(Translated by https://www.hiragana.jp/)
宗峰妙超 - Wikipedia コンテンツにスキップ

そうみねたえちょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
そうみねたえちょう
弘安ひろやす5ねん12月7にち - のべもと2ねん/たてたけし4ねん12月22にち
1283ねん1がつ7にち - 1338ねん1がつ13にち
大燈国師像 狩野永岳筆 1836年
諡号しごう だい国師こくし
生地きじ 播磨はりまこく浦上うらかみそう
宗派しゅうは 臨済宗りんざいしゅう
寺院じいん 圓教寺えんきょうじ建長寺けんちょうじ大徳寺だいとくじ
高峰こうほうあらわ南浦みなみうら紹明
弟子でし 関山せきやまとしげんとおるおうよしとおるはくおうはじめくも虎渓こけいどうみずのえ海岸かいがんりょうよし金剛こんごう日山ひやまそうかんてらなど[1]
著作ちょさくだい国師こくし語録ごろく』、『仮名かめい法語ほうご』、『さちくも夜話やわ
テンプレートを表示ひょうじ

そうみねたえちょう(しゅうほうみょうちょう)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき臨済宗りんざいしゅうそう一般いっぱんにはだい国師こくしられている。

いみなみょうちょうみちごうむねほう播磨はりま兵庫ひょうごけん)の出身しゅっしん同国どうこく浦上うらかみそう豪族ごうぞく浦上うらかみ一族いちぞく浦上うらかみいちこく(掃部入道にゅうどうさとしせい)と赤松あかまつ則村のりむら円心えんしん)のあねとのあいだまれた。朝廷ちょうていからきょうぜんだいとうこう照正てるまさとう国師こくしごうあたえられた。京都きょうと大徳寺だいとくじ開山かいさん。 

経歴けいれき[編集へんしゅう]

11さいとき地元じもとだい寺院じいんである書写しょしゃさん圓教寺えんきょうじはいり、天台宗てんだいしゅうまなぶが、のち禅宗ぜんしゅうにめざめ、鎌倉かまくら高峰こうほうあらわきょう南浦みなみうら紹明だいおう国師こくし)に参禅さんぜん南浦みなみうら紹明が鎌倉かまくら建長寺けんちょうじうつるにしたがってそうほう鎌倉かまくらりし、徳治とくじ2ねん1307ねん)、26さいのとき、から印可いんかた。嗣法ののちやく20ねん草庵そうあんにあって京都きょうと乞食こじきぎょう(こつじきぎょう)をする。修行しゅぎょうはげむが、峻烈しゅんれつ無比むひぜんふうゆえちかづくひとすくなかった。

正和しょうわ4ねん1315ねん)(もとおう元年がんねん1319ねんとも)、叔父おじ赤松あかまつ則村のりむら円心えんしん)の帰依きえけ、らくきた紫野むらさきのしょうどう大徳だいとくあん」を建立こんりゅうした。これが「大徳寺だいとくじ」の起源きげんとされる。花園天皇はなぞのてんのうむねほう帰依きえし、正中せいちゅう2ねん1325ねん)、大徳寺だいとくじ祈願きがんしょとする院宣いんぜんはっしている。このころ、正中せいちゅう宗論しゅうろんにて融和ゆうわいておさめた。門下もんか関山せきやまとしげんがいる。

たてたけし3ねん1336ねんごろ後醍醐天皇ごだいごてんのうから大徳寺だいとくじ下総しもうさこく葛西かさい御厨みくりや替地かえちとしてみょうちょうゆかりのである播磨はりまこくうら上庄かみしょう寄進きしんされる。そのさいみょうちょううら上庄かみしょう半分はんぶん自分じぶん一族いちぞく分配ぶんぱいすることもうると天皇てんのうはこれを承認しょうにんし、みょうちょう一族いちぞくである浦上うらかみ為景ためかげにそのむねつたえる綸旨りんじ発行はっこうした。

このときうら上庄かみしょう半分はんぶん地頭じとうしょくた「浦上うらかみ為景ためかげとその一族いちぞく」の子孫しそんのち赤松あかまつ被官ひかんとなって守護しゅごだいさむらいしょ所司代しょしだいなどをつとめ、室町むろまち時代ときよから戦国せんごく時代じだいにかけてこの地方ちほう権勢けんせいふるった。

たてたけし4ねん1337ねん)、みょうちょうやまい重態じゅうたいとなるが、花園はなぞの法皇ほうおうもとめにおうじて、みょうちょう没後ぼつご花園はなぞの法皇ほうおうとすべき禅僧ぜんそうとして、弟子でし関山せきやまとしげん推挙すいきょした。

また、花園はなぞの法皇ほうおう花園はなぞの離宮りきゅうを「ぜんてら」とするにつき、その山号さんごう寺号じごう正法しょうぼうやま妙心寺みょうしんじ命名めいめいし、そのとし12月22にち1338ねん1がつ13にち)、みょうちょう死去しきょ妙心寺みょうしんじでは、このたてたけし4ねんひらけそうとしとし、みょうちょう遺命いめいけた関山せきやまとしげん開山かいさんとなっている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ぜんふう厳格げんかくで、容赦ようしゃないきびしさをもってひとせっし、ふか自己じこさとるさかいげていくことを重視じゅうしし、とうだいぜんふう復活ふっかつ志向しこうした。みずか公案こうあんをつくって弟子でし育成いくせいし、教化きょうかにおいてはほとんど方便ほうべん使つかわず、正面しょうめんよりぜんきわみをした。

南浦みなみうら紹明(だいおう国師こくし)からそうみねたえちょうだい国師こくし)を関山せきやまとしげんつづほうけいを「おうとうせき」といい、現在げんざい日本にっぽん臨済宗りんざいしゅうはみなこのほうけいぞくする。著述ちょじゅつには『だい国師こくし語録ごろく』『仮名かめい法語ほうご』『さちくも夜話やわ』などがある。

能書のうがきとしてもられ、そうふうしょくした[2]財津ざいつ永次えいじによれば、そうみねたえちょう黄庭堅おうていけんふう書風しょふうは、宸翰しんかんよう名手めいしゅである後醍醐天皇ごだいごてんのうにも影響えいきょうあたえたという[2]。2020ねん時点じてんで、5けん墨蹟ぼくせき国宝こくほう指定していされている[3][4][5][6][7]

伝記でんき著作ちょさく[編集へんしゅう]

だい国師こくしぞう 大徳寺だいとくじくら たてたけし元年がんねん(1334ねん国宝こくほう
  • 平野ひらのそうきよしちょやくだい 大徳寺だいとくじ語録ごろく・頌古』 講談社こうだんしゃぜん入門にゅうもん4〉、1994ねん ISBN 978-4-062-50204-7
    • 初版しょはん上記じょうき一部いちぶ改訂かいてい) 『だい 日本にっぽんぜん語録ごろく だい6かんどう、1978ねん
    • 選書せんしょばん抄録しょうろく)『ぜん古典こてん3 だいとう国師こくし語録ごろくどう、1983ねん
  • 平野ひらのそうきよしだい国師こくし―その生涯しょうがいぜんふう」ほか、『一休いっきゅうぜん』(春秋しゅんじゅうしゃ、1998ねん ISBN 978-4-393-14107-6)、だい2しょう所収しょしゅう
  • 竹貫たけぬきもとかちそうみねたえちょう だいとうを挑げおこして』 ミネルみねるァ書房ぁしょぼう〈ミネルヴァ日本にっぽん評伝ひょうでんせん〉、2008ねん ISBN 978-4-623-05070-3

挿話そうわ[編集へんしゅう]

  • そうみねたえちょうは、まくわふりきであった。みょうちょう乞食こじきれのなかにいることをった花園天皇はなぞのてんのう役人やくにん高札こうさつてさせ、ぼうまくわふり乞食こじきにただであたえるむね布告ふこくした。当日とうじつ役人やくにんがまくわふりもとめる乞食こじきれにかって「あしなくしてたれ」というと、乞食こじき一人ひとりがすかさず「無手むてわたせ」とこたえたのでみょうちょうであることがわかってしまった。
  • みょうちょう花園天皇はなぞのてんのうはじめて対座たいざしたとき、あまりにみょうちょう堂々どうどうとしているので、天皇てんのうが「仏法ぶっぽう不思議ふしぎ王法おうほう対坐たいざす」というと、みょうちょうはすかさず「王法おうほう不思議ふしぎ仏法ぶっぽう対坐たいざす」とやりかえした。
  • みょうちょう弱齢じゃくれいにしてほうあらわみついえとえふてしんこころよからず、すなはちもとはいりてほうもとめんとほっし、つひに博多はかたおもむく。たまたまそう紹明がもとよりかえるにあふ。これにおいて参禅さんぜんす。ときにちょう妻子さいしあり、恩愛おんあいよくたんがためにつまをしてさけかいはしめ、ひとりとざしてそのさいころし、これをくしにしてあぶる。つまかえりてこれをあやしむにおよんで、すははちあぶれるをくらってもっむ、つま熟視じゅくししておおいに叫喚きょうかんしてづ。ちょうもまたづ。これすなはち紫野むらさきのだい国師こくしなり。」(『羅山らざん文集ぶんしゅうまき五十六いそろくつげぜんじょう

だい国師こくし投機とうき[編集へんしゅう]

禅宗ぜんしゅうまれる漢詩かんしを、(げ)、頌(げじゅ)、(しげ)、法語ほうごこうなどと[8]一般いっぱん漢詩かんしは、自然しぜん人生じんせいなどをんだものがおおいのにたいして、禅宗ぜんしゅう漢詩かんしは、ぜん境地きょうちんだものが中心ちゅうしんである。それには、ぜん仏教ぶっきょう専門せんもん用語ようごもちいられることがおおく、その意味いみ理解りかいするのは、一般いっぱんてき難解なんかいである。

また、投機とうき(とうきのげ)とは、さとりをひらいたときんだ漢詩かんしである。

だい国師こくし師匠ししょうであるだいおう国師こくしあたえられたくももんせきという「公案こうあん」(禅宗ぜんしゅう参禅さんぜんしゃ座禅ざぜん工夫くふうさせる課題かだい古徳ことく難問なんもんされる)でおおきくさとりをひらいた(大悟たいごした)。そのとき投機とうき(とうきのげ)がのこされている[9]

いちかいとおるとくくもせきりょう 南北なんぼく東西とうざい活路かつろどおり ゆうしょあさゆうぼつまろうどぬし あしあたまあしそこおこり淸風せいふう 

いちかいくもせきとおるりょうって、南北なんぼく東西とうざい活路かつろつうず。ゆうしょあさゆう まろうどぬしぼっし、あしあたまあしそこ 清風せいふうこす」

意味いみは「ひとたびくももんせき通過つうかしてわってしまえば、東西とうざい南北なんぼくあらゆるところで、なにをしようが自由自在じゆうじざいである。そこにはいつでも主客しゅかくべつもない。まよいもさとりもない。あの足取あしどりはあたまのてっぺんからつまさきまで、徹底的てっていてき清浄せいじょうみきったかぜこすのだ。」

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 人名じんめい規範きはん資料しりょう、2019ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 財津ざいつ永次えいじしょ日本にっぽん」『改訂かいてい新版しんぱん世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん平凡社へいぼんしゃ、2007ねん 
  3. ^ だい国師こくし墨蹟ぼくせき読真かい榜/〉 - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  4. ^ だい国師こくし墨蹟ぼくせき関山せきやまごう/(よしみれきおのれ仲春ちゅうしゅう)〉 - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  5. ^ だい国師こくし墨蹟ぼくせき印可いんかじょうもととくねん仲夏ちゅうか上澣じょうかん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  6. ^ だい国師こくし墨蹟ぼくせきもととくねんがつじゅうさんにちあずかそうさとる大姉だいし法語ほうご - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  7. ^ だい国師こくし墨蹟ぼくせきけいりん みなみごく/〉 - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  8. ^ Musicazard. “はじめてのひとのための漢詩かんし講座こうざ 4”. ZENzine / ぜんじん. 2022ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  9. ^ Musicazard. “はじめてのひとのための漢詩かんし講座こうざ 4”. ZENzine / ぜんじん. 2022ねん10がつ24にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]