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金港きんこうどう

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金港きんこうどう(きんこうどう)とは、明治めいじ時代じだい創業そうぎょうされた日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ

概要がいよう

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はらあきら三郎さぶろう(1848ねん‐1919ねん)によって明治めいじ8ねん1875ねん)に横浜よこはま創業そうぎょうされた出版しゅっぱんしゃである。社名しゃめい横浜よこはま当時とうじ別称べっしょう金港きんこう」にちなんだ[1]よく明治めいじ9ねん1876ねん)に東京とうきょう日本橋にほんばし移転いてんし、教科書きょうかしょおもとした教育きょういく類書るいしょ出版しゅっぱん著名ちょめいとなる。

明治めいじ20ねん1887ねん)より言文げんぶん一致いっちられる長編ちょうへん小説しょうせつ浮雲うきぐも』を刊行かんこう作家さっか山田やまだ美妙びみょう硯友社けんゆうしゃからいて、明治めいじ21ねん1888ねん)に文芸ぶんげいはな』を創刊そうかん明治めいじ25ねん1902ねん)には『少年しょうねんかい』や『少女しょうじょかい』などななだい雑誌ざっし創刊そうかん明治めいじ20年代ねんだいから明治めいじ30年代ねんだいには黄金おうごん時代じだいむかえた。

幸田こうだ露伴ろはんのデビューさく団々だんだん』も金港きんこうどう原稿げんこうったものである。木版もくはん口絵くちえのついたほんおおくはなかったが、梶田かじた半古はんこ鏑木かぶらき清方きよかた小林こばやしひさし武内たけうち桂舟けいしゅう寺崎てらさき広業こうぎょう富岡とみおか永洗えいせん中野なかの春郊しゅんこう松本まつもと楓湖ふうこ三島みしま蕉窓宮川みやがわ春汀しゅんていといったのある多数たすう画家がかがそれぞれ1、2さつずつ口絵くちええがいている。

明治めいじ25ねん1892ねん)には組織そしき変更へんこうおこない、資本しほんきん50まんえんをもって金港きんこうどう書籍しょせき株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつ。しかし、明治めいじ35ねん1902ねんあきこった教科書きょうかしょ疑獄ぎごく事件じけんによって国内こくない教科書きょうかしょ事業じぎょう衰退すいたいかった。

1903ねん清国きよくに上海しゃんはい商務しょうむしるししょかん合弁ごうべんとなる。日本にっぽんから長尾ながお雨山うざん小谷おたにしげるらなどの教育きょういく関係かんけいしゃ編集へんしゅうしゃとう商務しょうむしるししょかん招聘しょうへいし、教科書きょうかしょ編集へんしゅう会議かいぎて、『最新さいしん国文こくぶん教科書きょうかしょ』の刊行かんこういたる。

からし革命かくめいのち中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつすると、上海しゃんはい不安定ふあんてい社会しゃかい情勢じょうせいくわえて、商務しょうむしるししょかんりくすうにん社員しゃいん同社どうしゃはなれて中華ちゅうかしょきょく創業そうぎょうしたことなどから、1914ねんがつ金港きんこうどうとの合弁ごうべん解消かいしょうとなる。この合弁ごうべん解消かいしょうまでに、金港きんこうどう社長しゃちょうはらあきら三郎さぶろうやその息子むすこはらあきら三郎さぶろう姻戚いんせき関係かんけいやま本条ほんじょう太郎たろう同社どうしゃ編集へんしゅうしゃ木本きもと勝太郎かつたろうなどをふく日本人にっぽんじん出資しゅっししゃ17めいがいた。 合併がっぺい解消かいしょう編集へんしゅうしゃ木本きもと勝太郎かつたろう印刷いんさつ管理かんりしゃ日本人にっぽんじん社員しゃいん関連かんれん教育きょういくしゃなどが商務しょうむしるししょかん在留ざいりゅう勤務きんむしており、商務しょうむしるししょかん金港きんこうどう国外こくがいそう代理だいりてんとして日本語にほんご出版しゅっぱんぶつ継続けいぞくした。

作品さくひん

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  • 山田やまだ美妙びみょうなつ木立こだち明治めいじ23ねん(1890ねん
  • 鉄道てつどうやす内記ないき明治めいじ23ねん(1890ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれんしょ

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  • 明治めいじ出版しゅっぱん史上しじょう金港きんこうどう しゃのない出版しゅっぱんしゃふみ」のこころみ』稲岡いなおかまさるあきらほししゃ、2019ねん3がつ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 金港きんこうどう 仙台せんだい中心ちゅうしん商店しょうてんがい活性かっせい協議きょうぎかい

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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