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大師だいしまち

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だいしまち
大師だいしまち
廃止はいし 1924ねん7がつ1にち
廃止はいし理由りゆう 新設しんせつ合併がっぺい
川崎かわさきまち大師だいしまち御幸みゆきむら川崎かわさき
現在げんざい自治体じちたい 川崎かわさき
廃止はいし時点じてんのデータ
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 関東かんとう地方ちほう
都道府県とどうふけん 神奈川かながわけん
ぐん たちばないつきぐん
市町村しちょうそんコード なし(導入どうにゅうまえ廃止はいし
そう人口じんこう 8,550ひと
(1920ねん国勢調査こくせいちょうさ
隣接りんせつ自治体じちたい 神奈川かながわけん
川崎かわさきまち田島たじままち
東京とうきょう
荏原えばらぐん六郷ろくごうまち羽田はねだまち
大師だいしまち役場やくば
所在地しょざいち 神奈川かながわけんたちばないつきぐん大師だいしまち大字だいじ大師河原だいしがわら
座標ざひょう 北緯ほくい3531ふん57びょう 東経とうけい13944ふん03びょう / 北緯ほくい35.53253 東経とうけい139.73403 / 35.53253; 139.73403座標ざひょう: 北緯ほくい3531ふん57びょう 東経とうけい13944ふん03びょう / 北緯ほくい35.53253 東経とうけい139.73403 / 35.53253; 139.73403
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大師だいしまち(だいしまち)は、1923ねん大正たいしょう12ねん1がつ1にちから1924ねん大正たいしょう13ねん7がつ1にちまで存在そんざいした神奈川かながわけんたちばないつきぐんまち

前身ぜんしん大師河原だいしがわらむら(だいしがわらむら)についてもほんこうべる。

概要がいよう

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神奈川かながわけんたちばないつきぐん東部とうぶむら現在げんざい神奈川かながわけん川崎かわさき川崎かわさき東部とうぶにあたる。

地理ちり

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歴史れきし

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沿革えんかく

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  • 戦国せんごく時代じだい - 大師河原だいしがわら地名ちめいられる。
  • 江戸えど時代じだい - 大師河原だいしがわらむら池上いけがみ新田にった稲荷新田いなりしんでん(いずれも幕府ばくふりょう)、川中島かわなかじまむら幕府ばくふりょう大師だいしりょう稲荷いなり明神みょうじん社領しゃりょう)が成立せいりつ
  • 1868ねん明治めいじ元年がんねん
    • 旧暦きゅうれき6がつ17にち - 神奈川かながわ管轄かんかつとなる。
    • 旧暦きゅうれき9がつ21にち - 神奈川かながわ神奈川かながわけん改称かいしょう
  • 1874ねん明治めいじ7ねん) - だいせい施行しこうにより、(きゅう大師河原だいしがわらむら池上いけがみ新田にった川中島かわなかじまむら稲荷新田いなりしんでんだい4だいだい2しょうとなる。
  • 1875ねん明治めいじ8ねん) - 川中島かわなかじまむら稲荷新田いなりしんでんが(きゅう大師河原だいしがわらむら編入へんにゅう
  • 1889ねん明治めいじ22ねん4がつ1にち - 町村ちょうそんせい施行しこうにより、(きゅう大師河原だいしがわらむら池上いけがみ新田しんでんおよび新宿しんじゅくまち砂子すなごまち中島なかじまむら飛地とびち合併がっぺいして大師河原だいしがわらむら成立せいりつ大師河原だいしがわらむら飛地とびち田島たじまむら川崎かわさきまち一部いちぶとなる)。
  • 1912ねん明治めいじ45ねん)4がつ1にち - 「東京とうきょう神奈川かながわけん境界きょうかい変更へんこうかんする法律ほうりつ」が施行しこうされ、東京とうきょう荏原えばらぐん羽田はねだまち鈴木すずき新田にった羽田はた羽田はた猟師りょうしまちかく一部いちぶ編入へんにゅう
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん1がつ1にち - 大師河原だいしがわらむら町制ちょうせい施行しこう改称かいしょうして大師だいしまちとなる。
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん7がつ1にち - 川崎かわさきまち御幸みゆきむら合併がっぺいして川崎かわさき新設しんせつ同日どうじつ大師だいしまち廃止はいし
  • 1972ねん昭和しょうわ47ねん)4がつ1にち - 川崎かわさき政令せいれい指定してい都市とし指定していされ、きゅうまちいき川崎かわさきとなる。

池上いけがみ新田にった開発かいはつ

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大師河原だいしがわらむら一帯いったい開発かいはつおおきく寄与きよしたのは、世襲せしゅう名主なぬし池上いけがみであった[1]

池上いけがみには池上本門寺いけがみほんもんじかかわりのふかそうなかがおり、そうなかからかぞえてじゅう代目だいめ池上いけがみみゆきしゅ大師河原だいしがわらむら一帯いったい開発かいはつ着手ちゃくしゅした[2]小田原おだわら北条ほうじょうつかえていた池上いけがみであったが、こうしゅ家康いえやすつかえず農産のうさんぎょう従事じゅうじすることをえらんだ[3]小泉こいずみ太夫たゆう吉次よしじりょう用水ようすい完成かんせいさせる1614ねん慶長けいちょう14ねん)の前年ぜんねん他界たかいするまで、かれ自費じひ多摩川たまがわ河口かこう萱野かやの開発かいはつした[3]

こうしゅ息子むすこ幸広ゆきひろちち遺志いしぎ、1625ねん寛永かんえい2ねん)から大師河原だいしがわら隣接りんせつする海辺うみべやどりきしゅう100町歩ちょうぶ開発かいはつし、これがこう稲荷新田いなりしんでんむらとなった[4]稲荷新田いなりしんでんむらの1702ねん元禄げんろく15ねん)には1450せき石高こくだかとなり、川崎かわさき市域しいき最大さいだい石高こくだかむら発展はってんした[5]幸広ゆきひろは、「大師河原だいしがわらさけ合戦かっせん」(慶安けいあん2ねん開催かいさいされたさけ合戦かっせん)に登場とうじょうする「大蛇おろちまるそこふか本人ほんにんであり、酒豪しゅごうられた[6]

幸広ゆきひろからかぞえて4代目だいめにあたる池上いけがみさいわいゆたかは、1746ねんのべとおる3ねん)から多摩川たまがわ河口かこう海辺うみべ新田にった開発かいはつ開始かいしし、1761ねんたかられき11ねん)に耕地こうち面積めんせき14町歩ちょうぶ池上いけがみ新田にった完成かんせいさせた[7]池上いけがみ新田しんでん耕地こうち面積めんせきちいさく、さらに移住いじゅうしゃ家数やかず5けんすくなかったが、うみてる方法ほうほうは18世紀せいきなかばの当時とうじとしては画期的かっきてきであった[8]。その幕府ばくふさいわいゆたか技術ぎじゅつ知識ちしき水準すいじゅんたかさを評価ひょうかし、あらたな予定よていえらぶようめいじたが、これは実現じつげんしなかった[8]

交通こうつう

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鉄道てつどう路線ろせん

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京急けいきゅう大師だいしせん鈴木町すずきちょうえき東門前ひがしもんぜんえき大師だいしきょうえき小島新田おじましんでんえきは、当時とうじ開業かいぎょう

現在げんざい町名ちょうめい

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いずれも大体だいたい範囲はんい

  • きゅう大師河原だいしがわらむら藤崎ふじさき伊勢いせまち大師河原だいしがわらうてなまち観音かんのん一部いちぶ)、昭和しょうわ一部いちぶ
  • きゅう川中島かわなかじまむら大師本だいしほんまち大師駅前だいしえきまえ大師だいしまち大師公園だいしこうえん東門前ひがしもんぜん川中島かわなかじま観音かんのん一部いちぶ
  • きゅう稲荷新田いなりしんでん四谷上よつやかみまち四谷下よつやしもまち出来野できの日ノ出ひので塩浜しおはま田町たまち江川えがわ殿町とのまち小島こじままち昭和しょうわ一部いちぶ
  • きゅう池上いけがみ新田にった池上新いけがみしんまち池上いけがみまち

参照さんしょう

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出典しゅってん

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  • 高橋たかはし嘉彦よしひこ『ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきし(なか)』多摩川たまがわ新聞しんぶんしゃ、2000ねんISBN 4-924882-41-0 
  • 高橋たかはし嘉彦よしひこ『ふるさと川崎かわさき自然しぜん歴史れきし(した)』2000ねん 

関連かんれん項目こうもく

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