りょう安世やすよ

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りょう安世やすよ
りょう岑安前賢ぜんけん故実こじつ
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん のべれき4ねん785ねん
死没しぼつ てんちょう7ねん7がつ6にちユリウスれき830ねん7がつ29にち先発せんぱつグレゴリオれき830ねん8がつ2にち、)
官位かんい せいさん大納言だいなごんおくしたがえ
主君しゅくん 桓武かんむ天皇てんのう平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう淳和天皇じゅんなてんのう
氏族しぞく りょう岑氏
父母ちちはは ちち桓武かんむ天皇てんのうはは百済くだらながつぎ
兄弟きょうだい 異母いぼ兄弟きょうだい あん殿どの親王しんのう平城ひらじろ天皇てんのう
朝原あさはら内親王ないしんのう伊予いよ親王しんのう安世やすよ
神野かみの親王しんのう嵯峨天皇さがてんのう
大伴おおとも親王しんのう淳和天皇じゅんなてんのう葛原くずはら親王しんのう
まん親王しんのう仲野なかの親王しんのう佐味さみ親王しんのう
坂本さかもと親王しんのう賀陽かよう親王しんのうかずら親王しんのう
あま南美みなみ内親王ないしんのう伊都いと内親王ないしんのう
菅原すがわら内親王ないしんのう大宅おおたく内親王ないしんのう高津たかつ内親王ないしんのうやすみことのり内親王ないしんのう明日香あすか親王しんのう布勢ふせ内親王ないしんのう長岡ながおかおかしげるほか
異父いふ兄弟きょうだい藤原ふじわら真夏まなつ藤原ふじわらふゆ
つま 丹治たんじむすめ
木蓮もくれん長松ながまつ清風せいふうそうさだ遍昭へんじょう
高行たかゆき遠視えんし晨直、晨省、晨茂、くだりみやひめ
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りょう安世やすよ(よしみね の やすよ)は、平安へいあん時代じだい初期しょき皇族こうぞく公卿くぎょう桓武かんむ天皇てんのう皇子おうじ官位かんいせいさん大納言だいなごんおくしたがえ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

生母せいぼ百済くだらながつぎ)の身分みぶんひくいために、親王しんのう宣下せんげけられずに成長せいちょうした。のべれき21ねん12月(803ねん1がつ)になると、りょう朝臣あそんせいたまものあずかされて臣籍しんせき降下こうかする。

平城ひらじろあさにおいて衛士えじ大尉たいいみぎ近衛このえすすむかん歴任れきにんし、大同だいどう4ねん809ねん嵯峨天皇さがてんのう即位そくいのちに、したがえみぎ近衛このえ少将しょうしょう叙任じょにんされる。武芸ぶげいすぐれたことから武官ぶかん歴任れきにんする一方いっぽうで、大同だいどう5ねん810ねんけんみぎしょうべんいでひだりしょうわきまえひろしひとし2ねん811ねん蔵人くろうどあたま側近そっきんとして嵯峨天皇さがてんのうつかえた。そのひろじん3ねん812ねんせいひろじん5ねん813ねんしたがえよん左衛門さえもんとく急速きゅうそく昇進しょうしんし、ひろじん7ねん816ねん)には32さいで、安世やすよどう年齢ねんれいおなじく天皇てんのう側近そっきんであった藤原ふじわらさんもりとも参議さんぎにんぜられ公卿くぎょうれつした。ひろじん12ねん821ねんしたがえさん中納言ちゅうなごん嵯峨さがちょうでは『日本にっぽん』『内裏だいりしき』の編纂へんさん参画さんかくしたほか、『経国けいこくしゅう』の編纂へんさん主宰しゅさいしている。また、ひろじん13ねん822ねん)には以下いかうえ疏しゆるされている。

ひろじん14ねん823ねん淳和天皇じゅんなてんのう即位そくいともなってせいさんみぎ近衛このえ大将たいしょう叙任じょにんし、皇太子こうたいし正良まさよし親王しんのう(のち仁明天皇にんみょうてんのう)の春宮とうぐう大夫たいふねる。てんちょう元年がんねん824ねんもりかい任期にんきを4ねんから6ねん延長えんちょうしたほか、しょ公卿くぎょう提言ていげんれて国司こくしかんするあらたな制度せいどさだめられているが、このうち以下いかについては安世やすよ提言ていげん採用さいようされている[2]

  • 優秀ゆうしゅう国守こくしゅ複数ふくすうくに兼任けんにんさせ、属僚ぞくりょう推挙すいきょさせること[3]
  • 国司こくし推挙すいきょする優秀ゆうしゅうこおりりょう叙位じょいすること[4]

てんちょう5ねん828ねん大納言だいなごんいたるが、てんちょう7ねん830ねん)7がつ6にち薨去こうきょ享年きょうねん46。最終さいしゅう官位かんい大納言だいなごんせいさんみぎ近衛このえ大将たいしょう没後ぼつごしたがえ追贈ついぞうされ、嵯峨さが上皇じょうこうはそのいたんで挽歌ばんか2へんんだという。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

わかころから狩猟しゅりょうこのんで、騎射きしゃくした。一方いっぽう書物しょもつ読解どっかい得意とくいとし、はじめてこうけいんださい儒教じゅきょうおしえここにきわまると嘆息たんそくしたという。また、歌舞かぶ音曲おんぎょくなどおおくの伎芸ぎげいけていたとされ、てんちょう2ねん825ねん)の嵯峨さが上皇じょうこうの40さいいわうたげでは、中納言ちゅうなごんという高官こうかんながら冷然れいぜんいん正殿せいでんみなみかいからりてまいおどったという[5]

漢詩かんしすぐれ、作品さくひんが『しのげ雲集うんしゅう』に2しゅ、『ぶんはな秀麗しゅうれいしゅう』に4しゅ、『経国けいこくしゅう』に9しゅいれしゅうしている。また、空海くうかいとの親交しんこうでもられ『せいれいしゅう』には安世やすよおくられた多数たすうおさめられている。

かんれき[編集へんしゅう]

注記ちゅうきのないものは『日本にっぽん』による。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんひろしじん13ねん12がつ10日とおかじょう
  2. ^ 福井ふくい俊彦としひこ交替こうたいしき研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1978ねん
  3. ^ 類聚るいじゅうさんだいかくまき7てんちょう元年がんねん8がつ20にちかん
  4. ^ 類聚るいじゅうさんだいかくまき6てんちょう2ねん7がつ8にちかん
  5. ^ 日本にっぽんてんちょう2ねん11月28にちじょう
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 公卿くぎょう補任ほにん
  7. ^ a b 近衛府このえふ補任ほにん
  8. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん5ねん4がつ15にちじょう
  9. ^ ぞく日本にっぽんよしみさち2ねん6がつ28にちじょう
  10. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくもとけい3ねん11がつ10日とおかじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]