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羽生はぶ雅則まさのり

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羽生はぶ雅則まさのり

羽生はぶ 雅則まさのり(はにゅう まさのり、1889ねん明治めいじ22ねん12月10にち - 1971ねん昭和しょうわ46ねん8がつ8にち)は、日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょうだい1近衛このえないかく内務ないむ次官じかん県知事けんちじ旧姓きゅうせい奥秋おくあき

経歴けいれき[編集へんしゅう]

山梨やまなしけん出身しゅっしん奥秋おくあき茂兵衛もへいおとことしてまれる。1922ねん羽生はぶ入夫にゅうふとなり改姓かいせい日川にっかわ中学ちゅうがく第一高等学校だいちこうとうがっこうて、1916ねん5月、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく法律ほうりつ学科がっかえいほう)を卒業そつぎょう1915ねん10月、文官ぶんかん高等こうとう試験しけん合格ごうかくした。

1916ねん7がつ台湾たいわん総督そうとくはい同府どうふぞくとなる。以後いご台湾たいわん総督そうとく事務じむかん民政みんせい殖産しょくさんきょく商工しょうこう同局どうきょく水産すいさん課長かちょうどう商工しょうこう課長かちょうなどを歴任れきにん

1923ねん11月、帝都ていと復興ふっこういんてん事務じむかんとして総裁そうさい官房かんぼう勤務きんむ1924ねん2がつ帝都ていと復興ふっこういん復興ふっこうきょく改組かいそされると引続ひきつづ勤務きんむし、長官ちょうかん官房かんぼう文書ぶんしょ横浜よこはま出張所しゅっちょうしょ復興ふっこうきょく書記官しょきかん土木どぼく庶務しょむ課長かちょうなどをつとめた。1930ねん3月、東京とうきょう書記官しょきかん学務がくむ部長ぶちょうてんじ、以後いご北海道庁ほっかいどうちょう部長ぶちょう拓殖たくしょく部長ぶちょう愛知あいちけん書記官しょきかん内務ないむ部長ぶちょう大阪おおさか書記官しょきかん経済けいざい部長ぶちょうなどを歴任れきにん

1936ねん3月、福井ふくいけん知事ちじ就任しゅうにん1937ねん11月、三重みえけん知事ちじてんじたが、いちヶ月かげつほどで内務ないむ次官じかん登用とうようされた。1938ねん6がつ内務ないむ次官じかん辞任じにん退官たいかんした。その日本にっぽん陶器とうき工業こうぎょう組合くみあい連合れんごうかい理事りじちょう全国ぜんこく輸出ゆしゅつじゅう工業こうぎょう組合くみあい連合れんごうかい理事りじちょうなどをつとめた。

戦後せんご公職こうしょく追放ついほうとなり、1951ねん8がつ解除かいじょされた。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 上田うえだただしあきら日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん講談社こうだんしゃ、2001ねん
  • はたいく彦編『日本にっぽんきん現代げんだい人物じんぶつ履歴りれき事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2002ねん
  • 歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかいへん新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかい、1991ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
広瀬ひろせ久忠ひさただ
日本の旗 内務ないむ次官じかん
だい41だい:1937 - 1938
次代じだい
たて哲二てつじ