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松平まつだいらしんいさお (篠山しのやま藩主はんしゅ)

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松平まつだいらしんいさお
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 寛文ひろふみ6ねん6月1にち1666ねん7がつ2にち
死没しぼつ とおる2ねん5がつ10日とおか1717ねん6月18にち
改名かいめい きゅうじゅうろう幼名ようみょう)、政信まさのぶしん慈、しんいさお
戒名かいみょう あきらしんいんこうほまれいぬい英市えいいち
墓所はかしょ 京都きょうと亀岡かめおか北古世きたこせまち光忠みつただてら
官位かんい したがえよん侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家綱いえつな綱吉つなよし家宣いえのぶ家継いえつぐよしはじめ
はん 丹波たんば篠山しのやまはんあるじ
氏族しぞく 形原かたはら松平まつだいら
父母ちちはは ちち松平まつだいらのりしんはは板倉いたくら重宗しげむねむすめせんしょういん
養父ようふ松平まつだいら信利のぶとし
兄弟きょうだい 信孝のぶたか信利のぶとし松平まつだいら光永みつなが正室せいしつ板倉いたくらしげるきょう養女ようじょ戸田とだしげるつね正室せいしつ松平まつだいらただしたかし正室せいしつ松平まつだいらたつしつしんじいさお真田さなだしんおん正室せいしつ永井ながいただしけい正室せいしつ松平まつだいらきんただし正室せいしつ
つま 正室せいしつ酒井さかい忠清ただきよむすめ彦姫
継室けいしつ前田まえだ利明としあきむすめきくひめ
しんいさおりんいさおおや戸田とだたねたつしんかさ秀子ひでこかおる種子しゅし
テンプレートを表示ひょうじ

松平まつだいら しんいさお(まつだいら のぶつね)は、江戸えど時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけての大名だいみょう老中ろうじゅう丹波たんばこく篠山しのやまはんだい4だい藩主はんしゅ官位かんいしたがえよん侍従じじゅう形原かたはら松平まつだいら10代当主とうしゅ

生涯しょうがい

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だい2だい藩主はんしゅ松平まつだいらのりしんの3おとことして誕生たんじょうあにだい3だいはんおも信利のぶとし病弱びょうじゃくがなく死去しきょしたため、あに養嗣子ようししとなり、のべたから5ねん1677ねん)2がつ、12さい家督かとく相続そうぞくする。隠居いんきょちゅう祖父そふ康信やすのぶ後見こうけんやくつとめた。

まん時春ときはる算術さんじゅつ経済けいざい学者がくしゃ)、松崎まつざきらんたにがく伊藤いとう仁斎じんさい高弟こうてい)をはん招聘しょうへいして藩学はんがく基礎きそ確立かくりつする一方いっぽう儒者じゅしゃ奈良ならゆかり太田おおたおけをして『篠山しのやまりょう地誌ちし』を編纂へんさんした。

はん財政ざいせいおもわしくなく、元禄げんろく16ねん1703ねん)に洪水こうずい宝永ほうえい6ねん1709ねん)には魃、正徳まさのり5ねん1715ねん)にはふたた洪水こうずいと、災害さいがい相次あいつぎ、百姓ひゃくしょう一揆いっきこっている。

幕府ばくふではおくつめ将軍しょうぐん近習きんじゅ)をて、京都きょうと所司代しょしだい抜擢ばってきされ、在任ざいにんちゅう京都きょうと大火たいか復興ふっこう中御門天皇なかみかどてんのう践祚せんそになどにたずさわる。その老中ろうじゅうにのぼったが、正徳しょうとく5ねん(1715ねんごろから病気びょうきがちとなり在任ざいにん1ねんはん辞任じにんする。

酒井さかい忠清ただきよむすめ正室せいしつとしたため、綱吉つなよし政権せいけん時代じだいにはつら立場たちばだった。京都きょうと所司代しょしだい時代じだい宝永ほうえい2ねん1705ねん)に、義兄ぎけいだい留守居るすいやく酒井さかいただしきょ将軍しょうぐん名代なだいとして上洛じょうらくし、しんいさお領地りょうちからの収入しゅうにゅうでは任務にんむたすのがきびしいことをたりにした。のちちゅうきょ吉宗よしむね政治せいじ顧問こもんてき存在そんざいとしてたびたび政策せいさく立案りつあん関与かんよしたときに、しんいさおすくない領地りょうち大任たいにんたす苦労くろう提言ていげんした。吉宗よしむねちゅうきょ提案ていあんれ、とおる改革かいかくではあしだかせい施行しこうした。

経歴けいれき

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官位かんい位階いかい

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系譜けいふ

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関連かんれん作品さくひん

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テレビドラマ