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むね (金)きん

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そう かんがおがらすろく
きむ
だい5だい皇帝こうてい
王朝おうちょう きむ
在位ざいい期間きかん だいじょう元年がんねん10月7にち - だいじょう29ねん1がつ2にち
1161ねん10月27にち - 1189ねん1がつ20日はつか
都城みやこのじょう ちゅう
せいいみな かんがおがらすろく
おう褎→おう雍(かんめい
諡号しごう ひかりてんきょううんぶん徳武とくたけいさおひじりあきら仁孝にんこう皇帝こうてい
びょうごう むね
生年せいねん てん7ねん3月1にち
1123ねん3月29にち[注釈ちゅうしゃく 1]
没年ぼつねん だいじょう29ねん1がつ2にち
1189ねん1がつ20日はつか
ちち かんがおなまりさと
はは さだ皇后こうごう
后妃こうひ 明徳めいとく皇后こうごう
陵墓りょうぼ きょうりょう
年号ねんごう だいじょう : 1161ねん - 1189ねん

むね(せいそう)は、きむだい5だい皇帝こうていおんなしんがらすろく(ウル)、かんめい(ゆう)、のち(よう)。なまりさと(オリド、宗輔そうすけ)の長男ちょうなんで、熙宗うみりょうおうおなじくふとしおもねほねまごにあたる。

正妃せいひおんながらすりん荅(ウリンダン)首長しゅちょういし土黒ひじくろむすめがらすりん荅氏(明徳めいとく皇后こうごう)。

生涯しょうがい

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てん7ねん1123ねん)、上京じょうきょうにてなまりさと朶と側室そくしつさだ皇后こうごう渤海貴族きぞくひななまりただむすめ)のとしてまれる。成人せいじんするとかずらおうふうじられ、兵部ひょうぶ尚書しょうしょはん大宗たいそうせいこと中京ちゅうきょう留守るすなどを歴任れきにんした。むね北斗七星ほくとしちせいあざっていたという。はらまでびたうつくしいちょうひげち、騎射きしゃすぐれた。亡父ぼうふ同様どうよう仁孝にんこう性質せいしつであったが、従兄じゅうけいたる皇帝こうていすすむ乃(うみりょうおう)とはいがわるかった。だが、猜疑心さいぎしんつようみりょうおうくらませるために、自分じぶんつまがらすりん荅氏がうみりょうおうせまられて自殺じさつしたさいも、不満ふまんひとせない素振そぶりをえんじた。そのためにうみりょうおうからは暗愚あんぐ人物じんぶつとみられて軽視けいしされていた(皇帝こうてい即位そくいむね亡妻ぼうさい皇后こうごうおくり、生涯しょうがい女性じょせい皇后こうごうにすることはなかった)。

正隆まさたか6ねん1161ねん)、がらすろく東京とうきょう留守るすにんじられた。やがて、うみりょうおうみなみそう遠征えんせい出征しゅっせいすると、うみりょうおう不満ふまんかね貴族きぞくたちはその留守るすいて華北かほく謀反むほんこすべく、以前いぜんからうみりょうおう独裁どくさい暴政ぼうせいたいして不満ふまんつのらせていたがらすろくあおった[注釈ちゅうしゃく 2]うみりょうおう腹心ふくしん東京とうきょうふくもりこうそんぶく目付めつけとしてがらすろく監視かんししていたが、められたがらすろくふゆ10がつ丙午ひのえうまに、こうそんぶく誅殺ちゅうさつしてその首級しゅきゅうさらし、貴族きぞくたちに擁立ようりつされて即位そくいした。そしてうみりょうおう廃位はいい宣言せんげんし、うみりょうおうはそのままあげしゅう亀山かめやまてら陣中じんちゅう殺害さつがいされた。

だいじょう2ねん1162ねん)、むねしゅうとちちぼく忠義ちゅうぎなまりさと母方ははかた従弟じゅうてい)の補佐ほさて、うみりょうおうみなみぐんやぶったいきおいできむりょう進軍しんぐんしてみなみそうぐん撃退げきたいし、ちぎり反乱はんらん鎮圧ちんあつしてうみりょうおう晩年ばんねん混乱こんらん収拾しゅうしゅうした。だいじょう4ねん1164ねん)、そうとのあいだいぬいどうやく中国語ちゅうごくごばんむすんだ[2][3]。その内容ないようは、従来じゅうらい君臣くんしん関係かんけいを叔姪関係かんけいへと緩和かんわし、としみつぎとしぬさえ、25まんりょうずつのぎんきぬをそれぞれ20まんりょう減額げんがくするというものであった[2][3][注釈ちゅうしゃく 3]。その一方いっぽうでキタンじん反乱はんらんすみやかにおさめて国内こくない安定あんていさせた[2]。さらにむねうみりょうおう遠征えんせいおおきくそこなわれた財政ざいせい再建さいけんをめざし、増税ぞうぜいをおこない官吏かんり削減さくげんした[4]みなみそうでも、おな時期じき名君めいくんとされるこうむね[5]、その40ねんにわたって両国りょうこくあいだでは平和へいわたもたれ、かねあさにあっては繁栄はんえい安定あんてい時代じだいをむかえたといわれる[3][6]

また内政ないせいめんにおいては、暴政ぼうせい長引ながびいた戦争せんそうのため窮乏きゅうぼうした財政ざいせい再建さいけんし、税制ぜいせい改革かいかくおこなったり、官吏かんり人事じんじ一新いっしんしたりなど、様々さまざま改革かいかくおこなった。またかんぞく文化ぶんかにも理解りかいしめして文化ぶんか発展はってんさせるなど、「中興ちゅうこう名君めいくん」とばれるのにふさわしい様々さまざま事業じぎょうおこない、しょうしゅんしょうされた。

このように、むね治世ちせいかね最盛さいせい評価ひょうかされ、後世こうせいにおいてはだいじょうとしてたか評価ひょうかされている。しかしその一方いっぽうで、もうやすはかりごとかつ軍事ぐんじ集団しゅうだん組織そしきされていたおんな真人しんじん長引ながび平和へいわれ、さらに漢人かんど雑居ざっきょして経済けいざいてきには没落ぼつらくし、文化ぶんかてきには漢人かんど同化どうかして中国ちゅうごく社会しゃかい埋没まいぼつしてゆく傾向けいこうあらわになった。むねおんな文字もじ使用しよう奨励しょうれいし、おんなしん風俗ふうぞく文化ぶんか維持いじする政策せいさくったが、ほとんど効果こうかはなく、かね軍事ぐんじりょくささえたおんな軍団ぐんだん形骸けいがいすすんでいった。

また、財政ざいせい再建さいけん過程かてい増税ぞうぜいおこなったために民衆みんしゅう生活せいかつ逼迫ひっぱくして、その社会しゃかい不安定ふあんてい国家こっか衰退すいたい要因よういんになったとするせつもある。たとえば、きよしだい歴史れきしであるちょうつばさは『じゅう箚記』のなかにおいて、正史せいしきむふみ』のむね記事きじなか反乱はんらん頻発ひんぱつしめ記事きじ存在そんざいする事実じじつ指摘してきしている[注釈ちゅうしゃく 4]

宗室そうしつ

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妻妾さいしょう

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  • 明徳めいとく皇后こうごう がらすりん荅氏(即位そくいまえぼっし、皇后こうごう追贈ついぞうされた)
  • もとちょう
  • もと
  • あきらりょう
  • せき抹氏
  • やわらだいうみりょうおうもとだいいもうと
  • とくたん

男子だんし

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女子じょし

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魯国公主こうしゅくれこく公主こうしゅしょくこく公主こうしゅあてこく公主こうしゅ韓国かんこく公主こうしゅまもるこく公主こうしゅいきこく公主こうしゅさわこく公主こうしゅ 長楽ながら、曹国公主こうしゅ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ きむふみ』による。
  2. ^ うみりょうおう帝位ていいまえから熙宗の皇后こうごう悼平皇后こうごう)ともなかがよく、女色じょしょくとしてられていた[1]。「天下てんか統一とういつ」の野望やぼうも、そうりゅうたかりゅうのぞみ)という絶世ぜっせい美女びじょがいるという評判ひょうばん側近そっきん宦官かんがん)からいたためだったともいわれている[1]
  3. ^ むねみなみそうとの講和こうわいそいだ理由りゆうは、キタンじんがかつてのりょう王家おうけおさめる中央ちゅうおうアジアの西にしりょう連携れんけいして行動こうどうすることを警戒けいかいしてのことであった[2]
  4. ^ きむふみまき28に「だいじょうちゅうらんみんどく」の記載きさいがある。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 梅村うめむらひろしだい2 中央ちゅうおうユーラシアのエネルギー」『世界せかい歴史れきし7 そう中央ちゅうおうユーラシア』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2008ねん6がつISBN 978-4-12-204997-0 
  • 尾形おがたいさむ岸本きしもと美緒みお へん中国ちゅうごく山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん 世界せかい各国かっこく3〉、1998ねん6がつISBN 978-4-634-41330-6 
    • 宮澤みやざわ知之ともゆき杉山すぎやま正明まさあき ちょだい4しょう ひがしアジア世界せかい変容へんよう」、尾形おがた岸本きしもと へん中国ちゅうごく山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん 世界せかい各国かっこく3〉、1998ねん 
  • 河内かわうち良弘よしひろ内陸ないりくアジア世界せかい展開てんかいI 2 きん王朝おうちょう成立せいりつとその国家こっか構造こうぞう」『岩波いわなみ講座こうざ 世界せかい歴史れきし9 中世ちゅうせい3』岩波書店いわなみしょてん、1970ねん2がつ 
  • 佐伯さえきとみ ちょかねこく侵入しんにゅう/そうみなみわたり」、宮崎みやざきじょう へん世界せかい歴史れきし6 そうもと中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1975ねん1がつ