悪人あくにんせい

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悪人あくにんせいせつから転送てんそう

悪人あくにんせい(あくにんしょうき)は、浄土真宗じょうどしんしゅう教義きょうぎなか重要じゅうよう意味いみ思想しそうで、「“悪人あくにん”こそが阿弥陀あみだほとけ本願ほんがん他力本願たりきほんがん)による救済きゅうさいしゅせいである」という意味いみである。

阿弥陀あみだぼとけ救済きゅうさいしたい対象たいしょうは、衆生しゅじょう[1]である。すべての衆生しゅじょうは、末法まっぽう濁世じょくせきる煩悩ぼんのう具足ぐそく凡夫ぼんぷたる「悪人あくにん」である。よって自分じぶんは「悪人あくにん」であると目覚めざめさせられたものこそ、阿弥陀あみだふつ救済きゅうさい対象たいしょうであることをりえるというである。

悪人あくにん善人ぜんにん[編集へんしゅう]

悪人あくにんせい」の意味いみじょうで、「善人ぜんにん」と「悪人あくにん」をどのように解釈かいしゃくするかが重要じゅうようである。ここでいう善悪ぜんあくとは、法的ほうてき問題もんだい道徳どうとくてき問題もんだいをさしているのではない。また一般いっぱんてき常識じょうしきてき善悪ぜんあくでもない。親鸞しんらんいたのは「阿弥陀あみだふつ視点してん」による善悪ぜんあくである。

法律ほうりつ倫理りんり道徳どうとく基準きじゅんにすれば、このには善人ぜんにん悪人あくにんがいるが、どんなちいさなあく見逃みのがさないふつかられば、すべてのひと悪人あくにんだと浄土真宗じょうどしんしゅうではおしえる。[2]

悪人あくにん
衆生しゅじょうは、末法まっぽうきる凡夫ぼんぷであり、ふつ視点してんによれば「善悪ぜんあく」の判断はんだんすらできない、根源こんげんてきな「悪人あくにん」であるととらえる。
阿弥陀あみだふつ光明こうみょうらされたとき、すなわち真実しんじつ目覚めざめさせられたときに、みずからがまことのぜんひとつも出来できない悪人あくにんであるとづかされる。[3]そのときはじめて気付きづかされる「悪人あくにん」である。
善人ぜんにん
親鸞しんらんはすべてのひと本当ほんとう姿すがた悪人あくにんだとべているから、「善人ぜんにん」は、真実しんじつ姿すがたからず善行ぜんこう完遂かんすいできないであることづくことのできていない「悪人あくにん」であるとする。
また自分じぶんのやった善行ぜんこうによって往生おうじょうしようとする行為こうい自力じりきさくぜん)は、「どんな悪人あくにんでも救済きゅうさいする」とされる「阿弥陀あみだふつほん願力がんりき」をうたがしんであるととらえる。(#本願ほんがんぼこり参照さんしょうのこと。)
因果いんが
凡夫ぼんぷは、「よし」がもたらされ、「えん」によっては、おもわぬ「はて」をむ。つまり、ぜんおもったことよし)が、えんによっては、ぜんをもたらすこと善果ぜんか)もあれば、あくをもたらすことあくはて)もある。どのような「はて」をむか、わからないのも「悪人あくにん」である。

救済きゅうさい対象たいしょう[編集へんしゅう]

仏説ぶっせつ無量むりょう寿ことぶきけい』には、すべてのひとくるしみにあえいでいる姿すがたをつぶさに観察かんさつした法蔵ほうぞう菩薩ぼさつ阿弥陀あみだふつ修行しゅぎょう時代じだい名前なまえ)は、このひとたちすべてがふつとなってしあわせになってもらいたいとちかいをてた。その48のねがだい18番目ばんめねがいに、「しつらえわがとくふつ 十方じっぽう衆生しゅじょう 至心ししん信樂しがらき よくせい我國わがくに 乃至ないし十念じゅうねん わか生者しょうじゃ 正覺しょうがく ただじょぎゃく誹謗ひぼう正法しょうぼう」(意訳いやく:わたしがふつになるとき、すべての人々ひとびとしんから念仏ねんぶつして、わたしのくにうまれたいとねがい、わずかじゅうかいでも念仏ねんぶつして、もしうまれることができないようなら、わたしはけっしてさとりをひらきません。ただし、五逆ごぎゃくつみおかしたり、ふつおしえをそしるものだけはのぞかれます。[4])とかれている。

十方じっぽう衆生しゅじょう」、すなわちすべての衆生しゅじょう救済きゅうさい対象たいしょうである。また至心ししん信楽しがらきよくせいは、如来にょらいねがいによるものである。よってみずからのけいらいによる善悪ぜんあくは、阿弥陀あみだによる救済きゅうさい条件じょうけん手段しゅだんにはならない。

ただじょぎゃく誹謗ひぼう正法しょうぼう」(「ただじょぶん」)についての親鸞しんらん了解りょうかいは、くもりの『浄土じょうどろん』、善導ぜんどうの『かん無量むりょう寿ことぶきけい』にるものである。詳細しょうさいは、「よんじゅうはちねがい#ただじょぶん」を参照さんしょうのこと。

我々われわれ行為こうい下記かきのように、本質ほんしつてきには「あく」でしかない。

  1. 自分じぶんのやった善行ぜんこうによって往生おうじょうしようとおもうのは、阿弥陀あみだふつ誓願せいがんのはたらきをうたがいのしんによる。
  2. なにおこなうにしろ我々われわれにはつね欲望よくぼう煩悩ぼんのう)があり、そのけいらいによる行為こういはすべてあくはん悩濁)でしかない。
  3. いことをしようにも、実際じっさいにはみずからの善悪ぜんあく基準きじゅんでしかなく、本質ほんしつてき善悪ぜんあく判断はんだん基準きじゅんがない。

すべての衆生しゅじょう根源こんげんてきな「悪人あくにん」であるがゆえに、阿弥陀あみだふつ救済きゅうさい対象たいしょうは、「悪人あくにん」であり、その本願ほんがんりょくによってのみ救済きゅうさいされるとする。つまり「わたる陀の本願ほんがん相応そうおうしたとき自分じぶん阿弥陀あみだぼとけ見抜みぬかれたとおり、ひとつのぜんもできない悪人あくにんだったとらされるから、はや本当ほんとう自分じぶん姿すがたりなさい」[5]とするのが、「悪人あくにんせい」の本質ほんしつである。

しかしこのことは、「欲望よくぼうのままに悪事あくじおこなってもい」と誤解ごかいされやすく注意ちゅういようする。(#本願ほんがんぼこり参照さんしょう)。

さらに、親鸞しんらんみずからをふか内省ないせいすることによって、阿弥陀あみだふつ誓願せいがんこしてふつったと『仏説ぶっせつ無量むりょう寿ことぶきけい』でかれていることは、「親鸞しんらん一人ひとりのためであった」[6]と、阿弥陀あみだふつほん願力がんりき自己じこのもの、つまり我々われわれ一人ひとりいちにんのためであったとめ、称名しょうみょう念仏ねんぶつは、くだりではなく、その報恩ほうおんしゃとくのためであるとすす教化きょうかした。 このてんが、宗教しゅうきょうしゃとしての親鸞しんらん独自どくじせいである。

以上いじょう浄土真宗じょうどしんしゅう立場たちばであり、それをしめすのがつづ引用いんようである。

善人ぜんにんなほもて往生おうじょうをとぐ、いはんや悪人あくにんをや。しかるをひとつねにいはく、「悪人あくにんなほ往生おうじょうす、いかにいはんや善人ぜんにんをや」。

このじょう一旦いったんそのいはれあるにたれども、本願ほんがん他力たりき意趣いしゅにそむけり。

そのゆゑは、自力じりきさくぜんひと善人ぜんにん)は、ひとへに他力たりきをたのむこころけたるあひだ、わたる陀の本願ほんがんにあらず。しかれども、自力じりきのこころをひるがへして、他力たりきをたのみたてまつれば、真実しんじつほう往生おうじょうをとぐるなり。煩悩ぼんのう具足ぐそくのわれら(悪人あくにん)は、いづれのくだりにても生死せいしをはなるることあるべからざるを、あはれみたまひてねがいをおこしたまふ本意ほんい悪人あくにん成仏じょうぶつのためなれば、他力たりきをたのみたてまつる悪人あくにん、もつとも往生おうじょう正因まさよりなり。よつて善人ぜんにんだにこそ往生おうじょうすれ、まして悪人あくにんはと、おおこうひき。 — 『歎異しょうだい3しょう

親鸞しんらん以前いぜん悪人あくにんせいせつ[編集へんしゅう]

この悪人あくにんせいせつは、親鸞しんらん独創どくそうではないことはすでにられている。浄土宗じょうどしゅう法然ほうねんが、7世紀せいきしん華厳宗けごんしゅう学者がくしゃであるもとあかつき(がんぎょう)の『ゆうしん安楽あんらくどう』をいている。(なお、近年きんねんでは『ゆうしん安楽あんらくどう』がもとあかつき仮託かたくにせせんしょである可能かのうせい指摘してきされている[7]。)

よんじゅうはち大願たいがんはつにまず一切いっさい凡夫ぼんぷのため、ねてさんじょう聖人せいじんのためにす。ゆえんぬ。浄土宗じょうどしゅうほん凡夫ぼんぷのため、ねては聖人せいじんのためなり。 — もとあかつきゆうしん安楽あんらくどう

また浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじだいさんせいさとしも、もと法然ほうねんおしえであるとしている。

本願寺ほんがんじ聖人せいじん親鸞しんらん)、黒谷くろたにさきとく法然ほうねん)より相承そうしょうとて、如信上人しょうにんおおせられていはく、「のひとつねにおもへらく、悪人あくにんなほもって往生おうじょうす、いはんや善人ぜんにんをやと。このこととほくはわたる陀の本願ほんがんにそむき、ちかくは釈尊しゃくそん出世しゅっせ金言きんげんたがえせり。そのゆゑはこう思惟しい苦労くろうろくまんぎょう堪忍かんにん、しかしながら凡夫ぼんぷようのためなり、まつたく聖人せいじんのためにあらず。しかれば凡夫ぼんぷ本願ほんがんじょうじてむくい往生おうじょうすべきせいなり。 (中略ちゅうりゃく)しかればしゃくげんぶん)にも、「一切いっさい善悪ぜんあく凡夫ぼんぷとく生者しょうじゃ」ととうのたまへり。これもあく凡夫ぼんぷほんとして、ぜん凡夫ぼんぷをかたはらにかねたり。かるがゆゑにはたたるぜん凡夫ぼんぷ、なほ往生おうじょうせば、もつぱらせいたるあく凡夫ぼんぷ、いかでか往生おうじょうせざらん。しかれば善人ぜんにんなほもて往生おうじょうす、いかにいはんや悪人あくにんをやといふべし」とおおせごとありき。

— さとし口伝くでん

このように、すでにふるくから阿弥陀あみだふつ目的もくてき凡夫ぼんぷ救済きゅうさい目標もくひょうとしていること、悪人あくにんせいおしえが親鸞しんらん独創どくそうではないこと指摘してきされていた。

法然ほうねんも『選択せんたくしゅう』に「極悪ごくあく最下さいかひとのためにごくぜん最上さいじょうほうく」とべており、悪人あくにんせいせつ展開てんかいしている。親鸞しんらん悪人あくにんせいせつは、この法然ほうねんせつ敷衍ふえんしたものとおもえる。 しかし、法然ほうねんはどこまでもぜんおこな努力どりょくたっとんだのであり、かえって善人ぜんにんになれない自己じこをして、より一層いっそう努力どりょくをすべきだという立場たちばである。『和語わごとうろく』に「つみをば十悪じゅうあくぎゃくものなおなままるとしんじて、しょうつみをもおかさじとおもふべし」とあるのは、これをしめしている。法然ほうねんあくつつしぜんつとめることをすすめたのである。

みなもとさとししるしたとつたえられる法然ほうねん伝記でんきひとつである醍醐だいごほん法然ほうねん上人しょうにん伝記でんき』(『昭和新しょうわしん修法しゅほうしか上人しょうにん全集ぜんしゅう所収しょしゅう)のなかに「善人ぜんにんひさし以往いおうなまきょう悪人あくにん口伝くでんゆう」と[8]、『口伝くでん鈔』『歎異しょう』とおな文言もんごんがあり、ともに法然ほうねん口伝くでんとしていることから、末木すえきぶんは「みなもとそら門下もんかひとたちによって、スローガンてきつてもたされたものではないか」としている。[9]

法然ほうねん上人しょうにん伝記でんき』・醍醐だいご寺本てらもと大正たいしょう6ねん醍醐寺だいごじ三宝さんぼういん真言宗しんごんしゅう)から発見はっけんされ、法然ほうねん弟子でしみなもとさとしのこしたとされる文書ぶんしょ写本しゃほんである。このうち「さんしん料簡りょうけんおよび法語ほうご」には、「歎異しょう」と酷似こくじした表現ひょうげん悪人あくにんせい思想しそう意味いみ誤解ごかい注意ちゅういしるされている。文献ぶんけん内容ないよう法然ほうねん自身じしんかたった思想しそうであるかかについては議論ぎろんがある[10][11]

いち善人ぜんにんひさし以往いおうなまきょう悪人あくにん乎事 <口伝くでんゆうわたしうんわたる陀本ねがい 以自りょくはなれ生死せいしゆう方便ほうべん 善人ぜんにんためをこしきゅうはす。あいごくじゅう悪人あくにん方便ほうべんやからをこしきゅうへり。 しかるを菩薩ぼさつけんひじりづけもとめ往生おうじょう凡夫ぼんぷ善人ぜんにん此願とく往生おうじょうきょう罪悪ざいあく凡夫ぼんぷゆう憑此他力たりきうん也。 あく領解りょうかい不可ふかじゅう邪見じゃけんたとえ如云ほんため凡夫ぼんぷけんため聖人せいじんのうのう得心とくしん得心とくしん[12] — 『ほうしか上人しょうにん伝記でんきさんしん料簡りょうけんおよび法語ほうご

本願ほんがんぼこり[編集へんしゅう]

悪人あくにんせい意味いみ誤解ごかいして「悪人あくにんすくわれるというなら、積極せっきょくてき悪事あくじそう」という行動こうどうものあらわれた。これを「本願ほんがんぼこり」とう。親鸞しんらんはこの事態じたい憂慮ゆうりょして「くすりあればとてどくをこのむべからず」といましめている。

ただし今度こんどはこの訓戒くんかいぎゃくぎて、たとえば悪行あくぎょうをなしたもの念仏ねんぶつ道場どうじょうへのりを禁止きんしするなどの問題もんだいきたことを、ただえんは『歎異しょう』において批判ひはんしている。[13]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 衆生しゅじょうきとしけるすべてのもの有情うじょうとも。
  2. ^ 一切いっさい群生ぐんせいかいはじめよりこのかた、乃至ないし今日きょう今時いまどきいたるまで、けがれあく汚染おせんにして清浄せいじょうしんなし、虚仮こけ諂偽にして真実しんじつしんし。(教行信証きょうぎょうしんしょうしんまき)
  3. ^ 一切いっさい平凡へいぼんしょう一切いっさいなかに、むさぼあいしんつねのう善心ぜんしんよごし、瞋憎のしんつねのうほうざいく。きゅうさくきゅうおさむしてあたまもえをはらうがごとくすれども、すべて「ざつどくざつおさむぜん」とけ、また「虚仮こけ虚仮こけ・諂偽のくだり」とく。「真実しんじつごう」とけざるなり。(教行信証きょうぎょうしんしょうしんまき)
  4. ^ 浄土真宗じょうどしんしゅう教学きょうがく編集へんしゅうしょ 浄土真宗じょうどしんしゅう聖典せいてん編纂へんさん委員いいんかい 編纂へんさん 『<浄土真宗じょうどしんしゅう聖典せいてん>あきら浄土じょうど真実しんじつきょうぎょう証文しょうもんるい -現代げんだいばん-』 本願寺ほんがんじ出版しゅっぱんしゃ、2000ねん、P.29より引用いんよう
  5. ^ 決定けっていして自身じしんは、げんにこれ罪悪ざいあく生死せいし凡夫ぼんぷ、曠劫よりこのかた、つねに沈しつね流転るてんして出離しゅつりえんことしとふかしんじす(教行信証きょうぎょうしんしょうしんまき)
  6. ^ 親鸞しんらん一人ひとりのためであった」…『歎異しょう』の意訳いやく原文げんぶんは、「親鸞しんらん一人ひとりがためなりけり」
  7. ^ めぐみたにたかし戒「しんもとあかつきゆうしん安楽あんらくどう偽作ぎさく」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい23かんだい1ごう日本にっぽん印度いんどがく仏教ぶっきょう学会がっかい、1974ねん、16-23ぺーじdoi:10.4259/ibk.23.16NAID 1300040234262018ねん12月22にち閲覧えつらん 
  8. ^ 昭和新しょうわしん修法しゅほうしか上人しょうにん全集ぜんしゅう』p454
  9. ^ 日本にっぽん仏教ぶっきょう思想しそう論考ろんこう』p431-438
  10. ^ さんしん料簡りょうけんおよび法語ほうご」の問題もんだいてんについて
  11. ^ 浄土宗じょうどしゅう全書ぜんしょ検索けんさくシステム
  12. ^ 大意たいい善人ぜんにんひさし以往いおうなまきょう悪人あくにん乎について (※口伝くでんがある) わたし[=さんしん料簡りょうけんふでろくしゃ]のかんがえでは、阿弥陀あみだほとけちかわれた本願ほんがんは、自力じりき生死せいしつづける存在そんざいから離脱りだつする(ふつになる)手段しゅだんてるような善人ぜんにんけてではない。ごくじゅう悪人あくにんのなんら手段しゅだんのない連中れんちゅうあわれにおもちかいをたてられた。それなのに、菩薩ぼさつ聖人せいじんがこの本願ほんがんにたよって往生おうじょうもとめ、凡夫ぼんぷ善人ぜんにんがこの本願ほんがん帰依きえして往生おうじょうするのだから、まして罪悪ざいあくふかおも凡夫ぼんぷ他力たりきたよるのはより当然とうぜんのことだ、などとっている。間違まちがった理解りかいであり、あやまりの見解けんかいとどまってはならない。たとえば本来ほんらい凡夫ぼんぷのためであり、聖人せいじんのためをもねる、とあるように、よくよく理解りかいしなさい。
  13. ^ 日本にっぽん思想しそうぜん』141ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • かじむらのぼり法然ほうねん言葉ことばだった「善人ぜんにんなをもて往生おうじょうをとぐいはんや悪人あくにんをや」』大東だいとう出版しゅっぱんしゃ、1999ねんISBN 4-500-00649-4 
  • 末木すえきぶん日本にっぽん仏教ぶっきょう思想しそう論考ろんこう大蔵おおくら出版しゅっぱん、1993ねんISBN 4-8043-0525-4 
  • 瓜生津うりうづりゅうしん細川ほそかわ行信ゆきのぶ へん真宗しんしゅうしょう事典じてん』(新装しんそうばん法藏館ほうぞうかん、2000ねんISBN 4-8318-7067-6 
  • 浄土真宗じょうどしんしゅう教学きょうがく編集へんしゅうしょ 浄土真宗じょうどしんしゅう聖典せいてん編纂へんさん委員いいんかい 編纂へんさん『<浄土真宗じょうどしんしゅう聖典せいてん>あきら浄土じょうど真実しんじつきょうぎょう証文しょうもんるい -現代げんだいばん-』本願寺ほんがんじ出版しゅっぱんしゃ、2000ねんISBN 4-89416-668-2 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]