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章宗 (金) - Wikipedia コンテンツにスキップ

あきらそう (金)きん

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あきらそう かんがおあさたちかずら
きむ
だい6だい皇帝こうてい
王朝おうちょう きむ
在位ざいい期間きかん だいじょう29ねん1がつ2にち - 泰和やすかず9ねん11月20にち
1189ねん1がつ20日はつか - 1208ねん12月29にち
都城みやこのじょう ちゅう
せいいみな かんがおあさたちかずら
おう璟(かんめい
諡号しごう けんてんこううんじん文義ふみよし武神ぶしんひじり英孝ひでたか皇帝こうてい
びょうごう あきらむね
生年せいねん だいじょう8ねん7がつ27にち
1168ねん8がつ31にち
没年ぼつねん 泰和やすかず9ねん11月20にち
1208ねん12月29にち
ちち かんがおえびすかわら
はは たん夫人ふじん
后妃こうひ 欽懐皇后こうごう
陵墓りょうぼ みちりょう
年号ねんごう あきらあきら : 1190ねん - 1196ねん
うけたまわやす : 1196ねん - 1200ねん
泰和やすかず : 1200ねん - 1208ねん

あきらむね(しょうそう)は、きむだい6だい皇帝こうていおんなしんあさたちかずら(マダガ)、かんめい(けい)。

生涯しょうがい

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だいじょう8ねん(1168ねん)、むね嫡男ちゃくなんでその皇太子こうたいしであったえびすかわらまこときょう)のとしてまれる。えびすかわら本来ほんらいなら皇帝こうていとなるはずだったが早世そうせいしたため、まごにあたるあさたちかずら祖父そふから指名しめいされすめらぎふとしまごとなった。だいじょう29ねん1189ねん)にむねにより皇位こういぎ、あきらあきらしょうされる政治せいじおこなった。れいせい法典ほうてん格式かくしきをはじめとして科挙かきょ官制かんせいなどの体制たいせい整備せいびつねひらくら設置せっちなど積極せっきょくてき行政ぎょうせい改革かいかくおこなった。これによりきむ中国ちゅうごく王朝おうちょうとしての姿すがた完成かんせいさせた。また、その治世ちせいにおいて、かね文化ぶんか最高潮さいこうちょうたっしたといわれる。あきらそう自身じしんきむちょうしょみかどのなかでも傑出けっしゅつした風流ふうりゅうじん皇帝こうていであり、文人ぶんじんとの親交しんこうたのしみ、詩文しぶん書画しょがくした[1]きたそう徽宗しょやせきんからだ」を模倣もほうしたしょおおのこしている[1]とうふところえいおうにわちょう秉文中国語ちゅうごくごばんなどすぐれた文人ぶんじんおももちいて文化ぶんか振興しんこう推進すいしんし、そうきん戦争せんそうにあたって散逸さんいつした書画しょが書籍しょせき収集しゅうしゅうつとめた[1][注釈ちゅうしゃく 1]。ただし、これらの政策せいさくにより国内こくないには華美かび風潮ふうちょうひろまり財政ざいせい逼迫ひっぱくさせたともいわれている。なお、北京ぺきんくしけず粧台は、あきらむねもとのためにつくった化粧けしょう場所ばしょつたわっている[2]

あきらむね治世ちせいかね衰退すいたいきざした時代じだいでもあった。周辺しゅうへん属国ぞっこく離反りはんこるだけではなく、隣国りんごく侵攻しんこうけることになった。あきらあきら7ねん1196ねん)にかねぐん・モンゴルケレイト連合れんごうぐんタタルったウルジャかわたたかモンゴル勃興ぼっこういたおおきな転換てんかんてんとなり、かね将来しょうらい決定的けっていてき意味いみ出来事できごとであった。ただし、あきらそう時代じだいにおける外敵がいてき侵攻しんこうすべ撃退げきたいされている。

父親ちちおやゆずりの温厚おんこう人柄ひとがらとしてられる一方いっぽうで、伯父おじの鎬王じつ魯剌ひさしちゅう)とはなか険悪けんあくだったために、あきらあきら5ねん1194ねん)に謀反むほんこしたという口実こうじつをもって鎬王じつ魯剌とそのかみもんおもねはなれ哈懣兄弟きょうだいあきらむね従兄じゅうけい)を逮捕たいほして、投獄とうごくした。やがて親交しんこうがあり、年齢ねんれいちか叔父おじまもるおうはてなわの諫言にもみみかたむけず、鎬王一家いっか処刑しょけいしてざらしものにしたという。

泰和やすかず9ねん1208ねん)に崩御ほうぎょした。享年きょうねん41。6にん皇子おうじ夭折ようせつしていたために世子せいしがなく、なかかった上記じょうき叔父おじはてなわまもる紹王)が皇位こういいだ。

作品さくひん 

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  • つて顧愷女史じょし箴図まき
  • 「徽宗摹張かや搗練題字だいじ

宗室そうしつ

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妻妾さいしょう

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  • 欽懐皇后こうごう がま察氏(がま察鼎寿ことぶきていこく公主こうしゅ熙宗むすめ)のあいだのむすめ
  • もと
  • あかり夫人ふじんりん
  • うけたまわ賈氏
  • うけたまわ范氏

そのひめわらわ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 書画しょが名品めいひんにしばしばみられるあきらあきらなな璽(あきらあきらあきらあきらたから玩・たから内殿うちどのちん玩・ぐんだまちゅうあきらあきら御覧ごらん)はあきらむね収蔵しゅうぞういんである[1]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 鈴木すずきひろしえつゆみ隆之たかゆき菅野かんの智明ともあき へん中国ちゅうごくしょじん名鑑めいかん二玄社にげんしゃ、2007ねん9がつISBN 978-4-544-01078-7 
  • 三田村みたむらやすしすけ生活せいかつ世界せかい歴史れきし2 黄土おうどひらいたひとびと』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ河出かわで文庫ぶんこ〉、1991ねん5がつISBN 4-309-47212-5