恵信えしん

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恵信えしん
寿ことぶきひさし元年がんねん - ぶんひさし5ねん
1182ねん - 1268ねん?)
龍谷大りゅうこくだいがく大宮おおみや図書館としょかん所蔵しょぞう恵信えしんあま絵像えぞう
生地きじ 越後えちごこく
ぼつ 越後えちごこく
宗旨しゅうし 浄土真宗じょうどしんしゅう
親鸞しんらん
著作ちょさく恵信えしんあま消息しょうそく
びょう 恵信えしん尼公にこう廟所びょうしょ本願寺ほんがんじ国府こくふ別院べついん飛地とびち境内けいだい
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恵信えしん(えしんに、寿ことぶきひさし元年がんねん1182ねん) - ぶんひさし5ねん1268ねん)?)は、浄土真宗じょうどしんしゅう宗祖しゅうそとされるそう親鸞しんらんつま鎌倉かまくら時代ときよ人物じんぶつうまれは越後えちごこくちちは、越後えちごこく豪族ごうぞく三善さんぜんためきょう

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

親鸞しんらん越後えちご関東かんとうでの布教ふきょう同行どうこうし、なが行動こうどうをともにする。

結婚けっこん[編集へんしゅう]

親鸞しんらんとの結婚けっこん時期じきについては、諸説しょせつある。越後えちご流罪るざいとなった1207ねんうけたまわもと元年がんねん以後いご結婚けっこんしたとするせつと、それ以前いぜん結婚けっこんしていたとのせつ越後えちごでの再婚さいこんせつなどがある。

時期じきなど不明ふめいてんおおいが、恵信えしんあま越後えちご三善さんぜんむすめであるため、親鸞しんらん越後えちご配流はいるになったさいまわりの世話せわをするために結婚けっこんしたとするせつ最近さいきんでは有力ゆうりょくである。

子供こども[編集へんしゅう]

親鸞しんらんとのあいだに、4なん3じょはんしるししん小黒おぐろ女房にょうぼうぜん明信あきのぶ栗沢くりさわしんはちすぼう〉・ゆうぼうえきかた大夫たいふ入道にゅうどう〉・高野たかの禅尼ぜんにさとししんあま)の7[1]をもうける。

越後えちごへの帰郷ききょう[編集へんしゅう]

親鸞しんらん関東かんとうからの帰京ききょうするさい恵信えしんあま動向どうこうについては、諸説しょせつある。

  1. 京都きょうとへは同行どうこうせずに、越後えちご帰郷ききょうしたとするせつ
  2. 京都きょうと同行どうこうしてやく20ねんともにらし、かんはじめ元年がんねん1256ねん)に親鸞しんらん世話せわすえむすめさとししんあままかせて、越後えちごかえっていたとするせつ
  3. 関東かんとうでの拠点きょてんであった「稲田いなだ草庵そうあん」にのこり、そこでぼっしたとするせつ。(西念寺さいねんじてらでん

ひろちょう2ねん1262ねん)に親鸞しんらん京都きょうとぼっしたさいには、越後えちご中陰ちゅういんふくしている。没年ぼつねん正確せいかくには不明ふめいだが、確認かくにんできる最後さいご消息しょうそくぶんなが5ねん(1268ねん)3がつ12にちづけさとししんあまての書状しょじょうである[2]。2006ねんには「ぶんなが7ねん(1270ねん)9がつ18にち死去しきょし、19にち大江山おおえやまほうむられた」という内容ないよう古文書こもんじょ(1811ねん写本しゃほん)が発見はっけんされているが、史実しじつかどうかはいまのところ不明ふめい[3]

恵信えしんあま消息しょうそく[編集へんしゅう]

恵信えしんあま消息しょうそく」は、鷲尾わしお教導きょうどう[注釈ちゅうしゃく 1]調査ちょうさによって大正たいしょう10ねん1921ねん)に西本願寺にしほんがんじ宝物ほうもつから発見はっけんされた10つうからなる恵信えしんあま真筆しんぴつ消息しょうそく手紙てがみ)である[4]親鸞しんらんつまである越後えちご恵信えしんあまが、むすめにあたる京都きょうとさとししんあまおくったもので、現在げんざい西本願寺にしほんがんじにあり、すべ巻物まきもの1かんおさめられている。だい1,2つう譲状ゆずりじょうだい3つうからだい6つう親鸞しんらん入滅にゅうめつ看取みとったさとししんあまからのらせにたいしてされた親鸞しんらん生前せいぜん追想ついそうだい7つう以降いこう凶作きょうさくしたにおける身辺しんぺん生活せいかつかたりつつ自己じこ信心しんじんつたえている。親鸞しんらんやその家族かぞく晩年ばんねんにおける布教ふきょう活動かつどうや、言行げんこうじょうでの非常ひじょう貴重きちょう史料しりょうである。これらの書状しょじょう発見はっけんされたことにより、親鸞しんらん実在じつざい確認かくにんされた経緯けいいがある。

鎌倉かまくら時代じだい女性じょせい手紙てがみまとまってのこっていること自体じたいきわめてめずらしい。手紙てがみ内容ないよう格調かくちょうたかく、ゆたかな言葉ことばつづられている事実じじつから、恵信えしんあまはかなり教養きょうようふか女性じょせいであったと推定すいていできる[5]

二松學舍大学にしょうがくしゃだいがく小山こやま聡子さとこ[6]によると、消息しょうそく内容ないよう親鸞しんらん著作ちょさくなどとの対比たいひから、親鸞しんらん妻子さいし信仰しんこうかならずしも一致いっちしていなかったとしている。たとえば、だい3つうによれば、恵信えしんあま親鸞しんらん観音かんのん菩薩ぼさつ化身けしんであるとかんがえてそれゆえに極楽往生ごくらくおうじょう確信かくしんしている。また、どうつうによればむすめさとししんあま親鸞しんらん臨終りんじゅうのときになん奇瑞きずいきなかったことを不安ふあんかんじていることが判明はんめいする。これらは、親鸞しんらんとなえた現生げんなまただしていかんがかた一致いっちしていないが、親鸞しんらんおしえが整理せいりされるようになるのは浄土真宗じょうどしんしゅう教団きょうだん確立かくりつされた室町むろまち時代じだい以降いこうはなしであり、親鸞しんらんおよびその家族かぞくそれぞれの信仰しんこうあいだには天台宗てんだいしゅうなどの既存きそん宗派しゅうは信仰しんこうかん影響えいきょうけて微妙びみょうなずれがしょうじたのは当然とうぜんであったと考察こうさつしている[7]

一方いっぽう恵信えしんあまが、消息しょうそくで、親鸞しんらんはじめ知人ちじん自分じぶん自身じしん極楽往生ごくらくおうじょう確信かくしんしていることとうから、専修せんしゅう念仏ねんぶつという視点してんからは、恵信えしんあま親鸞しんらん信仰しんこうかんはほとんどわらなかったという指摘してきもある。さらに、恵信えしんあま親鸞しんらん信仰しんこうかん相違そういするかかは、恵信えしんあま個人こじん信仰しんこう問題もんだいまらず、専修せんしゅう念仏ねんぶつ思想しそう歴史れきしてき意義いぎけにかかわる問題もんだいとする意見いけんもある[8]

その[編集へんしゅう]

ゑしんのさと記念きねんかん

晩年ばんねんごしたとされる新潟にいがたけん上越じょうえつ板倉いたくらでは「ゑしんのさと」のキャッチコピーのもとで「ゑしんのさと記念きねんかん」などの観光かんこう施設しせつ整備せいびされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 鷲尾わしお教導きょうどう明治めいじ8ねん〈1875ねん〉- 昭和しょうわ3ねん〈1928ねん〉4がつ11にち)は、真宗しんしゅう学者がくしゃ浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじそう安城寺あんじょうじ新潟にいがたけん見附みつけ)の住職じゅうしょく明治めいじ43ねん(1910ねん)に佛教ぶっきょう大学だいがくげん龍谷大りゅうこくだいがく書記しょきとなる。

参照さんしょう[編集へんしゅう]

  1. ^ 参考さんこう文献ぶんけん龍谷大りゅうこくだいがく図書館としょかん所蔵しょぞう本願寺ほんがんじ系圖けいず』(大坂本願寺おおさかほんがんじほん
  2. ^ 国史こくしだい辞典じてん
  3. ^ 親鸞しんらんつま晩年ばんねんしるした古文書こもんじょ写本しゃほん京都きょうと古書こしょてん発見はっけん - asahi.com、2006ねん9がつ27にち
  4. ^ 鷲尾わしお教導きょうどう恵信えしんあま文書ぶんしょ研究けんきゅう』P.1
  5. ^ 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんほか編集へんしゅう特別とくべつてん法然ほうねん親鸞しんらん ゆかりの名宝めいほう」』てん図録ずろく、2011ねん、324-326ぺーじ
  6. ^ 二松學舍大学にしょうがくしゃだいがく 専任せんにん教員きょういん一覧いちらん平成へいせい24年度ねんど文学部ぶんがくぶ 国文学こくぶんがく
  7. ^ 小山こやま聡子さとこ親鸞しんらん来迎らいごうかん呪術じゅじゅつかん」(所収しょしゅう:山本やまもと隆志たかし へん日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ文化ぶんかろん射程しゃてい』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねんISBN 978-4-7842-1620-8 P276-292
  8. ^ かずただし, 佐野さの恵信えしんあま専修せんしゅう念仏ねんぶつ理解りかい : 五輪ごりんとう死装束しにしょうぞく問題もんだいをめぐって」『日本にっぽん仏教ぶっきょう綜合そうごう研究けんきゅう = Interdisciplinary studies in Japanese Buddhism / 日本にっぽん仏教ぶっきょう綜合そうごう研究けんきゅう学会がっかい へんだい21ごう、2023ねん、241–253ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]