きたはじめ

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きたはじめ(ほくしゅう)は、中国ちゅうごくにおける禅宗ぜんしゅう一派いっぱであり、とうだいのり天武てんむきさきむかえられたかみしげるとその門弟子もんていしらの一派いっぱす。しかし、かみしげるらはきたむね自称じしょうしたわけではなく、この名称めいしょうかみかい自身じしん論敵ろんてきとしてかみしげる弟子でしたちをしてもちいた通称つうしょう由来ゆらいするものである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく禅宗ぜんしゅうにあたるひろにん高弟こうていであったかみしげるは、晩年ばんねんのり天武てんむきさきにより洛陽らくよう)にむかえられ、帝室ていしつ尊崇そんすうけながらにおいて死去しきょした。かみしげる死後しごも、その弟子でしたちは帝室ていしつ保護ほごけ、おおくのかんじん支持しじけていた。

洛陽らくようさわてらったかみかいは、この僧侶そうりょたちをまとめてきたむねび、しん仏法ぶっぽうである頓悟とんごはんするややさとるおしえを主張しゅちょうしているとして非難ひなんした。しかし、これに同調どうちょうするものはほとんどおらず、かみしげる弟子でしたちを支持しじする政府せいふ高官こうかんによってかみかい洛陽らくよう追放ついほうされた。

755ねん天宝てんぽう14)に発生はっせいしたやすろくやまらんにてかみかい洛陽らくよう復帰ふっきしたのち香水こうすいぜに制度せいど)の功績こうせきもあって、かみかい支持しじする役人やくにん増加ぞうかしてさわはじめ隆盛りゅうせいしたが、かみかい批判ひはんてきであったきたはじめ系統けいとう継承けいしょうされていった。しかし845ねんかいあきら5ねん)のかいあきらはいぼとけにより、きたはじめ系統けいとうともども歴史れきしから消滅しょうめつした。この南北なんぼくりょうむね確執かくしつ栄華えいが没落ぼつらくは、禅宗ぜんしゅうおおきな影響えいきょうあたつづけていくことになった。

20世紀せいきには、敦煌とんこう文献ぶんけんなかきたむね新出にいで文献ぶんけん発見はっけんされている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

きたはじめ一派いっぱぞくする高僧こうそうとしては、その祖師そしとされるかみしげる、そしてその弟子でしであるひろしさびぶくげられる。また、チベットのラサにおいて792ねん貞元さだもと8ねん)に開催かいさいされたサムイェーてら宗論しゅうろん参加さんかした大乗だいじょう和尚おしょう訶衍)もきたむね僧侶そうりょであったとされる。

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

かみしげるは、本来ほんらい清浄せいじょうであるしん観察かんさつする「かんしん」をおしえたということが、現存げんそんするかれ文献ぶんけんからあきらかになっている。また、そのきたむね文献ぶんけんでは、しん存在そんざいする場所ばしょ特定とくていできず、遍満へんまんしてすべてのものに潜在せんざいしているのであるとしている。したがって「かんしん」は、その対象たいしょうであるしんがどこにもありかつどこにもない。このような過程かていつうじて主客しゅかく二元にげんせい超越ちょうえつするのが、かみしげるらのおしえた禅定ぜんじょうである。

ろくだんけい』やかみかいきたむね非難ひなんには、かみしげる無明むみょうさと二元にげんせいえられないややさとる立場たちばっているとして批判ひはんされているが、実際じっさいにはなんらの段階だんかいろんかなかったことが、近年きんねん研究けんきゅうあきらかになっている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]