西岡にしおか竹次郎たけじろう

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西岡にしおか 竹次郎たけじろう
にしおか たけじろう
長崎ながさき歴史れきし文化ぶんか博物館はくぶつかん裏手うらて西岡にしおか竹次郎たけじろうぞう
生年月日せいねんがっぴ 1890ねん5月28にち
出生しゅっしょう 長崎ながさきけん長崎ながさき
ぼつ年月日ねんがっぴ 1958ねん1がつ14にち
所属しょぞく政党せいとう立憲りっけん政友せいゆうかい→)
日本にっぽん自由党じゆうとう→)
自由党じゆうとう
配偶はいぐうしゃ 西岡にしおかハル
親族しんぞく 倉成くらなり庄八しょうはちろうおとうと
西岡にしおか武夫たけお
西岡にしおか秀子ひでこまご

日本の旗 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
選挙せんきょ 長崎ながさきけん1
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1924ねん - 1925ねん

日本の旗 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん
選挙せんきょ 長崎ながさきけん1
当選とうせん回数かいすう 5かい
在任ざいにん期間きかん 1928ねん - 1942ねん

長崎県の旗 公選こうせんだい2-3だい 長崎ながさき県知事けんちじ
当選とうせん回数かいすう 2かい
在任ざいにん期間きかん 1951ねん5月6にち - 1958ねん1がつ14にち
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西岡にしおか竹次郎たけじろう西岡にしおかはか

西岡にしおか 竹次郎たけじろう(にしおか たけじろう、Takejiro Nishioka1890ねん明治めいじ23ねん5月28にち - 1958ねん昭和しょうわ33ねん1がつ14にち)は、日本にっぽん政治せいじ実業じつぎょう西岡にしおかさん養子ようし長崎ながさき県知事けんちじ戦前せんぜんから戦後せんごにかけ長崎ながさきみんとも新聞しんぶん社長しゃちょうつとめた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

長崎ながさき出身しゅっしん1916ねん大正たいしょう5ねん)に早稲田大学わせだだいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょうすると、普通ふつう選挙せんきょ運動うんどうかかわり1921ねん大正たいしょう10ねん)からヨーロッパ外遊がいゆう1924ねん大正たいしょう13ねん)に帰国きこくすると同年どうねん5がつそう選挙せんきょ中立ちゅうりつ候補こうほとして出馬しゅつば水産すいさん大学だいがく誘致ゆうち総合大学そうごうだいがく設置せっち国立こくりつ博物館はくぶつかん建設けんせつとうの6だい政策せいさくかかげたが、憲政けんせいかい対立たいりつ候補こうほだった本田ほんだひさしこれがそれを利益りえき誘導ゆうどうとして西岡にしおか告訴こくそしたものの、結果けっかてき本田ほんだのりもと卯太郎うたろう政友せいゆうほんとう)と激戦げきせんすえに2,385ひょう最高さいこうてんはつ当選とうせんした。有権者ゆうけんしゃすう6,252めい投票とうひょうりつ84.2%。

政界せいかいりしてもなく11月24にちに、西岡にしおか実弟じってい倉成くらなり庄八しょうはちろうとも大浦おおうらまち長崎ながさきみんとも新聞しんぶん[1]創刊そうかん、34さいにして社長しゃちょうけん主筆しゅひつとなる。だが1925ねん大正たいしょう14ねん2がつ20日はつか本田ほんだ告訴こくそしたけん大審院だいしんいん罰金ばっきん50えんだいいちしん150えん)の判決はんけつくだり、議員ぎいん在任ざいにん10かげつ失職しっしょく[2]1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつには編集へんしゅう取扱とりあつかじょう不敬ふけい事件じけんのため、長崎ながさきみんとも社長しゃちょう引責いんせき辞任じにんすることになった。

それでも10月12にちには電車でんしゃ運賃うんちん値上ねあ反対はんたいみずか市民しみん大会たいかい開催かいさいして政治せいじ活動かつどうつづけ、1928ねん昭和しょうわ3ねん)におこなわれた普通ふつう選挙せんきょほうによるはつそう選挙せんきょ[3]国政こくせいでの議席ぎせき回復かいふくする。さら1929ねん昭和しょうわ4ねん3月28にちでは普通ふつう選挙せんきょほうによるはつ長崎ながさきかい[4]議員ぎいん選挙せんきょで、山田やまだたかひきいる政友せいゆうかい主流しゅりゅうたい西岡にしおか倶楽部くらぶからも候補者こうほしゃ擁立ようりつ民政みんせいとう無産むさん諸派しょはまじえた激戦げきせんたたかい、から11めい当選とうせんさせた[5]。この結果けっか4がつ10日とおかおこなわれた長崎ながさきかいただしふく議長ぎちょう選挙せんきょで、せいふく議長ぎちょう政友せいゆうかいめる結果けっかとなる[6]

その衆院しゅういん議員ぎいんに5連続れんぞく当選とうせんたすが1937ねん昭和しょうわ12ねん11月3にち刊行かんこうしたパンフレットに「占領せんりょうした土地とち戦場せんじょう兵士へいしあたえよ」と発表はっぴょうして問題もんだい発禁はっきん処分しょぶんけて憲兵けんぺいたい全部ぜんぶ押収おうしゅうされたうえ東京とうきょう憲兵けんぺい司令しれい調しらべをけたのち謝罪しゃざい誓約せいやくしょ起訴きそ処分しょぶんとなる。1939ねん昭和しょうわ14ねん)に海軍かいぐん政務次官せいむじかん就任しゅうにんする。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)4がつ1にち戦時せんじちゅう国策こくさくいちけんいちれい」によって、県内けんない新聞しんぶんしゃ4しゃ[7]統合とうごうした長崎ながさき日報にっぽう1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつ長崎ながさき新聞しんぶん改題かいだい)が設立せつりつされると会長かいちょうになるものの、同年どうねん4がつ30にち翼賛よくさん選挙せんきょでは翼賛よくさん政治せいじ体制たいせい協議きょうぎかい推薦すいせんられず、推薦すいせん立候補りっこうほ強行きょうこうするものの逮捕たいほされて浦上うらかみ刑務所けいむしょ収監しゅうかんされるばかりか次点じてん落選らくせんわる。1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ6にちには東京とうきょうからの帰途きと広島ひろしま付近ふきん原爆げんばく遭遇そうぐう。2にち当時とうじ永野ながの若松わかまつ知事ちじ広島ひろしま被害ひがい第一報だいいっぽうつたえ、翌日よくじつ永野ながの知事ちじ中心ちゅうしんとして原爆げんばく投下とうか対応たいおう協議きょうぎするが協議きょうぎ最中さいちゅう原爆げんばく投下とうかされ西岡にしおかじゅう被爆ひばくすることになる。

戦後せんご1946ねん昭和しょうわ21ねん)の1がつ5にち日本にっぽん自由党じゆうとう長崎ながさき支部しぶ結成けっせいけん連合れんごう支部しぶちょうとなるが、4がつ10日とおかにはしん選挙せんきょほうによるそう選挙せんきょへの出馬しゅつば表明ひょうめいするととも自由党じゆうとう離党りとう5月29にちには長崎ながさき新聞しんぶん取締役とりしまりやく会長かいちょう辞任じにんし、12月9にち長崎ながさき新聞しんぶん長崎ながさき日日ひにち長崎ながさきみんとも佐世保させぼ時事じじ島原しまばらの4しゃさい分離ぶんりされると長崎ながさきみんとも新聞しんぶん社長しゃちょうとなるが公職こうしょく追放ついほうでこれも辞任じにんまれる。

1950ねん昭和しょうわ25ねん)に公職こうしょく追放ついほう解除かいじょされると自由党じゆうとう長崎ながさき支部しぶちょう長崎ながさきみんとも新聞しんぶん社長しゃちょう復帰ふっきよく1951ねん昭和しょうわ26ねん)4がつ30にち自由党じゆうとう推薦すいせん長崎ながさき県知事けんちじ選挙せんきょ出馬しゅつばしてどう県知事けんちじ選挙せんきょ史上しじょう最高さいこうとなる投票とうひょうりつ85.61%の激戦げきせんたたかい、現職げんしょく杉山すぎやま宗次郎そうじろう社会党しゃかいとう民主党みんしゅとう推薦すいせん)を39まん3,378ひょうたい30まん6,007ひょうやぶって知事ちじ当選とうせん。4ねん知事ちじせんにも杉山すぎやま相手あいて再選さいせんたした。知事ちじ在任ざいにんちゅうには1952ねん当時とうじ深刻しんこく食糧難しょくりょうなん解決かいけつするためとして「長崎大ながさきだい干拓かんたく構想こうそう」という諫早いさはやわん干拓かんたく事業じぎょう発案はつあん、この事業じぎょうはのちに莫大ばくだい経費けいひをかけて実現じつげんされ、完成かんせい開門かいもんするかかをめぐ度重たびかさなる訴訟そしょう補償ほしょう問題もんだい莫大ばくだい国民こくみん負担ふたんいる状況じょうきょうまねいている。さらにもん賛成さんせい反対はんたい住民じゅうみん分断ぶんだんまねき、諫早いさはやわん沿岸えんがん住民じゅうみん同士どうしあらそいのとなっている。西岡にしおか事業じぎょうすすめるため世界銀行せかいぎんこう融資ゆうしもとめるなどしたが、知事ちじ在任ざいにんちゅうの1958ねん昭和しょうわ33ねん)に慢性まんせい肝炎かんえんきもせい中毒ちゅうどく)による心臓しんぞう衰弱すいじゃくのため67さいぼっした。1がつ19にち長崎ながさきひがし高等こうとう学校がっこう体育館たいいくかんけんそうおこなわれた。

親族しんぞく[編集へんしゅう]

つま西岡にしおかハル参議院さんぎいん議員ぎいん衆院しゅういん議員ぎいんから新自由しんじゆうクラブ幹事かんじちょう文部もんぶ大臣だいじん参議院さんぎいん議長ぎちょう歴任れきにんした西岡にしおか武夫たけお長男ちょうなんにあたる。国民こくみん民主党みんしゅとう衆院しゅういん議員ぎいん西岡にしおか秀子ひでこまご武夫たけおむすめ)。映画えいがプロデューサー・編集へんしゅうしゃ西田にしだせんぜんまご。また実弟じってい倉成くらなり庄八しょうはちろう衆院しゅういん議員ぎいんつとめ、外務がいむ大臣だいじんつとめた倉成くらなりただしおい参院さんいん議員ぎいんから長崎ながさき県知事けんちじとなった久保くぼかんいち次男じなん夫人ふじんちち親戚しんせき関係かんけいにある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 長崎ながさきにちにち新聞しんぶん合併がっぺい現在げんざい長崎ながさき新聞しんぶんとなる。
  2. ^ 同年どうねん4がつ15にち補欠ほけつ選挙せんきょ実施じっしされ、本田ほんだ当選とうせん
  3. ^ 選挙せんきょちゅう選挙せんきょせいあらためられ、長崎ながさき西彼杵にしそのきぐん南高来みなみたかきぐん北高来きたたかきぐん上県かみあがたぐん下県しもあがたぐんとともに、だい1定員ていいん5めいとなる。このとき当選とうせんしゃ西岡にしおか政友せいゆう)のほかに、本田ほんだ英作えいさく民政みんせい)・のりもとよしいさお民政みんせい)・向井むかいやまとゆう政友せいゆう)・志波しば安一郎やすいちろう政友せいゆう)。
  4. ^ 長崎ながさき市議会しぎかい前身ぜんしん
  5. ^ 定員ていいん40めいたいし、82めい立候補りっこうほ当選とうせんしゃすう民政みんせいかい13めい西岡にしおか倶楽部くらぶのち政友せいゆう倶楽部くらぶ)11めい中立ちゅうりつ9めい政友せいゆうかい本流ほんりゅう)6めい大衆たいしゅう1めい。(有権者ゆうけんしゃ35,734めい投票とうひょうりつ87.1%)
  6. ^ 議長ぎちょう政友せいゆうかい主流しゅりゅう大石おおいし栄三郎えいさぶろうふく議長ぎちょう西岡にしおか倶楽部くらぶ五輪ごりんせんみぎ衛門えもん選出せんしゅつ
  7. ^ 長崎ながさきにちにち新聞しんぶん長崎ながさきみんとも新聞しんぶん軍港ぐんこう新聞しんぶん佐世保させぼ)、島原しまばら新聞しんぶん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 伝記でんき西岡にしおか竹次郎たけじろう じょう』(1965ねん昭和しょうわ40ねん)9がつ西岡にしおか竹次郎たけじろう伝記でんき編纂へんさん刊行かんこうかい
  • 伝記でんき西岡にしおか竹次郎たけじろう ちゅう』(1965ねん昭和しょうわ40ねん)11月、西岡にしおか竹次郎たけじろう伝記でんき編纂へんさん刊行かんこうかい
  • 伝記でんき西岡にしおか竹次郎たけじろう 』(1968ねん昭和しょうわ43ねん)5がつ西岡にしおか竹次郎たけじろう伝記でんき編纂へんさん刊行かんこうかい
  • 市制しせいひゃくねん 長崎ながさき年表ねんぴょう』(1989ねん平成へいせい元年がんねん)4がつ1にち長崎ながさき市役所しやくしょ
公職こうしょく
先代せんだい
杉山すぎやま宗次郎そうじろう
長崎県の旗 長崎ながさき県知事けんちじ
公選こうせんだい2-3だい:1951ねん-1958ねん
次代じだい
佐藤さとう勝也かつや