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宣宗 (金) - Wikipedia コンテンツにスキップ

せんむね (金)きん

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せんそう かんがおわれ睹補
きむ
だい8だい皇帝こうてい
王朝おうちょう きむ
在位ざいい期間きかん 貞祐ていゆう元年がんねん9月7にち - もとひかり2ねん12月22にち
1213ねん9月22にち - 1224ねん1がつ14にち
都城みやこのじょう ちゅう開封かいふう
せいいみな かんがおわれ睹補
おう珣→おうしたがえよしみかんめい
諡号しごう つぎてんきょうすべじゅつどうつとむひとし英武ひでたけひじりたかし皇帝こうてい
びょうごう せんむね
生年せいねん だいじょう3ねん3月13にち
1163ねん4がつ18にち
没年ぼつねん もとひかり2ねん12月22にち
1224ねん1がつ14にち
ちち かんがおえびすかわら
はは あきらせい皇后こうごう
后妃こうひ おう皇后こうごう
陵墓りょうぼ とくりょう
年号ねんごう 貞祐ていゆう : 1213ねん - 1217ねん
きょうじょう : 1217ねん - 1222ねん
もとひかり : 1222ねん - 1223ねん

せんむね(せんそう)は、きむだい8だい皇帝こうていおんなしんわれ睹補(ウトゥプ)、かんめい(じゅん)、のちしたがえよしみ(じゅうか)。せんこう太子たいしえびすかわらの庶長子ちょうしで、むねまごあきらむねあににあたる。

生涯しょうがい

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だいじょう29ねん1189ねん)にあきらむねによりゆたかおうふうじられ、近衛このえぐんであるあきらとくたいひきいて統轄とうかつした。のちつばさおう・邢王にふうじられた。しかしいたりやすし元年がんねん1213ねん)、叔父おじまもる紹王たいモンゴル戦敗せんぱいきた問責もんせきおそれた将軍しょうぐんえびすすなとらによって殺害さつがいされると、その後継こうけいしゃとして皇帝こうてい擁立ようりつされた。しかしえびすすなとらあいだもなく部下ぶかうけらとらだかにより殺害さつがいされたため、せんむねえびすすなとら傀儡かいらいからだっすることができた。

大安たいあん3ねん1211ねん)からモンゴル帝国ていこくによるかねりょうへの侵攻しんこうはじまると、耶律とめ哥などモンゴルの侵攻しんこうけた地域ちいき将軍しょうぐんたちがかねあさ見限みかぎりモンゴルへ帰順きじゅんする事態じたい多発たはつした。かねぐん敗北はいぼくかさねて、かね兵力へいりょく弱体じゃくたいするいちぽうであった。また、大安たいあん2ねん1210ねん前後ぜんこうから西方せいほう西にしなつがモンゴル帝国ていこく攻撃こうげき直面ちょくめんし、金側きんがわ援助えんじょ要請ようせいされたが、きむ援軍えんぐんさず、西にしなつはモンゴルと講和こうわむすんでなんとかぐん撤退てったいさせた。

貞祐ていゆう元年がんねん(1213ねんまつチンギス・カンきゅう金側きんがわ兵力へいりょくあわせ、おやせいしてだい2かいかね遠征えんせいおこなった。ジョチチャガタイオゴデイらチンギスの諸子しょし指揮しき右翼うよくぐんたいゆき山脈さんみゃく沿って山西さんせい方面ほうめん侵攻しんこうさせ、ジョチ・カサル指揮しき左翼さよくぐん河北かほく沿岸えんがん地域ちいき沿って制圧せいあつ、チンギス自身じしん末子まっしトルイとともにちゅうぐん指揮しきして河北かほくから山東さんとう方面ほうめんまで侵攻しんこうして、これら河北かわきた河東かわとう山東さんとうの90ぐんしょ都市としはことごとく劫掠ごうりゃくされたという。2がつまでの3カ月かげつあいだ守備しゅびたいそな陥落かんらく破壊はかいまぬかれた都市としは、これら3地域ちいきのうち大名おおな定府じょうふあおしゅう済州さいしゅう邳州うみしゅう沃州じゅんしゅうとおりしゅうの9つしかなかったという。

12月ごろに1、モンゴルぐん一部いちぶたいによってかこまれたこともあったが、貞祐ていゆう2ねん1214ねん)4がつにチンギスのおやりつぐんかね都城みやこのじょうであるちゅう現在げんざい北京ぺきん)にいたり、完全かんぜん包囲ほういされた。チンギスひきいるモンゴルぐんぜんぐんちゅう北郊ほっこうがい布陣ふじんし、使者ししゃおくってせんむね以下いかかねあさ宮廷きゅうてい不徳ふとく難詰なんきつした。丞相じょうしょうとなったうけらとらだか琪は、モンゴルぐん疫病えきびょう兵馬へいば疲弊ひへいがあるので、ちゅうからぐんをもってっててこれを攻撃こうげきするよういた。しかし宰相さいしょう宗室そうしつでもあったぶくきょうは、出撃しゅつげきして敗戦はいせんした場合ばあいぐん離散りさんして郷里きょうりかえってしまい、がモンゴルぐん兵火へいかさらされるという危険きけんせい指摘してきしたため、せんむねはこの進言しんげん採用さいようした。せんむねぶくきょう献策けんさくしたがい、モンゴルと講和こうわむすんだが、このとき従妹じゅうまいの哈敦(ハトン)公主こうしゅまもる紹王のむすめ岐国公主こうしゅ。モンゴル宮廷きゅうていでは「公主こうしゅ皇后こうごう」とばれた)をわらわ男女だんじょかく500にんとともにチンギスに降嫁こうかさせ、御馬おんま3000とう金銀きんぎん珠玉しゅぎょくなど多数たすう持参じさんきんたせるなど、屈辱くつじょくてき条件じょうけんでモンゴルと和睦わぼくしている。こうしてモンゴルぐん撤退てったいした。

同年どうねん5がつ、チンギスの再度さいど侵攻しんこうおそれたせんむねは、ちゅうから開封かいふう遷都せんとした。ちゅうには太子たいしまもりただしのこし、丞相じょうしょうかんがおぶくきょう留守るすぐんめいじた。しかし、ちゅう包囲ほういされていたときちぎりじん守備しゅび部隊ぶたい給付きゅうふしていた馬匹ばひつ甲冑かっちゅう回収かいしゅうしようとしたときちぎりじん指揮しきかんらがこばんで叛乱はんらんこした。ぶくきょうはこれを鎮圧ちんあつしたが、このちぎりじん指揮しきかん一人ひとりがチンギスに使節しせつおくって援助えんじょ懇願こんがんしたため、チンギスは南方なんぽうへの遷都せんとちぎりじん叛乱はんらん事情じじょうをモンゴルへの反抗はんこう認識にんしきし、再度さいどかね侵攻しんこうめいじた。

貞祐ていゆう3ねん1215ねん)になかはモンゴルぐんによって陥落かんらくきむ華北かほくにおける領土りょうど大半たいはんうしなうことになった。

内政ないせいめんでは、軍事ぐんじりょく増強ぞうきょう国庫こっこ収入しゅうにゅう好転こうてんはかって財政ざいせい政策せいさくすすめたが失敗しっぱい国内こくないにインフレが発生はっせいし、経済けいざいてき混乱こんらん発生はっせいした。また王朝おうちょう弱体じゃくたいて、それまでかね服属ふくぞくしていた有力ゆうりょく漢人かんどちぎりじん諸侯しょこう自立じりつ目立めだつことになった。

もとひかり2ねん1223ねん)に還暦かんれきぎて崩御ほうぎょした。

宗室そうしつ

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后妃こうひ

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  • 明恵あきえ皇后こうごう おう
  • もとおう
  • うらら
  • しん龐氏