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永野ながの若松わかまつ

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永野ながの 若松わかまつ
ながの わかまつ
生年月日せいねんがっぴ 1898ねん明治めいじ31ねん5月7にち
出生しゅっしょう 福岡ふくおかけん
ぼつ年月日ねんがっぴ 1977ねん昭和しょうわ52ねん3月30にち
死没しぼつ 東京とうきょう世田谷せたがや
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工学部こうがくぶ電気でんき工学科こうがっか

長崎県の旗 官選かんせんだい46だい 長崎ながさき県知事けんちじ
在任ざいにん期間きかん 1945ねん4がつ21にち - 1946ねん1がつ25にち

福井県の旗 官選かんせんだい31だい 福井ふくい県知事けんちじ
在任ざいにん期間きかん 1942ねん6がつ - 1943ねん7がつ
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永野ながの 若松わかまつ(ながの わかまつ、1898ねん明治めいじ31ねん5月7にち - 1977ねん昭和しょうわ52ねん3月30にち )は、日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょう福井ふくい県知事けんちじなどを歴任れきにんし、とく原爆げんばく被災ひさいどきの(官選かんせん長崎ながさき県知事けんちじとしてられる。

来歴らいれき

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福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう小倉こくらまれ[1]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工学部こうがくぶ電気でんき工学科こうがっか卒業そつぎょうどう大学だいがく法学部ほうがくぶ編入へんにゅう卒業そつぎょう内務省ないむしょう入省にゅうしょう厚生省こうせいしょう労政ろうせい課長かちょう警視庁けいしちょう刑事けいじ部長ぶちょうどう特高とっこう部長ぶちょう内務省ないむしょう保安ほあん部長ぶちょう福井ふくい県知事けんちじ東海とうかい地方ちほう協議きょうぎかい参事官さんじかん内務省ないむしょう防空ぼうくう総本部そうほんぶ総務そうむ局長きょくちょう1945ねん4がつ21にち長崎ながさき県知事けんちじ任命にんめいされた。

被爆ひばく防空ぼうくう本部ほんぶ会議かいぎおこなわれていた立山たてやま防空壕ぼうくうごう内部ないぶ現状げんじょう) / 一番いちばんおく知事ちじしつ

同年どうねん8がつ8にち夕方ゆうがた広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうかのち被災ひさいじょうきょう実見じっけんし、長崎ながさきかえった西岡にしおか竹次郎たけじろう代議士だいぎしから広島ひろしま惨状さんじょういた永野ながのは、警察けいさつとの協議きょうぎ現時点げんじてん無傷むきずである長崎ながさきにも原子げんしばくだん投下とうかされる可能かのうせいたかいとの結論けつろんいたった。翌日よくじつ8がつ9にち長崎ながさき市内しない立山たてやままち諏訪すわ公園こうえんない防空壕ぼうくうごうかれたけん防空ぼうくう本部ほんぶ幹部かんぶ招集しょうしゅう、「新型しんがたばくだん被災ひさい対策たいさく協議きょうぎした。長崎ながさき投下とうかされた原爆げんばく被災ひさいしたのはこの最中さいちゅうであったが、ばく心地ごこちから金比羅山こんぴらさんへだててやく2.7kmはなれており、かつ防空壕ぼうくうごうないであったため、一時いちじてき停電ていでんこったほかに直接ちょくせつ被害ひがいはなかった。またこの時点じてんでは県庁けんちょうなど行政ぎょうせい機関きかん所在しょざいするいわゆる「きゅう市内しない」はほとんどおおきな被害ひがいもなく、ばく心地ごこちである浦上うらかみ地区ちく惨状さんじょうについてほとんど防空ぼうくう本部ほんぶにはつたわらず、永野ながの九州きゅうしゅう地方ちほう総監そうかんなどへの直後ちょくご第一報だいいっぽうとして「広島ひろしま被害ひがい比較ひかく被害ひがい程度ていどごくメテ軽微けいびニシテ死者ししゃなみ家屋かおく倒壊とうかい僅少きんしょうナリ」との電報でんぽうった[2]

8がつ10日とおかばく心地ごこちより2.5kmの地点ちてん浦上うらかみ方面ほうめんから避難ひなんする被爆ひばくしゃたちの姿すがた山端やまはた庸介ようすけ撮影さつえい

さらに、被爆ひばく1時間じかん以上いじょう経過けいかした1230ふんごろ突如とつじょ長崎ながさき県庁けんちょうばく心地ごこちより3.3km)から火災かさいこり(爆発ばくはつ熱線ねっせん可燃かねんぶつ引火いんかし、しばらくいぶっていたのががったものと推測すいそくされている)、これが付近ふきん一帯いったいひろがって大火たいかとなったため、きゅう市内しない浦上うらかみ地区ちくとのあいだ交通こうつう遮断しゃだんされ、永野ながのけん当局とうきょくしゃは、鎮火ちんかまでしばらくのあいだ被爆ひばく実情じつじょう把握はあくすることができなかった。しかしその夕刻ゆうこくちかくになって、浦上うらかみ方面ほうめんから重傷じゅうしょうった多数たすう被爆ひばくしゃ避難ひなんしてくるのをたりにし、またばく心地ごこちちかくの平野ひらのまちにあった自宅じたく様子ようすかえっていた岡田おかだ寿ひさしきち長崎ながさき市長しちょうから被害ひがい報告ほうこくいたことから、永野ながの内務省ないむしょう訂正ていせい報告ほうこく電報でんぽうち、かく方面ほうめん救援きゅうえん要請ようせいするとともに自身じしん10日とおか未明みめいばく心地ごこち方面ほうめん視察しさつおこなった。それから打電だでんする内容ないようも「被害ひがい全市ぜんしおよ死傷ししょうしゃやくまんにんみとめむ」「長崎ながさきえき以北いほく全然ぜんぜん存在そんざいする家屋かおくなし」などと変化へんかし、翌月よくげつ3にちまで11かいにわたって緊急きんきゅう報告ほうこく発信はっしんつづけた[2]

永野ながのはそのけん最高さいこう責任せきにんしゃとして被爆ひばく直後ちょくご被災ひさい復旧ふっきゅう被爆ひばくしゃ救援きゅうえん指揮しきし、8がつ15にち終戦しゅうせんさいしては、「徹底てってい抗戦こうせん」をとなえるぐん憲兵けんぺい説得せっとく尽力じんりょくした。1946ねん1がつ25にちGHQにより、特高とっこう部長ぶちょう前歴ぜんれき理由りゆう公職こうしょく追放ついほう処分しょぶんとなり、長崎ながさき県知事けんちじ依願いがん免官めんかんした。1951ねん昭和しょうわ26ねん8がつ6にち追放ついほう解除かいじょされ、1952ねん昭和しょうわ27ねん)のだい25かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ福岡ふくおか4から無所属むしょぞく立候補りっこうほしたが落選らくせんした。その新日本証券しんにほんしょうけん顧問こもんなどをつとめ、1977ねん昭和しょうわ52ねん3月30にち急性きゅうせい肺炎はいえんにより逝去せいきょする[1]

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ a b 永野ながの若松わかまつ新日本証券しんにほんしょうけん顧問こもんもと福井ふくい長崎ながさき県知事けんちじ死去しきょ読売新聞よみうりしんぶん23めん(1977ねん3がつ31にち朝刊ちょうかん
  2. ^ a b けん防空ぼうくう本部ほんぶ、58ねん放置ほうち--こくけんしゃ協議きょうぎ決着けっちゃく毎日新聞まいにちしんぶん8めん(2004ねん1がつ9にち西部せいぶ夕刊ゆうかん

関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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