バヤン・クトゥク

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バヤン・クトゥク
ᠪᠠᠶᠠᠨᠬᠤᠲᠤᠭ
モンゴル帝国ていこく皇后こうごう元朝がんちょう皇后こうごう
在位ざいい こういたりもと3ねん3月17にち - いたりただし25ねん8がつ21にち
1337ねん4がつ18にち - 1365ねん9月7にち

別称べっしょう 漢字かんじ表記ひょうきはくがおゆるがせ
出生しゅっしょう たいじょう元年がんねん1324ねん
死去しきょ いたりただし25ねん8がつ21にち
1365ねん9月7にち
配偶はいぐうしゃ トゴン・テムル(めぐみむね
子女しじょ チンキム
氏族しぞく コンギラト部族ぶぞく
父親ちちおや 毓徳おうボロト・テムル
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バヤン・クトゥクモンゴルᠪᠠᠶᠠᠨᠬᠤᠲᠤᠭ, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Bayan Khutugh)は、もとめぐみむねトゴン・テムルの2番目ばんめ皇后こうごう漢文かんぶん史料しりょうでははくがおゆるがせしるされる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

コンギラト出身しゅっしんで、毓徳おうボロト・テムルアルチ子孫しそん)のむすめ[1]たけはじめカイシャン皇后こうごうであったせん皇后こうごうジンゲめいにあたる[1]げんみつる3ねん1335ねん)、めぐみむね皇后こうごうであったダナシリ長兄ちょうけいテンギス中国語ちゅうごくごばん反乱はんらんこすと、ダナシリはみぎ丞相じょうしょうバヤンによって鴆毒をまされてころされた[2]

こういたりもと3ねん3月17にち1337ねん4がつ18にち)、バヤン・クトゥクはめぐみむねによって皇后こうごうふうじられた[1]めぐみむね寵愛ちょうあいしていたこううららみつぎおんな出身しゅっしん皇后こうごうてるつもりでいたが、みぎ丞相じょうしょうバヤンの強硬きょうこう反対はんたいけて、有力ゆうりょく部族ぶぞくであったコンギラト出身しゅっしんのバヤン・クトゥクを皇后こうごうとした[1]めぐみしゅうとのあいだいちなんチンキムをもうけたが、2さい夭折ようせつした[1]めぐみむねがバヤン・クトゥクのいるひがしないあしはこぶことはすくなく、のいるきょうきよし西宮にしのみやにたびたびおもむいた。こういたりもと5ねん1340ねん)に男子だんしアユルシリダラんだこと[2]めぐみむねへの寵愛ちょうあいはますますふかまり、だい皇后こうごう冊立さくりつされた。

バヤン・クトゥクはつつしふか質素しっそで、ねたむことをきら礼法れいほうおもんじた。あるときめぐみむねうえ行幸ぎょうこうしたとき、バヤン・クトゥクのもとおもむこうとして、宦官かんがんつかわして皇后こうごうにそのむねつたえさせたが、「よるれては陛下へいかのいらっしゃるときではありません」とこばんだ。めぐみむねはそのなん宦官かんがんつかわしたが、皇后こうごう返事へんじわらなかったため、めぐみむねはバヤン・クトゥクをさらおもんじたという[1]。またあるときめぐみむねが「ちゅうせいいん中国語ちゅうごくごばんぜにかてあたえる用意よういがあるが、皇后こうごう今回こんかいことわるだろうか?」とくと、バヤン・クトゥクは「わたしくことがあればきました。はいってるものを管理かんりするとき、きっと私人しじんえらばなければするわたしがどうしてその仕事しごとをうまくこなすことができるでしょうか」 とこたえたという。

いたりただし25ねん1365ねん)8がつに42さい死去しきょ[1]。バヤン・クトゥクののこした衣装いしょうがあまりにも質素しっそなのをは「せいみや皇后こうごう(バヤン・クトゥク)がどうしてこのようなふくていたのか!」と大笑おおわらいし[1]ふとしはらからもどってきた皇太子こうたいしアユルシリダラはおおいにいてバヤン・クトゥクのかなしんだという[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i 新元しんもとまきいちひゃくよん 列伝れつでんだいいち めぐみ宗伯そうはくがおゆるがせ皇后こうごう
  2. ^ a b もとまきいちひゃくじゅうよん 列伝れつでんだいいち 后妃こうひいち