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禅宗ぜんしゅう

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禅宗ぜんしゅう
中国ちゅうごく
中国ちゅうごく ぜん
文字通もじどおりの意味いみ坐禪ざぜん, ぜんだてめい
発音はつおん記号きごう
標準ひょうじゅん中国語ちゅうごくご
漢語かんご拼音Chán
ウェードしきChʻan2
イェールしき
マ字まじ
Chán
ちゅう音符おんぷごうㄔㄢˊ
マ字まじZoe
粤語
イェール粤拼Sìhm
粤拼Sim4
閩南
閩南白話はくわSiân
うしおしゅうマ字まじSiam5
閩東
ふくしゅうマ字まじSièng
ちゅう古音こおん
ちゅう古音こおん[dʑjen]
別稱べっしょう
中国ちゅうごく いたるむね, 佛心ほとけごころむね
発音はつおん記号きごう
日本語にほんご
漢字かんじ ぜん
きゅう字体じたい ぜん
Transcriptions
マ字まじ Zen
朝鮮ちょうせん
ハングル
漢字かんじぜん
発音はつおん記号きごう
RRしきSeon
ベトナム
ベトナムThiền
ハンノムぜん

禅宗ぜんしゅう(ぜんしゅう, Zen Buddhism)は、中国ちゅうごくにおいて発達はったつした、ぜん(ぜんな)にいたしんおしえをくとする大乗だいじょう仏教ぶっきょういち宗派しゅうはみなみインド出身しゅっしん中国ちゅうごくわたった達磨だるまそう(ボーディダルマ)をとし、坐禅ざぜん座禅ざぜん)を基本きほんてき修行しゅぎょう形態けいたいとする。ただし、坐禅ざぜんそのものはふるくから仏教ぶっきょう基本きほんてき実践じっせん重要じゅうよう徳目とくもくであり、坐禅ざぜん中心ちゅうしんおこな仏教ぶっきょう集団しゅうだんが「禅宗ぜんしゅう」と呼称こしょうされはじめたのは、中国ちゅうごくとうだい末期まっきからである。こうして宗派しゅうはとして確立かくりつされると、その起源きげんもとめるこえたかまり、さかのぼってはつとされたのが達磨だるまである。それ歴史れきしじょう達磨だるまによる、直接的ちょくせつてき著作ちょさく存在そんざいみとめられていない。伝承でんしょうじょう達磨だるまのもたらしたとするぜんは、仏教ぶっきょうにおけるぜんとはことなり、りょうよし[注釈ちゅうしゃく 1]大乗だいじょうぜんである。

中国ちゅうごくぜんは、とうからそうにかけて発展はってんし、征服せいふく王朝おうちょうであるもとにおいても勢力せいりょく健在けんざいだったが、あきら時代じだいはいると衰退すいたいしていった。

日本にっぽんには、ぜんおし自体じたい奈良なら時代じだいから平安へいあん時代じだいにかけてすでつたわっていたとされるが、純粋じゅんすい禅宗ぜんしゅうつたえられたのは、鎌倉かまくら時代ときよはじごろであり、室町むろまち時代ときよ幕府ばくふ庇護ひごした日本にっぽん仏教ぶっきょうひとつとして発展はってんした。明治維新めいじいしん以降いこうは、鈴木すずき大拙だいせつにより日本にっぽんぜんが、世界せかいつたえられた。

日本にっぽんにおいては、坐禅ざぜん修行しゅぎょうおもとする仏教ぶっきょう宗派しゅうはが「禅宗ぜんしゅう」と総称そうしょうされることがおおい。これにたいして、臨済宗りんざいしゅう14黄檗宗おうばくしゅうからなる臨済宗りんざいしゅう黄檗宗おうばくしゅう連合れんごう各派かくは合議ごうぎしょと、曹洞宗そうとうしゅう宗務庁しゅうむちょうは2019ねん中学校ちゅうがっこう歴史れきし教科書きょうかしょについて、個々ここ宗派しゅうはめいかず「禅宗ぜんしゅう」といちくくりにする記述きじゅつあらためるようもうれた[1]

近年きんねんでは、ぜん修行しゅぎょう方法ほうほうれた更生こうせい教育きょういく社員しゃいん教育きょういくなど[2]ちかられている寺院じいん目立めだつ。

言葉ことば由来ゆらい

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ぜんは、サンスクリットdhyāna(ディヤーナ/パーリでは jhāna ジャーナ)のおとうつし、あるいはおとうつしであるぜん(ぜんな)のりゃくである[3][4]衍那(だえんな)・おもね(じあな)のおとうつしもある。わけに、思惟しいおさむ(しゆいしゅう)・しずかおもんばか(じょうりょ)・棄悪[注釈ちゅうしゃく 2]功徳くどく叢林そうりん[注釈ちゅうしゃく 3]ねんおさむ[注釈ちゅうしゃく 4]

ぜん元来がんらいてん山川やまかわまつる、てんじて、天子てんしゆずる(禅譲ぜんじょう)という意味いみであった。これに「しんはたらきを集中しゅうちゅうさせる」という語釈ごしゃくあたえてぜんとなし、「しんしずかにして動揺どうようさせない」という語釈ごしゃくあたえてじょうとし、禅定ぜんじょうとする語義ごぎつくられた。ただしぜん意味いみでは声調せいちょう平声ひょうしょうから去声きょしょうわっており、現代げんだい北京ぺきんではくわえてこえははわってshàn(シャン)にたいchán(チャン)になっている。

ぜん

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けいほうそうひそか著書ちょしょぜんげんしょかいあつまりじょ』には、ぜん根元ねもと仏性ぶっしょうにあるとし、仏性ぶっしょうさとるのが智慧ちえであり、智慧ちえしゅうするのがじょうであり、ぜんはこれをあわせていうとある。[5]また、達磨だるまつたえた宗旨しゅうしのみが真実しんじつぜん相応そうおうするから禅宗ぜんしゅう名付なづけた、ともある。

類似るいじ概念がいねんとして三昧ざんまい(サンスクリット: samādhi)がある。ぜんあるいはじょうという概念がいねんは、インドにその起源きげんち、それが瞑想めいそう体験たいけんは、仏教ぶっきょう成立せいりつしたときから重要じゅうよう意義いぎあたえられていた。ゴータマ・シッダッタ(釈迦しゃか)も禅定ぜんじょうによってさとひらいたとされ、仏教ぶっきょうにおいてはさんがくの戒・じょうとしひとつとして、また、大乗だいじょう仏教ぶっきょうにおいては六波羅蜜ろくはらみつ布施ふせ持戒じかい忍辱にんにく精進しょうじん禅定ぜんじょう智慧ちえ)のひとつとして、仏道ぶつどう修行しゅぎょうかせないものとかんがえられてきた。

坐禅ざぜん瞑想めいそう

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坐禅ざぜんは、禅宗ぜんしゅうにおいて、ぜん(ぜんな)にいたるための修行しゅぎょう中心ちゅうしんとなるものであり、瞑想めいそう一種いっしゅである。ただし、坐禅ざぜん(の略語りゃくごとしてのぜん)は、あくまでみずからの仏性ぶっしょう前提ぜんていとし、不立文字ふりゅうもんじ後述こうじゅつ)が強調きょうちょうされるなど、禅宗ぜんしゅうおしえにもとづくものを意味いみするもので、そのような前提ぜんていたない一般いっぱん瞑想めいそうマインドフルネスとは区別くべつされる(ちなみにヨーガ (yoga) は、元来がんらい瞑想めいそう中心ちゅうしんとした心身しんしん両面りょうめんにわたる宗教しゅうきょうてきぎょうほうである。)。

宗派しゅうはとしての特徴とくちょう

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禅宗ぜんしゅうは、坐禅ざぜん中心ちゅうしんとした修行しゅぎょうによる解脱げだつくものであるため、そのてんにおいて、自力じりき修行しゅぎょうによる解脱げだつ初期しょき仏教ぶっきょう上座かみざ仏教ぶっきょうとの共通きょうつうせいがある[6]ぎゃくにいえば、修行しゅぎょうつうじたからの解放かいほうくことは、初期しょき仏教ぶっきょう以来いらい仏教ぶっきょう基本きほんてきかんがかたであり、禅宗ぜんしゅうあらたにもたらしたものではない。また、坐禅ざぜんとの呼称こしょうもちいるかはべつとして、仏陀ぶっだ自身じしん瞑想めいそうつうじてさとりをひらいたとされていることをはじめ、初期しょき仏教ぶっきょう以来いらい瞑想めいそう仏道ぶつどう修行しゅぎょう手法しゅほうとして重視じゅうしされてきたもので、坐禅ざぜん修行しゅぎょうれていること自体じたいも、禅宗ぜんしゅう固有こゆう特徴とくちょうとはがたい。

一方いっぽうで、禅宗ぜんしゅうは、あくまで大乗だいじょう仏教ぶっきょう系譜けいふにある。大乗だいじょう仏教ぶっきょうぞくする多様たよう思想しそう宗派しゅうはなかでは、他力たりき救済きゅうさい性格せいかくつよ浄土じょうど信仰しんこう日本にっぽんでは、法然ほうねん親鸞しんらん以来いらい浄土宗じょうどしゅう浄土真宗じょうどしんしゅう割合わりあいおおい)や呪術じゅじゅつてき要素ようそ内包ないほうする法華経ほけきょうなどの経典きょうてん比較ひかくすると、修行しゅぎょうによる自力じりき救済きゅうさい重視じゅうしする側面そくめんにおいて、初期しょき仏教ぶっきょう上座かみざ仏教ぶっきょう近似きんじするという位置いちづけにあるが、思想しそう世界せかいかんとしては、初期しょき仏教ぶっきょう上座かみざ仏教ぶっきょうとのあいだになおちがいがある。たとえば、禅宗ぜんしゅうでは、一切衆生いっさいしゅじょう悉有仏性ぶっしょう(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)、つまり、すべての人間にんげん(や生物せいぶつ、さらに日本にっぽん仏教ぶっきょうでは山川やまかわといった無機むき自然しぜんも)がそもそも仏性ぶっしょうゆうするとかんがえるが、これは大乗だいじょう仏教ぶっきょう思想しそう展開てんかいひがしアジアへの伝播でんぱともなって醸成じょうせいされた世界せかいかんであり、初期しょき仏教ぶっきょう上座かみざ仏教ぶっきょう世界せかいかんとはことなっている[7]。また、禅宗ぜんしゅうでは、清掃せいそうはたけ仕事しごと調理ちょうりなどの労働ろうどう行為こういを「さくつとむ(さむ)」とんで、積極せっきょくてき修行しゅぎょう一部いちぶとするが、このてん初期しょき仏教ぶっきょう上座かみざ仏教ぶっきょうにはられないかんがかたである[8]

そして、禅宗ぜんしゅうでは、達磨だるま四聖しせいとされる不立文字ふりゅうもんじ(ふりゅうもんじ)・きょうがい別伝べつでん(きょうげべつでん)・ちょくゆび人心じんしん(じきしにんしん)・見性成仏けんしょうじょうぶつ(けんしょうじょうぶつ)にあらわれているように、言語げんごてき論理ろんりてき説明せつめい伝達でんたつ不可能ふかのうせい強調きょうちょうし、むしろ、言語げんご論理ろんりによる分別ふんべつさとしをもって煩悩ぼんのうそして原因げんいんとしたうえ坐禅ざぜん中心ちゅうしんとした修行しゅぎょうつうじ、分別ふんべつ智慧ちえ到達とうたつすることを、みずからのうちにある仏性ぶっしょうぜん(ぜんな)の境地きょうちとするてんにも、特色とくしょくがある[9]

ここで、不立文字ふりゅうもんじとは、文字もじ言葉ことばうえには真実しんじつ仏法ぶっぽうがなく、仏祖ぶっそ言葉ことばといえども、解釈かいしゃくによっていかようにもわってしまう[注釈ちゅうしゃく 5]という意味いみであり、言語げんご欠陥けっかんたいする注意ちゅういである。そのため禅宗ぜんしゅうでは中心ちゅうしんてき経典きょうてんてず、きょうがい別伝べつでん[注釈ちゅうしゃく 6]原則げんそくとして師資しし相承そうしょう[注釈ちゅうしゃく 7]重視じゅうしするほか、臨機応変りんきおうへん[注釈ちゅうしゃく 8]以心伝心いしんでんしん方便ほうべんなどにも、宗派しゅうはとしての特徴とくちょうあらわれる。

ただし、達磨だるまおしえとされる二入ふたいりよんぎょうろんが、自己じこ修養しゅうようへのがたとして、修養しゅうようには文章ぶんしょうからところ知識ちしき認識にんしきからはいいれ(りにゅう)と、現実げんじつける実践じっせんからはいくだりいれ(ぎょうにゅう)の2つがあるとしているように、修行しゅぎょう実践じっせん導入どうにゅうなどとして、言語げんごてき論理ろんりてき知識ちしき獲得かくとく有用ゆうようせい一切いっさい否定ひていされているわけではないてんには留意りゅうい必要ひつようである。

釈迦しゃかから開祖かいそ達磨だるま大師だいしまで

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嵩山すせ少林寺しょうりんじ達磨だるま大師だいしぞう

禅宗ぜんしゅうでの血脈けちみゃく相承そうしょう法嗣ほうしぶ。釈迦しゃか以降いこう法嗣ほうしつぎのようにつたえている。

釈迦しゃか訶迦おもねなんしょうかずおさむゆうばばかさひさげ迦-わたるさえぎ迦-ばば須密仏陀ぶっだなんひさげふく馱密ぐり湿しめばくとみよるおごおもね菩底-迦毘とぎ閼剌じゅとぎひさげばば睺羅そうとぎなんひさげ伽耶かやしゃばと-闍夜ばばおさむばんあたま拏羅-づる勒那-獅子じし菩提ぼだいばばしゃ斯多-如密般若はんにゃ菩提ぼだい達磨だるま

マハーカーシャパ訶迦)はバラモン階級かいきゅう出身しゅっしん弟子でしで、釈迦しゃか法嗣ほうしとされる(ほう継承けいしょうしゃ)。拈華微笑ねんげみしょうわれている伝説でんせつが、そうだいぜんせきもんせき』につたわる。

世尊せそんむかし霊山れいざんれい鷲山わしやま、グリドラクータ)かいじょうりて、はなひね(ひね)りてしゅうしめす。ときしゅうみな黙然もくぜんとして、おもんみだ迦葉尊者そんじゃのみ破顔はがんして微笑びしょうす。
世尊せそんうんわれに、せいしき法眼ほうげんぞうにして涅槃ねはんみょうこころ正法しょうぼうぞう涅槃ねはんみょうしん)、実相じっそうそう微妙びみょう法門ほうもんり。文字もじてずきょうがい別伝べつでんし(不立文字ふりゅうもんじきょうがい別伝べつでん)、訶迦しょくす」と。

— 『もんせきだいいちかん世尊せそんひねはな

じゅうはちボーディダルマ菩提ぼだい達磨だるま)(みなみインド出身しゅっしん)が中国ちゅうごくはいり、ぜんおしえをつたえたとされる。達磨だるま中国ちゅうごくぜん始祖しそとなった。

中国ちゅうごくぜん歴史れきし

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黎明れいめい

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菩提ぼだい達磨だるま
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
とし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道信みちのぶ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひろにん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
かみしげる(きたはじめ)
 
としのう(みなみはじめ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
青原あおはらぎょうおもえ
 
南嶽みなみだけふところゆずる
 
 
 
 
 
 
 
 
石頭いしあたままれ
 
うま道一みちかず
 
 
 
 
 
 
 
 

中国ちゅうごくぜん歴史れきしは『けいとく伝灯でんとうろくとう文献ぶんけんにある(※ぜん中国ちゅうごく実際じっさい禅宗ぜんしゅうとして確立かくりつしたのは、東山ひがしやま法門ほうもんばれたよん道信みちのぶ580ねん - 651ねん)、ひろにん601ねん - 674ねん以降いこう[10])。初期しょき法嗣ほうしみぎのようにつたえられる。

きたしゅうみなみむねへの分裂ぶんれつ

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ひろにんには、弟子でし筆頭ひっとうかみしげる606ねん - 706ねん)、その弟弟子おとうとでしとしのう638ねん - 713ねん)というすぐれた2人ふたりがいた。かみしげる修行しゅぎょうつうじて徐々じょじょ悟得ごとくする「ややさとる」を規範きはんとしたのにたいして、としのう一足飛いっそくとびに悟得ごとくする「頓悟とんご[注釈ちゅうしゃく 9]むねとするちがいはあったが、ともに禅宗ぜんしゅう布教ふきょう尽力じんりょくした。やがてかみしげるのり天武てんむきさきまねかれ洛陽らくようはいって破格はかく待遇たいぐうけ、かみしげる死後しご一派いっぱとうだい帝室ていしつかんじん庇護ひご支持しじた。するととしのう弟子でしさわかみかい684ねん - 758ねん)が、かみしげる教義きょうぎを「きたはじめ」とんで批判ひはんしたため、東山ひがしやま法門ほうもんきたしゅうと、かれらのみなみはじめ分裂ぶんれつしてしまう。しかしみなみむね支持しじることができず一時いちじ洛陽らくようから追放ついほうされてしまうが、755ねんはじまる安史やすしらんさいうれ牒(制度せいど)を進言しんげんして粛宗信頼しんらいると、洛陽らくようへの復活ふっかつたして徐々じょじょ信心しんじんあつはじめ、かみしげるわりとしのうろくさだめた。かみかい洛陽らくようさわてら拠点きょてんいたため、みなみはじめさわはじめともばれたが、762ねんかみかいぼっすると求心力きゅうしんりょくうしなった。

845ねんかいあきら5ねん)、たけはじめによるかいあきらはいぼとけ徹底てっていした弾圧だんあつけ、洛陽らくようない南北なんぼくむね廃絶はいぜつしてしまう。しかし、みなみはじめ法嗣ほうしけたおおくの禅僧ぜんそうたちが翌年よくねんたけはじめ死後しご活躍かつやくし、とうだいからそうだいにかけてのちいえななむねばれるまでに隆盛りゅうせいした。現在げんざいつたわるすべての禅宗ぜんしゅうはここから派生はせいしたとされている。

なお、チベット吐蕃)でおこなわれたインド仏教ぶっきょう中国ちゅうごく仏教ぶっきょう宗論しゅうろんであるサムイェーてら宗論しゅうろんにおいて、カマラシーラ蓮華れんげ戒)とう対峙たいじした中国ちゅうごく禅僧ぜんそう訶衍は、きたむねものであったとわれている。また、かみしげる弟子でしであったひろしさび弟子でしみちによって、きたむね日本にっぽんへもつたえられている。

ろくだんけいぜん隆盛りゅうせい

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六祖大師法宝壇経ろくだんけい)』は、かみかいろくとしのうかかげていたあたらしい坐禅ざぜん禅定ぜんじょう定義ていぎとされる。これをもと中国ちゅうごく禅宗ぜんしゅう確立かくりつ発展はってんした。

しゅしめしてうんく、
ぜん知識ちしきよ、なにをかづけて坐禅ざぜんとするや。
此の法門ほうもんちゅうは、さわ無礙むげなり。そと一切いっさい善悪ぜんあく境界きょうかいおいて、こころねんこらざるをづけてすわし、うち自性じしょうどうぜざるをづけてぜんす。
ぜん知識ちしきよ、なにをかづけて禅定ぜんじょうとするや。
そとそうはなれるるをぜんし、うちみだれざるをじょうす。そとわかあいしるれれば、うちこころすなわみだれ、そとそうはなれれば、こころすなわみだれず、本性ほんしょう自浄じじょうじょうなり。
たださかいさかいおもえばすなわみだれるるとす。しょさかいこころみだれざれば、しんじょうなり。
ぜん知識ちしきよ、そとそうはなれるるすなわぜんうちみだれざるすなわじょうなり。そとぜんうちじょうなり。禅定ぜんじょうす。
菩薩戒ぼさつかいけいうんく『わが本元ほんもと自性じしょう清浄せいじょうなり』
ぜん知識ちしきよ、ねんずるときねんちゅうに、みずか本性ほんしょう清浄せいじょうなるをみずかしゅうし、みずかぎょうじ、みずかなりずるが仏道ぶつどうなり。

— 『ろくだんけい坐禅ざぜんだい

さらに『けいとく伝灯でんとうろく』にせる、としのう弟子でし南嶽みなみだけふところゆずる677ねん - 744ねん)とさらにその弟子でしうま道一みちかず709ねん - 788ねん)の逸話いつわによって坐禅ざぜんたいする禅宗ぜんしゅう姿勢しせいあきらかとなる。

ひらけもとなか沙門しゃもんどういちりて伝法でんぼういんじゅうつねにち坐禅ざぜんす。
法器ほうきなるをり、きてう、いわく「大徳だいとく坐禅ざぜんして什麼いんも(いんも、なに)をかはかる」
いち道一みちかずいわく「ふつつくるをはかる」
すなわいち磚(かわら)をりてかれあんまえ石上いしがみおいみがく。
いちいわく「什麼いんもをかさくす」
いわく「みがきてかがみさくす」
いちいわく「磚をみがきてあに(あに)きょうるをんや」
いわく「坐禅ざぜんしてあにふつるをんや」
いちいわく「如何いかすなわなる」
いわく「ひとしゃかざる(とき)のごとし。くるますなわこれか、うしすなわこれか」
いちたいし。
またいわく「なんじ坐禅ざぜんまなぶとすや、すわほとけまなぶとすや。坐禅ざぜんまねべば、ぜん坐臥ざがず。すわほとけまねべば、ふつじょうしょうず。無住むじゅうほうおいて、おう取捨しゅしゃすべからず。なんじすわふつせば、すなわほとけころす。すわしょうさば、たっするにず」
いちしめせ誨(じかい、おしえ)をきて、醍醐だいごごとし。

— 『けいとく傳燈でんとうろくまきだい

この部分ぶぶん中国ちゅうごく禅宗ぜんしゅう要諦ようたいつくされているが、従来じゅうらいてき仏教ぶっきょう瞑想めいそうからおおきく飛躍ひやくしていることがわかる。また一方いっぽうに、禅宗ぜんしゅう釈迦しゃかいちだいきょうせつ誹謗ひぼうするものだ、と非難ひなんするものがいるのも無理むりないことである。しかし、これはあくまでも般若はんにゃ波羅蜜はらみつ実践じっせん思想しそう以前いぜん根本こんぽんから追究ついきゅうした真摯しんし仏教ぶっきょうであり、とうだいからそうだいにかけて禅宗ぜんしゅう興隆こうりゅうきわめたのも事実じじつである。

般若はんにゃ波羅蜜はらみつは、此岸―彼岸ひがんといったこう対立たいりつてきさとし超越ちょうえつすることを意味いみするが、瞑想めいそうによる超越ちょうえつということでなく、中国ちゅうごくぜん祖師そしたちは、こころねんこらぬところ、すなわ概念がいねん分節ぶんせつ以前いぜんのところにかえることを目指めざしたのである。だからその活動かつどうなかでの対話たいわ記録きろくぜん語録ごろく―は、日常にちじょうロゴス立場たちばむと意味いみとおらないのである。

中国ちゅうごくでは老子ろうし開祖かいそとする道教どうきょうとの交流こうりゅうおおかったとおもわれ、老子ろうしおしえと中国ちゅうごくぜん共通きょうつうてんおおい。知識ちしき中心ちゅうしんとしたそれまでの中国ちゅうごく仏教ぶっきょうたいして、知識ちしき瞑想めいそうによるややさとるでなく、頓悟とんご目標もくひょうとした仏教ぶっきょうとしてぜん中国ちゅうごくおおきな発展はってんた。また、禅宗ぜんしゅうではさと伝達でんたつである「伝灯でんとう」がおもんじられ、師匠ししょうから弟子でしへとほうがれてった。

やがて、きたそうだいになると、法眼ほうげんぶんえき提唱ていしょうしたいえ観念かんねん一般いっぱんしていえむね)が成立せいりつした。さらに、臨済宗りんざいしゅうなかから、りゅう楊岐勢力せいりょく伸長しんちょうし、いえかたならべるまでになり、このふくめていえななむね(ごけしちしゅう)という概念がいねんまれた。

さらにぜんは、もはや禅僧ぜんそうのみの占有せんゆうぶつではなかった。ぜん本来ほんらいのもつ能動のうどうせいにより、社会しゃかいとの交渉こうしょう積極せっきょくてきにはたらきかけた。よって、教団きょうだん枠組わくぐみをえ、朱子学しゅしがく陽明学ようめいがくといった儒教じゅきょう哲学てつがくや、漢詩かんしなどの文学ぶんがく水墨すいぼくによる山水さんすい庭園ていえん造立ぞうりゅうなどの美術びじゅつなどの、様々さまざま文化ぶんかてき事象じしょう広範こうはん影響えいきょうあたえた。

としのう以降いこう法嗣ほうし

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としのう以降いこうおも法嗣ほうし系統けいとうは、以下いかとおり。太字ふとじいえななむね

みなみはじめ法嗣ほうし
ろくとしのう
(638-713ねん
曹渓宝林寺ほうりんじ[10]
青原あおはらぎょうおもえ
しょう-740ねん
ぜんだい祖師そし
石頭いしあたままれ
石頭いしあたまむね[10]
南嶽みなみだけふところゆずる
(677-744ねん
ぜんだい祖師そし
うま道一みちかず
ひろししゅうむね[10]
ひゃくたけふところうみ 黄檗おうばくまれうん 臨済げんしょう-867ねん臨済宗りんざいしゅう開祖かいそ
潙山れいゆう
(771-853ねん
仰山ぎょうさんとしさび
(804-890ねん、潙山とともに潙仰むね開祖かいそ
みなみいずみひろしねがい ちょうしゅうしたがえ
さわかみかいさわはじめ開祖かいそ

いえななむね

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臨済宗りんざいしゅう潙仰むねくももんむね曹洞宗そうとうしゅう法眼ほうげんむねいえ[11]禅宗ぜんしゅういえ呼称こしょうし、臨済宗りんざいしゅうからわかれたりゅう楊岐わせてななしゅう呼称こしょうする。それらを併称へいしょうしていえななむね[12](ごけしちしゅう)と呼称こしょうする。

臨済宗りんざいしゅう

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ばんとう臨済げん宗祖しゅうそとするが、とうまつだいにおいては、華北かほく地盤じばんいた臨済宗りんざいしゅうは、よしげん門弟もんていさんひじりとししかきょうそんすすむ以後いご、その宗風しゅうふうはさほどるわなかった。そんすすむ系統けいとうみなみいんとし風穴かざあなのべぬまらが一部いちぶでその法統ほうとう継承けいしょうするにぎなかった。

きたそうだいになって、のべぬま弟子でしくびやましょうねん門下もんか汾陽善昭よしあきこうとしもと璉、石門せきもん蘊聡といったぜんたくみ輩出はいしゅつして、一気いっき宗風しゅうふうるうようになった。善昭よしあき門下もんかいししもすわええん、瑯琊としさとしすわええん門下もんかからは楊岐楊岐かたかいりゅうりゅうとしみなみて、その一門いちもん中国ちゅうごく全土ぜんど制覇せいはすることとなった。

もと高峰たかみねはらたえは、その宗風しゅうふうを「痛快つうかい」という言葉ことば表現ひょうげんしている。

潙仰むね

[編集へんしゅう]

潙山れいゆう仰山ぎょうさんとしさびとする。この系統けいとうじゅうこく荊南みなみとう中心ちゅうしんとしてきょうぜいったが、その次第しだい衰退すいたいし、そうだいにまでつたわることがなかった。

もと高峰たかみねはらたえは、その宗風しゅうふうを「謹厳きんげん」という言葉ことば表現ひょうげんしている。

くももんむね

[編集へんしゅう]

くももんぶんとする。ぶん偃門こうはやしきよしとおほら山守やまもりはつ徳山とくやまゆかりみつなどおおくのしゅんあきらとうまつ一大いちだい勢力せいりょく形成けいせいし、だいまつよりきたそうにかけて、隆盛りゅうせいきわめた。そうだいには、きよしとお系統けいとうからあらわれたゆき竇重あらわ文殊もんじゅおう系統けいとうふつにちちぎりかさ活躍かつやくした。じゅうあらわ門下もんかには、てんころもよしふところた。そのも、ふつしるしりょうもと大梅おおめほうえいらのぜんたくみ輩出はいしゅつし、臨済宗りんざいしゅうとともにもっとも隆昌りゅうしょうきわめたが、みなみそう以後いご次第しだいおとろえ、もとだいにはそのほうけいえ、ひゃくねんほろびることとなった。

もと高峰たかみねはらたえは、その宗風しゅうふうを「こういにしえ」という言葉ことば表現ひょうげんしている。

曹洞宗そうとうしゅう

[編集へんしゅう]

ばんとう洞山ほらやまりょうとする。りょう价、曹山ほんさび系統けいとうは、だいじゅうこく荊南みなみとうむねぜいったが、全体ぜんたいてきにはあまむねぜいるわなかった。ほんさび門下もんかの曹山としかすみ雲居くもいどう膺門どうやすどう丕、うとやまただしじん門下もんかまもる国守くにもりきよしあおりんけん門下もんか石門せきもんけんじ蘊らの活躍かつやくられる程度ていどである。

きたそうだいになっても、あまむねぜいるわなかったが、とうあお中興ちゅうこうたした。その宗風しゅうふうは、芙蓉ふようどう楷、たんかすみじゅん継承けいしょうされた。みち楷は、徽宗皇帝こうていからの紫衣しえ師号しごう下賜かし拒絶きょぜつして、淄州(山東さんとうしょう)に流罪るざいとなり、わざわてんじてぶくとなり、それが華北かほく曹洞宗そうとうしゅう拡大かくだいする契機けいきとなった。

みなみそうだいには、じゅんしたからひろしさとし正覚しょうがく歇清りょうて、「だまあきらぜん」とばれる宗風しゅうふう維持いじしたが、そのむねぜいは、臨済宗りんざいしゅうにはとおおよばなかった。なお、せいりょう門下もんか天童てんどう如浄が、にゅうそうした道元どうげんである。正覚しょうがく門下もんかからは、『ろくうし』をあらわした自得じとくとしあきらた。としあきら系統けいとうが、その曹洞宗そうとうしゅうささえることとなった。

河北かわきたきょうぜいった鹿しかもん自覚じかく系統けいとうからは、きむだいになって、ばんまつ行秀ゆきひで出現しゅつげんし、おおいに教化きょうかるうこととなる。行秀ゆきひでは、林泉りんせんしたがえりんゆきにわぶくひろし耶律すわえざいらのおおくのすぐれた門弟子もんていしそだて、あきらむね尊崇そんすうけた。ぶくひろしは、もとあさにおいて、道教どうきょうちょん真教まさのり道士どうしこころざしつね論争ろんそうして勝利しょうりおさめ、嵩山すせ少林寺しょうりんじじゅうしてきょうぜいった。以後いご少林寺しょうりんじは、華北かほくにおける曹洞宗そうとうしゅう本拠ほんきょとなり、あきら後半こうはんには、「曹洞正宗まさむね」を名乗なのることとなった。

もと高峰たかみねはらたえは、その特色とくしょくを、「細密さいみつ」という言葉ことば表現ひょうげんしている。

法眼ほうげんむね

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いえ観念かんねんはつみなもととなった『宗門しゅうもんじゅうぶんまわしろん』をあらわした法眼ほうげんぶんえきとする。だいじゅうこくでは、えつ国王こくおうぜに一族いちぞくが、えい明道みょうどうせん天台てんだいとくえいあきら延寿えんじゅらの法眼ほうげんむねぞくするそうらを保護ほごしたため、江南こうなん地方ちほうにおいて、そのむねぜいるった。

そうだいになると、とく韶、延寿えんじゅ系統けいとう衰退すいたいした。わって、清涼せいりょうたい欽やかえり宗義しゅうぎやわら系統けいとうが、そのおもとなった。たい欽門からは、雲居くもいどうひとしれいかくれ文勝ふみかつ師弟してい活躍かつやくしたが、次第しだい衰退すいたいかい、ついにきたそうまつには、その系統けいとう断絶だんぜつしてしまった。

もと高峰たかみねはらたえは、その宗風しゅうふうを、「しょうあきら」という言葉ことば表現ひょうげんしている。

日本にっぽんにおける禅宗ぜんしゅう歴史れきし

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日本にっぽんには、公式こうしきには13世紀せいき鎌倉かまくら時代ときよ)につたえられたとされる。また、日本にっぽん天台宗てんだいしゅう宗祖しゅうそ最澄さいちょう近江おうみ国分寺こくぶんじくだりひょう中国ちゅうごくきたむねながれをんでいる。臨済・曹洞のぜん鎌倉かまくら仏教ぶっきょうとしてひろがった。臨済ぜんながれは中国ちゅうごくみなみそうわたった栄西えいさい日本にっぽん請来しょうらいしたことからはじまる。曹洞ぜん道元どうげん中国ちゅうごくわた中国ちゅうごく印可いんか日本にっぽん帰国きこくすることにはじまるが、それ以前いぜん大日だいにち房能ふさよしにん多武峰とうのみね達磨だるまむね(日本にっぽん達磨だるまむね)をひらいていたことられる。曹洞宗そうとうしゅうふところかん義介ぎすけらはもと達磨だるまむね僧侶そうりょであった。

鎌倉かまくら時代じだい以後いご武士ぶし庶民しょみんなどを中心ちゅうしん日本にっぽん仏教ぶっきょうひとつとしてひろまり、各地かくちぜんてら禅宗ぜんしゅう寺院じいん禅林ぜんりん)がてられるようになったのにくわえ、五山ごさん文学ぶんがく水墨すいぼくのように禅僧ぜんそうによる文化ぶんか芸術げいじゅつ活動かつどうさかんにおこなわれた。

中国ちゅうごくから日本にっぽんつたわるぜん宗派しゅうはに25のながれがあり、臨済宗りんざいしゅうから独立どくりつした黄檗宗おうばくしゅうふくめると47りゅうになるとされる。

一方いっぽうで、9世紀せいき平安へいあん時代じだい前期ぜんき)に皇太后こうたいごうたちばなよしみ智子さとこまねかれてとう禅僧ぜんそうむなし来日らいにちし、檀林だんりんてらぜん講義こうぎおこなわれたものの、当時とうじ日本にっぽんにおけるぜんへの関心かんしんひくさに失望しつぼうしてすうねんとう帰国きこくしたとする記録きろく存在そんざいする。

日本にっぽん禅宗ぜんしゅう25りゅう

臨済宗りんざいしゅう

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とう臨済げん宗祖しゅうそとする。日本にっぽんでは中国ちゅうごくから臨済ぜんつたえた栄西えいさいはじまり、そのなんにんかの祖師そしたちが中国ちゅうごくからそれぞれの時代じだい清規しんぎ日本にっぽんつたえたため分派ぶんぱおおい。現在げんざい日本にっぽん臨済宗りんざいしゅう公案こうあんぜんといわれ、江戸えど時代じだいしろかくれがまとめたスタイルである。公案こうあんとは、裁判さいばん公判こうはん記録きろくのことであるが、てんじてぜん語録ごろくとしてつたえられる祖師そしたちの対話たいわをいうようになった。それぞれの判例はんれい一則かずのりのりかぞえる。その対話たいわることによりさとろうとする。公案こうあん論理ろんりてき思考しこうによって理解りかいすることができない内容ないようおおい。

臨済宗りんざいしゅうのなかでは、妙心寺みょうしんじ最大さいだいである。江戸えど時代じだいそうまなぶ発達はったつし、ちょどうただし1653ねん - 1744ねん)があらわれ、しょほん校訂こうていし、綿密めんみつきわめた手法しゅほう確立かくりつし、膨大ぼうだい著述ちょじゅつのこした。その著書ちょしょは、きん現代げんだいにおいても研究けんきゅうじょう価値かちうしなわない水準すいじゅんゆうしており、影印えいいんばん実用じつようしょとして出版しゅっぱんされている。

曹洞宗そうとうしゅう

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以下いか曹洞宗そうとうしゅうほうけいいちれいである。

釈迦しゃか-(中略ちゅうりゃく)-大鑑たいかんとしのう青原あおはらぎょうおもえ石頭いしあたままれやくやまおもんみげんくもいわおくもりあきら洞山ほらやまりょう雲居くもいどう膺-どうやすどう丕-どうやすかんこころざしやなさんえんかんだい警玄-とうよしあお芙蓉ふようどう楷-たんかすみじゅん歇清りょう天童てんどうはじめ玨-ゆき竇智かん天童てんどう如浄えいひら道元どうげんくもふところてっどおり義介ぎすけ瑩山紹瑾-...

ろく曹渓としのう洞山ほらやまりょうから曹洞宗そうとうしゅうとした。日本にっぽんでは中国ちゅうごくわた印可いんか1226ねん帰国きこくした道元どうげんからはじまる。帰国きこく翌年よくねんにはひろしすすむ坐禅ざぜんあらわし、只管ひたすらすわせんらとする宗風しゅうふう鼓舞こぶした。その修行しゅぎょう内容ないようは「えいたいら清規しんぎ」をきびしくまもり、一時いちじてき見性けんしょう満足まんぞくしてしまうことや坐禅ざぜんほかさともとめることをしとせず、只管ひたすら坐禅ざぜんつとめることに特色とくしょくがある。

道元どうげん自分じぶんおしえは「正伝せいでん仏法ぶっぽう」であるとして党派とうはせい否定ひていし、禅宗ぜんしゅうばれることもきらった。

初期しょき在家ありいえへの布教ふきょうにも熱心ねっしんであったが、晩年ばんねん出家しゅっけだいいち主義しゅぎ立場たちばった(『せい法眼ほうげんぞうじゅうかんほん参照さんしょう)。その總持寺そうじじ開山かいさん瑩山時代じだいに、坐禅ざぜんだけではなく、徐々じょじょ儀式ぎしき密教みっきょうかんがかたれられ、一般いっぱん民衆みんしゅうたい全国ぜんこくてき急速きゅうそく拡大かくだいをした。

曹洞宗そうとうしゅう坐禅ざぜん公案こうあんらず、ただ、ひたすらすわる(只管ひたすらすわ)ことが、そのまま本来ほんらい自己じこげんじている(おさむしょう不二ふじ)としているが、公案こうあんそのものを否定ひていしているわけではない。また、ほうけいによっては公案こうあんもちいるながれも存在そんざいする。

むね

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9世紀せいき臨済ろく登場とうじょうするちなはじまる。についての記録きろくはほとんどない。きょたく尺八しゃくはち)をきながらたびをする虚無僧こむそう有名ゆうめい日本にっぽんから中国ちゅうごくわたった法燈ほうとう国師こくしが、中国ちゅうごくむね16代目だいめちょうさん弟子でしりし、1254ねん帰国きこくすることで、日本にっぽんつたわった。本山ほんざんいちがつてら現在げんざい千葉ちばけん松戸まつど)にかれていた。

江戸えど時代じだい幕府ばくふにより組織そしきされたが、江戸えど幕府ばくふとのつながりがつよかったため、明治めいじになって1871ねん明治めいじ政府せいふにより解体かいたいされた。宗派しゅうはとしてはうしなわれ、臨済宗りんざいしゅう編入へんにゅうされた(ちなみにいちがつてら現在げんざい日蓮にちれん正宗まさむねぞくする)。しかし、尺八しゃくはちきょたく師匠ししょうとしてそのしつつたえるながれが現在げんざいつたわっている。

黄檗宗おうばくしゅう

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1654ねん江戸えど時代じだい)に、あかりからまねかれた中国ちゅうごく臨済宗りんざいしゅう隠元いんげんたかし禅師ぜんじによりはじまる。当初とうしょ臨済真宗しんしゅう」を標榜ひょうぼうしようとしたが幕府ばくふ許可きょかられず、臨済の黄檗おうばくまれうん臨済宗りんざいしゅう黄檗おうばくしょうした。明朝みょうちょうふうぜん念仏ねんぶつ一体化いったいかしたぜんきよし混淆こんこうぜん(かりやすく「念仏ねんぶつぜん」ともしょうされる。)を特徴とくちょうとし、読経どきょう楽器がっきともなあかりふう梵唄ぼんばいであることでられる。また、1663ねん萬福寺まんぷくじもうけられた戒壇かいだんをはじめ、各地かくち授戒じゅかいかいひらいたことで、江戸えど時代じだい戒律かいりつ復興ふっこう運動うんどう影響えいきょうあたえた。江戸えど時代じだいつうじていちむねとして做されることなく、臨済宗りんざいしゅう一派いっぱ終始しゅうしした。黄檗宗おうばくしゅう名乗なのり、臨済宗りんざいしゅうから独立どくりつたしたのは、明治維新めいじいしん1876ねんのことであり、明治めいじ以後いご禅宗ぜんしゅうちゅういちむねとなった。

禅宗ぜんしゅう坐禅ざぜんにおける禅定ぜんじょう種類しゅるい

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栄西えいさいは『きょうぜん護国ごこくろん』で『楞伽けい』をいて坐禅ざぜんよん種類しゅるいあるといている。

おっと所行しょぎょうぜん
凡夫ぼんぷ外道げどう[注釈ちゅうしゃく 10]が、たんしんをカラにして分別ふんべつしょうじないのを禅定ぜんじょうだとおもっている境地きょうち達磨だるま大師だいしは、内心ないしんもだえることなくそともとめることもないこの境地きょうちかべのように[注釈ちゅうしゃく 11]うごかなくなれば、そこではじめて仏道ぶつどうはいることができるとく。
観察かんさつしょうぜん
小乗しょうじょうさんけん菩薩ぼさつが、おそわった仏法ぶっぽう観察かんさつ思惟しいする境地きょうち。しかし、いまだ仏法ぶっぽう涅槃ねはんもとめるつよ欲心よくしんがあるがためにさとりをけないでいる。人々ひとびとがいつまでもくるしみの輪廻りんねのがれられないのは、このようににとらわれて自分じぶんさえよければと欲求よっきゅうすることが、結果けっかてき罪業ざいごう[注釈ちゅうしゃく 12]つく結果けっかとなるからである。ゆめまど国師こくしは、もし自分じぶんわす一切いっさいよくてて利他りたしんこせば、すぐさま仏性ぶっしょう発揮はっきされて、ぼとけになることができるとく。
よじえん如実にょじつぜん
大乗だいじょう菩薩ぼさつが、中道ちゅうどうさとって三業さんぎょう[注釈ちゅうしゃく 13]わすれ、るでもなしそらでもなしと達観たっかんする境地きょうちきとしけるものすべての生滅しょうめつくるしみに同情どうじょうし、くるしみをいてらくあたえるべく苦慮くりょしており、その姿勢しせいにはもはや自他じた区別くべつがない。しかし衆生しゅじょうすくねがいがあるがために如来にょらい清浄せいじょうぜんはいることができない[注釈ちゅうしゃく 14]
如来にょらい清浄せいじょうぜん
如来にょらいおな境地きょうちはいり、みずからさとってせいなる智慧ちえあらわれたすがた。禅宗ぜんしゅうで、坐禅ざぜんによって本分ほんぶん田地でんち本来ほんらい仏性ぶっしょうらずらずにかえるというのは、前記ぜんきぜんえ、おっと所行しょぎょうぜんからじかにこのくらいたっすることを意味いみする。それゆえ如来にょらいじゅうごう菩薩ぼさつじゅう枝葉えだは末節まっせつであるとされる。

また、おっと所行しょぎょうぜんから如来にょらい清浄せいじょうぜんいたるまでの上達じょうたつ様子ようすについては『てつ禅師ぜんじかり法語ほうご』にくわしい。

方便ほうべん

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方便ほうべん法輪ほうりん日本にっぽんぜんでは、仏祖ぶっそ禅師ぜんじ本意ほんいではないものの、本意ほんいつたえる手段しゅだんとなりうるという意味いみ方便ほうべんという。またいかにすれば仏性ぶっしょう発現はつげんできるかを模索もさくする、柔軟じゅうなん心構こころがまえをいう。きょうむねまなべ真言宗しんごんしゅうさんみつりつむね戒律かいりつのようなものである。

只管ひたすらすわ(しかんたざ)
ただひたすらに坐禅ざぜん実践じっせんせよの意味いみ。ひたすらとは禅定ぜんじょうふかさを表現ひょうげんした言葉ことばである。意識いしきてて無意識むいしきにおいて坐禅ざぜんする[注釈ちゅうしゃく 15]坐禅ざぜんそのものになりきることを意味いみする。いま坐禅ざぜんしている自分じぶんがいる、という自覚じかくすらわすれてしまうほどに、坐禅ざぜんという行為こういそのものに没頭ぼっとうする(すわ忘)。この手法しゅほうによって初心者しょしんしゃでも、よりふか禅定ぜんじょう境地きょうちを、容易ようい体験たいけん可能かのうであるとされる。
ただ、禅宗ぜんしゅう臨機応変りんきおうへんであり、大乗だいじょう仏教ぶっきょうはあらゆるみち仏道ぶつどうふくまれているとかんがえるので、坐禅ざぜん以外いがいのことはしてはならないということはないが、このようなことは初心者しょしんしゃには理解りかいおよばず、そのために初心者しょしんしゃけの方便ほうべんとして只管ひたすらすわ[注釈ちゅうしゃく 16]おさむしょう一如いちにょ[注釈ちゅうしゃく 17]こそが禅宗ぜんしゅう極意ごくいであるということがわれる。坐禅ざぜん境地きょうちには上下じょうげなく、坐禅ざぜんすればひとしくほとけであるというかつも、只管ひたすらすわ奨励しょうれいする一種いっしゅ暗喩あんゆてき方便ほうべんである。
ただしこんさとりをけずとも、坐禅ざぜん功徳くどくによって来世らいせではさとりをひらことができるとされるため、坐禅ざぜんをすればそのままただちにほとけである(坐禅ざぜんしなければいつまでもほとけにはなれない)という意味いみどおりの解釈かいしゃく間違まちがいではない。仏道ぶつどう成就じょうじゅはやおそいについて達磨だるまいわく、しんがすでにみちであるものはやく、こころざしはっして順々じゅんじゅん修行しゅぎょうかさねるひとおそく、両者りょうしゃにはひゃくせんまんこうもの時間じかんがあるという。ふかただしく坐禅ざぜんするものはやく、しなければおそいという意味いみ一連いちれんかつは、学習がくしゅうよりも坐禅ざぜん実践じっせん強調きょうちょうする表現ひょうげん手法しゅほうである。
公案こうあんぜん(こうあんぜん)
達磨だるま大師だいし西にしからたびをして理由りゆうは、国外こくがい仏教ぶっきょうおとろえをうれえて、さとるために重要じゅうようなものが坐禅ざぜん実践じっせんであり、経典きょうてん学習がくしゅうではないことを宣教せんきょうするためであるとされる。しかし、ひとまず思考しこう議論ぎろん学習がくしゅうめよとおしえても、なぜめねばならないかについて思考しこう議論ぎろん学習がくしゅうはじめてしまうような思考しこうへきのある修行しゅぎょうしゃにとって、只管ひたすらすわ至難しなん方法ほうほうとなる。
そのような修行しゅぎょうしゃは、いかなる経典きょうてんまなぶとも、さとりというものの共感きょうかんられないために、想像そうぞうをふくらませて解釈かいしゃくしようとする。無理むり想像そうぞう妄想もうそうとなって理解りかいゆがみをしょうじ、みずかした曲解きょっかいさまたげられてますますさとりからとおのくという事態じたいは、むかしからおおくの師家しかなやませてきた。経典きょうてんまなぶにしても、まなしゅ必要ひつようなものはまずさとりの体験たいけんである。さとりというものは自分じぶんしん自分じぶんしん確認かくにんし、自分じぶんしん自分じぶんしん理解りかいするものである。他人たにんたよってなにかをあきらかにするとか、自分じぶん以外いがいなにかを利用りようして体得たいとくするようなものではない。
したがって、さとるためにはなによりもまず坐禅ざぜん実践じっせんによって自分じぶん自身じしんうことが肝要かんようである。こうした問題もんだい意識いしきから、思考しこうへきのあるさと修行しゅぎょうしゃ坐禅ざぜん実践じっせんさせるために、禅師ぜんじたちがかんがした方法ほうほう公案こうあんぜんである。修行しゅぎょうしゃ公案こうあんあたえ、行住坐臥ぎょうじゅうざがつねに公案こうあんこたえをかんがえさせるのである。
公案こうあん
公案こうあんじかさとりの境地きょうちししたものであり、ひらめきと一体化いったいかしたいいあらわせない感情かんじょうてきなものである。こころがけがよくなく、このままではまちがった方向ほうこうすすむおそれのある修行しゅぎょうしゃ[注釈ちゅうしゃく 18]たいして、師家しかくすりのような意味合いみあいで修行しゅぎょうしゃさづける。
内容ないようは、むかし高僧こうそう言葉ことば使つかうこともあれば、即興そっきょうつくられることもある。公案こうあんあたえられた修行しゅぎょうしゃは、その言葉ことばがどのような本意ほんいから創造そうぞうされたかをまさしくさとって、師家しかまえしんもっ回答かいとうすることを要求ようきゅうされる。公案こうあんおおくが自己じこ矛盾むじゅんてき文体ぶんたいしており、そのまま意味いみ理解りかいしようとしても論理ろんりてき破綻はたんする場合ばあいおおい。公案こうあんこたえは常識じょうしきてき思考しこうとどかないところにあり、自己じこることで矛盾むじゅん解消かいしょうしたり、矛盾むじゅん止揚しようして高次こうじ段階だんかい統一とういつしたものである場合ばあいおおい。そういったこたえにいた過程かていぜん極意ごくいふくまれているとし、修行しゅぎょうしゃただしいさとりにみちびくための工夫くふうひとつとされる。
ただし、このような学習がくしゅうてて坐禅ざぜんさせるという方法ほうほうは、師家しか善良ぜんりょう監督かんとくにあって庇護ひごけることができる出家しゅっけ僧侶そうりょけたものであり、在家ありいえ信者しんじゃ坐禅ざぜん学習がくしゅう両方りょうほうおこな必要ひつようがあるとされる。
内観ないかん
ぜん修行しゅぎょうきびしく、師家しかのほうでもえてぜんじんくるしめるのは、富貴ふうき安穏あんのんであれば仏道ぶつどうもとめることが困難こんなんだからである。釈迦しゃか王位おういいてひめ歓楽かんらくふけり、国中くになか財産ざいさんあつめた贅沢ぜいたく三昧ざんまい生活せいかつを、みずかてて出家しゅっけしてろく年間ねんかん苦行くぎょうをしたのも、このような理由りゆうであるとされる。
不意ふいやまいにかかり、うしなってんだほうがましだとおもうような病苦びょうくなかにあるときこそ必死ひっし坐禅ざぜんすれば、またとない大悟たいご機会きかいとなる。たとえ大悟たいごられなくとも、そのときくるしみをおもかえせば多少たしょう生活せいかつくるしみはるにりなくなる。また、無始無終むしむしゅう生死せいしまよいを打破だはし、如来にょらいさとりに徹底てっていするような、めでたいことすこしばかりの艱難辛苦かんなんしんくなしには、られるものではないという覚悟かくごが、必要ひつようであるとされる。
とはいえ参禅さんぜん限度げんどえて神経しんけい衰弱すいじゃくくるしみにある修行しゅぎょうしゃかねたしろかくれ禅師ぜんじが、その治療ちりょう方法ほうほうとしての内観ないかん秘法ひほう伝授でんじゅした。神経しんけい衰弱すいじゃくからぜんびょうなおすための心身しんしん休養きゅうよう方法ほうほうであり、心身しんしんがもとより空虚くうきょなものであることを体験たいけんするために、24あいだ睡眠すいみん禅宗ぜんしゅうてきなイメージトレーニングとすういきかん丹田たんでん呼吸こきゅうおこなう。
二入ふたいりよんぎょう
達磨だるまつたえたとされるふたつの真理しんりへのいたかたと、よっつの実践じっせん方法ほうほうさといた方法ほうほう数多かずおおくあるが、それらはすべてこのふたつに要約ようやくされるとする。

霊魂れいこん精神せいしん永遠えいえんせい小我しょうが)の否定ひてい

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禅宗ぜんしゅうとくには臨済宗りんざいしゅう)では肉体にくたい精神せいしんとは同一どういつのものとかんがえ、区別くべつをしない。肉体にくたいがあるから精神せいしんもありうるのであり、精神せいしんがあるというならばそこには発生はっせい原因げんいんとして肉体にくたいがなければならない。そのような意味いみで、肉体にくたいがそのまま精神せいしんであり、精神せいしん肉体にくたいである。もし死体したいて、肉体にくたいほろんだが精神せいしんはどこかへ移動いどうして不滅ふめつのままのこっているとかんがえるならば、これは大乗だいじょう仏教ぶっきょうではない。霊魂れいこん存在そんざいみとめるとなまかんするふか執着しゅうちゃく発生はっせいするため、仏道ぶつどう成就じょうじゅ阻害そがいするとされる。

禅宗ぜんしゅうでは、しんというものは刻一刻こくいっこく変化へんかしており、これこそしんであるといえるような一定いってい形態けいたいたないとかんがえる。したがってこのしんじつまぼろししんである。このてんでは肉体にくたいについても同様どうようのことがえ、肉体にくたいだとおもっているものはじつ物質ぶっしつえんによって和合わごうしてかり人間にんげんのすがたがあらわれたものにすぎず(=五蘊ごうんかり和合わごう)、えんほろときには元通もとどおりバラバラになるためまったく実体じったいがない。したがって心身しんしんはもとよりひとつのまぼろしである[注釈ちゅうしゃく 19]まぼろしだから、きたりんだりするものではない。きたりんだりしないから、常住じょうじゅう不滅ふめつである[注釈ちゅうしゃく 20]

もしさとった禅僧ぜんそうが、心身しんしん一如いちにょであり肉体にくたい精神せいしん不滅ふめつであるというならば、これは仏性ぶっしょうじきしたおくふか説法せっぽうであるといえる(無常むじょうかつ: 諸行無常しょぎょうむじょう 生滅しょうめつほう 生滅しょうめつめつやめ 寂滅じゃくめつためらく)。

日本にっぽん文化ぶんかへの影響えいきょう

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日本にっぽんはいってきたぜん宗教しゅうきょうかん在来ざいらいしょ文化ぶんか多大ただいなる影響えいきょうあたえ、日本人にっぽんじん気質きしつ日本にっぽん風土ふうど融合ゆうごうし、独自どくじ発展はってんげていった。

華美かびこのまず、極力きょくりょく装飾そうしょく無駄むだはいするミニマリズムもとづく様式ようしきで、鎌倉かまくら文化ぶんかからその影響えいきょうられはじめ、室町むろまち文化ぶんかなかでも東山ひがしやま文化ぶんか)となって、国風くにぶり文化ぶんかによりまれた日本にっぽん文化ぶんか和様わよう)と完全かんぜん融合ゆうごうし、独自どくじせい確立かくりつした[13]。また江戸えど時代じだいにかけて、ぜん武家ぶけなどにかぎられたものから一般いっぱん庶民しょみんにまで普及ふきゅうし、鎖国さこく政策せいさくあいまって、その文化ぶんかとしての独自どくじせい定着ていちゃくしていった。ぜん受容じゅようは、武家ぶけ文化ぶんか発展はってんとともにあり、それは武士ぶし生活せいかつ様式ようしき精神せいしんせい根幹こんかんひとつが、ぜんであったことをしめしている。

ぜん芸術げいじゅつつくられたのはぜんてらにおいてであったが、こと室町むろまち時代じだいにおいては、ぜんてら中国ちゅうごく文化ぶんか窓口まどぐちとしても機能きのうしていた[14]そうもとあかり由来ゆらいぜん世俗せぞく美術びじゅつ受容じゅよう禅僧ぜんそうつうじておこなわれ、水墨すいぼく枯山水かれさんすい茶道さどう華道かどうといった、いわゆる日本にっぽん文化ぶんか代表だいひょうてき部分ぶぶん形成けいせいされることとなった。たとえば、京都きょうと相国寺しょうこくじからは、如拙しゅうぶん雪舟せっしゅうといったそう輩出はいしゅつされている。また、ぜんてら禅僧ぜんそう公家くげ武士ぶし交流こうりゅうするサロンとしての役割やくわりたしたことで、寺院じいん付属ふぞくする書院しょいん庭園ていえん美術びじゅつ発達はったつした。この分野ぶんやでは、臨済宗りんざいしゅう僧侶そうりょゆめまどうとせき多大ただい役割やくわりたしている[15]

なお中国ちゅうごく文化ぶんかにおいてぜんは、前項ぜんこうにも関連かんれんするが、あきら時代じだい以降いこう衰退すいたいや、元来がんらい民族みんぞく国家こっかという機構きこう、また近代きんだい列強れっきょうによる支配しはい戦後せんご文化ぶんかだい革命かくめいなどによって、文化ぶんか浄化じょうかつね一定いってい期間きかん発生はっせいし、人々ひとびと生活せいかつ根強ねづよ定着ていちゃくすることはなかった(この傾向けいこうぜんかぎらない)[よう出典しゅってん]鈴木すずき大拙だいせつが1938ねんに『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture(ぜん日本にっぽん文化ぶんか)』とだいして世界せかいぜんひろめたことや、実際じっさい日本にっぽん以上いじょうぜん文化ぶんかとして吸収きゅうしゅうしたくににないため、ぜん日本にっぽん宗教しゅうきょうとしてとらえているものすくなくない。

近年きんねんでも世界せかいてきぜん思想しそう許容きょようされる要因よういんには、「宗教しゅうきょうらしくない」そのシンプルさや自由じゆうたかさがげられている[16]

美術びじゅつ芸術げいじゅつ

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枯山水かれさんすい京都きょうと龍安寺りゅうあんじ石庭いしにわ
松林まつばやし屏風びょうぶ』(長谷川はせがわ等伯とうはくさく

絵画かいがとして水墨すいぼく施設しせつとして枯山水かれさんすいをはじめとする日本にっぽん庭園ていえん趣味しゅみ嗜好しこうひん置物おきものとして盆栽ぼんさいだるまなどがある。伝統でんとう工芸こうげいひんには、彫刻ちょうこく陶磁器とうじき竹細工たけざいく日本にっぽんがたなこしらえなどにぜん影響えいきょうられる。

建築けんちく

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京都きょうと慈照寺じしょうじ銀閣寺ぎんかくじ
数寄屋造すきやづくりきゅう松江まつえ藩士はんし武家ぶけ屋敷やしき

寺院じいんとして禅宗ぜんしゅうさま住宅じゅうたくとして書院造しょいんづくり数寄屋造すきやづく茶室ちゃしつ)などがある。禅宗ぜんしゅうさまみなみそう建築けんちく様式ようしきれながら成立せいりつした[17]。この様式ようしきは、おなじく鎌倉かまくら時代じだいつたわっただい仏様ほとけさまとともに、後世こうせい日本にっぽんにおける伝統でんとう建築けんちくおおきな影響えいきょうあたえた。書院造しょいんづくり数寄屋造すきやづくりは、現代げんだい和風わふう住宅じゅうたく和室わしつ様式ようしき確立かくりつさせた。

江戸えど時代じだいの臨済そうちょどうただしは、『禅林ぜんりんぞう箋』において、七堂伽藍しちどうがらん人間にんげん身体しんたいの7つの部位ぶい対応たいおうしていると説明せつめいしている[18]

しょく

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日本にっぽんちゃ和菓子わがし

精進しょうじん料理りょうり懐石かいせき料理りょうりなどがあり、日本にっぽん料理りょうり確立かくりつ貢献こうけんした。なかでも日本人にっぽんじん現代げんだいでももっとこのんでんでいる日本にっぽんちゃは、ぜんによる影響えいきょう多大ただいであり、それに付随ふずいして饅頭まんじゅうをはじめとする和菓子わがし確立かくりつ発展はってんした。

服飾ふくしょく

[編集へんしゅう]

僧衣そういから派生はせいしたが、とく衣服いふく生地きじ趣味しゅみにその影響えいきょうられる。江戸えど時代じだいには、幕府ばくふによって服装ふくそう華美かびなものが規制きせいされるほどであった(奢侈しゃし禁止きんしれい)。いろ無地むじ江戸えど小紋こもんなどが著名ちょめいである。近代きんだいではさくつとむころもに、またユニクロ無印むじるし良品りょうひんスティーブ・ジョブズ服装ふくそう代表だいひょうされるノームコアなどにも同様どうよう影響えいきょうられる。

芸道げいどう

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茶道さどう
居合いあいどう

茶道さどうをはじめ、書道しょどう能楽のうがく邦楽ほうがくなど、あらゆる分野ぶんやにその影響えいきょうられる。とく芸道げいどう根幹こんかんをなす「かたち」(かた)は、ぜん思想しそうからまれたともされる。ぜん楽器がっきとして、虚無僧こむそうとのつながりから尺八しゃくはちがある。

ぜん元来がんらいより武術ぶじゅつとの関係かんけいふかく、中国ちゅうごくではぜん発祥はっしょうともわれる嵩山すせ少林寺しょうりんじでのしょうはやしけん有名ゆうめいである。また日本にっぽんでは、ぜん芸道げいどうとしての武道ぶどう成立せいりつ寄与きよした。これは、ぜんがはじめてつたえられた時期じき武家ぶけ政治せいじおもて舞台ぶたいつようになった鎌倉かまくら時代じだいであったことと、かれ武士ぶし精神せいしん状況じょうきょう相性あいしょうかったことが背景はいけいにあった[19]中世ちゅうせい以前いぜんからつづいていた武術ぶじゅつ武道ぶどう)には、香取かとり神宮じんぐう鹿島かしま神宮じんぐう代表だいひょうされる神道しんとう根源こんげんくものもすくなくないが、ぜん影響えいきょうもそれとおなじほど多大ただいである。れいとして、剣豪けんごう上泉かみいずみ信綱のぶつな柳生やぎゅう宗厳むねよし武術ぶじゅつまな意義いぎとしてぜん「刹人がたなかつじんけん」をもちいたり、禅僧ぜんそう沢庵たくあん宗彭そうほう著書ちょしょ不動ふどうさとし神妙しんみょうろく』において「けんぜん一致いっち」をくなどしている。また岐阜ぎふけん大仙だいせんてら)と山形やまがたけんがまさわ大明神だいみょうじん)には、それぞれ剣豪けんごう宮本みやもと武蔵むさし居合いあいじゅつ始祖しそ林崎はやしざき甚助じんすけ座禅ざぜんしたとされるいし座禅ざぜんせき」が現存げんそんしている。近年きんねんでは、ドイツ哲学てつがくしゃオイゲン・ヘリゲル著書ちょしょZen in der Kunst des Bogenschießensゆみぜん)』を執筆しっぴつし、弓術きゅうじゅつ弓道きゅうどう)とぜん関連かんれんづけて、世界せかいつたえた。

美意識びいしき

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幽玄ゆうげんしぶなどがある。武士ぶしどう成立せいりつにも多大ただい影響えいきょうあたえた。またいき(いき)やつう(つう)といった、外見がいけんてきには質素しっそさをもとめ、内面ないめんたいしてこだわりをもとめるような美意識びいしきも、ぜん影響えいきょうがあるとわれる。

心理しんり療法りょうほう

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世界せかいぜん

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ぜんしゃでもある仏教ぶっきょう学者がくしゃ鈴木すずき大拙だいせつによって20世紀せいき日本にっぽんからアメリカヨーロッパへとぜん紹介しょうかいされた。さらにはサンフランシスコぜんセンターひらけそうした鈴木すずき俊隆としたかによるZen Mind, Beginner's Mind や、弟子でしまるやすしせんによってヨーロッパでの布教ふきょうにより、日本語にほんご発音はつおんによる Zen が世界せかいてきひろまり、臨済宗りんざいしゅう曹洞宗そうとうしゅうどもにアメリカやヨーロッパに寺院じいんかまえている。

近年きんねんにおいて

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現在げんざい[いつ?]ベルギーではセクト(カルト)にかんする報告ほうこくしょ政府せいふ文書ぶんしょによりぜん浄土真宗じょうどしんしゅう上座かみざ仏教ぶっきょう同時どうじセクト(カルト)のひとつとして分類ぶんるいされている。1997ねんフランスドイツオーストリアつづき、セクト(カルト)にたいする政策せいさくつくるためベルギー代議だいぎいん社会しゃかい正義せいぎ委員いいんかい審理しんり委員いいんかいもうけられた。どう委員いいんかい作成さくせいした、670ページにわたる報告ほうこくしょげられた189の運動うんどうなかぜんふくまれている。ただし、「このリストにっている事実じじつは、公訴こうそ調査ちょうさちゅうであったとしても、とう委員いいんかいがその運動うんどうをカルトと做しているとは意味いみしない」ともしるされている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ りょうよし(りょうぎ)。わかりやすくくずしたり表現ひょうげんえるようなことをせず、完全かんぜん明白めいはくかれたおしえ。『涅槃ねはんけい』のよんしなには、末代まつだいひとりょうによるべきであり、りょうによってはならないとある。
  2. ^ 棄悪(きあく)。しんせいしきはたらきをおおかくすような一切いっさいあく
  3. ^ 功徳くどく叢林そうりん(くどくそうりん)。しゅうとくのあつまること叢林そうりんのようである。
  4. ^ ねんおさむ(ねんしゅう)。おさむ習得しゅうとくすること。習得しゅうとくしてられるものは棄悪・功徳くどく叢林そうりんである。
  5. ^ さとりは文字もじによってることはできないとはいえ、沈黙ちんもくによってもることができないとされるため、一切いっさい説明せつめいおこなわないということはなく、臨機応変りんきおうへん方便ほうべんとして様々さまざま方法ほうほうかれる。
  6. ^ きょうがい別伝べつでん(きょうげべつでん)。人格じんかく相伝そうでんすること。文字もじ言葉ことばのこ以外いがいにも、禅師ぜんじぜん人格じんかくをそのまま弟子でしつたえることが重要じゅうようであるとされる。
  7. ^ 師資しし相承そうしょう(ししそうしょう)。さとりの機微きびから弟子でしへとぐべきものであり、それがほうみゃくとなって後世こうせい人々ひとびとすくう。きたふつとしてのこるため個別こべつのケースにおうじた柔軟じゅうなん指導しどう可能かのうとなる。そのため固定こてい戒律かいりつたず、固定こてい修行しゅぎょう方法ほうほうたず、特別とくべつ本尊ほんぞんさだめることもなく、かなら出家しゅっけしなければならないというようなまったかたちもない。
  8. ^ 臨機応変りんきおうへん(りんきおうへん)。たとえば、あまりに経典きょうてん大切たいせつにしすぎるひとには、せい法眼ほうげんぞう世尊せそんひねはな真実しんじつさとりかられば寝言ねごとのようなものであるといっててさせたり、あまりに経典きょうてんかるんじすぎるひとには読経どきょうすすめたりといったことである。
  9. ^ じつは『ろくだんけい』にとしのうは「本来ほんらい正教せいきょうゆうひたすらややただしいおしえに本来ほんらいひたぶるややもない)」といている。したがって差異さいがあると主張しゅちょうしていたのはかみかいである。
  10. ^ 外道げどうとは仏教ぶっきょう以外いがい宗教しゅうきょうしゃのこと
  11. ^ かべは、そとから妄念もうねんから内心ないしんまもへだてるもののたとえである。のちになって、物質ぶっしつてき本物ほんものかべ意味いみほぐされたが、これはあやまりであろう。(柳田やなぎだきよしさん達磨だるま語録ごろく』P51)
  12. ^ 身口意しんくい三業さんぎょう(しんくいのさんごう)。みだりにころすこと、ぬすむこと、おかすこと、ののしること、だますこと、綺語きごうこと、詭弁きべんうこと、むさぼること、おこること、よこしまなことの十悪じゅうあく
  13. ^ 身口意しんくい三業さんぎょう来世らいせ生存せいぞんごう因縁いんねんとして決定けっていする。悪業あくごうかぎらず、ぜんぎょうであっても善果ぜんかとしての来世らいせ決定けっていしてしまうため、輪廻りんねのがれることができない。そのため善悪ぜんあくそのものをはなれてしまうことが重視じゅうしされる。そして苦楽くらく生死せいしについても同様どうように、とらわれないことを重視じゅうしする。生死せいしにとらわれなければ、輪廻りんねもまた消滅しょうめつするので、すべてが寂滅じゃくめつした世界せかいかんける、というような意味いみである。しかし、このようにまなんだだけで実感じっかんともなったさとりにいたひとはまれである。それゆえ禅宗ぜんしゅうでははなしをせず、一切いっさいげすててさとりの本分ほんぶん直行ちょっこうさせるためにきょうがい別伝べつでんおこなう。
  14. ^ 禅宗ぜんしゅう以外いがい仏教ぶっきょう宗派しゅうはでは衆生しゅじょう成仏じょうぶつさせきってからみずからが成仏じょうぶつするのが菩薩ぼさつであるとされるが、禅宗ぜんしゅうではさきみずからが成仏じょうぶつして如来にょらいとなってから衆生しゅじょうみちびくことをうたう。この両者りょうしゃ手段しゅだんちがっているだけで、衆生しゅじょう済度さいどしようという目的もくてきおなじであるため、どちらが間違まちがっているということはない。もしこの両者りょうしゃについて正誤せいごにとらわれるものがあるならば、かれ自分じぶん自身じしん小乗しょうじょうおちいっていないかかえりみる必要ひつようがあるとする。
  15. ^ 睡眠すいみんちゅう無意識むいしきではあるが、ねむりという無明むみょう付着ふちゃくしているためにゆめ一喜一憂いっきいちゆうする。理法りほう目覚めざめながら目覚めざめる対象たいしょうにとらわれないのがほとけである。
  16. ^ 只管ひたすらすわ(しかんたざ)。真実しんじつ只管ひたすらすわたんなる無念むねん無想むそう無意識むいしきというようなものではなく、意識いしきがあるでもなくないでもなく、無念むねんでもゆうねんでもなくて、心身しんしんわたったそらのようにきよくありのままをうつかがみのようにかんじられるところにあるとされる。ただし、この境地きょうちすらいまだ大悟徹底たいごてっていではない。しかし大悟徹底たいごてっていぜん段階だんかいであるとして歓迎かんげいされる。
  17. ^ おさむしょう一如いちにょ(しゅしょういちにょ)。坐禅ざぜんは、まださとっていないもの修行しゅぎょうによってさとりに到達とうたつするようなものではなく、生来せいらいてき仏性ぶっしょうっている(さとっている)はずのものあらためて修行しゅぎょうをするのであって、それは修行しゅぎょうがそのままさとりなのであるという意味いみかつ。どんな凡人ぼんじん外道げどう本質ほんしつほとけなのであって、もともとさとったほとけであるものが、ことさらさとりをもとめて坐禅ざぜんするということがあってはならない。ふつふつになることを目指めざすというのであれば、大乗だいじょう仏教ぶっきょう元々もともとほとけたる性質せいしつ指摘してきする本意ほんいはんするからである。
    このように、こころそのものがそくそのままほとけであるとおしえるのは、さとり・涅槃ねはんふつせい執着しゅうちゃくさせないための方便ほうべんである。
  18. ^ こころがけのくない修行しゅぎょうしゃとは、はじめから本気ほんき仏道ぶつどうもとめる気持きもちがく、禅僧ぜんそうとしての名声めいせいもとめていたり、きむかせぎを目論もくろんでいたり、他人たにんかされたくない一心いっしんで、あるいは知識ちしきをひけらかすために経典きょうてん学習がくしゅう優先ゆうせんし、初心者しょしんしゃたいしてけなしをおこなうようなもの
  19. ^ 心身しんしんまぼろしであるとけば、諸行無常しょぎょうむじょうのことをっているのだと理解りかいするかもしれないが、大乗だいじょうきょうでは実体じったいがないことを理由りゆう固定こてい観念かんねんをうちやぶって中道ちゅうどういたらせる意味いみ使つかう。水面すいめんうつったつきは、実相じっそうであるとはえないが、たしかに姿すがたうつしているようにえるから実相じっそうではないともえない。るわけでもなしでもなし、しかしゆうでもありでもあるという中道ちゅうどうにこそ実相じっそうがあるという意味いみである。禅宗ぜんしゅうでは、世界せかいはこのように曖昧あいまいであるからけ、坐禅ざぜんせよとおしえる。
  20. ^ 唯識ゆいしきでは迷妄めいもうさと調和ちょうわした境地きょうちだいはち識、常住じょうじゅう不滅ふめつ衆生しゅじょう本心ほんしんだいきゅう識などと区別くべつしておしえた。

出典しゅってん

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  1. ^ [1]曹洞宗そうとうしゅう臨済宗りんざいしゅう個別こべつ記載きさいを」教科書きょうかしょ会社かいしゃ要請ようせい産経新聞さんけいしんぶん(2019ねん2がつ21にち)2019ねん3がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ http://www.motivation-up.co.jp/zendera/
  3. ^ 広辞苑こうじえん』「ぜん
  4. ^ デジタル大辞泉だいじせんぜん」 - goo辞書じしょ
  5. ^ 大正たいしょう大蔵経だいぞうきょう[2]; 岩波いわなみ文庫本ぶんこぼん、14ぺーじ
  6. ^ 佐々木ささき閑・宮崎みやざき 哲弥てつや『ごまかさない仏教ぶっきょう: ふつほうそうからなおす』 (新潮しんちょう選書せんしょ、2017)
  7. ^ 佐々木ささき閑『別冊べっさつNHK100ふんde名著めいちょ 集中しゅうちゅう講義こうぎ 大乗だいじょう仏教ぶっきょう こうしてブッダのおしえは変容へんようした』(NHK出版しゅっぱん、2017)
  8. ^ 曹洞宗そうとうしゅう関東かんとう管区かんく教化きょうかセンター「さくつとむ」(ぜんのこころ ー曹洞宗そうとうしゅうー)
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  10. ^ a b c d 伊吹いぶき あつし禅宗ぜんしゅう起源きげん」『国際こくさいぜん研究けんきゅうだい8かん、2022ねん、19-32ぺーじdoi:10.34428/00013041 
  11. ^ デジタル大辞泉だいじせんいえ」 - goo辞書じしょ
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  14. ^ 岡本おかもと 2011, p. 90.
  15. ^ 小黒おぐろ 2011, p. 80.
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • ぜん歴史れきし』(伊吹いぶきあつししる法藏館ほうぞうかん、2001ねん
  • 夢中むちゅう問答もんどうしゅう』(ゆめまど礎石そせきちょ川瀬かわせ一馬かずまわけ講談社こうだんしゃ、2000ねん
  • 沢庵たくあん 不動ふどうさとし神妙しんみょうろくふとしおもね玲瓏れいろうしゅう』(市川いちかわしろつるしる講談社こうだんしゃ、1994ねん
  • ぜん しんからだ綺麗きれいになるすわかた』(池田いけだ書店しょてん編集へんしゅうへん池田いけだ書店しょてん、2004ねん
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  • 達磨だるま語録ごろく』(柳田やなぎだきよしさんしる筑摩書房ちくましょぼう、1996ねん
  • 古田ふるた紹欽 へんだい1かん ぜん芸術げいじゅつ I』ぺりかんしゃ叢書そうしょ ぜん日本にっぽん文化ぶんか〉、1996ねん11月15にちISBN 4-8315-0800-4 
    • 小笠原おがさわら秀實ひでみ芸術げいじゅつさかいとしてのぜん」『ぜん文化ぶんか体系たいけいあきらもりしゃ、1944ねん、161-244ぺーじ 
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  • 中村なかむらもと選集せんしゅうだい3かん東洋とうようじん思惟しいかた3日本人にっぽんじん思惟しい方法ほうほう』(中村なかむらはじめしる春秋しゅんじゅうしゃ、1989ねん
  • 薄井うすい和男かずお監修かんしゅう へん『もっとりたいぜん美術びじゅつ東京とうきょう美術びじゅつ、2011ねんISBN 978-4-8087-0833-7 
    • 薄井うすい和男かずおぜんいんほとけかみ」『もっとりたいぜん美術びじゅつ東京とうきょう美術びじゅつ、2011ねん2がつ10日とおか、48-68ぺーじ 
    • 内田うちだ啓一けいいち庶民しょみん浸透しんとうしたしたしみやすいぜん」『もっとりたいぜん美術びじゅつ東京とうきょう美術びじゅつ、2011ねん2がつ10日とおか、32-34ぺーじ 
    • 岡本おかもと祐美ひろみ日本にっぽんにおけるぜん歴史れきし」『もっとりたいぜん美術びじゅつ東京とうきょう美術びじゅつ、2011ねん2がつ10日とおか、88-95ぺーじ 
    • 小黒おぐろ春香はるか修行しゅぎょうさとりをめたにわ」『もっとりたいぜん美術びじゅつ東京とうきょう美術びじゅつ、2011ねん2がつ10日とおか、80-86ぺーじ 
    • とみしま義幸よしゆき建築けんちくにわ」『もっとりたいぜん美術びじゅつ東京とうきょう美術びじゅつ、2011ねん2がつ10日とおか、70-79ぺーじ 
    • 村野むらのしんさくぜん絵画かいが」、「いただきしょうとその形式けいしき」、「印可いんかじょうぜんしょ」『もっとりたいぜん美術びじゅつ東京とうきょう美術びじゅつ、2011ねん2がつ10日とおか、8-27,40-41,44-46ぺーじ 
    • 成澤なりさわまさる黄檗おうばく絵画かいが」、「隠元いんげん黄檗宗おうばくしゅう渡来とらい」『もっとりたいぜん美術びじゅつ東京とうきょう美術びじゅつ、2011ねん2がつ10日とおか、28-31,96-97ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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