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川崎かわさき宿やど

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
川崎かわさき宿やど歌川うたがわ広重ひろしげ東海道とうかいどうじゅうさん』より)

川崎かわさき宿やど(かわさきしゅく、かわさきじゅく)は、東海道とうかいどうじゅうさんの2番目ばんめ宿場しゅくばである。 武蔵むさしこくたちばないつきぐん川崎かわさきりょう現在げんざい神奈川かながわけん川崎かわさき川崎かわさき)にかれた。

概要がいよう

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東海道とうかいどう成立せいりつ時点じてんでは正式せいしき宿場しゅくばとなっていなかったが、品川しながわ宿やど - 神奈川かながわ宿やどあいだ往復おうふくじゅうさとながく、伝馬てんま負担ふたんおもかったために、1623ねん元和がんわ9ねん)に設置せっちされた[1]

設置せっちには伝馬てんまつとめる農民のうみん負担ふたんばかりでなく、問屋場とんやば破産はさんまれるなどの窮状きゅうじょうおちいり、1632ねん寛永かんえい9ねん)には、宿やど役人やくにん幕府ばくふ川崎かわさき宿やど廃止はいしうったえる事態じたいとなった[1]幕府ばくふ問屋場とんやばなどへの支援しえんおこなったものの、廃止はいしねがいがれられることはなく、さらには伝馬てんま負担ふたんげ、地震じしん富士山ふじやま噴火ふんかなどで財政ざいせい困窮こんきゅうきわめた[2]

そんななか問屋とんや名主なぬし本陣ほんじん当主とうしゅ一身いっしんねた田中たなかきゅうは、幕府ばくふはたらきかけをおこない、六郷ろくごうわた権益けんえき川崎かわさき宿やどのものとしたほか、さらに救済きゅうさいきんけるなど、川崎かわさき宿やど再建さいけんのためにおおきな役割やくわりたした[3]

川崎かわさき宿やど維持いじ負担ふたんくるしめられたのは宿やど住民じゅうみんだけでなく、近隣きんりん農民のうみんじょさととして負担ふたんいられていた[4]1694ねん元禄げんろく7ねん)の制度せいど発足ほっそく当時とうじさき召集しょうしゅうされるていじょさと8むらと、ていじょさとでも不足ふそく場合ばあい大助おおすけきょう30むらというようにかれていたが、東海道とうかいどう交通こうつうりょう増加ぞうかていじょごうむら負担ふたん過大かだいとなった結果けっか1725ねんとおる10ねん)にはていじょさと大助おおすけきょう区分くぶん廃止はいしし、のちにはさらに遠方えんぽうの16むらすけきょうめいぜられている[5]じょさと負担ふたん見返みかえりに手当てあて微々びびたるものであり、またそのあいだ農作業のうさぎょうにもかかれず[6]、さらには川崎かわさき宿やど特有とくゆう問題もんだいとして多摩川たまがわ川止かわどめになればなんにち拘束こうそくされてしまうなど[7]負担ふたんおもく、じょさと免除めんじょねがいされたり[7]出勤しゅっきん簿だけいて逃走とうそうしたり[8]と、負担ふたん回避かいひのための行動こうどうおこなわれた。のべとおる年間ねんかん以降いこうには金納きんのうするれいあらわれたが、支払しはら金銭きんせん高額こうがくであり、依然いぜんとしてじょごうむらくるしむこととなった[7]

施設しせつ

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川崎かわさき宿やど砂子すなご久根くねさき新宿しんじゅく小土呂おどろの4まちからなっており、本陣ほんじん田中たなか本陣ほんじん佐藤さとうそう左衛門さえもん本陣ほんじんそう兵衛ひょうえ本陣ほんじんがあったが、そう兵衛ひょうえ本陣ほんじん江戸えど後期こうきには廃業はいぎょうしていた[9]。ただ、度重たびかさなる災害さいがいかくはん財政ざいせい窮乏きゅうぼうもあって[10]幕末ばくまつには本陣ほんじん衰微すいびしており、1857ねん安政あんせい4ねん)には、タウンゼント・ハリス田中たなか本陣ほんじんまる予定よていであったものの、荒廃こうはいのためまんねんうつるということがこっている[11]。このまんねん東海道とうかいどうから川崎大師かわさきだいしへの分岐ぶんきてんにあったというもあって隆盛りゅうせいほこ[12]1877ねん明治めいじ10ねん)には和宮かずのみや親子おやこ内親王ないしんのうまる[13]など、本陣ほんじん衰微すいびさせるとまでいわれた繁栄はんえいほこっていたが、1882ねん明治めいじ15ねん)にはだいいち京浜けいひん工事こうじのため姿すがたした[14]

旅籠はたごは72けんあり、そのうち飯盛めしもりおんないていた「めし旅籠はたご」が新宿しんじゅく集中しゅうちゅうして33けんいていない「たいら旅籠はたご」が39けんであった[15]旅籠はたご1けんあたり飯盛めしもりおんな2人ふたりまでということとなってはいたが、実態じったいとしてはほとんどまもられておらず、またまりが必要ひつようなほど服装ふくそう華美かびになっていっていた[16]。こうした事情じじょうもあり、たいら旅籠はたごめし旅籠はたごあいだにはしばしば紛争ふんそうきたという[17]めし旅籠はたごは、明治めいじはいっても「貸座敷かしざしき」としょうして同様どうよう営業えいぎょうつづけていたが、のちに南町みなみまちうつされた[18]

沿革えんかく

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最寄もよえき

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JR東海道本線とうかいどうほんせん南武線なんぶせん京浜東北線けいひんとうほくせん 川崎かわさきえきまた京急けいきゅう本線ほんせん京急けいきゅう大師線だいしせん京急けいきゅう川崎かわさきえき

となり宿場しゅくば

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品川しながわ宿やど - 川崎かわさき宿やど - 神奈川かながわ宿やど

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.41。
  2. ^ ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、pp.41-42。
  3. ^ a b c ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.42。
  4. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、p.32。
  5. ^ ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.47。
  6. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、pp.32-33。
  7. ^ a b c ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.48。
  8. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、p.34。
  9. ^ ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.42。
  10. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、p.24。
  11. ^ a b ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.39。
  12. ^ ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.33。
  13. ^ ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.34。
  14. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、p.40。
  15. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、p.41。
  16. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、p.42。
  17. ^ ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.52。
  18. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、p.44。
  19. ^ 川崎かわさき地名ちめい辞典じてん』、p.6。
  20. ^ ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.40。
  21. ^ 川崎かわさき歴史れきしじゅうさん』、pp.30-31。
  22. ^ a b 川崎かわさき地名ちめい辞典じてん』、p.17。
  23. ^ ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした』、p.32。
  24. ^ a b 川崎かわさき地名ちめい辞典じてん』、p.18。
  25. ^ a b c 川崎かわさき地名ちめい辞典じてん』、p.7。
  26. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 14 神奈川かながわけん』、p.102。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高橋たかはし嘉彦よしひこ『ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきしした、2010ねん 
  • 三輪みわ修三しゅうぞう川崎かわさき歴史れきしじゅうさん多摩川たまがわ新聞しんぶんしゃ、1986ねん 
  • 川崎かわさき地名ちめい辞典じてんうえ)』日本にっぽん地名ちめい研究所けんきゅうじょ へん川崎かわさき、2004ねん 
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 14 神奈川かながわけん角川書店かどかわしょてん、1984ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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