見失みうしなったひつじのたとえ

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見失みうしなったひつじ Adolf Wagner von der Mühl

見失みうしなったひつじのたとえ(みうしなったひつじのたとえ、英語えいご: Parable of the Lost Sheep)は新約しんやく聖書せいしょルカの福音ふくいんしょ(15:1-7)とマタイの福音ふくいんしょ(18:12-14)に登場とうじょうする、イエス・キリストかたったかみのあわれみふかさにかんするたとえである。

ルカ福音ふくいんしょだい15しょうの「銀貨ぎんかくしたおんなのたとえ」、「放蕩ほうとう息子むすこのたとえはなし」をふくみっつのたとえは「かみあわれみのみっつのたとえ」ともわれている[1]

内容ないよう[編集へんしゅう]

聖書せいしょ本文ほんぶん[編集へんしゅう]

さて、ぜいじん罪人ざいにんたちがみな、イエスのはなしこうとして近寄ちかよってきた。

するとパリサイじんりつほう学者がくしゃたちがつぶやいて、「このひと罪人ざいにんたちをむかえて一緒いっしょ食事しょくじをしている」とった。

そこでイエスはかれらに、このたとえをおはなしになった、

「あなたがたのうちに、ひゃくひきひつじっているものがいたとする。そのいちひきがいなくなったら、きゅうじゅうきゅうひき野原のはらのこしておいて、いなくなったいちひきつけるまではさがあるかないであろうか。

そしてつけたら、よろこんでそれを自分じぶんかたせ、

いえかえってきて友人ゆうじんとなじんあつめ、『わたしと一緒いっしょよろこんでください。いなくなったひつじつけましたから』とうであろう。

よくきなさい。それとおなじように、罪人ざいにんがひとりでもあらためるなら、悔改くいあらためを必要ひつようとしないきゅうじゅうきゅうにんただしいひとのためにもまさるおおきいよろこびが、てんにあるであろう。

— ルカの福音ふくいんしょ 15:1 - 7口語こうごやく聖書せいしょ

概要がいよう[編集へんしゅう]

ひゃくひきひつじをかっているひつじいはキリストをあらわし、見失みうしなったいちひきひつじ罪人ざいにんをたとえている。きゅうじゅうきゅうひき野原のはらのこすという危険きけんおかしてでもひつじいは見失みうしなったいちひきひつじさがそうとする。イエスはひつじいにとっての見失みうしなったひつじ、すなわちかみにとっての罪人ざいにんたちはそれほど大切たいせつなのだといている。

このたとえは、イエスが徴税ちょうぜいじん罪人ざいにんまね食事しょくじをしていることをファリサイひとたちがとがめたことにたいする、イエスの反論はんろんからはじまっている。マタイの福音ふくいんしょ (18:10)ではイエスは弟子でしたちにかって、「これらのちいさなもの一人ひとりでもほろびることは、あなたがたのてんちちしんではない。」ときびしくさとしている。[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ さき よう 『イエスのたとえはなし』149ぺーじ
  2. ^ さき よう 『イエスのたとえはなし』 143-149ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • しん共同きょうどうやく新約しんやく聖書せいしょ 日本にっぽん聖書せいしょ協会きょうかい
  • 口語こうごやく新約しんやく聖書せいしょ 日本にっぽん聖書せいしょ協会きょうかい
  • 新約しんやく聖書せいしょ』フランシスコかい聖書せいしょ研究所けんきゅうじょ訳注やくちゅう中央ちゅうおう出版しゅっぱんしゃ改訂かいてい初版しょはん1984ねん
  • さき よう 『イエスのたとえはなし』 聖母せいぼ騎士きししゃ、2011ねん3がつ25にち初版しょはん発行はっこう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]