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出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
みかどとう
みかど
王朝おうちょう みかどとう
せいいみな 祁放くん
ちち
はは ちんほこさきむすめ

(ぎょう)は、中国ちゅうごく神話しんわ登場とうじょうする君主くんしゅせい(いき)、くん(ほうくん)。とういでとうふうじられたのでとうとうともいう。儒家じゅかにより神聖しんせいされ、聖人せいじんあがめられた。本来ほんらい古代こだい中国ちゅうごく太陽たいようしんだったとかんがえられている[1]

みかどとしての事績じせき

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史記しき』「みかど本紀ほんぎ」によれば、次子じしとしてまれ、嚳ののちいだあに死後しごみかどとなった[2]。「そのじんてんのごとく、そのかみのごとく」などと最大さいだいきゅう賛辞さんじえがかれる[3]黄色きいろかんむりじゅんころもをまとい、白馬はくばにひかせたあかくるまった[4]

羲氏の羲仲と羲叔、かずなか叔にめいじ、天文てんもん観察かんさつしてこよみつくらせた。いちねんを366にちとし、3ねんに1閏月じゅんげつをおいた[5]

堯はだい洪水こうずいうれえ、臣下しんかよんだけだれおさめさせるかをうた。みながこん推薦すいせんした。堯は「こんは(みかどの)いのちそむき、一族いちぞくそこなっている」と反対はんたいしたが、よんだけためしに使つかい、だめならめればよいとった。そこでこんもちいたが、9ねんたっても成果せいかがなかった[6]

じゅうはちりゃく』によればたいらようしたとし、質素しっそ生活せいかつおくっていたとしている。

べつ書物しょもつでの堯の伝説でんせつとして、羿(羿のはねしたに廾)をげる。そのころ太陽たいよう全部ぜんぶじゅうあり、交代こうたい地上ちじょうらしていたのだが、あるときじゅういち地上ちじょうらすようになったために地上ちじょう灼熱しゃくねつ地獄じごくとなった。堯はゆみ名人めいじんである羿になにとかしていと命令めいれいすると、羿はきゅう太陽たいようとしてかえってきて、すくわれた民衆みんしゅうは堯をとなみかどむかえたという。このとき太陽たいようなかにはさんほんあしがらすがいて(はち咫烏)、黒点こくてんわんとするものであるという。

しゅんへの禅譲ぜんじょう

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堯にはしゅ息子むすこがいたが、臣下しんかから推薦すいせんしゃげさせた。ひとししゅげ、驩兜きょうこうげたが、堯はにんとも退しりぞけた。みながおそれしゅんしゅん)を跡継あとつぎにげ、性質せいしつがよくないちちははおとうとかこまれながら、かれらがあくおちいらないようみちびいているとった。堯は興味きょうみしめし、二人ふたりむすめした[7]

それからみん官吏かんりを3年間ねんかんおさめさせたところ、功績こうせきいちじるしかったため、しゅん譲位じょういすることにした。しゅん固辞こじしたが、いて天子てんしせいおこなわせた。しゅんねがいにより、驩兜・きょうこうこんさんなえ四方しほうながした。20ねん完全かんぜん政治せいじ引退いんたいし、8ねんったころんだ。天下てんか百姓ひゃくしょう父母ちちははうしなったようにかなしみ、3年間ねんかん音楽おんがくかなでなかった。3ねんがあけてから、しゅんしゅ天子てんし擁立ようりつしようとしたが、諸侯しょこうみんしゅんのもとに政治せいじもとめたので、やむなくしゅん即位そくいした[8]

なお、堯舜の批判ひはんをしたかん韓非子かんぴしにて、この禅譲ぜんじょうたいして、「堯が天下てんかおうだったときは、質素しっそ宮廷きゅうていで、粗末そまつ食事しょくじべ、まずしい衣服いふくていた。いま門番もんばんまずしいとはいえ、これよりはましである。これらのことからえば、かのいにしえ時代じだい天下てんかゆずるということは、門番もんばんまずしい生活せいかつてたり、奴隷どれい労役ろうえきからはなれるということだ。だから天下てんかゆずるといっても、たいしたことではない」とひょうしている[9]

堯舜の伝説でんせつ形成けいせい

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しゅんともせい天子てんしとしてあがめられ、堯舜ならしょうされる。堯舜伝説でんせつ春秋しゅんじゅう時代じだいすえにはすで形作かたちづくられていたようで、中国ちゅうごく人民日報じんみんにっぽう2000ねん山西さんせいしょうで堯舜時代じだい遺跡いせきつかったと発表はっぴょうしている。

また1993ねんかくてんいちごうすわえから発見はっけんされたたけには堯やしゅん事跡じせき記録きろくされており、注目ちゅうもくされている。

堯舜伝説でんせつ異説いせつ

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とうだい歴史れきしりゅうともいくは、その著書ちょしょふみどおり』で、堯舜伝説でんせつ否定ひていする以下いか内容ないようのことをのこしている。

山海さんかいけいとう歴史れきし地理ちりしょには、「しゅう堯城」や「みかどしゅ」という記述きじゅつがあり、このことから想定そうていするに、堯は実力じつりょくしゃしゅん強制きょうせいてき退位たいいさせられ、「しゅう堯城」に幽閉ゆうへいされた。それからあいだもなく、しゅんしゅみかどしゅ)を即位そくいさせたが、しばらくして、人々ひとびと支持しじはことごとく自分じぶんあつまっているとして、しゅはいして自身じしん即位そくいしたのではないか。だいいち、そんなにとくたか大人おとなぶつつぎからつぎるものだろうか。

また、かんは、「韓非子かんぴし」において、堯が名君めいくんみんおさめていたとすれば、しゅんわるきをあらため、立派りっぱおこないをして人々ひとびとたすけるということはそもそもこりえない。一方いっぽう立派りっぱ人物じんぶつだとすれば他方たほうはそうではなくなってしまう。したがって、両方りょうほうものおなじく最高さいこう人物じんぶつで、理想りそうてき政治せいじおこなったというのははなしわず、ありないとした。このたとはなしとして、今日きょうでも使つかわれる故事こじ成語せいご、「矛盾むじゅん」が使つかわれたのである。

鼓腹こふくげき

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堯の御世みよすうじゅうねん平和へいわおさまっていた。堯はあまりの平和へいわさに、天下てんか本当ほんとうおさまっているか、自分じぶん天子てんしみん満足まんぞくしているか、かえって不安ふあんになった。そこで、目立めだたぬように変装へんそうしていえ自分じぶん耳目じもくたしかめようとした。ふとがつくと子供こどもたちが、堯を賛美さんびするうたうたっていた。これをいた堯は、子供こどもたちは大人おとなうたわされているのではないかとうたがってしんけず、った。ふとかたわらにをやると、ろう百姓ひゃくしょうはらはたき、らしながら(鼓腹こふくげき壌)たのしげにうたっている。

原文げんぶん くだぶん 現代げんだいやく

日出ひので而作
にちにゅう而息
鑿井さくせい而飲
耕田こうだ而食
みかどりょくなんゆう於我哉

日出にっしゅつでてさく(な)し、
にちりていき(いこ)ふ。
を鑿ちてみ、
たがやしてしょくらふ。
みかどりょくらんや。

ともはたらきにて、
にちいれともやすみにかえる。
みずみたければ井戸いどってみ、
めしいたければ田畑たはたたがやしてう。
みかどちからがどうしてわたしかかわりがあるというのだろうか。

このうたいて堯はなか平和へいわおさまっていることをさとった、とされる(『じゅうはちりゃく』)。

出典しゅってん

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  1. ^ 御手洗みたらいまさる古代こだい中國ちゅうごくかみ々』そうぶんしゃ1984ねん、455ぺーじ
  2. ^ 史記しき』「みかど本紀ほんぎだいいち」、吉田よしだけんこう史記しきいちの36ぺーじ
  3. ^ 学習がくしゅう漫画まんが 中国ちゅうごく歴史れきし 人物じんぶつ事典じてん」2008ねん10がつ8にち発行はっこう監修かんしゅう春日井かすがいあきら、12ぺーじ
  4. ^ 史記しき』「みかど本紀ほんぎだいいち」、吉田よしだけんこう史記しきいちの37ぺーじ
  5. ^ 史記しき』「みかど本紀ほんぎだいいち」、吉田よしだけんこう史記しきいちの38-39ぺーじ
  6. ^ 史記しき』「みかど本紀ほんぎだいいち」、吉田よしだけんこう史記しきいちの41-42ぺーじ
  7. ^ 史記しき』「みかど本紀ほんぎだいいち」、吉田よしだけんこう史記しきいちの41-44ぺーじ
  8. ^ 史記しき』「みかど本紀ほんぎだいいち」、吉田よしだけんこう史記しきいちの44-50ぺーじ
  9. ^ 韓非子かんぴし 

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
みかどゆうぐま
だい6だい
BC2000ごろ - BC1940ころ
次代じだい
しゅん