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原田はらだ宗輔そうすけ

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酒井さかい上屋敷かみやしきあと
千代田ちよだまるうち

原田はらだ 宗輔そうすけ(はらだ むねすけ、元和がんわ5ねん1619ねん) - 寛文ひろふみ11ねん3月27にち1671ねん5月6にち))は、江戸えど時代じだい前期ぜんき武士ぶし仙台せんだいはん重臣じゅうしん奉行ぶぎょうしょく[注釈ちゅうしゃく 1]原田はらだはじめ伊達だて騒動そうどう寛文ひろふみ事件じけんとも)当事とうじしゃ一人ひとり通称つうしょう甲斐かいで、原田はらだ甲斐かい(はらだ かい)としてられる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

元和がんわ5ねん1619ねん仙台せんだいはんすわ原田はらだ原田はらだはじめ長男ちょうなんとして陸奥みちのくこく柴田しばたぐん船岡ふなおかしろ[注釈ちゅうしゃく 2]まれる。幼名ようみょうべんすけはじめは雅楽ががく(うた)としょうした。ははもと豊臣とよとみ秀吉ひでよし側室そくしつで、のちに伊達だてまさしむね側室そくしつ伊達だて家重いえしげしんおににわつなもとしつとなったこうまえむすめ実父じっぷ伊達だてまさしむね。このため宗輔そうすけ血縁けつえんじょうせいむねまごにあたる[注釈ちゅうしゃく 3]

元和がんわ9ねん1623ねん)、ちちそう死去しきょによりわずか5さい家督かとくぎ、原田はらだだい19だい当主とうしゅとなる。

慶安けいあん元年がんねん1648ねん)に評定ひょうじょうやく寛文ひろふみ3ねん1663ねん奉行ぶぎょう首席しゅせきとなる。ろくだかは4,380せきであった。

このころ仙台せんだいはんでは、万治まんじ3ねん1660ねん主君しゅくん伊達だてつなむね逼塞ひっそくとなり、伊達だて綱村つなむら伊達だて当主とうしゅとなるが、綱村つなむらは2さい幼少ようしょうだったため後見こうけんとして伊達だて宗勝むねかつ綱村つなむら大叔父おおおじ)、田村たむらそうりょうめいぜられる(宗輔そうすけはこのころ、江戸えど屋敷やしき滞在たいざい)。

宗勝むねかつ宗輔そうすけとの密接みっせつ関係かんけい有名ゆうめいであるが、『仙台せんだい近世きんせい2・つう4』によると、原田はらだ奉行ぶぎょう推挙すいきょしたのは藩主はんしゅ伊達だて綱村つなむらのもう一人ひとり後見人こうけんにんである田村たむらそうりょうで、この推挙すいきょたいして宗勝むねかつは「もし家柄いえがらだけで原田はらだ奉行ぶぎょうにするならこころもとないから、原田はらだつめばんのときにはしっかりとした評定ひょうじょうやくをつける必要ひつようがある」とべており、宗勝むねかつからは奉行ぶぎょうとしての能力のうりょくまった評価ひょうかされていなかったとしている。

ちなみに原田はらだ正確せいかく奉行ぶぎょう就任しゅうにん月日つきひさだかではないが、すくなくとも里見さとみ重勝しげかついちけんでの書状しょじょう寛文ひろふみ3ねん(1663ねん)7がつ23にちまでには奉行ぶぎょう就任しゅうにんしている。他方たほう寛文ひろふみ9ねん(1669ねん)の仙台せんだいはん奉行ぶぎょう古内ふるうちよしから田村たむらそうりょう家臣かしんへの手紙てがみなか宗輔そうすけ宗勝むねかつ大変たいへんおそれて、宗勝むねかつとその寵愛ちょうあいけた目付めつけしゅうがおかしいことをいってもすぐ同意どういし、えこひいきや立身りっしん威勢いせいのぞむところは奥山おくやま大学だいがくわらないと指摘してきしている。ただし、古内ふるうちよし如は以前いぜんからそうまさる奥山おくやまとしてにらまれた人物じんぶつである。

宗勝むねかつ対立たいりつしていた伊達だてそうしげる宗勝むねかつらを江戸えど幕府ばくふ上訴じょうそすると、寛文ひろふみ11ねん1671ねん)3がつ27にち宗輔そうすけ幕府ばくふ評定ひょうじょうけるため、5にん仙台せんだいはん家臣かしん騒動そうどう解決かいけつ目的もくてきとして大老たいろう酒井さかい忠清ただきよやしき召喚しょうかんされたが、おなじく召喚しょうかんされてていた伊達だてはじめじゅうをその斬殺ざんさつし、さらに宗重むねしげ柴田しばたちょうりあってきず死亡しぼうした。享年きょうねん53。

事件じけん原田はらだ責任せきにんかたちで、男子だんし4にん男子だんしまご2にん養子ようしされたもの乳幼児にゅうようじふく全員ぜんいん切腹せっぷく斬首ざんしゅつまむすめ他家たけあづけの処分しょぶんになり、一家いっか断絶だんぜつした。伊達だてはおとがしとされた。くわしくは伊達だて騒動そうどう[注釈ちゅうしゃく 4]参照さんしょうのこと。

宗輔そうすけくび現在げんざい宮城みやぎけん柴田しばたまち船岡ふなおかにあった東陽とうようてら裏手うらてひそかにめられ、のちてら移築いちくともなってこされて、あらためてどうてら境内けいだい埋葬まいそうされたとつたえられている。現在げんざい登米とよねにある東陽とうようてら境内けいだいには原田はらだ甲斐かいくびづかてられている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

  • ちち原田はらだはじめ
  • ははけいがついん伊達だてまさしむねむすめ系譜けいふじょう茂庭もにわつなもとむすめ)、亘理わたり伊達だてはじめあずか
  • 正室せいしつ津田つだ頼康よりやすむすめ水沢みずさわ伊達だて宗景むねかげあずか
    • 原田はらだそうまこと - 長男ちょうなん切腹せっぷく25さい
    • 飯坂いいざか輔俊 - 二男じなん飯坂いいざかそうあきら伊達だてただしむねきゅうなん養子ようし切腹せっぷく23さい
    • 平渡ひらわた喜平きへい - 三男さんなん平渡ひらわただかおもんみ養子ようし切腹せっぷく22さい
    • 剣持けんもち五郎ごろう兵衛ひょうえ - よんなん剣持けんもちたけしばん養子ようこ切腹せっぷく20さい
    • 女子じょし - 長女ちょうじょ北郷きたごう隆次りゅうじしつ
  • まご
  • 長男ちょうなんそうまこと茂庭もにわ定元さだもとむすめたつとのあい
    • ふじ - 長女ちょうじょははとともに茂庭もにわしゅみずあずかり、のちしゃ喜太郎きたろうしつ
    • 原田はらだ采女うねめ - 長男ちょうなん斬首ざんしゅ4さい
    • 原田はらだ伊織いおり - 二男じなん斬首ざんしゅ1さい
  • 次男じなん・輔俊の
    • むすめ - 長女ちょうじょははとともに古内ふるうち主膳しゅぜんあずか

参考さんこう画像がぞう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 仙台せんだいはん役職やくしょく家老がろう存在そんざいしない。家老がろうにあたるしょく奉行ぶぎょう呼称こしょうする。
  2. ^ 原田はらださだめられた家格かかくすわ」は家格かかくとしては5番目ばんめであるが、原田はらだすわなか上席じょうせき一番いちばんすわ」の一角いっかくめた。この一番いちばんすわは「宿老しゅくろう」ともしょうされ、家老がろうへの登用とうようおお名門めいもんであり、ちち原田はらだはじめ通称つうしょう甲斐かい)も奉行ぶぎょうつとめた。ちちだいもと3ねん1617ねん) から船岡ふなおかしろ居城きょじょうとしていた。
  3. ^ 世間せけんでは伊達だていち家臣かしんというイメージのみがつよいが、後述こうじゅつ伊達だて綱村つなむら後見人こうけんにんつとめた伊達だて宗勝むねかつ田村たむらそうりょうはそれぞれ宗輔そうすけ母方ははかた叔父おじ・いとこ。 ちちそう伊達だて庶流桑折くわおりからの養子ようしあね息子むすこ梁川はしかわ飯坂いいざかなど庶流縁組えんぐみしている。 実際じっさいのところ宗輔そうすけ重臣じゅうしんなかでも伊達だて一族いちぞくしょく人物じんぶつである。
  4. ^ 歌舞伎かぶき伽羅きゃら先代せんだいはぎ』の悪役あくやく仁木にき弾正だんじょうのモデルとなるなど、藩政はんせい牛耳ぎゅうじった奸臣かんしんとして悪名あくめいたかいが、のち山本やまもと周五郎しゅうごろう小説しょうせつ樅ノ木もみのきのこった』で主人公しゅじんこうとされ、御家おいえ安泰あんたいのためんでいく忠臣ちゅうしんとしてえがかれている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]