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つじ善之助ぜんのすけ

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つじ 善之助ぜんのすけ
1952ねん
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1877-04-15) 1877ねん4がつ15にち
日本の旗 日本にっぽん兵庫ひょうごけん
死没しぼつ (1877-04-15) 1877ねん4がつ15にち(-79さいぼつ
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 歴史れきしがく(日本にっぽん仏教ぶっきょう)
研究けんきゅう機関きかん 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ
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つじ 善之助ぜんのすけ(つじ ぜんのすけ、 1877ねん明治めいじ10ねん4がつ15にち - 1955ねん昭和しょうわ30ねん10月13にち)は、戦前せんぜん日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ文学ぶんがく博士はかせせんもん日本にっぽん仏教ぶっきょう仏教ぶっきょう研究けんきゅうから日本人にっぽんじん精神せいしん日本にっぽん文化ぶんか形成けいせい探求たんきゅう実証じっしょう主義しゅぎてき研究けんきゅうつらぬき、日本にっぽん史学しがく発展はってん寄与きよし、実証じっしょうてき日本にっぽん仏教ぶっきょう確立かくりつ[1]兵庫ひょうごけん出身しゅっしん

明仁あきひと親王しんのう誕生たんじょうおこなわれた読書どくしょつる奉仕ほうしいんひだりより市村いちむら瓚次ろう有馬ありまりょうたちばな大給おぎゅうきんこうつじ善之助ぜんのすけ松浦まつうらやすし細川ほそかわたてきょう

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

1877ねん明治めいじ10ねん)4がつ兵庫ひょうごけん姫路ひめじ元塩もとしおまち現在げんざい兵庫ひょうごけん姫路ひめじ元塩もとしおまち)にまれる。ちち善次郎ぜんじろうはははつね。神童しんどうほまれたかく、小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこう抜群ばつぐん成績せいせきであった。1893ねん明治めいじ26ねん)に姫路ひめじ中学校ちゅうがっこうげん兵庫ひょうご県立けんりつ姫路ひめじ西高にしこうとう学校がっこう)より京都きょうとだいさん高等こうとう中学校ちゅうがっこう3ねん編入へんにゅうよく1894ねん明治めいじ27ねん)に学制がくせい改革かいかくだいさん高等こうとう学校がっこう改組かいそうえ廃止はいしされると、高校こうこう転属てんぞく余儀よぎなくされたが、第一高等学校だいちこうとうがっこう転校てんこうすることができた。1896ねん明治めいじ29ねん)に第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょう[2]し、帝国ていこく大学だいがく(のちの東京大学とうきょうだいがく文科ぶんか大学だいがく国史こくし入学にゅうがく[3]国史こくしへの入学にゅうがくは、同郷どうきょう先輩せんぱい三上みかみさん当時とうじ帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく助教授じょきょうじゅ)のすすめによる。1899ねん明治めいじ32ねん)に東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく国史こくし卒業そつぎょう[4]卒業そつぎょうさい恩賜おんし銀時計ぎんどけいける。

大学だいがく卒業そつぎょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく大学院だいがくいん進学しんがく[5]し、日本にっぽん仏教ぶっきょう研究けんきゅうすすめ、1904ねん明治めいじ37ねん)に博士はかせ論文ろんぶんとして、「政治せいじ方面ほうめんヨリ観察かんさつシタル日本にっぽん仏教ぶっきょう - 徳川とくがわ時代ときよ初期しょき - 」と「安国寺あんこくじこう」「安国寺あんこくじこころざしりょう」を東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく提出ていしゅつ1909ねん明治めいじ42ねん)、32さいとき東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくより文学ぶんがく博士はかせ学位がくいけた[6]

大学院だいがくいん在学ざいがくちゅう1902ねん明治めいじ35ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく教授きょうじゅ三上みかみさんすすめにより、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく史料しりょう編纂へんさんかけ(のちの東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ)に入所にゅうしょ史料しりょう編纂へんさんいんとなった。三上みかみ洋行ようこう万国ばんこく東洋とうよう学会がっかい日本にっぽん代表だいひょうとして出席しゅっせきちゅう江戸えど時代じだい史料しりょう編纂へんさん留守るすあずかり、1905ねん明治めいじ38ねん)に史料しりょう編纂へんさんかんにんじ、高等官こうとうかんろくとうじょした。1911ねん明治めいじ44ねん)6がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく助教授じょきょうじゅ兼任けんにんし、同年どうねん6がつから1912ねん大正たいしょう元年がんねん)10がつにかけて欧米おうべい留学りゅうがく万国ばんこく東洋とうよう学会がっかい出席しゅっせきした。以後いご史料しりょう編纂へんさんかんとして『だい日本にっぽん史料しりょうだい12へん編纂へんさん主宰しゅさいし、一方いっぽう文科ぶんか大学だいがく助教授じょきょうじゅとして日本にっぽん仏教ぶっきょうこうずるひとし学生がくせい指導しどうにあたる生活せいかつつづいた。

1920ねん大正たいしょう9ねん)7がつ史料しりょう編纂へんさんかけ事務じむ主任しゅにんとなり、史料しりょう編纂へんさんかけ充実じゅうじつ尽力じんりょくつじ各所かくしょとの折衝せっしょうかさね、1924ねん大正たいしょう13ねん)に帝国ていこく議会ぎかい承認しょうにん史料しりょう編纂へんさんかけ拡張かくちょう史料しりょう編纂へんさんかん増員ぞういん)に成功せいこうし、あわせて『だい日本にっぽん史料しりょうだい1へんからだい12へんまでの編纂へんさん体制たいせいととのえ、同書どうしょ一斉いっせい出版しゅっぱん開始かいしした。いっぽう、1921ねん大正たいしょう10ねん)には、前々まえまえねん1919ねん)に刊行かんこうした『日本にっぽん仏教ぶっきょう研究けんきゅう』により、帝国ていこく学士がくしいん恩賜おんししょう受賞じゅしょう1923ねん大正たいしょう12ねん)には、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ就任しゅうにん[7]して、国史こくしがくだい講座こうざ担任たんにんし、1926ねん大正たいしょう15ねん)には、三上みかみさん停年ていねん退官たいかんけて、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅけん史料しりょう編纂へんさんかん就任しゅうにん国史こくしがくだいいち講座こうざ担任たんにんとなり、黒板こくばん勝美かつみとともに昭和しょうわ初期しょき東大とうだい国史こくし学科がっか統率とうそつした。

1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつには、立教大学りっきょうだいがく文学部ぶんがくぶ史学しがく創設そうせつされ、最初さいしょ教授きょうじゅ一人ひとりとして、竹岡たけおか勝也かつや藤本ふじもとりょうやすし中村なかむらまさる麻呂まろとともに日本にっぽんこうじた[8]

1929ねん昭和しょうわ4ねん)に、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく史料しりょう編纂へんさんかけ史料しりょう編纂へんさんしょ改称かいしょうされ、その初代しょだい所長しょちょう就任しゅうにんした[9]1938ねん昭和しょうわ13ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ定年ていねん退官たいかん[10]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ称号しょうごうおくられた。その1941ねん昭和しょうわ16ねん)まで史料しりょう編纂へんさんしょ嘱託しょくたくして史料しりょう編纂へんさんたずさわるいっぽう、聖心女子学院せいしんじょしがくいん専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅ立正大学りっしょうだいがく文学部ぶんがくぶ教授きょうじゅ歴任れきにん1952ねん昭和しょうわ27ねん)に文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう1954ねん昭和しょうわ29ねん)には昭和しょうわ28年度ねんど朝日あさひ文化ぶんかしょうけた。1955ねん昭和しょうわ30ねん)10がつに78さいで歿。

そのほかの活動かつどうしるすと、1900ねん明治めいじ33ねん)に、文部省もんぶしょうより歴史れきし材料ざいりょう取調とりしらべ嘱託しょくたくされ、1922ねん大正たいしょう11ねん)には社寺しゃじ保存ほぞんかい委員いいん、1924ねんには臨時りんじ歴代れきだい史実しじつ考査こうさ委員いいんかい委員いいん京都きょうと御所ごしょ東山ひがしやま文庫ぶんこ取調とりしらべかけとなり、1929ねんには国宝こくほう保存ほぞんかい委員いいん1932ねん昭和しょうわ7ねん)には帝国ていこく学士がくしいん会員かいいん[11]となり、紀元きげんせんろくひゃくねん記念きねん事業じぎょうとして企画きかくした歴代れきだい宸翰しんかん集成しゅうせい出版しゅっぱん(『宸翰しんかん英華えいか』)の中心ちゅうしんとなって推進すいしんした。よく1933ねん昭和しょうわ8ねん)にはこうしょはじめにて国書こくしょ進講しんこう同年どうねん12がつには皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう現在げんざい上皇じょうこう明仁あきひと)の浴場よくじょう読書どくしょひかえとして奉仕ほうしした。

つま菊子きくこ田代たしろ義徳よしのり長女ちょうじょ二男じなん達也たつやは、日本にっぽん近世きんせい専攻せんこうし、横浜市立大学よこはましりつだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ。また、むすめ婿むこ太田おおた善麿ぜんまろは、もと東京学芸大学とうきょうがくげいだいがく学長がくちょう

学問がくもん評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • つじ学問がくもん史料しりょうもとづく実証じっしょうてきなものであった。坂本さかもと太郎たろうかたるところによると、つじは、史料しりょうひろあつめて精選せいせんし、それより確実かくじつかつ穏当おんとう結論けつろんみちびくという、歴史れきし研究けんきゅう正道せいどうというべき手法しゅほうもちいた。また、研究けんきゅう姿勢しせい非常ひじょう謙虚けんきょで、学説がくせつひろき、自説じせつはんする年少ねんしょう学生がくせい論文ろんぶんまでも、雑誌ざっし発表はっぴょうする斡旋あっせんまでしたという(坂本さかもと歴史れきし人物じんぶつ』(坂本さかもと太郎たろう著作ちょさくしゅう11)より)。
  • 学問がくもん研究けんきゅうのみならず政治せいじ実業じつぎょうごと活動かつどうひろげた黒板こくばん勝美かつみたいし、つじはひたすら学問がくもん研究けんきゅうみ、それはアカデミズムのわくることはなかった。明治めいじ末期まっき政治せいじてき問題もんだいにもなった「南北なんぼくあさ正閏せいじゅん問題もんだい」では、三上みかみさん黒板こくばん勝美かつみ喜田きた貞吉さだきち積極せっきょくてき発言はつげんをしているのにたいし、つじおもて舞台ぶたい登場とうじょうすることはなかった。また、平泉ひらいずみきよし中心ちゅうしんとする皇国こうこく史観しかんが、戦時せんじちゅう東大とうだい国史こくし学科がっか支配しはいしていたときも、つじはこれを直接的ちょくせつてき批判ひはんすることをせず、ただひたすら学生がくせい指導しどう研究けんきゅう専念せんねんしていた。ただ、つじまわりには平泉ひらいずみ学説がくせつをよしとはしない学生がくせいたちあつまり、つじかれらを指導しどうし、就職しゅうしょくなどの斡旋あっせんをしていたのであった。
  • 最初さいしょ著書ちょしょ田沼たぬま時代ときよ』では、徳川とくがわ吉宗よしむね松平まつだいら定信さだのぶ時代じだい対照たいしょうてき叙述じょじゅつされることのおおかった田沼たぬま意次おきつぐ政治せいじ時代じだいについて検証けんしょう田沼たぬま徳望とくぼうけていたが政治せいじとしての手腕しゅわんはあったとし、田沼たぬま時代じだいを「庶民しょみん台頭たいとう」の時代じだいであると積極せっきょくてき評価ひょうかした。ただし、後年こうねん大石おおいしまき三郎さぶろうつじ収賄しゅうわい政治せいじとして田沼たぬま論拠ろんきょとした史料しりょうは「つくられた悪評あくひょう」であり、史料しりょう批判ひはんとぼしかったとする。また、大石おおいしつじ著作ちょさく田沼たぬま悪人あくにんせつ根拠こんきょとして利用りようされ、現代げんだいにも根強ねづよのこ田沼たぬまのイメージになったとろんずる。
  • 話題わだいとなったろんちょすくなくなく、たとえば1934ねん斎藤さいとうみのる内閣ないかく商工しょうこう大臣だいじん中島なかじま久万吉くまきちつじ論文ろんぶん足利尊氏あしかがたかうじ信仰しんこう」(『日本にっぽん仏教ぶっきょう研究けんきゅう所収しょしゅう)に依拠いきょして足利尊氏あしかがたかうじ擁護ようごおこなうと、右翼うよく批判ひはんびて大臣だいじん辞任じにん矛先ほこさきつじにもけられ、『日本にっぽん仏教ぶっきょう研究けんきゅう』は文部省もんぶしょう教学きょうがくきょく要請ようせいにより絶版ぜっぱんまれた。
  • また、武家ぶけ政権せいけん出現しゅつげん必然ひつぜんせいくため平清盛たいらのきよもりろんじ、こう白河しらかわ法皇ほうおう批判ひはんおよぶと、これを収録しゅうろくした『人物じんぶつ論叢ろんそう』もやはり、文部省もんぶしょう教学きょうがくきょく自発じはつてき絶版ぜっぱんもとめられている。
  • 主著しゅちょ日本にっぽん文化ぶんか』にしても、はじめ『国史こくし提要ていよう』とだいして出版しゅっぱん予定よていしていたが、ふで南北なんぼくあさ時代じだいすすむと、これ以上いじょう原稿げんこうすすめるのは不可能ふかのうといって中止ちゅうししている。これは戦後せんご執筆しっぴつ再開さいかいされ、『日本にっぽん文化ぶんか』として出版しゅっぱんされた。
  • つじは「近世きんせい仏教ぶっきょう堕落だらくろん」、すなわち日本にっぽん仏教ぶっきょうなか江戸えど時代じだいは、僧侶そうりょ戒律かいりつまもらず教団きょうだん幕府ばくふ統制とうせい硬直こうちょくしていた暗黒あんこく時代じだいだった、とするろん代表だいひょうてき論者ろんしゃとしてられる[12]。ただし、堕落だらくろん自体じたいつじ以前いぜんからすでに一般いっぱんてきだった[12]

りゃく年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

  • 1877ねん明治めいじ10ねん)4がつ誕生たんじょう
  • 1896ねん明治めいじ29ねん)、第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく国史こくし入学にゅうがく
  • 1899ねん明治めいじ32ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく国史こくし卒業そつぎょう同大どうだい大学院だいがくいん入学にゅうがく
  • 1902ねん明治めいじ35ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく史料しりょう編纂へんさんかけ史料しりょう編纂へんさんいん
  • 1905ねん明治めいじ38ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく史料しりょう編纂へんさんかけ史料しりょう編纂へんさんかん
  • 1909ねん明治めいじ42ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくより文学ぶんがく博士はかせ学位がくい取得しゅとく
  • 1911ねん明治めいじ44ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく助教授じょきょうじゅ
  • 1920ねん大正たいしょう9ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく史料しりょう編纂へんさんかけ事務じむ主任しゅにん
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん)、帝国ていこく学士がくしいん恩賜おんししょう受賞じゅしょう
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ国史こくしがくだい講座こうざ担当たんとう
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅけん史料しりょう編纂へんさんかん国史こくしがくだいいち講座こうざ担当たんとう
  • 1929ねん昭和しょうわ4ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく史料しりょう編纂へんさんしょ初代しょだい所長しょちょう
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん)、帝国ていこく学士がくしいん会員かいいん
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ停年ていねん退官たいかん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ聖心女子学院せいしんじょしがくいん専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅ
  • 1940ねん昭和しょうわ15ねん)、紀元きげんせんろくひゃくねん奉祝ほうしゅく記念きねんにあたり『聖徳せいとく餘光よこう』を[13]
  • 1949ねん昭和しょうわ24ねん)、立正大学りっしょうだいがく教授きょうじゅ
  • 1952ねん昭和しょうわ27ねん)、文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん)、立正大学りっしょうだいがく教授きょうじゅ退職たいしょく
  • 1955ねん昭和しょうわ30ねん)10がつ死去しきょ(78さい)。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

おも刊行かんこう著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 田沼たぬま時代ときよ日本にっぽん学術がくじゅつ普及ふきゅうかい、1915ねん岩波いわなみ文庫ぶんこ解説かいせつ佐々木ささきじゅんかい)、1980ねん
  • 海外かいがい交通こうつう史話しわ東亜とうあどう、1917ねん
  • 日本にっぽん仏教ぶっきょうこれ研究けんきゅう金港きんこうどう、1919ねん
  • 『鸞聖じん筆跡ひっせき研究けんきゅう金港きんこうどう、1920ねん
  • 人物じんぶつ論叢ろんそう雄山閣ゆうざんかく、1925ねん
  • 皇室こうしつ日本にっぽん精神せいしんだい日本にっぽん図書としょ、1936ねん修訂しゅうてい・ダイレクト出版しゅっぱん、2021ねん
  • 日本にっぽん仏教ぶっきょう岩波書店いわなみしょてんぜん10かん)、1944ねん~1953ねん復刊ふっかん1984ねん
  • 日本にっぽん文化ぶんか春秋しゅんじゅうしゃぜん11かん)、1948ねん~1956ねん
  • 江戸えど時代じだい史論しろんゆうおもえしゃ、1991ねんつじ達也たつやへん
  • 新版しんぱん日本にっぽん仏教ぶっきょう文化ぶんか入門にゅうもん書肆しょししんすい、2012ねん
  • 新版しんぱん明治めいじ仏教ぶっきょう概説がいせつ 廃仏毀釈はいぶつきしゃくとその再生さいせい書肆しょししんすい、2017ねん
    • 明治めいじ仏教ぶっきょう問題もんだいしょう〉」をおさむむ、あわせて土屋つちやかいきょう明治めいじ仏教ぶっきょう』を収録しゅうろく
  • 新版しんぱん上世じょうせい日本にっぽん仏教ぶっきょう文化ぶんか政治せいじ導入どうにゅう展開てんかい形式けいしき書肆しょししんすい、2018ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 書肆しょししんすい 日本にっぽん仏教ぶっきょう文化ぶんか入門にゅうもん
  2. ^ 官報かんぽうだい3908ごう明治めいじ29ねん7がつ9にち、p.91
  3. ^ 官報かんぽうだい3996ごう明治めいじ29ねん10がつ22にち、p.276
  4. ^ 官報かんぽうだい4808ごう明治めいじ32ねん7がつ12にち、p.194
  5. ^ 官報かんぽうだい4826ごう明治めいじ32ねん8がつ2にち、p.27
  6. ^ 官報かんぽうだい7834ごう明治めいじ42ねん8がつ5にち、p.71
  7. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく一覧いちらん したがえ大正たいしょう12ねん いたり大正たいしょう13ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1924ねん、446ぺーじ 
  8. ^ 海老沢えびさわ 有道ありみち,大久保おおくぼ としけん,森田もりた ゆうさん)「立教大学りっきょうだいがく学会がっかい小史しょうし(I) : 立教りっきょう史学しがくそうせい : けんがくから昭和しょうわ11ねんまで (100ごう記念きねん特集とくしゅう)」『ふみえんだい28かんだい1ごう立教大学りっきょうだいがく学会がっかい、1967ねん7がつ、1-54ぺーじISSN 03869318 
  9. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく一覧いちらん 昭和しょうわ5年度ねんど東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1930ねん、396ぺーじ 
  10. ^ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく一覧いちらん 昭和しょうわ13年度ねんど東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1938ねん、372ぺーじ 
  11. ^ 帝国ていこく学士がくしいん へん帝国ていこく学士がくしいん一覧いちらん 昭和しょうわ8ねん帝国ていこく学士がくしいん、1933ねん、132ぺーじ 
  12. ^ a b クラウタウ オリオン『近世きんせい仏教ぶっきょう堕落だらくろん近代きんだいてき形成けいせい : 記憶きおく忘却ぼうきゃく明治めいじ仏教ぶっきょうをめぐるいち考察こうさつ日本にっぽん宗教しゅうきょう学会がっかい、2007ねんdoi:10.20716/rsjars.81.3_581https://doi.org/10.20716/rsjars.81.3_581 
  13. ^ 佐佐木ささき信綱のぶつな列聖れっせいたま』と和本わほん2さつぐみ雄山閣ゆうざんかく復刻ふっこく、2006(平成へいせい18)ねん
  14. ^ 官報かんぽうだい126ごう叙任じょにん及辞れい」1912ねん12月29にち
  15. ^ 官報かんぽうだい1657ごう、「叙任じょにん及辞れい」1918ねん02がつ13にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • クラウタウ オリオン『近代きんだい日本にっぽん思想しそうとしての仏教ぶっきょう史学しがく』(法蔵館ほうぞうかん、2012ねん
  • 坂本さかもと太郎たろうつじ善之助ぜんのすけ」(『国史こくしだい辞典じてん』9)吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1988ねん
  • 坂本さかもと太郎たろう歴史れきし人物じんぶつ』(坂本さかもと太郎たろう著作ちょさくしゅう11)吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989ねん
  • 坂本さかもと太郎たろう『わが青春せいしゅん』(坂本さかもと太郎たろう著作ちょさくしゅう12)吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989ねん
  • つじ達也たつやちち善之助ぜんのすけ歴史れきしがくわたしと」(『つじ善之助ぜんのすけ 江戸えど時代じだい史論しろん』に所収しょしゅうゆうおもえしゃ、1991ねん
  • けいむろ文雄ふみおつじ善之助ぜんのすけ」(『20世紀せいき歴史れきしたち 〈2〉』に所収しょしゅうかたなすい書房しょぼう、1999ねん
  • はやしあつしつじ仏教ぶっきょう史学しがく継承けいしょう批判ひはん」(田丸たまる徳善とくぜんへん日本にっぽん宗教しゅうきょう学説がくせつ東京大学とうきょうだいがく宗教しゅうきょうがく研究けんきゅうしつ、1982ねん
  • 東方とうほうがく回想かいそう II 先学せんがくかたる〈2〉』(かたなすい書房しょぼう、2000ねん)、座談ざだんかいでの関係かんけいしゃ回想かいそう所収しょしゅう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
黒板こくばん勝美かつみ
文学部ぶんがくぶ史料しりょう編纂へんさんかけ事務じむ主任しゅにん
日本の旗 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ史料しりょう編纂へんさんしょなが
1929ねん - 1938ねん
文学部ぶんがくぶ史料しりょう編纂へんさんかけ事務じむ主任しゅにん
1920ねん - 1929ねん
次代じだい
りゅう
がくしょく
先代せんだい
三上みかみさん
史学しがくかい理事りじちょう
1939ねん - 1949ねん
次代じだい
坂本さかもと太郎たろう