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さわ宣嘉のぶよし

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さわ 宣嘉のぶよし
さわ宣嘉のぶよし
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 天保てんぽう6ねん12月23にち1836ねん2がつ9にち
死没しぼつ 明治めいじ6ねん1873ねん9月27にち
別名べつめい 通称つうしょうくま麿まろごう春川はるかわ小春こはる変名へんめいあね小路こうじ五郎丸ごろうまる
墓所はかしょ 東京とうきょう文京ぶんきょう小石川こいしかわ伝通院でんづういん
官位かんい したがえさんみぎ衛門えもんけん
主君しゅくん 孝明天皇こうめいてんのう明治天皇めいじてんのう
氏族しぞく あね小路こうじさわ
父母ちちはは ちちあね小路こうじこうとげははたい三条さんじょうこうおさむむすめ
養父ようふさわためりょう
兄弟きょうだい あね小路こうじこうまえ石山いしやまはじめぶん宣嘉のぶよし
やしなえ兄弟きょうだい延子のぶこせんしゅ忠子ただこ岩倉いわくら久子ひさこ
つま 正室せいしつさわ藤子とうこさわためりょうむすめ
せんりょうせんもと貞子さだこ養子ようしせんしゅ
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さわ 宣嘉のぶよし(さわ のぶよし)は、幕末ばくまつ公卿くぎょうけん中納言ちゅうなごんあね小路こうじこうとげなん参議さんぎさわためりょう養嗣子ようししむすめ婿むこ)。官位かんいしたがえさんみぎ衛門えもんけんさわ8だい当主とうしゅ維新いしん初代しょだい外務がいむきょう

経歴けいれき

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天保てんぽう6ねん1836ねん)、あね小路こうじこうとげおとことして誕生たんじょうのちさわためりょうむすめ藤子とうこ結婚けっこんし、その婿養子むこようしつぎ養子ようし)となる(ためりょう実子じっしせんしゅは、宣嘉のぶよし養嗣子ようししとなる)。安政あんせい5ねん1858ねん)の日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつさい養父ようふとも勅許ちょっきょ反対はんたいして廷臣ていしんはちじゅうはちきょうれつ参事さんじけんかかわる。以後いご朝廷ちょうていうちにおいて尊皇そんのう攘夷じょういとして活動かつどうした。

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)に会津あいづはん薩摩さつまはん結託けったくして長州ちょうしゅうはん京都きょうとから追放ついほうされたはちがつじゅうはちにち政変せいへんにより朝廷ちょうていから追放ついほうされて都落みやこおちする(ななきょう)。

長州ちょうしゅうのがれたのち各地かくち潜伏せんぷくし、同年どうねん10がつ平野ひらの国臣くにおみらに擁立ようりつされて但馬たじまこく生野いくの挙兵きょへいするが(生野いくのへん)、3にちやぶじん田岡たおかしゅん三郎さぶろう小松こまつはん)、もり源蔵げんぞう関口せきぐち泰次郎たいじろう水戸みとはん)、高橋たかはしきのえ太郎たろう出石いずしはん)と脱出だっしゅつして、四国しこく伊予いよこく小松こまつはんらにかくまわれた[1]

あずかしゅう小松こまつより』とした元治もとはる元年がんねん1864ねん)2がつ14にちけの辞世じせい京都きょうとおくっている[2]

こころしらぬひとこといとはじな つくす(つくす)まこと󠄁にふたつなければ

もと元年がんねん(1864ねん)6がつまで三木みきひだりさんらにかくまわれる。

三条さんじょう実美みみいのちにより[3]高橋たかはしきのえ太郎たろう三木みきひだりさん三木みき虎之助とらのすけひだりさん)、埼山じん三木みき源一郎げんいちろう田岡たおかしゅん三郎さぶろうにより6がつ12にち下関しものせき白石しらいし正一郎しょういちろうたくいた[4]再度さいど長州ちょうしゅうのがれる。

全員ぜんいん渡航とこう費用ひようとうについては、小松こまつ藩士はんし池原いけはら利三郎としさぶろう工面くめんした。

くによりまた長門ながとくにいたりけるをりあかせきにやと(ど)りて

[5]

ゆめた(だ)にもゆいひ(び)かえけり眞心まごころのあかまのせきくさまくら
おもひきやうきなみになか(が)れきてあかせきつき󠄁をんとは

また、6月13にち白石しらいし正一郎しょういちろう前田まえだ台場だいばさわきょう見送みおく[6] 白石しらいしうた

引とめむこころはやたけひかしほの はやとのせとをいかにとかせん

さわきょう返歌へんか

ひかしほにかはるともさいの まとひはやとのせととちぎり󠄁らん

もと元年がんねん(1864ねん)ろくがつじゅうにち 田岡たおかひさつねしゅん三郎さぶろう)にわかるるときとしてまれている[7]

去年きょねん(こぞ)わけし小笹おざさのおもひきや けふのそであらわならんとは
かき(ぎ)りなきわかれなか(が)らもおなし(じ)みち󠄁に われもいつまて(で)おくれやはする

元治もとはる元年がんねんなながつじゅうきゅうにち元治もとはる甲子きのえねへん禁門きんもんへんはじまる。

慶応けいおう3ねん1867ねん)の王政おうせい復古ふっこのちは、参与さんよ九州きゅうしゅう鎮撫ちんぶ総督そうとく長崎ながさき府知事ふちじなどの要職ようしょくつとめ、明治めいじ2ねん1869ねん)に外国がいこくかん知事ちじから外務がいむきょうになり、外交がいこうたずさわる。

外務がいむきょうとして、日本にっぽんオーストリア=ハンガリーじゅう帝国ていこくとのあいだ最初さいしょ条約じょうやくにちおうおさむこう通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく)を締結ていけつし、国交こっこう樹立じゅりつする。 条約じょうやくは、さわ宣嘉のぶよし外務がいむきょう寺島てらしまはじめのり外務がいむ大輔だいすけとフォン・ペッツ全権ぜんけん公使こうしとのあいだむすばれた。締結ていけつにはちゅうにち英国えいこく公使こうしハリー・パークス支援しえんがあり、早期そうき調印ちょういんされたが、かたつとむ規定きてい引用いんようされておりいちじるしい不平等ふびょうどう条約じょうやくとなった。 このため、明治めいじ政府せいふ条約じょうやく改正かいせい事業じぎょうにおいて、改正かいせいすべき内容ないよう最終さいしゅう目標もくひょうとされた。

明治めいじ3ねん1870ねん)、外務がいむきょうとして各国かっこく公使こうしたいして、条約じょうやく改正かいせいについて条約じょうやく所定しょてい交渉こうしょう期日きじつって商議しょうぎ開始かいしするむね通告つうこくし、条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょう発端ほったんをつくった[8]

ロシア公使こうしとして着任ちゃくにんするまえに38さい病死びょうしした。このため、ロシア公使こうしには急遽きゅうきょ榎本えのもと武揚ぶよう着任ちゃくにんすることになった。

備考びこう

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  • 九州きゅうしゅう鎮撫ちんぶ総督そうとくとして長崎ながさき着任ちゃくにん浦上うらかみキリシタンたちをして改宗かいしゅう説得せっとくしたが、改宗かいしゅう意思いしことから「中心ちゅうしん人物じんぶつ処刑しょけい一般いっぱん信徒しんと流罪るざい」と厳罰げんばつ提案ていあんしん政府せいふ提出ていしゅつ浦上うらかみよんばんくずこした。当時とうじ長崎ながさき浦上うらかみ地区ちく福岡ふくおかはんあずかりりょうであり、このためキリシタンたちはふね陸路りくろ福岡ふくおかおくられ、源光げんこういんもうけられた収容しゅうようしょうつされた。その、それらのキリシタンたちは長州ちょうしゅう移送いそうされている。
  • はぎ黒川くろかわにある藩主はんしゅ本陣ほんじん森田もりたてい吉田よしだ松陰しょういん養母ようぼ実家じっかにあたる)に逗留とうりゅうし、兵学へいがく外国がいこく情勢じょうせいなどをまなぶ。はぎ大井おおいにある寺院じいん阿字あじゆうてい)にかくまわれた。なお、阿字あじゆうていには宣嘉のぶよし所持しょじしていたかたなとその小物こものるい宣嘉のぶよしから贈呈ぞうていされたとわれる明治天皇めいじてんのうふくつたわっている。

系譜けいふ

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公卿くぎょう類別るいべつより

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 生野いくの義擧ぎきょと其同志どうし』p569-598
  2. ^ 生野いくの義擧ぎきょと其同志どうし』p579-580
  3. ^ 生野いくの義擧ぎきょと其同志どうし』p702
  4. ^ 生野いくの義擧ぎきょと其同志どうし』p595、p696-698
  5. ^ ゆめのなごり』p12
  6. ^ 生野いくの義擧ぎきょと其同志どうし』p595
  7. ^ ゆめのなごり』p13
  8. ^ 外務省がいむしょう外交がいこう史料しりょうかん日本にっぽん外交がいこう辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい新版しんぱん 日本にっぽん外交がいこう辞典じてん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1992ねん、「条約じょうやく改正かいせい」のこう

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん作品さくひん

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公職こうしょく
先代せんだい
渡辺わたなべのぼる
けん知事ちじ
盛岡もりおかけん知事ちじ
1871ねん
次代じだい
野田のだちかしこう
だい参事さんじ
さわ宣嘉のぶよし


1836ねん2がつ9にち - 1873ねん9月27にち

先代せんだい
さわためりょう
さわ
8だい当主とうしゅ
次代じだい
さわためりょう