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田沼意次 - Wikipedia コンテンツにスキップ

田沼たぬま意次おきつぐ

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田沼たぬま 意次おきつぐ
牧之原まきのはら史料しりょうかん所蔵しょぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき - 後期こうき
生誕せいたん とおる4ねん7がつ27にち1719ねん9月11にち
死没しぼつ 天明てんめい8ねん7がつ24にち1788ねん8がつ25にち
改名かいめい りゅうすけ幼名ようみょう)→意次おきつぐ
戒名かいみょう りゅうきょういん殿どの耆山良英よしひでだい居士こじ
墓所はかしょ 万年山はねやまかち林寺はやしじ東京とうきょう豊島としま駒込こまごめ
官位かんい したがえしゅ殿しんがりあたましたがえよん侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ小姓こしょう小姓こしょうぐみ番頭ばんがしら御側おそば御用ごよう取次とりつぎ
側用人そばようにん老中ろうじゅうかく老中ろうじゅう
主君しゅくん 徳川とくがわ家重いえしげ徳川とくがわ家治いえはる
はん 相良さがらはんあるじ
氏族しぞく 田沼たぬま
父母ちちはは ちち田沼たぬまぎょうはは田代たしろだかちか養女ようじょたつ
兄弟きょうだい 意次おきつぐまことみつる
つま 正室せいしつ伊丹いたみただしけんむすめ
継室けいしつ黒沢くろさわじょうむすめ
意知おきとも勇次郎ゆうじろう勝助かつすけただし松三郎まつさぶろう
土方ひじかたつよしさだ九鬼くきたかし千賀ちか西尾にしおただしうつりしつ
たからいけいん井伊いいただしろうしつ
養女ようじょ新見にいみ正則まさのりむすめ大岡おおおか忠喜ちゅうきしつ土方ひじかたつよしねんしつ
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田沼たぬま 意次おきつぐ(たぬま おきつぐ)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき旗本はたもと大名だいみょう江戸えど幕府ばくふ老中ろうじゅう遠江とおとうみ相良さがらはん初代しょだい藩主はんしゅ相良さがらはん田沼たぬま初代しょだい)。だい9だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家重いえしげだい10代家治いえはる治世ちせい側用人そばようにん老中ろうじゅう兼任けんにんして幕政ばくせい主導しゅどうし、この期間きかん通称つうしょうである「田沼たぬま時代ときよ」に名前なまえのこす。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

出生しゅっしょう[編集へんしゅう]

とおる4ねん7がつ27にち1719ねん9月11にち)、紀州きしゅうはんから旗本はたもとになった田沼たぬまぎょう長男ちょうなんとして江戸えど本郷ほんごうゆみまち屋敷やしきまれる。幼名ようみょうりゅうすけぎょう紀州きしゅうはん足軽あしがるだったが、部屋住へやず時代じだい徳川とくがわ吉宗よしむね側近そっきん登用とうようされ、吉宗よしむねだい8だい将軍しょうぐんとなると幕臣ばくしんとなり小身しょうしん旗本はたもととなった。吉宗よしむね将軍しょうぐん就任しゅうにんにあたって紀州きしゅうけい家臣かしん多数たすうきつれて幕臣ばくしんとし、とく勘定かんじょうかた将軍しょうぐんおよび子供こどもたちの側近そっきん配置はいちして幕政ばくせい掌握しょうあくしたが、意次おきつぐ紀州きしゅうけい幕臣ばくしんだい2世代せだい相当そうとうし、だい9だい将軍しょうぐんとなる徳川とくがわ家重いえしげ西丸にしまる小姓こしょうとして抜擢ばってきされ、とおる20ねん1735ねん)にちち遺跡いせき600いしいだ[1]

ぎょう息子むすこさずかるためにななめん大明神だいみょうじん帰依きえし、そして意次おきつぐまれた。そのため、意次おきつぐななめん大明神だいみょうじん感謝かんしゃし、家紋かもん七曜星しちようせい変更へんこうしたといわれている。

相良さがら藩主はんしゅ時代じだい[編集へんしゅう]

もとぶん2ねん1737ねん)、したがえしゅ殿しんがりあたまになり、のべとおる2ねん1745ねん)には家重いえしげ将軍しょうぐん就任しゅうにんともなって本丸ほんまるつかえる。寛延かんえい元年がんねん1748ねん)に1400せき加増かぞうされ、たかられき5ねん1755ねん)にはさらに3000せき加増かぞうされ、その家重いえしげによってたかられき8ねん1758ねん)にきた美濃みのこく郡上ぐじょうはん百姓ひゃくしょう一揆いっき郡上ぐじょう一揆いっき)にかんする裁判さいばんにあたらせるために、御側おそば御用ごよう取次とりつぎから1まんせき大名だいみょうてられた。

たかられき11ねん1761ねん)、家重いえしげ死去しきょしたのちも、そのだい10代将軍しょうぐん徳川とくがわ家治いえはる信任しんにんあつく、破竹はちくいきおいで昇進しょうしんし、明和めいわ4ねん1767ねん)には御側おそば御用ごよう取次とりつぎから板倉いたくら勝清かつきよ後任こうにんとして側用人そばようにんへと出世しゅっせし、5000せき加増かぞうけた。さらにしたがえよんすすみ2まんせき相良さがらしろおもとなって、明和めいわ6ねん1769ねん)には侍従じじゅうにあがり老中ろうじゅうかくになる。安永やすなが元年がんねん1772ねん)、相良さがらはん5まん7000せき大名だいみょうてられ、老中ろうじゅう兼任けんにんし、前後ぜんご10かい加増かぞうでわずか600せき旗本はたもとから5まん7000せき大名だいみょうにまで昇進しょうしんし、側用人そばようにんから老中ろうじゅうになったはじめての人物じんぶつとなった。順次じゅんじ加増かぞうされたため、この5まん7000せき内訳うちわけ遠江とおとうみこく相良さがらだけでなく駿河するがこく下総しもうさこく相模さがみこく三河みかわこく和泉いずみこく河内かわうちこくの7かこく14ぐんにわたり、東海道とうかいどうから畿内きないにまたがる分散ぶんさん知行ちぎょうとなった[2]

田沼たぬま時代ときよ[編集へんしゅう]

このころより、老中ろうじゅう首座しゅざである松平まつだいらたけしもとなど意次おきつぐ中心ちゅうしんとした幕府ばくふ閣僚かくりょうは、数々かずかず幕政ばくせい改革かいかくがけ、田沼たぬま時代ときよばれる権勢けんせいにぎる。

吉宗よしむね時代じだい質素しっそ倹約けんやくは、幕府ばくふ財政ざいせい支出ししゅつ減少げんしょうのみならず、課税かぜい対象たいしょうである農民のうみんにも倹約けんやく強制きょうせいし、それによって幕府ばくふ財政ざいせい大幅おおはば改善かいぜんたが、この増税ぞうぜい路線ろせんは9だい将軍家しょうぐんけじゅうだいには百姓ひゃくしょう一揆いっき増発ぞうはつとなってあらわれ、破綻はたんした。そして、幕府ばくふりょうにおける一揆いっきではないものの、意次おきつぐ郡上ぐじょう一揆いっき裁定さいていまかされたことから、農民のうみんたいする増税ぞうぜい路線ろせん問題もんだいたりにする立場たちばであった。

たかられきこった郡上ぐじょう一揆いっきなどの民衆みんしゅう反発はんぱつ激化げきか天災てんさいわざわい多発たはつから、幕府ばくふまくかくべい以外いがいぜい収入しゅうにゅうすすめる。内容ないようかぶ仲間なかま推奨すいしょう銅座どうざなどの専売せんばいせい実施じっし鉱山こうざん開発かいはつ蝦夷えぞ開発かいはつ計画けいかくたわらぶつなどの専売せんばい下総しもうさこく印旛沼いんばぬま手賀沼てがぬま干拓かんたく着手ちゃくしゅするなど、田沼たぬま時代じだい財政ざいせい政策せいさく元禄げんろく時代じだいのような貨幣かへい改鋳かいちゅうたよらない、さまざまな商品しょうひん生産せいさん流通りゅうつうひろうす課税かぜいし、金融きんゆうからも利益りえきすなどといった大胆だいたん財政ざいせい政策せいさくこころみた。

浅間山あさまやまてん明大めいだい噴火ふんか

しかし、田沼たぬま時代じだい政策せいさく幕府ばくふ利益りえき都合つごう優先ゆうせんさせる政策せいさくであり、しょ大名だいみょう庶民しょみん反発はんぱつびた。また、幕府ばくふ役人やくにんあいだ賄賂わいろ縁故えんこによる人事じんじ横行おうこうするなど、武士ぶし本来ほんらい士風しふう退廃たいはいさせたとする批判ひはんこった。都市とし町人ちょうにん文化ぶんか発展はってんする一方いっぽうえきうす農業のうぎょう困窮こんきゅうした農民のうみん田畑たはた放棄ほうきし、都市としながんだために農村のうそん荒廃こうはいしょうじた。だい規模きぼ開発かいはつさく大胆だいたん金融きんゆう政策せいさくなど、開明かいめいてき革新かくしんてき経済けいざい政策せいさくばれる意次おきつぐ政策せいさくは、いわばだい山師やましてき政策せいさくだった。この時代じだい利益りえき追求ついきゅうもと民間みんかんから様々さまざま献策けんさくさかんにおこなわれ、民間みんかん利益りえき追求ついきゅう幕府ばくふえき追求ついきゅう政治せいじとがむすびつき、かなり大胆だいたん発想はっそう構想こうそう政策せいさく立案りつあん執行しっこうされた。だが、その収入しゅうにゅう増加ぞうかさく立案りつあん運用うんようのところ場当ばあたりてきなものもおおく、利益りえきよりも弊害へいがいほう目立めだつようになって撤回てっかいまれるケースも多発たはつしていた。そして幕府ばくふ運上うんじょうきん冥加金みょうがきん上納じょうのうえさみずからの利益りえきをもくろんで献策けんさくおこな町人ちょうにんえ、結果けっかてき幕府ばくふ庶民しょみんとくにならなかった政策せいさく採用さいようすることもあった。そのような町人ちょうにん献策けんさく幕府ばくふないでの出世しゅっせ目当めあてに採用さいようしていく幕府ばくふ役人やくにんあらわれ、町人ちょうにん幕府ばくふ役人やくにんとの癒着ゆちゃく目立めだつようになった。同時どうじ田沼たぬま時代じだい代名詞だいめいしである賄賂わいろ横行おうこう幕府ばくふしょはんとの利益りえき衝突しょうとつ負担ふたんけられた民衆みんしゅうとのあいだ深刻しんこく矛盾むじゅんしょうじさせた[3]。このような風潮ふうちょうは「山師やまし運上うんじょう」という言葉ことばかたられた。しだいに利益りえき追求ついきゅうがた場当ばあたりてきめんおおく、腐敗ふはい目立めだ田沼たぬま意次おきつぐ政策せいさくたいする批判ひはんつよまっていく。天明てんめい4ねん1784ねん)、意次おきつぐ世子せいしのまま若年寄わかどしよりつとめていた田沼たぬま意知おきとも江戸城えどじょううち佐野さのまさしげん暗殺あんさつされた[ちゅう 1]ことを契機けいきとし、権勢けんせいおとろはじめる。

天明てんめい6ねん1786ねん8がつ25にち将軍家しょうぐんけ死去しきょした。直前ちょくぜんから「家治いえはる勘気かんきこうむった」としてその周辺しゅうへんからとおざけられていた意次おきつぐは、将軍しょうぐんせられていたあいだ高貴こうきひと一定いってい期間きかんせられるのが通例つうれい)に失脚しっきゃくするが、このうごきにははん田沼たぬまいちきょう徳川とくがわ治済はるさだ)の策謀さくぼうがあったともされる。意次おきつぐ8がつ27にち老中ろうじゅう辞任じにんさせられ、かりあいだつめ降格こうかくした。うるう10月5にちには家治いえはる時代じだい加増かぞうぶんの2まんせき没収ぼっしゅうされ、さらに大坂おおさかにある蔵屋敷くらやしき財産ざいさん没収ぼっしゅう江戸えど屋敷やしきわたしもめいじられた。

その意次おきつぐ蟄居ちっきょめいじられ、2度目どめげんふうける。相良さがらしろこわされ、城内きうち備蓄びちくされていた8まんりょうのうちの1まん3せんりょうしお味噌みそ備蓄びちくようとの名目めいもく没収ぼっしゅうされた[4]長男ちょうなん意知おきともはすでに暗殺あんさつされ、の3にん子供こどもすべ養子ようしされていたため、まごりゅうすけ陸奥むつ下村しもむら1まんせきげんてんふうのうえで、かろうじて大名だいみょうとしての家督かとくぐことをゆるされた。おなじく軽輩けいはいから側用人そばようにんとして権力けんりょくをのぼりつめた柳沢やなぎさわ吉保よしやす間部まべ詮房あきふさが、辞任じにんのみで処罰しょばつはなく、いえろく維持いじつづけたことにくらべると、もっと苛烈かれつ末路まつろとなった[ちゅう 2]

その2ねんにあたる天明てんめい8ねん7がつ24にち1788ねん8がつ25にち)、意次おきつぐ江戸えど死去しきょした。享年きょうねん70。

相良さがらはん藩政はんせい[編集へんしゅう]

田沼たぬま意次おきつぐ御側おそば御用ごよう取次とりつぎであったたかられき8ねん1758ねん)に、だい9だい将軍家しょうぐんけおもから呉服ごふくきょう御門みかどない屋敷やしきあたえられるとともに、相良さがら1まんせき大名だいみょうとなった。このとき相良さがら郡上ぐじょう一揆いっき改易かいえきとなった本多ほんだただしひさしぜん領主りょうしゅであったが、しろはなく陣屋じんやのみあった。明和めいわ4ねん1767ねん)にはだい10代将軍家しょうぐんけより神田かんだきょう御門みかどない屋敷やしきあたえられ(このときから「神田かんだきょうさま」とばれることとなった)、さらに築城ちくじょう許可きょかされて城主じょうしゅかくとなった。翌年よくねんから相良さがらじょう建設けんせつはじめ、完成かんせいまでに11年間ねんかん月日つきひようした。意次おきつぐ普請ふしん工事こうじ家老がろう井上いのうえ伊織いおりすべゆだね、1780ねん安永やすなが9ねん)の完成かんせいわせて62さいになった意次おきつぐ検分けんぶん名目めいもくでおくにりをたした。とく天守てんしゅきずくことをゆるされており、縄張なわばりを北条ほうじょうりゅう軍学ぐんがくしゃ須藤すとう治郎じろう兵衛ひょうえまかせ、三重みえ天守閣てんしゅかくきずいた。出世しゅっせかさねた意次おきつぐ所領しょりょうは、最終さいしゅうてきに5まん7せんせきにまで加増かぞうされた[5]

意次おきつぐ江戸えど定府じょうふ幕政ばくせい執務しつむつとめていたため、国元くにもと藩政はんせいについては町方まちかた村方むらかた統治とうち明確めいかくし、城代しろだい国家老くにがろうなどの藩政はんせい担当たんとう家臣かしん国元くにもと配置はいちした。上記じょうき築城ちくじょうほか城下町じょうかまち改造かいぞうのち田沼たぬま街道かいどう相良さがら街道かいどう)とばれる東海道とうかいどう藤枝ふじえだ宿やどから相良さがらいた分岐ぶんき街道かいどう整備せいび相良さがらこう整備せいび助成じょせいきんしてかわらきを奨励しょうれいして火事かじ対策たいさくとするなどのインフラにちからそそいだ。意次おきつぐ郡上ぐじょう一揆いっき調査ちょうさ裁定さいていおこなった経歴けいれきから、年貢ねんぐ増徴ぞうちょう政策せいさくだけでは経済けいざいまることをっていたので、家訓かくん年貢ねんぐ増徴ぞうちょういましめており、領内りょうない年貢ねんぐかるいことから百姓ひゃくしょうよろこんだ逸話いつわのこされた。殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさくにもみ、農業のうぎょうでは養蚕ようさんはぜのき栽培さいばい奨励しょうれい製塩せいえんごう助成じょせい食糧しょくりょう備蓄びちく制度せいど整備せいびして藩政はんせい安定あんていさせた[5]

財政ざいせい赤字あかじつづ倹約けんやく増税ぞうぜいはし田沼たぬま時代ときよ[編集へんしゅう]

田沼たぬま意次おきつぐ財政ざいせい政策せいさくは、世間せけん通説つうせつでは積極せっきょく財政ざいせいだとわれるが、実際じっさい政策せいさくとおる改革かいかく緊縮きんしゅく路線ろせんぎ、緊縮きんしゅく増税ぞうぜいおこなっていた[6]

財政ざいせい赤字あかじ頻発ひんぱつしたため、田沼たぬま時代じだいはひたすらにまくえき追求ついきゅうしていった時代じだいだった。天明てんめい7ねん1787ねん)に老中ろうじゅうとなった松平まつだいら定信さだのぶ提出ていしゅつされたうえさききゅうはちろう上書うわがきなかで、田沼たぬま時代じだいしょ役人やくにんつぎのように批判ひはんされている。

しょ役人やくにんは、幕府ばくふ支出ししゅついちせんでもらすことをだいいちつとめとしてたがいにきそい、幕府ばくふ利益りえきだととなえて、おも租税そぜいてることを将軍しょうぐんへの奉公ほうこうかんがえ、おのおのので、一方いっぽう費用ひようりつめて支出ししゅつらし、他方たほう租税そぜいてをきびしくし、その手柄てがらにより転任てんにん出世しゅっせしていった[6]

このようなまくえき優先ゆうせん緊縮きんしゅく増税ぞうぜい田沼たぬま時代じだいおこなわれた理由りゆうは、当時とうじ相次あいついだ天災てんさい飢饉ききんによってこされた幕府ばくふ財政ざいせい悪化あっかだった。

田沼たぬま時代じだい最初さいしょから天災てんさい飢餓きが続出ぞくしゅつし、たかられき明和めいわだい旱魃かんばつ洪水こうずいなど天災てんさい多発たはつし、江戸えどでは明和めいわ大火たいかにて死者ししゃは1まん4700にん行方ゆくえ不明ふめいしゃは4000にんえた。その天災てんさい地変ちへんつづき、天災てんさい疫病えきびょう三原山みはらやま桜島さくらじま浅間山あさまやまだい噴火ふんか、そして天明てんめいだい飢饉ききんこった。そのため全国ぜんこく一揆いっきちこわし各地かくち激発げきはつした。通算つうさんかぞえると、田沼たぬま時代じだいたかられきから天明てんめいの38ねんあいだ発生はっせいした一揆いっきかずは600けんちかくあり、都市とし騒擾そうじょうも150けん以上いじょうにのぼる。

明和めいわ9ねん1772ねん)、変事へんじつづいたため年号ねんごう安永やすなが変更へんこうし、安寧あんねいねがった。当時とうじ落首らくしゅでも「明和めいわきゅう昨日きのうかぎ今日きょうよりは 壽命じゅみょうひさしき安永やすながとし」とかれている。明和めいわ年間ねんかん1764ねんから1772ねんの8ねん期間きかんは、うち6ねんべいかねともに赤字あかじ記録きろくし、赤字あかじのないとし明和めいわ8ねん1771ねん以外いがいないという、赤字あかじおお時期じきであった[7]。その明和めいわ8ねんは、不作ふさく理由りゆうに7年間ねんかん倹約けんやくれい経費けいひ削減さくげん拝借はいしゃくきん制限せいげんめいじたとしだった。さらには禁裏きんり財政ざいせいにまでメスをれ、支出ししゅつ削減さくげんちからをいれた。そのかいあって、安永やすなが年間ねんかん明和めいわ年間ねんかんにくらべて小康しょうこう状態じょうたいいた。安永やすなが元年がんねん(1772ねん)から6ねん1777ねん)までは、べい収支しゅうしこそ毎年まいとし赤字あかじだったが、きむ収支しゅうしはなんとか黒字くろじ維持いじつづけた。しかし、つぎ天明てんめい年間ねんかん天明てんめいだい飢饉ききんがおこり、膨大ぼうだい赤字あかじ連続れんぞくすることとなる。最終さいしゅうてき幕府ばくふ備蓄びちく推移すいいてみると、明和めいわ時期じき幕府ばくふ備蓄びちくきんは300まんりょうあったが、田沼たぬま時代じだいわりには81まんりょうまでに急減きゅうげんするという結果けっかわった[6]

田沼たぬま時代じだいとは、家重いえしげだいまでにたくわえた備蓄びちくいつぶして、天災てんさいわざわい多発たはつする危機ききった時代じだいだったといえる。田沼たぬま時代じだい各種かくしゅ政策せいさくは、それらの幕府ばくふ財政ざいせい状況じょうきょうまえてかんがえることが重要じゅうようである[6]

政策せいさく[編集へんしゅう]

しょ経費けいひ削減さくげん[編集へんしゅう]

田沼たぬま吉宗よしむね時代じだいならった経費けいひ削減さくげんおこなった。大奥おおおく縮小しゅくしょうし、将軍しょうぐん私生活しせいかつまかな納戸なんどきんがく1750ねんに2まん4600りょうだったものから1771ねんには1まん5000りょう削減さくげんした。1746ねん幕府ばくふしょ役所やくしょ経費けいひの2年間ねんかん節減せつげんめいじ、1755ねん役所やくしょべつ定額ていがく予算よさん制度せいど採用さいよう1764ねんには役所やくしょ使つか筆墨ひつぼく灯油とうゆなどの現物げんぶつ支給しきゅう停止ていしし、役所やくしょ経費けいひでの購入こうにゅう変更へんこうするなど、経費けいひ削減さくげんんだ[6]

手伝てつだえ普請ふしん[編集へんしゅう]

さらに1757ねん田沼たぬま吉宗よしむね時代じだい停止ていしされていたくにやく普請ふしん再開さいかいした。幕府ばくふ普請ふしんよりもくにやく普請ふしんほうが、わたしりょうでの公儀こうぎ普請ふしん領主りょうしゅ負担ふたんぶん立替たてかえきんをきちんと徴収ちょうしゅうすれば、幕府ばくふ負担ふたん工事こうじの10ぶんの1の負担ふたんんだからである。国持くにもち大名だいみょうや20まんせき以上いじょう大名だいみょうにも手伝てつだえ普請ふしんおこなわせることで、幕府ばくふ負担ふたん軽減けいげんはかった。めいじられた大名だいみょうたちは財政難ざいせいなんなかで、自分じぶん領国りょうごく統治とうちには無関係むかんけい年貢ねんぐ増加ぞうかにもつながらない手伝てつだ普請ふしんおこなうことで、おおくの借金しゃっきん背負せおうこととなった。めいじられたはんなかには藩政はんせい改革かいかくちゅうはんなどもあったがかまわずめいじられ、回復かいふくしたはん財政ざいせいふたた借金しゃっきんなかしずんだ[6]とく仙台せんだいはんは、1767ねん利根川とねがわすじ手伝てつだえ普請ふしんめいじられたが、これによって22まんりょうもの巨額きょがく借金しゃっきんかかえることとなり、それまで以上いじょうはん利益りえき追求ついきゅうすることを余儀よぎなくされたことで、天明てんめいだい飢饉ききん被害ひがいひろげたのではないかとわれている。

倹約けんやくれい発布はっぷ[編集へんしゅう]

たかられき元年がんねん(1751ねん)から11ねん(1761ねん)の毎年まいとしべい赤字あかじのときもあったがかね黒字くろじつづきだったのが、たかられき12ねん(1762ねん)からつぎ明和めいわではべいかねともに赤字あかじつづいた。明和めいわ元年がんねん(1764ねん)にこめ5まんせきかね5まんりょう赤字あかじになり、以降いこう明和めいわ6ねん(1769ねん)までかねかた収支しゅうし毎年まいとし赤字あかじべい明和めいわ4ねん(1767ねん以外いがい毎年まいとし赤字あかじになっていた。このように明和めいわ以降いこう幕府ばくふ財政ざいせい赤字あかじ基調きちょうになっていた。そのため、明和めいわ8ねん(1771ねん)に7年間ねんかん倹約けんやくれい発布はっぷした。明和めいわ倹約けんやく政策せいさくをやめるとまた黒字くろじっていき、天明てんめいだい飢饉ききんによるだい赤字あかじきた。それに対応たいおうするため、天明てんめい3ねん(1783ねん)に7年間ねんかん倹約けんやくれい発布はっぷし、さらにきびしい倹約けんやく政策せいさく実施じっしした。また天明てんめい3ねんにはだい飢饉ききん最中さいちゅうしょ役人やくにん年貢ねんぐりょう維持いじ冥加みょうが運上うんじょう増額ぞうがく堤防ていぼう道路どうろはし工事こうじ減額げんがくするとめいじている[7]

拝借はいしゃくきん停止ていし[編集へんしゅう]

明和めいわ8ねん(1771ねん拝借はいしゃくきん制限せいげんした。拝借はいしゃくきんとは、凶作きょうさく自然しぜん災害さいがいなどによって経済けいざいてき苦境くきょうにおちいった大名だいみょう旗本はたもと救済きゅうさいするため、利子りし年賦ねんぷ返済へんさい融資ゆうしするという制度せいどだった。これは幕府ばくふ大名だいみょう旗本はたもとたち武士ぶし身分みぶんものたちを保護ほごする「公儀こうぎ」であることを、金融きんゆうめんしめ制度せいどであり、将軍しょうぐん幕府ばくふへの求心力きゅうしんりょく維持いじするための制度せいどであったが、財政難ざいせいなん理由りゆうにこれを制限せいげんした。さらに天明てんめい3ねん(1783ねん)にはとうとう拝借はいしゃくきん全面ぜんめん停止ていしするにいたった[6]

うえともれい[編集へんしゅう]

利益りえきおおきい産業さんぎょうのあるはんりょう幕府ばくふりょう編入へんにゅうするべく、上地じょうちめいじようとした。

  • 秋田あきたはんりょう 阿仁あに銅山どうざん
    • たかられき14ねん(1764ねん貿易ぼうえきようどう直接ちょくせつ確保かくほのために5月にうえれいしたが、秋田あきたはん反発はんぱつはげしく翌月よくげつ撤回てっかい
  • 尼崎あまがさきはんりょう 摂津せっつ西宮にしのみや
    • 明和めいわ6ねん(1769ねん灯油とうゆ原料げんりょうである菜種なたね生産せいさん地域ちいき1まん4せんせきむら都市とし代替だいたいえで上地じょうちめいじた。
  • 蝦夷えぞ
    • 松前まさきはんから蝦夷えぞそのものを上地じょうちしようとしたが、田沼たぬま失脚しっきゃくとともに頓挫とんざした。

かぶ仲間なかま推奨すいしょう[編集へんしゅう]

田沼たぬま時代じだいは、とおる改革かいかく公認こうにんされたかぶ仲間なかま推奨すいしょうされた。

かぶ仲間なかま公認こうにんしたとおる幕府ばくふ意図いとは、問屋とんや商人しょうにんたちのちから利用りようし、物価ぶっか安定あんてい操作そうさ利用りようすることだった。しかし、田沼たぬま時代じだい幕府ばくふ意図いとかんしては、冥加金みょうがきん上納じょうのうさせることによる財政ざいせい収入しゅうにゅう増加ぞうかさくなのか、かぶ仲間なかまによる流通りゅうつう統制とうせい物価ぶっか安定あんていさくだったのか、と評価ひょうかかれている。田沼たぬま時代じだいどう業者ぎょうしゃ組合くみあいであるかぶ仲間なかま奨励しょうれいし、真鍮しんちゅうなどの組織そしき結成けっせいさせ、商人しょうにん専売せんばいせいなどの特権とっけんあたえて保護ほご運上うんじょうきん冥加金みょうがきんぜいとして積極せっきょくてき徴収ちょうしゅうした。だが、この冥加金みょうがきんなどの上納じょうのう基本きほんてきにどれも少額しょうがくであり、幕府ばくふ財政ざいせい収支しゅうしあたえた影響えいきょうはあまりおおきかったとはかんががたく、中井なかい信彦のぶひこなどは冥加金みょうがきん少額しょうがくなため財政ざいせいじょう意義いぎ不明ふめいとして冥加金みょうがきん財政ざいせい収入しゅうにゅう増加ぞうかせつ否定ひていてきである[7][ちゅう 3]

長崎ながさき会所かいしょ健全けんぜん[編集へんしゅう]

長崎ながさき貿易ぼうえきになっていた長崎ながさき会所かいしょは、とおる8ねん(1723ねん)にはその運上うんじょうを5まんりょうさだめられていた。だがとおる18ねんには3まん5000りょう減額げんがくし、ひろし2ねん(1742ねん)にはとうとう廃止はいし以降いこう借金しゃっきんがかさみ、のべとおる3ねん(1746ねん)には拝借はいしゃくきん21まんりょうにまでふくがった。そのため、勘定かんじょうしょ寛延かんえい元年がんねん(1748ねん)から22年間ねんかん勘定かんじょう奉行ぶぎょう長崎ながさき奉行ぶぎょう兼任けんにんすることで管理かんり統制とうせいつよめ、最終さいしゅうてきには借金しゃっきん返済へんさい運上うんじょうきんもかつての5まんりょうの3ぶんの1以下いかだが1まん5000りょう上納じょうのうさせることに成功せいこうした。長崎ながさき貿易ぼうえきたわらぶつ増産ぞうさん目指めざされ、ぎん輸出ゆしゅつから輸入ゆにゅうへとわった[7]

なお、一般いっぱんには田沼たぬま意次おきつぐ積極せっきょくてき貿易ぼうえき政策せいさく輸出ゆしゅつやしたといわれているが、鈴木すずき康子やすこ著書ちょしょ長崎ながさき奉行ぶぎょう研究けんきゅう』によると、うみ舶互市新いちしんれいさだめられた貿易ぼうえき総量そうりょうえて貿易ぼうえきはじめたわけでも、ぎん輸入ゆにゅうする見返みかえりにどう輸出ゆしゅつりょう増加ぞうかさせたわけでもなく、貿易ぼうえき総量そうりょう変化へんかはなかったことがわかり、一般いっぱんわれているような積極せっきょくてき貿易ぼうえき政策せいさくによる輸出ゆしゅつ増加ぞうか政策せいさくなどしていないこともわかる。藤田ふじたさとしは、田沼たぬま時代じだい積極せっきょくてき貿易ぼうえき政策せいさくというこれまでの評価ひょうか再考さいこうもとめられているとしている[7]

通貨つうか政策せいさく[編集へんしゅう]

財政ざいせい支出ししゅつ補填ほてんのため、もんめぎん南鐐なんりょうしゅぎん寛永かんえい通宝つうほうよんぶん黄銅こうどうぜにといったしん貨の鋳造ちゅうぞうおこなった。南鐐なんりょうしゅぎんかんしては、法定ほうてい比価ひかかね1両分りょうぶんだともとぶんぎん104gにたい南鐐なんりょうしゅぎん8まい79gと設定せっていしたので、もとぶんぎん材料ざいりょう南鐐なんりょうしゅぎん鋳造ちゅうぞうすれば通貨つうか発行はっこうえき発生はっせいすることになる。寛永かんえい通宝つうほうよんぶん黄銅こうどうぜに一文いちぶん青銅せいどうぜにくらべ、額面がくめんじょうがくは4ばいだがどうりょうは1.3ばいでしかなく、これもまた発行はっこうすれば通貨つうか発行はっこうえき発生はっせいした[8]財政ざいせい補填ほてんのために発行はっこうされた南鐐なんりょうしゅぎんだったが、その発行はっこうかんしては通貨つうか発行はっこうえき以外いがいに、金貨きんか単位たんい計数けいすう銀貨ぎんか誕生たんじょうによって通貨つうか単位たんい金貨きんかへの統合とうごううながされた。南鐐なんりょうしゅぎん田沼たぬま在任ざいにん当時とうじはなはだ評判ひょうばんわる通貨つうかだったが、田沼たぬま末期まっきには定着ていちゃくした[9]

これらは時代じだい先駆さきがける政策せいさくであった。それにはんし、時代じだい逆行ぎゃっこうする政策せいさくもしている。紙幣しへい発行はっこうについては、吉宗よしむね時代じだいには紙幣しへい通用つうよう解禁かいきんされていたが、それを逆行ぎゃっこうさせ1759ねん金札きんさつぜにさつ通用つうよう禁止きんしし、またぎんさつ新規しんき発行はっこう禁止きんしした。しかし、それらの法令ほうれい無視むしして藩札はんさつわたしさつ発行はっこうされつづけた[10]

蝦夷えぞ開発かいはつ[編集へんしゅう]

松本まつもとしげる蝦夷えぞ政策せいさくで、蝦夷えぞ開発かいはつ金銀きんぎん銅山どうざんひらき、産出さんしゅつした金銀きんぎんロシア交易こうえきし、利益りえきようというこころみがあった。

このすうじゅうねん、ロシアは日本にっぽんとの交易こうえきのぞんでいたので、これを放置ほうちしていてはみつ貿易ぼうえきさかんになると危惧きぐしていた。そこで公式こうしき貿易ぼうえきみとめれば、ロシアは食料しょくりょうがほしいので、たわらぶつだけでも交易こうえきになるので利益りえきになるだろうとかんがえた。蝦夷えぞ金銀きんぎん銅山どうざん開発かいはつし、ロシア交易こうえきにあてれば、長崎ながさき貿易ぼうえきさかんになると試算しさんした[11]

蝦夷えぞ調査ちょうさするために幕府ばくふ派遣はけんしたメンバーには、青島あおしま俊蔵しゅんぞう最上もがみ徳内とくない大石おおいし逸平いっぺい庵原いおはらわたるろくなどがいた。また、蝦夷えぞ調査ちょうさ開発かいはつをすすめる事務じむかたには、勘定かんじょう奉行ぶぎょう松本まつもとしげる勘定かんじょう組頭くみがしら土山つちやま宗次郎そうじろうなどがいた。蝦夷えぞ調査ちょうさ鉱山こうざん開発かいはつやロシア交易こうえき実現じつげんせい調しらべ、蝦夷えぞ開発かいはつ可否かひ決定けっていすることとなった。調査ちょうさたい天明てんめい5ねん(1785ねん)4がつ29にち松前まさきち、ひがしから国後くなしり西にしから択捉えとろふの2たいかれてすすんだ。よく天明てんめい6ねん(1786ねん)2がつ佐藤さとうげん六郎ろくろうによる調査ちょうさ報告ほうこくがあがった。調査ちょうさ結果けっか危惧きぐしていたのとちがい、ロシアとのあいだみつ貿易ぼうえき交易こうえきといえるほどの規模きぼでは存在そんざいしなかった。ロシアは日本にっぽん交易こうえきをしたがっているので、正式せいしき交易こうえきはじめればかなりの規模きぼになるだろうが、外国がいこく製品せいひん長崎ながさき貿易ぼうえき十分じゅうぶん入手にゅうしゅできている現状げんじょう無理むりにロシア交易こうえきはじめても長崎ながさき貿易ぼうえき支障ししょうをきたすことになり、そのうえいくら禁止きんししても金銀きんぎんどう流出りゅうしゅつすることになる。結果けっか最終さいしゅうてき田沼たぬま蝦夷えぞ鉱山こうざん開発かいはつ、ロシア交易こうえき放棄ほうきした[11]

蝦夷えぞ鉱山こうざん開発かいはつ・ロシア交易こうえき構想こうそう頓挫とんざしたことで、松本まつもと新田にった開発かいはつあん転換てんかんした。松本まつもと構想こうそう現実げんじつてきなもので、

農地のうち開発かいはつのため、アイヌを3まんけがれおお非人ひにんを7まんにん移住いじゅうさせ、新田にった開発かいはつすすんで農民のうみんえれば、商人しょうにんたちもえ、人口じんこうえる。さらに異国いこくとの通路つうろり、日本にっぽん威光いこうによりロシア、満州まんしゅうやままでもが日本にっぽん服属ふくぞくし、永久えいきゅう安全あんぜん保障ほしょうとなる。蝦夷えぞ開発かいはつされれば、奥羽おうう両国りょうこく中国ちゅうごく地方ちほうのような国柄くにがらになる。新田にった開発かいはつもあまり時間じかんをかけず、人口じんこう増加ぞうかも8、9ねん実現じつげんできる。

しるしている。

田沼たぬま失脚しっきゃく蝦夷えぞ開発かいはつはいったん中止ちゅうしとなった。しかし、この政策せいさく老中ろうじゅうふく幕府ばくふだい多数たすう支持しじされていた。開拓かいたく反対はんたいである松平まつだいら定信さだのぶも、早急そうきゅう開拓かいたく反対はんたいしているだけで、将来しょうらいてき蝦夷えぞ開拓かいたく自体じたい肯定こうていだった。定信さだのぶ失脚しっきゃくしたのち寛政かんせい11ねん(1799ねん)、幕府ばくふひがし蝦夷えぞ直轄ちょっかつとし、中止ちゅうしされていた蝦夷えぞ開発かいはつ開始かいしした。文化ぶんか4ねん(1807ねん)には松前まさきはんから領地りょうちげ、ぜん蝦夷えぞ直轄ちょっかつした。田沼たぬま提唱ていしょうした幕府ばくふによる蝦夷えぞ開発かいはつ計画けいかくは、その紆余曲折うよきょくせつはあったものの、文政ぶんせい4ねん(1821ねん)に中止ちゅうしされるまで継続けいぞくしていくこととなる[11]

用金ようきんれい[編集へんしゅう]

大坂おおさか西町にしまち奉行ぶぎょう佐野さのまさしおや担当たんとうとし、天明てんめい3ねん(1783ねん)、大名だいみょうへの融資ゆうし財源ざいげんとして、大坂おおさか豪商ごうしょうたいし14まん5せんりょうもの「用金ようきんれい」をめいじた。このかね実際じっさい幕府ばくふ金蔵きんぞうおさめるわけではなく、商人しょうにんたちの手元てもとめておき、大名だいみょうから融資ゆうしもうみがあれば大坂おおさかまち奉行ぶぎょうしょ返済へんさい保証ほしょうをつけけるというものだった。年利ねんり8%であり、そのうち幕府ばくふは2.5%、商人しょうにんは5.5%の利益りえきるというものだった。しかし、大名だいみょうからの返済へんさいとどこおっていることから商人しょうにんたちはしぶったため、天明てんめい5ねん(1785ねん)にあらためて大名だいみょうがわからの年貢ねんぐ担保たんぽとして設定せっていし、同様どうよう仕組しくみで利息りそく7%、うち1%を上納じょうのうする用金ようきんれいされる。当時とうじ天明てんめいだい飢饉ききんにより大名だいみょう資金繰しきんぐ問題もんだいがより深刻しんこくしており、そこから大名だいみょう救済きゅうさい幕府ばくふ財政ざいせい支出ししゅつ削減さくげんしん財源ざいげん創出そうしゅつという3つが達成たっせいできる施策しさくであったが、結局けっきょく商人しょうにんたちの融資ゆうしそのものにたいする強制きょうせいりょくがなかったため、またまたしぶりがこり、実効じっこうせいがないまま天明てんめい6ねん(1786ねん)に中止ちゅうしとなった。

貸金かしきん会所かいしょ[編集へんしゅう]

用金ようきんれい失敗しっぱいけて、天明てんめい6ねん(1786ねん)、あらたに構想こうそうされたのが貸金かしきん会所かいしょ設立せつりつである。これはあるしゅの「政府せいふけい銀行ぎんこう」「国債こくさい」ともいえる先進せんしんてきこころみであった。天明てんめいだい飢饉ききんにより資金繰しきんぐりに困窮こんきゅうしているしょ大名だいみょうへの融資ゆうしおこなうため、諸国しょこく寺社じしゃ山伏やまぶしは、その規模きぼなどにおうじて最高さいこう15りょうを、全国ぜんこく百姓ひゃくしょうだか100せきにつきぎん25もんめを、諸国しょこく町人ちょうにん所持しょじする家屋かおくじき間口まぐちひろさ1あいだにつきぎん3もんめを、このとしから5年間ねんかん毎年まいとし幕府ばくふたいして支払しはらうように命令めいれいした。貸金かしきん会所かいしょつうじて年利ねんり7%で大名だいみょうされ、5ねん以降いこう7%の貸付かしつけ利息りそくから事務じむ手数料てすうりょういた利息りそくをつけて出資しゅっししゃ返済へんさいされるという仕組しくみである。ほぼぜん国民こくみんたいする強制きょうせいてき徴収ちょうしゅうである一方いっぽうで、5ねん利息りそくがついてかえってくる仕組しくみであり、現代げんだいにもつうずる先進せんしんてきこころみではあったが、負担ふたんもとめられるがわにとってはたださらなる負担ふたんいられるだけにしかえず、しかも天明てんめいだい飢饉ききんっただなかでの「増税ぞうぜいあんということもあって反発はんぱつおおきかった。またである大名だいみょうほうも、たしかに市中金利しちゅうきんりよりもてい金利きんりりられるメリットはあるが、原資げんし領民りょうみんでもある百姓ひゃくしょう町人ちょうにんからてたかねであり、幕府ばくふの「貸金かしきん会所かいしょ」をつうじてりるということははん内情ないじょう幕府ばくふられてしまうことになる。このてん大名だいみょうたちからも反発はんぱつおおきく、結局けっきょく発令はつれいの2ヵ月かげつにははやくも関東かんとうだい水害すいがいなどを理由りゆう用金ようきんれい撤回てっかいされた[12]

賄賂わいろ政治せいじ」イメージの是非ぜひ[編集へんしゅう]

この時代じだいかぶ仲間なかま公認こうにんさいし、特権とっけんようと賄賂わいろ贈与ぞうよ横行おうこうし、「役人やくにんはにぎにぎをよくおぼへ」[ちゅう 4]や「役人やくにんほねっぽいのは猪牙ちょきにのせ」[ちゅう 5]などと風刺ふうしされた。ただし、田沼たぬま時代じだい賄賂わいろ政治せいじ田沼たぬま功利こうりてき経済けいざい政策せいさく仕組しくじょう必然ひつぜんてききており、田沼たぬま個人こじんてきこのみなどにその原因げんいんもとめるべきではない[13]

大石おおいしまき三郎さぶろうは、つじ以来いらい確定かくていてきであった田沼たぬま自身じしん汚職おしょくかんして疑義ぎぎしめし、これらを田沼たぬま失脚しっきゃくなどに政敵せいてき松平まつだいら定信さだのぶらがつくしたはなしだとろんずる。また、仙台せんだいはんあるじ伊達だて重村しげむらからの賄賂わいろ田沼たぬま拒絶きょぜつしたと主張しゅちょうし、ぎゃく田沼たぬま非難ひなんしていた定信さだのぶさえも田沼たぬまにいやいや金品きんぴんおくったとのこしていることなどをその論拠ろんきょとして主張しゅちょうしている。とく大石おおいしつじの『田沼たぬま時代ときよ』でしめされた汚職おしょく政治せいじかんする論拠ろんきょ史料しりょう批判ひはんとぼしかったと批判ひはんしている[14][15][ちゅう 6]

大石おおいしはまた、どう時代じだい松平まつだいらたけしもと松平まつだいら定信さだのぶといった清廉せいれんなイメージがあった政治せいじには贈収賄ぞうしゅうわいがあった史料しりょうのこっているのにたいし、むしろ田沼たぬまほうにはそれが皆無かいむだったと指摘してきする。ただし、当時とうじ政治せいじ常道じょうどうとしての賄賂わいろや、とく現代げんだいでいう歳暮せいぼ程度ていど贈収賄ぞうしゅうわいはよくあった[ちゅう 7]ともべている[14][21]そうじて大石おおいしは、信憑しんぴょうせいのない資料しりょうでは田沼たぬま意次おきつぐが「金権きんけん腐敗ふはい政治せいじだとは断言だんげんできない」と主張しゅちょうしているだけで、田沼たぬまが「金権きんけん腐敗ふはい政治せいじではない」とう積極せっきょくてき主張しゅちょうおこなっているわけではないというてんには注意ちゅうい必要ひつようである[22][23]

これにたい藤田ふじたさとしは、大石おおいしげた根拠こんきょひとつである「伊達だて重村しげむらからの賄賂わいろ田沼たぬま拒絶きょぜつした」という事柄ことがらを、大石おおいし文書ぶんしょ誤読ごどくによるものだとしている。もと文書ぶんしょでは重村しげむら工作こうさくかんして、松平まつだいらたけしもと人目ひとめけてるようにと重村しげむら側役そばやく指示しじした一方いっぽう田沼たぬまは7がつ1にち側役そばやく訪問ほうもんすることへの許可きょかもとめられたのにたいし、書状しょじょう用事ようじむのだから必要ひつようがないとこたえた。大石おおいしはこのことを根拠こんきょにして、たけはじめ腐敗ふはい政治せいじ田沼たぬま清廉せいれん人物じんぶつ解釈かいしゃくしたとしている。

藤田ふじたはさらに、田沼たぬまは7がつ1にち賄賂わいろ機会きかい放棄ほうきしたことはたしかであるものの、がわじん古田ふるたりょうさとし田沼たぬま屋敷やしき直接ちょくせつたずねる(=賄賂わいろ直接ちょくせつわたしする)許可きょかしていたとする。結局けっきょくのところ田沼たぬま賄賂わいろっていることにはわらず、清廉せいれん人物じんぶつであるという解釈かいしゃくはとてもりたないといている[23]

藤田ふじたはまた、田沼たぬま重村しげむら中将ちゅうじょう昇任しょうにんへの口利くちききをし、2ねんにそれを実現じつげんさせたとしている。その将軍しょうぐんからの拝領はいりょうぶつなどのけんでも請願せいがんけ、実現じつげんのためのはたらきをしている。さらに、官位かんいだけでなく秋田あきたはん拝借はいしゃくきん阿仁あに銅山どうざんうえとも撤回てっかいのため田沼たぬま工作こうさくしており、薩摩さつまはん拝借はいしゃくきんけん同様どうよう田沼たぬま工作こうさくしていたとべている[7]賄賂わいろによる武家ぶけ猟官りょうかん商人しょうにん幕府ばくふからの受注じゅちゅう獲得かくとくなどは田沼たぬま以前いぜんから問題もんだいされており、賄賂わいろ役人やくにんまくかくめずらしい存在そんざいではなく、とくにその傾向けいこうは17世紀せいきまつ元禄げんろく時代じだいからはげしくなっていたとも説明せつめいしている。

以上いじょうのことなどからも、田沼たぬま時代じだい賄賂わいろとく横行おうこうした時代じだいではあったが、賄賂わいろもらうこと自体じたい特別とくべつなことではなかったとされる[ちゅう 8]。ただし、田沼たぬま当時とうじ独裁どくさいてき権力けんりょく一人ひとり保持ほじして一心いっしん賄賂わいろ攻勢こうせいけたため、目立めだ存在そんざいであった。藤田ふじたは、田沼たぬま大名だいみょうとしての成立せいりつ事情じじょうから家臣かしん統制とうせいあまく、賄賂わいろ横行おうこうゆるしてしまい、ゆう賄賂わいろ汚職おしょく時代じだいまねいてしまったとべている[25]

深谷ふかや克己かつみは、相良さがらしろ築城ちくじょう経費けいひについて領民りょうみん用金ようきんめいじてうらまれたり、商人しょうにんから多額たがく借金しゃっきんをした形跡けいせきがないことを指摘してきしている。そして、相良さがらじょう築城ちくじょう財源ざいげんしろ着工ちゃっこうたっておこなわれた寄進きしんにてまかなわれたと主張しゅちょうしている。寄進きしんしゃ記載きさいした勧化かんげちょうには江戸えど商人しょうにんたちの名前なまえおおならんでおり、商人しょうにんたちはなにかにつけて田沼たぬま常態じょうたいてきとどけをおこなっており、それが定例ていれい上納じょうのうきんとなっていたと主張しゅちょうしている[26]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

田沼たぬま意次おきつぐ失脚しっきゃくまえからすで悪評あくひょうており、田沼たぬま賄賂わいろ政治せいじ皮肉ひにくって以下いか狂歌きょうかうたわれた。

  • このうえは なほ田沼たぬまるる ごとに めったりこむ しゅ殿しんがりとのも家来けらい

これは、田沼たぬま家来けらいもやたらと賄賂わいろてることを皮肉ひにくったうたである。当時とうじ田沼たぬまていには猟官りょうかん運動うんどうをする大名だいみょう直参じきさん旗本はたもと幕府ばくふからの受注じゅちゅうねが商人しょうにんたちがあさかられつをなしていたといわれている。田沼たぬま失脚しっきゃく老中ろうじゅうとなった松平まつだいら定信さだのぶ譜代ふだい親藩しんぱんによる寛政かんせい改革かいかくはじまり、田沼たぬま時代じだい蔓延まんえんしていた風紀ふうきめがおこなわれ、不正ふせい役人やくにん厳罰げんばつしょしょ役人やくにん綱紀こうき粛正しゅくせいした。しかし意次おきつぐ経済けいざい政策せいさくかんしては否定ひていされたわけではなく、寛政かんせい改革かいかくでは田沼たぬま時代じだい経済けいざい政策せいさくはほぼ継承けいしょうされた。11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなり大御所おおごしょ時代じだいには、水野みずのただしとも水野みずのただしなりと、意次おきつぐよんなん田沼たぬまただしらによるだい御所ごせ家斉いえなり浪費ろうひからしょうじたじゅうしょう主義しゅぎてき経済けいざい状況じょうきょうまれ、賄賂わいろ政治せいじ横行おうこうし、幕府ばくふ財政ざいせい破綻はたん幕政ばくせい腐敗ふはいまねいた。

松平まつだいら定信さだのぶ庶民しょみん着物きものまで制限せいげんするほどの質素しっそ倹約けんやく方針ほうしんとしたので、くもわるくも世俗せぞくてき田沼たぬま治世ちせいなつかしむこえもあった。この時期じき流行はやった落首らくしゅとして以下いかの2しゅがある。定信さだのぶ就任しゅうにん当初とうしょ前者ぜんしゃうた流行はやったが、やがて改革かいかくきびしすぎるとして後者こうしゃうたってわられた。

  • ぬまやよごれた御世みよあらためて きよくぞすめる白河しらかわみず
  • 白河しらかわせいきにさかなみかねて もとのにごりの 田沼たぬまこいしき

一方いっぽう相良さがら藩主はんしゅとしての田沼たぬまは、基本きほん江戸えどまいで現地げんちにはほとんどおこなったことがなかったが街道かいどう港湾こうわん拡張かくちょう防火ぼうか対策たいさく[ちゅう 9]殖産しょくさん興業こうぎょうなど善政ぜんせいといえる藩政はんせいおこなっている。

また、がりしゃるうと反感はんかんうことをわきまえており、言動げんどう謙虚けんきょつとめていた。子孫しそんあたえた遺訓いくんなかでも「親戚しんせきせきおなじくする大名だいみょう表裏ひょうりなく親密しんみつ交際こうさいし、家格かかくひく大名だいみょうともおなじようにせっするべき」「家来けらいたいしてもできるだけなさけをかけ、依怙贔屓えこひいきのないようにしつかうように」などとのこしている[27]

川路かわじ聖謨としあきらは、勘定かんじょうしょなどではいまでも石谷いしがやきよしあきらさだめたことをよりどころに運営うんえいしているとして石谷いしがやを「豪傑ごうけつ」とたか評価ひょうかし、そのうえで、石谷いしがや登用とうようしたのだから田沼たぬまも「正直しょうじき豪傑ごうけつしん」をっていたのだろうと評価ひょうかしている。

かつて相良さがらはんりょうであった静岡しずおかけん牧之原まきのはらでは、田沼たぬま意次おきつぐ郷土きょうど偉人いじんとしてあつかわれている。相良さがらじょう位置いちした場所ばしょ存在そんざいする牧之原まきのはら市立しりつ相良さがら中学校ちゅうがっこう校章こうしょうは、田沼たぬま意次おきつぐ威光いこうにあやかり田沼たぬま家紋かもんである「七曜しちようもん」をモチーフとしたものになっている。また、同校どうこう体育たいいく大会たいかい文化ぶんかさい総称そうしょうして「なな耀祭」とう。

イェール大学だいがくジョン・ホイットニー・ホールTanuma Okitsugu, 1719-1788, forerunner of modern Japan (1955ねん)において「意次おきつぐ近代きんだい日本にっぽん先駆せんくしゃ」と評価ひょうかしている。

人脈じんみゃく[編集へんしゅう]

田沼たぬま意次おきつぐ幕府ばくふないでの権力けんりょく維持いじするためにひょう中奥なかおく大奥おおおくすべてに婚姻こんいん関係かんけいによる人脈じんみゃくつくり、権力けんりょく基盤きばんきずいていた。たとえば、ちちだいから田沼たぬま重用じゅうようされていたおく医師いし千賀せんがどうゆう養女ようじょ田沼たぬま側室そくしつにあがっており、徳川とくがわもと生母せいぼほう千賀せんが縁戚えんせきであった。そのつながりをつうじて、おほう大奥おおおくおく女中じょちゅうたちに贈物おくりものとどけ、大奥おおおく味方みかたにつけたとされる[28]

一方いっぽうで、親類しんるい縁者えんじゃ使つかった政権せいけん基盤きばんかためをおこなっている。長男ちょうなん意知おきともは、通常つうじょう大名だいみょう当主とうしゅしか就任しゅうにんできない奏者そうしゃばん天明てんめい元年がんねん1781ねん就任しゅうにんし、天明てんめい3ねん(1783ねん)には若年寄わかどしより就任しゅうにんするなど異例いれい出世しゅっせたした。さらに、次男じなんただし老中ろうじゅう水野みずのただしとも養子ようしはいり、長女ちょうじょ奏者そうしゃばん西尾にしおただしうつりとつぎ、次女じじょ若年寄わかどしより井伊いいただしろうとついだ。意知おきとも岳父がくふ老中ろうじゅう松平まつだいらやすしぶくである。このように意次おきつぐ兄弟きょうだいまごおいめいはかなりのかず大名だいみょうとつぎつながりをち、ついには西にしまる老中ろうじゅう鳥居とりいただしのぞ老中ろうじゅうすべ田沼たぬま親類しんるいかためられるにいたった。また、江戸えどりょう町奉行まちぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうなども田沼たぬま家臣かしんむすめ婚姻こんいんむすんでおり、田沼たぬま政権せいけん田沼たぬま頂点ちょうてんとした親類しんるい縁者えんじゃあつまりであった。そのつよすぎる権勢けんせいは、大名だいみょう旗本はたもとからの反発はんぱつまねいた[28]

それにととまらず、意次おきつぐ次代じだいへの権力けんりょく維持いじちからそそいだ。田沼たぬまいちきょうおおきなつながりをっていた。意次おきつぐつまいちきょう家老がろうむすめであり、おとうと田沼たぬままこといちきょう家老がろう就任しゅうにんし、まこと息子むすこのちいちきょう出身しゅっしん徳川とくがわ家斉いえなり御用ごよう取次とりつぎ昇進しょうしんした。そのため意次おきつぐ将軍家しょうぐんけ養子ようし選定せんていさいいちきょうおおきな「おん」をったのではないかといわれている[28]

仙台せんだいはん工藤くどう平助へいすけは、せまりくる北方ほっぽう大国たいこくロシア脅威きょういそなえるため『あか蝦夷えぞ風説ふうせつこう』を天明てんめい3ねん(1783ねん)、当時とうじ幕府ばくふ老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐ献上けんじょうした。これが田沼たぬま蝦夷えぞ開発かいはつ原点げんてんになったといわれる。田沼たぬま蝦夷えぞ調査ちょうさだんに、まず経世けいせい本多ほんだ利明としあき招聘しょうへいしようとしたが、辞退じたいされてしまう。わりに本多ほんだから推薦すいせんされたのが最上もがみ徳内とくないであった。

発明はつめいとして有名ゆうめいだった平賀ひらが源内げんないのことを、田沼たぬま大変たいへんっていたといわれる。田沼たぬまみなもとないをオランダ商人しょうにんのいる出島でじま遊学ゆうがくさせたこともあった。ところが、源内げんない殺人さつじん事件じけんこしたため、田沼たぬまかれとのつながりを全面ぜんめんてき否定ひていせざるをえなかった。もし源内げんない殺人さつじん事件じけんこしていなければ、田沼たぬま蝦夷えぞ開発かいはつ責任せきにんしゃみなもとないにやらせただろう、ともわれている。ただし、源内げんない自身じしんおもったとおりのこと(遊学ゆうがく江戸えどゆきなど)をおこなうため、自家じか隠居いんきょねがいえに高松たかまつはんより奉公ほうこうあつかいとなっていた。

官途かんと[編集へんしゅう]

  • とおる19ねん(1734ねん) - 徳川とくがわ家重いえしげ小姓こしょうとなる。
  • もとぶん2ねん(1737ねん) - したがえしゅ殿しんがりあたま叙任じょにん
  • のべとおる4ねん(1747ねん) - 小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらかく
  • 寛延かんえい元年がんねん(1748ねんうるう10がつ1にち - 小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらおくつとむ兼務けんむ異動いどう石高こくだか1400せき加増かぞう。それまでは、小姓こしょうぐみ番頭ばんがしらかくおくつとむ
  • たかられき元年がんねん(1751ねん)4がつ18にち - 御側おそば御用ごよう取次とりつぎがわしゅ異動いどう
  • たかられき5ねん(1755ねん) - 石高こくだか3000せき加増かぞう知行ちぎょう合計ごうけい5000せきになる。
  • たかられき8ねん(1758ねん) - 石高こくだか5000せき加増かぞう。1まんせき大名だいみょうとなる。評定ひょうじょうしょへの出席しゅっせきめいじられ、郡上ぐじょう一揆いっき審理しんりたる。遠江とおとうみ相良さがら領地りょうちあたえられる。
  • たかられき10ねん(1760ねん) - 9だい家重いえしげ引退いんたいし、家治いえはる10代となる。意次おきつぐ御用ごよう取次とりつぎ留任りゅうにん
  • たかられき12ねん(1762ねん) - 石高こくだか5000せき加増かぞうされ、合計ごうけい1まん5000せきとなる。
  • 明和めいわ4ねん(1767ねん)7がつ1にち - 側用人そばようにん異動いどうしたがえよん昇叙しょうじょ石高こくだか5000せき加増かぞう合計ごうけい2まんせき遠江とおのえこく相良さがら2まんせき領主りょうしゅとなる。
  • 明和めいわ6ねん(1769ねん)8がつ18にち - 老中ろうじゅうかく異動いどうし、側用人そばようにん兼務けんむ侍従じじゅう兼任けんにん石高こくだか5000せき加増かぞう
  • 明和めいわ9ねん(1772ねん)1がつ15にち - 老中ろうじゅう異動いどう石高こくだか5000せき加増かぞう合計ごうけい3まんせき。11月18にち安永やすなが元年がんねん。このとし諸国しょこく凶作きょうさく
  • 安永やすなが6ねん(1777ねん)4がつ21にち - 石高こくだか7000せき加増かぞう
  • 天明てんめい元年がんねん(1781ねん)4がつ2にち - 元年がんねん。7月15にち石高こくだか1まんせき加増かぞう合計ごうけい4まん7000せき。12月15にち意知おきとも奏者そうしゃばんになる。
  • 天明てんめい5ねん(1785ねん)1がつ21にち - 石高こくだか1まんせき加増かぞう合計ごうけい石高こくだか5まん7000せきとなる。
  • 天明てんめい6ねん(1786ねん)8がつ27にち - 老中ろうじゅう依願いがんやく御免ごめん石高こくだか2まんせき召上めしあげ。かりあいだつめ
  • 天明てんめい7ねん(1787ねん)10がつ2にち - 石高こくだか3まん7000せき召上めしあげ。蟄居ちっきょとなる。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

田沼たぬまぎょう御三家ごさんけ紀州きしゅうはん足軽あしがるだったが、徳川とくがわ吉宗よしむねしたがって直参じきさん旗本はたもととなった。ぎょう嫡子ちゃくし意次おきつぐだい異例いれい出世しゅっせげた。

  • 家紋かもんは「まる一文字ひともじ」だったが、前述ぜんじゅつななめん大明神だいみょうじん逸話いつわから定紋じょうもんを「七曜しちよう」に、「まる一文字ひともじ」は替紋かえもんになった。
  • 本姓ほんせい藤原ふじわらだが、みなもと改姓かいせいしている。これは途中とちゅう新田にったりゅうものはいってきたためである。
ぎょう意次おきつぐ意知おきともあきらいちしんじょうせいとめみことひとし知恵ちえみこと長女ちょうじょ)=もちただし

父母ちちはは

正室せいしつ継室けいしつ

側室そくしつ

  • 田代たしろ
  • 千賀せんがどうゆう養女ようじょ

子女しじょ

養女ようじょ

家臣かしん[編集へんしゅう]

意次おきつぐ家臣かしんには正規せいき武士ぶしではないもの、つまり浪人ろうにん農民のうみんなどの出身しゅっしんしゃおおく、他家たけからは「異色いしょくいえ」とわれつつ、このような斬新ざんしん雇用こよう田沼たぬま独特どくとく家風かふうきずいたともされる。

井上いのうえ伊織いおり
近江おうみこく甲賀こうがぐん出身しゅっしんいみなりょうのり(よしのり)。ちち浪人ろうにん井上いのうえぐん太夫たゆう。16さいときから田沼たぬまつかえ、22さい家老がろうとなる。意次おきつぐ信頼しんらいあつく、当初とうしょ井上いのうえひろしといったが、意次おきつぐ要望ようぼう伊織いおりあらためる。相良さがらしろ築城ちくじょう指揮しきをとる。のち意次おきつぐから永代ながよ家老がろうしょくあたえられ、子孫しそん代々だいだい田沼たぬまつかつづけた。
三浦みうら庄司しょうじ庄二しょうじとも)
備後びんご福山ふくやまはんりょう農家のうか出身しゅっしん一説いっせつには江戸えど市民しみんとも、どちらにしても武士ぶしではない)。田沼たぬま家臣かしん養子ようしとなって用人ようにんつとめ、意次おきつぐのよき相談そうだん相手あいてだったという。
倉見くらみきん太夫たゆう
江戸詰えどづめ家老がろういみないさおさだ意次おきつぐ信頼しんらいあつく、また家中いえじゅうでも慈悲じひふか人情にんじょうであったという。つま意次おきつぐしつ姉妹しまいであり、意次おきつぐ義弟ぎていであった。なま没年ぼつねん不明ふめいであるが、意次おきつぐ失脚しっきゃく意次おきつぐまごである田沼たぬまあきらつかえている。
各務かがみ久左衛門きゅうざえもん
家老がろう旗本はたもと三男さんなんであり、最初さいしょ目付めつけ脇坂わきさかつかえたが、意次おきつぐもとめによって田沼たぬま家臣かしんとなる。さんがくひいでたほか、武芸ぶげい達人たつじんでもあり、また意次おきつぐ同様どうよう信仰しんこうしんあつ人柄ひとがらであったという。意次おきつぐ逝去せいきょ翌年よくねん死去しきょした。
須藤すとう治郎じろう兵衛ひょうえ
北条ほうじょうりゅう軍学ぐんがくまなんだ人物じんぶつで、江戸城えどじょう修理しゅうりがけたことがあり、相良さがら築城ちくじょうではその手腕しゅわん発揮はっきした。しろ完成かんせいには意次おきつぐから褒賞ほうしょうとして用人ようにん地位ちいあたえられた。
深谷ふかや市郎いちろうみぎ衛門えもん
家老がろう深谷ふかや意次おきつぐちちであるぎょうだいからつかえ、市郎いちろうみぎ衛門えもんはわずか23さい意次おきつぐ家老がろうとなる。終始しゅうし江戸えど家老がろうとして活躍かつやくし、老中ろうじゅうとして活躍かつやくしていた意次おきつぐ裏方うらかたささえる人物じんぶつでもあった。
三好みよし四郎しろう兵衛ひょうえ
家老がろうほういさお(まさつね)。相良さがら廻船かいせん問屋とんやまれ、25さいときのう役者やくしゃ目指めざして江戸えどくもゆめたせず、能筆のうひつであることをわれて田沼たぬまつかえる。相良さがら築城ちくじょうさいには、相良さがら風土ふうど風習ふうしゅうくわしいとして現地げんち家老がろうとして派遣はけんされる。しろ完成かんせいには城代じょうだい家老がろうとなった。
潮田うしおだゆかりぜん内膳ないぜんとも)
田沼たぬま側用人そばようにん

田沼たぬま意次おきつぐ登場とうじょうする作品さくひん[編集へんしゅう]

主人公しゅじんこうとして登場とうじょうする小説しょうせつ
脇役わきやくとうとして登場とうじょうする小説しょうせつ
漫画まんが
映画えいが
テレビドラマ
ビデオゲーム

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 実際じっさいられて重傷じゅうしょうい、そのきずえないままくなった。
  2. ^ 柳沢やなぎさわあいだしょく側用人そばようにんのみで正式せいしき老中ろうじゅうには就任しゅうにんしていなかった(柳沢やなぎさわ老中ろうじゅうかく大老たいろうかく)こととことなり、田沼たぬま老中ろうじゅうねていた。将軍しょうぐん取次とりつぎやくである側用人そばようにん処罰しょばつされることはないが(将軍しょうぐん政治せいじ責任せきにんうことになってしまうため)、老中ろうじゅう失政しっせい責任せきにんわれるためしばしば処罰しょばつけていた。
  3. ^ 同時どうじ藤田ふじたさとしは「たしかに、個々ここ冥加金みょうがきんると幕府ばくふ財政ざいせいうるおすほどのがくとはえないかもしれない。しかし、少額しょうがくとはいえすこしづつでも増額ぞうがくさせようとしており、そこにはあきらかに財政ざいせい収支しゅうし増加ぞうかさせようとする意図いとがみえる」ともき、財政ざいせい収入しゅうにゅう増加ぞうかせつ流通りゅうつう統制とうせいせつ双方そうほう理解りかいしめしている。
  4. ^ あかぼうにぎ動作どうさ役人やくにん賄賂わいろることをかけて皮肉ひにくっている。
  5. ^ 猪牙ちょき」とは吉原よしはらへのせん用船ようせんのこと。かた役人やくにんでも吉原よしわら接待せったいすれば骨抜ほねぬきになる。
  6. ^ 大石おおいしつじ意次おきつぐ汚職おしょく根拠こんきょとして民衆みんしゅううわさはなし程度ていどのものすらげ、田沼たぬま汚職おしょく政治せいじとしてのイメージを確立かくりつさせたと批判ひはんしているが、田沼たぬま時代じだい田沼たぬま意次おきつぐ汚職おしょく政治せいじのイメージでかたられたのはつじはじまりではない。上述じょうじゅつのようにさんじょう論考ろんこう徳富とくとみによる通史つうしがあったり、つじ自身じしん引用いんようしているとおり、シーメンス事件じけんかかわる貴族きぞくいん議員ぎいん発言はつげんがある[16]つじ論考ろんこう佐々木ささき指摘してきのように、その意図いとはんして意次おきつぐ汚職おしょく政治せいじ学術がくじゅつてきに、あるいは中高なかだか教育きょういく引用いんようされた経緯けいいがある[17]。またつじ論旨ろんしは、民権みんけん発達はったつ潮流ちょうりゅうとして当時とうじ民衆みんしゅう時代じだい意次おきつぐをどう認識にんしきしていたかという部分ぶぶんにある[18]藤田ふじたさとしは、大石おおいし主張しゅちょうするように意次おきつぐかんする悪評あくひょうはそのおおくが老中ろうじゅう辞任じにんかれたものであることはみとめているものの、老中ろうじゅう辞任じにんまえかれた悪評あくひょう皆無かいむではなく、そもそもたとえ風聞ふうぶん落書らくがき老中ろうじゅう辞任じにんのものであっても、それをすべ信憑しんぴょうせいがないといちまとめに一蹴いっしゅうするのは乱暴らんぼうであり、史料しりょう吟味ぎんみ必要ひつようであるとかたっている[19]
  7. ^ 当時とうじ田沼たぬま賄賂わいろ政治せいじ批判ひはんした松平まつだいら定信さだのぶおこなった寛政かんせい改革かいかくしょ役人やくにんへのおくもの規制きせいする触書ふれがきでは、あまりに高価こうかしなおくることをいましめてはいるが、新年しんねん中元ちゅうげん歳暮せいぼなどの儀礼ぎれいてき年中ねんじゅう恒例こうれい贈答ぞうとうなどを禁止きんしなどしているわけではなく、むしろ1ねんなんにもおよ恒例こうれい進物しんもつ当然とうぜんのこととされた。それどころか、幕府ばくふ役人やくにんへの進物しんもつ大名だいみょうらへの当然とうぜん義務ぎむであった。寛政かんせい4ねん(1792ねん)の触書ふれがきでは「近年きんねん年中ねんじゅう恒例こうれい進物しんもつかずらしたり、しつとしたり、なかにはおくらないものもいる」と非難ひなんしている。さらに、がわしゅ表向おもてむ役人やくにんへの進物しんもつは、大名だいみょう役人やくにん私的してき贈答ぞうとうではなく、将軍しょうぐん政務せいむにな役人やくにんへの公的こうてき性格せいかくのものだからきちんとおくるようにともめいじている[20]
  8. ^ むろん賄賂わいろをやりりすることがめずらしいことでなかったからといって賄賂わいろおくることが社会しゃかい倫理りんりてきみとめられていたという拡大かくだい解釈かいしゃくにはならない。武士ぶしあいだ進物しんもつ社会しゃかい儀礼ぎれいであったとはいえ、賄賂わいろ禁止きんししたい幕府ばくふ進物しんもつ金額きんがく上限じょうげん規定きていしていたし、幕府ばくふ武家ぶけ法律ほうりつである武家ぶけしょ法度はっとにおいて賄賂わいろ規制きせいする条文じょうぶんすなど対策たいさくこうじていた[20]。また、幕府ばくふ業者ぎょうしゃ幕府ばくふ役人やくにんとのあいだの贈収賄ぞうしゅうわい禁止きんしする触書ふれがきなんしており、御用ごよう商人しょうにん職人しょくにんたい幕府ばくふ役人やくにん贈物おくりものをしてはならないと規定きていがあるのに、それでもおくっているのは不届ふとどきだとしかり、進物しんもつおくもの処罰しょばつするともめいじている[20][24]
  9. ^ 領内りょうないこった大火たいか藁葺わらぶきのいえをことごとく瓦葺かわらぶきにするようれいはっした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 藤田ふじた 2007, pp. 4–6.
  2. ^ 藤野ふじのたもつ江戸えど幕府ばくふ崩壊ほうかいろんはなわ書房しょぼう、2008ねん[ようページ番号ばんごう]
  3. ^ 藤田ふじた 2007, pp. 253–254.
  4. ^ 高澤たかさわ憲治けんじ松平まつだいら定信さだのぶ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2012ねん 
  5. ^ a b 深谷ふかや克己かつみ田沼たぬま意次おきつぐ―「商業しょうぎょう革命かくめい」と江戸城えどじょう政治せいじ』2010ねん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ[ようページ番号ばんごう]
  6. ^ a b c d e f g 藤田ふじたさとし勘定かんじょう奉行ぶぎょう江戸えど時代じだい』〈ちくま新書しんしょ〉2018ねん 
  7. ^ a b c d e f 藤田ふじたさとし田沼たぬま時代ときよ吉川弘文館よしかわこうぶんかん日本にっぽん近世きんせい歴史れきし4〉、2012ねん5がつ1にち 
  8. ^ 高木たかぎ久史ひさし通貨つうか日本にっぽん無文むもんぎんぜに富本とみもとぜにから電子でんしマネーまで―』(中公新書ちゅうこうしんしょ、2016ねん
  9. ^ 徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ (監修かんしゅう) へん江戸えど時代じだい古文書こもんじょむ―田沼たぬま時代ときよ東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2005ねん6がつ1にち、19ぺーじ 
  10. ^ 高木たかぎ久史ひさし通貨つうか日本にっぽん無文むもんぎんぜに富本とみもとぜにから電子でんしマネーまで―』(中公新書ちゅうこうしんしょ、2016ねん
  11. ^ a b c 藤田ふじた 2007, pp. 128–139.
  12. ^ 藤田ふじた 2007, pp. 148–155.
  13. ^ 徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ (監修かんしゅう) へん江戸えど時代じだい古文書こもんじょむ―田沼たぬま時代ときよ東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2005ねん6がつ1にち、17-18ぺーじ 
  14. ^ a b 大石おおいしまき三郎さぶろう 1977, pp. 203–208, 「あやまられた田沼たぬまぞう」.
  15. ^ 大石おおいしまき三郎さぶろう 1977, pp. 212–215, 「幕府ばくふ政治せいじ支配しはいシステム」.
  16. ^ つじ善之助ぜんのすけ 1980, pp. 7–9, 「緒言しょげん」.
  17. ^ つじ善之助ぜんのすけ 1980, pp. 345–357, 解説かいせつ 佐々木ささきじゅんかい.
  18. ^ つじ善之助ぜんのすけ 1980, pp. 328–342, 「結論けつろん」.
  19. ^ 藤田ふじた 2007, 現代げんだい意次おきつぐひょう.
  20. ^ a b c 藤田ふじたさとし 2007, pp. 167–175, 江戸えど時代じだい賄賂わいろ意次おきつぐ.
  21. ^ 大石おおいしまき三郎さぶろう 1977, pp. 208–212, 「"がおをつなぐ"社会しゃかい」.
  22. ^ 大石おおいし まき三郎さぶろう田沼たぬま意次おきつぐ時代じだい岩波書店いわなみしょてん、1991ねん12月18にち、37-55ぺーじ 
  23. ^ a b 藤田ふじた 2007, pp. 157–163.
  24. ^ 藤田ふじたさとし 2012, pp. 47–58, 賄賂わいろ汚職おしょく時代じだい.
  25. ^ 藤田ふじたさとし 2012, pp. 47–58, 「賄賂わいろ汚職おしょく時代じだい」.
  26. ^ 深谷ふかや克己かつみ田沼たぬま意次おきつぐ―「商業しょうぎょう革命かくめい」と江戸城えどじょう政治せいじ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2010ねん
  27. ^ 山本やまもと 博文ひろぶみ武士ぶし人事じんじ』KADOKAWA、2018ねん11がつ10日とおか 
  28. ^ a b c 藤田ふじたさとし田沼たぬま時代ときよ吉川弘文館よしかわこうぶんかん日本にっぽん近世きんせい歴史れきし〉、2012ねん5がつ1にち、29-32ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう悪人あくにん列伝れつでん 近代きんだいへん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1967ねん初版しょはん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、 2007ねん再刊さいかんISBN 978-4-16-713551-5
  • 後藤ごとう一朗いちろう田沼たぬま意次おきつぐ-ゆがめられた経世けいせい政治せいじ清水しみず書院しょいん、1971ねん
  • つじ善之助ぜんのすけ田沼たぬま時代ときよ岩波いわなみ文庫ぶんこ、1980ねん
  • 江上えがみ照彦てるひこ悲劇ひげき宰相さいしょう田沼たぬま意次おきつぐ教育きょういくしゃ、1982ねん
  • 大石おおいしまき三郎さぶろう田沼たぬま意次おきつぐ時代じだい岩波書店いわなみしょてん、1991ねんISBN 978-4006000547
  • 関根せきね徳男のりお田沼たぬま改革かいかくいくともしゃ、2001ねんISBN 4-87302-019-0
  • 藤田ふじたさとし田沼たぬま意次おきつぐ : 不審ふしんこうむること、おぼえなし』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2007ねん7がつ ISBN 978-4-623-04941-7
  • 藤田ふじたさとし田沼たぬま時代ときよ吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2012ねん5がつISBN 978-4-642-06432-3 
  • 深谷ふかや克己かつみ田沼たぬま意次おきつぐ―「商業しょうぎょう革命かくめい」と江戸城えどじょう政治せいじ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2010ねん12月。ISBN 978-4634548527
  • 徳川とくがわ林政りんせい研究所けんきゅうじょ江戸えど時代じだい古文こぶんしょむ―田沼たぬま時代ときよ東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2005ねん6がつISBN 978-4-490-20552-7

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]