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梶田かじた半古はんこ

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梶田かじた半古はんこ
ヒト
性別せいべつ男性だんせい 編集
国籍こくせき日本にっぽん 編集
母語ぼご表記ひょうき梶田かじた半古はんこ 編集
仮名がなかじた はんこ 編集
生年月日せいねんがっぴ23 7 1870 編集
出生しゅっしょう東京とうきょう 編集
死亡しぼう年月日ねんがっぴ23 4 1917 編集
埋葬まいそう染井そめい霊園れいえん 編集
配偶はいぐうしゃ北田きただ薄氷うすらい 編集
職業しょくぎょう画家がか 編集
弟子でし前田まえだ青邨せいそん奥村土牛おくむらとぎゅう小林こばやし古径こけい 編集
師匠ししょう鍋田なべた玉英たまえい 編集
作者さくしゃ著作ちょさくけん状態じょうたい著作ちょさくけん保護ほご期間きかん満了まんりょう 編集

梶田かじた 半古はんこ(かじた はんこ、明治めいじ3ねん6月25にち1870ねん7がつ23にち[1] - 大正たいしょう6ねん1917ねん4がつ23にち)は、明治めいじ時代じだいから大正たいしょう時代じだいにかけての日本にっぽん画家がか本名ほんみょうじょう次郎じろう(ていじろう)[1]はじえいしゅうごうす。度目どめつま尾崎おざき紅葉こうよう門下もんか作家さっか北田きただ薄氷うすらい[注釈ちゅうしゃく 1]

来歴らいれき

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明治めいじ3ねん6がつ25にち(1870ねん7がつ23にち)、彫金ちょうきん梶田かじた政晴まさはる長男ちょうなんとして東京とうきょう下谷しもたに御徒おかちまちまれた。いえ代々だいだい幕府ばくふ鷹匠たかじょうだったが、ちち彫金ちょうきんごうとしていた[1][注釈ちゅうしゃく 2]家業かぎょうおとうとぎ、幼少ようしょうから画才がさいのあった半古はんこ明治めいじ15ねん下谷しもたに練塀ねりべい尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょうすると、くるしい家計かけいたすけるため、早朝そうちょうから深夜しんやまで輸出ゆしゅつひん団扇うちわ扇子せんすハンカチーフえがいて問屋とんやはこんだという。明治めいじ16ねん1883ねん)13さいとき浮世絵うきよえ楊洲周延しゅうえん弟子でし鍋田なべた玉英たまえい[注釈ちゅうしゃく 3]についてまな[1]翌年よくねんびょうにより絵画かいが修業しゅうぎょう中断ちゅうだんきん月琴げっきんてようとするが[1]いちねんほどやまいふたたどうもど[1]

明治めいじ18ねん1885ねん)、15さい今度こんど鈴木すずき鵞湖石井いしい柏亭はくてい鶴三つるぞうちちにあたる南画なんがいえ石井いしいかなえいたが[1]同年どうねんちちくなったためこれを中断ちゅうだんする。半古はんこ家族かぞくやしなうため、松尾まつおただしすけらが横浜よこはま設立せつりつした日本にっぽん工芸こうげいひん輸出ゆしゅつ会社かいしゃ起立きりつこうしょう会社かいしゃ」で、工芸こうげいひん下絵したええがいていた[1]。この会社かいしゃおなじく図案ずあんえがいていた菊池きくち容斎ようさい門人もんじん鈴木すずき華邨かそんおしえをける[1][注釈ちゅうしゃく 4]華邨かそんから菊池きくち容斎ようさい木版もくはん画集がしゅう前賢ぜんけん故実こじつ』を紹介しょうかいされ、ぜん暗記あんきするほどまでに模写もしゃ[1]独学どくがく人物じんぶつ修得しゅうとくしている。この成果せいかはやくも明治めいじ19ねん1886ねん)の東洋とうよう絵画かいが共進きょうしんかい褒状ほうじょうというかたちあらわれ、その明治めいじ24ねん1891ねん日本にっぽん革新かくしん目指めざ日本にっぽん青年せいねん絵画かいが協会きょうかい結成けっせい発起人ほっきにん一人ひとりとしてくわわる[1]明治めいじ28ねん1895ねんだい4かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい褒状ほうじょう受賞じゅしょう

明治めいじ29ねん1896ねん日本にっぽん青年せいねん絵画かいが協会きょうかい日本にっぽん絵画かいが協会きょうかい発展はってんし、また明治めいじ31ねん1898ねん)には日本にっぽん美術びじゅついん創立そうりつされるにおよんで、特別とくべつ賛助さんじょ会員かいいんとなって活躍かつやくりょうかい連合れんごう共進きょうしんかいに『春宵しゅんしょう怨』(明治めいじ35ねん1902ねん〉)や、『豊年ほうねん』(明治めいじ36ねん1903ねん〉、現在げんざい所在しょざい不明ふめい)など浪漫ろうまんてき作品さくひん発表はっぴょう類型るいけいてき旧派きゅうは作風さくふうこうして斬新ざんしん写実しゃじつ表現ひょうげん力量りきりょうしめし、しん日本にっぽん開拓かいたく挺身ていしんした。明治めいじ40ねん1907ねん)の東京とうきょう勧業かんぎょう博覧はくらんかいではとうるも、文展ぶんてん開設かいせつ自身じしん健康けんこう状態じょうたい悪化あっか審査しんさいんえらばれなかったことを不満ふまんおもったからか[1]作品さくひん一切いっさい出品しゅっぴんしていない[1]。ただし、翌年よくねんくにだまなりかいでは審査しんさ委員いいんつとめている。大正たいしょう6ねん(1917ねん)4がつ11にちより重体じゅうたいおちいったおりには、半古はんこ敬愛けいあいする弟子でしたちは半古はんこたくとなりいえり、垣根かきねはらって看病かんびょうつとめたという。しかしその甲斐かいなく、4がつ23にち肺患はいかんにより死去しきょ享年きょうねん48。墓所はかしょ巣鴨すがも染井そめい霊園れいえんにあり、かたわらには弟子でし小林こばやし古径こけいふでになる「梶田かじた半古はんこ先生せんせいいしぶみ」がっていたが、れい時代じだいはかじまいとなった。

図案ずあん挿絵さしえ画家がかとしての半古はんこ

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わかころから図案ずあん生計せいけいてていただけあって、半古はんこ故事こじ服飾ふくしょく図案ずあんにもつうじていた。明治めいじ37ねん1904ねん自作じさく図案ずあんしゅう久佐くざ[2]出版しゅっぱんしている。図案ずあんなかにはアール・ヌーヴォー影響えいきょうけたとおぼしきデザインもあるが、たんなる物真似ものまねではなく自分じぶんなか完全かんぜん消化しょうかしたうえでの表現ひょうげんとなっており、印章いんしょう洒落しゃれ字体じたいもちいたものがある。半古はんこ図案ずあんえがくヒントをるため顕微鏡けんびきょう使つかったといわれ、日本にっぽん画家がかとしてはおそらく一番いちばんはや電話でんわき、ハンモック昼寝ひるねをするなど、積極せっきょくてきあたらしものをれた。日本にっぽん洋画ようが区別くべつするかんがかたかたよっているとして一蹴いっしゅう[3]みずからも油絵あぶらええがいている。明治めいじ35ねん1902ねんごろには、王朝おうちょう衣装いしょう着想ちゃくそうて、現代げんだいふうやすくした改良かいりょうふく図案ずあん発表はっぴょうするが、こちらは普及ふきゅうしなかった。

また、半古はんこ画業がぎょうおおきな比重ひじゅうめる分野ぶんやに、明治めいじ30年代ねんだいから40年代ねんだいをピークとした雑誌ざっし新聞しんぶん挿絵さしえ口絵くちえ制作せいさくがある。本格ほんかくてき挿絵さしえがけるのは、明治めいじ30ねん1897ねん読売新聞よみうりしんぶん社員しゃいんとなり[1]尾崎おざき紅葉こうようの『金色きんいろ夜叉やしゃ』の挿絵さしえはじめてからである[1]小杉こすぎ天外てんがいふう恋風こいかぜ』や尾崎おざき紅葉こうようかん牡丹ぼたん』など、新聞しんぶん連載れんさい小説しょうせつ挿絵さしえは10すうほんにのぼり、半古はんこ挿絵さしえ口絵くちえをつけた単行本たんこうぼんは50さつえる。また、雑誌ざっし口絵くちえも『文芸ぶんげい倶楽部くらぶ』や『しん小説しょうせつ』など総数そうすう100てんちかえがき、読売新聞よみうりしんぶん紙上しじょうのこま(カット)は膨大ぼうだいかずおよぶ。半古はんこ口絵くちえ挿絵さしえ量産りょうさんしながらも、けっしていい加減かげん気持きもちでえがいたわけではなく、むしろそれらの地位ちいたかめるべく奮闘ふんとうした。半古はんこえがいた女学生じょがくせい髪型かみがた着物きものこなしは、当時とうじわか女性じょせいたちのあこがれのてきであり、「半古はんこ女学生じょがくせい」という言葉ことば出来できるほどだったという。

明治めいじ38ねん1905ねん)、新聞しんぶん小説しょうせつ挿絵さしえ仕事しごと興味きょうみうしないほとんどえがかなくなる一方いっぽうで、このころから絵葉書えはがき仕事しごとえる。明治めいじ30年代ねんだい後半こうはんから大正たいしょうにかけて、日本にっぽん一大いちだい絵葉書えはがきブームがこり、おおくの画家がか生活せいかつかて必要ひつようもありこれを手掛てがけた。そうしたなかには独自どくじ境地きょうちひらいた画家がかすくなくないが、半古はんこもその一人ひとりで、明治めいじ38ねん9がつ日本にっぽん絵葉書えはがき展覧てんらんかいにおける上位じょういしょう入選にゅうせんさく11てんのうち、半古はんこ作品さくひんが4てんめている。

これらの仕事しごとのおかげで、半古はんこ当時とうじ日本にっぽん画家がかとしてはめずらしくほんだけで生活せいかつできた反面はんめん展覧てんらんかいにふさわしい大作たいさくすくなくなってしまっためんもある。生前せいぜん半古はんこ流行りゅうこうってはなやかで大作たいさくばかりが重視じゅうしされる風潮ふうちょう警鐘けいしょうらしており、文展ぶんてん不参加ふさんかもそうした半古はんこ姿勢しせいあらわれともかんがえられる。

かれ門下もんかからは小林こばやし古径こけい前田まえだ青邨せいそん奥村土牛おくむらとぎゅう新井あらい勝利かつとし夏目なつめ利政としまさ山内やまうちかみおの高木たかぎちょうらが[1]めいたかさや近代きんだい日本にっぽんかたじょう重要じゅうよう位置いちにいるにもかかわらず、展覧てんらんかい出品しゅっぴんさくふく作品さくひん所在しょざいがつかめない場合ばあいおお研究けんきゅうすすんでいない。

作品さくひん

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日本にっぽん

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作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 款記・印章いんしょう 備考びこう
鵯越ひよどりごえ(ひよどりごえ) 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 愛媛えひめけん美術館びじゅつかん 1892ねん明治めいじ25ねん 同年どうねん日本にっぽん美術びじゅつ協会きょうかい秋季しゅうきてん出品しゅっぴんさく
てん宇受うりいのち 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 116.0x48.0 福富ふくとみ太郎たろうコレクション資料しりょうしつ 1897ねん明治めいじ30ねんだいごろ 款記「半古はんこ」/「半古はんこしゅぶんかたしるし
比禮ひれい留山とめやま 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 125.0x81.0 高岡たかおか美術館びじゅつかん 1898ねん明治めいじ31ねん だい5かい日本にっぽん絵画かいが協会きょうかいだい1かい日本にっぽん美術びじゅついん連合れんごう絵画かいが共進きょうしんかい出品しゅっぴんさく[4]
養老ようろう孝子たかこ 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 115.0x50.0 高岡たかおか美術館びじゅつかん しょう
春宵しゅんしょう(しゅんしょうえん) 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん 1902ねん明治めいじ35ねん モデル北田きただ薄氷うすらいいもうと
さくら美人びじん月下美人げっかびじん 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 双幅そうふく 109.5x41.8(かく 飯田いいだ美術びじゅつ博物館はくぶつかん井村いむらコレクション) 1907ねん明治めいじ40ねんごろ
たけ物語ものがたり 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 118.0x42.0 青梅おうめ市立しりつ美術館びじゅつかん 1907ねん明治めいじ40ねんごろ
源氏物語げんじものがたり屏風びょうぶ 絹本けんぽんちょしょくきむ砂地すなじだい ろくきょく一双いっそう 横浜よこはま美術館びじゅつかん 明治めいじ30年代ねんだい後半こうはんから40年代ねんだい初頭しょとう
ちょう 絹本けんぽんちょしょく きょくいちせき 郡山こおりやま市立しりつ美術館びじゅつかん 明治めいじ40年代ねんだい[5]
孔雀くじゃく屏風びょうぶ 絹本けんぽん金地きんじちょしょく ろくきょく一双いっそう 172.0x376.0 秋田あきた県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん みぎせき:「半古はんこしゅぶんえんしるし
ひだりせき:款記「半古はんこ」/「半古はんこしゅぶんえんしるし[6]
さむこう 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 青梅おうめ市立しりつ美術館びじゅつかん 明治めいじ40年代ねんだい 款記「半古はんこ」/「半古はんこしゅぶんかたしるし
釈迦しゃか帰郷ききょう 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 123.6x49.7 埼玉さいたま県立けんりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 明治めいじ40年代ねんだいから大正たいしょう 款記「半古はんこ」/「半古はんこしゅぶんかたしるし
秋聲しゅうせい(しゅうせい) 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 栃木とちぎ県立けんりつ美術館びじゅつかん寄託きたく 1913ねん大正たいしょう2ねん だい3かい東京とうきょう勧業かんぎょう博覧はくらんかい出品しゅっぴんさく

版画はんが

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  • 孔雀くじゃく大判おおばん錦絵にしきえ とく俊彦としひこコレクション
  • きくうずら大判おおばん錦絵にしきえ とく俊彦としひこコレクション
  • おとこ石川いしかわ県立けんりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
  • くらこううとかげ石川いしかわ県立けんりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
  • ゆきちゅう石川いしかわ県立けんりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
  • 美人びじん石川いしかわ県立けんりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ きただ うすらい。結婚けっこん明治めいじ31ねん(1898ねん半古はんこ28さいときおなじく紅葉こうよう師事しじしたいずみ鏡花きょうかの『うすき紅梅こうばい』は半古はんこ薄氷はくひょうをモデルとした小説しょうせつだが、美人びじん名高なだかかった薄氷はくひょうたいする硯友社けんゆうしゃ作家さっかたちのあこがれを反映はんえいしてか、半古はんこ悪役あくやくとしてかれている。なお、半古はんこは2つまわかれ、3かい結婚けっこんした。
  2. ^ 政晴まさはる彫金ちょうきん作品さくひんについては、久保くぼ恭子きょうこ資料しりょう紹介しょうかい審査しんさ現場げんばから〜 梶田かじた半古はんこちち政晴まさはる小柄こがら」(『刀剣とうけん美術びじゅつだい590ごう、2006ねん3がつ、34ぺーじ)に、白黒しろくろながら写真しゃしん掲載けいさいされている。
  3. ^ この玉英たまえいという絵師えしは、当時とうじですらあまりられておらず、「半古はんこくちからはなされたことはない」との証言しょうげんがあり(山内やまうち金三郎きんざぶろうかみおの)「梶田かじたじゅくおも」『大和やまとぶんはな』18ごう所収しょしゅう、1951ねん)、遺作いさくるに凡庸ぼんよう絵師えしだったようだ。[独自どくじ研究けんきゅう?]
  4. ^ 華邨かそんは、後年こうねん半古はんこ門人もんじんとはしていないが、面倒めんどうむね回想かいそうしている。[よう出典しゅってん]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 山田やまだ 奈々子ななこ梶田かじた半古はんこ口絵くちえ国際こくさい浮世絵うきよえ学会がっかい、2002ねんdoi:10.34542/ukiyoeart.1327https://doi.org/10.34542/ukiyoeart.13272022ねん7がつ14にち閲覧えつらん 
  2. ^ わかくさ、ぜん5かん春秋しゅんじゅうどうかく24収録しゅうろく木版もくはん色刷いろずり。ただし、元々もともとぜん12かん予定よていだったが、5かんられている(大木たいぼく(2013)p.482)。
  3. ^ ごと入門にゅうもん日本にっぽん葉書はがきかい明治めいじ41ねん62-63ぺーじおよび「繪畫かいが鑑賞かんしょうほういて」『書畫しょが骨董こっとう雑誌ざっし明治めいじ45ねん6がつ
  4. ^ 富山とやまけん水墨すいぼく美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう郷土きょうど日本にっぽん画家がかたち』 2002ねん、pp.12,42-43。
  5. ^ 郡山こおりやま市立しりつ美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう郡山こおりやま市立しりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう品目ひんもくろく』 2013ねん3がつ27にち、p.129。
  6. ^ 秋田あきた県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう秋田あきた県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかん所蔵しょぞう作品さくひん図録ずろく 1994―2003』 2005ねん2がつ24にち、p.5。

参考さんこう文献ぶんけん

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単行たんこうしょ
  • 添田そえたいたるみね半古はんこ楓湖ふうこ睦月むつきしゃ、1955ねん
画集がしゅう展覧てんらんかい図録ずろく
  • 細野ほその正信まさのぶ監修かんしゅう、 『梶田かじた半古はんこ世界せかいてんそごう美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう、1994ねん
  • 梶田かじた半古はんこ原画げんが/斎藤さいとう慎一しんいちほかへん名画めいが源氏物語げんじものがたり梶田かじた半古はんこ近代きんだい日本にっぽん魅力みりょく大修館書店たいしゅうかんしょてん、1996ねんISBN 978-4-469-22124-4
  • 山田やまだ奈々子ななこ梶田かじた半古はんこ口絵くちえしゅう文生ふみお書院しょいん、2014ねん
  • 太田おおた記念きねん美術館びじゅつかんへん 『ラスト・ウキヨエ 浮世絵うきよえものたち−とく俊彦としひこコレクション』 太田おおた記念きねん美術館びじゅつかん、2019ねん
論文ろんぶん
  • 細野ほその正信まさのぶ梶田かじた半古はんこ芸術げいじゅつ」/松浦まつうらあき人物じんぶつ画家がか恩人おんじん 梶田かじた半古はんこ」/冨田とみたあきら梶田かじた半古はんこ研究けんきゅうノート」(『梶田かじた半古はんこ世界せかいてんそごう美術館びじゅつかん、1994ねん 所収しょしゅう
  • 山田やまだ奈々子ななこ梶田かじた半古はんこ口絵くちえ」 『浮世絵うきよえ芸術げいじゅつだい144ごう 国際こくさい浮世絵うきよえ学会がっかい、2002ねん
  • 内山うちやま淳子じゅんこ梶田かじた半古はんこ源氏物語げんじものがたり屏風びょうぶ》をめぐって」(特別とくべつてん源氏物語げんじものがたりいち〇〇〇ねん --あこがれの王朝おうちょうロマン--』 横浜よこはま美術館びじゅつかん、2008ねん所収しょしゅう
  • 浦木うらぎ賢治けんじ梶田かじた半古はんこひつ釈迦しゃか帰郷ききょう》について」(『埼玉さいたま県立けんりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん 紀要きようだい6ごう、2012ねん3がつ所収しょしゅう
  • 大木おおき優子ゆうこ梶田かじた半古はんこ図案ずあん制作せいさく図案ずあんしゅう『わかくさ』を中心ちゅうしんとする考察こうさつ―」『文化ぶんかがく年報ねんぽう同志社大学どうししゃだいがく文化ぶんか学会がっかい、2013ねん3がつ15にち、pp.481-495
概説がいせつしょ事典じてんるい
  • 藤懸ふじかけ静也しずやぞうてい浮世絵うきよえ雄山閣ゆうざんかく、1946ねん、281-282ぺーじ近代きんだいデジタルライブラリー本文ほんぶんあり。
  • 日本にっぽん美術びじゅついんひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかいへん日本にっぽん美術びじゅついんひゃくねんいちかんじょういたへん日本にっぽん美術びじゅついん、1989ねん
  • 上田うえだただしあきらほかへん日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん講談社こうだんしゃ、2001ねんISBN 978-4-062-10800-3

関連かんれん項目こうもく

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