メイしゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

洺州(めいしゅう)は、中国ちゅうごくにかつて存在そんざいしたしゅう南北なんぼくあさ時代じだいすえからモンゴル帝国ていこく時代じだい初頭しょとうにかけて、現在げんざい河北かほくしょう邯鄲かんたん一帯いったい設置せっちされた。

すすむ南北なんぼくあさ時代じだい[編集へんしゅう]

577ねん建徳けんとく6ねん)、きたあまねにより洺州が設置せっちされた。

ずいだい[編集へんしゅう]

ずいはつには、洺州は2ぐん3けん管轄かんかつした。605ねん大業おおわざ2ねん)、慈州[1]廃止はいしにともない武安たけやすけん移管いかんされた。607ねん大業おおわざ3ねん)、ぐんせい施行しこうともない、洺州は武安たけやすぐん改称かいしょうされ、下部かぶに8けん管轄かんかつした[2]ずいだい行政ぎょうせい区分くぶんかんしては下表かひょう参照さんしょう

ずいだい行政ぎょうせい区画くかく変遷へんせん
区分くぶん ひらきすめらぎ元年がんねん 区分くぶん 大業おおわざ3ねん
しゅう 洺州 相州あいしゅう ぐん 武安たけやすぐん
ぐん 広平ひろへいぐん じょうこくぐん ぐん けん 永年えいねんけん ひらおんけん 臨洺けん
武安たけやすけん こえごうけん 邯鄲かんたんけん
きよし漳県
けん こうとしけん ひらおんけん えきけん 武安たけやすけん

とうだい[編集へんしゅう]

618ねん武徳ぶとく元年がんねん)、とうにより武安たけやすぐんは洺州とあらためられた。619ねん武徳ぶとく2ねん)、洺州は建徳けんとくうばわれた。621ねん武徳ぶとく4ねん)、とうが竇建徳けんとく平定へいていした。742ねん天宝てんぽう元年がんねん)、洺州は広平ひろへいぐん改称かいしょうされた。758ねんいぬいはじめ元年がんねん)、広平ひろへいぐんは洺州のしょうにもどされた。洺州は河北かわきたみちぞくし、永年えいねんひらおん・臨洺・鶏沢にわとりざわこえきょうきょくしゅうの6けん管轄かんかつした[3]

そうだい以降いこう[編集へんしゅう]

きたそうのとき、洺州は河北西かわきたにしぞくし、永年えいねんこえきょうひらおん鶏沢にわとりざわきょくしゅうの5けん管轄かんかつした[4]やすしやすしへんにより、洺州はきむうばわれた。

かねのとき、洺州は河北西かわきたにしぞくし、永年えいねん広平ひろへい宗城むねなりしんやす成安なりやすこえきょう鶏沢にわとりざわきょくあまね洺水の9けん西にし臨洺・しんやすひらおんしろなだの4鎮を管轄かんかつした[5]

1236ねん、モンゴル帝国ていこくにより洺州は邢洺あらためられた[6]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 590ねんひらきすめらぎ10ねん)に相州あいしゅうより分割ぶんかつ設置せっち
  2. ^ ずいしょ地理ちりこころざしちゅう
  3. ^ きゅうとうしょ地理ちりこころざし
  4. ^ そうふみ地理ちりこころざし
  5. ^ きむふみ地理ちりこころざしちゅう
  6. ^ もと地理ちりこころざしいち