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上京じょうきょうかいやすし

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上京じょうきょうかいやすし
上京じょうきょうかいやすし
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ かいやすし
簡体字かんたいじ かい宁府
ちゅう音符おんぷごう  
ラテン Shàng jīng huì níng fǔ
テンプレートを表示ひょうじ

上京じょうきょうかいやすし(じょうけい-かいねいふ)は、かねあさ設置せっちした中国ちゅうごく黒竜江こくりゅうこうしょうハルビン南東なんとうおもねぐすく白城しらき所在しょざいする[1]

概要がいよう

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1069ねん咸雍5ねん)にりょうによりかいやすしけん現在げんざい黒竜江こくりゅうこうしょうハルビンおもねぐすく白城しらき)にかいやすししゅう設置せっちされた。1115ねんおさむこく元年がんねん)、おんなしん(ジュシェン)居住きょじゅういき中心ちゅうしんかれ、きむちょう都城みやこのじょうさだめられた。当時とうじ管轄かんかつ区域くいきまつ花江はなえ牡丹ぼたんこうちょう白山はくさんむす地域ちいきとされた。1124ねんてんかい2ねん)にかいやすしあらためられ、かね3だい皇帝こうてい熙宗時代じだい1138ねんてん元年がんねん)に上京じょうきょうかいやすしとされた[1]

都城みやこのじょうは、長方形ちょうほうけい南北なんぼく2つのじょうより構成こうせいされ、北城ほくじょう南北なんぼくなが南北なんぼくやく1.9キロメートル、東西とうざいやく1.5キロメートル、それにみなみせっしてきずかれた南城なんじょう東西とうざいなが南北なんぼくやく1.5キロメートル、東西とうざいやく2.0キロメートルの範囲はんい城壁じょうへききずかれ、全体ぜんたいでは南北なんぼくなが東西とうざいみじかいLじょう形状けいじょうをなしている[1][注釈ちゅうしゃく 1]

1153ねん貞元さだもと元年がんねん)につばめきょう遷都せんとするともなくかいやすしとされたが、1173ねんだいじょう13ねん)にふたた上京じょうきょうかいやすしとされた。かねまつモンゴル帝国ていこく進入しんにゅうすると上京じょうきょうかいやすし廃止はいしされた。

下部かぶ行政ぎょうせい区画くかく

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位置いち

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 遺跡いせきは、まんしゅうこく時代じだい日本人にっぽんじん学者がくしゃによって比較的ひかくてきよく踏査とうさされ、考古学こうこがくてき知見ちけんつたえている[1]

出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく 

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外部がいぶリンク

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