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家老がろう

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国家老くにがろうから転送てんそう

家老がろう(かろう)は、武家ぶけ家臣かしんだんのうち最高さいこう地位ちいにあった役職やくしょくで、複数ふくすうじんおり、合議ごうぎによって政治せいじ経済けいざい補佐ほさ運営うんえいした[1]

概要がいよう

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武家ぶけ社会しゃかい勃興ぼっこうした鎌倉かまくら時代ときよよりみられるが、室町むろまち時代ときよまでは年寄としより[2](としより、おとな)・宿老しゅくろう(しゅくろう[3] [4]執事しつじ(しつじ[5])・老中ろうじゅう(ろうじゅう[6])・いえおさむ(かさい[7])などとばれた。通常つうじょう家臣かしんだんなかでも重臣じゅうしんばれる有力ゆうりょく家臣かしんにんぜられた。また、主家しゅか譜代ふだい家臣かしんにんぜられるのが通常つうじょうで、主家しゅか分家ぶんけなどの一門いちもんもの家老がろうしょくくことは原則げんそくてきにはなかった(これは幕府ばくふ老中ろうじゅう同様どうよう親藩しんぱんから老中ろうじゅうになることはなかった)。

しかし次第しだいにこの原則げんそくくずれ、財政難ざいせいなんなどから、藩主はんしゅ庶子しょし養子ようし縁組えんぐみさきがないと、家老がろうはおろか給人きゅうにんきゅう家臣かしんとして分家ぶんけさせられることもめずらしくなくなった。分家ぶんけすじ家老がろうしょくをはじめとする家臣かしん役職やくしょくくことは、主家しゅか家臣かしん家格かかくになったことを意味いみし、主家しゅか断絶だんぜつ相続そうぞくけんがなくなったとなされることが通例つうれいであった。原則げんそくとして大名だいみょう家臣かしんだん最高さいこう幹部かんぶ名乗なの呼称こしょうであり、旗本はたもと上級じょうきゅう藩士はんしかかえる家臣かしんだん場合ばあい筆頭ひっとうかく用人ようにんばれることがおおかったが、これも絶対ぜったいではなく家老がろうばれていたり、家老がろう用人ようにんがともにかれていたケースも確認かくにんされている。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだいになると、幕府ばくふかれた江戸えどにはかくはん江戸えど屋敷やしきかれ、ここに在勤ざいきんした家老がろう江戸えど家老がろう江戸詰えどづめ家老がろうなどとんだ。一方いっぽう知行ちぎょう在勤ざいきんした家老がろう国家老くにがろう(くにがろう)・在所ざいしょ家老がろう(ざいしょがろう)とんだ。主君しゅくん城主じょうしゅ以上いじょうのときは、留守居るすい家老がろう城代しろだいとして城代しろだい家老がろう(じょうだいがろう)がかれる場合ばあいがあった。主君しゅくん城主じょうしゅかくしろのときは留守居るすいたる在所ざいしょ家老がろう存在そんざいしたが、城代しろだい家老がろう名称めいしょうもちいなかった。城代じょうだい家老がろうほう江戸えど家老がろうよりかくじょうであることがおおい。

城代しろだい家老がろう国家老くにがろう両方りょうほうかれているときは、城代しろだい家老がろうのほうがかくじょうであるのが通例つうれいであり、城代じょうだい家老がろうかれる場合ばあい城代じょうだいほうかくじょうとされた。複数ふくすうじんいた家老がろうのうち、もっと地位ちいたかいものは筆頭ひっとう家老がろう(ひっとうがろう)・家老がろう首座しゅざ(かろうしゅざ)・一番いちばん家老がろう(いちばんがろう)・首席しゅせき家老がろう(しゅせきがろう)・次席じせき家老がろう(じせきがろう)などとばれた。政治せいじ経済けいざい中心ちゅうしんてき差配さはいする家老がろうを、はんによっては仕置しおき家老がろう(しおきがろう)とんだ。城代じょうだい家老がろう仕置しおき家老がろう併置へいちされたはんにあっては、どちらがかくじょうかは一義的いちぎてき断定だんていできない。

家老がろう御三家ごさんけづけ家老がろうさんきょうきの家老がろうのぞき、将軍しょうぐん陪臣ばいしんであるため将軍しょうぐん目見まみ資格しかくがないのがだい原則げんそくである。しかし例外れいがいもあり、親藩しんぱん譜代ふだい大名だいみょう家老がろう連綿れんめん家系かけいおおくは幕府ばくふから将軍家しょうぐんけ旗本はたもと格式かくしきあたえられ、目見まみ資格しかくち、関所せきしょ下馬げばすることを免除めんじょされた。徳川とくがわ四天王してんのう家老がろうなかには、旗本はたもと格式かくしきだけでなく幕府ばくふからもあわせていえろくける場合ばあいもあった。一方いっぽう外様とざま大名だいみょう家老がろう連綿れんめん家系かけい場合ばあい目見まみ資格しかくあたえられるのは、まんせき以上いじょう特別とくべつ由緒ゆいしょものかぎられた。世襲せしゅう家老がろう組頭くみがしら兼帯けんたい、または組頭くみがしら世襲せしゅうから家老がろう輩出はいしゅつするはんすくなからずられる。

家老がろう年寄としより

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江戸えど時代じだい初期しょきまでは家老がろう年寄としより分化ぶんかであったはんおおかったが、次第しだい年寄としより上層じょうそう家老がろうとして分化ぶんかするようになり、年寄としより呼称こしょうされる役職やくしょく家老がろうそのものではなく、家老がろう役職やくしょくである場合ばあい一般いっぱんしていった。年寄としよりしょく中老ちゅうろうしょくまたは奉行ぶぎょうしょく同義どうぎとして使用しようされたはんもある。年寄としより中老ちゅうろう奉行ぶぎょうがあるはんでは、家老がろう家老がろう世襲せしゅう当主とうしゅが、年寄としより中老ちゅうろう奉行ぶぎょうはそれ以下いか有能ゆうのう人物じんぶつ就任しゅうにんしたことがおおい。

しょうはん場合ばあいは、家老がろう年寄としよりかれないことがほとんどであった。しょうはん年寄としより著名ちょめい人物じんぶつ駿河するがこく小島こじまはん(1まんせき)の年寄としよりほんやく倉橋くらはしかく寿ことぶきたいら)(戯作げさくものこいがわはるまちとして著名ちょめい)がいる。

家老がろう異称いしょう

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家老がろう異称いしょうとして、執政しっせい参政さんせい使つかうこともあった。米沢よねざわはんでは国家老くにがろうにあたるしょくを、仙台せんだいはんでは家老がろうしょく全般ぜんぱんてきに「奉行ぶぎょう」と呼称こしょうしている。また、家老がろう補佐ほさやくである長州ちょうしゅうはん手元てもとやく広義こうぎてき家老がろうぶことがある。

明治めいじ元年がんねん(1868ねん)10がつ28にち発布はっぷされたはんおさむ職制しょくせいにおいて、家老がろう年寄としより執政しっせい参政さんせい呼称こしょうすることが正式せいしきさだめられた。さらに版籍はんせき奉還ほうかん明治めいじ3ねん(1870ねん)9がつ10日とおかはんせい[8]布告ふこくされ、執政しっせい参政さんせいが、そう任官にんかんだい参事さんじけんだい参事さんじしょう参事さんじけんしょう参事さんじあらためられた。

大藩たいはん家老がろう

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大藩たいはん家老がろうには、大名だいみょうみに1まんせき以上いじょう石高こくだかすうむらレベルでまとまった知行ちぎょうゆうし、自身じしん知行ちぎょうしろ陣屋じんやものもいた。1まんせき以上いじょう知行ちぎょうもの[9]だい名分めいぶんんだ。

江戸えど時代じだい家老がろうとしてもっと高禄こうろくであった家系かけいは、加賀かが100まんせき本多ほんだ5まんせきである。上杉うえすぎ景勝かげかつ(120まんせき)の家老がろう直江なおえけんつづけ直轄ちょっかつ6まんせきよせりょう24まんせきけい30まんせき)の婿養子むこようしとなった本多ほんだ政重まさしげ(5,000せき)が、関ヶ原せきがはら合戦かっせんのちだいげんふうけた上杉うえすぎ出奔しゅっぽんして加賀かがはん前田まえだ仕官しかんし、本多ほんだせいふくしたのがはじまりである。「加賀かがはん領地りょうち一部いちぶ越中えっちゅう)を幕府ばくふ返還へんかんせよ」との命令めいれい撤回てっかいさせた交渉こうしょう勲功くんこうで、だい加増かぞうけた。

しょうはんおよび、幕府ばくふ旗本はたもと家老がろう

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1まんせき程度ていどしょうはん家老がろうは、家老がろう連綿れんめん家格かかく出身しゅっしんしゃ場合ばあいで、おおむね300せき前後ぜんこう蔵米くらまいりのものおおかった。もっとも、田畑たはた給人きゅうにんとしてあたえる割合わりあいおおきいはんでは、いえろくはさらにひくおさえるれいもあった。ここでいう給人きゅうにんとは、地方ちほう知行ちぎょうせい給人きゅうにん(=領地りょうち)をすのではなく、家格かかくおうじて支給しきゅうされる田畑たはたのことである。

この制度せいど導入どうにゅうしていたしょうはんでは、家老がろうなどの上級じょうきゅうそう家老がろうであっても小身しょうしんものおおかったので、江戸えど時代じだい後期こうき商品しょうひん経済けいざい浸透しんとうして物価高ぶっかだかとなると、その家臣かしん(つまり陪臣ばいしん)に農作業のうさぎょうをさせて、中級ちゅうきゅうそう以下いか藩士はんしみずか家族かぞくともにこれにたり、なか農民のうみんしていた。

具体ぐたいれいとして、こいがわはるまち戯作げさくいえとしてられる小島こじまはん(1まんせき年寄としよりほんやく倉橋くらはしかく石高こくだかは、年寄としよりほんやく就任しゅうにんで120せきであり、おなじく戯作げさく久保田くぼたはん(20まん5800せき)の江戸えど留守居るすい平沢ひらさわつねとみともまことどうさんとして著名ちょめい)の120せきとほぼおなじであった。

幕府ばくふ旗本はたもと場合ばあいは、3,000せき以上いじょう大身たいしん旗本はたもといえろくやく400せきながら徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ本家ほんけすじたる交代こうたい寄合よりあいであった松平まつだいら太郎左衛門たろうざえもん家系かけいなど特別とくべつ場合ばあいのぞき、家老がろうかれないのが通例つうれいである。おおむね500せき以上いじょう、3,000せき未満みまん旗本はたもと場合ばあいは、家臣かしん最高さいこう職名しょくめい用人ようにんであった。家老がろう設置せっちした将軍家しょうぐんけ旗本はたもとはおよそ250いえ(2%未満みまん)であり、その家老がろうは80せきから、おおくても100せききょう程度ていどであった。

づけ家老がろう

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分家ぶんけしたいえ本家ほんけよりかん監督かんとくする役割やくわりになってはいされた家老がろうづけ家老がろうぶ。づけ家老がろうは、ほんはん本家ほんけ)とささえはん分家ぶんけ)の両方りょうほうからいえろくけている場合ばあいと、出仕しゅっしさきささえはんからのみいえろくけて、ささえはん次第しだいまれていった場合ばあいとがある。

将軍家しょうぐんけから御三家ごさんけつかわされていたづけ家老がろうは、幕府ばくふはん双方そうほうからいえろくけていた。尾張おわりはん成瀬なるせや、紀伊きいはん水野みずのおよ安藤あんどうのように、城主じょうしゅとなり官位かんい官職かんしょくけていたづけ家老がろうもいた。これらは、家老がろうえど大名だいみょう同等どうとう格式かくしきあたえられ、主家しゅか参勤交代さんきんこうたい随伴ずいはんにおいても大名だいみょうみの格式かくしき威光いこうはなったとされる。なお、水戸みとはんなか山家やまが尾張おわりはん成瀬なるせなどの『いえ』は大名だいみょうへの昇格しょうかく独立どくりつ画策かくさくして連携れんけいするようになる。

さんきょうきの家老がろうは、さんきょう将軍家しょうぐんけ家族かぞくというあつかいであったため、江戸城えどじょう留守居るすいなら将軍家しょうぐんけ旗本はたもと最高さいこう役職やくしょくとされたが、3,000せききゅう以下いか旗本はたもと有能ゆうのうものにんじられることもめずらしくなかった。

家老がろうかく

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江戸えど時代じだいにおいてしょはんでは、「奉行ぶぎょうかくぐん奉行ぶぎょう」や「中老ちゅうろうかく用人ようにん」などのように、有能ゆうのう人物じんぶつ本職ほんしょく在勤ざいきんのまま本職ほんしょくよりもかくじょう役職やくしょくじゅんじる、もしくは同等どうとう席次せきじ格式かくしきなどを許可きょかした場合ばあいがある。

これと同様どうように、江戸えど時代じだいにおいて家老がろうしょく譜代ふだい重鎮じゅうちん家臣かしんによる世襲せしゅう、もしくは家老がろうしょくせる家格かかく有力ゆうりょく譜代ふだい家臣かしんによる交代こうたいせい通例つうれいであったが、譜代ふだい家臣かしんではなく家老がろうよりも格下かくした役職やくしょく家格かかくものでも、家中いえじゅう(かちゅう)で実力じつりょくみとめられて家老がろうかく家老がろうなみ家老がろうれつといった、家老がろうじゅんずる地位ちい登用とうようされるもの登場とうじょうした。

家老がろうかくからそのままいちだい家老がろう昇進しょうしんすることがおおいので混同こんどうされるが、厳密げんみつえば家老がろうかくはあくまで家老がろう格式かくしきゆるされているだけで、家老がろう就任しゅうにんしゃではない。席次せきじ通常つうじょうは、家老がろう本職ほんしょくしゃよりはひくいことがおおい(これは用人ようにん用人ようにんかくものあたまものあたまかくなどの関係かんけいでもえる)。家老がろうかくものはんによっては軍制ぐんせいじょう家老がろうぐみ編入へんにゅうされる。幕府ばくふでは「老中ろうじゅうかく側用人そばようにん」がこれにあたる。家老がろうかくものいちだい家老がろうにならずに隠居いんきょ、もしくは死去しきょした場合ばあい、その後継こうけいしゃ元来がんらい家格かかくもどることがおおい。

これとはべつに、一代いちだい家老がろう輩出はいしゅつしたいえ家老がろうしょくせる家格かかく家老がろうきゅう家柄いえがら)に昇格しょうかくするが、世襲せしゅう家老がろうたいして家老がろうかく場合ばあいがある。この場合ばあい先述せんじゅつ家老がろうかくちがい、その子孫しそん家老がろう就任しゅうにんしなくとも軍制ぐんせいじょう家老がろうぐみぞくすることがおおい。加賀かがはん前田まえだのような大藩たいはんになると、家老がろうしょくせる家格かかく家老がろうきゅう家柄いえがら)は70いえにもおよんだ。ただし、基本きほんてき家老がろうしょく自体じたい罷免ひめんされたり病気びょうきなどで辞任じにん許可きょかされたりしないかぎ終身しゅうしん在職ざいしょく原則げんそくのために、世襲せしゅう家老がろうとはちがい、家老がろうかく家柄いえがらおお場合ばあい家老がろうしょく生涯しょうがいまわってないこともおおかった。ただし、この場合ばあいでも上級じょうきゅうはんしょく就任しゅうにんしたことがおおい。

いちだい家老がろう

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元来がんらい家老がろうせる家柄いえがらではないいえから家老がろう就任しゅうにんしたものいちだい家老がろう(いちだいがろう)とはんおおい。学術がくじゅつじょうきん現代げんだい著述ちょじゅつでは抜擢ばってき家老がろう(ばってきがろう)と呼称こしょうされることもある。江戸えど時代じだい年代ねんだいつにつれていちだい家老がろう登用とうようされるれいえてゆき、一代いちだい家老がろうたいして家老がろう連綿れんめん家柄いえがらである門閥もんばつ出身しゅっしん家老がろう永代ながよ家老がろう(えいだいがろう)と区別くべつするのが一般いっぱんてきである。席次せきじ永代えいたい家老がろうほうたかい。「いちだい家老がろう」ののごとく、基本きほんてき家老がろうしょくけるのは本人ほんにんのみで、その子息しそく家老がろうしょく保障ほしょうされていないが、一代いちだい家老がろう就任しゅうにんしゃいえ家老がろうせる家柄いえがら昇格しょうかくすることがおおく、実質じっしつてき世襲せしゅうしている場合ばあいもあり、なかには米沢よねざわはんのぞき善政ぜんせいのぞき戸政とまさのように、一代いちだい家老がろうすうだい輩出はいしゅつして永代えいたい家老がろう昇格しょうかくする場合ばあいもある。

有能ゆうのうもの実力じつりょくによっていちだい家老がろう登用とうようされた代表だいひょうれいとして、ふるくは元禄げんろく赤穂あこう浪士ろうしりで有名ゆうめいになった赤穂あこうはん大野おおのともぼうや、寛政かんせい米沢よねざわはん上杉うえすぎ治憲はるのり改革かいかくのブレーンであったのぞき善政ぜんせい幕末ばくまつ活躍かつやくした長岡ながおかはん河井かわい継之助つぐのすけぐん奉行ぶぎょう奉行ぶぎょうかくばん)、薩摩さつまはん調しらべしょ広郷ひろさと長州ちょうしゅうはん村田むらた清風きよかぜなどがげられる。

一方いっぽうで、永代ながよ家老がろう処罰しょばつされる場合ばあい先祖せんぞ勲功くんこう考慮こうりょされて、当主とうしゅとその嫡子ちゃくし処罰しょばつされても家格かかく降格こうかくつぶしになることはあまりないが、一代いちだい家老がろう処罰しょばつされる場合ばあい当主とうしゅ処罰しょばつされるにまらず家格かかく降格こうかくになることがおおい。

家老がろうせい弊害へいがい

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2人ふたりからすうにん程度ていど家老がろう合議ごうぎせい藩政はんせいにあたるわけであるが、政治せいじ改革かいかく世継よつ問題もんだいからんで派閥はばつ抗争こうそうきることがおおかった。このようなこうそうが「いえ騒動そうどう」の元凶げんきょうとなり、最悪さいあく場合ばあい改易かいえきにまでいたることがあった。

とくに、藩政はんせい改革かいかくのためにてられて藩主はんしゅ信認しんにん背景はいけいとして独裁どくさいてき改革かいかく推進すいしんしようとする家老がろう年寄としより奉行ぶぎょうと、保守ほしゅてき重臣じゅうしん一族いちぞく意見いけん代表だいひょうする門閥もんばつ家老がろうとの対立たいりつ定番ていばんえる光景こうけいで、はんろん二分にぶんしてあらこうそうにつながったり、改革かいかく家老がろう失脚しっきゃくとともに藩主はんしゅ隠居いんきょまれるなどの政争せいそうられた。

また、徳川とくがわ家斉いえなり治世ちせいちゅう大御所おおごしょ時代じだい)、御三家ごさんけづけ家老がろう自身じしんらの独立どくりつのために将軍しょうぐん子女しじょ藩主はんしゅ藩主はんしゅ正室せいしつにするように画策かくさくし、はんない対立たいりつや、将軍しょうぐん子女しじょむかえることによるはん財政ざいせい悪化あっかこしている。また、幕府ばくふにおいては側用人そばようにん大老たいろうかく老中ろうじゅうかくになると、本職ほんしょく大老たいろう老中ろうじゅう同様どうよう格式かくしきばん特権とっけんちながら側用人そばようにん業務ぎょうむおこなうので、老中ろうじゅう対抗たいこうできる権勢けんせいゆうすることになる。こういった人物じんぶつとして柳沢やなぎさわ吉保よしやす田沼たぬま意次おきつぐ水野みずのただしなり著名ちょめいで、かれらは幕府ばくふ権臣けんしんとしても著名ちょめいである。

家老がろう特権とっけん義務ぎむ

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家老がろうは、主君しゅくんのための責任せきにん要員よういんてき性格せいかくがあったとの指摘してきもある。たとえば、将軍しょうぐん同様どうよう老中ろうじゅう通称つうしょう陪臣ばいしんにあたるしょはん家臣かしん通称つうしょうこうむった場合ばあいしょはん家臣かしん通称つうしょう変更へんこう余儀よぎなくされる場合ばあいもあった。また、家老がろう自分じぶん屋敷やしきとはべつ下屋敷しもやしきゆうする場合ばあいもあり、基本きほんてき防衛ぼうえい施設しせつであるしろちかくに屋敷やしきかまえていた。このほか通常つうじょう家臣かしんには許可きょかされない輿こし権利けんり許可きょかされることもおおい。

反面はんめん主君しゅくん身代みがわりに藩政はんせい実務じつむ最高さいこう責任せきにんしゃとして責任せきにんることもあった。最悪さいあく場合ばあい切腹せっぷく斬首ざんしゅうえ家格かかく降格こうかく家名かめい断絶だんぜつけるかたちで、そのめをまっとうすることもあった。戊辰戦争ぼしんせんそうやぶれた東北とうほくしょはんでも、家老がろうぜん責任せきにんこうむって処罰しょばつけたわりに藩主はんしゅへの処罰しょばつかるくされるということがられる。

徳川とくがわにおける家老がろう

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徳川とくがわではこれにたる役職やくしょく老中ろうじゅうんでいた。江戸えど幕府ばくふ開府かいふも、まくかく最高さいこう役職やくしょくとしてこの踏襲とうしゅうした。また、臨時りんじ役職やくしょくとして老中ろうじゅううえ大老たいろうかれた。ちなみに徳川とくがわがまだ三河みかわこくいち地方ちほう大名だいみょうであった時代じだいは、酒井さかい家老がろう老中ろうじゅう連綿れんめん家柄いえがらであった。また、石川いしかわすうただし家康いえやす信任しんにんてこのしょく昇進しょうしんした。

陪臣ばいしん叙爵じょしゃく

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尾張おわり紀伊きい水戸みと御三家ごさんけならびに加賀かが前田まえだ家老がろうは、それぞれめられた定数ていすうないしたがえしょ大夫たいふ叙爵じょしゃくされた。

前任ぜんにんしゃ死没しぼつ隠居いんきょし、欠員けついん発生はっせいしたのちに、主家しゅかより幕府ばくふ推挙すいきょされ、叙爵じょしゃくしたもの死没しぼつ隠居いんきょするまでその官位かんい保持ほじしていた。

通常つうじょうしょ大夫たいふなり場合ばあい幕府ばくふより朝廷ちょうていへの年賀ねんが使として高家こうか上京じょうきょうするさいくちせん頂戴ちょうだい奉書ほうしょをまとめて持参じさんし、そのこうくちせんあんをまとめて江戸えどかえるが、よんひん以上いじょう叙爵じょしゃくされる場合ばあい同様どうよう幕府ばくふ許可きょかかく主家しゅか独自どくじ使者ししゃ派遣はけんし、叙爵じょしゃく手続てつづきをとっていた。

一覧いちらん

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その駿河するが甲府こうふ館林たてばやし福井ふくい松平まつへい津山つやま松平まつへい陪臣ばいしん叙爵じょしゃくがあった。

勤務きんむ

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基本きほんてきには病気びょうき老齢ろうれい隠居いんきょ許可きょかされたり、免職めんしょくにならないかぎり、一度いちど就任しゅうにんしたらぬまで家老がろうしょくにありつづけた。

通常つうじょうつき単位たんい当番とうばんしゃめて、当番とうばんしゃ決裁けっさいおこなう。当番とうばんしゃはんによってようばんあるいは月番つきばんばれる。重要じゅうよう事項じこうについては定例ていれい評定ひょうじょうしょなどに集合しゅうごうして合議ごうぎうえ決裁けっさいする。

著名ちょめい家老がろう

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著名ちょめい老中ろうじゅう(徳川とくがわ将軍家しょうぐんけの"家老がろう"に相当そうとうする)かく人物じんぶつ

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配下はいか

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家老がろうした中老ちゅうろう、そのしただい奉行ぶぎょう大目おおめづけ奉行ぶぎょう奉行ぶぎょうふくやく目付めつけ横目よこめなどとつづいた[10]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 上田うえだ萬年かずとし松井まつい簡治 1915, p. 964.
  2. ^ はなわ保己一ほきいち, pp. 136-142 (0015.jp2-0018.jp2), 「だいじゅうよんさつ職名しょくめいろく」.
  3. ^ 藤原ふじわら長房ながふさ (すずめあん) 1910, pp. 58-.
  4. ^ はなわ保己一ほきいち, p. 126-, 「だいじゅうさんさつ職名しょくめいろくちゅう」.
  5. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん 2007, p. 129.
  6. ^ はなわ保己一ほきいち, pp. 136-, 「だいじゅうよんさつ職名しょくめいろく」.
  7. ^ JapanKnowledge. “いえおさむ】かさい (新選しんせん漢和かんわ辞典じてんWebばん)”. 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. 2021ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  8. ^ ウィキソース s:はんせい
  9. ^ 男爵だんしゃく#男爵だんしゃく一覧いちらんの「きゅう大藩たいはん藩主はんしゅ一門いちもんおよび家老がろう」「叙爵じょしゃくされなかったきゅうまんせき以上いじょう陪臣ばいしん注釈ちゅうしゃく)」に、明治維新めいじいしん時点じてん知行ちぎょう1まんせき以上いじょう家老がろう列挙れっきょされている。
  10. ^ 近世きんせい地方ちほう制度せいど熊本くまもと

参考さんこう文献ぶんけん

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本文ほんぶん典拠てんきょおも執筆しっぴつしゃまたは全集ぜんしゅう題名だいめいじゅん

  • 上田うえだ万年かずとし松井まつい簡治だい日本にっぽん國語こくご辭典じてん冨山とやまぼう、1915ねん、964ぺーじNCID BN04999607https://books.google.co.jp/books?id=Wb9KQfDX4loC&pg=PP992&dq=%22%E5%AE%B6%E8%80%81%22&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi5ov-D9tjwAhWKHXAKHbZgBsYQ6AEwBHoECAUQAw#v=onepage&q=%22%E5%AE%B6%E8%80%81%22&f=false 
  • 日本法令にほんほうれい索引さくいん明治めいじ前期ぜんきへん〕ヨミガナ辞書じしょ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん、2007ねん1がつ、129ぺーじdoi:10.11501/999230。「『法令ほうれい全書ぜんしょ』(慶応けいおう3ねん10がついたり明治めいじ17ねん12月イロハ索引さくいん) 掲載けいさいぺーじ(2708ぺーじ)」 
  • はなわ保己一ほきいち故実こじつ叢書そうしょ 武家ぶけ名目めいもくしょう今泉いまいずみじょうかいへん)、吉川弘文館よしかわこうぶんかん明治めいじ32ねん-39ねん、126- (コマ番号ばんごう0010.jp2-)、136- (どう0015.jp2-)ぺーじdoi:10.11501/771966全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40013115 1899ねん-1907ねん
    • だいじゅうさんさつ職名しょくめいろくちゅう」に宿老しゅくろう家老がろう家老がろうわき解説かいせつ
    • だいじゅうよんさつ職名しょくめいろく」に年寄としより老中ろうじゅう大老たいろう中老ちゅうろう若年寄わかどしより解説かいせつ
  • 藤原ふじわら長房ながふさ (すずめあん)「大名だいみょう庄屋しょうや宿老しゅくろう名主なぬし」『さへづりそう : いちめいくさかご むしのゆめまきしつまつ岩雄いわおへん)、一致いっちどう[ほか]、明治めいじ43ねん-45ねん、58-(コマ番号ばんごう0038.jp2-)ぺーじdoi:10.11501/888910全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:41011276 1900ねん-1902ねん
  • 渡辺わたなべゆうだい6しょう 管領かんりょうおよ宿老しゅくろう政治せいじ」『室町むろまち時代じだいそうもとしゃ昭和しょうわ23ねん、58(コマ番号ばんごう0038.jp2-)、103- (コマ番号ばんごう0060.jp2)ぺーじdoi:10.11501/1041774全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:46004584 1948ねん
    • 「§だい1せつ 公家くげ政治せいじ反動はんどう」p.104-(コマ番号ばんごう0061.jp2-)
    • 「§だい2せつ 管領かんりょうおよ宿老しゅくろう」p.114-(コマ番号ばんごう0066.jp2-)

関連かんれん項目こうもく

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