熙宗 (金)きん

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熙宗 かんがおごう剌(ワンヤン・ホラ)
きむ
だい3だい皇帝こうてい
王朝おうちょう きむ
在位ざいい期間きかん てんかい13ねん1がつ26にち - 皇統こうとう9ねん12月9にち
1135ねん2がつ10日とおか - 1150ねん1がつ9にち
都城みやこのじょう 上京じょうきょうかいやすし
せいいみな かんがおごう
おう亶(かんめい
諡号しごう たけれい皇帝こうてい
ひろもと纘武そうやすしこうなり皇帝こうてい
びょうごう 閔宗→熙宗
生年せいねん てん3ねん1がつ17にち[注釈ちゅうしゃく 1]
1119ねん2がつ28にち
没年ぼつねん 皇統こうとう9ねん12月9にち
1150ねん1がつ9にち
ちち かんがおなわはて
はは めぐみあきら皇后こうごうがま察氏
后妃こうひ 悼平皇后こうごう裴満
陵墓りょうぼ おもえりょう
年号ねんごう てんかい : 1135ねん - 1138ねん
てん : 1138ねん - 1141ねん
皇統こうとう : 1141ねん - 1149ねん

熙宗(きそう)は、きむだい3だい皇帝こうていおんなしん(ジュシェン)めいごう(ホラ)、かんめい(たん)。ふとしおもねほね(アクダ)の嫡子ちゃくしであるなわはてそうたかし)の長男ちょうなん生母せいぼおんな貴族きぞくむすめがま察氏である。皇后こうごうおんな貴族きぞくの裴満ゆるがせ撻のむすめの裴満悼平皇后こうごうてん眷元ねん1138ねん)に皇后こうごう昇格しょうかく)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

てんかい10ねん1132ねん)に大叔父おおおじふとそう乞買(ウキマイ)の皇太子こうたいしとなり、てんかい10ねん(1135ねん)にふとしむね崩御ほうぎょにより即位そくいした。熙宗のだいにはそれまでのおんなしんしき部族ぶぞくせい国家こっかから脱却だっきゃく皇帝こうてい独裁どくさい確立かくりつ目指めざして王朝おうちょうかんはかられ、かんふう官制かんせい導入どうにゅうした[1]。また中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめられ、華北かほく支配しはい強化きょうかなどもおこなっている[2]

外交がいこうにおいては、皇統こうとう元年がんねん1141ねん)にみなみそうとのあいだ最初さいしょ和議わぎむすび、淮水せん国境こっきょうとする分断ぶんだん固定こていおこなわれ、そのためにそうかねたいして臣下しんかれいり、としぬさ毎年まいとし支払しはらうことをさだめるなど、きむにとって圧倒的あっとうてき優位ゆうい条約じょうやくむすんだ[2][注釈ちゅうしゃく 2]

一方いっぽう皇太子こうたいしすみやす王道おうどうずみ夭折ようせつしたため、皇帝こうてい独裁どくさい強化きょうかのために先帝せんてい以来いらい功臣こうしんであったねばぼっかつ宗翰むねもと)をはじめ、おんなしん(ジュシェン)にん重臣じゅうしん王族おうぞく左遷させん粛清しゅくせいかえした[1]。さらに、奢侈しゃしはしってさけおぼれるなどの暴政ぼうせいひろげたため、皇統こうとう9ねん(1149ねん)12月9にち自身じしん反対はんたい共謀きょうぼう側近そっきん仲間なかまれた従弟じゅうていすすむ乃(うみりょうおう)によって殺害さつがいされた[2]寝殿しんでんがかりだい興国こうこくかぎけたことによって宮殿きゅうでんひそやかに侵入しんにゅうされ、寝室しんしつまでまれたさい佩刀はかせ迎撃げいげきしようとしたが、だい興国こうこくによって佩刀はかせうつされていた。そのため武器ぶきにすることができず、自身じしん護衛ごえいたんおもねさととらくわわった侵入しんにゅうしゃたちによってられたのち最後さいごすすむ乃によってとどめをさされるという壮絶そうぜつ最期さいごだったという。享年きょうねん31。

死後しごうみりょうおうによってひがし昏王おう格下かくさげされてほうむられたが、後年こうねんうみりょうおうはいして即位そくいした従弟じゅうていむねによって、まずだいじょう元年がんねん1161ねん)に閔宗のびょうごうたけれい皇帝こうてい諡号しごう追贈ついぞうされ、だいじょう19ねん1179ねん)にひろもと纘武そうやすしこうなり皇帝こうてい諡号しごうあらためられ、だいじょう27ねん1187ねん)に熙宗とびょうごうあらためられた。

宗室そうしつ[編集へんしゅう]

妻妾さいしょう[編集へんしゅう]

  • 悼平皇后こうごう(裴満
  • とくがらすいにしえろん
  • けん[注釈ちゅうしゃく 3]
  • ちょう
  • 裴満
  • ちょうさいがつ - きたそうはなぶくみかどひめ徽宗むすめ
  • ちょうきんしゅうと - きたそう慶福けいふくみかどひめ。徽宗のむすめ
  • ちょうたま嬙 - きたそう皇族こうぞくちょうくるるむすめ
  • ちょう飛燕ひえん - きたそう皇族こうぞくちょうむすめ
  • 夫人ふじんちょうたまばん - きたそう嘉徳かとくみかどひめ。徽宗のむすめ
  • 夫人ふじんちょうきんやつ - きたそうさかえとくみかどひめ。徽宗のむすめ
  • 夫人ふじんちょうくしたま - きたそうやすしぶくみかどひめ。徽宗のむすめ
  • 夫人ふじんちょうきんしるし - きたそうれいぶくみかどひめ。徽宗のむすめ
  • 夫人ふじんちょうまゆみ - きたそう皇族こうぞくちょうしのべむすめ

子女しじょ[編集へんしゅう]

  • 男子だんしえい太子たいしすみやすははは悼平皇后こうごう)、おうみちずみははけん
  • 女子じょしていこく公主こうしゅ、冀国公主こうしゅだいこく公主こうしゅはりこく公主こうしゅ、瀋国公主こうしゅ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ きむふみ』熙宗に「てんさんねんおのれとしせい」とあり、熙宗の即位そくい誕生たんじょうとしていわわれた「万寿まんすぶし」は旧暦きゅうれき1がつ17にちであった。
  2. ^ きむはすでに1124ねんにはタングート国家こっか西にしなつの、1126ねんにはこううららしんれいけていたので、これにより、四海しかいくんとしての名義めいぎたことになる[2]
  3. ^ せいいみな不明ふめい以下いかのいずれかである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 梅村うめむらひろしだい2 中央ちゅうおうユーラシアのエネルギー」『世界せかい歴史れきし7 そう中央ちゅうおうユーラシア』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2008ねん6がつISBN 978-4-12-204997-0 
  • 佐伯さえきとみ ちょかねこく侵入しんにゅう/そうみなみわたり」、宮崎みやざきじょう へん世界せかい歴史れきし6 そうもと中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1975ねん1がつ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]