(Translated by https://www.hiragana.jp/)
岐国公主 - Wikipedia コンテンツにスキップ

岐国公主こうしゅ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しゅう』にえがかれた岐国公主こうしゅ画面がめんひだり馬上もうえ人物じんぶつ)。かねあさせんしゅうとチンギス・カンの講和こうわによりモンゴルにとついだ場面ばめん

岐国公主こうしゅ(きこくこうしゅ、なま没年ぼつねんしょう)は、モンゴル帝国ていこく創始そうししゃチンギス・カン側室そくしつ一人ひとりだいいちたいきん戦争せんそうさいかねあさ講和こうわのためにチンギス・カンのとしてした公主こうしゅで、きむちょう皇帝こうていまもる紹王むすめはりおうしたがえつとむあねにあたる。

モンゴルがわでは岐国公主こうしゅのことを「公主こうしゅ(gōngzhŭ)」が転訛てんかしたグンジモンゴル: Güngji)という名前なまえんでいた。ペルシア史料しりょうの『しゅう』でもグンジュ・ハトゥン/گونجو خاتون(gūnjū khātūn)としるされている。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

1211ねんはじまるモンゴル帝国ていこくだいいちきんあさ侵攻しんこうにおいてモンゴルぐんかねぐん各所かくしょやぶり、1215ねん貞祐ていゆう3ねん)にはかねあさ首都しゅとちゅう包囲ほういされる事態じたいおちいった。包囲ほういきむちょう朝廷ちょうていなかでは抗戦こうせんこう和議わぎかんがおぶくきょうかねあさ宗室そうしつ)とのあいだ激論げきろんわされ、結果けっかとしてモンゴル帝国ていこくとの一時いちじてき和議わぎもとめるかんがおぶくきょうあん採用さいようされた。そこで従兄じゅうけいせんむねによって講和こうわのためにえらばれたのが彼女かのじょで、きむちょう宗室そうしつかんがおごうたち護衛ごえいしも岐国公主こうしゅはチンギス・カンのしたおくられ[1]、これをもっ和議わぎあかしとしモンゴルぐん一時いちじ華北かほくからげた[2]

チンギス・カンのとなった岐国公主こうしゅせい夫人ふじんたか地位ちいあたえられ、モンゴル帝国ていこくないでは「グンジ」のられた。これ以後いごの岐国公主こうしゅ活動かつどうについてはほとんどられていないが、『あつまり』「チンギス・カン」によるとアリクブケカラコルムおさめていたころまで存命ぞんめいであったという[3]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ きむふみまき112列伝れつでん50,「かんがおごうたちめい瞻、景山かげやま。……貞祐ていゆうはつ。以親衛しんえいぐんおく岐国公主こうしゅたかし護衛ごえい
  2. ^ ひじりたけししんせいろく』「きむ丞相じょうしょうだか琪与其主謀しゅぼう曰『聞彼人馬じんばつかれびょうじょう決戦けっせん乎』。丞相じょうしょうかんがおぶくきょう曰『不可ふかわがぐんざい都城みやこのじょういえぞくきょしょみち、其心向背こうはい可知かち戦敗せんぱい必散。苟勝、またおもえ妻子さいし而去。祖宗そそう社稷しゃしょく安危あんきざい此挙矣。こん莫若使つかいまちかれかえぐんさら為之ためゆきけい如何いか』。金主きんしゅしかこれ使つかいもとめいんけんじまもる紹王公主こうしゅれいぶくきょうらいおくうえいたるあさ而還」
  3. ^ 村上むらかみ1976,146-148ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 志茂しもせきさとし『モンゴル帝国ていこく研究けんきゅう 正篇せいへん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2013ねん
  • 村上むらかみ正二しょうじ訳注やくちゅう『モンゴル秘史ひし 3かん平凡社へいぼんしゃ、1976ねん