鎌倉かまくら仏教ぶっきょう

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鎌倉かまくら仏教ぶっきょう(かまくらぶっきょう、英語えいご: Kamakura Buddhism)は平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよにかけてあらたにひろまった日本にっぽん仏教ぶっきょう宗派しゅうは総称そうしょうして使用しようされる。奈良なら平安へいあん時代じだいきゅう仏教ぶっきょう鎌倉かまくら時代じだいにおける復興ふっこうふくめて鎌倉かまくら時代じだい仏教ぶっきょう全体ぜんたい総称そうしょうして使用しようされる場合ばあいもあり明確めいかく規定きていはない。

そのためあたらしくひろまった仏教ぶっきょう宗派しゅうはのみを区別くべつして、「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」と呼称こしょうする場合ばあいがあり、その場合ばあいは、法然ほうねん浄土宗じょうどしゅう)・親鸞しんらん浄土真宗じょうどしんしゅう)・栄西えいさい臨済宗りんざいしゅう)・道元どうげん曹洞宗そうとうしゅう)・日蓮にちれん日蓮宗にちれんしゅう)・一遍いっぺん時宗じしゅう)によってはじめられた6むねす。

平安へいあん時代じだいまでの仏教ぶっきょう特徴とくちょうはあくまで天皇てんのう貴族きぞく中心ちゅうしんであり地位ちいたかひとだけの仏教ぶっきょうであったが、鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう特徴とくちょうは「信仰しんこうのしやすさ」があり、かつ1052ねん末法まっぽう元年がんねんとしてとらえる「末法まっぽう思想しそう」を背景はいけいに、実際じっさい地震じしん飢饉ききん疫病えきびょう多発たはつし、もと脅威きょういがあり、50かいもの元号げんごう改元かいげん(そのうちわざわい改元かいげんが30かい)をおこなうほど、人々ひとびとくるしめられていた時代じだい背景はいけいとして、庶民しょみん武家ぶけにまでひろひろまった。かく宗派しゅうは特徴とくちょうは、おおきく念仏ねんぶつ題目だいもく座禅ざぜんみっつにけられる。

鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」のかたりをめぐっては後述こうじゅつのように研究けんきゅうしゃによって様々さまざま見解けんかい存在そんざいする(→ 鎌倉かまくら仏教ぶっきょうろん ふし)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

女人にょにん救済きゅうさいをおこなった法然ほうねん生涯しょうがいえがいた絵巻物えまきもの法然ほうねん上人しょうにんでん』(国宝こくほう

鎌倉かまくら時代ときよにあっては、国家こっかてき事業じぎょうとして東大寺とうだいじをはじめ南都なんと奈良なら)のしょてら再建さいけんがなされる一方いっぽう12世紀せいきなかごろから13世紀せいきにかけて、新興しんこう武士ぶし農民のうみんたちのもとめにおうじて、日本にっぽん仏教ぶっきょうあたらしい宗派しゅうはである浄土宗じょうどしゅう浄土真宗じょうどしんしゅう時宗じしゅう日蓮宗にちれんしゅう臨済宗りんざいしゅう曹洞宗そうとうしゅう宗祖しゅうそ活躍かつやくした(このうち、浄土宗じょうどしゅうひらきむね厳密げんみつえば、平安へいあん時代じだい末期まっきのことであるが「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」にふくめてかんがえられる)。この6むねはいずれも、開祖かいそ比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじなど天台宗てんだいしゅうまなんだ経験けいけんをもち、ぜん4しゃはいわゆる「きゅう仏教ぶっきょう」のなかからまれ、こう2しゃ中国ちゅうごくからあらたに輸入ゆにゅうされた仏教ぶっきょうである。「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」6むねきょうせつ成立せいりつ事情じじょうことなるが、「きゅう仏教ぶっきょう」の要求ようきゅうするようなきびしい戒律かいりつ学問がくもん寄進きしん必要ひつようとせず(ただし、禅宗ぜんしゅう戒律かいりつ重視じゅうし)、ただ、信仰しんこうによって在家ありいえ在俗ざいぞく生活せいかつ)のままですくいにあずかることができるとてん一致いっちしていた。

これにたいし、「きゅう仏教ぶっきょう」(南都なんとろくむね天台宗てんだいしゅうおよび真言宗しんごんしゅうがわ奈良なら時代じだいとうそう鑑真がんじん日本にっぽんつたえた戒律かいりつ護持ごじ普及ふきゅう尽力じんりょくする一方いっぽう社会しゃかい事業じぎょう貢献こうけんするなど方面ほうめんでの刷新さっしん運動うんどう展開てんかいした[1]。そして、「しん仏教ぶっきょう」のみならず「きゅう仏教ぶっきょう」においても重要じゅうよう役割やくわりになったのが、かんそう天皇てんのうから得度とくどゆるされ、国立こくりつ戒壇かいだんにおいて授戒じゅかいをうけたふつそう)の制約せいやくからはなたれた遁世とんせいそうかんそう世界せかいから離脱りだつして仏道ぶつどう修行しゅぎょうつとめるふつそう)の存在そんざいであった[1][2]

しん仏教ぶっきょう」6むね概要がいよう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」とは、一般いっぱんにはつぎの6むねしめしている。

宗派しゅうは 開祖かいそ 教理きょうり特色とくしょく 支持しじそう
浄土宗じょうどしゅう 法然ほうねんみなもとそら
1133ねん-1212ねん
むずかしい教義きょうぎることも、くるしい修行しゅぎょうも、みやつこてらみやつことうみやつこほとけ必要ひつようない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」をとなえることが大切たいせつだとく。 きょう公家くげ武士ぶし庶民しょみん
浄土真宗じょうどしんしゅう
真宗しんしゅう一向いっこうむね
親鸞しんらん
1173ねん-1262ねん
である法然ほうねんおしえを継承けいしょう展開てんかい深化しんかさせる[3]一念いちねん発起ほっきいち信心しんじんをおこして念仏ねんぶつとなえれば、ただちに往生おうじょう決定けっていする)や悪人あくにんせいせつく。 地方ちほう武士ぶし農民のうみん、とくに下層かそうみん
時宗じしゅう
どきしゅ遊行ゆぎょうむね
一遍いっぺん智真ちしん
1239ねん-1289ねん
さん念仏ねんぶつしるしたさつくばり、けとったもの往生おうじょうさせる)→男女だんじょ区別くべつきよし不浄ふじょう信心しんじん有無うむさえわず、まんにん念仏ねんぶつとなえればすくわれるとく。 全国ぜんこく武士ぶし農民のうみん
法華宗ほっけしゅう
日蓮宗にちれんしゅう
日蓮にちれん
1222ねん-1282ねん
法華経ほけきょうこそが唯一ゆいいつ釈迦しゃかおしえであり、その経典きょうてん完成かんせいもしくはあやまりのほうであるとして、題目だいもく(「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」)唱和しょうわによりすくわれるとく。辻説法つじせっぽう布教ふきょうした。末法まっぽう主張しゅちょうし、それを実践じっせんしたため、日本にっぽん仏教ぶっきょうにおける破戒はかい助長じょちょうした。 下級かきゅう武士ぶし商工しょうこう業者ぎょうしゃ
臨済宗りんざいしゅう 栄西えいさい
1141ねん-1215ねん
坐禅ざぜんみながら、あたえる問題もんだいを1つ1つ解決かいけつしながら(公案こうあん問答もんどう)、さと到達とうたつするとく。政治せいじつうじ、幕府ばくふ保護ほご統制とうせいける。 公家くげきょう鎌倉かまくら上級じょうきゅう武士ぶし地方ちほう有力ゆうりょく武士ぶし
曹洞宗そうとうしゅう 道元どうげん
1200ねん-1253ねん
ただひたすら坐禅ざぜんむこと(只管ひたすらすわ)でさとにいたることを主眼しゅがんとし、世俗せぞくまじわらずにきびしい修行しゅぎょうをおこない、政治せいじ権力けんりょく接近せっきんしないことをく。 地方ちほう中小ちゅうしょう武士ぶし農民のうみん

すなわち、他力本願たりきほんがんむねとする浄土じょうどけい諸宗しょしゅう浄土宗じょうどしゅう浄土真宗じょうどしんしゅう時宗じしゅう)、天台宗てんだいしゅうけい法華宗ほっけしゅう日蓮宗にちれんしゅう)、不立文字ふりゅうもんじむねとする禅宗ぜんしゅうけい臨済宗りんざいしゅう曹洞宗そうとうしゅうである。

鎮護ちんご国家こっか」の思想しそうのもと、律令りつりょう国家こっかによって保護ほごされた奈良なら時代じだい南都なんとろくむね奈良なら仏教ぶっきょう)が仏教ぶっきょう研究けんきゅうしゃ集団しゅうだんとしての性格せいかくをもち[2]、また、平安へいあん仏教ぶっきょうにおいては、学問がくもんてき能力のうりょく必要ひつようとした顕教けんぎょうにしても、きびしい修行しゅぎょう超人ちょうじんてき能力のうりょく前提ぜんていとする密教みっきょうにしても、貴族きぞく仏教ぶっきょうとしての性格せいかくまぬかれなかったのにたいして、上記じょうきの6むねしゅとしてあらたに台頭たいとうしてきた武士ぶし階級かいきゅう一般いっぱん庶民しょみんへとひろがっていった。

国風くにぶり文化ぶんか隆盛りゅうせいした浄土じょうどきょうにしても、平安へいあん時代じだいにあっては、阿弥陀堂あみだどう建立こんりゅう盛行せいこうにみられるように経済けいざいりょくうらづけあってのものであったが、それにたい鎌倉かまくら仏教ぶっきょうは、がいして、

  • えきぎょう(いぎょう)…きびしい修行しゅぎょうではない
  • 選択せんたく(せんちゃく)…救済きゅうさい方法ほうほうひとえら
  • 専修せんしゅう(せんじゅ)…ひたすらに

しょ特徴とくちょうゆうするといわれ、とく念仏ねんぶつおもんじる浄土じょうどけい浄土宗じょうどしゅう浄土真宗じょうどしんしゅう時宗じしゅう顕著けんちょにみられる。浄土じょうどけいしょもんはみずからを「他力たりきえきぎょうもん」としょうし、禅宗ぜんしゅう臨済宗りんざいしゅう曹洞宗そうとうしゅう)の実践じっせんする坐禅ざぜんを「自力じりき」のわざであり、「難行なんぎょう」であると批判ひはんしたが、さと到達とうたつする方法ほうほうとしてひとつをえらび、それにむありかたにおいては、禅宗ぜんしゅうもまた鎌倉かまくら時代じだい成立せいりつしたほかの「しん仏教ぶっきょう諸派しょは共通きょうつうする要素ようそをもっていた。

12世紀せいきからのだい転換期てんかんきにあって、ひとびとは相次あいつ戦乱せんらん飢饉ききん末法まっぽう到来とうらい実感じっかんし、あたらしいすくいを仏教ぶっきょうもとめた。こうした要望ようぼうにこたえたのが、信心しんじん修行しゅぎょうのありかた着目ちゃくもくした念仏ねんぶつ題目だいもく、およびぜんおしえであった。これらは、庶民しょみん新興しんこう武士ぶし階級かいきゅうにも受容じゅようできる仏教ぶっきょうのありかただったのである。そして、民衆みんしゅう生活せいかつ奥深おくふか浸透しんとうしていったてんで、鎌倉かまくら仏教ぶっきょう(「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」)は、大陸たいりくからつたわった仏教ぶっきょうの「日本にっぽん」をしめ現象げんしょうとして説明せつめいされる[4]

浄土じょうどけい諸宗しょしゅうひらきむね[編集へんしゅう]

法然ほうねん浄土宗じょうどしゅう[編集へんしゅう]

法然ほうねんみなもとそら

美作みさくこく豪族ごうぞくいえまれた法然ほうねん(1133ねん-1212ねん)は、9さいのとき、おな荘園しょうえん武士ぶし夜討ようちにあって殺害さつがいされたちち漆間うるまこく遺言ゆいごんにしたがい、その菩提ぼだいをとむらうため仏門ぶつもんはいった[5]1147ねん久安ひさやす3ねん)、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ戒壇かいだん天台座主てんだいざしゅくだりげんを戒師として授戒じゅかいけた[2]当初とうしょ山門さんもん比叡山ひえいざん)ですめらぎえんらのもとで天台宗てんだいしゅう教学きょうがくまなんだが、そこでの生活せいかつにあきたらず、「さとり」の仏教ぶっきょうではなく、「すくい」の仏教ぶっきょうもとめ、黒谷くろたに別所べっしょ[注釈ちゅうしゃく 1] にうつり浄土じょうどきょう学僧がくそうとしてられたあきらそらまなび、「法然ほうねんぼうげんそら」とごうした[5][6][7]一切経いっさいきょうむこと5かいにおよび、その学識がくしきたかさは「知恵ちえだいいち法然ほうねんぼう」とばれるほどであった[5][8]あきらあきやその良忍りょうにん融通ゆうずう念仏宗ねんぶつしゅう開祖かいそ)は、源信みなもとのまことの『往生おうじょうようしゅう』にはっする浄土じょうどきょうおしえを信奉しんぽうした。しかし、浄土じょうど往生おうじょうする行法ぎょうほうとしては念仏ねんぶつ以外いがい諸行しょぎょうみとめていた。

1175ねんうけたまわやす5ねん)、黒谷くろたに別所べっしょでの修行しゅぎょうをへた法然ほうねんは、もっぱら阿弥陀あみだほとけ誓願せいがんしんじ「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と念仏ねんぶつとなえれば、死後しご平等びょうどう往生おうじょうできるという専修せんしゅう念仏ねんぶつおしえをき、中国ちゅうごくとうだいそう善導ぜんどう著作ちょさくかん無量むりょう寿ことぶきけい』に依拠いきょして浄土宗じょうどしゅうひらいた[5][6][注釈ちゅうしゃく 2]阿弥陀あみだふつ誓願せいがんわたる陀の本願ほんがん)とは、阿弥陀あみだふつがまだ「法蔵ほうぞう比丘びく」とよばれる修行しゅぎょうしゃだったときにてた48のねがいのことであり、また、これらのねがいがすべて成就じょうじゅしなければふつとはならないとちかい、すべての衆生しゅじょうかなら救済きゅうさいしようとしたことをす。ところで、すでに法蔵ほうぞう比丘びくじゅうこうのむかしにさとりをひらいてふつとなっているのだから、ねがいはすべて成就じょうじゅされていることとなる[8]法然ほうねんは、阿弥陀あみだふつおおくのくだりのなかから48をえらび、さらにそのなかでもっと平易へいいくだりだいじゅうはちねがい念仏ねんぶつぎょうなのであるから、ひとは、ただひたすらそのことをしんじ、念仏ねんぶつとなえればよいといたのである[8]。ここでは、あらわみつ修行しゅぎょうのすべては難行なんぎょうざつぎょうとしてしりぞけられ、念仏ねんぶつとなえるえきぎょうのみが正行まさゆきとされた[6][9]法然ほうねん浄土じょうどもん以外いがいおしえを「せいみちもん」とんで否定ひていし、ふつそうたちがくちでは戒律かいりつたっとびながらも実際じっさいには退廃たいはいした生活せいかつおくっている現状げんじょう批判ひはんした[5]

1186ねん文治ぶんじ2ねん)、大原おおはらかちりんいん丈六じょうろくどうに、延暦寺えんりゃくじえいべんさとしうみあかししんさんろんむねあかりあまね法相ほうしょうむね貞慶じょうけい嵯峨さが往生おうじょういん念仏ねんぶつぼう大原おおはら来迎らいごういんはちすちぎり、それに念仏ねんぶつそうじゅうみなもとら20めいをこえる学僧がくそうや300めいをこす聴衆ちょうしゅうあつまり、法然ほうねん真意しんい大原おおはら問答もんどうがおこなわれている[7]。ここで、法然ほうねんは「らんそう凡夫ぼんぷ」と自己じこ規定きていし、それゆえ観念かんねんふつ浄土じょうどしんおもえがいてねんずること)ではなくたたえねんふつ浄土じょうどたたえること)、かんぼとけほとけかんずること)ではなく念仏ねんぶつほとけねんずること)に専修せんしゅうできると諄々じゅんじゅんいていった。これは、「鎌倉かまくら仏教ぶっきょう」の総称そうしょうされる仏教ぶっきょう変革へんかく運動うんどうはじまりをしめ歴史れきしじょういち転換てんかんてんとなった[7]

東山ひがしやま吉水よしみず本拠ほんきょ念仏ねんぶつ信仰しんこういた法然ほうねんおしえは、摂関せっかん九条くじょうけんしん時代じだい到来とうらい不安ふあんをかかえる中央ちゅうおう貴族きぞく平重衡たいらのしげひらなど上級じょうきゅう武士ぶし、さらに一般いっぱん武士ぶし庶民しょみんにもひろまった[6][8]1189ねん文治ぶんじ5ねん)にはけんじつ授戒じゅかいしており、1190ねんたて久元ひさもとねん)には東大寺とうだいじだい勧進かんじんしょくじゅうみなもともとめにおうじて、東大寺とうだいじ浄土じょうどさんけい講説こうせつをおこなった。けんもとめにこたえて、その教義きょうぎ弟子でししるさせた著作ちょさくが『選択せんたく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう』であり、その完成かんせいは1198ねんたてひさ9ねん)ころとかんがえられる[注釈ちゅうしゃく 3]。また、法然ほうねんおしえはきょうばかりではなく、熊谷くまがい直実なおみ宇都宮うつのみや頼綱よりつな結城ゆうき朝光ともみつ東国とうごく武士ぶし農民のうみんにもひろがっていった[5]

戦乱せんらんにあって、つねにきるかぬかの生活せいかつ武士ぶしたちにとって法然ほうねんおしえはあたらしいすくいになったのみならず、荘園しょうえん支配しはいする公家くげ天台宗てんだいしゅう真言宗しんごんしゅう寺院じいん神社じんじゃなど既存きそん権威けんい権力けんりょく対抗たいこうしていくため、阿弥陀如来あみだにょらいのみに帰依きえする一神教いっしんきょうてき信仰しんこうれたのである[5]日本にっぽん仏教ぶっきょう史上しじょうはじめて、一般いっぱん女性じょせいにひろく布教ふきょうをおこなったのも法然ほうねんであり、かれは国家こっか権力けんりょくとの関係かんけいちきり、個人こじん救済きゅうさい専念せんねんする姿勢しせいしめした[10]

こうした専修せんしゅう念仏ねんぶつおしえはきゅう仏教ぶっきょうからのはげしい反発はんぱつけた。天台座主てんだいざしゅ慈円じえんは、法然ほうねん称名しょうみょう念仏ねんぶつとなえ、それ以外いがい勤行ごんぎょうをしてはならないといたことから「おろかなあま入道にゅうどう」のよろこぶところとなり、無知むち蒙昧もうまいもの念仏ねんぶつれられたのだと批判ひはんしている[6]。1204ねん元久もとひさ元年がんねん)には、法然ほうねん国家こっか権力けんりょくによる弾圧だんあつ回避かいひしようとなな箇条かじょうせい弟子でしたちにしめし、その同意どういもとめた。しかし、法相ほうしょうむね貞慶じょうけい解脱げだつ)から批判ひはんされ、南都なんと北嶺きたみね大衆たいしゅうからもうったえられて、1207ねんたてひさし2ねんうけたまわもと元年がんねん)、国家こっかからのきびしい弾圧だんあつにさらされた(うけたまわもと法難ほうなん[6]法然ほうねん流刑りゅうけいへのたび途中とちゅうでも布教ふきょうをつづけ、塩飽しわくとう讃岐さぬきこく)にいたが10ヶ月かげつあまりでゆるされた[5]。こののちすう年間ねんかん摂津せっつこくにとどまり、帰京ききょうをゆるされて1211ねんけんれき元年がんねん)に東山ひがしやま大谷おおやにうつったが、翌年よくねん同地どうちぼっした[5]。なお、華厳宗けごんしゅう高弁こうべん明恵あきえ)は法然ほうねん死去しきょ直後ちょくご、『選択せんたく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう批判ひはんしょである『摧邪』をあらわしている。

おんいん御影堂ごえどう国宝こくほう

浄土宗じょうどしゅうひろがった背景はいけいには、念仏ねんぶつというさくぜん善行ぜんこうむこと)をおこなうことによってすくわれるという、その簡便かんべんせい理由りゆうがあったが、いちめんでは、念仏ねんぶつが「のうごえ(のうしょう)」ともばれたように、「おとげい」(おと芸能げいのう)という性格せいかくゆうしていたからでもあった[6][注釈ちゅうしゃく 4]。また、専修せんしゅう念仏ねんぶつおしえは、浄土じょうどもんのなかに念仏ねんぶつとなえる回数かいすう多寡たかによりねんよし一念いちねんよし論議ろんぎんでおり、法然ほうねん自身じしん一念いちねん立場たちばみとめながらも自身じしんねんであったが、後述こうじゅつする弟子でし親鸞しんらん一念いちねん立場たちばった[11]

法然ほうねん門下もんかからはおおくの弟子でしがあらわれ、浄土宗じょうどしゅうおしえをひろめていった。のちに浄土真宗じょうどしんしゅう開祖かいそとなった親鸞しんらんもそのひとりであったが、筑前ちくぜんこく武士ぶしいえまれたべんちょうは、京都きょうと法然ほうねん門下もんかとなり、そのおしえを筑後ちくごこく善導寺ぜんどうじ福岡ふくおかけん久留米くるめ)を本拠ほんきょ九州きゅうしゅう一帯いったいひろげて「鎮西ちんぜい」をて、その弟子でし石見いわみこく出身しゅっしん良忠よしただ東国とうごくわたって熱心ねっしん布教ふきょうつとめたので鎮西ちんぜい関東かんとう地方ちほうにもひろまった[12]。また、京都きょうと出身しゅっしんあかしむなし法然ほうねん没後ぼつご京都きょうと西山にしやまぜんみねてら本拠ほんきょとして「西山にしやま」をしょうした。あかしそらは、大和やまとこく當麻寺たいまでら伝説でんせつとしてられていた当麻とうま曼荼羅まんだらし、浄土宗じょうどしゅうおしえをそこにいだして布教ふきょうつとめた[12]

このように、浄土宗じょうどしゅうおしえは全国ぜんこくひろまっていったが、1227ねんよしみろく3ねん)にふたた弾圧だんあつけた。比叡山ひえいざん僧兵そうへいによって法然ほうねんはかがあばかれる事件じけんしょうじたが、その一方いっぽう教義きょうぎ朝廷ちょうてい内部ないぶへもふかみ、信者しんじゃ獲得かくとくしていった[12]弟子でしみなもとさとしは、大谷おおや法然ほうねん遺骨いこつをおさめ、法然ほうねんつき命日めいにちごとにひらかれていたおんこうをもとにして、のちの浄土宗じょうどしゅう総本山そうほんざんおんいん創建そうけんした[5]

親鸞しんらん浄土真宗じょうどしんしゅう[編集へんしゅう]

親鸞しんらん

日野ひの出身しゅっしんともいわれる親鸞しんらん(1173ねん-1262ねん)は、9さい比叡山ひえいざんにのぼり、「はんえん」のをあたえられた[13]。20ねんちかくにわたって延暦寺えんりゃくじまなんだがさとることができず、1201ねんたてひとし元年がんねん)、きょうちゅう庶民しょみん信仰しんこうしていた六角ろっかくどう京都きょうと中京ちゅうきょう)に参籠さんろうし、そこで聖徳太子しょうとくたいしゆめつげによって法然ほうねんもんをたたいた[12]親鸞しんらん法然ほうねんふか傾倒けいとうして「もし法然ほうねん上人しょうにんにだまされて、念仏ねんぶつによって地獄じごくちることとなってもけっしてやまない」とちかったといわれる[13]

1207ねんうけたまわもと法難ほうなんではそう身分みぶんをうばわれて越後えちごこく配流はいるとなったが4ねんにゆるされた。すでに肉食妻帯にくじきさいたい実行じっこうにうつしていた親鸞しんらんは、ほどなく法然ほうねんるがそのまま越後えちごにとどまった。1214ねんたてたもつ2ねん)、42さい親鸞しんらんつま恵信えしんどもたちをともない東国とうごくへの布教ふきょう旅立たびだち、常陸ひたちこく稲田いなだ草庵そうあんいとなんだ[13]

親鸞しんらんは、である法然ほうねんおしえを継承けいしょう展開てんかい深化しんかさせ[3]、『教行信証きょうぎょうしんしょう』の著述ちょじゅつ稲田いなだ開始かいしする。絶対ぜったい他力たりきとなえ、阿弥陀あみだほとけしんじるしんさえあればよく(信心しんじん為本ためもと)、しんじることによって往生おうじょう決定けってい(けつじょう)し(信心しんじん決定けってい)、また、おかしたつみ自覚じかくする煩悩ぼんのうふかもの悪人あくにん)こそ、むしろふつすくおうとする人間にんげんであるという悪人あくにんせいせついて、東国とうごく武士ぶし農民のうみんけいれられた[12]

親鸞しんらんにおける徹底てっていした絶対ぜったい他力たりき姿勢しせいは、願力がんりき回向えこうせつによくあらわれている。念仏ねんぶつしゃである自己じこが、阿弥陀あみだふつ誓願せいがんわたる陀の本願ほんがんだいじゅうはちねがいしめされた「浄土じょうどまれたいとしんねがしん」にりきることは、法然ほうねんにあっては念仏ねんぶつしゃがまずもってそなえておかなければならない条件じょうけんとされていたが、親鸞しんらんにあっては、それすらも阿弥陀あみだぼとけがわからすでに回向えこうされているとし、しんずるしんさえもふくめて極楽往生ごくらくおうじょう必要ひつよう条件じょうけんはすべて阿弥陀あみだぼとけ願力がんりきによってすでに実現じつげんされていると[14]。したがって、ここでとなえる念仏ねんぶつは「くだり」でも「さくぜん」でもなく、そうした性質せいしつうしなって、純粋じゅんすい感謝かんしゃ意味いみとなえる報恩ほうおん念仏ねんぶつとなる[14]。これは、一種いっしゅてん台本だいほんさとし思想しそうつうじるかんがかたである[14]

悪人あくにんせいせつは、弟子でしただえんあらわした『歎異しょう』の一節いっせつ善人ぜんにんなほもて往生おうじょうをとぐ、いはんや悪人あくにんをや」で著名ちょめいであるが、これは、法然ほうねんにしたがって念仏ねんぶつぎょうをおこなっていた親鸞しんらんが、みずからをかえりみてだいじゅうはちねがいしめされるような純粋じゅんすいしんさえてない罪業ざいごうふか人間にんげんであると自覚じかくしたところにはしはっしたとかんがえられる[14]。「自力じりきさくぜんひと」すなわち「善人ぜんにん」は換言かんげんすれば不信心ふしんじんひとなのであり、それにたいして、自分じぶん罪深つみぶかさを自覚じかくし、ひたすらふつ慈悲じひにすがらざるをないひとにこそ、むしろ真実しんじつ救済きゅうさいがひらかれていると親鸞しんらん主張しゅちょうした[14]自力じりきさくぜんをなしうる「善人ぜんにん」が救済きゅうさいされるのであるならば、生業せいぎょうとして殺生せっしょうなどをいとなまざるをえないような「悪人あくにん」がいかにしてすくわれないことがあろうか、「悪人あくにん」こそはむしろ「わたる陀の本願ほんがん」のせいいん宿やどしているのではないかと親鸞しんらんかんがえたのである[9]。また、親鸞しんらん阿弥陀あみだぼとけまえでは、だれもが平等びょうどうなのであり、もなければ弟子でしもないとしておな信仰しんこうひとびとを同朋どうほう同行どうこうんだ[13]。こうした親鸞しんらんにおける思想しそう深化しんかは、常陸ひたちこくにうつった親鸞しんらんが、そこでみたひろしだい飢饉ききん1230ねん-1231ねん)の惨憺さんたんたる光景こうけい遭遇そうぐうしたこととふかくかかわっているとの指摘してきがある[9]。なお、『歎異しょう』については、室町むろまち時代ときよあらわれて浄土真宗じょうどしんしゅう一向いっこうむね)の布教ふきょう尽力じんりょくした蓮如れんにょが、歎異しょうおしえは真宗しんしゅうにとっては大切たいせつ聖教せいきょうであるので、宿善しゅくぜん(「宿世しゅくせ善根ぜんこん」のりゃく阿弥陀如来あみだにょらい救済きゅうさいされる因縁いんねんのこと)もなく仏法ぶっぽう真摯しんしのないものたいしてはむやみにませるべきものではないという趣旨しゅし奥書おくがきをしたためている[15]

1231ねんひろし3ねん以降いこう親鸞しんらんすえむすめさとししんあまをともない京都きょうとかえった。帰京ききょう生活せいかつ貧窮ひんきゅうしていたが、親鸞しんらん極楽往生ごくらくおうじょうしたものふたた現世げんせいにあらわれてひとびとをすくうというかえあい回向えこうき、『教行信証きょうぎょうしんしょう』を完成かんせいさせ、さらに、東国とうごくにのこした同朋どうほうのために和讃わさんをつくった[13]親鸞しんらんはこののち、1256ねんかんはじめ元年がんねん)、東国とうごくにあって念仏ねんぶつ呪術じゅじゅつをもちこんだ長男ちょうなんぜん義絶ぎぜつし、さい晩年ばんねんには、すべての事物じぶつふつちかいのままに姿すがたかたちや是非ぜひ善悪ぜんあく超越ちょうえつして絶対ぜったい真理しんりとしてあらわれるとして、自力じりきのはからいをすべててて阿弥陀あみだほとけちからまかせるという自然しぜんほうなんじ(じねんほうに)の境地きょうちたっした[13]。90さいぼっした親鸞しんらんは、みずからの生涯しょうがいをかえりみて罪業ざいごうふか一生いっしょうであったとし、「遺体いたいはいにして賀茂川かもがわてよ」と遺言ゆいごんした[13]

呪術じゅじゅつてき救済きゅうさいえて来世らいせへの純化じゅんかされた信仰しんこう親鸞しんらんおしえはのちに浄土真宗じょうどしんしゅうばれる教団きょうだんをかたちづくることとなり、1272ねんぶんひさし9ねん)には大谷おおや御影堂ごえどう建立こんりゅうされた[9]御影堂ごえどうは、さとししんあま再婚さいこん相手あいてである小野おのみやぜんねん所有しょゆうだったところにてられ、1321ねんげんとおる元年がんねん)には、大谷おおや本願寺ほんがんじ改称かいしょうされた。「本願寺ほんがんじ」の名称めいしょう1332ねん元弘もとひろ2ねん)に鎌倉かまくら将軍しょうぐんまもりくに親王しんのうから、その翌年よくねんには後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじ護良親王もりよししんのうから、それぞれ令旨れいしをえたものである[16]

うけたまわもと法難ほうなん信仰しんこう自由じゆう[編集へんしゅう]

1207ねん法然ほうねんひきいる吉水よしみず教団きょうだん延暦寺えんりゃくじ興福寺こうふくじによって指弾しだんされ、後鳥羽上皇ごとばじょうこうによって、専修せんしゅう念仏ねんぶつ停止ていし、および法然ほうねん門弟もんていのうち安楽あんらくぼう遵西じゅうはちすぼうら4にん死罪しざい、さらに、法然ほうねん自身じしん親鸞しんらん中心ちゅうしんてき門弟もんてい7にん流罪るざいしょせられ、法然ほうねん土佐とさこく(のち讃岐さぬきこく)に、親鸞しんらん越後えちごこくながされた。75さい法然ほうねんそう身分みぶん剥奪はくだつされて「藤井ふじい元彦もとひこ」という俗名ぞくみょうをつけられたが、「たとえ死罪しざいとなっても念仏ねんぶつ停止ていししない。辺鄙へんぴ土地とち田夫でんぷ野人やじん念仏ねんぶつすすめることができるのはむしろ朝恩ちょうおんというべきだ」とかたったといわれる[5]。34さいであった親鸞しんらんは、いたわかれ、「藤井ふじい善信よしのぶ」の俗名ぞくみょう流罪るざいとなったが、越後えちご国府こくふで「愚禿ぐとく(ぐとく)」あるいはたんに「禿かぶろ(とく)」としょうし、そうぞくそうでも俗人ぞくじんでもない、ただいち人間にんげん)の立場たちばし、終生しゅうせいこれをつらぬいた[13]親鸞しんらんはここで、朝廷ちょうていたいし「信仰しんこう自由じゆう」を主張しゅちょうし、弾圧だんあつたいする抗議こうぎ表明ひょうめいしているが、これは日本にっぽん思想しそう史上しじょう画期的かっきてきなできごとと評価ひょうかされる[10]

一遍いっぺん時宗じしゅう[編集へんしゅう]

一遍いっぺん

鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうきに「遊行ゆぎょう上人しょうにん」とばれた一遍いっぺん(1239ねん-1289ねん)は、伊予いよこく豪族ごうぞく河野こうの出身しゅっしんといわれる[17][注釈ちゅうしゃく 5]。10さいのときははくし、1250ねんけんちょう2ねん)に大宰府だざいふちかくの原山はらやまにいた浄土宗じょうどしゅう西山にしやまそうひじりいたるのもとで出家しゅっけした[2]ひじりたち紹介しょうかいにより、肥前ひぜんこく清水しみずはなだいという高僧こうそう師事しじして浄土宗じょうどしゅう教学きょうがくまなび、智真ちしんをあたえられたが、1263ねんひろちょう3ねん)にいったんは還俗げんぞくしてつまをめとってふつつかえる在俗ざいぞく生活せいかつおくった。しかし、所領しょりょうから事件じけんまれたことを契機けいきとして輪廻りんねごうとうとさい出家しゅっけ決意けつい信濃しなのこく善光寺ぜんこうじ参詣さんけいした[2][17]。そのふたたにもどり、修行しゅぎょうかさねて遊行ゆぎょう生活せいかつはいり、西国さいごく各地かくち霊場れいじょうをめぐって参籠さんろうした[17]

1274ねんぶんひさし11ねん)ころ、智真ちしん高野山こうのやま熊野くまので100日間にちかん参籠さんろうをしたとき、その満願まんがん熊野くまの権現ごんげん神託しんたくけたといわれる[17]。そのことばはよんからり、「ろく名号みょうごういちへんほう、十界依正一遍体、まんぎょうはなれねんいちへんしょう人中ひとなかじょうみょうこうはな」という(げ)のかたちになっていた。これは、かくのかしら文字もじが「ろくじゅうまんにん」となることから「ろくじゅうまんにん」と呼称こしょうされている[17]

神託しんたくにより念仏ねんぶつ信仰しんこうをさらにふかめた智真ちしんは、神託しんたくちゅうかたりより「いちへん」を自称じしょうして、空也くうや先師せんしとあおいで古代こだい以来いらい念仏ねんぶつひじり活動かつどうけついだ。以後いご15ねんにわたり、きた陸奥みちのくこく江刺えさしからみなみ薩摩さつまこく大隅おおすみこくにいたる諸国しょこくをくまなく遊行ゆうこう回国かいこくした。

時宗じしゅうでは、日常にちじょうを「臨命おわり」すなわち、毎日まいにち生活せいかつ臨終りんじゅうの「」とけとめて念仏ねんぶつとなえるかた[17]一遍いっぺんは、各地かくちで「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ決定けってい往生おうじょうろくじゅうまんにん」とられたさんかみさつ)をくばり、信仰しんこうえんをむすんだひとびとの勧進かんじんちょうきした[17]。この布教ふきょう活動かつどうさん(ふさん)といい、記帳きちょうしたひとびとはだれでも救済きゅうさい対象たいしょうとなった。

これはやがて、身分みぶん上下じょうげ賤のべつゆうさとしさとしべつ男女だんじょべつけが有無うむ、また善人ぜんにん悪人あくにん区別くべつ、さらには信心しんじん有無うむをさえうことなく、まんにん阿弥陀あみだぼとけによってすくわれるというおしえとなり、1279ねん弘安ひろやす2ねん以降いこう、そのよろこびと感謝かんしゃおもいは念仏ねんぶつによってあらわされるべきだといて信濃しなの佐久さくぐん小田切おだぎりさと踊念仏おどりねんぶつをはじめた[17]一遍いっぺんは、じゅうこう以前いぜん正覚しょうがく如来にょらいとなった阿弥陀あみだほとけと、その阿弥陀あみだほとけしんずる一念いちねん浄土じょうど往生おうじょうすることのできる衆生しゅじょうとは根本こんぽんにおいて同一どういつであるとき、「となふればほとけもわれもなかりけり。南無阿弥陀仏なむあみだぶつなむあみだほとけ」とうたっている(『一遍いっぺん上人しょうにん語録ごろく』)[18]。このように、一遍いっぺん浄土じょうど信仰しんこうには、天台宗てんだいしゅうもとさとし思想しそうとの密接みっせつ関係かんけいがうかがわれる[18]

清浄せいじょうこうてら遊行ゆぎょうてら本堂ほんどう

時宗じしゅうは、その居合いあわせたひとがつくる集団しゅうだんという意味いみ当初とうしょは「どきしゅ」と表記ひょうきされた。一遍いっぺんは、てらをつくらず、生前せいぜんみずからの著作ちょさく全部ぜんぶいてしまったが、死後しご弟子でしたちが『いちへん上人しょうにん語録ごろく』としてその教義きょうぎをまとめた。一遍いっぺん布教ふきょう勧進かんじんちょうしるしたひとは25まんにんえたといわれる[17]

時宗じしゅうおしえは踊念仏おどりねんぶつや、古来こらいかみ々への信仰しんこうんだ教義きょうぎつうじて民衆みんしゅう武士ぶしひろめられた。遊行ゆぎょう回国かいこくには、高弟こうていせい尼僧にそうちょういちがしたがっており、そのようすは絵巻物えまきもの一遍いっぺん上人しょうにんでんいちへんきよし)』にきと描写びょうしゃされている[17]。この詞書ことばがきせい戒によってかれており、法眼ほうげん絵師えしえんによってえがかれたものである[17]

いちへん没後ぼつご阿弥陀あみだほとけ真教まさのり)があらわれ、遍歴へんれきをつづけながらどきしゅをまとめていった。その阿弥陀あみだぼとけ直系ちょっけい遊行ゆぎょう)と奥谷おくたに六条ろくじょう四条しじょう一向ひたぶるなど諸派しょは[注釈ちゅうしゃく 6] のあいだに様々さまざま確執かくしつ緊張きんちょうをともないながら、時宗じしゅう教団きょうだん確立かくりつされていった。こうした状況じょうきょうは、いちへん阿弥陀あみだふつ同様どうよう当時とうじ各地かくち遍歴へんれきするひじり多数たすういて、みずからのおしえをひろめていた事実じじつ反映はんえいしている[16]時宗じしゅう本山ほんざんは、1325ねん正中せいちゅう2ねん)に呑海のひらいた神奈川かながわけん藤沢ふじさわ清浄せいじょうこうてらである。

法華宗ほっけしゅうとそのひろがり[編集へんしゅう]

日蓮にちれん法華宗ほっけしゅう[編集へんしゅう]

日蓮にちれん

一遍いっぺん活躍かつやくおなじころ、ふるくからの法華ほっけ信仰しんこうをもとに、あたらしいすくいのみちをひらいたのが日蓮にちれん(1222ねん-1282ねん)である。日蓮にちれん安房あわこくながせまぐん東条とうじょうさとまれであり、のちにみずからの出自しゅつじを「旃陀(せんだら)が」「かたうみいしちゅう賎民せんみん」としるしている[19][注釈ちゅうしゃく 7]

日蓮にちれんは、はじめ地元じもと安房あわ天台宗てんだいしゅう清澄寺せいちょうじ千葉ちばけん鴨川かもがわ)にしょうわらわとしてはいり、16さいそうとなりはちすちょう名乗なのった[19]。「日本一にっぽんいち智者ちしゃになりたい」とねがった日蓮にちれんは、はじめ鎌倉かまくらまなび、ついで京都きょうと比叡山ひえいざん南都なんとをめぐって天台てんだい教学きょうがくのみならず密教みっきょう浄土じょうどきょうぜんおしえもまなんだといわれる[19]当時とうじ天台宗てんだいしゅうそうは、園城寺おんじょうじ門徒もんとのぞけば延暦寺えんりゃくじ戒壇かいだん授戒じゅかいけることとなっていたので、日蓮にちれん受戒じゅかいしたものと推定すいていされる[2]浄土じょうどきょういちじるしい発展はってんのなか、当時とうじ比叡山ひえいざん哲学てつがくてき神秘しんぴ主義しゅぎてきてん台本だいほんさとし思想しそうがさかんで、その教義きょうぎをもって念仏ねんぶつなど新興しんこう仏教ぶっきょう運動うんどうたいする弾圧だんあつかえしたが、日蓮にちれんは、天台宗てんだいしゅうのなかにひろまりつつあった浄土じょうどきょうとの妥協だきょう反発はんぱつし、あたらしい法華ほっけ信仰しんこうをもって浄土じょうどけい対抗たいこうし、末法まっぽうにおいてひとびとをすく天台てんだい復興ふっこう決意けついした[19]日蓮にちれんは、法華経ほけきょう妙法みょうほう蓮華れんげけい)を釈迦しゃかただしいおしえとしてえらび、「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」という題目だいもくとなえること(唱題)を重視じゅうしした。「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」とは「法華経ほけきょう帰依きえする」のであり、「題目だいもく」は経典きょうてん表題ひょうだいとなえることに由来ゆらいする[19]

1253ねんけんちょう5ねん)、日蓮にちれん安房あわかえり、清澄山きよすみやまあさひもり題目だいもくを10かいとなえて立教りっきょうひらきむね宣言せんげんした[19]翌年よくねん鎌倉かまくらうつり、名越なごやあんをむすんだが、このころ鎌倉かまくらでは大火たいか洪水こうずい地震じしん相次あいつぎ、疫病えきびょうもしばしば流行りゅうこうした。1259ねんせいもと元年がんねん)には飢饉ききん全国ぜんこくひろがった[19]日蓮にちれんは、これらちつづく天変地異てんぺんちい末法まっぽう到来とうらいしめすものであり、邪教じゃきょう専修せんしゅう念仏ねんぶつおしえ)のために、ただしいほうである法華経ほけきょう見失みうしなわれてきたためであるとして、1260ねんぶんおう元年がんねん)、幕府ばくふ法華経ほけきょうにもとづく政治せいじおこなうようもとめる『たて正安まさやす国論こくろん』をあらわし、執権しっけん北条ほうじょうよりゆき側近そっきん提出ていしゅつした[19]。このまま「邪教じゃきょう」を放置ほうちすれば、経典きょうてんしるされたさんわざわいなななんのうち、まだこっていない「さかい叛逆はんぎゃくなん」(反乱はんらん)と「他国たこくおかせ逼難」(外国がいこくから侵略しんりゃくをうける災難さいなん)もかならこるであろうとうったえたのである[20]日蓮にちれん弟子でしたちは幕府ばくふ期待きたいをかけ、公衆こうしゅう面前めんぜんでの法論ほうろんのぞんだが、日蓮にちれん行動こうどう念仏ねんぶつしゃたちのいかりをい、草庵そうあんちされた(松葉まつばたに法難ほうなん)。この法難ほうなんは、『たて正安まさやす国論こくろん』をときよりゆき建白けんぱくしたやく1ヶ月かげつのことであり、襲撃しゅうげき背後はいごには幕府ばくふ有力ゆうりょくしゃやそれにつらなるふつそうがいたとかんがえられており、幕府ばくふによる迫害はくがいのなかでも最大さいだいのものであった[注釈ちゅうしゃく 8]日蓮にちれんはこののち、一時いちじ下総しもうさこく避難ひなんしたがふたた鎌倉かまくらにもどり、幕府ばくふによって2ねんあま伊豆いずこく配流はいるされた。

ゆるされて故郷こきょうにもどった日蓮にちれんふたた鎌倉かまくら活動かつどうした。権力けんりょくこごめせず、辻説法つじせっぽうによって法華経ほけきょうへの帰依きえをうったえ、鎌倉かまくらしょてら宗論しゅうろんをいどんで、「念仏ねんぶつあいだぜん天魔てんま真言しんごん亡国ぼうこくりつ国賊こくぞく」の四箇しか格言かくげん他宗たしゅうはげしく攻撃こうげきしながら、国難こくなん到来とうらい予言よげんした。かれひらいた法華宗ほっけしゅう日蓮宗にちれんしゅう)は関東かんとう武士ぶしそう商工しょうこう業者ぎょうしゃ中心ちゅうしんひろまっていったが、りしも1268ねんぶんなが5ねん)にはもとからの国書こくしょ幕府ばくふとどき、日蓮にちれんは『たて正安まさやす国論こくろん』で指摘してきした「他国たこくおかせ逼難」の予言よげん的中てきちゅうしたとして、執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅうたいし、念仏ねんぶつぜん退しりぞけて国難こくなんへの対策たいさくっているみずからを国師こくしとしてもちいるよううったえた[19]。また、時宗じしゅう平頼綱たいらのよりつならんけい道隆みちたか極楽寺ごくらくじ忍性にんしょう良観りょうかん)などに書状しょじょうおくり、宗派しゅうはとのおおやけじょう対決たいけつせまった。日蓮にちれんおしえには「きゅう仏教ぶっきょうてき要素ようそおおふくまれ、「わが日本にっぽんはしらとならん」とべて、法華ほっけ信仰しんこう依拠いきょしなければくにほろぶと鎌倉かまくら幕府ばくふせまったのも鎮護ちんご国家こっか思想しそうのなごりをしめ現象げんしょうといえる[10]

久遠寺くおんじ本堂ほんどう

1271ねんぶんなが8ねん)、日蓮にちれん幕府ばくふ他宗たしゅう批判ひはんしたとして佐渡さどこく配流はいるされた。この時期じき日蓮にちれん自身じしん末法まっぽう法華経ほけきょうひろめるうえこう菩薩ぼさつであるとの自覚じかくたっし、『ひらきしょう』(1272ねん)をあらわすなど独自どくじ教義きょうぎ展開てんかいさせた[21]1274ねんぶんなが11ねん)、日蓮にちれんゆるされて鎌倉かまくらもどったが、ほどなく日蓮にちれんふか帰依きえした甲斐かいこく地頭じとう波木井はきいちょうにより寄進きしんされた身延山みのぶさんうつり、久遠寺くおんじ山梨やまなしけん身延みのぶまち)をひらいた。久遠寺くおんじには、天台宗てんだいしゅう下級かきゅうそう出身しゅっしんしゃなどすうじゅうにん弟子でしあつまり、武士ぶし地主じぬし農民のうみん職人しょくにんなどの帰依きえしゃ増加ぞうかしていった[21]

日蓮にちれんは、1276ねん建治けんじ2ねん)の『みょうみつ上人しょうにん消息しょうそく』のなかで自身じしんが「戒のそう」でうしうまのごときものであるとし、そのような自分じぶん法華経ほけきょうくだりによってすくわれたとしている。佐渡さど配流はいる以降いこう(「」)の日蓮にちれん思想しそうは、佐渡さど配流はいる以前いぜん(「まえ」)の外向がいこうてき姿勢しせいにくらべ内面ないめんてき性格せいかくつよめられており、自己じこ人間にんげん以下いかもの戒で罪深つみぶかものとする謙虚けんきょ姿勢しせいには親鸞しんらん悪人あくにんせいつうじる要素ようそみとめられる[20]日蓮にちれんは、また『本尊ほんぞん問答もんどうしょう』のなかで自身じしんを「海人あまなり」、『渡御とぎょ勘気かんきしょう』では「海辺うみべの旃陀なり」などときしており、自分じぶん信仰しんこうは、この時代じだいしいたげられていた底辺ていへんひとびとの救済きゅうさいつよ動機どうきとしていることを表明ひょうめいしているのである。

法華ほっけほんもんおし[編集へんしゅう]

法華宗ほっけしゅうひろがりの背景はいけいには、それにさきだつ持経じきょう経典きょうてんへの信仰しんこう)の伝統でんとうがあった[22]。それは、写経しゃきょううめけい暗誦あんしょう(あんじゅ)などのかたちおこなわれていたが、厳島いつくしま神社じんじゃへの『平家ひらかおさむけい』や、「法華ほっけしゃ」としょうされてつね法華経ほけきょう暗誦あんしょうしていたこう白河しらかわ法皇ほうおう、やはり「法華ほっけ八幡やはたしゃ」としょうされたみなもと頼朝よりともなど権力けんりょくしゃにもひろくみられた信仰しんこうのありかたであった[22]。また、平安へいあん時代じだい末期まっき陸奥みちのくこく宮城みやぎぐん松島まつしまにあって12年間ねんかん法華経ほけきょう読誦とくしょうしたふつのように、鳥羽とば法皇ほうおうから仏像ぶつぞう器物きぶつおくられ、法華ほっけ行者ぎょうじゃとしてひろられたそうもいた[23]

法華経ほけきょうはまた、元来がんらい天台宗てんだいしゅう理論りろん根拠こんきょをなすものとして重視じゅうしされてきた経典きょうてんであり、平安へいあん時代じだい初期しょき最澄さいちょうはじまる天台宗てんだいしゅうは「天台てんだい法華宗ほっけしゅう」ともしょうされてきたが、日蓮にちれんはその伝統でんとうけつぎながらも、かれ独自どくじ法華宗ほっけしゅう、すなわち日蓮宗にちれんしゅうはじめたのである[20]

日蓮にちれん自筆じひつといわれるじゅうかい曼荼羅まんだら鎌倉かまくらみょう本寺ほんじくら

日蓮にちれんおしえは、法華経ほけきょう唯一ゆいいつ正法しょうぼうとし、時間じかん空間くうかん超越ちょうえつした絶対ぜったい真理しんりとするものであり、教義きょうぎ信仰しんこう否定ひていされる[21]題目だいもく真理しんりそのものであり、そのままぜん宇宙うちゅうあらわ曼荼羅まんだらであるとされ、日蓮にちれん中央ちゅうおう題目だいもくしるして周囲しゅういしょふつしょかみはいした法華ほっけ曼荼羅まんだら文字もじ曼荼羅まんだら)を本尊ほんぞんほんもん本尊ほんぞん)とした。また、きょうくにじょのいずれにおいても法華経ほけきょう至高しこうであるとする「つなきょうばん」をてた[21]。すなわち、「きょう」(おしえ)にはおいては、法華経ほけきょうのうち前半ぜんはん14しょうを迹門、後半こうはん14しょうほんもんとし、ほんもんこそひとびとを救済きゅうさいする法華経ほけきょうであるとし、「」(素質そしつ能力のうりょく)においては、末法まっぽうきて素質そしつ能力のうりょく低下ていかした人間にんげんにふさわしいおしえは法華経ほけきょうなのであり、「」では、現在げんざい末法まっぽうであることから法華経ほけきょう正法しょうぼうとされ、「くに」では、大乗だいじょう仏教ぶっきょう流布るふした日本にっぽんこくにふさわしいのは法華経ほけきょうであり、「ついで」(順序じゅんじょ)では、最後さいご流布るふするのは法華経ほけきょうほんもんおしえであるとした[21]

さらに日蓮にちれんは、天台てんだい教学きょうがくを迹門(しゃくもん)の法華経ほけきょうであり「一念いちねんさんせん」とんで、その思弁しべんてき観念かんねんてきなありかた批判ひはんし、みずからのおしえをほんもんとして「こと一念いちねんさんせん」をき、実践じっせんてき宗教しゅうきょうてきくだりとしての唱題をとなえた[21][注釈ちゅうしゃく 9]とくに「」は、法華経ほけきょう呪力じゅりょく依存いぞんするのではなく、法華経ほけきょうかれた精神せいしん実践じっせんするもの、すなわち「法華経ほけきょう行者ぎょうじゃ」としての自覚じかくふかまっていった[20]日蓮にちれんはまた、ほう真理しんり)をりどころとすべきであって、ひと権力けんりょく)をりどころとしてはならないともいている。かれは、仏法ぶっぽう王法おうほう一致いっちするおうふつめいあい理想りそうとし、ただしいほうもとづかなければ、ただしい政治せいじおこなわれないと主張しゅちょうした[21]。また、王法おうほう政治せいじ)の主体しゅたい天皇てんのうとしたうえで、天皇てんのうであっても仏法ぶっぽうそむけば仏罰ぶつばつをこうむるとかんがえ、宗教しゅうきょうじょうでの天皇てんのう権威けんい一切いっさいみとめない仏法ぶっぽう絶対ぜったい立場たちばった[21]

つなきょうばん」のなかで、信仰しんこうにおける重要じゅうよう契機けいきとして「」や「くに」をかかげるありかたから、こんにちでも、日蓮宗にちれんしゅうけいかく宗派しゅうはにおいては、宗派しゅうはにはあまりみられない政治せいじ問題もんだいへの積極せっきょくてきかかわりがられる[21]

禅宗ぜんしゅうひろがりと幕府ばくふによる保護ほご[編集へんしゅう]

禅宗ぜんしゅうひろまりと日本にっぽん達磨だるまむね[編集へんしゅう]

インド達磨だるま大師だいし(ボーディダルマ)にはっし、坐禅ざぜんんで精神せいしん統一とういつをはかり、みずからのちからさとをえようとするぜんおしえは、そう上流じょうりゅう階級かいきゅうのあいだにひろまっていた。ぜんそのものは日本にっぽんには奈良なら時代じだいにすでにつたわっていたが、そうでの禅宗ぜんしゅう隆盛りゅうせいにより平安へいあん末期まっき以降いこうあらためて注目ちゅうもくされるようになった。栄西えいさいよりすこまえにあらわれた大日だいにち房能ふさよしにんなま没年ぼつねんしょう)は、摂津せっつこく水田すいでん大阪おおさか吹田すいた)に三宝さんぼうてら建立こんりゅうし、日本にっぽんもっとはや禅宗ぜんしゅうをうちたてようとしたそうであった。のうにん活動かつどう当時とうじ社会しゃかいおおきな影響えいきょうあたえたが、かれひらいた日本にっぽん達磨だるまむねは、おおくのひとびとに教義きょうぎひろめる過程かてい中心ちゅうしんうしなってしまった[24]

しかし、後述こうじゅつする栄西えいさい道元どうげん登場とうじょうによって、禅宗ぜんしゅう急速きゅうそくひろがっていった。阿弥陀あみだぼとけへの絶対ぜったいてきすくいをもとめる浄土じょうどもん他力たりきおしえにたいし、自力じりき往生おうじょうさとろうとする禅宗ぜんしゅうおしえは自力じりき問題もんだい解決かいけつはか武士ぶし時代じだい風潮ふうちょうとも合致がっちしていた[25]

栄西えいさい臨済宗りんざいしゅう[編集へんしゅう]

栄西えいさい

備中びっちゅうこく吉備津きびつ神社じんじゃ神官しんかんいえまれた栄西えいさい(1141ねん-1215ねん)は、1154ねん久寿きゅうじゅ元年がんねん)に比叡山ひえいざん出家しゅっけ得度とくどしたのち、 2にわたってそうみなみそう)へわたった。1度目どめは、天台てんだい教学きょうがくまなぶため1168ねんじんやす3ねん)に天台山てんだいざんまんねんてらおとずれたが、そこはすでにぜん寺院じいんわっていた。栄西えいさいぜん魅力みりょくかんじたが、どう時期じきそう留学りゅうがくしていた念仏ねんぶつそうじゅうみなもとすすめで短期間たんきかん帰国きこくし、『天台てんだいしょううと』60かん天台座主てんだいざしゅけんじた[26]1187ねん文治ぶんじ3ねん)、栄西えいさいふたたわたりそうし、あしかけ5ねん天台山てんだいざん天童てんどうさん(ともに中国ちゅうごく浙江せっこうしょう)で臨済ぜんまなび、きょあん壊敞より嗣法をけて、帰国きこく1191ねんたてひさ2ねん)に臨済宗りんざいしゅうをひらいた[2][26]当初とうしょせいぶくてらをひらいた博多はかた香椎かしい平戸ひらどなど九州きゅうしゅう各地かくち布教ふきょうして臨済ぜん紹介しょうかいつとめていたが、やがてきょうにもどり、ぜんこそが末法まっぽうにおけるただしいおしえだとして、ぜんによる天台てんだい復興ふっこうとなえた[26]。しかし、たてひさ5ねん1194ねん7がつ5にち日本にっぽん達磨だるまむね大日だいにち房能ふさよしにんらの摂津せっつこく三宝さんぼうてら教団きょうだんとともに禅宗ぜんしゅう停止ていし宣下せんげくだされている[26][27]

筑前ちくぜんこく筥崎福岡ふくおかひがし)の良弁りょうべんという人物じんぶつ[注釈ちゅうしゃく 10] 九州きゅうしゅうにおいてぜん入門にゅうもんするひとびとがえたことを延暦寺えんりゃくじこういたずらうったえ、栄西えいさいによるぜん弘通ぐずう停止ていしするよう朝廷ちょうていにもはたらきかけたためであり、たてひさ6ねんには関白かんぱくきゅうじょうけん栄西えいさいきょうし、だい舎人とねりあたましょくにあった白河しらかわなかに「ぜんとはなにか」を聴聞ちょうもんさせ、大納言だいなごんしつそうよりゆきたいしてはその傍聴ぼうちょうにんにあたらせている[27]

栄西えいさいはこうしたうごきにたいし、おそくとも1198ねんたてひさ9ねん)には、「おおいなる哉。しんや」ではじまる『きょうぜん護国ごこくろん』をあらわし、戒律かいりつがすべての仏法ぶっぽう基礎きそであり、ぜんは戒を基本きほんとすること、また、禅宗ぜんしゅう従来じゅうらい仏教ぶっきょう根本こんぽんてき対立たいりつするものではないこと、王法おうほう仏法ぶっぽううえにおいてぜんおこしてくにまもり、もって王法おうほう鎮護ちんごとなすことは最澄さいちょうひらいた天台宗てんだいしゅう教義きょうぎなんわらないとして反論はんろんした[25]。このしょは、九州きゅうしゅうあらわされたとかんがえられ、ぜんたいする誤解ごかいき、ぜん主旨しゅしあきらかにしようとしたものであった[28]

延暦寺えんりゃくじ止観しかんくだり法華経ほけきょう絶対ぜったい権威けんいとしており、栄西えいさい上述じょうじゅつした法然ほうねんおしえはそれに違背いはいするものとして、とく京洛きょうらくかれらの思想しそうひろまることにたいしてこれをこわれ、徹底的てっていてき弾圧だんあつくわえようとしたのである[29][注釈ちゅうしゃく 11]栄西えいさいは、これにたいし、法然ほうねんよりはやや妥協だきょうてき方法ほうほうえらんだ[29]自分じぶん意見いけん京都きょうとでは容易よういれられないと判断はんだんし、1199ねん正治しょうじ元年がんねん)には鎌倉かまくらくだって北条ほうじょう政子まさこ将軍しょうぐんみなもとよりゆきぜんおしえをき、その帰依きえけたのである[25]

建仁寺けんにんじほうどう

臨済ぜんは、はなしぜん(かんなぜん)ともしょうされ、坐禅ざぜんをくむなかで、からあたえられる禅問答ぜんもんどう公案こうあん)にこたえることで、さと境地きょうちたっしようというおしえであり、きょう公卿くぎょう文化ぶんか対抗心たいこうしんをいだく武士ぶしそうからあたらしい教学きょうがくとしてむかえられ、歴代れきだい北条ほうじょうもこれを保護ほごした[26]

とはいえ、かならずしも禅宗ぜんしゅうへの帰依きえ栄西えいさいてたのではなかった[25]1200ねん正治しょうじ2ねん)に北条ほうじょう政子まさこ後援こうえん鎌倉かまくらてた寿ことぶきぶくてらも、1202ねんたてひとし2ねん)に将軍しょうぐんよりゆき保護ほごによりひらかれ、のちに臨済宗りんざいしゅう総本山そうほんざんとなる京都きょうと建仁寺けんにんじも、当初とうしょは臨済ぜんのみの寺院じいんではなかった[25]

栄西えいさいがめざしたのは、顕教けんぎょう密教みっきょうぜんくわえ、ぜんはしらにして仏教ぶっきょう総合そうごうしようということであり、かれ自身じしん禅僧ぜんそうであると同時どうじ密教みっきょうそうでもあった[9]生涯しょうがい天台てんだいそうとしてきた栄西えいさいは、大陸たいりくあたらしい文化ぶんかきょう文化ぶんかつたえるそうとして鎌倉かまくら幕府ばくふみとめられたのであり、喫茶きっさ風習ふうしゅうもその一環いっかんとしてひろまったものである[25]1211ねんけんれき元年がんねん)ころに将軍しょうぐん源実朝みなもとのさねとも献上けんじょうした『喫茶きっさ養生ようじょう』はちゃ効能こうのういた著作ちょさくであった。

そう最新さいしん学術がくじゅつ文化ぶんか学習がくしゅうした栄西えいさいは、中国ちゅうごく建築けんちく技術ぎじゅつとうにもつうじており、じゅうみなもとたすけて東大寺とうだいじ再建さいけんくし、じゅうみなもときあとの東大寺とうだいじだい勧進かんじんしょくとなった。栄西えいさいはまた、1213ねんたてたもつ元年がんねん)には鎌倉かまくら幕府ばくふ後援こうえんもあってけん僧正そうじょうというそうつな僧官そうかん)になっているが、遁世とんせいそうでありながらけん僧正そうじょうにんじられるのはきわめて例外れいがいてきなことであった[2][注釈ちゅうしゃく 12]慈円じえん道元どうげん栄西えいさい僧正そうじょう大師だいしごう宣下せんげみずか運動うんどうしていることを批判ひはんしているが、幕府ばくふ要人ようじん栄西えいさい帰依きえしたことによって、禅宗ぜんしゅうはやがて京都きょうとへもひろまっていった[25]

いただきしょうらんけい道隆みちたかぞう

栄西えいさいぼつ中国ちゅうごくの臨済ぜんとの交流こうりゅう活発かっぱつであり、わたりそうしたそう来日らいにちしたそうげん禅僧ぜんそう活躍かつやくによってひろまっていった。わたりそうした円爾えんにせいいち国師こくし1202ねん-1280ねん))は、帰国きこく九条くじょう道家どうか帰依きえ京都きょうと東福寺とうふくじて、その弟子でしせきひろしもん1212ねん-1292ねん)は亀山かめやま上皇じょうこう帰依きえ南禅寺なんぜんじひらいた。こうして臨済ぜんは、王朝おうちょう国家こっかたる朝廷ちょうてい保護ほごするところとなった。当初とうしょ外来がいらい宗教しゅうきょうてき要素ようそ濃厚のうこうであった臨済宗りんざいしゅうも、南浦みなみうら紹明1235ねん-1309ねん)などの活動かつどうにより、しだいに独自どくじ発展はってんみちをあゆむこととなった[30]南浦みなみうら紹明の弟子でしそうみねたえちょうだい国師こくし1282ねん-1338ねん)は大徳寺だいとくじ、その弟子でし関山せきやまとしげん1277ねん-1361ねん)は妙心寺みょうしんじひらけそうした。鎌倉かまくら末期まっきには「ななあさみかど」となったゆめまどうとせき1275ねん-1351ねん)があらわれている。

鎌倉かまくらでは、そうから来日らいにちした渡来とらいそうらんけい道隆みちたか1213ねん-1278ねん)が執権しっけん北条ほうじょうよりゆきからのふか帰依きえ建長寺けんちょうじ[注釈ちゅうしゃく 13]息子むすこ北条ほうじょう時宗じしゅうそうから無学むがくもと1226ねん-1286ねん)をまねいて参禅さんぜんし、円覚寺えんかくじてて初代しょだい住持じゅうじとした。時宗じしゅう北条ほうじょう貞時さだときもと出身しゅっしん渡来とらいそういち山一やまいちやすし帰依きえした。こうして臨済宗りんざいしゅうは、一方いっぽうでは、王朝おうちょう国家こっかからは独立どくりつした東国とうごく国家こっかをめざす鎌倉かまくら幕府ばくふ保護ほごするところとなった[9][注釈ちゅうしゃく 14]

一山ひとやま門下もんかからは最初さいしょ日本にっぽん仏教ぶっきょうといえる『げんとおるしゃくしょ』をあらわしたとらせき1278ねん-1346ねん)、五山ごさん文学ぶんがく最盛さいせい中心ちゅうしんをになった雪村ゆきむらともうめ1290ねん-1347ねん)があらわれた。竺仙梵僊1292ねん-1348ねん)は1329ねんもととく元年がんねん)に渡来とらいした中国ちゅうごくそうで、いち山一やまいちやすし同様どうよう日本にっぽん禅宗ぜんしゅう文化ぶんか創始そうしした一人ひとりなされる[31]以上いじょうかかげた人物じんぶつ以外いがいにも大陸たいりくからはたくさんの禅僧ぜんそう渡来とらいし、いわば「渡来とらいそう世紀せいき」ともぶべき文化ぶんか状況じょうきょうまれた[注釈ちゅうしゃく 15][注釈ちゅうしゃく 16][注釈ちゅうしゃく 17]

道元どうげん曹洞宗そうとうしゅう[編集へんしゅう]

道元どうげん

曹洞宗そうとうしゅう開祖かいそである道元どうげん(1200ねん-1253ねん)は、内大臣ないだいじんであった土御門つちみかどとおるおや久我くがとおるおや)の子息しそくとしてきょうまれた[注釈ちゅうしゃく 18]道元どうげん幼少ようしょうにして父母ちちははうしな無常むじょうかんじて仏門ぶつもんはいった人物じんぶつであり、13さいのとき比叡山ひえいざん出家しゅっけして天台てんだい教学きょうがくまなんだ[32]仏法ぶっぽうをきわめるために中国ちゅうごくぜんまなぶことをすすめられ、栄西えいさいてた建仁寺けんにんじあきらぜん師事しじし、1223ねんさだおう2ねんあきらぜんとともにわたりそうしてあしかけ5年間ねんかんぜんまなび、最後さいご天童てんどうさん如浄師事しじして、ついにさとりの境地きょうち(「身心しんしん脱落だつらく」)の境地きょうちたっして、如浄の印可いんかけた[25][33]。曹洞ぜんだまあきらぜん(もくしょうぜん)ともいい、公案こうあん中心ちゅうしんの臨済ぜんたいし、ひたすらぜんむことによって内面ないめん自在じざい境地きょうち体得たいとくしようというものである[32]

上述じょうじゅつのように、禅宗ぜんしゅう一般いっぱん外来がいらい宗教しゅうきょう要素ようそつよいともいわれるが、道元どうげん思想しそうについてはしばしば独創どくそうせいゆたかあるとひょうされる[30]道元どうげん比叡山ひえいざんはなれたとき、かれの念頭ねんとうにあった疑問ぎもんとは「ひと本来ほんらいほとけであるのならば、どうしてさらに発心ほっしん修行しゅぎょうしてさとりをもとめる必要ひつようがあるのか」ということであった[33]。すなわち、てん台本だいほんさとし思想しそうたいする根本こんぽんてき疑問ぎもんであり、それをどうえるかということであった[33]。また、そうわたってふねやすしなみみなとき、シイタケいにろうそうとの対話たいわも、その道元どうげん思想しそう形成けいせいつよ影響えいきょうをあたえることとなった。そのろうそうは、とおくのそだておうやま典座てんぞ炊事すいじがかり)をつとめているとのことであり、道元どうげんが「どうして、みことねん高齢こうれい)でありながら、坐禅ざぜんして、禅僧ぜんそうのことばをがかりにかんがえるということをなさらず、炊事すいじのようなわずらわしい雑用ざつよう従事じゅうじしておられるのですか。それがなにのおやくつのですか」とはなしかけたところ、「外国がいこくこうひといまわきまえどうりょうせず、いま文字もじ知得ちとくせざるあり」とこたえた、つまり、あなた(道元どうげん)は、書籍しょせきしるしてあることの本当ほんとう意味いみかっていないと「だいわらい」されたのである。これは、坐禅ざぜん勉学べんがくにくらべて炊事すいじなどの日常にちじょうてき用務ようむ低級ていきゅうないし無意味むいみかんがえていた道元どうげんにとってはおおきな衝撃しょうげきであった[33]。これは、後述こうじゅつするおさむしょう一等いっとう思想しそうおおきな影響えいきょうあたえることとなる。

道元どうげんは、ときるにつれて仏法ぶっぽううしなわれていくとする末法まっぽう思想しそうは、かりそめのおしえでありしんおしえではないと否定ひていした。そして自力じりきによる修行しゅぎょうをすすめたが、これはてん台本だいほんさとしおしえでくところの「ひとはみな仏性ぶっしょうさとりをちから)をそなえている」からこそ可能かのうだというかんがえにもとづいている。

1227ねん安貞やすさだ元年がんねん)に帰国きこくした道元どうげんは、建仁寺けんにんじただしい坐禅ざぜんいた『ひろしすすむ坐禅ざぜん』をあらわし、ぜんこそが釈迦しゃかよりつたえられた正法しょうぼうであるといたため、延暦寺えんりゃくじそうたちの迫害はくがい対象たいしょうとなった[25][32]道元どうげんは、1230ねんひろし2ねん建仁寺けんにんじって深草ふかくさ京都きょうと伏見ふしみ)にのがれて『せい法眼ほうげんぞう』の著作ちょさく開始かいし1234ねんぶんれき元年がんねん)、山城やましろこく宇治うじきょうきよし宝林ほうりんぜんてらて、坐禅ざぜん修行しゅぎょうもとめるひとびとの道場どうじょうとした[32]道元どうげんは、とうだいのきびしいぜん追求ついきゅうしたところから「仏道ぶつどうもと」とばれた[32]

永平寺えいへいじ:階段かいだんじょう回廊かいろう

道元どうげんは、不立文字ふりゅうもんじとなえ、理論りろんにとらわれず、一切いっさいててただひたすら坐禅ざぜんちこむことによってありのままの自己じこあらわれ、身心しんしん脱落だつらくしてさとにいたる只管ひたすらすわとなえた。これが正法しょうぼうぜんである。道元どうげん加持かじ祈祷きとう念仏ねんぶつぎょう否定ひていして正法しょうぼうぜん運動うんどうをつづけたが、それは従来じゅうらい仏教ぶっきょうにおける贅肉ぜいにくをいっさいぎおとす主張しゅちょうでもあったため、延暦寺えんりゃくじからの迫害はくがいとしうごとにいっそう激化げきかした[34]道元どうげんは、貴族きぞくとしてまれた人物じんぶつではあったが、世俗せぞくてき権勢けんせいをいっさい拒否きょひし、ろく探題たんだい武士ぶしであった波多野はたの義重よししげまねきにおうじて1243ねんひろしもと元年がんねん越前えちぜんこく志比しひそうかい、永平寺えいへいじ[注釈ちゅうしゃく 19]坐禅ざぜん中心ちゅうしんのきびしい修行しゅぎょう弟子でし育成いくせいつとめた[25][32]

和文わぶんしるされた道元どうげん主著しゅちょ正法しょうぼうぞう』は、その存在そんざいろん時間じかんろん言語げんごろん現代げんだいにおいても注目ちゅうもくされている[注釈ちゅうしゃく 20][注釈ちゅうしゃく 21]。また、その含蓄がんちくふか内容ないようはもとより、言葉ことばづかいや文体ぶんたいその表現ひょうげんうえでも日本語にほんごによる宗教しゅうきょうてき哲学てつがくてき論述ろんじゅつ最高峰さいこうほうのひとつといわれる[33][34]道元どうげんは『正法しょうぼうぞう冒頭ぼうとうげんなりこう按」まきにおいて、「仏道ぶつどうをならふといふは自己じこをならふ也、自己じこをならふといふは自己じこをわするるなり。自己じこをわするるといふは、まんほうあかしせらるるなり。まんほうあかしせらるるといふは、自己じこ身心しんしんおよびおのれ身心しんしんをして脱落だつらくせしむるなり」といている[33]。すなわち、ふつみちまなぶということは自己じこるということであり、自己じこるということは自己じこへのとらわれをのぞくことであり、自己じこにとらわれなければ現実げんじつのすべてがあきらかになり、現実げんじつのすべてがあきらかになれば身心しんしん脱落だつらくさと)にたっし、自身じしん他者たしゃとの区別くべつもおのずからくなるというような意味いみであり、さらに、世俗せぞく一切いっさいてて、生活せいかつのすべてを修行しゅぎょうとすることこそさとりであるとおしえ、自己じこ放下ほうか(じこほうげ)を強調きょうちょうして、煩悩ぼんのうまよいのもととなる自己じこ意識いしきをうちてて本来ほんらい自己じこ真実しんじつ自己じこのありかたにめざめるべきことをいている[33]栄西えいさいあたらしい国家こっか仏教ぶっきょう指向しこうしたのにたいし、道元どうげんは、あくまでも普遍ふへんてき思想しそうとしての仏教ぶっきょうもとめ、如浄のおしえにしたがって政治せいじ権力けんりょくからはなれた。世俗せぞくした当時とうじ仏教ぶっきょうについては臨済ぜんもふくめて根本こんぽんからこれを批判ひはんしている。これは、仏陀ぶっだ本来ほんらい精神せいしんかえることの提唱ていしょうであり、そのてんでは、道元どうげん思想しそうもまた仏教ぶっきょう純化じゅんか指向しこうするものであった[9][32]

道元どうげんならではの思想しそうとして「おさむしょう一等いっとう」がある。おさむしょう一等いっとうとは、「おさむしょう一如いちにょ」ともしょうし、『正法しょうぼうぞう』の巻首かんしゅべん道話どうわ」のなかでかれ、「おさむ」すなわち修行しゅぎょうと「あかし」すなわちさとりとはおなひとつのものであって、修行しゅぎょうわりはなく、また、さとりにもはじまりはないというかんがかたである[33]。したがって、そこにおける坐禅ざぜん只管ひたすらすわ)は、さとるための修行しゅぎょうではなく、すでにさとったうえでの修行しゅぎょうなのだから、たとえば、それが初心者しょしんしゃ学問がくもん修行しゅぎょうであっても、そこには完全かんぜんさとりが実現じつげんされているとみる。すなわち、道元どうげんくところにおいては、坐禅ざぜんは、さとりをるための手段しゅだんにとどまらない[33]坐禅ざぜんして無心むしん境地きょうちにあるとき、ひとはすでにさとししゃすなわち仏陀ぶっだなのであって、坐禅ざぜんふつとしての行為こういふつゆき)となる。ただし、ほとけであるという事実じじつ安住あんじゅうするのではなく、ほとけであるからこそ、無限むげん修行しゅぎょうつづけていかなくてはならないと理解りかいされる[33]。そこから敷衍ふえんするならば、生活せいかつのすべてが修行しゅぎょうなのであり、修行しゅぎょうとなるような生活せいかつをこそおくらなければならない。

孤高ここう思想家しそうかである道元どうげん自身じしんには元来がんらいひとつのむねをおこす意思いしはなかったとおもわれるが、永平寺えいへいじにつどった道元どうげん弟子でしたちは教団きょうだんつとめた[32]永平寺えいへいじの2だい貫主かんしゅとなったくもふところ道元どうげんおしえを『せい法眼ほうげんぞうずい聞記』としてしるし、ふところ奘の弟子でし鎌倉かまくら時代じだい末期まっきにあらわれた瑩山紹瑾は、越前えちぜんこく加賀かがこく能登のとこくなど北陸ほくりくどう基盤きばんとして曹洞宗そうとうしゅう教団きょうだんてた[32]坐禅ざぜん修行しゅぎょうそのものがさとりであるというおさむしょう一等いっとうおさむしょう一如いちにょ)のおしえはしだいに地方ちほう武士ぶしのあいだにひろまっていった[注釈ちゅうしゃく 22]

なお、この時代じだい遁世とんせいそうは、禅宗ぜんしゅうのみならずりつむね時宗じしゅうなどもふくめ、一般いっぱんあらわみつ諸宗しょしゅうかんそうにくらべて諸国しょこくあいだ移動いどうすることがおおかった。とく禅宗ぜんしゅう場合ばあい各地かくちに「だん」としょうする宿泊しゅくはく施設しせつもうけてそう逗留とうりゅうしている[35]

きゅう仏教ぶっきょう刷新さっしん[編集へんしゅう]

信仰しんこう実践じっせんおもんじる「しん仏教ぶっきょう」があいついでまれ、武士ぶし庶民しょみん徐々じょじょ浸透しんとうしていったものの、社会しゃかいてき勢力せいりょくとしては南都なんとろくむね天台宗てんだいしゅう真言宗しんごんしゅうなどの勢力せいりょくきゅう仏教ぶっきょう)が、依然いぜんとしておおきなちからたもっていた。とく山門やまかど天台宗てんだいしゅう)はだい勢力せいりょくたもち、権門けんもん勢力せいりょくむすんでしばしばしん仏教ぶっきょう弾圧だんあつくわえた(権門けんもん体制たいせい)。しかし、「しん仏教ぶっきょう」の活発かっぱつ活動かつどう刺激しげきをうけて、いわゆる「きゅう仏教ぶっきょう内部ないぶでも現状げんじょう反省はんせい革新かくしんへの気運きうんがってきた。なお、後述こうじゅつするように、「しん仏教ぶっきょう」とばれる変革へんかく運動うんどう実際じっさい社会しゃかいうごかすようなちからつようになるのは室町むろまち時代ときよから戦国せんごく時代じだいにかけてのことである。

宗派しゅうは 僧侶そうりょ おもな事跡じせき
法相ほうしょうむね 貞慶じょうけい解脱げだつ
1155ねん-1213ねん
興福寺こうふくじそう堕落だらくをきらって笠置山かさぎやま隠棲いんせい戒律かいりつ護持ごじ普及ふきゅうにつとめ、法然ほうねん専修せんしゅう念仏ねんぶつ攻撃こうげきした。
華厳宗けごんしゅう 高弁こうべん明恵あきえ
1173ねん-1232ねん
京都きょうと栂尾つがお高山寺こうざんじひらいた。戒律かいりつ重視じゅうしし、『摧邪』をあらわして法然ほうねん批判ひはんした。
りつむね しゅんわがぜん
1166ねん-1227ねん
わたりそうして戒律かいりつまなび、京都きょうと泉涌寺せんにゅうじをひらいてたいひそかぜんりつ兼学けんがく道場どうじょうとした。真言宗しんごんしゅう泉涌寺せんにゅうじといわれる。
叡尊えいぞん思円しえん
1201ねん-1290ねん
大和やまと西大寺さいだいじ復興ふっこうし、戒律かいりつ護持ごじ普及ふきゅう民衆みんしゅう教化きょうかにつとめた。架橋かきょう道路どうろ建設けんせつなどの社会しゃかい事業じぎょう熱心ねっしんにおこなった。
忍性にんしょう良観りょうかん
1217ねん-1303ねん
叡尊えいぞん弟子でし鎌倉かまくら極楽寺ごくらくじをひらいた。病人びょうにん貧民ひんみん救済きゅうさいにつとめ、奈良ならきゅうらい施設しせつ北山きたやまじゅうはちあいだ設営せつえいした。
凝然ぎょうぜんしめせかん
1240ねん-1321ねん
学問がくもん即行そっこう立場たちば仏教ぶっきょうはじめ多数たすう著述ちょじゅつをおこない、華厳けごん戒律かいりつ宣揚せんようつとめた。とくに『はちむね綱要こうよう』は日本にっぽん仏教ぶっきょう史上しじょう重要じゅうようである。
真言宗しんごんしゅう さとし正覚しょうがく
1095ねん-1143ねん
しょりゅう細分さいぶんした真言宗しんごんしゅう修行しゅぎょう大成たいせいし、だい伝法でんぼういんりゅうそう唱して、しん真言宗しんごんしゅうといわれた。
天台宗てんだいしゅう めぐみ鎮(えんかん
1281ねん-1356ねん
叡尊えいぞんらの活動かつどう刺激しげきけて戒律かいりつ復興ふっこう運動うんどうをおこす。後醍醐天皇ごだいごてんのう討幕とうばく運動うんどう参画さんかく、『太平たいへい編集へんしゅう責任せきにんしゃでもあった。

法相ほうしょうむね[編集へんしゅう]

京都きょうとまれ、法相ほうしょうむね中興ちゅうこうといわれる解脱げだつぼう貞慶じょうけい(1155ねん-1213ねん)は、南都なんと興福寺こうふくじにはいって叔父おじにあたるさとしけん師事しじして法相ほうしょう教学きょうがくりつまなんだ。しかし1193ねんたてひさ4ねん)、荘園しょうえん領主りょうしゅとして世俗せぞく勢力せいりょくした興福寺こうふくじ失望しつぼう僧侶そうりょ堕落だらくをきらってどうてらて、弥勒みろく信仰しんこうによりながらみなみ山城やましろ山中さんちゅう笠置かさぎてら隠遁いんとんした。笠置かさぎてらでは、うみじゅう山寺やまでら再興さいこう尽力じんりょくし、戒律かいりつ復興ふっこうにつとめ、また1205ねん元久もとひさ2ねん)に浄土宗じょうどしゅう批判ひはんする『興福寺こうふくじそうじょう』をあらわしたが、これは上述じょうじゅつ法然ほうねんだんあつ契機けいきをつくることとなった。1208ねんうけたまわもと2ねん)、貞慶じょうけい再興さいこうなったうみじゅう山寺やまでらにうつっている。

従来じゅうらい法相ほうしょうむね基本きほんてき教義きょうぎである「せいかくべつせつ」は、人間にんげんのなかには仏性ぶっしょうをもたない「無性むしょう」のものがいるというものであったが、貞慶じょうけいあまねとともに「無性むしょう概念がいねん方便ほうべんとして設定せっていされたものであるとべて「悉有仏性ぶっしょう」を[36]法相ほうしょうむねのありかたとしては自己じこ否定ひていしょうされるほどんだかんがえをしめした[36]

なお、うみじゅう山寺やまでら五重塔ごじゅうのとうは、貞慶じょうけい弟子でしさとししんいち周忌しゅうき供養くよう建立こんりゅうしたものであり、国宝こくほう指定していされている。

華厳宗けごんしゅう[編集へんしゅう]

明恵あきえ上人しょうにんじゅじょう坐禅ざぜん国宝こくほう

華厳宗けごんしゅう中興ちゅうこうといわれる高弁こうべん(1173ねん-1232ねん)は、たいらしげるこくとして紀伊きいこくまれ、明恵あきえ上人しょうにんられる[2]高弁こうべん後鳥羽上皇ごとばじょうこう北条ほうじょうやすしときから帰依きえをうけた[注釈ちゅうしゃく 23]

1188ねん文治ぶんじ4ねん)、高弁こうべん上覚じょうかくとして出家しゅっけし、東大寺とうだいじ戒壇かいだん受戒じゅかいした[2]東大寺とうだいじみことかちいん華厳けごん教学きょうがくまなんだが、21さいのときに国家こっかてき法会ほうえへの参加さんか要請ようせいこばんだのち、東大寺とうだいじ遁世とんせいした。1206ねんたてひさし元年がんねん)、高弁こうべんは、後鳥羽上皇ごとばじょうこう院宣いんぜんにより京都きょうと北郊ほっこう栂尾つがお高山寺こうざんじをひらき、法然ほうねん専修せんしゅう念仏ねんぶつ反論はんろんする『摧邪』をあらわした。かれは、仏陀ぶっだいた戒律かいりつおもんじることこそ、その精神せいしんけつぐものであると主張しゅちょうし、生涯しょうがいにわたり戒律かいりつの「復興ふっこう」ををもって実践じっせんした[9][注釈ちゅうしゃく 24]

りつむね[編集へんしゅう]

戒律かいりつおもんじるりつむねではわがぜんぼうしゅん(1166ねん-1227ねん)がみなみそうからの帰国きこく京都きょうと泉涌寺せんにゅうじ[注釈ちゅうしゃく 25]再興さいこうし、天台てんだい真言しんごんぜんりつ兼学けんがく道場どうじょうとした。しゅん芿のりつは、唐招提寺とうしょうだいじ西大寺さいだいじ中心ちゅうしんとする奈良ならりつ南京なんきんりつ)にたいし、北京ぺきんりつといわれた[37]。また、そうまなぶ朱子学しゅしがく)を日本にっぽんつたえたのもかれであるという。

りつむね中興ちゅうこうといわれる思円しえんぼう叡尊えいぞん(1201ねん-1290ねん)は、興福寺こうふくじそうちちとして現在げんざい奈良ならけん大和郡山やまとこおりやままれた[2]1217ねんたてたもつ5ねん)、17さい京都きょうと山科やましな醍醐寺だいごじ出家しゅっけし、同年どうねんちゅう東大寺とうだいじ戒壇かいだん受戒じゅかいした[2]1236ねんよしみただし2ねん)、興福寺こうふくじさとしもりらとともに東大寺とうだいじ法華ほっけどう観音かんのん菩薩ぼさつまえちかい受戒じゅかいし、たんにみずからのさとりをめざすのみならず、他人たにん救済きゅうさいしようとする菩薩ぼさつそうになることをちかった[2]叡尊えいそん大和やまとこく西大寺さいだいじ再興さいこうし、殺生せっしょうあくとしてきびしくきんじて戒律かいりつ復興ふっこう」につとめる一方いっぽう技術ぎじゅつしゃ集団しゅうだんをかかえて道路どうろ港湾こうわん修復しゅうふく架橋かきょう寺社じしゃ修造しゅうぞうなどの公共こうきょう事業じぎょうをおこない、非人ひにん貧民ひんみん病者びょうしゃ救済きゅうさいなど社会しゃかい事業じぎょうにもちからくして、民衆みんしゅう教化きょうかつとめた[38][注釈ちゅうしゃく 26]

中国ちゅうごくから最新さいしん戒律かいりつおしえをれた叡尊えいそん教団きょうだんにあっては、きびしい戒律かいりつまもることこそが多様たよう救済きゅうさい活動かつどう原点げんてんになっていた[36][39]民衆みんしゅうたいしては、ぶんおうじた戒律かいりつ護持ごじすすめ、戒律かいりつまもれば、その呪術じゅじゅつりょくによってねがいがかなうとき、鎌倉かまくら中期ちゅうき以降いこう爆発ばくはつてき発展はってんした[36][39]叡尊えいそん1262ねんひろちょう2ねん)、北条ほうじょうみのる金沢かなざわみのる三村みつむらてらにいた弟子でしにんせいまねきにより鎌倉かまくらおとずれ、あたらしく執権しっけんとなった北条ほうじょう時宗じしゅう授戒じゅかいした。叡尊えいそんによる直接ちょくせつ受戒じゅかいしゃ出家しゅっけしゃで1,694にん在家ありいえしゃ6まんにんあまりにおよぶとつたえられる[37][40][注釈ちゅうしゃく 27]叡尊えいそんは、南都なんと北嶺きたみね受戒じゅかいしたかんそうたいし、あらたに西大寺さいだいじ唐招提寺とうしょうだいじ戒壇かいだんもうけ、遁世とんせいそうにも授戒じゅかいみちをひらき、鎌倉かまくら時代じだい社会しゃかいおおきな影響えいきょうをあたえた[38]朝廷ちょうてい幕府ばくふ権力けんりょくしゃからさい底辺ていへん民衆みんしゅうにまであつ支持しじあつめた叡尊えいそんはまた、もとさいして敵国てきこく調伏ちょうぶく祈祷きとう石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうでおこなったことでもられる。

くに史跡しせき北山きたやまじゅうはちあいだ奈良ならけん奈良なら
忍性にんしょう良観りょうかん)の設立せつりつによるきゅうらい施設しせつ
国宝こくほう絹本けんぽんちょしょく文殊もんじゅ渡海とかい」(13世紀せいき)、醍醐寺だいごじぞう

良観りょうかんぼう忍性にんしょう(1217ねん-1303ねん)は、16さいははうしなかんそうとなったが、1239ねんのべおう元年がんねん)、23さい叡尊えいそん西大寺さいだいじ再建さいけん勧進かんじんひじりとしてくわわったことを契機けいきとして、叡尊えいそん師事しじした。1240ねんじん元年がんねん)ころ、忍性にんしょう叡尊えいそんとともに西大寺さいだいじ拠点きょてんとして大和やまと国内こくない宿やど々に文殊もんじゅ菩薩ぼさつ図像ずぞうかかげて供養くようをおこない、住人じゅうにん施物せもつ(せもつ)をあたえているが、このような慈善じぜんはそののちもしばしばかえされた[41]同様どうよう社会しゃかい事業じぎょう尽力じんりょくした忍性にんしょうは、1243ねんひろしもと元年がんねん)、奈良ならハンセン病はんせんびょう患者かんじゃ救済きゅうさいするための施設しせつとして北山きたやまじゅうはちあいだ設立せつりつし、その経営けいえいにあたった。忍性にんしょうは、1252ねんけんちょう4ねん)、東国とうごくくだり、常陸ひたち国三くにぞうむらてらつくば)にみ、その鎌倉かまくらはいって北条ほうじょうぎょうらの保護ほごけ、1267ねんぶんなが4ねん)、鎌倉かまくら極楽寺ごくらくじ再興さいこうしてそこを拠点きょてんりつむね復興ふっこうのため尽力じんりょくした。極楽寺ごくらくじ境内けいだいにはやまい宿やど・らい宿やど薬湯やくとうしつ療病りょうびょういんさか下馬げば療屋などの施設しせつととのえられた[41]。また、和賀わが江島えじま修築しゅうちく極楽寺ごくらくじざか切通きりどお開削かいさくなど鎌倉かまくら港湾こうわん整備せいび道路どうろ整備せいびなどの土木どぼく事業じぎょうにたずさわった[42]どう時期じき鎌倉かまくら活躍かつやくしていた日蓮にちれんからは「りつ国賊こくぞく」と論争ろんそういどまれたことがある。鎌倉かまくらはじめ各地かくち悲田院ひでんいん設立せつりつした忍性にんしょうは、とくに非人ひにん救済きゅうさい尽力じんりょくしたが、それがことのほか重視じゅうしされたのは、文殊もんじゅ菩薩ぼさつ信仰しんこうによるものである。文殊もんじゅ菩薩ぼさつ貧窮ひんきゅう孤独こどく苦悩くのう姿すがたわってひとびとの前面ぜんめんにあらわれるという経文きょうもんしんじられていたからであった[41]忍性にんしょうはまた、じゅうげん栄西えいさいとならび、東大寺とうだいじだい勧進かんじんしょくとなった遁世とんせいそうであった[42][注釈ちゅうしゃく 28]

りつむね出身しゅっしん学僧がくそうとしては、まどかあきら1221ねん-1277ねん)とその弟子でし凝然ぎょうぜん1240ねん-1321ねん)がいる。とく凝然ぎょうぜんは、華厳経けごんきょうにもつうじ、インド・中国ちゅうごく日本にっぽんにまたがる仏教ぶっきょう研究けんきゅうしてそのへんじゅつをおこない、日本にっぽん仏教ぶっきょう包括ほうかつてき理解りかい追究ついきゅうしておおくの著作ちょさくをのこした[43]凝然ぎょうぜんあらわした『はちむね綱要こうよう』は日本にっぽん仏教ぶっきょう史上しじょう重要じゅうよう文献ぶんけんである[注釈ちゅうしゃく 29]

真言宗しんごんしゅう[編集へんしゅう]

高野山こうのやまでは平安へいあん末期まっき正覚坊しょうがくぼうさとし(1095ねん-1143ねん)があらわれて、山内やまうちだい伝法でんぼういんをつくり、民衆みんしゅうへの布教ふきょうにつとめたが、金剛峯寺こんごうぶじ対立たいりつして紀伊きいこく根来ねごろ退しりぞいて円明寺えんめいじ根来寺ねごろじ)をてた[37]。かれは、しょりゅう細分さいぶんした真言宗しんごんしゅう修行しゅぎょう方法ほうほう大成たいせいし、だい伝法でんぼういんりゅうそう唱した。その金剛峯寺こんごうぶじかた本寺ほんじかた)とさとし鑁のながれをだい伝法でんぼういんかたいんかた)とのあいだこうそうながくつづいた。

鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうきにあらわれたしゅんおとぼうよりゆき1226ねん-1304ねん)は、だい伝法でんぼういんをさかんにしたが、金剛峯寺こんごうぶじがわだい伝法でんぼういん圧迫あっぱくをくわえたため、1286ねん弘安ひろやす9ねん)、よりゆき瑜はだい伝法でんぼういん根来ねごろ円明寺えんみょうじにうつして高野山こうのやまからかれ、大日如来だいにちにょらい加持かじほうせつしん)をとなえてしん真言宗しんごんしゅうがひらかれた[37][注釈ちゅうしゃく 30]

天台宗てんだいしゅう[編集へんしゅう]

近江おうみまれたえんかん房恵ふさえ(1281ねん―1356ねん)は、1295ねんえいひとし3ねん)に延暦寺えんりゃくじ出家しゅっけ受戒じゅかいし、かんそうめいとしては伊予いよぼうどうせいけられた[2]1303ねんよしみもと元年がんねん)、いったん遁世とんせいして禅僧ぜんそうとなったが、翌年よくねんには黒谷くろたににもどり、1305ねんよしみもと3ねん)ころ、きょうえんにしたがってふたた遁世とんせいし、以後いご協力きょうりょくしてえん戒(天台宗てんだいしゅう戒律かいりつ護持ごじ主張しゅちょうした。この戒律かいりつ復興ふっこう運動うんどう南都なんと叡尊えいそんらの活動かつどう影響えいきょうけたものである[2]めぐみ鎮は、東大寺とうだいじだい勧進かんじんとなったり、法勝寺ほっしょうじ復興ふっこう尽力じんりょくするなど重要じゅうよう役割やくわりをにない、『太平たいへい編纂へんさん責任せきにんしゃつとめた[2]後醍醐天皇ごだいごてんのう討幕とうばく計画けいかく参画さんかくし、文観もんかんとともに北条ほうじょうのろい咀したため、一時いちじ陸奥みちのくこく配流はいるされた。たてたけし新政しんせいたおれたのちは足利尊氏あしかがたかうじ帰依きえけ、たてたけし式目しきもく制定せいていにかかわったといわれる。めぐみ鎮は、えん戒にかんするおおくの著作ちょさくをのこしている。

きゅう仏教ぶっきょう諸派しょはと「しん仏教ぶっきょう」の関係かんけい[編集へんしゅう]

このように、「きゅう仏教ぶっきょう」は戒律かいりつの「復興ふっこう」をかかげて、国家こっかからの自立じりつ非人ひにんなどの社会しゃかいてき弱者じゃくしゃ女人にょにんもふくんだ個人こじん救済きゅうさいつとめたが、「しん仏教ぶっきょう」とりわけ念仏ねんぶつたいする対抗たいこう意識いしきつよく、これを排撃はいげきするがわくわわることもあった。上述じょうじゅつしたうけたまわもと元年がんねん弾圧だんあつはそのことによりこされたものであった。

そのいっぽう、華厳宗けごんしゅう高弁こうべん明恵あきえ)はさんさんたからあやにより「南無三宝なむさんぼう後生ごしょうたすけさせたまえ」ととなえるだけで成仏じょうぶつできるとき、法相ほうしょうむね貞慶じょうけい唯心ゆいしん念仏ねんぶつをひろめるなど、表面ひょうめんてきには専修せんしゅう念仏ねんぶつをきびしく非難ひなんしながらも浄土じょうどもん諸宗しょしゅうえきぎょう提唱ていしょうまなびとり、これによって従来じゅうらい学問がくもん中心ちゅうしん仏教ぶっきょうからの脱皮だっぴをはかろうとした[10]

教学きょうがくめんでは、いわゆる「きゅう仏教ぶっきょう」のがわで「しん仏教ぶっきょう」に刺激しげきされて集大成しゅうたいせい気運きうんたかまった。貞慶じょうけい高弁こうべん、またさんろんむねあかりあまねはじめ超人ちょうじんてき学僧がくそう多数たすうあらわれ、日本にっぽん独特どくとく教学きょうがく成立せいりつさせた[43]。また、東大寺とうだいじむねせい数々かずかずそうでん集成しゅうせいして日本にっぽん仏教ぶっきょう考察こうさつしようとつとめ、華厳けごん教学きょうがくむねせいまなんだ上述じょうじゅつ凝然ぎょうぜんもまた仏教ぶっきょうへんじゅつした[43]

鎌倉かまくら仏教ぶっきょうてん台本だいほんさとし思想しそうとの関連かんれんについては、鎌倉かまくら仏教ぶっきょうもとさとし思想しそう否定ひていすることによって成立せいりつしたという見方みかたがこんにちの仏教ぶっきょう学界がっかいでは大勢おおぜいをしめている[46]。しかし、 鎌倉かまくら仏教ぶっきょうてん台本だいほんさとし思想しそう発展はってんとするかんがかた従来じゅうらいから存在そんざいしており、島地しまじまさるとう宇井うい伯寿はくじゅらすぐれた仏教ぶっきょう学者がくしゃによってもとなえられている。とくに島地しまじは、「日本にっぽんには『哲学てつがく』がない」といた中江なかえ兆民ちょうみんたいして、「哲学てつがくなき国家こっか精神せいしんなき死骸しがいである」とべて批判ひはんし、日本にっぽん独自どくじの「哲学てつがく」を代表だいひょうするものとしてもとさとし思想しそうかかげている[46]上述じょうじゅつした親鸞しんらん願力がんりき回向えこうせついちへん思想しそうなどはもとさとし思想しそうとの連続れんぞくせいがみてとれる[18][46]日本にっぽん思想しそう専門せんもんとする尾藤びとう正英まさひでは、日蓮にちれん思想しそう道元どうげん思想しそうにも、もとさとし思想しそう実践じっせん具体ぐたい要素ようそがあると指摘してきしている[20][30]

鎌倉かまくら仏教ぶっきょうろん[編集へんしゅう]

しん仏教ぶっきょう」・「きゅう仏教ぶっきょう概念がいねん提唱ていしょう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら仏教ぶっきょうを「きゅう仏教ぶっきょう」「しん仏教ぶっきょう」とんで区分くぶんするかんがかた自体じたい近代きんだい以降いこう成立せいりつした比較的ひかくてきあたらしいとらえかたである。このかたり最初さいしょもちいられたのは、日本にっぽん仏教ぶっきょう研究けんきゅう先駆せんくしゃとされる村上むらかみ専精せんじょう明治めいじ時代じだい発行はっこうした『日本にっぽん仏教ぶっきょうつな』(1898ねん-1899ねん)であり、「しん仏教ぶっきょう」という表現ひょうげんには高弁こうべん明恵あきえ以下いかのいわゆる「きゅう仏教ぶっきょうがわ改革かいかくうごきをもふくめて解説かいせつし、こうしたうごきにくわわらなかった既存きそん寺院じいんを「従来じゅうらい仏教ぶっきょう」「むね」と表記ひょうきしている。

大正たいしょう時代じだいはいってから、法然ほうねん親鸞しんらん栄西えいさい道元どうげん日蓮にちれん一遍いっぺんによってはじめられた6むねをもって既存きそん宗派しゅうは区別くべつする見解けんかい登場とうじょうした。大正たいしょうから昭和しょうわにかけてはつじ善之助ぜんのすけが「きゅうむね」「しんむね」と分類ぶんるいし、つづいて大谷大学おおたにだいがく大屋おおやいさおじょう今日きょうのような「きゅう仏教ぶっきょう」「しん仏教ぶっきょう」の区分くぶんもちいて以降いこう、この呼称こしょう定着ていちゃくした。この6むねを「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」としょうする見解けんかいは、戦後せんごにもひきつがれ、家永いえなが三郎さぶろう井上いのうえ光貞みつさだらをはじめとしてながあいだ通説つうせつとなっていたものであるが、ここでは、選択せんたく専修せんしゅうえきぎょう特徴とくちょうとしてひろ武士ぶし庶民しょみん信仰しんこう門戸もんこひらいたことが重視じゅうしされる。

一方いっぽう前掲ぜんけいしたように、奈良なら仏教ぶっきょう平安へいあん仏教ぶっきょう、いわゆる「きゅう仏教ぶっきょう」としょうされるなかにも「しん仏教ぶっきょう」6むね触発しょくはつされてあたらしいうごきがまれた。具体ぐたいてきには、華厳宗けごんしゅう高弁こうべん明恵あきえ)や凝然ぎょうぜん法相ほうしょうむね貞慶じょうけい解脱げだつ)、真言宗しんごんしゅうさとし鑁、西大寺さいだいじりゅう後世こうせい真言しんごんりつむね」としょうされる教団きょうだんしんりつ宗教しゅうきょうだん)をひらいてひろ社会しゃかい事業じぎょう展開てんかいした叡尊えいそん弟子でしにんせいなどの仏教ぶっきょう活動かつどうである。これらについては単純たんじゅんに「きゅう仏教ぶっきょう」としょうしてよいのかという疑問ぎもん提起ていきされている。とくに、叡尊えいそん忍性にんしょう教団きょうだんは「しん仏教ぶっきょう」としょうすべき要素ようそつのではないのかという指摘してきかく方面ほうめんよりなされている。

真言しんごんりつ宗教しゅうきょうだんについて[編集へんしゅう]

松尾まつおつよしは、鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょうもっと重要じゅうよう要素ようそを「国家こっかからの自立じりつ」と「個人こじん救済きゅうさい」ととらえ、この2つがあってはじめて貴族きぞく仏教ぶっきょうから脱却だっきゃくして民衆みんしゅう仏教ぶっきょうとしての鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう成立せいりつしたとする立場たちばっている[2]。そこで、後世こうせい真言しんごんりつむね」としょうされる教団きょうだんがどのしん仏教ぶっきょう宗派しゅうはよりもさき国家こっか公認こうにん戒壇かいだんわる独自どくじ戒壇かいだん樹立じゅりつして、独自どくじ授戒じゅかい開始かいしし、社会しゃかい事業じぎょうつうじて非人ひにんなどの社会しゃかいてき弱者じゃくしゃ救済きゅうさいし、あるいはこれまで国家こっかから授戒じゅかい拒否きょひされてきた女性じょせいあま)への授戒じゅかいみとめるなど、個人こじん救済きゅうさいつうじて社会しゃかいたいする布教ふきょうおこなった事実じじつ指摘してきした[47]。そして、「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」としょうされてきた6むね天台宗てんだいしゅう母体ぼたいとしていたように、真言しんごんりつむねりつむね真言宗しんごんしゅう基礎きそきながらも、寺院じいんがい活動かつどうする遁世とんせいそう組織そしきし、民衆みんしゅう救済きゅうさい目的もくてきとして活発かっぱつ活動かつどうをおこなうなど、実態じったいとしてはしん仏教ぶっきょうそのものであるとして、真言しんごんりつ宗教しゅうきょうだん鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょうの1つとするせつとなえた[2][注釈ちゅうしゃく 31]

たいら雅行まさゆきもまた、叡尊えいそん西大寺さいだいじりゅうは、従来じゅうらいりつしゅうとは戒律かいりつたいするかんがえがことなっており、人間にんげん集団しゅうだんとしてもまったことなることを指摘してきし、そのてんで、「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」のしょうしうる内実ないじつそなえているとべている[36]叡尊えいぞんらの教団きょうだんは、鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけて爆発ばくはつてき発展はってんしたが、その衰退すいたい急速きゅうそく進行しんこうし、江戸えど時代じだいには独自どくじ教団きょうだん構成こうせいすることができず、真言宗しんごんしゅうりつむね編入へんにゅうされている(それにたいし、日蓮宗にちれんしゅう室町むろまち時代じだい以降いこう天台宗てんだいしゅうより自立じりつし、とく戦国せんごく時代じだい急速きゅうそく発展はってんし、江戸えど時代じだいにあっては独立どくりつした宗派しゅうはとみとめられている)。

さらに、蓑輪みのわあらわりょうついしお千尋ちひろなども、その立脚りっきゃくする立場たちばはそれぞれことなるものの、真言しんごんりつむね西大寺さいだいじりゅう)を「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」の範疇はんちゅうのなかで把握はあくしている。

家永いえなが井上いのうえせつ[編集へんしゅう]

上述じょうじゅつした、家永いえなが三郎さぶろう井上いのうえ光貞みつさだ見解けんかいは、法然ほうねん親鸞しんらん栄西えいさい道元どうげん日蓮にちれん一遍いっぺんによってはじめられた6むねを「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」とし、ここでは、選択せんたく専修せんしゅうえきぎょうたん戒律かいりつ)・在家ありいえ主義しゅぎ悪人あくにん往生おうじょうなどを特徴とくちょうとして、ひろ新興しんこう武士ぶしそう庶民しょみんなどにたい信仰しんこう門戸もんこひらかれ、階層かいそう身分みぶん超越ちょうえつしたあらゆるひとびとの救済きゅうさいかかげられたことが重視じゅうしされており、多数たすう研究けんきゅうしゃ圧倒的あっとうてき支持しじ定説ていせつされたものである[48]

鎌倉かまくら仏教ぶっきょう研究けんきゅうをもたらすことになった家永いえなが研究けんきゅうには1947ねん昭和しょうわ22ねん)の『中世ちゅうせい仏教ぶっきょう思想しそう研究けんきゅう収載しゅうさい一連いちれん論文ろんぶんがある[48]家永いえながによれば、天台てんだい真言しんごん平安へいあん仏教ぶっきょうは、本質ほんしつてき天皇てんのう国家こっかしょうわざわいいたぶく機能きのうたしていくことに存在そんざい意義いぎいだす「鎮護ちんご国家こっか」の仏教ぶっきょうにほかならなかったため、そこでは民衆みんしゅう存在そんざい視野しやになく、民衆みんしゅう救済きゅうさい等閑なおざりされており、それゆえ、民衆みんしゅう救済きゅうさいかかげた「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」のせい強調きょうちょうされる[49]

浄土じょうどきょうについてさらにふか追究ついきゅうし、克明こくめいかつ実証じっしょうてき研究けんきゅうによって家永いえながせつをささえることとなった井上いのうえ理論りろんてき著作ちょさくとしては1956ねん昭和しょうわ31ねん)の『日本にっぽん浄土じょうどきょう成立せいりつ研究けんきゅう』がある[48]井上いのうえ視点してんには、石母田いしもたただしの「領主りょうしゅせい理論りろん」のつよ影響えいきょうみとめられる[50]石母田いしもた戦後せんごまもなく『中世ちゅうせいてき世界せかい形成けいせい』(1946ねん)を刊行かんこうし、伊賀いがこく黒田くろだそう三重みえけん名張なばり)を舞台ぶたいとして領主りょうしゅ東大寺とうだいじ古代こだいてき荘園しょうえん支配しはいから武士ぶしだんというかたちをとりながら在地ざいち領主りょうしゅ自立じりつしてゆく過程かていをえがき、このような在地ざいち領主りょうしゅそう台頭たいとうとそれに並行へいこうして展開てんかいしていく農民のうみん農奴のうどうごきこそが「領主りょうしゅせい」という中世ちゅうせい固有こゆう社会しゃかい関係かんけい形成けいせいしめすものととらえた[50]井上いのうえは、このような古代こだい国家こっか解体かいたいおよび武士ぶしだん成長せいちょうという歴史れきし過程かてい対応たいおうにおいて浄土じょうどきょう発達はったつろんじているのである[50]

はちむね体制たいせいろんあらわみつ体制たいせいろん[編集へんしゅう]

1969ねん昭和しょうわ44ねん)に日本にっぽん仏教ぶっきょう研究けんきゅうしゃ田村たむらまどかきよしによってはじめて提唱ていしょうされたはちむね体制たいせいろんは、法然ほうねんよりはじまる鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう成立せいりつを、それ以前いぜん貴族きぞくてき祈祷きとうてき鎮護ちんご国家こっかてき古代こだい仏教ぶっきょうたいし、個人こじん救済きゅうさい主眼しゅがんとする民衆みんしゅう仏教ぶっきょう成立せいりつとして把握はあくする家永いえなが井上いのうえらによってとなえられた知見ちけんをベースとしており、1970年代ねんだい以降いこう日本にっぽん仏教ぶっきょう研究けんきゅう影響えいきょうをあたえた[48]田村たむら論文ろんぶん鎌倉かまくら仏教ぶっきょう歴史れきしてき評価ひょうか」において、『興福寺こうふくじそうじょうちゅうの「はちむね同心どうしん訴訟そしょう」(伝統でんとう仏教ぶっきょうはちむねしんをひとつにしてのうったえ)の文言もんごん注目ちゅうもくし、はちむね南都なんとろくむねおよび平安へいあんむね)がそのように同心どうしんして法然ほうねんとそのおしえを排撃はいげきしようとする背景はいけいには、法然ほうねん教義きょうぎから自分じぶん自身じしんのもつ特権とっけん防衛ぼうえいしようとする伝統でんとう仏教ぶっきょうがわ意図いとがあったとみなし、そうした共通きょうつう利害りがいにもとづく仏教ぶっきょうかい古代こだいてき秩序ちつじょを「はちむね体制たいせい」とづけたのである[51]

なお、家永いえなが井上いのうえ研究けんきゅうによって定説ていせつされ、田村たむらまどかきよしはちむね体制たいせいろんにひきつがれる通説つうせつをまとめると下表かひょうのようになる[2]

項目こうもく 家永いえなが井上いのうえ田村たむららの定説ていせつによる説明せつめい
しん仏教ぶっきょう 法然ほうねん親鸞しんらん栄西えいさい道元どうげん日蓮にちれんいちへんをそれぞれ祖師そしとする教団きょうだん仏教ぶっきょう
きゅう仏教ぶっきょうきゅう仏教ぶっきょう改革かいかく はちむね南都なんとろくむね平安へいあんむね)はきゅう仏教ぶっきょう華厳宗けごんしゅう高弁こうべん明恵あきえ)・りつむね叡尊えいそんきゅう仏教ぶっきょうのなかの改革かいかく
しん仏教ぶっきょう特色とくしょく 選択せんたく専修せんしゅうえきぎょう民衆みんしゅう救済きゅうさい仏教ぶっきょう
きゅう仏教ぶっきょう特色とくしょく 兼学けんがくざつ信仰しんこう戒律かいりつ重視じゅうし国家こっか仏教ぶっきょう貴族きぞく仏教ぶっきょう
中世ちゅうせい仏教ぶっきょう しん仏教ぶっきょう
布教ふきょう対象たいしょう 武士ぶし農民のうみん都市としみん
社会しゃかい経済けいざいとのかかわり 荘園しょうえんせい古代こだいてき制度せいどととらえる。荘園しょうえん領主りょうしゅである寺社じしゃもまた古代こだいてきである。

はちむね体制たいせいろんじくとする田村たむら見解けんかいは、それまで混乱こんらん分裂ぶんれつのイメージでとらえられがちであったいわゆる「きゅう仏教ぶっきょう」のがわにも、共通きょうつう利害りがい由来ゆらいした一定いってい秩序ちつじょがあったことを指摘してきしたてん従来じゅうらいせつとはことなっており、これはやがてつぎ段階だんかいにおける鎌倉かまくら仏教ぶっきょう研究けんきゅうにあっておおきな課題かだいとして浮上ふじょうしていった[48]。すなわち、中世ちゅうせい社会しゃかいにおいて伝統でんとう仏教ぶっきょうがたがいに共存きょうぞんする体制たいせいをどうとらえるかが問題もんだいになったのである。

こうしたなか、従来じゅうらい思想しそう宗門しゅうもんによってすすめられてきた鎌倉かまくら仏教ぶっきょう研究けんきゅう宗教しゅうきょうへの総合そうごうてき統一とういつのなかであつかうことを提言ていげんした黒田くろだ俊雄としお1975ねん昭和しょうわ50ねん)、『日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか宗教しゅうきょう』などにおいて、「しん仏教ぶっきょう」「きゅう仏教ぶっきょう」という分析ぶんせき概念がいねんではなく、「正統せいとう」「改革かいかく」「異端いたん」の分析ぶんせき概念がいねん採用さいようした[52]。そして、鎌倉かまくら時代じだいにあっても南都なんとろくむね天台宗てんだいしゅう真言宗しんごんしゅうは「あらわみつ主義しゅぎ」という共通きょうつう基盤きばんゆうしており、むしろ密教みっきょうすすめてきた「きゅう仏教ぶっきょう」のほうこそが主流しゅりゅうであったという「あらわみつ体制たいせいろん」(「密教みっきょう統合とうごう原理げんりとしたあらわみつ仏教ぶっきょう併存へいそん体制たいせい」と規定きていされる[53])をとなえ、これら主流しゅりゅう寺社じしゃ勢力せいりょくたいする異端いたんとして法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれん道元どうげんらを位置いちづけ、一方いっぽう高弁こうべん叡尊えいぞんらを改革かいかくしゃ位置いちづけた[2][50][54][注釈ちゅうしゃく 32]。ここでは、従来じゅうらい古代こだいてきとのみなされてきた仏教ぶっきょう勢力せいりょく封建ほうけん領主りょうしゅいち形態けいたいとして中世ちゅうせいてき変化へんかげていく様態ようたい重視じゅうしされ[2][54]黒田くろだ自身じしん提唱ていしょうした権門けんもん体制たいせいろん国家こっかぞう前提ぜんていとしながら、政治せいじ社会しゃかい全体ぜんたいのなかで仏教ぶっきょうをとらえることで仏教ぶっきょうあらたな視点してん提供ていきょうした。家永いえなが井上いのうえらの「きゅう仏教ぶっきょう古代こだい仏教ぶっきょうしん仏教ぶっきょう中世ちゅうせい仏教ぶっきょう」という図式ずしき完全かんぜんにくつがえされた[54]。なお、国家こっかてき寺院じいんかつ古代こだい寺院じいんであった東大寺とうだいじが、荘園しょうえん領主りょうしゅとしての中世ちゅうせい寺院じいんまれわっていく過程かていについては、稲葉いなばしんどう久野くのおさむよし永村ながむらしんらの研究けんきゅうがある[55]

かつて鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょうによって克服こくふくされるべき古代こだいてき秩序ちつじょとみなされた「はちむね体制たいせい」は、日本にっぽん中世ちゅうせい研究けんきゅうあらたな蓄積ちくせきをふまえた黒田くろだによって換骨奪胎かんこつだったいされ、「あらわみつ体制たいせいろん」としてさい構築こうちくされた[56]。そして、田村たむらによって「はちむね」と総称そうしょうされ、しん仏教ぶっきょうによって克服こくふく対象たいしょうとされた伝統でんとう仏教ぶっきょうがわこそがむしろ中世ちゅうせいにおける正統せいとう仏教ぶっきょうとされたのである[56]黒田くろだによるあらわみつ体制たいせいろんをまとめると、以下いかのようになる[2]

項目こうもく 黒田くろだせつあらわみつ体制たいせいろん)による説明せつめい
しん仏教ぶっきょう 法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれん道元どうげんによる異端いたん仏教ぶっきょう弾圧だんあつけたいちにぎりの弟子でしたちの仏教ぶっきょうふくめる)。
きゅう仏教ぶっきょうきゅう仏教ぶっきょう改革かいかく 南都なんとろくむね平安へいあんむねきゅう仏教ぶっきょう高弁こうべん叡尊えいそん栄西えいさい一遍いっぺんきゅう仏教ぶっきょう改革かいかく法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれん道元どうげんらのだい部分ぶぶん弟子でし仏教ぶっきょう改革かいかくぞくする。
しん仏教ぶっきょう特色とくしょく 密教みっきょう否定ひてい世俗せぞく権力けんりょく対決たいけつしたため、異端いたんとして弾圧だんあつされる。
きゅう仏教ぶっきょう特色とくしょく 密教みっきょう世俗せぞく権力けんりょくとの癒着ゆちゃく中世ちゅうせい仏教ぶっきょうにおける正統せいとう
中世ちゅうせい仏教ぶっきょう 変質へんしつしたきゅう仏教ぶっきょうしん仏教ぶっきょう異端いたん少数しょうすう
布教ふきょう対象たいしょう 荘園しょうえん農民のうみん
社会しゃかい経済けいざいとのかかわり 荘園しょうえんせい中世ちゅうせいてき制度せいどととらえる。荘園しょうえん領主りょうしゅである寺社じしゃもまた中世ちゅうせいてきである。

法然ほうねん親鸞しんらん研究けんきゅうからはじまって黒田くろだあらわみつ体制たいせいろんをひきついだ上述じょうじゅつたいら雅行まさゆきによれば、「改革かいかく」は祈祷きとう重視じゅうしした戒律かいりつ興行こうぎょうふつ法王ほうおう法相ほうしょうろん主張しゅちょうぜんりつそうしょ活動かつどう勧進かんじん交通こうつう整備せいび葬送そうそう慈善じぜん救済きゅうさい事業じぎょう)を特色とくしょくとしており、「異端いたん」の特色とくしょくは、ざつぎょうざつしん否定ひていをともなう仏法ぶっぽう一元化いちげんか、此岸の宗教しゅうきょうてき平等びょうどう思想しそう一切衆生いっさいしゅじょう(「けがれあく群生ぐんせい」)という身分みぶん思想しそう、そして、あらわみつ仏教ぶっきょう思想しそうてき呪縛じゅばく宗教しゅうきょうてき領主りょうしゅ支配しはいからの民衆みんしゅう解放かいほうなどの諸点しょてんである[52][57][注釈ちゅうしゃく 33]

たいらはまた、中世ちゅうせいにおいても、鎮護ちんご国家こっか五穀豊穣ごこくほうじょう祈念きねんする「きゅう仏教ぶっきょう」は津々浦々つつうらうら末寺まつじ末社まっしゃのネットワークをめぐらし、全国ぜんこく一斉いっせい豊作ほうさく祈願きがんをおこなっていること、なかでも比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじでは、天台てんだい真言しんごんのみならず南都なんと仏教ぶっきょう浄土宗じょうどしゅう禅宗ぜんしゅうまで仏教ぶっきょうのあらゆる教学きょうがくこうじられる一方いっぽう和歌わか儒学じゅがく農学のうがく医学いがく天文学てんもんがくから医学いがく土木どぼく技術ぎじゅつにいたるまでのしょがく教授きょうじゅされていたことを指摘してきし、いわゆる「きゅう仏教ぶっきょう」は「中世ちゅうせい知識ちしき体系たいけい結節けっせつてん」でもあったとべている[58]。いわゆる「きゅう仏教ぶっきょう」はこのように、社会しゃかいてきにも、文化ぶんかてきにもきわめておおきな影響えいきょうりょく保持ほじしており、たいらはそのおおきさを「中世ちゅうせい社会しゃかいつらぬ文化ぶんか体系たいけい」と表現ひょうげんしている[58]。それにくらべれば、いわゆる「しん仏教ぶっきょう」がどう時代じだいにあたえた影響えいきょうりょくはほとんどなく、浄土真宗じょうどしんしゅう日蓮宗にちれんしゅう曹洞宗そうとうしゅう社会しゃかいてき意味合いみあいをもつようになるのは戦国せんごく時代じだいはいってからとしている。すなわち、応仁おうにん文明ぶんめいらん以後いご権門けんもん体制たいせいがくずれ、伝統でんとうはちむねあらわみつ仏教ぶっきょう)や五山ごさん凋落ちょうらくしたのにたいし、それにわって一揆いっき一向いっこう一揆いっき法華ほっけ一揆いっき)を組織そしきしておおくの信者しんじゃ獲得かくとくしたのが浄土真宗じょうどしんしゅうであり、日蓮宗にちれんしゅうであった。浄土じょうどきょうにおいては、浄土真宗じょうどしんしゅうにくらべ多数たすう信者しんじゃをかかえていた時宗じしゅう衰退すいたいし、禅宗ぜんしゅうのなかでは、五山ごさんわって林下りんかぜん曹洞宗そうとうしゅうけい臨済宗りんざいしゅうのなかでも大徳寺だいとくじ妙心寺みょうしんじなど五山ごさん以外いがい寺院じいんによるぜん)が勃興ぼっこうした。仏教ぶっきょうかいでも下剋上げこくじょううごきがおこって「異端いたん」のおしえが爆発ばくはつてきひろまっていったのであった[58]

遁世とんせいそう」という視座しざ[編集へんしゅう]

近年きんねん松尾まつおつよしが、かんそうおよび遁世とんせいそうという分析ぶんせき視覚しかく設定せっていして、あらたな鎌倉かまくら仏教ぶっきょうろん展開てんかいしている。それによれば、国家こっか公務員こうむいんてき僧侶そうりょであるかんそうたいし、その世界せかいから離脱りだつして遁世とんせいそうとなったそう祖師そしとして個人こじん救済きゅうさいにつとめた教団きょうだんこそが「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」としょうされるべきであり、その意味いみからは高弁こうべん明恵あきえ)や叡尊えいぞんなんら6しゅうとの差異さいみとめられないところから、「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」の範疇はんちゅうふくめてかんがえて問題もんだいないと主張しゅちょうしている[2]松尾まつおは、上述じょうじゅつ黒田くろだたいして宗教しゅうきょう展開てんかい社会しゃかい経済けいざい展開てんかいたいして自律じりつてきだとの見解けんかいっており、「しん仏教ぶっきょう」の呼称こしょう中世ちゅうせい仏教ぶっきょうあたらしさを典型てんけいてきしめすという意味いみもちいている[2]松尾まつお独自どくじ視点してんをまとめると下表かひょうのようになる[2]

項目こうもく 松尾まつおせつによる説明せつめい
しん仏教ぶっきょう 法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれん栄西えいさい道元どうげん一遍いっぺん高弁こうべん叡尊えいそんめぐみなどの遁世とんせいそう祖師そしとする教団きょうだん仏教ぶっきょう
きゅう仏教ぶっきょう かんそう僧団そうだん天皇てんのうより鎮護ちんご国家こっかいの資格しかくみとめられた僧侶そうりょ集団しゅうだん)による仏教ぶっきょう
しん仏教ぶっきょう特色とくしょく 個人こじん救済きゅうさい第一義だいいちぎとする個人こじん宗教しゅうきょう祖師そし信仰しんこうゆうする。
きゅう仏教ぶっきょう特色とくしょく 鎮護ちんご国家こっか祈祷きとう第一義だいいちぎとする共同きょうどうたい宗教しゅうきょう
中世ちゅうせい仏教ぶっきょう しん仏教ぶっきょう
布教ふきょう対象たいしょう 都市としてきでの「個人こじん[注釈ちゅうしゃく 34]
おど念仏ねんぶつのようすがえがかれた絵巻物えまきものいちへん上人しょうにんでん』(国宝こくほう

松尾まつおによれば、法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれん栄西えいさい道元どうげん一遍いっぺん高弁こうべん叡尊えいそんめぐみ鎮らは、いちへんをのぞけばすべていったんは受戒じゅかいして正式せいしきかんそうとなった人物じんぶつであり、なおかつ、かんそう集団しゅうだんとの対抗たいこう関係かんけい協力きょうりょく関係かんけいとおして、みずからの立脚りっきゃくすべきみちいだしていったそうである[2]松尾まつおは、「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」が一応いちおう社会しゃかいてきみとめられるにいたった鎌倉かまくら時代じだい後半こうはんにあらわれた一遍いっぺんもまた、事実じじつとしてはかんそう経験けいけんのなかった人物じんぶつであるにかかわらず、延暦寺えんりゃくじまなび、延暦寺えんりゃくじ戒壇かいだん受戒じゅかいしたという一種いっしゅ神話しんわが『いちへん上人しょうにん年譜ねんぷりゃく』にしるされていることから、遁世とんせいそう教団きょうだんかくとなったそうは、かんそうから離脱りだつしてさい出家しゅっけしたじゅう出家しゅっけしゃ遁世とんせいそう)であるべきとの観念かんねん流布るふしていたことが裏付うらづけられることを指摘してきしている[2]。そして、従来じゅうらいきゅう仏教ぶっきょう」にカテゴライズされていた高弁こうべん明恵あきえ)、叡尊えいそんめぐみ鎮もふくめて、「しん仏教ぶっきょう」の祖師そししょうされるべきあたらしい仏教ぶっきょう活動かつどう開始かいしし、在家ありいえ信者しんじゃ構成こうせいいんとする教団きょうだん樹立じゅりつしたのである(松尾まつおは、泉涌寺せんにゅうじしゅんうみじゅう山寺やまでら貞慶じょうけい三宝さんぼうてら大日だいにちのうにんもその可能かのうせいたかいとしている)[2]。さらに、これらの教団きょうだん祖師そし神話しんわをもち、祖師そしである遁世とんせいそうかくとして構成こうせいいんさい生産せいさんするシステムをつくりだしているのであり[2]具体ぐたいてきには、松尾まつおのいう「きゅう仏教ぶっきょう」が国家こっかてき得度とくどによって出家しゅっけ受戒じゅかいしたそうによってになわれ、法衣ほうえ律令りつりょう授戒じゅかいせいにあって白色はくしょく袈裟けさ着用ちゃくようすることがおおかったのにたいし、松尾まつおのいう「しん仏教ぶっきょう」は、天皇てんのうとは無関係むかんけい独自どくじ入門にゅうもん儀礼ぎれいのシステムをち、「けが」や賤を超越ちょうえつしたいろ認識にんしきされた黒衣くろごるなどのちがいがある[2][59]。そして、着衣ちゃくいいろは、それをているそう自己じこ認識にんしき象徴しょうちょうしていたとかんがえられるのである[59]

さらに、松尾まつおは、かんそうおおきな特権とっけんゆうしていた反面はんめん朝廷ちょうていつかえることによって「けがれ」を忌避きひしなければならず、公費こうひによって活動かつどうするため、けがれた存在そんざいとみられた女人にょにん救済きゅうさい[60]非人ひにん救済きゅうさい[61]けがれにふれる葬送そうそう[62]諸国しょこくをめぐりさまざまなけがれにふれる可能かのうせいたか勧進かんじん[42] などのしょ活動かつどうおおきな制約せいやくがあったのにたいし、くろ法衣ほうええらんだ遁世とんせいそう僧団そうだんは、かんそう特権とっけん制約せいやくはなれ、教義きょうぎ母体ぼたいをどこにくかにかかわらず、あるいは、戒律かいりつ重視じゅうしする・しないにかかわらず、女人にょにん救済きゅうさい非人ひにん救済きゅうさい葬送そうそう勧進かんじんなどのしょ活動かつどう従事じゅうじすることができたのであり、これこそが「しん仏教ぶっきょう」としょうされるべき内実ないじつであると主張しゅちょうした[2]

しん仏教ぶっきょう概念がいねん有効ゆうこうせいについて[編集へんしゅう]

一方いっぽうたいら雅行まさゆきは、「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」の分析ぶんせき概念がいねん有効ゆうこうであるかについて疑義ぎぎていしている。上述じょうじゅつとおり、貞慶じょうけいりょうへん法相ほうしょうむねにおいて従来じゅうらい教義きょうぎから逸脱いつだつするかのような大胆だいたん論理ろんり展開てんかいしたことやりつむね叡尊えいそん教団きょうだん従来じゅうらいとはことなるかんがかたにもとづいてあたらしい活動かつどうをおこない、そのになことなることから、ともに「しん仏教ぶっきょう」としょうされてよい内実ないじつそなえている一方いっぽう日蓮にちれんのめざしたことは「天台宗てんだいしゅう復興ふっこう」であり、南北なんぼくあさ室町むろまち日蓮宗にちれんしゅう寺院じいん延暦寺えんりゃくじ末寺まつじであって日蓮宗にちれんしゅう僧侶そうりょおおくそこでまなんでいることから、むしろ「きゅう仏教ぶっきょう復興ふっこう」という範疇はんちゅうにふくめてよいとしたうえで、「きゅう仏教ぶっきょう」と「しん仏教ぶっきょう」をける基準きじゅんが、じつ江戸えど時代じだいにあったことを指摘してきした[36]。すなわちたいらは、江戸えど時代じだい独自どくじ宗派しゅうはとして認可にんかされたもののうち、中世ちゅうせい前半ぜんはん宗祖しゅうそをいただいている宗派しゅうはだけが従来じゅうらい鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」としょうされてきたのにすぎないとべ、そうであるならば、「しん仏教ぶっきょう」はむしろ「江戸えどしん仏教ぶっきょう」とぶのが実態じったいとしては正確せいかくであるとしている[36][注釈ちゅうしゃく 35]

さらにたいらは、古代こだい仏教ぶっきょうは、9世紀せいきから10世紀せいきさかいとして、密教みっきょうかくとして諸宗しょしゅうしょ信仰しんこう統合とうごうがなされ、個人こじんてき仏教ぶっきょう信仰しんこう発達はったつするというだい変貌へんぼうげており[63]、すでに平安へいあん時代じだい中期ちゅうきにおいて、末法まっぽう思想しそう喧伝けんでんすることによって、国司こくし武士ぶし横暴おうぼうからすくい、みずからをすくうというかたちで民衆みんしゅう不満ふまん吸収きゅうしゅうしながら、仏教ぶっきょう民衆みんしゅうをすでに達成たっせいしていた事実じじつ指摘してきした[36]。その根拠こんきょとして、平安へいあん時代じだい文献ぶんけんには悪人あくにん往生おうじょう女人にょにん成仏じょうぶつはなしおお収載しゅうさいされていること、また、当時とうじおこなわれた「悪僧あくそう」たちの強訴ごうそにしても、民衆みんしゅう運動うんどうとしてのいち側面そくめんがあったことがかかげられている[36]

以上いじょうのことから、たいらは、従来じゅうらい分析ぶんせき用語ようごとしてもちいられてきた「鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう」の呼称こしょうは、親鸞しんらん日蓮にちれんらの影響えいきょうりょく過大かだいすることを前提ぜんていにしたものであり、これはむしろ、近世きんせいにおける宗派しゅうは秩序ちつじょ中世ちゅうせい投影とうえいさせることによってしょうじた誤解ごかいではないかとろんじている[64]。もとより、たいらは「しん仏教ぶっきょう」(たいら用語ようごでは「異端いたん」)の歴史れきしてき意義いぎとして、上述じょうじゅつのように、仏法ぶっぽう一元化いちげんか純粋じゅんすい絶対ぜったい)をすすめて社会しゃかい批判ひはんけ、人間にんげん平等びょうどう主張しゅちょうして民衆みんしゅう解放かいほうしたことをげているが、同時どうじに、鎌倉かまくら仏教ぶっきょう分類ぶんるい定義ていぎは、その内在ないざいせいそくして検討けんとうされるべきことを主張しゅちょうしているのである[36][57]


鎌倉かまくら仏教ぶっきょう概念がいねんをめぐっては、以上いじょうのように活発かっぱつ議論ぎろんがおこなわれてきたが、こんにちでは鎌倉かまくら仏教ぶっきょう変容へんよう時間じかんてき推移すいいのなかで探究たんきゅうしていくこと、および、経済けいざいおよび政治せいじとの関係かんけいせいのなかで鎌倉かまくら仏教ぶっきょう全体ぜんたい構築こうちくしていくことが重要じゅうよう課題かだいとなっている[52]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 黒谷くろたに別所べっしょは、比叡山ひえいざん山中さんちゅうにあっても本寺ほんじである延暦寺えんりゃくじとはべつ組織そしきであり、かんそうから離脱りだつしたきよし場所ばしょであった。いわば、かんてら俗界ぞっかい境界きょうかいてきであるといえる。松尾まつお(1995)p.30
  2. ^ 浄土じょうどそうひらくそう法然ほうねん回心かいしん)の時期じきをもっとのこととするせつもみられる。井上いのうえ光貞みつさだは1190ねんさんけいしゃく著述ちょじゅつ以前いぜんのある時期じき赤松あかまつ俊秀としひでは1175ねん以降いこう福井ふくい康順こうじゅんは1204ねん以降いこうなど。
  3. ^ 法然ほうねん上人しょうにん行状ぎょうじょう絵図えず』などでは実際じっさい執筆しっぴつにあたったのは安楽あんらくぼう遵西やしんかんぼうかん西にしなどであった。松岡まつおかただしつよしせんせんさつ選択せんたく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう
  4. ^ とらせきげんとおるしゃくしょ』では「のう読」「のうごえ」「のうせつ」を総称そうしょうして「おとげい」としるしている。
  5. ^ 現在げんざい愛媛えひめけん松山まつやま道後どうご宝厳寺たからがんじ門前もんぜんに「いちへん上人しょうにん誕生たんじょう旧蹟きゅうせき」のいしぶみっている。
  6. ^ 遊行ゆぎょうもふくめのちに時宗じしゅう12とよばれる。黒田くろだ(1979)p.226
  7. ^ 「旃陀(せんだら)」は、インドのさい下層かそうヴァルナよりさらに下位かい位置いちする差別さべつみん「チャンダーラ」をかん音訳おんやくしたものである。村上むらかみ(1981)p.98村上むらかみ重良しげよしは、そこから日蓮にちれん出自しゅつじ寺院じいん隷属れいぞくみん出身しゅっしんだったと推定すいていしているが、入間田いりまだ宣夫のりおそうかんクラスの子弟してい尾藤びとう正英まさひで一般いっぱん庶民しょみん出身しゅっしん松尾まつおつよし漁師りょうしとしている。村上むらかみ(1981)p.98入間田いりまだ(1991)p.294尾藤びとう(2000)p.106松尾まつお(1995)p.33
  8. ^ 1271ねんぶんなが8ねん)に片瀬かたせ神奈川かながわけん藤沢ふじさわ)の龍ノ口たつのくちでひそかに斬殺ざんさつされようとした日蓮にちれんてん加護かごによりたすかったという龍ノ口たつのくち法難ほうなんは、後世こうせい創作そうさくされた伝説でんせつかんがえられている。村上むらかみ(1981)p.101
  9. ^ 一念いちねんさんせん」とは、一瞬いっしゅん思念しねんのなかに三千世界さんぜんせかい実相じっそうをみるという意味いみである。尾藤びとう(2000)p.109
  10. ^ 奈良なら時代じだい華厳宗けごんしゅうそう良弁りょうべんとはべつ人物じんぶつである。
  11. ^ 比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ立場たちば日蓮にちれん立場たちばとは相違そういがみられるものの、両者りょうしゃは、ぜんたいする攻撃こうげきについては、禅宗ぜんしゅう止観しかん法華ほっけ排除はいじょないし軽視けいししていることを理由りゆうとするてん共通きょうつうしている。それにたいし、栄西えいさい建仁寺けんにんじぜんのほか真言しんごん止観しかんりょうぎょうをおいている。多賀たが(1965)pp.94-95
  12. ^ 無住むじゅうすなせきしゅう』(1283ねん成立せいりつ)では栄西えいさいけん僧正そうじょうにんじられたことを、「遁世とんせいでありながら僧正そうじょうになったのは、遁世とんせいそう非人ひにんのようにさげすまれていたので、いわば遁世とんせいそう地位ちい向上こうじょうのために僧正そうじょうになったのだ」と弁護べんごしている。松尾まつお(1995)p.33
  13. ^ 建長寺けんちょうじ2せい兀庵ひろしやすし(1197ねん-1276ねん)もそうからの渡来とらいそうであるが、ときたよ死後しご支持しじしゃうしなって帰国きこくした。鎌倉かまくら事典じてん(1992)
  14. ^ 室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつもまた、臨済宗りんざいしゅう保護ほごし、そうかんてらせいにならい「五山ごさんじゅうせい」をもうけた。
  15. ^ 1240年代ねんだいから14世紀せいきなかばまでのやく100年間ねんかんで30めいほどの中国ちゅうごくからの渡来とらいそう、200めい以上いじょう渡海とかいそう確認かくにんされている。村井むらい(2004)pp.67-69
  16. ^ 中世ちゅうせいにおける禅林ぜんりん民族みんぞくてき世界せかいからっており、さかんに文化ぶんか交流こうりゅうがおこなわれて「アジアの国際こくさい社会しゃかい」を創出そうしゅつしていた。村井むらい(2004)pp.83-86
  17. ^ 寺社じしゃ造営ぞうえいりょう唐船とうせんとして鎌倉かまくら幕府ばくふ公認こうにんのもと建長寺けんちょうじせんみなみそうに、室町むろまち幕府ばくふ公認こうにんのもと天龍寺てんりゅうじせんもとに、おくられている。
  18. ^ 道元どうげんいもうとんだ土御門天皇つちみかどてんのうであり、承久じょうきゅうらん連坐れんざして配流はいるされたさん上皇じょうこう一人ひとりである。ただし、らんには無関係むかんけいみずか土佐とさこくおもむいた。
  19. ^ 永平寺えいへいじは、1244ねんひろしもと2ねん)にてられただい仏寺ぶつじ起源きげんであり、その2ねん中国ちゅうごく仏教ぶっきょうつたわったとされるこうかん元号げんごうながひらたにちなみ、また、戦乱せんらんを倦いて「永久えいきゅう平和へいわ」をねがったところから改称かいしょうされた。
  20. ^ 正法しょうぼうぞう』の書名しょめいは、真理しんり見通みとお知恵ちえ正法しょうぼう)によってさとられた秘蔵ひぞうほう意味いみしている。村上むらかみ(1981)p.97
  21. ^ 時間じかんろんについては、75かん本中ほんなかだい20かんゆう」が「いはゆるゆうは、ときすでにこれゆうなり、ゆうはみななり」の一節いっせつとともにられており、マルティン・ハイデッガーアンリ・ベルクソン時間じかんろん匹敵ひってきする時間じかん哲学てつがくひょうされる。松岡まつおかただしつよしせんせんさつ正法しょうぼうぞう
  22. ^ 社会しゃかい上層じょうそう階級かいきゅうむす臨済宗りんざいしゅう庶民しょみんひろまった曹洞宗そうとうしゅうとを対照たいしょうさせて「臨済将軍しょうぐん、曹洞土民どみん」のかたりまれている。村上むらかみ(1981)p.98
  23. ^ 承久じょうきゅうらん幕府ばくふぐん指揮しきかんとしてきょうにのぼり初代しょだいろく探題たんだいとなった北条ほうじょうやすし高弁こうべん出会であっており、たい執権しっけん就任しゅうにんさだめた『成敗せいばい式目しきもく』の理念りねん高弁こうべん思想しそうからつよ影響えいきょうけたといわれる。
  24. ^ 松尾まつおつよしは、高弁こうべん明恵あきえ)を祖師そしとする教団きょうだんを「しん華厳けごん教団きょうだん」とんでいる。松尾まつお(1995)p.37
  25. ^ 現在げんざいでは真言宗しんごんしゅうてらであるが、江戸えど時代じだいにあっては「御寺おてら」とばれ、歴代れきだい天皇てんのうはか月輪げつりんりょうがあった。
  26. ^ 松尾まつおつよしは、叡尊えいそん祖師そしとする教団きょうだんを「しんりつ宗教しゅうきょうだん」とんでいる。松尾まつお(1995)p.38
  27. ^ 叡尊えいそん授戒じゅかいした人数にんずうにくらべて親鸞しんらん直弟子じきでしは75にんであり、鎌倉かまくら時代じだいにあっては親鸞しんらん教団きょうだんけっして代表だいひょうてき教団きょうだんとはいえなかった。松尾まつお(1995)p.180
  28. ^ 東大寺とうだいじだい勧進かんじんしょくには、1181ねん養和ようわ元年がんねん)から1527ねんだいひさし7ねん)まで、中断ちゅうだんをはさみ46にんにんじられているが、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう別当べっとうをつとめただい6だいだい勧進かんじんていおやをのぞくとすべて遁世とんせいそうであった。松尾まつお(1995)p.70
  29. ^ はちむね綱要こうよう』における「はちむね」とは、『興福寺こうふくじそうじょう』でしるされた「はちむね」と同様どうよう法相ほうしょうむね倶舎むねさんろんむねなりじつむね華厳宗けごんしゅうりつむね南都なんとろくむねおよび天台宗てんだいしゅう真言宗しんごんしゅう平安へいあんむねのことである。
  30. ^ 密教みっきょうけいからは、鎌倉かまくら時代じだいの13世紀せいき前半ぜんはんごろ、荼枳あまてんまつり「髑髏しゃれこうべ本尊ほんぞん」という性的せいてき儀式ぎしきおこな名称めいしょう不明ふめい密教みっきょう集団しゅうだん便宜上べんぎじょうかれほう集団しゅうだん呼称こしょう)があらわれたが、弾圧だんあつけ、14世紀せいき前半ぜんはんごろに消滅しょうめつした[44]。この集団しゅうだん密教みっきょうけいであり、真言宗しんごんしゅうをある程度ていどしてはいるものの、その血脈けちみゃく正統せいとう真言しんごん密教みっきょうのものではない[45]。なお、通俗つうぞくしょや、研究けんきゅうしゃによってかれた書籍しょせきでも2000年代ねんだい以前いぜんのもの(たとえば村上むらかみ(1981)pp.107-108)では、この性的せいてき儀式ぎしき団体だんたい真言宗しんごんしゅう醍醐だいご三宝さんぼういんけい正統せいとうほうりゅうである真言しんごん立川たつかわりゅう混同こんどうするものがおおいが、21世紀せいき現在げんざい研究けんきゅうでは史料しりょう批判ひはんによって誤解ごかいであると判明はんめいしている[44]詳細しょうさいかれほう集団しゅうだん#歴史れきし)。
  31. ^ 叡尊えいそんは、戒律かいりつ密教みっきょう真言宗しんごんしゅう)をほんばしらとしてとらえ、両者りょうしゃを「日月じつげつのごとし」(戒律かいりつ太陽たいようであるなら密教みっきょうつきである)とろんじて、両者りょうしゃ不可分ふかぶんであることをいている。松尾まつお(1995)p.159
  32. ^ 黒田くろだによる「あらわみつ体制たいせい」の議論ぎろんは、『日本にっぽん中世ちゅうせい国家こっか宗教しゅうきょう』のほか「中世ちゅうせい寺社じしゃ勢力せいりょくろん」(1975)『寺社じしゃ勢力せいりょく』(1980)などに収載しゅうさいされている。佐藤さとう(1991)p.97
  33. ^ ふつ法王ほうおう法相ほうしょうろんとは、『興福寺こうふくじそうじょうだい9じょう仏法ぶっぽう王法おうほうなお身心しんしんのごとし。かたみにその安否あんぴをみ、よろしくかの盛衰せいすいるべし」にはしてきしめされたかんがえで、仏法ぶっぽうはちむね)と王法おうほう公家くげ政権せいけん)の共存きょうぞん共栄きょうえい思想しそうである。佐藤さとう(1991)p.92
  34. ^ 松尾まつおとくに、「(親鸞しんらん聖人せいじんのつねのおほせには、わたる陀のこう思惟しいねがいをよくよくあんずればひとへに親鸞しんらん一人ひとりがためなり」(『歎異しょう』)における親鸞しんらん述懐じゅっかいを、なやめる「個人こじん」の述懐じゅっかいであり、阿弥陀あみだ救済きゅうさい対象たいしょうがまさしく「個人こじん」であったことの証左しょうさ評価ひょうかしている。松尾まつお(1995)p.165
  35. ^ 戦国せんごく時代じだいに「きゅう仏教ぶっきょう」と臨済宗りんざいしゅう五山ごさん凋落ちょうらくし、日蓮宗にちれんしゅう浄土真宗じょうどしんしゅう曹洞宗そうとうしゅうなどが自立じりつ発展はってんげたことから「戦国せんごくしん仏教ぶっきょう」の呼称こしょう提唱ていしょうする立場たちばもある。たいら雅行まさゆき中世ちゅうせいぞう変化へんか鎌倉かまくら仏教ぶっきょう(2)」(2008) (PDF)

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]