(Translated by https://www.hiragana.jp/)
定 - Wikipedia コンテンツにスキップ

じょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
仏教ぶっきょう用語ようご
じょう, サマーディ
アヌラーダプラのサマーディぞう(4-6世紀せいきごろ,世界せかい遺産いさん
サンスクリット समाधि (samādhi)
中国ちゅうごく 三昧ざんまい , さん , じょう
(拼音sān mó dì)
日本語にほんご じょう
(マ字まじ: じょう)
英語えいご concentration, one-pointedness of mind
テンプレートを表示ひょうじ

仏教ぶっきょうにおけるじょう(じょう)、サマーディともえ: samādhi)は、しんをひとつの対象たいしょう集中しゅうちゅうしん散乱さんらんがないという精神せいしん作用さようや、そのようにすることや、さだまっているその状態じょうたい[1][2]。また、一般いっぱんしん散乱さんらんさせないようにする修行しゅぎょうおよびそれによってもたらされた特殊とくしゅ精神せいしん状態じょうたいをも総称そうしょうしてじょうという[1]。samādhiのおとうつし三昧ざんまい(さんまい)であり、さんともかれた。

ていすなわち三昧ざんまいは、仏教ぶっきょうさんがくであるじょうとしひとつであって、仏教ぶっきょう実践じっせんどう大綱たいこうである[1]。また、はち正道せいどうひとつにはせいじょうげられており、五根ごこんにはていが、りょくにはじょうりょくげられている。[2][1]じょうふんほう中国語ちゅうごくごばんひとつでもある[2]じょうはんしてしんみだれてうご状態じょうたいといい、てい(じょうさん)とばれる[1]

じょうは、もともと古代こだいインド宗教しゅうきょうてき実践じっせんとしておこなわれてきたものを仏教ぶっきょうにも採用さいようしたもので、その境地きょうちふかまりにおうじて様々さまざま名称めいしょうじょうかれる[2]

じょう異名いみょう

[編集へんしゅう]

総合そうごう佛教ぶっきょうだい辞典じてん』よれば、禅定ぜんじょうしずかおもんばか[3])、三昧ざんまいなどのかたりふく範囲はんいと、じょうのそれとの広狭こうきょうかんしては種々しゅじゅ異説いせつがあるという[1]。それらのかたりは、ひろくは禅定ぜんじょうといわれる[1]としぬまの『なり唯識ゆいしきろんりょうとうまきほんにはじょう異名いみょうが7つげられている。それは、「さん呬多」(とう引)、「さん」(とう)、「さんはちそこ」(とういたり)、「えんじ」(しずかおもんばか)、「しつかげ迦阿羯羅」(しんいちさかいせい)、「おご」(こころとめ))、「げん法樂ほうらくじゅう」のななつである: [4]。それぞれは、サマーヒタ(: samāhitaとう)、サマーディ(: samādhiさんじょう)、サマーパッティ(: samāpattiとういたり)、ディヤーナ(: dhyānaぜん)、チッタイカーグラター(: cittaikāgratāしんいちさかいせい)、シャマタ(: śamathaとめ)、ドリシュタ・ダルマ・スカ・ヴィハーラ(: dṛṣṭa-dharma-sukha-vihāraげん法楽ほうらくじゅう)である[1]

サマーディ

[編集へんしゅう]

サマーディ (ともえ, : samādhi[5]) は、くという意味いみの Sam と、くという意味いみの Adhi であり、しん一定いってい対象たいしょう集中しゅうちゅうさせることである[6]じょうつよさによって、初心者しょしんしゃじょう禅定ぜんじょう直前ちょくぜんのもの、禅定ぜんじょうともなっているものにけられる[6][よう検証けんしょう]

修得しゅうとくじょう生得しょうとくじょう

[編集へんしゅう]

じょうには、修得しゅうとくじょう(しゅとくじょう)と生得しょうとくじょう(しょうとくじょう)とがある[1]修得しゅうとくじょうは、である欲界よくかいにおいて、じょうるための修行しゅぎょう実践じっせんしてられる[1]生得しょうとくじょうは、じょうであるいろかい無色むしょくかいまれることで自然しぜんられる[1]いろかいじょう場合ばあいは、このをそれぞれせいしずかおもんばかていしずかおもんばかといい、無色むしょくじょう場合ばあいなま無色むしょくてい無色むしょくという[1][よう追加ついか記述きじゅつ]

上座かみざ

[編集へんしゅう]

ブッダゴーサは、じょうを「意識いしきとそれに付随ふずいする意識いしきを、単一たんいつ物体ぶったい均等きんとうかつまさしく集中しゅうちゅうさせること ..(中略ちゅうりゃく).. 意識いしきとそれに付随ふずいする意識いしきが、単一たんいつ物体ぶったい均等きんとうかつまさしくとどまり、らされることなくらばらない状態じょうたい」と定義ていぎしている[7]

ブッダゴーサによると上座かみざパーリ仏典ぶってんにおいては、よん種類しゅるいじょう達成たっせいについて言及げんきゅうされている。

  1. 瞬間しゅんかんてき集中しゅうちゅう状態じょうたい (khanika samādhi):
    サマタ瞑想めいそうにおいて発生はっせいする精神せいしん安定あんてい
  2. あまねさくじょう (parikamma samādhi):
    瞑想めいそう対象たいしょう集中しゅうちゅうしようとする最初さいしょこころみによって発生はっせいする。
  3. きんくだりじょう (upacāra samādhi):
    ぶたがが払拭ふっしょくされ禅定ぜんじょうとなり、しょう(patibhaganimitta)が出現しゅつげんしたときにしょうじる。
  4. やすとめじょう (appana samādhi):
    対象たいしょう瞑想めいそうしん完全かんぜん没頭ぼっとうさせ、よんぜんすべてが安定あんていしている。

ブッダゴーサの清浄せいじょうどうろんにおいては、じょう知恵ちえるための「近因きんいん」であるとしるされている[8] 。ブッダゴーサは瞑想めいそうのためのよんじゅうぎょうしょをまとめげており、パーリ仏典ぶってんでは全体ぜんたいとして言及げんきゅうされているが、清浄せいじょうどうろんにおいては明示めいじてきなリストとしてしるされた[9]。たとえばマインドフルネス呼吸こきゅうほうやす般那ねん)、慈悲じひ瞑想めいそうなどがある。

有心うしんじょう無心むしんじょう

[編集へんしゅう]

倶舎むねなどでは、禅定ぜんじょうという言葉ことばしずかおもんばか(dhyama)としてかれる[3]有心うしんじょう無心むしんじょう大別たいべつする[1]

有心うしんじょう

[編集へんしゅう]
倶舎ろんにおけるよん禅定ぜんじょう [3]
よん
せい
おもんばか
はつしずかおもんばか いたりじょう(こんぶんじょう) ゆうひろゆう
根本ねもとじょう(中間なかまじょう) ひろただ
だいしずかおもんばか きんぶんじょう ひろ
根本ねもとじょう
だいさんしずかおもんばか きんぶんじょう
根本ねもとじょう
だいよんしずかおもんばか きんぶんじょう
根本ねもとじょう

有心うしんじょうにはよんしずかおもんばかよんぜんよんしょく禅定ぜんじょう、Rūpajhānas)とよん無色むしょくじょう(Arūpajhāna)とのはちじょうはちとういたり)がある[1]はちじょうとは、はつしずかおもんばかだいしずかおもんばかだいさんしずかおもんばかだいよんしずかおもんばかそら無辺むへんしょじょう識無しょじょう所有しょゆうしょじょうそうそうしょじょうである[1]

これらのじょうには、それぞれのじょうはいわった段階だんかいと、じょうちかづきつつある準備じゅんびてき入門にゅうもんぜん段階だんかいとがある[1]はつしずかおもんばかぜん段階だんかいのみをいたりじょう(みしじょう, anagamya)というが、そのは、それぞれのじょうちかづきつつあるぜん段階だんかいのことをきんぶんじょう(ごんぶんじょう)といい、それぞれのじょうはいわった段階だんかい根本ねもとじょうという[1][3]

だいよんしずかおもんばかには下下しもじもひんからうえ上品じょうひんまでのきゅうひんがあり、その究極きゅうきょくである上上じょうじょうひんいろかいじょう最高さいこうであるからあたりぎわじょう(へんざいじょう)という[1]

不時ふじ解脱げだつ阿羅漢あらかんは、よんぜんよん無色むしょくはちじょう順次じゅんじおさめるのではなく、いちえてたか段階だんかいじょうおさめるとされる[1]。これをちょうじょうという[1]

無心むしんじょう想定そうてい滅尽めつじんじょう)およびきゅう次第しだい

[編集へんしゅう]

無心むしんじょうには、想定そうてい滅尽めつじんじょうとがあり、いずれもしんしんしょまっためっするじょうである[1]よんぜんよんしずかおもんばか)・よん無色むしょく滅尽めつじんきゅうじょうは、しんをまじえずに次第しだいって順次じゅんじ修得しゅうとくするときはきゅう次第しだいあいだぜん名付なづけられる[1]

よんぜんよん無色むしょくじょううえに、滅尽めつじんじょう(nirodha-samāpatti[10][11])すなわち、そう受滅じょう(saññā-vedayita-nirodha-samāpatti[10][11])があり[10][11][12]きゅうだいじょうばれる[10][13]

想定そうていは、凡夫ぼんぷ外道げどう無想むそう状態じょうたいしんさと誤認ごにんしておさめるものであるが、滅尽めつじんじょうは、聖者せいじゃがそのじょう境地きょうち涅槃ねはんかいしずけさになぞらえておさめるものである[1]想定そうていでは、だいよん禅定ぜんじょうにもとづき知覚ちかくあらいはたらきがなくなり、滅尽めつじんじょう(nirodha-samāpatti)では、有頂天うちょうてんにもとづきしんしんしょほうめられたあいだにおいてとめめっする[14]

きゅうだいじょうとは、パーリ仏典ぶってんでは9つのじょうかたち説明せつめいたもたれており、だいいち禅定ぜんじょうだい禅定ぜんじょうだいさん禅定ぜんじょうだいよん禅定ぜんじょうそら無辺むへんしょ(じょう)[15]、識無しょ(じょう)[16]所有しょゆうしょ(じょう)[17]そうそうしょ(じょう)[18]そう受滅[19]となり、この最後さいごだけが釈迦しゃかはじめて到達とうたつした仏教ぶっきょう特徴とくちょうてきじょうだとされる[20]だい般涅槃経では、釈迦しゃか入滅にゅうめつにさいしてだいいち禅定ぜんじょうそう受滅のあいだを上下じょうげし、だいよん禅定ぜんじょうからじょうしたのち般涅槃ねはんはいったとされている[21][22]藤本ふじもとあきらは、滅尽めつじんじょう煩悩ぼんのうほろぼしてしん完全かんぜんきよらかにした阿羅漢あらかんでなければできない禅定ぜんじょうであり、凡夫ぼんぷ禅定ぜんじょうしゃにとってはそうそうしょじょう最高さいこう境地きょうちであるとべている[23][注釈ちゅうしゃく 1]

大乗だいじょう仏教ぶっきょうにおける滅尽めつじんじょう解釈かいしゃく

[編集へんしゅう]

初期しょき経典きょうてんの『おもね含経』やパーリ・ニカーヤでは、さい上位じょういほろび想定そうてい滅尽めつじんじょう)が存在そんざいするとするものの、きゅうだいじょうそう受滅じょうかたられる位置いちに、しょうしんじょう言及げんきゅうされ、このしょうしんじょうとはめつ想定そうていからじょうするさいかんであると解釈かいしゃくされている[13]

滅尽めつじんじょうについては、ことなる複数ふくすう以上いじょうのサンスクリットのかんやくとしてもちいられており、めつ想定そうてい同義どうぎかんやくほかに、ubhaya(to)-bhāga-vimukta からの翻訳ほんやくがある[26][信頼しんらいせいよう検証けんしょう]

じゅうけいだいななでは、「(波羅蜜はらみつにある)かの菩薩ぼさつ」なるものが、だいろく菩薩ぼさつ(くらい)においてはじめて、「あらゆるまよいの存在そんざい滅尽めつじんするじょうめつじょう)」に入定にゅうじょうし、だいなな菩薩ぼさつにおいて、そのじょう入定にゅうじょうしてはまたじょうするようになるとする[27][注釈ちゅうしゃく 2]。『にゅうちゅうろん』のつきしょう(チャンドラキールティ)の注釈ちゅうしゃくも、じゅうにおける滅尽めつじんじょうだいろくからだいはちにかけて入定にゅうじょうするということであるとしている[13]。ツォンカバの『みつ解明かいめい』でも同様どうようである[28]

これらじょう名称めいしょうについては、おなじサンスクリットがことなる複数ふくすう以上いじょうかんやく場合ばあいがある一方いっぽうで、まったことなる意味いみのサンスクリットがおな漢語かんごやくされていることがある(れい: 滅尽めつじんじょう[26]

大乗だいじょうにおけるじょう

[編集へんしゅう]

大乗だいじょうではおおくのじょうかれる[1]唯識ゆいしきむね真言宗しんごんしゅう瑜伽ゆがかんぎょう天台宗てんだいしゅうよんしゅ三昧ざんまい禅宗ぜんしゅう坐禅ざぜんなどがある[1]

じょうはいることや、さとりをひとぬことを入定にゅうじょうといい、じょうからることをじょうという[1]

かん無量むりょう寿ことぶきけい浄土真宗じょうどしんしゅう

[編集へんしゅう]

かん無量むりょう寿ことぶきけいでは、西方せいほう極楽浄土ごくらくじょうど往生おうじょうするためのくだりとしてていぜん[1]善導ぜんどうによれば、ていぜんおさめるひとじょうぜんおさめるひとという[1]浄土真宗じょうどしんしゅうではてい自力じりき行者ぎょうじゃであるとし、他力たりきだい信心しんじん対比たいひさせている[1]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 竹村たけむら牧男まきおによれば、仏教ぶっきょうでは人間にんげん釈尊しゃくそんにはほどとおく、修行しゅぎょうしてもおよばないとかんがえられており、修行しゅぎょう最終さいしゅう地位ちい阿羅漢あらかんであるという[24][25]
  2. ^ 荒牧あらまき典俊のりとし訳注やくちゅうによれば、じゅうけいのこの箇所かしょがこのようにじょうというのは、概念がいねん作用さよう感情かんじょう滅尽めつじんする最高さいこう禅定ぜんじょうであって、そうそうしょぞくするものであるという[よう検証けんしょう][27]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 総合そうごう仏教ぶっきょうだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい総合そうごう佛教ぶっきょうだい辞典じてん法蔵館ほうぞうかん、2005ねん、687-689ぺーじISBN 4-8318-7070-6 
  2. ^ a b c d (編集へんしゅう)中村なかむらはじめ田村たむら芳朗よしろう末木すえきぶん福永ふくなが光司こうじ今野こんのいたる岩波いわなみ仏教ぶっきょう辞典じてん』(2はん岩波書店いわなみしょてん、2002ねん、513-514ぺーじISBN 4-00-080205-4 
  3. ^ a b c d 吉瀬よしせ まさる「倶舎ろんにおける中間ちゅうかんてい解釈かいしゃく」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい31かんだい1ごう、1982ねん、320-325ぺーじNAID 130004024564 
  4. ^ 大正たいしょう大蔵経だいぞうきょうまき43、740ぺーじ
  5. ^ 岩波いわなみ 仏教ぶっきょう辞典じてん だいはん』401ぺーじ三昧ざんまい
  6. ^ a b マハーシ長老ちょうろう ちょ、ウ・ウィジャナンダー やく『ミャンマーの瞑想めいそう―ウィパッサナー観法かんぽう国際こくさい語学ごがくしゃ、1996ねん、162ぺーじISBN 4-87731-024-X 
  7. ^ Vism.84–85; PP.85
  8. ^ Buddhaghosa & Nanamoli 1999, p. 437.
  9. ^ Buddhaghosa & Nanamoli (1999), pp. 90–91 (II, 27–28, "Development in Brief"), 110ff. (starting with III, 104, "enumeration"). It can also be found sprinkled earlier in this text, as on p. 18 (I, 39, v. 2) and p. 39 (I, 107).
  10. ^ a b c d 長崎ながさきほうじゅん滅尽めつじんじょうについて」(pdf)『大谷おおやまなぶほうだい39かんだい2ごう、1959ねん11月、64-76ぺーじ 
  11. ^ a b c 服部はっとりひろしみず原始げんし仏教ぶっきょうける涅槃ねはん研究けんきゅう山喜やまきぼう仏書ぶっしょりん、2011ねん、610ぺーじISBN 978-4796302135  該当がいとうページでは受想ほろび[じょう]とあり、てい samāpatti がけた表記ひょうき
  12. ^ 桐山きりやま靖雄やすお人間にんげん改造かいぞう原理げんり方法ほうほう原始げんし仏教ぶっきょうから密教みっきょうまで』平河ひらかわ出版しゅっぱんしゃ、1977ねん、198ぺーじ  ASIN B000J8OBDK
  13. ^ a b c 太田おおた蕗子ふきこ大乗だいじょう菩薩道ぼさつどうにおけるしょう滅尽めつじんじょう背景はいけいについて」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい64かんだい1ごう、2015ねん12がつ20日はつか、402-397ぺーじNAID 110010033496 
  14. ^ ダライ・ラマ14せいテンジン・ギャツォ しる菅沼すがぬまあきら わけ『ダライ・ラマ 智慧ちえをひらく』春秋しゅんじゅうしゃ、2001ねん、132、索引さくいん16ぺーじISBN 978-4-393-13335-4  全面ぜんめんてきさい改訳かいやくばん。(初版しょはん大乗だいじょう仏教ぶっきょう入門にゅうもん』1980ねん改訳かいやく智慧ちえ』1988ねんThe Opening of the Wisdom-Eye: And the History of the Advancement of Buddhadharma in Tibet, 1966, rep, 1977。上座かみざ仏教ぶっきょうにおける注釈ちゅうしゃくそなえる。
  15. ^ ākāśānañcāyatana-samāpatti
  16. ^ viññāṇañcāyatana-samāpatti
  17. ^ ākiñcaññāyatana-samāpatti
  18. ^ nevasaññānāsaññāyatana-samāpatti
  19. ^ saññāvedayitanirodha
  20. ^ 藤本ふじもとあきら「パーリ経典きょうてんかれる「きゅうだいじょう」の成立せいりつ構造こうぞう」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい53かんだい2ごう、2005ねん、891-888ぺーじdoi:10.4259/ibk.53.891NAID 130004027834 
  21. ^ 藤本ふじもとあきらさとりの4つのステージ: あずかりゅうはていちらいはてかえはて阿羅漢あらかんはて』 サンガ、2015ねん、274ぺーじ
  22. ^ この場面ばめんは、中村なかむらはじめわけ『ブッダ最後さいごたび - だいパリニッバーナけい』(岩波いわなみ文庫ぶんこ)では169-170ぺーじ記載きさいされている。
  23. ^ 藤本ふじもとあきらさとりの4つのステージ: あずかりゅうはていちらいはてかえはて阿羅漢あらかんはて』 サンガ、2015ねん、209ぺーじ、260-269ぺーじ
  24. ^ 竹村たけむら牧男まきお 『「さとり」と「そら」』 講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、1992ねん1がつ、118ぺーじおよび125ぺーじ
  25. ^ 竹村たけむら牧男まきお 『インド仏教ぶっきょう歴史れきし』 講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2005ねん7がつ、133ぺーじおよび140ぺーじ。なお、本書ほんしょ4ぺーじによれば、本書ほんしょは、竹村たけむら牧男まきお『「さとり」と「そら」』(講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)の再刊さいかんである。
  26. ^ a b 平川ひらかわあきら編纂へんさん仏教ぶっきょうかん梵大辞典じてん霊友会れいゆうかい、740ぺーじ滅尽めつじんじょう」、およびその対照たいしょう逐訳。
  27. ^ a b 荒牧あらまき典俊のりとしわけ 『大乗だいじょう仏典ぶってん だいはちかん じゅうけい』 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1974ねん1がつ、222-223, 392ぺーじ
  28. ^ 太田おおた蕗子ふきこ「ツォンカパちょみつ解明かいめい』における菩薩ぼさつ修道しゅうどう階梯かいてい : 滅尽めつじんじょう中心ちゅうしんとして」『日本にっぽん西蔵にしくら学会がっかいほうだい54ごう、2008ねん6がつ1にち、33-45ぺーじNAID 110009841250 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]