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禅宗 ぜんしゅう (ぜんしゅう, Zen Buddhism)は、中国 ちゅうごく において発達 はったつ した、禅 ぜん 那 な (ぜんな)に至 いた る真 しん の教 おし えを説 と くとする大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう の一 いち 宗派 しゅうは 。南 みなみ インド出身 しゅっしん で中国 ちゅうごく に渡 わた った達磨 だるま 僧 そう (ボーディダルマ)を祖 そ とし、坐禅 ざぜん (座禅 ざぜん )を基本 きほん 的 てき な修行 しゅぎょう 形態 けいたい とする。ただし、坐禅 ざぜん そのものは古 ふる くから仏教 ぶっきょう の基本 きほん 的 てき 実践 じっせん の重要 じゅうよう な徳目 とくもく であり、坐禅 ざぜん を中心 ちゅうしん に行 おこな う仏教 ぶっきょう 集団 しゅうだん が「禅宗 ぜんしゅう 」と呼称 こしょう され始 はじ めたのは、中国 ちゅうごく の唐 とう 代 だい 末期 まっき からである。こうして宗派 しゅうは として確立 かくりつ されると、その起源 きげん を求 もと める声 こえ が高 たか まり、遡 さかのぼ って初 はつ 祖 そ とされたのが達磨 だるま である。それ故 こ 、歴史 れきし 上 じょう の達磨 だるま による、直接的 ちょくせつてき な著作 ちょさく は存在 そんざい が認 みと められていない。伝承 でんしょう 上 じょう の達磨 だるま のもたらしたとする禅 ぜん は、部 ぶ 派 は 仏教 ぶっきょう における禅 ぜん とは異 こと なり、了 りょう 義 よし [ 注釈 ちゅうしゃく 1] 大乗 だいじょう の禅 ぜん である。
中国 ちゅうごく 禅 ぜん は、唐 とう から宋 そう にかけて発展 はってん し、征服 せいふく 王朝 おうちょう である元 もと においても勢力 せいりょく は健在 けんざい だったが、明 あきら の時代 じだい に入 はい ると衰退 すいたい していった。
日本 にっぽん には、禅 ぜん の教 おし え自体 じたい は奈良 なら 時代 じだい から平安 へいあん 時代 じだい にかけて既 すで に伝 つた わっていたとされるが、純粋 じゅんすい な禅宗 ぜんしゅう が伝 つた えられたのは、鎌倉 かまくら 時代 ときよ の初 はじ め頃 ごろ であり、室町 むろまち 時代 ときよ に幕府 ばくふ の庇護 ひご の下 した で日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう の一 ひと つとして発展 はってん した。明治維新 めいじいしん 以降 いこう は、鈴木 すずき 大拙 だいせつ により日本 にっぽん の禅 ぜん が、世界 せかい に伝 つた えられた。
日本 にっぽん においては、坐禅 ざぜん 修行 しゅぎょう を主 おも とする仏教 ぶっきょう 宗派 しゅうは が「禅宗 ぜんしゅう 」と総称 そうしょう されることが多 おお い。これに対 たい して、臨済宗 りんざいしゅう 14派 は と黄檗宗 おうばくしゅう からなる臨済宗 りんざいしゅう 黄檗宗 おうばくしゅう 連合 れんごう 各派 かくは 合議 ごうぎ 所 しょ と、曹洞宗 そうとうしゅう 宗務庁 しゅうむちょう は2019年 ねん 、中学校 ちゅうがっこう の歴史 れきし 教科書 きょうかしょ について、個々 ここ の宗派 しゅうは 名 めい を書 か かず「禅宗 ぜんしゅう 」と一 いち 括 くく りにする記述 きじゅつ を改 あらた めるよう申 もう し入 い れた[ 1] 。
近年 きんねん では、禅 ぜん の修行 しゅぎょう 方法 ほうほう を取 と り入 い れた更生 こうせい 教育 きょういく や社員 しゃいん 教育 きょういく など[ 2] に力 ちから を入 い れている寺院 じいん が目立 めだ つ。
禅 ぜん は、サンスクリット の dhyāna (ディヤーナ/パーリ語 ご では jhāna ジャーナ)の音 おと 写 うつし 、あるいは音 おと 写 うつし である禅 ぜん 那 な (ぜんな)の略 りゃく である[ 3] [ 4] 。他 た に駄 だ 衍那(だえんな)・持 じ 阿 おもね (じあな)の音 おと 写 うつし もある。他 た の訳 わけ に、思惟 しい 修 おさむ (しゆいしゅう)・静 しずか 慮 おもんばか (じょうりょ)・棄悪[ 注釈 ちゅうしゃく 2] ・功徳 くどく 叢林 そうりん [ 注釈 ちゅうしゃく 3] ・念 ねん 修 おさむ [ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。
禅 ぜん の字 じ は元来 がんらい 、天 てん や山川 やまかわ を祀 まつ る、転 てん じて、天子 てんし が位 い を譲 ゆず る(禅譲 ぜんじょう )という意味 いみ であった。これに「心 しん の働 はたら きを集中 しゅうちゅう させる」という語釈 ごしゃく を与 あた えて禅 ぜん となし、「心 しん を静 しず かにして動揺 どうよう させない」という語釈 ごしゃく を与 あた えて定 じょう とし、禅定 ぜんじょう とする語義 ごぎ が作 つく られた。ただし禅 ぜん 那 な の意味 いみ では声調 せいちょう が平声 ひょうしょう から去声 きょしょう に変 か わっており、現代 げんだい 北京 ぺきん 語 ご では加 くわ えて声 こえ 母 はは も変 か わってshàn (シャン)に対 たい しchán (チャン)になっている。
圭 けい 峰 ほう 宗 そう 密 ひそか の著書 ちょしょ 『禅 ぜん 源 げん 諸 しょ 詮 かい 集 あつまり 都 と 序 じょ 』には、禅 ぜん の根元 ねもと は仏性 ぶっしょう にあるとし、仏性 ぶっしょう を悟 さと るのが智慧 ちえ であり、智慧 ちえ を修 しゅう するのが定 じょう であり、禅 ぜん 那 な はこれを併 あわ せていうとある。[ 5] また、達磨 だるま が伝 つた えた宗旨 しゅうし のみが真実 しんじつ の禅 ぜん 那 な に相応 そうおう するから禅宗 ぜんしゅう と名付 なづ けた、ともある。
類似 るいじ の概念 がいねん として三昧 ざんまい (サンスクリット: samādhi )がある。禅 ぜん あるいは定 じょう という概念 がいねん は、インドにその起源 きげん を持 も ち、それが指 さ す瞑想 めいそう 体験 たいけん は、仏教 ぶっきょう が成立 せいりつ した時 とき から重要 じゅうよう な意義 いぎ が与 あた えられていた。ゴータマ・シッダッタ(釈迦 しゃか )も禅定 ぜんじょう によって悟 さと り を開 ひら いたとされ、部 ぶ 派 は 仏教 ぶっきょう においては三 さん 学 がく の戒・定 じょう ・慧 とし の一 ひと つとして、また、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう においては六波羅蜜 ろくはらみつ (布施 ふせ ・持戒 じかい ・忍辱 にんにく ・精進 しょうじん ・禅定 ぜんじょう ・智慧 ちえ )の一 ひと つとして、仏道 ぶつどう 修行 しゅぎょう に欠 か かせないものと考 かんが えられてきた。
坐禅 ざぜん は、禅宗 ぜんしゅう において、禅 ぜん 那 な (ぜんな)に至 いた るための修行 しゅぎょう の中心 ちゅうしん となるものであり、瞑想 めいそう の一種 いっしゅ である。ただし、坐禅 ざぜん (の略語 りゃくご としての禅 ぜん )は、あくまで自 みずか らの仏性 ぶっしょう を前提 ぜんてい とし、不立文字 ふりゅうもんじ (後述 こうじゅつ )が強調 きょうちょう されるなど、禅宗 ぜんしゅう の教 おし えに基 もと づくものを意味 いみ するもので、そのような前提 ぜんてい に立 た たない一般 いっぱん の瞑想 めいそう ・マインドフルネス とは区別 くべつ される(ちなみにヨーガ (yoga ) は、元来 がんらい は瞑想 めいそう を中心 ちゅうしん とした心身 しんしん 両面 りょうめん にわたる宗教 しゅうきょう 的 てき 行 ぎょう 法 ほう である。)。
禅宗 ぜんしゅう は、坐禅 ざぜん を中心 ちゅうしん とした修行 しゅぎょう による解脱 げだつ を説 と くものであるため、その点 てん において、自力 じりき の修行 しゅぎょう による解脱 げだつ を説 と く初期 しょき 仏教 ぶっきょう ・上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう との共通 きょうつう 性 せい がある[ 6] 。逆 ぎゃく にいえば、修行 しゅぎょう を通 つう じた苦 く からの解放 かいほう を説 と くことは、初期 しょき 仏教 ぶっきょう 以来 いらい の仏教 ぶっきょう の基本 きほん 的 てき 考 かんが え方 かた であり、禅宗 ぜんしゅう が新 あら たにもたらしたものではない。また、坐禅 ざぜん との呼称 こしょう を用 もち いるかは別 べつ として、仏陀 ぶっだ 自身 じしん が瞑想 めいそう を通 つう じて悟 さと りを開 ひら いたとされていることをはじめ、初期 しょき 仏教 ぶっきょう 以来 いらい 、瞑想 めいそう は仏道 ぶつどう 修行 しゅぎょう の手法 しゅほう として重視 じゅうし されてきたもので、坐禅 ざぜん を修行 しゅぎょう に取 と り入 い れていること自体 じたい も、禅宗 ぜんしゅう 固有 こゆう の特徴 とくちょう とは言 い い難 がた い。
一方 いっぽう で、禅宗 ぜんしゅう は、あくまで大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう の系譜 けいふ にある。大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう に属 ぞく する多様 たよう な思想 しそう や宗派 しゅうは の中 なか では、他力 たりき 救済 きゅうさい の性格 せいかく の強 つよ い浄土 じょうど 信仰 しんこう (日本 にっぽん では、法然 ほうねん ・親鸞 しんらん 以来 いらい 、浄土宗 じょうどしゅう ・浄土真宗 じょうどしんしゅう の割合 わりあい が多 おお い)や呪術 じゅじゅつ 的 てき 要素 ようそ も内包 ないほう する法華経 ほけきょう などの経典 きょうてん と比較 ひかく すると、修行 しゅぎょう による自力 じりき 救済 きゅうさい を重視 じゅうし する側面 そくめん において、初期 しょき 仏教 ぶっきょう ・上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう と近似 きんじ するという位置 いち づけにあるが、思想 しそう ・世界 せかい 観 かん としては、初期 しょき 仏教 ぶっきょう ・上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう との間 あいだ になお違 ちが いがある。例 たと えば、禅宗 ぜんしゅう では、一切衆生 いっさいしゅじょう 悉有仏性 ぶっしょう (いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)、つまり、全 すべ ての人間 にんげん (や他 た の生物 せいぶつ 、さらに日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう では山川 やまかわ といった無機 むき の自然 しぜん も)がそもそも仏性 ぶっしょう を有 ゆう すると考 かんが えるが、これは大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう の思想 しそう 展開 てんかい と東 ひがし アジアへの伝播 でんぱ に伴 ともな って醸成 じょうせい された世界 せかい 観 かん であり、初期 しょき 仏教 ぶっきょう や上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう の世界 せかい 観 かん とは異 こと なっている[ 7] 。また、禅宗 ぜんしゅう では、清掃 せいそう 、畑 はたけ 仕事 しごと 、調理 ちょうり などの労働 ろうどう 行為 こうい を「作 さく 務 つとむ (さむ)」と呼 よ んで、積極 せっきょく 的 てき に修行 しゅぎょう の一部 いちぶ とするが、この点 てん も初期 しょき 仏教 ぶっきょう ・上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう には見 み られない考 かんが え方 かた である[ 8] 。
そして、禅宗 ぜんしゅう では、達磨 だるま の四聖 しせい 句 く とされる不立文字 ふりゅうもんじ (ふりゅうもんじ)・教 きょう 外 がい 別伝 べつでん (きょうげべつでん)・直 ちょく 指 ゆび 人心 じんしん (じきしにんしん)・見性成仏 けんしょうじょうぶつ (けんしょうじょうぶつ)に表 あらわ れているように、言語 げんご 的 てき ・論理 ろんり 的 てき な説明 せつめい ・伝達 でんたつ の不可能 ふかのう 性 せい を強調 きょうちょう し、むしろ、言語 げんご ・論理 ろんり による分別 ふんべつ 智 さとし をもって煩悩 ぼんのう そして苦 く の原因 げんいん とした上 うえ 、坐禅 ざぜん を中心 ちゅうしん とした修行 しゅぎょう を通 つう じ、無 む 分別 ふんべつ の智慧 ちえ に到達 とうたつ することを、自 みずか らの内 うち にある仏性 ぶっしょう ・禅 ぜん 那 な (ぜんな)の境地 きょうち とする点 てん にも、特色 とくしょく がある[ 9] 。
ここで、不立文字 ふりゅうもんじ とは、文字 もじ ・言葉 ことば の上 うえ には真実 しんじつ の仏法 ぶっぽう がなく、仏祖 ぶっそ の言葉 ことば といえども、解釈 かいしゃく によっていかようにも変 か わってしまう[ 注釈 ちゅうしゃく 5] という意味 いみ であり、言語 げんご の持 も つ欠陥 けっかん に対 たい する注意 ちゅうい である。そのため禅宗 ぜんしゅう では中心 ちゅうしん 的 てき 経典 きょうてん を立 た てず、教 きょう 外 がい 別伝 べつでん [ 注釈 ちゅうしゃく 6] を原則 げんそく として師資 しし 相承 そうしょう [ 注釈 ちゅうしゃく 7] を重視 じゅうし するほか、臨機応変 りんきおうへん [ 注釈 ちゅうしゃく 8] な以心伝心 いしんでんしん の方便 ほうべん などにも、宗派 しゅうは としての特徴 とくちょう が表 あらわ れる。
ただし、達磨 だるま の教 おし えとされる二入 ふたいり 四 よん 行 ぎょう 論 ろん が、自己 じこ 修養 しゅうよう への入 い り方 がた として、修養 しゅうよう には文章 ぶんしょう から得 え る所 ところ の知識 ちしき ・認識 にんしき から入 はい る理 り 入 いれ (りにゅう)と、現実 げんじつ に於 お ける実践 じっせん から入 はい る行 くだり 入 いれ (ぎょうにゅう)の2つがあるとしているように、修行 しゅぎょう ・実践 じっせん の導入 どうにゅう などとして、言語 げんご 的 てき ・論理 ろんり 的 てき な知識 ちしき 獲得 かくとく の有用 ゆうよう 性 せい が一切 いっさい 否定 ひてい されているわけではない点 てん には留意 りゅうい が必要 ひつよう である。
嵩山 すせ 少林寺 しょうりんじ の達磨 だるま 大師 だいし 像 ぞう
禅宗 ぜんしゅう での血脈 けちみゃく 相承 そうしょう を法嗣 ほうし と呼 よ ぶ。釈迦 しゃか 以降 いこう の法嗣 ほうし は次 つぎ のように伝 つた えている。
釈迦 しゃか -摩 ま 訶迦葉 は -阿 おもね 難 なん 陀 -商 しょう 那 な 和 かず 修 おさむ -優 ゆう 婆 ばば 毬 かさ 多 た -提 ひさげ 多 た 迦-彌 わたる 遮 さえぎ 迦-婆 ばば 須密多 た -仏陀 ぶっだ 難 なん 提 ひさげ -伏 ふく 馱密多 た -波 は 栗 ぐり 湿 しめ 縛 ばく -富 とみ 那 な 夜 よる 奢 おご -阿 おもね 那 な 菩底 -迦毘摩 ま 羅 ら -那 な 伽 とぎ 閼剌樹 じゅ 那 な -伽 とぎ 那 な 提 ひさげ 婆 ばば -羅 ら 睺羅多 た -僧 そう 伽 とぎ 難 なん 提 ひさげ -伽耶 かや 舎 しゃ 多 た -鳩 ばと 摩 ま 羅 ら 多 た -闍夜多 た -婆 ばば 修 おさむ 盤 ばん 頭 あたま -摩 ま 拏羅-鶴 づる 勒那-獅子 じし 菩提 ぼだい -婆 ばば 舎 しゃ 斯多-不 ふ 如密多 た -般若 はんにゃ 多 た 羅 ら -菩提 ぼだい 達磨 だるま
マハーカーシャパ (摩 ま 訶迦葉 は )はバラモン 階級 かいきゅう 出身 しゅっしん の弟子 でし で、釈迦 しゃか の法嗣 ほうし とされる(法 ほう の継承 けいしょう 者 しゃ )。拈華微笑 ねんげみしょう と言 い われている伝説 でんせつ が、宋 そう 代 だい の禅 ぜん 籍 せき 『無 む 門 もん 関 せき 』に伝 つた わる。
世尊 せそん 、昔 むかし 霊山 れいざん (霊 れい 鷲山 わしやま 、グリドラクータ)会 かい 上 じょう に在 あ りて、花 はな を拈 ひね (ひね)りて衆 しゅう に示 しめ す。是 ぜ の時 とき 衆 しゅう 皆 みな な黙然 もくぜん として、惟 おもんみ だ迦葉尊者 そんじゃ のみ破顔 はがん して微笑 びしょう す。
世尊 せそん 云 うん 「吾 われ に、正 せい しき法眼 ほうげん の蔵 ぞう にして涅槃 ねはん の妙 みょう 心 こころ (正法 しょうぼう 眼 め 蔵 ぞう ・涅槃 ねはん 妙 みょう 心 しん )、実相 じっそう ・無 む 相 そう ・微妙 びみょう の法門 ほうもん 有 あ り。文字 もじ を立 た てず教 きょう 外 がい に別伝 べつでん し(不立文字 ふりゅうもんじ ・教 きょう 外 がい 別伝 べつでん )、摩 ま 訶迦葉 は に付 ふ 嘱 しょく す」と。
— 『無 む 門 もん 関 せき 』第 だい 一 いち 巻 かん (世尊 せそん 拈 ひね 華 はな )
二 に 十 じゅう 八 はち 祖 そ ボーディダルマ (菩提 ぼだい 達磨 だるま )(南 みなみ インド出身 しゅっしん )が中国 ちゅうごく に入 はい り、禅 ぜん の教 おし えを伝 つた えたとされる。達磨 だるま は中国 ちゅうごく 禅 ぜん の始祖 しそ となった。
中国 ちゅうごく 禅 ぜん の歴史 れきし は『景 けい 徳 とく 伝灯 でんとう 録 ろく 』等 とう の文献 ぶんけん にある(※禅 ぜん が中国 ちゅうごく で実際 じっさい に禅宗 ぜんしゅう として確立 かくりつ したのは、東山 ひがしやま 法門 ほうもん と呼 よ ばれた四 よん 祖 そ 道信 みちのぶ (580年 ねん - 651年 ねん )、五 ご 祖 そ 弘 ひろ 忍 にん (601年 ねん - 674年 ねん )以降 いこう [ 10] )。初期 しょき の法嗣 ほうし は右 みぎ のように伝 つた えられる。
五 ご 祖 そ 弘 ひろ 忍 にん には、弟子 でし 筆頭 ひっとう の神 かみ 秀 しげる (606年 ねん - 706年 ねん )、その弟弟子 おとうとでし の慧 とし 能 のう (638年 ねん - 713年 ねん )という優 すぐ れた2人 ふたり がいた。神 かみ 秀 しげる は修行 しゅぎょう を通 つう じて徐々 じょじょ に悟得 ごとく する「漸 やや 悟 さとる 」を規範 きはん としたのに対 たい して、慧 とし 能 のう は一足飛 いっそくと びに悟得 ごとく する「頓悟 とんご 」[ 注釈 ちゅうしゃく 9] を旨 むね とする違 ちが いはあったが、ともに禅宗 ぜんしゅう の布教 ふきょう に尽力 じんりょく した。やがて神 かみ 秀 しげる は則 のり 天武 てんむ 后 きさき に招 まね かれ洛陽 らくよう へ入 はい って破格 はかく の待遇 たいぐう を受 う け、神 かみ 秀 しげる の死後 しご も一派 いっぱ は唐 とう 代 だい 帝室 ていしつ や官 かん 人 じん の庇護 ひご と支持 しじ を得 え た。すると慧 とし 能 のう の弟子 でし の荷 に 沢 さわ 神 かみ 会 かい (684年 ねん - 758年 ねん )が、神 かみ 秀 しげる の教義 きょうぎ を「北 きた 宗 はじめ 」と呼 よ んで批判 ひはん したため、東山 ひがしやま 法門 ほうもん 派 は は北 きた 宗 しゅう と、彼 かれ らの南 みなみ 宗 はじめ に分裂 ぶんれつ してしまう。しかし南 みなみ 宗 むね は支持 しじ を得 え ることができず一時 いちじ は洛陽 らくよう から追放 ついほう されてしまうが、755年 ねん に始 はじ まる安史 やすし の乱 らん に際 さい し売 うれ 牒(度 ど 牒 を売 う る制度 せいど )を進言 しんげん して粛宗 の信頼 しんらい を得 え ると、洛陽 らくよう への復活 ふっかつ を果 は たして徐々 じょじょ に信心 しんじん を集 あつ め始 はじ め、神 かみ 秀 しげる に代 か わり慧 とし 能 のう を六 ろく 祖 そ に定 さだ めた。神 かみ 会 かい は洛陽 らくよう の荷 に 沢 さわ 寺 てら に拠点 きょてん を置 お いたため、南 みなみ 宗 はじめ は荷 に 沢 さわ 宗 はじめ とも呼 よ ばれたが、762年 ねん に神 かみ 会 かい が没 ぼっ すると求心力 きゅうしんりょく を失 うしな った。
845年 ねん (会 かい 昌 あきら 5年 ねん )、武 たけ 宗 はじめ による会 かい 昌 あきら の廃 はい 仏 ぼとけ で徹底 てってい した弾圧 だんあつ を受 う け、洛陽 らくよう 内 ない の南北 なんぼく 宗 むね は廃絶 はいぜつ してしまう。しかし、南 みなみ 宗 はじめ の法嗣 ほうし を受 う けた多 おお くの禅僧 ぜんそう たちが翌年 よくねん の武 たけ 宗 はじめ の死後 しご も活躍 かつやく し、唐 とう 代 だい から宋 そう 代 だい にかけて後 のち に五 ご 家 いえ 七 なな 宗 むね と呼 よ ばれるまでに隆盛 りゅうせい した。現在 げんざい に伝 つた わる全 すべ ての禅宗 ぜんしゅう はここから派生 はせい したとされている。
なお、チベット (吐蕃 )で行 おこな われたインド仏教 ぶっきょう と中国 ちゅうごく 仏教 ぶっきょう の宗論 しゅうろん であるサムイェー寺 てら の宗論 しゅうろん において、カマラシーラ (蓮華 れんげ 戒)等 とう と対峙 たいじ した中国 ちゅうごく 禅僧 ぜんそう ・摩 ま 訶衍 は、北 きた 宗 むね の者 もの であったと言 い われている。また、神 かみ 秀 しげる の弟子 でし であった普 ひろし 寂 さび の弟子 でし 道 みち 璿 によって、北 きた 宗 むね は日本 にっぽん へも伝 つた えられている。
『六祖大師法宝壇経 (六 ろく 祖 そ 壇 だん 経 けい )』は、神 かみ 会 かい が六 ろく 祖 そ 慧 とし 能 のう を掲 かか げて説 と いた新 あたら しい坐禅 ざぜん と禅定 ぜんじょう の定義 ていぎ とされる。これを元 もと に後 ご の中国 ちゅうごく 禅宗 ぜんしゅう は確立 かくりつ ・発展 はってん した。
師 し 衆 しゅ に示 しめ して云 うん く、
「善 ぜん 知識 ちしき よ、何 なに をか名 な づけて坐禅 ざぜん とするや。
此の法門 ほうもん 中 ちゅう は、無 む 障 さわ 無礙 むげ なり。外 そと に一切 いっさい の善悪 ぜんあく の境界 きょうかい に於 おい て、心 こころ 念 ねん が起 お こらざるを名 な づけて坐 すわ と為 な し、内 うち に自性 じしょう を見 み て動 どう ぜざるを名 な づけて禅 ぜん と為 な す。
善 ぜん 知識 ちしき よ、何 なに をか名 な づけて禅定 ぜんじょう とするや。
外 そと に相 そう を離 はなれ るるを禅 ぜん と為 な し、内 うち に乱 みだ れざるを定 じょう と為 な す。外 そと に若 わか し相 あい 著 しる れれば、内 うち に心 こころ 即 すなわ ち乱 みだ れ、外 そと に若 も し相 そう を離 はな れれば、心 こころ 即 すなわ ち乱 みだ れず、本性 ほんしょう は自浄 じじょう ・自 じ 定 じょう なり。
只 ただ だ境 さかい を見 み 、境 さかい を思 おも えば即 すなわ ち乱 みだれ るると為 な す。若 も し諸 しょ 境 さかい を見 み て心 こころ 乱 みだ れざれば、是 ぜ れ真 しん の定 じょう なり。
善 ぜん 知識 ちしき よ、外 そと に相 そう を離 はなれ るる即 すなわ ち禅 ぜん 、内 うち に乱 みだ れざる即 すなわ ち定 じょう なり。外 そと に禅 ぜん 、内 うち に定 じょう なり。是 ぜ れ禅定 ぜんじょう と為 な す。
菩薩戒 ぼさつかい 経 けい に云 うん く『我 わが れ本元 ほんもと 自性 じしょう 清浄 せいじょう なり』
善 ぜん 知識 ちしき よ、念 ねん ずるとき念 ねん 中 ちゅう に、自 みずか ら本性 ほんしょう 清浄 せいじょう なるを見 み 、自 みずか ら修 しゅう し、自 みずか ら行 ぎょう じ、自 みずか ら成 なり ずるが仏道 ぶつどう なり。
— 『六 ろく 祖 そ 壇 だん 経 けい 』坐禅 ざぜん 第 だい 五 ご
さらに『景 けい 徳 とく 伝灯 でんとう 録 ろく 』に載 の せる、慧 とし 能 のう の弟子 でし の南嶽 みなみだけ 懐 ふところ 譲 ゆずる (677年 ねん - 744年 ねん )とさらにその弟子 でし の馬 うま 祖 そ 道一 みちかず (709年 ねん - 788年 ねん )の逸話 いつわ によって坐禅 ざぜん に対 たい する禅宗 ぜんしゅう の姿勢 しせい が明 あき らかとなる。
開 ひらけ 元 もと 中 なか に沙門 しゃもん 道 どう 一 いち 有 あ りて伝法 でんぼう 院 いん に住 じゅう し常 つね 日 にち 坐禅 ざぜん す。
師 し 、是 ぜ れ法器 ほうき なるを知 し り、往 ゆ きて問 と う、曰 いわ く「大徳 だいとく 、坐禅 ざぜん して什麼 いんも (いんも、何 なに )をか図 はか る」
一 いち (道一 みちかず )曰 いわ く「仏 ふつ と作 つく るを図 はか る」
師 し 乃 すなわ ち一 いち 磚(かわら)を取 と りて彼 かれ の庵 あん 前 まえ の石上 いしがみ に於 おい て磨 みが く。
一 いち 曰 いわ く「師 し 、什麼 いんも をか作 さく す」
師 し 曰 いわ く「磨 みが きて鏡 かがみ と作 さく す」
一 いち 曰 いわ く「磚を磨 みが きて豈 あに (あに)鏡 きょう と成 な るを得 え んや」
師 し 曰 いわ く「坐禅 ざぜん して豈 あに 仏 ふつ と成 な るを得 え んや」
一 いち 曰 いわ く「如何 いか が即 すなわ ち是 ぜ なる」
師 し 曰 いわ く「人 ひと の駕 が 車 しゃ 行 い かざる(とき)の如 ごと し。車 くるま を打 う つ即 すなわ ち是 これ か、牛 うし を打 う つ即 すなわ ち是 これ か」
一 いち 、対 たい 無 な し。
師 し 又 また 曰 いわ く「汝 なんじ 、坐禅 ざぜん を学 まな ぶと為 な すや、坐 すわ 仏 ほとけ を学 まな ぶと為 な すや。若 も し坐禅 ざぜん を学 まね べば、禅 ぜん は坐臥 ざが に非 ひ ず。若 も し坐 すわ 仏 ほとけ を学 まね べば、仏 ふつ は定 じょう 相 しょう に非 ひ ず。無住 むじゅう の法 ほう に於 おい て、応 おう に取捨 しゅしゃ すべからず。汝 なんじ 、若 も し坐 すわ 仏 ふつ せば、即 すなわ ち是 ぜ れ仏 ほとけ を殺 ころ す。若 も し坐 すわ 相 しょう に執 と さば、其 そ の理 り に達 たっ するに非 ひ ず」
一 いち 、示 しめせ 誨(じかい、教 おし え)を聞 き きて、醍醐 だいご を飲 の む如 ごと し。
— 『景 けい 德 とく 傳燈 でんとう 錄 ろく 』巻 まき 第 だい 五 ご
この部分 ぶぶん に中国 ちゅうごく 禅宗 ぜんしゅう の要諦 ようたい が尽 つく されているが、従来 じゅうらい 的 てき な仏教 ぶっきょう の瞑想 めいそう から大 おお きく飛躍 ひやく していることがわかる。また一方 いっぽう に、禅宗 ぜんしゅう は釈迦 しゃか 一 いち 代 だい の教 きょう 説 せつ を誹謗 ひぼう するものだ、と非難 ひなん するものがいるのも無理 むり ないことである。しかし、これはあくまでも般若 はんにゃ 波羅蜜 はらみつ の実践 じっせん を思想 しそう 以前 いぜん の根本 こんぽん から追究 ついきゅう した真摯 しんし な仏教 ぶっきょう であり、唐 とう 代 だい から宋 そう 代 だい にかけて禅宗 ぜんしゅう が興隆 こうりゅう を極 きわ めたのも事実 じじつ である。
般若 はんにゃ 波羅蜜 はらみつ は、此岸―彼岸 ひがん といった二 に 項 こう 対立 たいりつ 的 てき な智 さとし を超越 ちょうえつ することを意味 いみ するが、瞑想 めいそう による超越 ちょうえつ ということでなく、中国 ちゅうごく 禅 ぜん の祖師 そし たちは、心 こころ 念 ねん の起 お こらぬところ、即 すなわ ち概念 がいねん の分節 ぶんせつ 以前 いぜん のところに帰 かえ ることを目指 めざ したのである。だからその活動 かつどう の中 なか での対話 たいわ の記録 きろく ―禅 ぜん 語録 ごろく ―は、日常 にちじょう のロゴス の立場 たちば で読 よ むと意味 いみ が通 とお らないのである。
中国 ちゅうごく では老子 ろうし を開祖 かいそ とする道教 どうきょう との交流 こうりゅう が多 おお かったと思 おも われ、老子 ろうし の教 おし えと中国 ちゅうごく 禅 ぜん の共通 きょうつう 点 てん は多 おお い。知識 ちしき を中心 ちゅうしん としたそれまでの中国 ちゅうごく の仏教 ぶっきょう に対 たい して、知識 ちしき と瞑想 めいそう による漸 やや 悟 さとる でなく、頓悟 とんご を目標 もくひょう とした仏教 ぶっきょう として禅 ぜん は中国 ちゅうごく で大 おお きな発展 はってん を見 み た。また、禅宗 ぜんしゅう では悟 さと り の伝達 でんたつ である「伝灯 でんとう 」が重 おも んじられ、師匠 ししょう から弟子 でし へと法 ほう が嗣 つ がれて行 い った。
やがて、北 きた 宋 そう 代 だい になると、法眼 ほうげん 文 ぶん 益 えき が提唱 ていしょう した五 ご 家 いえ の観念 かんねん が一般 いっぱん 化 か して五 ご 家 いえ (五 ご 宗 むね )が成立 せいりつ した。さらに、臨済宗 りんざいしゅう 中 なか から、黄 き 龍 りゅう 派 は と楊岐派 は の勢力 せいりょく が伸長 しんちょう し、五 ご 家 いえ と肩 かた を並 なら べるまでになり、この二 に 派 は を含 ふく めて五 ご 家 いえ 七 なな 宗 むね (ごけしちしゅう)という概念 がいねん が生 う まれた。
さらに禅 ぜん は、もはや禅僧 ぜんそう のみの占有 せんゆう 物 ぶつ ではなかった。禅 ぜん 本来 ほんらい のもつ能動 のうどう 性 せい により、社会 しゃかい との交渉 こうしょう を積極 せっきょく 的 てき にはたらきかけた。よって、教団 きょうだん の枠組 わくぐ みを超 こ え、朱子学 しゅしがく ・陽明学 ようめいがく といった儒教 じゅきょう 哲学 てつがく や、漢詩 かんし などの文学 ぶんがく 、水墨 すいぼく による山水 さんすい 画 が や庭園 ていえん 造立 ぞうりゅう などの美術 びじゅつ などの、様々 さまざま な文化 ぶんか 的 てき な事象 じしょう に広範 こうはん な影響 えいきょう を与 あた えた。
慧 とし 能 のう 以降 いこう の主 おも な法嗣 ほうし の系統 けいとう は、以下 いか の通 とお り。太字 ふとじ は五 ご 家 いえ 七 なな 宗 むね 。
臨済宗 りんざいしゅう ・潙仰宗 むね ・雲 くも 門 もん 宗 むね ・曹洞宗 そうとうしゅう ・法眼 ほうげん 宗 むね を五 ご 家 いえ [ 11] 、禅宗 ぜんしゅう 五 ご 家 いえ と呼称 こしょう し、臨済宗 りんざいしゅう から分 わか れた黄 き 龍 りゅう 派 は と楊岐派 は を合 あ わせて七 なな 宗 しゅう と呼称 こしょう する。それらを併称 へいしょう して五 ご 家 いえ 七 なな 宗 むね [ 12] (ごけしちしゅう)と呼称 こしょう する。
晩 ばん 唐 とう の臨済義 ぎ 玄 げん を宗祖 しゅうそ とするが、唐 とう 末 まつ 五 ご 代 だい においては、華北 かほく に地盤 じばん を置 お いた臨済宗 りんざいしゅう は、義 よし 玄 げん の門弟 もんてい 三 さん 聖 ひじり 慧 とし 然 しか 、興 きょう 化 か 存 そん 奨 すすむ 以後 いご 、その宗風 しゅうふう はさほど振 ふ るわなかった。存 そん 奨 すすむ 系統 けいとう の南 みなみ 院 いん 慧 とし 顒 、風穴 かざあな 延 のべ 沼 ぬま らが一部 いちぶ でその法統 ほうとう を継承 けいしょう するに過 す ぎなかった。
北 きた 宋 そう 代 だい になって、延 のべ 沼 ぬま の弟子 でし の首 くび 山 やま 省 しょう 念 ねん 門下 もんか の汾陽善昭 よしあき 、広 こう 慧 とし 元 もと 璉、石門 せきもん 蘊聡といった禅 ぜん 匠 たくみ が輩出 はいしゅつ して、一気 いっき に宗風 しゅうふう が振 ふ るうようになった。善昭 よしあき 門下 もんか に石 いし 霜 しも 楚 すわえ 円 えん 、瑯琊慧 とし 覚 さとし が出 で 、楚 すわえ 円 えん 門下 もんか からは楊岐派 は の楊岐方 かた 会 かい 、黄 き 龍 りゅう 派 は の黄 き 龍 りゅう 慧 とし 南 みなみ が出 で て、その一門 いちもん が中国 ちゅうごく 全土 ぜんど を制覇 せいは することとなった。
元 もと の高峰 たかみね 原 はら 妙 たえ は、その宗風 しゅうふう を「痛快 つうかい 」という言葉 ことば で表現 ひょうげん している。
潙山霊 れい 祐 ゆう ・仰山 ぎょうさん 慧 とし 寂 さび を祖 そ とする。この系統 けいとう も十 じゅう 国 こく の荊南 や南 みなみ 唐 とう を中心 ちゅうしん として教 きょう 勢 ぜい を張 は ったが、その後 ご は次第 しだい に衰退 すいたい し、宋 そう 代 だい にまで伝 つた わることがなかった。
元 もと の高峰 たかみね 原 はら 妙 たえ は、その宗風 しゅうふう を「謹厳 きんげん 」という言葉 ことば で表現 ひょうげん している。
雲 くも 門 もん 文 ぶん 偃 を祖 そ とする。文 ぶん 偃門下 か の香 こう 林 はやし 澄 きよし 遠 とお ・洞 ほら 山守 やまもり 初 はつ ・徳山 とくやま 縁 ゆかり 密 みつ など多 おお くの俊 しゅん 哲 あきら が出 で て唐 とう 末 まつ に一大 いちだい 勢力 せいりょく を形成 けいせい し、五 ご 代 だい 末 まつ より北 きた 宋 そう にかけて、隆盛 りゅうせい を極 きわ めた。宋 そう 代 だい には、澄 きよし 遠 とお の系統 けいとう から現 あら われた雪 ゆき 竇重顕 あらわ 、文殊 もんじゅ 応 おう 真 ま 系統 けいとう の仏 ふつ 日 にち 契 ちぎり 嵩 かさ が活躍 かつやく した。重 じゅう 顕 あらわ 門下 もんか には、天 てん 衣 ころも 義 よし 懐 ふところ が出 で た。その後 ご も、仏 ふつ 印 しるし 了 りょう 元 もと や大梅 おおめ 法 ほう 英 えい らの禅 ぜん 匠 たくみ を輩出 はいしゅつ し、臨済宗 りんざいしゅう とともにもっとも隆昌 りゅうしょう を極 きわ めたが、南 みなみ 宋 そう 以後 いご は次第 しだい に衰 おとろ え、元 もと 代 だい にはその法 ほう 系 けい が絶 た え、二 に 百 ひゃく 余 よ 年 ねん で滅 ほろ びることとなった。
元 もと の高峰 たかみね 原 はら 妙 たえ は、その宗風 しゅうふう を「高 こう 古 いにしえ 」という言葉 ことば で表現 ひょうげん している。
晩 ばん 唐 とう の洞山 ほらやま 良 りょう 价 を祖 そ とする。良 りょう 价、曹山本 ほん 寂 さび の系統 けいとう は、五 ご 代 だい 十 じゅう 国 こく の荊南 や南 みなみ 唐 とう に宗 むね 勢 ぜい を張 は ったが、全体 ぜんたい 的 てき には余 あま り宗 むね 勢 ぜい は振 ふ るわなかった。本 ほん 寂 さび 門下 もんか の曹山慧 とし 霞 かすみ 、雲居 くもい 道 どう 膺門下 か の同 どう 安 やす 道 どう 丕、疎 うと 山 やま 匡 ただし 仁 じん 門下 もんか の護 まもる 国守 くにもり 澄 きよし 、青 あお 林 りん 師 し 虔 けん 門下 もんか の石門 せきもん 献 けんじ 蘊らの活躍 かつやく が見 み られる程度 ていど である。
北 きた 宋 そう 代 だい になっても、余 あま り宗 むね 勢 ぜい は振 ふ るわなかったが、投 とう 子 こ 義 ぎ 青 あお が出 で て中興 ちゅうこう を果 は たした。その宗風 しゅうふう は、芙蓉 ふよう 道 どう 楷、丹 たん 霞 かすみ 子 こ 淳 じゅん に継承 けいしょう された。道 みち 楷は、徽宗 皇帝 こうてい からの紫衣 しえ と師号 しごう の下賜 かし を拒絶 きょぜつ して、淄州(山東 さんとう 省 しょう )に流罪 るざい となり、災 わざわ い転 てん じて福 ぶく となり、それが華北 かほく に曹洞宗 そうとうしゅう が拡大 かくだい する契機 けいき となった。
南 みなみ 宋 そう 代 だい には、子 こ 淳 じゅん の下 した から宏 ひろし 智 さとし 正覚 しょうがく 、真 ま 歇清了 りょう が出 で て、「黙 だま 照 あきら 禅 ぜん 」と呼 よ ばれる宗風 しゅうふう を維持 いじ したが、その宗 むね 勢 ぜい は、臨済宗 りんざいしゅう には遠 とお く及 およ ばなかった。なお、清 せい 了 りょう 門下 もんか の天童 てんどう 如浄 が、入 にゅう 宋 そう した道元 どうげん の師 し である。正覚 しょうがく の門下 もんか からは、『六 ろく 牛 うし 図 ず 』を著 あらわ した自得 じとく 慧 とし 暉 あきら が出 で た。慧 とし 暉 あきら の系統 けいとう が、その後 ご の曹洞宗 そうとうしゅう を支 ささ えることとなった。
河北 かわきた に教 きょう 勢 ぜい を張 は った鹿 しか 門 もん 自覚 じかく の系統 けいとう からは、金 きむ 代 だい になって、万 ばん 松 まつ 行秀 ゆきひで が出現 しゅつげん し、大 おお いに教化 きょうか を振 ふ るうこととなる。行秀 ゆきひで は、林泉 りんせん 従 したがえ 倫 りん や雪 ゆき 庭 にわ 福 ぶく 裕 ひろし 、耶律楚 すわえ 材 ざい らの多 おお くの優 すぐ れた門弟子 もんていし を育 そだ て、章 あきら 宗 むね の尊崇 そんすう を受 う けた。福 ぶく 裕 ひろし は、元 もと 朝 あさ において、道教 どうきょう の全 ちょん 真教 まさのり の道士 どうし 、李 り 志 こころざし 常 つね と論争 ろんそう して勝利 しょうり を収 おさ め、嵩山 すせ 少林寺 しょうりんじ に住 じゅう して教 きょう 勢 ぜい を張 は った。以後 いご 、少林寺 しょうりんじ は、華北 かほく における曹洞宗 そうとうしゅう の本拠 ほんきょ となり、明 あきら の後半 こうはん には、「曹洞正宗 まさむね 」を名乗 なの ることとなった。
元 もと の高峰 たかみね 原 はら 妙 たえ は、その特色 とくしょく を、「細密 さいみつ 」という言葉 ことば で表現 ひょうげん している。
五 ご 家 いえ の観念 かんねん の初 はつ 源 みなもと となった『宗門 しゅうもん 十 じゅう 規 ぶんまわし 論 ろん 』を著 あらわ した法眼 ほうげん 文 ぶん 益 えき を祖 そ とする。五 ご 代 だい 十 じゅう 国 こく では、呉 ご 越 えつ 国王 こくおう の銭 ぜに 氏 し 一族 いちぞく が、永 えい 明道 みょうどう 潜 せん 、天台 てんだい 徳 とく 韶 、永 えい 明 あきら 延寿 えんじゅ らの法眼 ほうげん 宗 むね に属 ぞく する僧 そう らを保護 ほご したため、江南 こうなん 地方 ちほう において、その宗 むね 勢 ぜい が振 ふ るった。
宋 そう 代 だい になると、徳 とく 韶、延寿 えんじゅ の系統 けいとう は衰退 すいたい した。代 か わって、清涼 せいりょう 泰 たい 欽や帰 かえり 宗義 しゅうぎ 柔 やわら の系統 けいとう が、その主 おも となった。泰 たい 欽門下 か からは、雲居 くもい 道 どう 斉 ひとし 、霊 れい 隠 かくれ 文勝 ふみかつ の師弟 してい が出 で て活躍 かつやく したが、次第 しだい に衰退 すいたい に向 む かい、ついに北 きた 宋 そう 末 まつ には、その系統 けいとう は断絶 だんぜつ してしまった。
元 もと の高峰 たかみね 原 はら 妙 たえ は、その宗風 しゅうふう を、「詳 しょう 明 あきら 」という言葉 ことば で表現 ひょうげん している。
日本 にっぽん には、公式 こうしき には13世紀 せいき (鎌倉 かまくら 時代 ときよ )に伝 つた えられたとされる。また、日本 にっぽん 天台宗 てんだいしゅう の宗祖 しゅうそ 最澄 さいちょう の師 し で近江 おうみ 国分寺 こくぶんじ の行 くだり 表 ひょう は中国 ちゅうごく 北 きた 宗 むね の流 なが れを汲 く んでいる。臨済・曹洞の禅 ぜん は鎌倉 かまくら 仏教 ぶっきょう として広 ひろ がった。臨済禅 ぜん の流 なが れは中国 ちゅうごく の南 みなみ 宋 そう に渡 わた った栄西 えいさい が日本 にっぽん に請来 しょうらい したことから始 はじ まる。曹洞禅 ぜん も道元 どうげん が中国 ちゅうごく に渡 わた り中国 ちゅうごく で印可 いんか を得 え て日本 にっぽん に帰国 きこく することに始 はじ まるが、それ以前 いぜん に大日 だいにち 房能 ふさよし 忍 にん が多武峰 とうのみね で達磨 だるま 宗 むね (日本 にっぽん 達磨 だるま 宗 むね )を開 ひら いていた事 こと が知 し られる。曹洞宗 そうとうしゅう の懐 ふところ 鑑 かん 、義介 ぎすけ らは元 もと 達磨 だるま 宗 むね の僧侶 そうりょ であった。
鎌倉 かまくら 時代 じだい 以後 いご 、武士 ぶし や庶民 しょみん などを中心 ちゅうしん に日本 にっぽん 仏教 ぶっきょう の一 ひと つとして広 ひろ まり、各地 かくち に禅 ぜん 寺 てら (禅宗 ぜんしゅう 寺院 じいん ・禅林 ぜんりん )が建 た てられるようになったのに加 くわ え、五山 ごさん 文学 ぶんがく や水墨 すいぼく 画 が のように禅僧 ぜんそう による文化 ぶんか 芸術 げいじゅつ 活動 かつどう が盛 さか んに行 おこな われた。
中国 ちゅうごく から日本 にっぽん に伝 つた わる禅 ぜん の宗派 しゅうは に25の流 なが れがあり、臨済宗 りんざいしゅう から独立 どくりつ した黄檗宗 おうばくしゅう を含 ふく めると47流 りゅう になるとされる。
一方 いっぽう で、9世紀 せいき (平安 へいあん 時代 じだい 前期 ぜんき )に皇太后 こうたいごう 橘 たちばな 嘉 よしみ 智子 さとこ に招 まね かれて唐 とう の禅僧 ぜんそう ・義 ぎ 空 むなし が来日 らいにち し、檀林 だんりん 寺 てら で禅 ぜん の講義 こうぎ が行 おこな われたものの、当時 とうじ の日本 にっぽん における禅 ぜん への関心 かんしん の低 ひく さに失望 しつぼう して数 すう 年 ねん で唐 とう へ帰国 きこく したとする記録 きろく も存在 そんざい する。
日本 にっぽん 禅宗 ぜんしゅう 25流 りゅう
唐 とう の臨済義 ぎ 玄 げん を宗祖 しゅうそ とする。日本 にっぽん では中国 ちゅうごく から臨済禅 ぜん を伝 つた えた栄西 えいさい に始 はじ まり、その後 ご 何 なん 人 にん かの祖師 そし たちが中国 ちゅうごく からそれぞれの時代 じだい の清規 しんぎ を日本 にっぽん に伝 つた えたため分派 ぶんぱ は多 おお い。現在 げんざい の日本 にっぽん の臨済宗 りんざいしゅう は公案 こうあん 禅 ぜん といわれ、江戸 えど 時代 じだい に白 しろ 隠 かくれ がまとめたスタイルである。公案 こうあん とは、裁判 さいばん の公判 こうはん 記録 きろく のことであるが、転 てん じて禅 ぜん 語録 ごろく として伝 つた えられる祖師 そし たちの対話 たいわ をいうようになった。それぞれの判例 はんれい を一則 かずのり 、二 に 則 のり と数 かぞ える。その対話 たいわ を知 し ることにより悟 さと り を知 し ろうとする。公案 こうあん は論理 ろんり 的 てき な思考 しこう によって理解 りかい する事 こと ができない内容 ないよう が多 おお い。
臨済宗 りんざいしゅう のなかでは、妙心寺 みょうしんじ 派 は が最大 さいだい である。江戸 えど 時代 じだい 、宗 そう 学 まなぶ が発達 はったつ し、無 む 著 ちょ 道 どう 忠 ただし (1653年 ねん - 1744年 ねん )が現 あら われ、諸 しょ 本 ほん を校訂 こうてい し、綿密 めんみつ を究 きわ めた手法 しゅほう を確立 かくりつ し、膨大 ぼうだい な著述 ちょじゅつ を残 のこ した。その著書 ちょしょ は、近 きん 現代 げんだい においても研究 けんきゅう 上 じょう の価値 かち を失 うしな わない水準 すいじゅん を有 ゆう しており、影印 えいいん 版 ばん が実用 じつよう 書 しょ として出版 しゅっぱん されている。
以下 いか は曹洞宗 そうとうしゅう の法 ほう 系 けい の一 いち 例 れい である。
釈迦 しゃか -(中略 ちゅうりゃく )-大鑑 たいかん 慧 とし 能 のう -青原 あおはら 行 ぎょう 思 おもえ -石頭 いしあたま 希 まれ 遷 -薬 やく 山 やま 惟 おもんみ 儼 げん -雲 くも 巌 いわお 曇 くもり 晟 あきら -洞山 ほらやま 良 りょう 价 -雲居 くもい 道 どう 膺-同 どう 安 やす 道 どう 丕-同 どう 安 やす 観 かん 志 こころざし -梁 やな 山 さん 縁 えん 観 かん -大 だい 陽 ひ 警玄-投 とう 子 こ 義 よし 青 あお -芙蓉 ふよう 道 どう 楷-丹 たん 霞 かすみ 子 こ 淳 じゅん -真 ま 歇清了 りょう -天童 てんどう 宗 はじめ 玨-雪 ゆき 竇智鑑 かん -天童 てんどう 如浄 -永 えい 平 ひら 道元 どうげん -孤 こ 雲 くも 懐 ふところ 奘 -徹 てっ 通 どおり 義介 ぎすけ -瑩山紹瑾 -...
六 ろく 祖 そ 曹渓慧 とし 能 のう と洞山 ほらやま 良 りょう 价 から曹洞宗 そうとうしゅう とした。日本 にっぽん では中国 ちゅうごく に渡 わた り印可 いんか を得 え て1226年 ねん に帰国 きこく した道元 どうげん から始 はじ まる。帰国 きこく の翌年 よくねん には普 ひろし 勧 すすむ 坐禅 ざぜん 儀 ぎ を著 あらわ し、只管 ひたすら 打 だ 坐 すわ を専 せん らとする宗風 しゅうふう を鼓舞 こぶ した。その修行 しゅぎょう 内容 ないよう は「永 えい 平 たいら 清規 しんぎ 」を厳 きび しく守 まも り、一時 いちじ 的 てき な見性 けんしょう に満足 まんぞく してしまうことや坐禅 ざぜん の他 ほか に悟 さと り を求 もと めることを良 い しとせず、只管 ひたすら に坐禅 ざぜん を勤 つと めることに特色 とくしょく がある。
道元 どうげん は自分 じぶん の教 おし えは「正伝 せいでん の仏法 ぶっぽう 」であるとして党派 とうは 性 せい を否定 ひてい し、禅宗 ぜんしゅう と呼 よ ばれることも嫌 きら った。
初期 しょき は在家 ありいえ への布教 ふきょう にも熱心 ねっしん であったが、晩年 ばんねん は出家 しゅっけ 第 だい 一 いち 主義 しゅぎ の立場 たちば を取 と った(『正 せい 法眼 ほうげん 蔵 ぞう 』十 じゅう 二 に 巻 かん 本 ほん 参照 さんしょう )。その後 ご 、總持寺 そうじじ 開山 かいさん 瑩山 の時代 じだい に、坐禅 ざぜん だけではなく、徐々 じょじょ に儀式 ぎしき や密教 みっきょう の考 かんが え方 かた も取 と り入 い れられ、一般 いっぱん 民衆 みんしゅう に対 たい し全国 ぜんこく 的 てき で急速 きゅうそく な拡大 かくだい をした。
曹洞宗 そうとうしゅう の坐禅 ざぜん は公案 こうあん に拠 よ らず、ただ、ひたすら坐 すわ る(只管 ひたすら 打 だ 坐 すわ )ことが、そのまま本来 ほんらい の自己 じこ を現 げん じている(修 おさむ 証 しょう 不二 ふじ )としているが、公案 こうあん そのものを否定 ひてい しているわけではない。また、法 ほう 系 けい によっては公案 こうあん を用 もち いる流 なが れも存在 そんざい する。
9世紀 せいき に臨済録 ろく に登場 とうじょう する普 ふ 化 か に因 ちな み始 はじ まる。普 ふ 化 か についての記録 きろく はほとんどない。虚 きょ 托 たく (尺八 しゃくはち )を吹 ふ きながら旅 たび をする虚無僧 こむそう で有名 ゆうめい 。日本 にっぽん から中国 ちゅうごく に渡 わた った法燈 ほうとう 国師 こくし が、中国 ちゅうごく 普 ふ 化 か 宗 むね 16代目 だいめ 張 ちょう 参 さん に弟子 でし 入 い りし、1254年 ねん に帰国 きこく することで、日本 にっぽん に伝 つた わった。本山 ほんざん は一 いち 月 がつ 寺 てら (現在 げんざい の千葉 ちば 県 けん 松戸 まつど 市 し )に置 お かれていた。
江戸 えど 時代 じだい に幕府 ばくふ により組織 そしき 化 か されたが、江戸 えど 幕府 ばくふ との繋 つな がりが強 つよ かったため、明治 めいじ になって1871年 ねん に明治 めいじ 政府 せいふ により解体 かいたい された。宗派 しゅうは としては失 うしな われ、臨済宗 りんざいしゅう に編入 へんにゅう された(ちなみに一 いち 月 がつ 寺 てら は現在 げんざい 日蓮 にちれん 正宗 まさむね に属 ぞく する)。しかし、尺八 しゃくはち や虚 きょ 托 たく の師匠 ししょう としてその質 しつ を伝 つた える流 なが れが現在 げんざい も伝 つた わっている。
1654年 ねん (江戸 えど 時代 じだい )に、明 あかり から招 まね かれた中国 ちゅうごく 臨済宗 りんざいしゅう の隠元 いんげん 隆 たかし 琦禅師 ぜんじ により始 はじ まる。当初 とうしょ 「臨済真宗 しんしゅう 」を標榜 ひょうぼう しようとしたが幕府 ばくふ の許可 きょか が得 え られず、臨済の師 し 黄檗 おうばく 希 まれ 運 うん の名 な を取 と り臨済宗 りんざいしゅう 黄檗 おうばく 派 は と称 しょう した。明朝 みょうちょう 風 ふう の禅 ぜん と念仏 ねんぶつ が一体化 いったいか した禅 ぜん 浄 きよし 混淆 こんこう 禅 ぜん (分 わ かり易 やす く「念仏 ねんぶつ 禅 ぜん 」とも称 しょう される。)を特徴 とくちょう とし、読経 どきょう が楽器 がっき を伴 ともな う明 あかり 風 ふう の梵唄 ぼんばい であることで知 し られる。また、1663年 ねん に萬福寺 まんぷくじ に設 もう けられた戒壇 かいだん をはじめ、各地 かくち で授戒 じゅかい 会 かい を開 ひら いたことで、江戸 えど 時代 じだい の戒律 かいりつ 復興 ふっこう 運動 うんどう に影響 えいきょう を与 あた えた。江戸 えど 時代 じだい を通 つう じて一 いち 宗 むね として見 み 做されることなく、臨済宗 りんざいしゅう の一派 いっぱ で終始 しゅうし した。黄檗宗 おうばくしゅう を名乗 なの り、臨済宗 りんざいしゅう から独立 どくりつ を果 は たしたのは、明治維新 めいじいしん 後 ご の1876年 ねん のことであり、明治 めいじ 以後 いご に禅宗 ぜんしゅう 中 ちゅう の一 いち 宗 むね となった。
禅宗 ぜんしゅう の坐禅 ざぜん における禅定 ぜんじょう の種類 しゅるい [ 編集 へんしゅう ]
栄西 えいさい は『興 きょう 禅 ぜん 護国 ごこく 論 ろん 』で『楞伽経 けい 』を引 ひ いて坐禅 ざぜん は四 よん 種類 しゅるい あると説 と いている。
愚 ぐ 夫 おっと 所行 しょぎょう 禅 ぜん
凡夫 ぼんぷ ・外道 げどう [ 注釈 ちゅうしゃく 10] が、単 たん に心 しん をカラにして分別 ふんべつ を生 しょう じないのを禅定 ぜんじょう だと思 おも っている境地 きょうち 。達磨 だるま 大師 だいし は、内心 ないしん に悶 もだ えることなく外 そと に求 もと めることもないこの境地 きょうち が壁 かべ のように[ 注釈 ちゅうしゃく 11] 動 うご かなくなれば、そこではじめて仏道 ぶつどう に入 はい ることができると説 と く。
観察 かんさつ 相 しょう 義 ぎ 禅 ぜん
小乗 しょうじょう ・三 さん 賢 けん の菩薩 ぼさつ が、教 おそ わった仏法 ぶっぽう を観察 かんさつ し思惟 しい する境地 きょうち 。しかし、いまだ仏法 ぶっぽう ・涅槃 ねはん を求 もと める強 つよ い欲心 よくしん があるがために悟 さと りを開 あ けないでいる。人々 ひとびと がいつまでも苦 くる しみの輪廻 りんね を逃 のが れられないのは、このように我 わ が身 み にとらわれて自分 じぶん さえよければと欲求 よっきゅう することが、結果 けっか 的 てき に罪業 ざいごう [ 注釈 ちゅうしゃく 12] を作 つく る結果 けっか となるからである。夢 ゆめ 窓 まど 国師 こくし は、もし自分 じぶん を忘 わす れ一切 いっさい の欲 よく を投 な げ捨 す てて利他 りた 心 しん を起 お こせば、すぐさま仏性 ぶっしょう が発揮 はっき されて、生 い き仏 ぼとけ になることができると説 と く。
攀 よじ 縁 えん 如実 にょじつ 禅 ぜん
大乗 だいじょう の菩薩 ぼさつ が、中道 ちゅうどう を覚 さと って三業 さんぎょう [ 注釈 ちゅうしゃく 13] を忘 わす れ、有 あ るでもなし空 そら でもなしと達観 たっかん する境地 きょうち 。生 い きとし生 い けるものすべての生滅 しょうめつ の苦 くる しみに同情 どうじょう し、苦 くる しみを抜 ぬ いて楽 らく を与 あた えるべく苦慮 くりょ しており、その姿勢 しせい にはもはや自他 じた の区別 くべつ がない。しかし衆生 しゅじょう を救 すく う願 ねがい があるがために如来 にょらい 清浄 せいじょう 禅 ぜん に入 はい ることができない[ 注釈 ちゅうしゃく 14] 。
如来 にょらい 清浄 せいじょう 禅 ぜん
如来 にょらい と同 おな じ境地 きょうち に入 はい り、みずから覚 さと って聖 せい なる智慧 ちえ が現 あらわ れたすがた。禅宗 ぜんしゅう で、坐禅 ざぜん によって本分 ほんぶん の田地 でんち 、本来 ほんらい の仏性 ぶっしょう に知 し らず知 し らずに立 た ち返 かえ るというのは、前記 ぜんき の二 に 禅 ぜん を飛 と び越 こ え、愚 ぐ 夫 おっと 所行 しょぎょう 禅 ぜん から直 じか にこの位 くらい に達 たっ することを意味 いみ する。それゆえ如来 にょらい 十 じゅう 号 ごう も菩薩 ぼさつ 五 ご 十 じゅう 二 に 位 い も枝葉 えだは 末節 まっせつ であるとされる。
また、愚 ぐ 夫 おっと 所行 しょぎょう 禅 ぜん から如来 にょらい 清浄 せいじょう 禅 ぜん に至 いた るまでの上達 じょうたつ の様子 ようす については『鉄 てつ 眼 め 禅師 ぜんじ 仮 かり 字 じ 法語 ほうご 』に詳 くわ しい。
方便 ほうべん 法輪 ほうりん 。日本 にっぽん の禅 ぜん では、仏祖 ぶっそ ・禅師 ぜんじ の本意 ほんい ではないものの、本意 ほんい を伝 つた える手段 しゅだん となりうるという意味 いみ で方便 ほうべん という。またいかにすれば仏性 ぶっしょう を発現 はつげん できるかを模索 もさく する、柔軟 じゅうなん な心構 こころがま えをいう。教 きょう 宗 むね の学 まなべ 、真言宗 しんごんしゅう の三 さん 密 みつ 、律 りつ 宗 むね の戒律 かいりつ のようなものである。
只管 ひたすら 打 だ 坐 すわ (しかんたざ)
ただひたすらに坐禅 ざぜん を実践 じっせん せよの意味 いみ 。ひたすらとは禅定 ぜんじょう の深 ふか さを表現 ひょうげん した言葉 ことば である。意識 いしき を捨 す てて無意識 むいしき 下 か において坐禅 ざぜん する[ 注釈 ちゅうしゃく 15] 、坐禅 ざぜん そのものになりきることを意味 いみ する。いま坐禅 ざぜん している自分 じぶん がいる、という自覚 じかく すら忘 わす れてしまうほどに、坐禅 ざぜん という行為 こうい そのものに没頭 ぼっとう する(坐 すわ 忘)。この手法 しゅほう によって初心者 しょしんしゃ でも、より深 ふか い禅定 ぜんじょう の境地 きょうち を、容易 ようい に体験 たいけん 可能 かのう であるとされる。
ただ、禅宗 ぜんしゅう は臨機応変 りんきおうへん であり、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう はあらゆる道 みち に仏道 ぶつどう が含 ふく まれていると考 かんが えるので、坐禅 ざぜん 以外 いがい のことはしてはならないということはないが、このようなことは初心者 しょしんしゃ には理解 りかい が及 およ ばず、そのために初心者 しょしんしゃ 向 む けの方便 ほうべん として只管 ひたすら 打 だ 坐 すわ [ 注釈 ちゅうしゃく 16] ・修 おさむ 証 しょう 一如 いちにょ [ 注釈 ちゅうしゃく 17] こそが禅宗 ぜんしゅう の極意 ごくい であるということが言 い われる。坐禅 ざぜん の境地 きょうち には上下 じょうげ なく、坐禅 ざぜん すれば等 ひと しく仏 ほとけ であるという喝 かつ も、只管 ひたすら 打 だ 坐 すわ を奨励 しょうれい する一種 いっしゅ の暗喩 あんゆ 的 てき 方便 ほうべん である。
ただし今 こん 世 よ で悟 さと りを開 あ けずとも、坐禅 ざぜん の功徳 くどく によって来世 らいせ では悟 さと りを開 ひら く事 こと ができるとされるため、坐禅 ざぜん をすればそのままただちに仏 ほとけ である(坐禅 ざぜん しなければいつまでも仏 ほとけ にはなれない)という意味 いみ 通 どお りの解釈 かいしゃく も間違 まちが いではない。仏道 ぶつどう 成就 じょうじゅ の早 はや い遅 おそ いについて達磨 だるま いわく、心 しん がすでに道 みち である者 もの は早 はや く、志 こころざし を発 はっ して順々 じゅんじゅん に修行 しゅぎょう を重 かさ ねる人 ひと は遅 おそ く、両者 りょうしゃ には百 ひゃく 千 せん 万 まん 劫 こう もの時間 じかん 差 さ があるという。深 ふか く正 ただ しく坐禅 ざぜん する者 もの は早 はや く、しなければ遅 おそ いという意味 いみ の一連 いちれん の喝 かつ は、学習 がくしゅう よりも坐禅 ざぜん の実践 じっせん を強調 きょうちょう する表現 ひょうげん 手法 しゅほう である。
公案 こうあん 禅 ぜん (こうあんぜん)
達磨 だるま 大師 だいし が西 にし から旅 たび をして来 き た理由 りゆう は、国外 こくがい の仏教 ぶっきょう の衰 おとろ えを憂 うれ えて、悟 さと るために重要 じゅうよう なものが坐禅 ざぜん の実践 じっせん であり、経典 きょうてん の学習 がくしゅう ではないことを宣教 せんきょう するためであるとされる。しかし、ひとまず思考 しこう ・議論 ぎろん ・学習 がくしゅう を止 と めよと教 おし えても、なぜ止 と めねばならないかについて思考 しこう ・議論 ぎろん ・学習 がくしゅう を始 はじ めてしまうような思考 しこう 癖 へき のある修行 しゅぎょう 者 しゃ にとって、只管 ひたすら 打 だ 坐 すわ は至難 しなん の方法 ほうほう となる。
そのような修行 しゅぎょう 者 しゃ は、いかなる経典 きょうてん を学 まな ぶとも、悟 さと りというものの共感 きょうかん が得 え られないために、想像 そうぞう をふくらませて解釈 かいしゃく しようとする。無理 むり な想像 そうぞう は妄想 もうそう となって理解 りかい に歪 ゆが みを生 しょう じ、自 みずか ら生 う み出 だ した曲解 きょっかい に妨 さまた げられてますます悟 さと りから遠 とお のくという事態 じたい は、昔 むかし から多 おお くの師家 しか を悩 なや ませてきた。経典 きょうてん を学 まな ぶにしても、学 まな び手 しゅ に必要 ひつよう なものはまず悟 さと りの体験 たいけん である。悟 さと りというものは自分 じぶん の心 しん で自分 じぶん の心 しん を確認 かくにん し、自分 じぶん の心 しん で自分 じぶん の心 しん を理解 りかい するものである。他人 たにん に頼 たよ って何 なに かを明 あき らかにするとか、自分 じぶん 以外 いがい の何 なに かを利用 りよう して体得 たいとく するようなものではない。
従 したが って、悟 さと るためには何 なに よりもまず坐禅 ざぜん の実践 じっせん によって自分 じぶん 自身 じしん と向 む き合 あ うことが肝要 かんよう である。こうした問題 もんだい 意識 いしき から、思考 しこう 癖 へき のある聡 さと い修行 しゅぎょう 者 しゃ に坐禅 ざぜん を実践 じっせん させるために、禅師 ぜんじ たちが考 かんが え出 だ した方法 ほうほう が公案 こうあん 禅 ぜん である。修行 しゅぎょう 者 しゃ に公案 こうあん を与 あた え、行住坐臥 ぎょうじゅうざが つねに公案 こうあん の答 こた えを考 かんが えさせるのである。
公案 こうあん
公案 こうあん は直 じか に悟 さと りの境地 きょうち を指 さ ししたものであり、ひらめきと一体化 いったいか したい表 いあらわ せない感情 かんじょう 的 てき なものである。心 こころ がけがよくなく、このままではまちがった方向 ほうこう に進 すす むおそれのある修行 しゅぎょう 者 しゃ [ 注釈 ちゅうしゃく 18] に対 たい して、師家 しか が薬 くすり のような意味合 いみあ いで修行 しゅぎょう 者 しゃ に授 さづ ける。
内容 ないよう は、昔 むかし の高僧 こうそう の言葉 ことば を使 つか うこともあれば、即興 そっきょう で作 つく られることもある。公案 こうあん を与 あた えられた修行 しゅぎょう 者 しゃ は、その言葉 ことば がどのような本意 ほんい から創造 そうぞう されたかを正 まさ しく悟 さと って、師家 しか の前 まえ で心 しん を以 もっ て回答 かいとう することを要求 ようきゅう される。公案 こうあん の多 おお くが自己 じこ 矛盾 むじゅん 的 てき 文体 ぶんたい を為 な しており、そのまま意味 いみ を理解 りかい しようとしても論理 ろんり 的 てき に破綻 はたん する場合 ばあい が多 おお い。公案 こうあん の答 こた えは常識 じょうしき 的 てき な思考 しこう の届 とど かないところにあり、自己 じこ を消 け し去 さ ることで矛盾 むじゅん を解消 かいしょう したり、矛盾 むじゅん を止揚 しよう して高次 こうじ の段階 だんかい で統一 とういつ したものである場合 ばあい が多 おお い。そういった答 こた えに至 いた る過程 かてい に禅 ぜん の極意 ごくい が含 ふく まれているとし、修行 しゅぎょう 者 しゃ を正 ただ しい悟 さと りに導 みちび くための工夫 くふう の一 ひと つとされる。
ただし、このような学習 がくしゅう を捨 す てて坐禅 ざぜん させるという方法 ほうほう は、師家 しか の善良 ぜんりょう な監督 かんとく 下 か にあって庇護 ひご を受 う けることができる出家 しゅっけ の僧侶 そうりょ に向 む けたものであり、在家 ありいえ の信者 しんじゃ は坐禅 ざぜん と学習 がくしゅう の両方 りょうほう を行 おこな う必要 ひつよう があるとされる。
内観 ないかん
禅 ぜん の修行 しゅぎょう が厳 きび しく、師家 しか のほうでも敢 あ えて禅 ぜん 人 じん を苦 くる しめるのは、富貴 ふうき で安穏 あんのん であれば仏道 ぶつどう を求 もと めることが困難 こんなん だからである。釈迦 しゃか が王位 おうい に就 つ いて姫 ひめ と歓楽 かんらく に耽 ふけ り、国中 くになか の財産 ざいさん を集 あつ めた贅沢 ぜいたく 三昧 ざんまい の生活 せいかつ を、自 みずか ら捨 す てて出家 しゅっけ して六 ろく 年間 ねんかん の苦行 くぎょう をしたのも、このような理由 りゆう であるとされる。
不意 ふい に病 やまい にかかり、気 き を失 うしな って死 し んだ方 ほう がましだと思 おも うような病苦 びょうく の中 なか にあるときこそ必死 ひっし に坐禅 ざぜん すれば、またとない大悟 たいご の機会 きかい となる。たとえ大悟 たいご を得 え られなくとも、その時 とき の苦 くる しみを思 おも い返 かえ せば多少 たしょう の生活 せいかつ の苦 くる しみは取 と るに足 た りなくなる。また、無始無終 むしむしゅう の生死 せいし の迷 まよ いを打破 だは し、如来 にょらい の悟 さと りに徹底 てってい するような、めでたい事 こと は少 すこ しばかりの艱難辛苦 かんなんしんく なしには、得 え られるものではないという覚悟 かくご が、必要 ひつよう であるとされる。
とはいえ参禅 さんぜん が限度 げんど を超 こ えて神経 しんけい 衰弱 すいじゃく の苦 くる しみにある修行 しゅぎょう 者 しゃ を見 み かねた白 しろ 隠 かくれ 禅師 ぜんじ が、その治療 ちりょう 方法 ほうほう としての内観 ないかん の秘法 ひほう を伝授 でんじゅ した。神経 しんけい 衰弱 すいじゃく から来 く る禅 ぜん 病 びょう を直 なお すための心身 しんしん の休養 きゅうよう 方法 ほうほう であり、心身 しんしん がもとより空虚 くうきょ なものであることを体験 たいけん するために、24時 じ 間 あいだ の睡眠 すいみん と禅宗 ぜんしゅう 的 てき なイメージトレーニングと数 すう 息 いき 観 かん と丹田 たんでん 呼吸 こきゅう を行 おこな う。
二入 ふたいり 四 よん 行 ぎょう
達磨 だるま が伝 つた えたとされる二 ふた つの真理 しんり への至 いた り方 かた と、四 よっ つの実践 じっせん 方法 ほうほう 。悟 さと り に至 いた る方法 ほうほう は数多 かずおお くあるが、それらはすべてこの二 ふた つに要約 ようやく されるとする。
霊魂 れいこん (精神 せいしん の永遠 えいえん 性 せい 、小我 しょうが )の否定 ひてい [ 編集 へんしゅう ]
禅宗 ぜんしゅう (特 とく には臨済宗 りんざいしゅう )では肉体 にくたい と精神 せいしん とは同一 どういつ のものと考 かんが え、区別 くべつ をしない。肉体 にくたい があるから精神 せいしん もありうるのであり、精神 せいしん があるというならばそこには発生 はっせい 原因 げんいん として肉体 にくたい がなければならない。そのような意味 いみ で、肉体 にくたい がそのまま精神 せいしん であり、精神 せいしん は肉体 にくたい である。もし死体 したい を見 み て、肉体 にくたい は滅 ほろ んだが精神 せいしん はどこかへ移動 いどう して不滅 ふめつ のまま残 のこ っていると考 かんが えるならば、これは大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう ではない。霊魂 れいこん の存在 そんざい を認 みと めると生 なま と死 し に関 かん する深 ふか い執着 しゅうちゃく が発生 はっせい するため、仏道 ぶつどう 成就 じょうじゅ を阻害 そがい するとされる。
禅宗 ぜんしゅう では、心 しん というものは刻一刻 こくいっこく と変化 へんか しており、これこそ我 わ が心 しん であるといえるような一定 いってい の形態 けいたい を持 も たないと考 かんが える。したがってこの心 しん は実 じつ は幻 まぼろし の心 しん である。この点 てん では肉体 にくたい についても同様 どうよう のことが言 い え、肉体 にくたい だと思 おも っているものは実 じつ は物質 ぶっしつ が縁 えん によって和合 わごう して仮 かり に人間 にんげん のすがたが現 あらわ れたものにすぎず(=五蘊 ごうん 仮 かり 和合 わごう )、縁 えん が滅 ほろ ぶ時 とき には元通 もとどお りバラバラになるためまったく実体 じったい がない。したがって心身 しんしん はもとより一 ひと つの幻 まぼろし である[ 注釈 ちゅうしゃく 19] 。幻 まぼろし だから、生 い きたり死 し んだりするものではない。生 い きたり死 し んだりしないから、常住 じょうじゅう 不滅 ふめつ である[ 注釈 ちゅうしゃく 20] 。
もし悟 さと った禅僧 ぜんそう が、心身 しんしん は一如 いちにょ であり肉体 にくたい も精神 せいしん も不滅 ふめつ であるというならば、これは仏性 ぶっしょう を直 じき 指 さ した奥 おく の深 ふか い説法 せっぽう であるといえる(無常 むじょう 喝 かつ : 諸行無常 しょぎょうむじょう 是 ぜ 生滅 しょうめつ 法 ほう 生滅 しょうめつ 滅 めつ 已 やめ 寂滅 じゃくめつ 為 ため 楽 らく )。
日本 にっぽん へ入 はい ってきた禅 ぜん の宗教 しゅうきょう 観 かん は在来 ざいらい の諸 しょ 文化 ぶんか に多大 ただい なる影響 えいきょう を与 あた え、日本人 にっぽんじん の気質 きしつ や日本 にっぽん の風土 ふうど と融合 ゆうごう し、独自 どくじ の発展 はってん を遂 と げていった。
華美 かび を好 この まず、極力 きょくりょく 装飾 そうしょく や無駄 むだ を排 はい するミニマリズム に基 もと づく様式 ようしき で、鎌倉 かまくら 文化 ぶんか からその影響 えいきょう が見 み られはじめ、室町 むろまち 文化 ぶんか (中 なか でも東山 ひがしやま 文化 ぶんか )となって、国風 くにぶり 文化 ぶんか により生 う まれた日本 にっぽん 文化 ぶんか (和様 わよう )と完全 かんぜん に融合 ゆうごう し、独自 どくじ 性 せい を確立 かくりつ した。また江戸 えど 時代 じだい にかけて、禅 ぜん は武家 ぶけ などに限 かぎ られたものから一般 いっぱん 庶民 しょみん にまで普及 ふきゅう し、鎖国 さこく 政策 せいさく と相 あい まって、その文化 ぶんか としての独自 どくじ 性 せい や定着 ていちゃく 度 ど は増 ま していった。禅 ぜん の受容 じゅよう は、武家 ぶけ 文化 ぶんか の発展 はってん とともにあり、それは武士 ぶし の生活 せいかつ 様式 ようしき ・精神 せいしん 性 せい の根幹 こんかん の一 ひと つが、禅 ぜん であったことを示 しめ している。
禅 ぜん の芸術 げいじゅつ が作 つく られたのは禅 ぜん 寺 てら においてであったが、こと室町 むろまち 時代 じだい においては、禅 ぜん 寺 てら は中国 ちゅうごく 文化 ぶんか の受 う け入 い れ窓口 まどぐち としても機能 きのう していた。宋 そう ・元 もと ・明 あかり 由来 ゆらい の禅 ぜん ・世俗 せぞく 美術 びじゅつ の受容 じゅよう が禅僧 ぜんそう を通 つう じておこなわれ、水墨 すいぼく 画 が や枯山水 かれさんすい 、茶道 さどう 、華道 かどう といった、いわゆる日本 にっぽん 文化 ぶんか の代表 だいひょう 的 てき な部分 ぶぶん が形成 けいせい されることとなった。例 たと えば、京都 きょうと の相国寺 しょうこくじ からは、如拙 、周 しゅう 文 ぶん 、雪舟 せっしゅう といった画 が 僧 そう が輩出 はいしゅつ されている。また、禅 ぜん 寺 てら は禅僧 ぜんそう 、公家 くげ 、武士 ぶし が交流 こうりゅう するサロンとしての役割 やくわり を果 は たしたことで、寺院 じいん に付属 ふぞく する書院 しょいん や庭園 ていえん 美術 びじゅつ が発達 はったつ した。この分野 ぶんや では、臨済宗 りんざいしゅう の僧侶 そうりょ 、夢 ゆめ 窓 まど 疎 うと 石 せき が多大 ただい な役割 やくわり を果 は たしている。
なお中国 ちゅうごく 文化 ぶんか において禅 ぜん は、前項 ぜんこう にも関連 かんれん するが、明 あきら 時代 じだい 以降 いこう の衰退 すいたい や、元来 がんらい の多 た 民族 みんぞく 国家 こっか という機構 きこう 、また近代 きんだい の列強 れっきょう による支配 しはい や戦後 せんご の文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい などによって、文化 ぶんか 浄化 じょうか が常 つね に一定 いってい の期間 きかん で発生 はっせい し、人々 ひとびと の生活 せいかつ に根強 ねづよ く定着 ていちゃく することはなかった(この傾向 けいこう は禅 ぜん に限 かぎ らない)[要 よう 出典 しゅってん ] 。鈴木 すずき 大拙 だいせつ が1938年 ねん に『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture(禅 ぜん と日本 にっぽん 文化 ぶんか )』と題 だい して世界 せかい に禅 ぜん を広 ひろ めたことや、実際 じっさい に日本 にっぽん 以上 いじょう に禅 ぜん を文化 ぶんか として吸収 きゅうしゅう した国 くに は他 た にないため、禅 ぜん を日本 にっぽん の宗教 しゅうきょう として捉 とら えている者 もの も少 すく なくない。
近年 きんねん でも世界 せかい 的 てき に禅 ぜん の思想 しそう が許容 きょよう される要因 よういん には、「宗教 しゅうきょう らしくない」そのシンプルさや自由 じゆう 度 ど の高 たか さが挙 あ げられている[ 16] 。
枯山水 かれさんすい (京都 きょうと ・龍安寺 りゅうあんじ 石庭 いしにわ )
『松林 まつばやし 図 ず 屏風 びょうぶ 』(長谷川 はせがわ 等伯 とうはく 作 さく )
絵画 かいが として水墨 すいぼく 画 が 、施設 しせつ として枯山水 かれさんすい をはじめとする日本 にっぽん 庭園 ていえん 、趣味 しゅみ 嗜好 しこう 品 ひん や置物 おきもの として盆栽 ぼんさい やだるま などがある。伝統 でんとう 工芸 こうげい 品 ひん には、彫刻 ちょうこく 、陶磁器 とうじき や竹細工 たけざいく 、日本 にっぽん 刀 がたな の拵 こしら えなどに禅 ぜん の影響 えいきょう が見 み られる。
京都 きょうと ・慈照寺 じしょうじ (銀閣寺 ぎんかくじ )
数寄屋造 すきやづくり (旧 きゅう 松江 まつえ 藩士 はんし ・武家 ぶけ 屋敷 やしき )
寺院 じいん として禅宗 ぜんしゅう 様 さま 、住宅 じゅうたく として書院造 しょいんづくり や数寄屋造 すきやづく り (茶室 ちゃしつ )などがある。禅宗 ぜんしゅう 様 さま は南 みなみ 宋 そう の建築 けんちく 様式 ようしき を取 と り入 い れながら成立 せいりつ した。この様式 ようしき は、同 おな じく鎌倉 かまくら 時代 じだい に伝 つた わった大 だい 仏様 ほとけさま とともに、後世 こうせい の日本 にっぽん における伝統 でんとう 建築 けんちく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。書院造 しょいんづくり や数寄屋造 すきやづく りは、現代 げんだい に言 い う和風 わふう 住宅 じゅうたく や和室 わしつ の様式 ようしき を確立 かくりつ させた。
江戸 えど 時代 じだい の臨済僧 そう 、無 む 著 ちょ 道 どう 忠 ただし は、『禅林 ぜんりん 象 ぞう 器 き 箋』において、七堂伽藍 しちどうがらん が人間 にんげん の身体 しんたい の7つの部位 ぶい に対応 たいおう していると説明 せつめい している。
日本 にっぽん 茶 ちゃ と和菓子 わがし
精進 しょうじん 料理 りょうり 、懐石 かいせき 料理 りょうり などがあり、日本 にっぽん 料理 りょうり の確立 かくりつ に貢献 こうけん した。中 なか でも日本人 にっぽんじん が現代 げんだい でも最 もっと も好 この んで飲 の んでいる日本 にっぽん 茶 ちゃ は、禅 ぜん による影響 えいきょう が多大 ただい であり、それに付随 ふずい して饅頭 まんじゅう をはじめとする和菓子 わがし も確立 かくりつ 、発展 はってん した。
僧衣 そうい から派生 はせい したが、特 とく に衣服 いふく の柄 え や生地 きじ の趣味 しゅみ にその影響 えいきょう が見 み られる。江戸 えど 時代 じだい には、幕府 ばくふ によって服装 ふくそう に華美 かび なものが規制 きせい されるほどであった(奢侈 しゃし 禁止 きんし 令 れい )。色 いろ 無地 むじ や江戸 えど 小紋 こもん などが著名 ちょめい である。近代 きんだい では作 さく 務 つとむ 衣 ころも に、またユニクロ や無印 むじるし 良品 りょうひん 、スティーブ・ジョブズ の服装 ふくそう に代表 だいひょう されるノームコア などにも同様 どうよう の影響 えいきょう が見 み られる。
茶道 さどう
居合 いあい 道 どう
茶道 さどう をはじめ、書道 しょどう や能楽 のうがく 、邦楽 ほうがく など、あらゆる分野 ぶんや にその影響 えいきょう が見 み られる。特 とく に芸道 げいどう の根幹 こんかん をなす「形 かたち 」(型 かた )は、禅 ぜん の思想 しそう から生 う まれたともされる。禅 ぜん の楽器 がっき として、虚無僧 こむそう との繋 つな がりから尺八 しゃくはち がある。
禅 ぜん は元来 がんらい より武術 ぶじゅつ との関係 かんけい が深 ふか く、中国 ちゅうごく では禅 ぜん 発祥 はっしょう の地 ち とも言 い われる嵩山 すせ 少林寺 しょうりんじ での少 しょう 林 はやし 拳 けん が有名 ゆうめい である。また日本 にっぽん では、禅 ぜん が芸道 げいどう としての武道 ぶどう の成立 せいりつ に寄与 きよ した。これは、禅 ぜん がはじめて伝 つた えられた時期 じき が武家 ぶけ が政治 せいじ の表 おもて 舞台 ぶたい に立 た つようになった鎌倉 かまくら 時代 じだい であったことと、彼 かれ ら武士 ぶし の精神 せいしん 状況 じょうきょう と相性 あいしょう が良 よ かったことが背景 はいけい にあった。中世 ちゅうせい 以前 いぜん から続 つづ いていた武術 ぶじゅつ (古 こ 武道 ぶどう )には、香取 かとり 神宮 じんぐう と鹿島 かしま 神宮 じんぐう に代表 だいひょう される神道 しんとう に根源 こんげん を置 お くものも少 すく なくないが、禅 ぜん の影響 えいきょう もそれと同 おな じほど多大 ただい である。例 れい として、剣豪 けんごう の上泉 かみいずみ 信綱 のぶつな や柳生 やぎゅう 宗厳 むねよし が武術 ぶじゅつ を学 まな ぶ意義 いぎ として禅 ぜん 語 ご 「刹人刀 がたな ・活 かつ 人 じん 剣 けん 」を用 もち いたり、禅僧 ぜんそう の沢庵 たくあん 宗彭 そうほう が著書 ちょしょ 『不動 ふどう 智 さとし 神妙 しんみょう 録 ろく 』において「剣 けん 禅 ぜん 一致 いっち 」を説 と くなどしている。また岐阜 ぎふ 県 けん (大仙 だいせん 寺 てら )と山形 やまがた 県 けん (釜 がま ヶ沢 さわ 大明神 だいみょうじん )には、それぞれ剣豪 けんごう の宮本 みやもと 武蔵 むさし と居合 いあい 術 じゅつ 始祖 しそ の林崎 はやしざき 甚助 じんすけ が座禅 ざぜん したとされる石 いし 「座禅 ざぜん 石 せき 」が現存 げんそん している。近年 きんねん では、ドイツ の哲学 てつがく 者 しゃ オイゲン・ヘリゲル が著書 ちょしょ 『Zen in der Kunst des Bogenschießens (弓 ゆみ と禅 ぜん )』を執筆 しっぴつ し、弓術 きゅうじゅつ (弓道 きゅうどう )と禅 ぜん を関連 かんれん づけて、世界 せかい に伝 つた えた。
幽玄 ゆうげん 、渋 しぶ み 、侘 わ び寂 さ び などがある。武士 ぶし 道 どう の成立 せいりつ にも多大 ただい な影響 えいきょう を与 あた えた。また粋 いき (いき)や通 つう (つう)といった、外見 がいけん 的 てき には質素 しっそ さを求 もと め、内面 ないめん に対 たい してこだわりを求 もと めるような美意識 びいしき も、禅 ぜん の影響 えいきょう があると言 い われる。
禅 ぜん 者 しゃ でもある仏教 ぶっきょう 学者 がくしゃ の鈴木 すずき 大拙 だいせつ によって20世紀 せいき に日本 にっぽん からアメリカ 、ヨーロッパ へと禅 ぜん が紹介 しょうかい された。更 さら にはサンフランシスコ禅 ぜん センター を開 ひらけ 創 そう した鈴木 すずき 俊隆 としたか によるZen Mind, Beginner's Mind や、弟子 でし 丸 まる 泰 やすし 仙 せん によってヨーロッパでの布教 ふきょう により、日本語 にほんご の発音 はつおん による Zen が世界 せかい 的 てき に広 ひろ まり、臨済宗 りんざいしゅう 、曹洞宗 そうとうしゅう 共 ども にアメリカやヨーロッパに寺院 じいん を構 かま えている。
現在 げんざい [いつ? ] 、ベルギー ではセクト(カルト )に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ 政府 せいふ 文書 ぶんしょ により禅 ぜん が浄土真宗 じょうどしんしゅう や上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう と同時 どうじ にセクト (カルト)の一 ひと つとして分類 ぶんるい されている。1997年 ねん にフランス 、ドイツ 、オーストリア に続 つづ き、セクト(カルト)に対 たい する政策 せいさく を作 つく るためベルギー代議 だいぎ 院 いん の社会 しゃかい 正義 せいぎ 委員 いいん 会 かい で審理 しんり 委員 いいん 会 かい が設 もう けられた。同 どう 委員 いいん 会 かい が作成 さくせい した、670ページにわたる報告 ほうこく 書 しょ に取 と り上 あ げられた189の運動 うんどう の中 なか に禅 ぜん も含 ふく まれている。ただし、「このリストに載 の っている事実 じじつ は、公訴 こうそ の調査 ちょうさ 中 ちゅう であったとしても、当 とう 委員 いいん 会 かい がその運動 うんどう をカルトと見 み 做しているとは意味 いみ しない」とも記 しる されている。
^ 了 りょう 義 よし (りょうぎ)。解 わか りやすく崩 くず したり表現 ひょうげん を変 か えるようなことをせず、完全 かんぜん ・明白 めいはく に説 と かれた教 おし え。『涅槃 ねはん 経 けい 』の四 よん 依 よ 品 しな には、末代 まつだい の人 ひと は了 りょう 義 ぎ によるべきであり、不 ふ 了 りょう 義 ぎ によってはならないとある。
^ 棄悪(きあく)。心 しん の正 せい しき働 はたら きを覆 おお い隠 かく すような一切 いっさい の悪 あく を捨 す て去 さ る
^ 功徳 くどく 叢林 そうりん (くどくそうりん)。衆 しゅう 徳 とく のあつまること叢林 そうりん のようである。
^ 念 ねん 修 おさむ (ねんしゅう)。修 おさむ は習得 しゅうとく すること。習得 しゅうとく して得 え られるものは棄悪・功徳 くどく 叢林 そうりん である。
^ 悟 さと りは文字 もじ によって得 え ることはできないとはいえ、沈黙 ちんもく によっても得 え ることができないとされるため、一切 いっさい の説明 せつめい を行 おこな わないということはなく、臨機応変 りんきおうへん な方便 ほうべん として様々 さまざま な方法 ほうほう で説 と かれる。
^ 教 きょう 外 がい 別伝 べつでん (きょうげべつでん)。人格 じんかく を相伝 そうでん すること。文字 もじ や言葉 ことば を残 のこ す以外 いがい にも、禅師 ぜんじ の全 ぜん 人格 じんかく をそのまま弟子 でし に伝 つた えることが重要 じゅうよう であるとされる。
^ 師資 しし 相承 そうしょう (ししそうしょう)。悟 さと りの機微 きび は師 し から弟子 でし へと受 う け継 つ ぐべきものであり、それが法 ほう 脈 みゃく となって後世 こうせい の人々 ひとびと を救 すく う。生 い きた仏 ふつ として残 のこ るため個別 こべつ のケースに応 おう じた柔軟 じゅうなん な指導 しどう が可能 かのう となる。そのため固定 こてい の戒律 かいりつ を持 も たず、固定 こてい の修行 しゅぎょう 方法 ほうほう を持 も たず、特別 とくべつ な本尊 ほんぞん を定 さだ めることもなく、必 かなら ず出家 しゅっけ しなければならないというような決 き まった形 かたち もない。
^ 臨機応変 りんきおうへん (りんきおうへん)。例 たと えば、あまりに経典 きょうてん を大切 たいせつ にしすぎる人 ひと には、正 せい 法眼 ほうげん 蔵 ぞう も世尊 せそん 拈 ひね 華 はな も真実 しんじつ の悟 さと りから見 み れば寝言 ねごと のようなものであるといって捨 す てさせたり、あまりに経典 きょうてん を軽 かる んじすぎる人 ひと には読経 どきょう を勧 すす めたりといったことである。
^ 実 じつ は『六 ろく 祖 そ 壇 だん 経 けい 』に慧 とし 能 のう は「本来 ほんらい 正教 せいきょう 無 む 有 ゆう 頓 ひたすら 漸 やや (正 ただ しい教 おし えに本来 ほんらい は頓 ひたぶる も漸 やや もない)」と説 と いている。従 したが って差異 さい があると主張 しゅちょう していたのは神 かみ 会 かい である。
^ 外道 げどう とは仏教 ぶっきょう 以外 いがい の宗教 しゅうきょう 者 しゃ のこと
^ 壁 かべ は、外 そと から来 く る妄念 もうねん から内心 ないしん を守 まも り隔 へだ てるものの例 たと えである。のちになって、物質 ぶっしつ 的 てき な本物 ほんもの の壁 かべ の意味 いみ に解 ほぐ されたが、これは誤 あやま りであろう。(柳田 やなぎだ 聖 きよし 山 さん 『達磨 だるま の語録 ごろく 』P51)
^ 身口意 しんくい の三業 さんぎょう (しんくいのさんごう)。みだりに殺 ころ すこと、盗 ぬす むこと、犯 おか すこと、罵 ののし ること、騙 だま すこと、綺語 きご を言 い うこと、詭弁 きべん を言 い うこと、貪 むさぼ ること、怒 おこ ること、邪 よこしま なことの十悪 じゅうあく 。
^ 身口意 しんくい の三業 さんぎょう 。来世 らいせ の生存 せいぞん は業 ごう を因縁 いんねん として決定 けってい する。悪業 あくごう に限 かぎ らず、善 ぜん 業 ぎょう であっても善果 ぜんか としての来世 らいせ が決定 けってい してしまうため、輪廻 りんね を逃 のが れることができない。そのため善悪 ぜんあく そのものを離 はな れてしまうことが重視 じゅうし される。そして苦楽 くらく や生死 せいし についても同様 どうよう に、とらわれないことを重視 じゅうし する。生死 せいし にとらわれなければ、輪廻 りんね もまた消滅 しょうめつ するので、すべてが寂滅 じゃくめつ した世界 せかい 観 かん が開 あ ける、というような意味 いみ である。しかし、このように学 まな んだだけで実感 じっかん を伴 ともな った悟 さと りに至 いた る人 ひと はまれである。それゆえ禅宗 ぜんしゅう では話 はなし をせず、一切 いっさい を投 な げすてて悟 さと りの本分 ほんぶん に直行 ちょっこう させるために教 きょう 外 がい 別伝 べつでん を行 おこな う。
^ 禅宗 ぜんしゅう 以外 いがい の仏教 ぶっきょう 宗派 しゅうは では衆生 しゅじょう を成仏 じょうぶつ させきってから自 みずか らが成仏 じょうぶつ するのが菩薩 ぼさつ であるとされるが、禅宗 ぜんしゅう では先 さき に自 みずか らが成仏 じょうぶつ して如来 にょらい となってから衆生 しゅじょう を導 みちび くことを謳 うた う。この両者 りょうしゃ は手段 しゅだん が違 ちが っているだけで、衆生 しゅじょう を済度 さいど しようという目的 もくてき は同 おな じであるため、どちらが間違 まちが っているということはない。もしこの両者 りょうしゃ について正誤 せいご にとらわれる者 もの があるならば、彼 かれ は自分 じぶん 自身 じしん が小乗 しょうじょう に陥 おちい っていないか省 かえり みる必要 ひつよう があるとする。
^ 睡眠 すいみん 中 ちゅう も無意識 むいしき ではあるが、眠 ねむ りという無明 むみょう が付着 ふちゃく しているために夢 ゆめ を見 み て一喜一憂 いっきいちゆう する。理法 りほう に目覚 めざ めながら目覚 めざ める対象 たいしょう にとらわれないのが仏 ほとけ である。
^ 只管 ひたすら 打 だ 坐 すわ (しかんたざ)。真実 しんじつ の只管 ひたすら 打 だ 坐 すわ は単 たん なる無念 むねん 無想 むそう や無意識 むいしき というようなものではなく、意識 いしき があるでもなくないでもなく、無念 むねん でも有 ゆう 念 ねん でもなくて、心身 しんしん が澄 す み渡 わた った空 そら のように清 きよ くありのままを映 うつ し出 だ す鏡 かがみ のように感 かん じられるところにあるとされる。ただし、この境地 きょうち すらいまだ大悟徹底 たいごてってい ではない。しかし大悟徹底 たいごてってい の前 ぜん 段階 だんかい であるとして歓迎 かんげい される。
^ 修 おさむ 証 しょう 一如 いちにょ (しゅしょういちにょ)。坐禅 ざぜん は、まだ悟 さと っていない者 もの が修行 しゅぎょう によって悟 さと りに到達 とうたつ するようなものではなく、生来 せいらい 的 てき に仏性 ぶっしょう を持 も っている(悟 さと っている)はずの者 もの が改 あらた めて修行 しゅぎょう をするのであって、それは修行 しゅぎょう がそのまま悟 さと りなのであるという意味 いみ の喝 かつ 。どんな凡人 ぼんじん ・外道 げどう も本質 ほんしつ は仏 ほとけ なのであって、もともと悟 さと った仏 ほとけ である者 もの が、ことさら悟 さと りを求 もと めて坐禅 ざぜん するということがあってはならない。仏 ふつ が仏 ふつ になることを目指 めざ すというのであれば、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう が元々 もともと 仏 ほとけ たる性質 せいしつ を指摘 してき する本意 ほんい に反 はん するからである。
このように、心 こころ そのものが即 そく そのまま仏 ほとけ であると教 おし えるのは、悟 さと り・涅槃 ねはん ・仏 ふつ 性 せい に執着 しゅうちゃく させないための方便 ほうべん である。
^ 心 こころ がけの良 よ くない修行 しゅぎょう 者 しゃ とは、はじめから本気 ほんき で仏道 ぶつどう を求 もと める気持 きも ちが無 な く、禅僧 ぜんそう としての名声 めいせい を求 もと めていたり、金 きむ 稼 かせ ぎを目論 もくろ んでいたり、他人 たにん に言 い い負 ま かされたくない一心 いっしん で、あるいは知識 ちしき をひけらかすために経典 きょうてん の学習 がくしゅう を優先 ゆうせん し、初心者 しょしんしゃ に対 たい して褒 ほ め貶 けな しを行 おこな うような者 もの 。
^ 心身 しんしん は幻 まぼろし であると聞 き けば、諸行無常 しょぎょうむじょう のことを言 い っているのだと理解 りかい するかもしれないが、大乗 だいじょう 教 きょう では実体 じったい がないことを理由 りゆう に固定 こてい 観念 かんねん をうち破 やぶ って中道 ちゅうどう に至 いた らせる意味 いみ で使 つか う。水面 すいめん に映 うつ った月 つき は、実相 じっそう であるとは言 い えないが、確 たし かに姿 すがた を映 うつ しているように見 み えるから実相 じっそう ではないとも言 い えない。有 あ るわけでもなし無 な でもなし、しかし有 ゆう でもあり無 む でもあるという中道 ちゅうどう にこそ実相 じっそう があるという意味 いみ である。禅宗 ぜんしゅう では、世界 せかい はこのように曖昧 あいまい であるから捨 す て置 お け、坐禅 ざぜん せよと教 おし える。
^ 唯識 ゆいしき では迷妄 めいもう と悟 さと り が調和 ちょうわ した境地 きょうち を第 だい 八 はち 識、常住 じょうじゅう 不滅 ふめつ の衆生 しゅじょう の本心 ほんしん を第 だい 九 きゅう 識などと区別 くべつ して教 おし えた。
基本 きほん 教義 きょうぎ 人物 じんぶつ 世界 せかい 観 かん 重要 じゅうよう な概念 がいねん 解脱 げだつ への道 みち 信仰 しんこう 対象 たいしょう 分類 ぶんるい /宗派 しゅうは 地域 ちいき 別 べつ 仏教 ぶっきょう 聖典 せいてん 聖地 せいち 歴史 れきし 美術 びじゅつ ・音楽 おんがく