くもふところ

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くもふところ

くもふところ(こうん えじょう、ふところ弉とも。たてひさ9ねん1198ねん[1] - 弘安ひろやす3ねん8がつ24にち1280ねん9月19にち[1])は、鎌倉かまくら時代ときよ禅宗ぜんしゅう僧侶そうりょ

曹洞宗そうとうしゅうだい2永平寺えいへいじだい2せい在任ざいにんけんちょう5ねん1253ねん)7がつ-ぶんひさし4ねん1267ねん)。再任さいにんぶんなが9ねん1272ねん)2がつ-弘安ひろやす3ねん8がつ)。諡号しごうみちこうひろしあきら国師こくし(どうこうふしょうこくし)。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

九条くじょうためどおりとして京都きょうとまれる。幼少ようしょうころより比叡山ひえいざんのぼり、18さい出家しゅっけ天台宗てんだいしゅう学僧がくそうになる。学識がくしきすぐ将来しょうらい嘱望しょくぼうされるが、実母じつぼに「学問がくもんだけをしてえらくなるよりも、黒衣くろごぞくとして菅笠すげがさ裸足はだし往来おうらいし、済度さいど衆生しゅじょうたしなさい」とさとされ下山げざん。24さい浄土宗じょうどしゅう西山にしやまあかしむなしについて浄土じょうど教学きょうがくおさめるが得心とくしんせず、さらに26さいとき大和やまとこくみね(とうのみね)に日本にっぽん達磨だるまむねさとしたずぜんまなぶ。

ふところ奘はさとし晏より印可いんか高弟こうていとなるが、安貞やすさだ2ねん1228ねん)、興福寺こうふくじ衆徒しゅとちを避難ひなん余儀よぎなくされる。このような混乱こんらんなかそうからかえ建仁寺けんにんじ寄寓きぐうしていた道元どうげん評判ひょうばんき、ほうせんいどむ。ほうせん数日すうじつおよんだが、ついに道元どうげん所見しょけんすぐれていることをみとめ、道元どうげんほうが2さい年下とししたではあったが、師事しじねがいでる。このときは、道元どうげん自身じしん仮寓かぐうであることを理由りゆうことわられる。ぶんれき元年がんねん1234ねん)、建仁寺けんにんじ山城やましろこく深草ふかくさ草庵そうあんむすんでいた道元どうげんたずね、ふたた師事しじねがいでてゆるされる。

よしみただし元年がんねん1235ねん)8がつ15にち菩戒を[1]よしみただし2ねん1236ねん)に道元どうげん近江おうみこく興聖寺こうせいじ開山かいさんすると首座しゅざにんじられ大衆たいしゅう長老ちょうろうとなる[1]以後いごつね道元どうげん身辺しんぺん随身ずいじんし、道元どうげんおしえを記録きろくひろめることにつとめた。

道元どうげん著作ちょさくせい法眼ほうげんぞう』のほぼすべてを整理せいり筆写ひっしゃし、現在げんざいのこされている同書どうしょはすべてふところ写本しゃほん底本ていほんとしている。また、よしみただし3ねん1237ねん)から道元どうげんごろ大衆たいしゅうかたった法語ほうごをまとめた『せい法眼ほうげんぞうずい聞記』をあらわした[1]現在げんざい研究けんきゅうではふところ奘ののこした遺稿いこうを、没後ぼつご高弟こうていたち編集へんしゅう完成かんせいさせたとするのが定説ていせつになっている)。同書どうしょ道元どうげん思想しそう当時とうじぜんかい事情じじょうじょうくことのできない一級いっきゅう資料しりょうとされている。ふところ奘のもうひとつの著作ちょさく光明こうみょうぞう三昧ざんまい[2]すぐれたぜん文学ぶんがくとして評価ひょうかされ、夏目なつめ漱石そうせきは「コレハやくぶんツタじんうんじょうナリ。しん常識じょうしきナリ」[3]賛辞さんじのこしている。

じん2ねん1241ねん)、日本にっぽん達磨だるまむねそうすうじゅうにん道元どうげん門下もんか改宗かいしゅうする。この改宗かいしゅうなつけ奘がどの程度ていど関与かんよしていたのかは明確めいかくではないが、すくなからぬ役割やくわりたしていたことは容易ようい推測すいそくされる。

けんちょう5ねん1253ねん)、道元どうげん入寂にゅうじゃくあといで永平寺えいへいじ2せいとなる[1]当時とうじ永平寺えいへいじは、道元どうげん遺風いふうまもろうとする保守ほしゅと、衆生しゅじょう教化きょうかのために道元どうげん不要ふようとした法式ほうしきれようとする開放かいほう(そのおおくが日本にっぽん達磨だるまむねほうけいぞくしていた)が対立たいりつし、ふところ奘はつね双方そうほう調停ちょうてい融和ゆうわつとめなければならなかった。

ぶんひさし4ねん1267ねん)4がつ日本にっぽん達磨だるまむね時代じだいからの法弟ほうていであるてっどおり義介ぎすけ住職じゅうしょくゆずるが[1]両派りょうは対立たいりつ激化げきかさんだいしょうろん)する。このため、ぶんひさし9ねん1272ねん)2がつ義介ぎすけ辞任じにん下山げざんし、ふところ奘が再任さいにんする。

永平寺えいへいじ住職じゅうしょくとなったのち道元どうげん侍者じしゃであるとの姿勢しせい終生しゅうせいえず、道元どうげん霊廟れいびょうわき居室きょしつて、道元どうげんいただきしょう生前せいぜん同様どうようつかえたといわれる。また、自分じぶんじゅうとして道元どうげん同列どうれつまつられることをおそれ「自分じぶん遺骨いこつ先師せんし道元どうげん)の墓所はかしょ侍者じしゃ位置いちめ、忌日きじつには先師せんし墓前ぼぜんかい供養くよう読経どきょうするべし」と遺言ゆいごんした。

弘安ひろやす3ねん(1280ねん)8がつ24にち病没びょうぼつ[1]自分じぶんのために特別とくべつ法要ほうよういとなまれることをいとい、8日間にちかんいとなまれる先師せんし道元どうげん忌日きじつ法要ほうようの1にち回向えこうあずかることをねがい、ねがどおりになった。

昭和しょうわ5ねん(1930ねん)、昭和しょうわ天皇てんのうよりみちこうひろし照国てるくに国師こくしごう宣下せんげける。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

永平寺えいへいじではうけたまわよう殿どの道元どうげん廟所びょうしょ入口いりくちとびらつねすこけておくことが慣例かんれいとなっている。これは現在げんざいでもなつけ奘が道元どうげん廟所びょうしょ見廻みまわりにのぼるとされているためである。また、夜中よなかやくりょう点検てんけん責任せきにんしゃ山内やまうち巡視じゅんし)はふところ奘とたることのないよう、こく午前ごぜん0)をはずしておこなわれているという。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h 角田つのだ春雄はるおくもふところ奘禅とその思想しそう」『駒澤大学こまざわだいがくがくほうだい12かんだい2ごう駒澤大学こまざわだいがく仏教ぶっきょう学会がっかい、1953ねん3がつ、41-53ぺーじ 
  2. ^ [1] 大正たいしょう大蔵経だいぞうきょう No. 2590; [2]こうてん註禅もん法語ほうごしゅう 禅門ぜんもん法語ほうごしゅう
  3. ^ 大久保おおくぼ純一郎じゅんいちろう漱石そうせきとその思想しそうあらたけ出版しゅっぱん, 1974, 225ぺーじ: 東北大学とうほくだいがく附属ふぞく図書館としょかん漱石そうせき文庫ぶんこ所蔵しょぞうこうてん註禅もん法語ほうごしゅう 禅門ぜんもん法語ほうごしゅう』23ぺーじ

関係かんけい文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
まれげん道元どうげん
曹洞宗そうとうしゅう
次代じだい
てっどおり義介ぎすけかんいわおよしいんさびえん
先代せんだい
まれげん道元どうげん
永平寺えいへいじ だい2せい貫首かんじゅ
1253ねん - 1267ねん
1272ねん - 1280ねん
次代じだい
てっどおり義介ぎすけ