうがくちがいについてである。そのなか修業しゅうぎょうについての論争ろんそうがあるが、最澄さいちょうは「徳一とくいちしめ修行しゅぎょう正法しょうぼう時代じだい釈迦しゃか時代じだい)のもので、末法まっぽうちか時代じだい実践じっせんすることはできない」とユニークな批判ひはんをする。この思想しそう後述こうじゅつする大乗だいじょう戒壇かいだん設立せつりつつながる[56]。いまひとつはさんいち現実げんじつ論争ろんそうであるが、これは「天台てんだいいちじょう」と「法相ほうしょうさんじょう」のどちらがけんかり真実しんじつ)の思想しそうであるかをめぐる論争ろんそうで、これにもちいられたたとえが火宅かたくたとえさんしゃ火宅かたく)である[56]

大乗だいじょう戒壇かいだん設立せつりつ[編集へんしゅう]

延暦寺えんりゃくじ戒壇かいだんいん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
ひかりてい戒牒』(延暦寺えんりゃくじぞう嵯峨天皇さがてんのう宸翰しんかん国宝こくほう

最澄さいちょう弟子でし朝廷ちょうていとの交渉こうしょうやくであったひかりじょうあらわした『つてじゅついちしん戒文』によれば、ひろじん9ねん(818ねん)に最澄さいちょう天台てんだい法華宗ほっけしゅうひろめるために大乗寺だいじょうじて、ひかりじょういちじょうごう名乗なのらせるとげた。ひかりじょうはこのこと藤原ふじわらふゆつうじて天皇てんのう上奏じょうそうするが、南都なんとそう反対はんたいにあってかなわなかった。『叡山えいざんだい師伝しでん』によると、同年どうねん3がつ最澄さいちょうが「今後こんご声聞しょうもん利益りえきけず、なが小乗しょうじょう威儀いぎにそむくべし」とし、具足ぐそく戒を破棄はきしたとしるされる[注釈ちゅうしゃく 12][57]

つづいて最澄さいちょうは『山家やまや学生がくせいしき[注釈ちゅうしゃく 13]』などをあらわし、天台てんだい法華宗ほっけしゅうそう育成いくせい制度せいどについて朝廷ちょうてい裁可さいか要請ようせいする[58][59][60]

国宝こくほうとはなにか。道心どうしんさとりをもとめるしん)をひと名付なづけて国宝こくほうという。ゆえに古来こらい哲人てつじんは「みち1すんたま10まい国宝こくほうではない。一隅いちぐうらすひと国宝こくほうである」と[注釈ちゅうしゃく 14] — 最澄さいちょう、『天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶん学生がくせいしき[58]

このなか最澄さいちょう大乗だいじょう[注釈ちゅうしゃく 15]のみによる受戒じゅかいじゅうねんかご山行さんこうなど革新かくしんてき受戒じゅかい制度せいど育成いくせい制度せいど提唱ていしょうする[58][59][60]ひろじん10ねん3がつ15にちに『天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶんしゃかい小向こむかいまさるしき』が提出ていしゅつされると、嵯峨天皇さがてんのうは「真理しんりかなったものであればはからうように、真理しんりかなわなければはからってはならない」と返答へんとう。このけん玄蕃げんばりょう長官ちょうかんえんざつぶつそうつなまもるいのちげ、まもるいのち南都七大寺なんとしちだいじ意見いけんもとめたうえで、最澄さいちょう主張しゅちょうには道理どうりがないとして反対はんたい上奏じょうそうした[61]。この上奏じょうそうぶん天皇てんのうみことのりにより10がつ27にち最澄さいちょうわたされた。これにたい最澄さいちょうよくひろしじん11ねん(821ねん)2がつ29にちに『あらわ戒論』と『内証ないしょう仏法ぶっぽう相承そうしょう血脈けちみゃく』を内裏だいり提出ていしゅつして反論はんろん。さらにひろしじん12ねん3がつに『あらわ戒論縁起えんぎ』を朝廷ちょうてい提出ていしゅつする[62]。しかし最澄さいちょう提言ていげん生前せいぜんかなことかった[63]

天台宗てんだいしゅう独自どくじ制度せいど樹立じゅりつはかった最澄さいちょう意図いとについてはいくつかかんがえられる。だいいち護国ごこくである。奈良なら時代じだい仏教ぶっきょう東大寺とうだいじ国分寺こくぶんじ建立こんりゅうられるように護国ごこく期待きたいされていたが、災害さいがい疫病えきびょうえなかった。最澄さいちょうはその原因げんいん小乗しょうじょう戒(具足ぐそく戒)をけたそうもとめ、これを大乗だいじょうそう純粋じゅんすい培養ばいようによって克服こくふくしようとした[64][65]だい時代じだいである。釈迦しゃか入滅にゅうめつして2000ねんちか年月としつきって末法まっぽうちかさとりにいたるには、なが時間じかんのかかる方法ほうほうではなくおおきくっすぐなみちによらなくてはならないとした。このてん解決かいけつするために戒律かいりつ制度せいど改革かいかく提唱ていしょうした[65]

鑑真がんじん日本にっぽんにもたらした戒律かいりつ制度せいどとう天台宗てんだいしゅうふくめて諸国しょこく標準ひょうじゅんとなっていたもので、そうになるためには具足ぐそく[注釈ちゅうしゃく 16]さんななしょう[注釈ちゅうしゃく 17]まえ受戒じゅかいせねばならず、また菩薩戒ぼさつかい具足ぐそく戒をけたそう補助ほじょてきける、あるいは在家ざいけ信者しんじゃける戒としていた[66]。それにたい最澄さいちょうは梵網けい菩薩戒ぼさつかい[注釈ちゅうしゃく 18]のみでそうになれるとし[66]、あわせて受戒じゅかい釈迦しゃかほとけ文殊もんじゅ菩薩ぼさつ弥勒菩薩みろくぼさつさんとし、一切いっさいほとけしょうとしたうえで一人ひとりつて戒師がればよく、つて戒師がなければちかい受戒じゅかいでもよいとした[64][60]。また在家ありいえ出家しゅっけ姿すがた剃髪ていはつ袈裟けさ)で区別くべつできるとする[65]。このような大胆だいたん戒律かいりつ制度せいど日本にっぽん独自どくじ大乗だいじょう仏教ぶっきょうはぐくみ、のちに延暦寺えんりゃくじから輩出はいしゅつされる鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょういしずえとなった[52]

最澄さいちょう意図いとしただいさん比叡山ひえいざんからそう流出りゅうしゅつふせぐことである。前述ぜんじゅつのように天台てんだい法華宗ほっけしゅう受戒じゅかいしたそう法相ほうしょうむね度々たびたびうばわれていた[65]だいよん天台てんだい教団きょうだん独立どくりつである。南都なんとろくむねそうつな頂点ちょうてんとした管理かんり機関きかんち、天台てんだい法華宗ほっけしゅうとしぶんしゃであっても東大寺とうだいじ受戒じゅかいしていた。またそう治部じぶしょうぞくする玄蕃げんばりょう掌握しょうあくしていた[65]。このてん克服こくふくする手立てだてが比叡山ひえいざんじょうでの受戒じゅかいと、つづく12ねんわた籠山かごやまなどであった[65]

天台てんだい法華宗ほっけしゅうとしぶんしゃあたえられてから10年間ねんかん受戒じゅかいした20めいのうち、比叡山ひえいざんじゅうするものはわずか6めいであった。これは南都なんとてら所属しょぞくするそう天台てんだい法華宗ほっけしゅうてを利用りようして受戒じゅかいしていたことも原因げんいんひとつとかんがえられる。最澄さいちょう得度とくどけてから受戒じゅかいてその修学しゅうがくにいたるまで比叡山ひえいざんない完結かんけつさせることで、おおくの天台てんだいそう育成いくせいすることをはかったとかんがえられる[39][65]。それまでも籠山かごやま修行しゅぎょうをするそうたが、これを制度せいどしたのは最澄さいちょうはじめてである[66]。また籠山かごやま学問がくもん修行しゅぎょうども満足まんぞくであったものには、最高さいこう僧位そういであるだい法師ほうしあたえてしいとうったえている。最澄さいちょうだい法師ほうしさずかったのはこののちことで、非常ひじょうたか要求ようきゅうであったことがわかる[59]。さらに大乗だいじょう戒をけたそうについては僧籍そうせき治部じぶしょううつさずみんしょういたままとしたうえで、受戒じゅかいにあたって発給はっきゅうされるえんについては具足ぐそく戒と同様どうよう官印かんいんしてもらうとしている。またかん派遣はけんによりぞく別当べっとうそうでない管理かんりしゃ)をくことや他宗たしゅうからの入門にゅうもん規定きてい、あるいは官費かんぴ給付きゅうふ不要ふよう破戒はかいそう処罰しょばつなどを明文化めいぶんかしている。これらは天台てんだい法華宗ほっけしゅう既存きそん仏教ぶっきょう政策せいさくから離脱りだつし、太政官だじょうかん直下ちょっかかれて独自どくじ管理かんり組織そしき構築こうちくすることを意図いとしているとかんがえられる[67][68][65][69]

入滅にゅうめつ没後ぼつご[編集へんしゅう]

延暦寺えんりゃくじ浄土じょうどいん拝殿はいでん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
哭澄上人しょうにん嵯峨天皇さがてんのう宸翰しんかん)(部分ぶぶん

最澄さいちょうひろじん13ねん(822ねん)2がつ14にち伝燈でんとうだい法師ほうしさずかる[70]。このころには体調たいちょうくずしていたようで、桓武かんむ天皇てんのうくにである3がつ17にちひかりじょうは「最澄さいちょう法師ほうし重病じゅうびょうを受く。いのちいとぐちいくばくならず。つて戒をゆるされざれば先帝せんてい御願ごがん成就じょうじゅせず。」と、戒壇かいだん設立せつりつ勅許ちょっきょ催促さいそくしている[71]

6月4にちたつこく入滅にゅうめつ廟所びょうしょ比叡山ひえいざんひがしとう浄土じょうどいん[70]

毎日まいにちしょだいけい長講ちょうこうして、慇懃いんぎん精進しょうじんほうをして久住ひさずみせしめよ。国家こっかせんがため群生ぐんせいせんがためなり。つとめよ、つとめよ。(中略ちゅうりゃく年月としつき灌頂の時節じせつ護摩ごまし、仏法ぶっぽうを紹隆して以ってくにおんこたえよ。 — 最澄さいちょう遺言ゆいごん[70]

最澄さいちょうけて藤原ふじわらふゆ嗣、りょうみね安世やすよともこくどおりらが『やまおさむやまがくひょう』を天皇てんのう奏請そうせいし、死後しご7にち大乗だいじょう戒壇かいだん設立せつりつ天台てんだいそう育成いくせい制度せいど樹立じゅりつについて勅許ちょっきょりた[注釈ちゅうしゃく 19]ひろじん14ねん(823ねん)2がつ26にちには、みことのりによりいちじょう止観しかんいん延暦寺えんりゃくじ改称かいしょう同年どうねん3がつ17にち最初さいしょ得度とくどおこなわれ、ついで4がつ14にちひかりじょうらが受戒じゅかいした[63]同年どうねん10がつ17にち嵯峨天皇さがてんのうは『きよし上人しょうにんこくす』のたま[70]

さだかん8ねん(866ねん)7がつ12にち伝教大師でんぎょうだいし諡号しごうみことのりおくりなされた。円仁えんにんの慈覚大師だいしとも日本にっぽん史上しじょうはつ大師だいしごうである[70]

天台宗てんだいしゅうでは開祖かいそとして現代げんだいいたるまで尊崇そんすうされており、2021ねんれい3ねん)6がつ4にち延暦寺えんりゃくじで、入寂にゅうじゃく1200ねんだい遠忌えんき法要ほうようおこなわれた[73]

事績じせき評価ひょうか[編集へんしゅう]

日本にっぽん天台宗てんだいしゅうひらきむね[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく天台宗てんだいしゅうは6世紀せいきずいさとしひらいた宗派しゅうはであり、のちに日本にっぽん伝来でんらいした南都なんと仏教ぶっきょうよりも歴史れきしふるい。最澄さいちょう自身じしんいだおしえについて『内証ないしょう仏法ぶっぽう相承そうしょう血脈けちみゃく』に、達磨だるま大師だいしづけほう天台てんだい法華宗ほっけしゅう天台てんだいえんきょう菩薩戒ぼさつかい・胎蔵金剛こんごうかいりょう曼荼羅まんだらざつ曼荼羅まんだらの5つをげている。5つのおしえのうち天台てんだい法華宗ほっけしゅうのみに「むね」がいていることについて、伊吹いぶきあつしは「いだ思想しそうてき伝統でんとう血脈けちみゃくしょうし、それらを統合とうごうしてあらたに樹立じゅりつしたみずからの思想しそうてき立場たちばむねんだ」としたうえで、「中国ちゅうごく天台宗てんだいしゅうとはことなる日本にっぽん独自どくじ天台宗てんだいしゅう成立せいりつした」と評価ひょうかしている[74][注釈ちゅうしゃく 20]

また新川しんかわ哲雄てつお南都なんとろくむねにおける宗派しゅうはを「経典きょうてんろんしょ理解りかいかんする枢要すうよう教義きょうぎおよびそれをまなぶ「学派がくは」を意味いみする」としたうえで、最澄さいちょうひらきむねによって「ある立場たちば教義きょうぎおなじく尊崇そんすうする人々ひとびと一団いちだんを「むね」とし、さらにそのいちむねだんなか教義きょうぎをめぐる解釈かいしゃくちがいなどから立場たちばことにする分派ぶんぱしょうじたときに「」とみるあたらしい宗派しゅうは意識いしき原型げんけいまれた」と評価ひょうかしている[76][77]

あらわみつりょうがく[編集へんしゅう]

前述ぜんじゅつのように、天台てんだい法華宗ほっけしゅうには止観しかんぎょう天台てんだい)とさえぎぎょう密教みっきょう)のかく1めいとしぶんしゃみとめられた。これは最澄さいちょうあらわ天台てんだい教学きょうがく)とみつ密教みっきょうがく)の合同ごうどう最終さいしゅう理想りそうとしていたためかんがえられる[78][79]

止観しかんぎょうとはさとしあらわした『訶止かん』に由来ゆらいする[78]。『訶止かん』は仏道ぶつどう修行しゅぎょう基礎きそてき規範きはんしるしたもので、実践じっせん修行しゅぎょう立場たちばから法華経ほけきょう解釈かいしゃくしたものとされる。最澄さいちょうは『勧奨かんしょう天台宗てんだいしゅうねんぶん学生がくせいしき』に「止観しかんぎょうよんしゅ三昧ざんまい修習しゅうしゅうせしめ(後略こうりゃく)」としるすように、『訶止かん』にしるされる実践じっせんぎょうであるよんしゅ三昧ざんまい[注釈ちゅうしゃく 21]実践じっせん重視じゅうししていた。そして実践じっせんとして最澄さいちょうよんしゅ三昧ざんまいどう建立こんりゅうはかったが、このどうは『ひろしじん九年比叡山寺僧院之記』にいちじょう止観しかんいんつづいてしるされていることから延暦寺えんりゃくじ伽藍がらん構想こうそうにおいても重要じゅうようされていたことがかる[80]

よん三昧ざんまいいんとはえんかんまなべするものじゅうするところいんなり。文殊もんじゅ般若はんにゃけいりてつねすわいちぎょう三昧ざんまいいん建立こんりゅうし、般舟三昧ざんまいけいりて常行つねゆきふつりつ三味しゃみいん建立こんりゅうし、法華経ほけきょうとうりてはんぎょうはんすわ三昧ざんまいいん建立こんりゅうし、だいしなけいとうりて非行ひこうすわ三味しゃみいん建立こんりゅうす。(中略ちゅうりゃくあきらかにりぬ、よん三昧ざんまいいんとは行者ぎょうじゃきょするところなり。春秋しゅんじゅう常行つねゆきふゆなつつねすわ行者ぎょうじゃらくよくしたがいて、まさにはんぎょうはんすわしゅうし、また非行ひこうすわしゅうすべし。 — 最澄さいちょう、『あらわ戒論』[80]

ひがしとうはんぎょうはんすわ三味しゃみどう法華三昧ほっけざんまいどう)は最澄さいちょうひろじん3ねん(812ねん)に建立こんりゅうしたとされるが、つねすわいちぎょう三昧ざんまいどう文殊もんじゅろう)、常行つねゆき三昧ざんまいどう非行ひこうすわ三味しゃみどうずいどう)は最澄さいちょう没後ぼつご完成かんせいする[81]。のちの天台宗てんだいしゅうでは法華ほっけどう座禅ざぜん道場どうじょうとして重視じゅうしされ、常行つねゆきどう浄土じょうど信仰しんこう素地そじとなった[82]。しかし、それ以外いがい三昧ざんまいどうはさほど重視じゅうしされることがなかったとかんがえられる[81][注釈ちゅうしゃく 22]

一方いっぽうさえぎぎょうは『訶毘盧遮那るしゃな神変しんぺん加持かじけいぎょう』に由来ゆらいする。最澄さいちょうとうからつたえた密教みっきょう不十分ふじゅうぶんなもので空海くうかい助力じょりょくうたが、教義きょうぎ完成かんせいたせなかった。のちに天台てんだい密教みっきょう円仁えんにん円珍えんちん入唐にっとうにより研究けんきゅうさかんになり、安然あんねんによって完成かんせいされ[83]、その100ねんあまりは天台てんだい密教みっきょう隆盛りゅうせいする[78]。その一方いっぽうで、円仁えんにん空海くうかいあらわみつきょうばん密教みっきょう顕教けんぎょうよりすぐれるとするせつ)を一部いちぶみ、最澄さいちょうかかげたあらわみつりょうがくえんみつ一致いっち)はくずれていく[84]止観しかんぎょう見直みなおされるのは延暦寺えんりゃくじ中興ちゅうこうとされる良源りょうげんあらわれる10世紀せいき中頃なかごろとなる[78][85]

一切衆生いっさいしゅじょう悉有仏性ぶっしょう[編集へんしゅう]

一切衆生いっさいしゅじょう悉有仏性ぶっしょう(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生しゅじょうはみなまれながらにしてふつとなりうる素質そしつ仏性ぶっしょう)をもつということである[86]。その根本こんぽんとなる一切いっさいみななり一切衆生いっさいしゅじょう成仏じょうぶつできる)は涅槃ねはんけいかれるものであり、法相ほうしょうむねふく南都なんと仏教ぶっきょうもこれを承認しょうにんしていたが、その解釈かいしゃく仏性ぶっしょうろん)について最澄さいちょう法相ほうしょうむねはげしい論争ろんそう徳一とくいちとのさんいちけんじついさかいろん)をおこなった[87]

徳一とくいち一切いっさいみななりみとめつつ「仏性ぶっしょうあらわかにするためのくだりしえるいんくだり仏性ぶっしょう)をたない衆生しゅじょうがいる」とするせいかくべつせつ[注釈ちゅうしゃく 23]支持しじする。この法相ほうしょうむね立場たちばについて最澄さいちょう小乗しょうじょうふくまれていると批判ひはんし、せいべつなく悉皆しっかい成仏じょうぶつできるといた。そのうえで「修行しゅぎょう困難こんなんさから成仏じょうぶつできるのは釈迦しゃかのような特別とくべつ存在そんざい」とする一般いっぱんてき仏教ぶっきょうかん否定ひていし、「一切衆生いっさいしゅじょう悉有仏性ぶっしょうしん利他りたぎょうはげ成仏じょうぶつみちすすものこそが菩薩ぼさつ」とし大乗だいじょう立場たちば明確めいかくにした[87]

大乗だいじょう戒壇かいだん[編集へんしゅう]

前述ぜんじゅつのように、最澄さいちょう菩薩戒ぼさつかい受戒じゅかい比丘びくになれるとする大乗だいじょう戒壇かいだん設立せつりつ尽力じんりょくし、日本にっぽん独自どくじ戒律かいりつ制度せいど成立せいりつした。一方いっぽうでこれにより、鑑真がんじん日本にっぽん伝来でんらいした「具足ぐそく戒での受戒じゅかい比丘びくとなれる」とするひがしアジアの基準きじゅんてはまらない比丘びくまれることとなる。のちあきらぜんにゅうそうしたさいには、比叡山ひえいざん大乗だいじょう戒壇かいだん受戒じゅかいしていたにもかかわらず、東大寺とうだいじ戒壇かいだん受戒じゅかいした戒牒を作成さくせいしている[89]。また現在げんざい日本にっぽん仏教ぶっきょう戒律かいりつ軽視けいししているとされるが、沖本おきもと克己かつみはそのおおきな転換てんかんてんひとつとして最澄さいちょう大乗だいじょう戒壇かいだん設立せつりつげている[90]

しょ[編集へんしゅう]

しょにおける師承ししょうあきらかでないが、のべれき23ねん(804ねん)に入唐にっとうし、帰朝きちょうあたって王羲之おうぎしじゅうななじょう王献之おうけんしおう褚遂りょうなどの筆跡ひっせき法帖ほうじょうるいかえった[91]。その書風しょふう空海くうかい変幻へんげん自在じざいなのにくらべて、楷書かいしょばれるものにちかい。真跡しんせきとして現存げんそんするものにはつぎのようなものがある。

天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶん縁起えんぎ[編集へんしゅう]

天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶん縁起えんぎ』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台てんだい法華宗ほっけしゅうとしぶんしゃおよび大乗だいじょう戒壇かいだん設立せつりつかかわる文書ぶんしょ蒐集しゅうしゅうしたしょ延暦寺えんりゃくじぞう国宝こくほう収録しゅうろくされているのは以下いかの6つう[92]

  • 『請続しょうぜっ諸宗しょしゅうさら法華宗ほっけしゅうひょう』- 天台てんだい法華宗ほっけしゅうとしぶんしゃ2めいみとめるよう上奏じょうそうしたしょひかえ。のべれき25ねん1がつ3にち[92][93]
  • 内裏だいりしょといてい諸宗しょしゅうねんぶんいちじゅうにんひょう』- 朝廷ちょうていからの諮問しもんたいして南都なんとそうつな天台てんだい法華宗ほっけしゅうとしぶんしゃ2めい許可きょかすべきと上奏じょうそうしたしょうつし。のべれき25ねん1がつ5にち[92][93]
  • さら法華宗ほっけしゅうねんぶん二人定諸宗度者数官符』- 天台てんだい法華宗ほっけしゅうとしぶんしゃ2めいみとめられたむね支持しじする公文書こうぶんしょうつし。のべれき25ねん1がつ26にち[92][93]
  • 天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶん得度とくど学生がくせいめいちょう』- 大同だいどう2ねん(807ねん)からひろじん9ねん(818ねん)までの12年間ねんかん延暦寺えんりゃくじまなんだとしぶん得度とくど学生がくせい名簿めいぼと、さらにひろしじん10ねんぶんの2めい加筆かひつしたしょひろじん10ねん[92][94]
  • 『請先帝せんてい御願ごがん天台てんだいねんぶん得度とくどしゃずい法華経ほけきょうため菩薩ぼさつ出家しゅっけひょう』- 大乗だいじょう戒壇かいだん設立せつりつねがしょひろじん9ねん5がつ21にち[92][95]
  • 天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶん学生がくせいしき』- 大乗だいじょう戒壇かいだん設立せつりつにあたりそうがまもる規律きりつなどをしるしたしょ通称つうしょう六条ろくじょうしきひろじん9ねん5がつ13にち[92][96]

ひさしへだたじょう[編集へんしゅう]

ひさへだたじょう』(きゅうかくじょう)は、ひろじん4ねん(813ねん)11月25にちづけいた尺牘せきとく書状しょじょう)で、「ひさへだた清音せいおん」のはじまるのでこのがある。宛名あてなは「高雄たかおはん闍梨」とあり、これは高雄たかお山寺やまでら派遣はけんした最澄さいちょう弟子でし泰範やすのりであるが、実質じっしつ空海くうかいあてである[97]しん筆端ひったんまでとどき、ぼく清澄きよすみ品格ひんかく高邁こうまいで、さながら王羲之おうぎしの『しゅう聖教せいきょうじょ』を肉筆にくひつしたようなひびきをはな[98]おおきさは、29.2cm×55.2cm。奈良なら国立こくりつ博物館はくぶつかんぞう国宝こくほう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうは「伝教大師でんぎょうだいしひつ尺牘せきとく[97]

『久隔帖』最澄筆
ひさへだたじょう最澄さいちょうひつ

ひさしへだた清音せいおんはせ
こいきょく
傳承でんしょう安和あわ且慰下情かじょう
だい阿闍梨あじゃりところしめせ五八詩序中有一百廿禮仏
并方えん
并註とうめい
いまたてまつ未知みち其礼ふつしゃ
ふく
令聞れいぶん 阿闍梨あじゃり
其所せんなみ大意たいいとう
つげほどこせ其和しゃ怱難さく
ちょひつぶんなんあらため
だいおもんみしめせ其委きょく
必造たてまつうわ 座下ざか
謹附さださとし仏子ぶっしたてまつじょう和南わなみ
ひろじん四年十一月廿五日小法弟最澄状上
高雄たかおはん闍梨ほうまえ
以下いか省略しょうりゃく

— 『ひさしへだたじょう[97]

文面ぶんめんは、「だい阿闍梨あじゃり空海くうかい)のしめされたはち(『ちゅう寿ことぶき感興かんきょう』)のじょに、『いちひゃくじゅうれいほとけ』『方円ほうえん』『註義』という書名しょめいがある。そのいんして返礼へんれいつくってげたいが、わたしは『れいふつ』なるものをまだらない。どうかこのむね阿闍梨あじゃり空海くうかい)につたえられ、『方円ほうえん』『註義』とその大意たいいとをおらせいただきたい。(以下いか省略しょうりゃく)」という趣旨しゅし内容ないようである[97]

こししゅう将来しょうらい目録もくろく[編集へんしゅう]

こししゅう将来しょうらい目録もくろく』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄さいちょうとうからかえった書物しょもつとう目録もくろく。102115かん書物しょもつ密教みっきょうほうしるされる。まきにはこししゅう長官ちょうかんていしんそく自筆じひつ印可いんかじょうしゅう官印かんいんのほか、から大使たいし葛野くずの麿まろらの連署れんしょ遣唐使けんとうししるしもあり、当時とうじ公文書こうぶんしょ史料しりょうとしても貴重きちょう延暦寺えんりゃくじぞう国宝こくほう文化財ぶんかざい登録とうろく名称めいしょうは「弘法大師こうぼうだいし請来しょうらい目録もくろく[99]

羯磨金剛こんごう目録もくろく[編集へんしゅう]

『羯磨金剛こんごう目録もくろく』(かつまこんごうもくろく)は、とうからかえった品々しなじな経蔵きょうぞうえいおさむしたさいそう目録もくろく原本げんぽんはほぼうしなわれてしまい、のこったじゅうすうぎょうつなわせた断簡だんかんもとは『きょうぞう宝物ほうもつ聖教せいきょうとう目録もくろく』といったが、現在げんざい文頭ぶんとうにある羯磨金剛こんごうちなんでばれる。文書ぶんしょ全面ぜんめんに「比叡ひえいてらしるし」がされており、当時とうじ正式せいしき寺号じごうかる史料しりょう延暦寺えんりゃくじぞう国宝こくほう[91]

空海くうかい将来しょうらい目録もくろく[編集へんしゅう]

空海くうかい将来しょうらい目録もくろく』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海くうかいとうからかえった聖教せいきょう典籍てんせきそう目録もくろくを、最澄さいちょう書写しょしゃしたもの。元来がんらい延暦寺えんりゃくじにあったものが、ある時期じきに『かぜしんじょう』ととも東寺とうじゆずられたものとかんがえられている。東寺とうじぞう国宝こくほう文化財ぶんかざい指定してい名称めいしょうは「弘法大師こうぼうだいし請来しょうらい目録もくろく[91]

和歌わか[編集へんしゅう]

最澄さいちょうんだ和歌わかが9しゅつたわっている。

比叡山ひえいざん中道ちゅうどう建立こんりゅうとき
おもね耨多さんさん菩提ぼだいふつたちわがたてそま冥加みょうがあらせきゅう — 『しん古今ここん和歌集わかしゅう[70]

このうたについて正岡子規まさおかしきは「いとめでたきうたにてこうちょうようかたなど古今ここん未曾有みぞうにて、これをみたるひともさすがなれど、このうた勅撰ちょくせんしゅうへたる勇気ゆうきしょうするにるべくとそんこう(『きゅうたび歌詠うたよみにあずかふるしょ』)」と賞賛しょうさんしている[100]

法華ほっけじゅうはちひんなか
<方便ほうべんひん>
さんかわひとつのうみとなるとき舎利しゃりどるのみそまつわたりける
<法師ほうしひん>
このほうをもしいちこともとくひとはよものほとけのつかひならすや
<分別ふんべつ功徳くどくひん>
わがいのちなかしとききてよろこへるひとはさなからふつとそなる — 『しんぞく古今ここん和歌集わかしゅう[70]
比叡山ひえいざん中堂なかどうはじめつねともしてかけきゅうへけるとき
あきらけくのちふつ御世みよまてもひかりつたへよほうのともし — 『しん拾遺しゅうい和歌集わかしゅう[70]
末代まつだい衆生しゅじょうのねかひをよめる
すえのいのりもとむる其事のしるしなきこそしるしなりけれ — 『論語ろんご[70]
比叡山ひえいざんをよめる
おのつからすめは持戒じかいの此山はまことなるかなよりところ — 『論語ろんご[70]
みかとのためけいのかききゅうひしおく
となへてもきみをのみまたいのりけれは幾代いくよふるとてたえしとところおも
となへてもきみをのみまたいのりけれはいくよふるともたへしとそおも — 『論語ろんご[70]

伝教大師でんぎょうだいし童形どうぎょうぞう[編集へんしゅう]

伝教大師でんぎょうだいし童形どうぎょうぞうは、生源寺せいげんじ滋賀しがけん大津おおつ)、延暦寺えんりゃくじ滋賀しがけん大津おおつ)、そう林寺はやしじ京都きょうと京都きょうと)、さんせんいん京都きょうと)、松尾寺まつのおでら大阪おおさか和泉いずみ)、能福寺のうふくじ兵庫ひょうごけん神戸こうべ)、普光寺ふこうじ兵庫ひょうごけん加西かさい)、長法寺ちょうほうじ岡山おかやまけん津山つやま)、天王てんのういん神奈川かながわけん横浜よこはま)、立石寺りっしゃくじ山形やまがたけん山形やまがた)など天台宗てんだいしゅう寺院じいん設置せっちされている。

伝記でんき研究けんきゅう[編集へんしゅう]

  • 塩入しおいりりょうみちへん最澄さいちょう 日本にっぽん名僧めいそう論集ろんしゅう〈2〉』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1982ねん
  • 大久保おおくぼりょうたかしへん山家やまが大師だいし 最澄さいちょう 日本にっぽん名僧めいそう〈3〉』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2004ねん
  • 平川ひらかわあきら最澄さいちょう てんこたえる 高僧こうそうでん〈3〉』(集英社しゅうえいしゃ、1985ねん
  • 佐伯さえきゆうきよし伝教大師でんぎょうだいしでん研究けんきゅう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん日本にっぽん史学しがく研究けんきゅう叢書そうしょ〉、1992ねん
  • 佐伯さえきゆうきよし最澄さいちょうとその門流もんりゅう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1993ねん
  • 佐伯さえきゆうきよしわか最澄さいちょうとその時代じだい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1994ねん
  • 佐伯さえきゆうきよし最澄さいちょう空海くうかい 交友こうゆう軌跡きせき』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1998ねん
  • 立川たちかわ武蔵むさし最澄さいちょう空海くうかい 日本にっぽん仏教ぶっきょう思想しそう誕生たんじょう』(講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ、1998ねん角川かどかわソフィア文庫ぶんこ、2016ねん
  • 高木たかぎ訷(シン)もと編著へんちょ空海くうかい最澄さいちょう手紙てがみ』(法蔵館ほうぞうかん、1999ねん新版しんぱん2015ねん
  • 大久保おおくぼりょうたかし伝教大師でんぎょうだいし 最澄さいちょう』(法藏館ほうぞうかん、2021ねん
  • 茂樹しげき最澄さいちょう徳一とくいち: 仏教ぶっきょう史上しじょう最大さいだい対決たいけつ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2021ねん10がつISBN 9784004318996全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:23618177 
おも現代げんだいやく
  • 現代げんだいやく 最澄さいちょう全集ぜんしゅう大竹おおたけすすむ訳注やくちゅう国書刊行会こくしょかんこうかいぜん4かん)、2021ねん
  • 現代げんだいやく あらわ戒論』前川まえかわ健一けんいち訳注やくちゅう、「あずまあきら叢書そうしょ 仏典ぶってん現代げんだいやくシリーズ」東洋とうよう哲学てつがく研究所けんきゅうじょ、2021ねん
  • 最澄さいちょう 円仁えんにん 大乗だいじょう仏典ぶってん 中国ちゅうごく日本にっぽんへん17』木内きうち堯央訳注やくちゅう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1990ねん - 『願文がんもん』『学生がくせいしき』『あらわ戒論』
  • 日本にっぽん仏典ぶってん1 最澄さいちょう田村たむらあきらゆう訳注やくちゅう筑摩書房ちくましょぼう、1987ねん - 『山家やまや学生がくせいしき』『あらわ戒論』ほか 

文学ぶんがく作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 最澄さいちょうたいする称名しょうみょうは「南無なむ宗祖しゅうそ根本ねもと伝教大師でんぎょうだいしぶく聚金つよし」である。
  2. ^ 百枝ももえ」はきよしあしおとをとった「きょえだ」をあやまったもので、どう一人物いちじんぶつとするせつもある[6]。また最澄さいちょうちち戸主こしゅであったとはかぎらないためきよしあしちちではないとするせつもある[5]
  3. ^ 古市ふるいちきょうについて『だい日本にっぽん地名ちめい辞典じてん』では大津おおつ粟津あわづ考証こうしょうされている[7]
  4. ^ 新撰しんせん姓氏せいしろく』には近江おうみには志賀しかすん志賀しがあな大村おおむらぬしといった帰化きかかんじんはやくから居住きょじゅうしていたことがわかる[7]。また三津みつづくび記述きじゅつはないものの可能かのうせい否定ひていできないとされる[5]
  5. ^ この鑑真がんじん将来しょうらい経典きょうてんについてばん国道こくどう東大寺とうだいじ所蔵しょぞうのものとつたえている[19]
  6. ^ この法会ほうえ召集しょうしゅうされた高僧こうそうは、前年ぜんねん最澄さいちょうおこなった法華ほっけじゅうこう講師こうし10にんふくまれている。また最澄さいちょうへの招請しょうせいじょうから弘世ひろよ最澄さいちょう帰依きえしていたことがわかる[25]
  7. ^ かえ学生がくせい(げんがくしょう)は1ねん程度ていどもど短期たんき滞在たいざい学生がくせいたいして留学生りゅうがくせい(るがくしょう)は20ねんほどの長期ちょうき滞在たいざいをする学生がくせい
  8. ^ みょうきよしのち最澄さいちょう空海くうかい書簡しょかんえるが入唐にっとうはしていないとかんがえられる。えんもとについては不明ふめい[29]
  9. ^ 詳細しょうさいては、華厳宗けごんしゅう2めい天台てんだい法華宗ほっけしゅう2めいりつむね2めいさんろんむね3めい小乗しょうじょうなりじつむねふくむ)、法相ほうしょうむね3めい小乗しょうじょう倶舎むねふくむ)である[37]
  10. ^ 天台宗てんだいしゅうはこのをもってひらきむねとしている。
  11. ^ 比叡山ひえいざんすべなか、その東西とうざい南北なんぼくかくいちしょである。安中あんなか山城やましろ宝塔ほうとういん比叡山ひえいざんひがしとう)、安国やすくに近江おうみ宝塔ほうとういん比叡山ひえいざん西にしとう)、安東あんどう上野うえの宝塔ほうとういん上野うえのこく緑野りょくやぐん浄法寺じょうほうじ)、やすみなみ豊前ぶぜん宝塔ほうとういん豊前ぶぜんこく宇佐うさぐん宇佐うさ弥勒寺みろくじ)、安西あんざい筑前ちくぜん宝塔ほうとういん筑前ちくぜんこく太宰府だざいふ竈門かまど山寺やまでら)、やすきた下野げや宝塔ほうとういん下野げやこく都賀つがぐん大慈寺だいじじ[47][48]
  12. ^ 具足ぐそく戒は僧侶そうりょとなるためにまもるべき規範きはんである。てることそう資格しかくてること同義どうぎであるが、朝廷ちょうてい南都なんとそうつながそのようにあつかった様子ようすはない[57]
  13. ^ 天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶん学生がくせいしきろくじょうしき)』(ひろしじん9ねん5がつ13にち)、『勧奨かんしょう天台宗てんだいしゅうねんぶん学生がくせいしきはちじょうしき)』(ひろしじん9ねん8がつ)、『天台てんだい法華宗ほっけしゅうねんぶんしゃかい小向こむかいまさるしき四条しじょうしき)』(ひろしじん10ねん3がつ15にち)の3からなるしょ
  14. ^ この文面ぶんめんについて天台宗てんだいしゅうでは「あきら于一すみ」(一隅いちぐうらす)と解釈かいしゃくする。一方いっぽう薗田そのだかおりとおるひとしおうの「国宝こくほうとはくに一隅いちぐうまもれば他国たこく侵入しんにゅうできず、しょうとなれば千里せんりらすものである」の故事こじいたもので、まさしくは「あきらせん一隅いちぐう」(一隅いちぐうまも千里せんりらす)とするせつとなえている。ここでは天台宗てんだいしゅう解釈かいしゃくしたが[58]
  15. ^ 菩薩戒ぼさつかい天台宗てんだいしゅう梵網けいもとづく菩薩戒ぼさつかいえんひたぶるとよぶ。
  16. ^ 正式せいしきそうになるための戒。比丘びく250戒、比丘尼びくに348戒[60]
  17. ^ 戒をさづける直接ちょくせつ責任せきにんしゃである戒和なお戒場かいばしろよん羯磨(びゃくしこんま)の作法さほうつ羯磨威儀いぎ作法さほうおしえる教授きょうじゅさんと、7にんいのそうこと[60]
  18. ^ 梵網けいかれるじゅうじゅうよんじゅうはちけい戒。
  19. ^ この最澄さいちょう最期さいごは『叡山えいざんだい師伝しでん』を根拠こんきょとしているが、佐伯さえきゆうきよしちょうどうきょうあきら後年こうねん脚色きゃくしょくである可能かのうせい指摘してきしている。それによれば『類聚るいじゅう国史こくし』に入滅にゅうめつ前日ぜんじつである6がつ3にち勅許ちょっきょりたことがしるされており、最澄さいちょうはこれをいてから入滅にゅうめつしたことになる[72]
  20. ^ 現代げんだい天台宗てんだいしゅうではこれを「よんむね相承そうしょう」(よんしゅうとはえんひそかぜん・戒のこと)としょうするが、この言葉ことば近世きんせいけいこうとなえた「よんむねみゃく」がもとで、近代きんだい一般いっぱんした[75]
  21. ^ よんしゅとはつねすわ三昧ざんまい常行つねゆき三昧ざんまいはんぎょうはんすわ三昧ざんまい非行ひこうすわ三昧ざんまい[80]
  22. ^ 現存げんそんする三昧ざんまいどう西にしとう法華ほっけどう常行つねゆきどう(にないどう)のみである[81]
  23. ^ せいとは声聞しょうもんしゅせいどくさとししゅせい菩薩ぼさつしゅせい不定ふていしゅせい無性むしょう有情うじょうこと[88]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b なお、最澄さいちょう自身じしんせんとされる『内証ないしょう仏法ぶっぽう相承そうしょう血脈けちみゃく』では、13さい弟子でしりし、宝亀ほうき11ねん11がつ10日とおか作成さくせいの「近江おうみ国府こくふ牒」に“三津首広野年拾五”との記述きじゅつがあり、天平てんぺい神護かんご2ねん出生しゅっしょうせつ学者がくしゃもいる。
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]