吉田よしだ書簡しょかん

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吉田よしだ書簡しょかん(よしだしょかん)とは、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんけん外務がいむ大臣だいじん吉田よしだしげる名義めいぎされた書簡しょかんのことである。

おもなものとしては、1951ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく特使とくしJ.ダレスてただいいち吉田よしだ書簡しょかんと、1964ねん中華民国ちゅうかみんこく総統そうとう秘書ひしょちょうちょうぐんおくっただい吉田よしだ書簡しょかんとがあり、とく台湾たいわん問題もんだいをめぐる日本にっぽんこく外交がいこう影響えいきょうあたえた。このほか国連こくれんぐん裁判さいばんけんについてちゅうにちアメリカ大使たいしロバート・ダニエル・マーフィーおくった国連こくれんぐん裁判さいばんけんをめぐる吉田よしだ書簡しょかんがある。

だいいち吉田よしだ書簡しょかん[編集へんしゅう]

概要がいよう[編集へんしゅう]

日本国にっぽんこく政府せいふ平和へいわ条約じょうやくむす相手あいてさきとして中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)をえらび、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとは2こくあいだ条約じょうやくむす意志いしのないことを言明げんめいした文書ぶんしょである。内閣ないかく総理そうり大臣だいじん外務がいむ大臣だいじん兼務けんむする吉田よしだしげるがアメリカのJ.ダレス特使とくしてた1951ねん12月24にちづけ書簡しょかんという体裁ていさいられた[ちゅう 1]。この内容ないようは、べい上院じょういん外交がいこう委員いいんかいにおけるたいにち講和こうわ条約じょうやく審議しんぎ開始かいしにあわせて、よく1952ねん1がつ15にち日本にっぽん時間じかん16にち正午しょうご)に公表こうひょうされた[2][1][3]

経過けいか[編集へんしゅう]

1951ねん9がつ、サンフランシスコ講和こうわ会議かいぎにおいて各国かっこくによる日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやくへの調印ちょういんおこなわれたが、中華民国ちゅうかみんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくのいずれもこの会議かいぎには招待しょうたいされておらず、にちちゅう国交こっこう回復かいふくはなされなかった。同年どうねん8がつのダレス・モリソン(w:Herbert Morrison)の会談かいだんにより、講和こうわ交渉こうしょう相手あいてさきとして北京ぺきん政府せいふ国民こくみん政府せいふのいずれを中国ちゅうごく正統せいとう政府せいふえらぶかについては日本にっぽん政府せいふ判断はんだんにゆだねられていた。なお、日本にっぽん政府せいふは「中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ同意どうい」をて、1951ねん11月17にち連絡れんらく事務所じむしょきゅうざい台湾たいわん日本にっぽん政府せいふ在外ざいがい事務所じむしょ台湾たいわん開設かいせつしている[4]

しかし、吉田よしだ大陸たいりく台湾たいわん等距離とうきょり外交がいこうおこなうとれる発言はつげんをしたことで[ちゅう 2]朝鮮ちょうせん戦争せんそう発生はっせいから国民こくみん政府せいふ支持しじ旗幟きし鮮明せんめいにして反共はんきょう風潮ふうちょうつよかった当時とうじのアメリカでは[ちゅう 3]日本にっぽん外交がいこう姿勢しせいたいする懸念けねんつよまっていた[7][8]

12月に訪日ほうにちしたダレスは日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこく選択せんたく明確めいかくにしなければたいにち講和こうわ条約じょうやく批准ひじゅん議会ぎかいおこなわれないと吉田よしだ説得せっとくした。吉田よしだとしても、積極せっきょくてき国民こくみん政府せいふへの承認しょうにんには国内こくないからの反発はんぱつ予想よそうされるうえにちゅう分断ぶんだん企図きとするイギリスからの反対はんたいもあったことから、アメリカから強要きょうようされた格好かっこうをとったほうがむし都合つごうがよく、ダレスが提示ていじしたメモをもとに書簡しょかん作成さくせいされた[2][8][9][10]

1952ねん1がつ18にち中華民国ちゅうかみんこくおおやけちょう外交がいこうなが木村きむら四郎しろうなな在外ざいがい事務所じむしょちょうまねき、吉田よしだ書簡しょかん評価ひょうかしたうえでたいにち交渉こうしょう用意よういがあるむね公表こうひょうした[11][12]

この方針ほうしんのもとで、同年どうねん4がつ日本にっぽんこく中華民国ちゅうかみんこくとのあいだ平和へいわ条約じょうやくにちはな平和へいわ条約じょうやく)が調印ちょういんされ、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ中国ちゅうごく正統せいとう政府せいふであるとする日本にっぽんたい中国ちゅうごく外交がいこうが1972ねんの「にちちゅう国交こっこう正常せいじょう」にいたるまで規定きていされた[2]

なお、書簡しょかんでは「1950ねんモスコーにおいて締結ていけつされたちゅう友好ゆうこう同盟どうめいおよび相互そうご援助えんじょ条約じょうやく実際じっさいじょう日本にっぽんけられた軍事ぐんじ同盟どうめいであります。事実じじつ中国ちゅうごく共産きょうさん政権せいけんは、日本にっぽん憲法けんぽう制度せいどおよび現在げんざい政府せいふ武力ぶりょくをもって転覆てんぷくせんとの日本にっぽん共産党きょうさんとう企図きと支援しえんしつつあるとしんずるべき理由りゆう多分たぶんにあります」と北京ぺきん政府せいふ批判ひはん記載きさいまれていた[ちゅう 4]。これにたいして北京ぺきん政府せいふ書簡しょかん公表こうひょうされたいち週間しゅうかんの1952ねん1がつ23にち声明せいめい発表はっぴょうし、書簡しょかんは「日米にちべいむすびついて中国ちゅうごく人民じんみん中国ちゅうごく領土りょうどたいしてふたた侵略しんりゃく戦争せんそう準備じゅんびしていることのうごかしがたい証拠しょうこ」であると批難ひなんした[13]

一方いっぽうちゅう対立たいりつ予見よけんしていた吉田よしだ首相しゅしょう引退いんたいに「中共ちゅうきょう政権せいけんソ連それん密接みっせつ握手あくしゅしているがごとえるけれど、中国ちゅうごく民族みんぞく本質ほんしつてきにはソ連それんじん相容あいいれざるものがある。文明ぶんめいことにし、国民こくみんせいことにし、政情せいじょうをもまたことにしているなか両国りょうこくは、つい相容あいいれざるにいたるべしとわたしかんがえており、したがって中共ちゅうきょう政権せいけんとの間柄あいだがら決定的けっていてき悪化あっかさせることをほっしなかった」とべている。また首相しゅしょう在任ざいにんちゅうも、北京ぺきん政府せいふ要人ようじん中国ちゅうごくべにじゅうかい会長かいちょうである、いさおぜん玉祥ぎょくしょうつま)の来日らいにちおよ日本にっぽん政財界せいざいかいとの接触せっしょく黙認もくにんするなど、吉田よしだはアメリカの批判ひはんをかわしながら柔軟じゅうなん対応たいおうしていた[14]

だい吉田よしだ書簡しょかん[編集へんしゅう]

概要がいよう[編集へんしゅう]

1964ねん前年ぜんねん政界せいかい引退いんたいした吉田よしだ緊張きんちょう状態じょうたいにあった台湾たいわんがわ折衝せっしょうし、そのなか文書ぶんしょわされた。日本国にっぽんこく政府せいふは、吉田よしだ政府せいふ役職やくしょくについていない私人しじんであるため書簡しょかん私信ししんであるものの道義どうぎてきには拘束こうそくされるものとしてあつかった。これにより、にちたい関係かんけい暫定ざんていてき修復しゅうふくされることとなったが、他方たほうでは田中たなか角栄かくえい内閣ないかくによるにちちゅう国交こっこう回復かいふくいたるまで大陸たいりくへの投資とうし事実じじつじょう制限せいげんがかかることとなった[2]

経緯けいい[編集へんしゅう]

1962ねん9がつ19にち、「共産きょうさんけん貿易ぼうえき拡大かくだい」をかかげる池田いけだ勇人はやと政権せいけんから派遣はけんされた自民党じみんとう長老ちょうろう松村まつむら謙三けんぞうしゅう恩来おんらい首相しゅしょう会談かいだんし、「方式ほうしき」による北京ぺきん政府せいふとの関係かんけい正常せいじょう合意ごうい成立せいりつした[15][16]つづく11月9にちこう碕達すけ廖承こころざしが「にち中長期ちゅうちょうき総合そうごう貿易ぼうえきかんする覚書おぼえがき」を締結ていけつ。これにより正式せいしき国交こっこうがないままに両国りょうこくあいだ半官半民はんかんはんみんてき貿易ぼうえきはじまり、覚書おぼえがきむすんだりょうのイニシャルにちなんでLT貿易ぼうえきばれた[15][17]

よく1963ねん8がつ26にち池田いけだ首相しゅしょう倉敷くらしきレーヨン(げんクラレ)がかねてから申請しんせいしていた大陸たいりくけプラント輸出ゆしゅつだい1ごうとなるビニロン・プラントを承認しょうにんし、このプロジェクトへの日本輸出入銀行にほんゆしゅつにゅうぎんこう輸銀ゆぎんげん国際こくさい協力きょうりょく銀行ぎんこう融資ゆうし閣議かくぎ決定けっていされた。これを北京ぺきん政府せいふたいする経済けいざい援助えんじょとみなす国民こくみん政府せいふ強行きょうこう抗議こうぎしていたが、自民党じみんとうおやだい議員ぎいんらも台湾たいわんへの別途べっと経済けいざい援助えんじょ提案ていあんするのみでおよごしであり、プラント建設けんせつ阻止そし失敗しっぱいした格好かっこうであった。これにたいする抗議こうぎとして、国民こくみん政府せいふちょう厲生ちゅうにち大使たいし離日りにちさせた[15][18][19]

さら同年どうねん10がつ油圧ゆあつ機械きかい見本市みほんいちのために大陸たいりくから来日らいにちちゅうであった視察しさつだん通訳つうやくしゅうひろしけいちゅうにちソ連それん大使館たいしかんんで亡命ぼうめい申請しんせいする事件じけん発生はっせいした(しゅうひろしけい事件じけん)。日本国にっぽんこく政府せいふは、国民こくみん政府せいふ抗議こうぎにもかかわらず最終さいしゅうてきしゅう大陸たいりく強制きょうせい送還そうかんした[16][18][19]国民こくみん政府せいふはこれを外交がいこう問題もんだいとしてげ、よく1964ねん1がつ代理だいり大使たいし以下いか駐日ちゅうにち大使館たいしかん職員しょくいん召還しょうかんするとともに、経済けいざいてき報復ほうふく措置そちとして日本にっぽんからの政府せいふ買付かいつけ停止ていしった[18][19]

1963ねん12月、中国ちゅうごく国民党こくみんとう幹部かんぶちょうはく中国語ちゅうごくごばんちんけんちゅうらと会見かいけんした吉田よしだ断絶だんぜつ寸前すんぜんにちたい関係かんけい回復かいふくみずか意思いし表明ひょうめいした。池田いけだ首相しゅしょう吉田よしだ師弟してい関係かんけいにあったが、特使とくしなどの名義めいぎあたえずに吉田よしだ訪台ほうたい個人こじん活動かつどうめたい意向いこうであり、日本にっぽんがわ吉田よしだをあくまで政府せいふかかわりのない私人しじんとして派遣はけんすることを希望きぼうした。これにたいして台湾たいわんがわではれの是非ぜひめぐって紛糾ふんきゅうしたが、フランスはじめとするヨーロッパ諸国しょこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく承認しょうにんするうごきをせるなどの国際こくさい情勢じょうせいけて、承諾しょうだくした[18]。1964ねん2がつ23にち池田いけだ首相しゅしょうからの親書しんしょたずさえて台湾たいわんわたった吉田よしだは、27にちまで中華民国ちゅうかみんこく総統そうとう蔣介せきらと台湾たいわん会談かいだんかさね、自由じゆう主義しゅぎ陣営じんえいとして両国りょうこく協力きょうりょくして反共はんきょう政策せいさくること・ふたつの中国ちゅうごくろん反対はんたいすること・日本にっぽん大陸たいりくとの貿易ぼうえき民間みんかん貿易ぼうえきかぎり、日本国にっぽんこく政府せいふ政策せいさくとして大陸たいりくたいする経済けいざい援助えんじょ支持しじあたえるようなことはげんつつしむこと、などで合意ごういした[15][19]

複数ふくすうの"吉田よしだ書簡しょかん"[編集へんしゅう]

3月4にちちょうぐん秘書ひしょちょう吉田よしだ・蔣の会談かいだん記録きろくと「中共ちゅうきょう対策たいさく要綱ようこう」を吉田よしだおく確認かくにんもとめた。これにたい吉田よしだは、会談かいだん記録きろくちゅうの"インド"を"インドネシア"に修正しゅうせいする依頼いらいとそのてんにおいてあやまりがないむねを4がつ4にちけの書簡しょかん返答へんとうした。台湾たいわんがわはこれを"吉田よしだ書簡しょかん"と呼称こしょうし、吉田よしだ池田いけだ首相しゅしょう了承りょうしょう証拠しょうことしている[ちゅう 5][19]

3月からビニロン・プラントをめぐってにちだい事務じむレベルでの折衝せっしょうおこなわれた。吉田よしだも3がつ10にちけでちょう秘書ひしょちょう書簡しょかんおくり、日本国にっぽんこく政府せいふはビニロン・プラント輸出ゆしゅつについて当面とうめん許可きょかしない方針ほうしんであり、この問題もんだいについては大平おおひら正芳まさよし外相がいしょう訪台ほうたい両国りょうこく関係かんけい正常せいじょうしたのち十分じゅうぶんはないたい・中華民国ちゅうかみんこくしん駐日ちゅうにち大使たいし派遣はけんもとめる、などのむねつたえた[19]

しかしその台湾たいわんがわ姿勢しせいふたた硬化こうかし、ちょう秘書ひしょちょうが4がつ10日とおか吉田よしだたいし「日本国にっぽんこく政府せいふ政府せいふ銀行ぎんこう経由けいゆし(ビニロン・プラントに)クレジットあたえない、また今後こんごたい大陸たいりく民間みんかん貿易ぼうえき政府せいふ介入かいにゅうしない方針ほうしんまもることを保証ほしょうするよう、池田いけだ総理そうり再度さいど相談そうだんしてしい」と要望ようぼうされた[19]。これにたい吉田よしだは、池田いけだ大陸たいりくけプラント輸出ゆしゅつかんする金融きんゆう純粋じゅんすい民間みんかんベースですすめたい意向いこうである・本年ほんねんちゅうにはビニロン・プラント輸出ゆしゅつみとめるかんがえはない、との5がつ10にちづけ書簡しょかんちょう秘書ひしょちょうした。これをけて道明どうみょうしん台湾たいわん大使たいしとして日本にっぽん派遣はけんされた[19]

その[編集へんしゅう]

池田いけだ内閣ないかく後継こうけいである佐藤さとう栄作えいさく内閣ないかくは、この"だい吉田よしだ書簡しょかん"に沿かたち輸銀ゆぎん融資ゆうしたいちゅうプラント輸出ゆしゅつ凍結とうけつした。これによりにちたい関係かんけい修復しゅうふくされたが、外交がいこう機関きかんでない私人しじん外交がいこう問題もんだい干渉かんしょうしていることやたい中国ちゅうごく承認しょうにん問題もんだいへの曖昧あいまい態度たいどわせて日本国にっぽんこく政府せいふ国内外こくないがい非難ひなんこうむることとなった。日本にっぽんからの中国ちゅうごく貨物かもつせん輸出ゆしゅつやビニロン・プラントの輸出ゆしゅつ契約けいやく破棄はきおこなった中国ちゅうごく政府せいふは、書簡しょかん放棄ほうき要求ようきゅうし、大型おおがたプラントの成約せいやく中断ちゅうだんされた[2]

吉田よしだ書簡しょかん日本にっぽん外交がいこうおおきな影響えいきょうおよぼしたものの、政府せいふ関与かんよしない私信ししんとしてあつかわれて非公開ひこうかいとされた。野党やとうつよくその開示かいじもとめたが、外務がいむ大臣だいじん椎名しいな悦三郎えつさぶろう答弁とうべん追及ついきゅうをかわした。佐藤さとう政権せいけんからの吉田よしだ書簡しょかんについての説明せつめいって変化へんかしていったが、結局けっきょく1972ねんいたるまでたい中国ちゅうごく貿易ぼうえきへの輸銀ゆぎん融資ゆうし許可きょかされず、北京ぺきん政府せいふがわからの破棄はき要求ようきゅうにもおうじなかった[2][16]

1972ねん9がつにちちゅう国交こっこう回復かいふくとともに吉田よしだ書簡しょかん効力こうりょく消滅しょうめつしたとされる[2]

その吉田よしだ書簡しょかん[編集へんしゅう]

国連こくれんぐん裁判さいばんけんをめぐる吉田よしだ書簡しょかん[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん戦争せんそうなかの1952ねん5がつ31にち当時とうじ首相しゅしょうであった吉田よしだが、国連こくれんぐん構成こうせいいんとう刑事けいじ事件じけんについての機密きみつ文書ぶんしょロバート・ダニエル・マーフィーちゅうにちアメリカ大使たいしてておくった。内容ないようとしては、国連こくれんぐん軍人ぐんじん軍属ぐんぞく家族かぞく逮捕たいほされた場合ばあいには、原則げんそくとしてその身柄みがら所属しょぞくこくわたし、日本にっぽん刑事けいじ裁判さいばんけん事実じじつじょう放棄ほうきするというものであった[2][20]。「国連こくれんぐん裁判さいばんけんをめぐる吉田よしだ書簡しょかん」とばれる[20]

なお、1954ねんには「日本にっぽんこくにおける国際こくさい連合れんごう軍隊ぐんたい地位ちいかんする協定きょうてい」(国連こくれんぐん地位ちい協定きょうてい)が締結ていけつされ、日本にっぽん駐留ちゅうりゅうする国連こくれんぐん軍人ぐんじん軍属ぐんぞく家族かぞくによる刑事けいじ事件じけんについては北大西洋きたたいせいよう条約じょうやく機構きこう(NATO)の地位ちい協定きょうていみに日本にっぽんがわ優先ゆうせんてき裁判さいばんけん容認ようにんすることとされた[21][22]が、我部がぶ政明まさあきによる機密きみつ解除かいじょえい公文書こうぶんしょ調査ちょうさでは、イギリス連邦れんぽうの4カ国かこくイギリス・オーストラリア・ニュージーランド)にたいし、ざい日米にちべいぐん将兵しょうへいらと同様どうよう重要じゅうよう事件じけん以外いがいにおいては日本にっぽん裁判さいばんけん行使こうししないとする密約みつやくがあったとされる[23]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 実際じっさい吉田よしだ署名しょめい文書ぶんしょがアメリカがわ手渡てわたされたのは、21にち[1]
  2. ^ 吉田よしだは1951ねん10がつ29にち参議院さんぎいん条約じょうやく委員いいんかいで「今日きょう貿易ぼうえき発展はってん日本にっぽんとしてはもっと重要じゅうよう問題もんだいであるのですから、外交がいこうとか政治せいじとかいうようなことはしばらくおいて、しゅとして貿易ぼうえき経済けいざいめん主力しゅりょくそそいで、いくらか日本にっぽん貿易ぼうえき発展はってんするというかたちならば満足まんぞくだろうと、こうおもうということをくれぐれももうしておるのであります。したがえつて在外ざいがい事務所じむしょ台湾たいわんにおける在外ざいがい事務所じむしょにも、目的もくてき通商つうしょうあるいは日本人にっぽんじんが、在留ざいりゅうみんがあればその保護ほご通商つうしょう関係かんけいであります。政治せいじてき関係かんけいではないのであります。ゆえ中共ちゅうきょう上海しゃんはい在外ざいがい事務所じむしょいてくれないかということがあればいて差支さしつかえないとおもえつておるのであります。そのイデオロギー如何いかにかかわらず、あるいは政治せいじ組織そしき如何いかにかかわらず、通商つうしょう関係かんけいのあるところあるいは在留ざいりゅうみんのあるところ、その保護ほごのためには如何いかなるくににもきたいとおもいます」とべている[5]
  3. ^ トルーマン大統領だいとうりょうは1950ねん1がつ5にちに「台湾たいわん海峡かいきょう介入かいにゅう」の声明せいめいしていたが、朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつ直後ちょくごの6がつ27にちには一転いってんして「台湾たいわん海峡かいきょう中立ちゅうりつ」を宣言せんげんし、台湾たいわんをアメリカの軍事ぐんじ保護ほごにおいた[6]
  4. ^ 日本にっぽんがわ修正しゅうせいにより、ちゅう友好ゆうこう同盟どうめい相互そうご援助えんじょ条約じょうやく日本にっぽん仮想かそう敵国てきこくとしていることを意識いしきしてダレスの草案そうあんよりも批判ひはん度合どあいがつよめられている[10]。なお、日本にっぽん共産党きょうさんとう同年どうねん10がつにいわゆる「51ねん綱領こうりょう」を採択さいたくしている。
  5. ^ 総統そうとうは、この4がつ4にちづけ文書ぶんしょにちはな平和へいわ条約じょうやく補完ほかん文書ぶんしょであるむねを1968ねん6がつ10日とおか表明ひょうめいしている(清水しみずうらら 2001)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 高姿勢こうしせい借金しゃっきんたの吉田よしだ”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 電子でんしばん (2020ねん3がつ8にち). 2020ねん3がつ7にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h 吉田よしだ書簡しょかん(よしだしょかん)とは”. コトバンク. 2020ねん3がつ6にち閲覧えつらん
  3. ^ 日本にっぽん外交がいこう文書ぶんしょ サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく 調印ちょういん発効はっこう”. www.mofa.go.jp. 外務省がいむしょう. 2020ねん3がつ6にち閲覧えつらん
  4. ^ 国民こくみん政府せいふとの講和こうわかんする吉田よしだ書簡しょかん
  5. ^ だい12かい国会こっかい 参議院さんぎいん 平和へいわ条約じょうやくおよ日米にちべい安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく特別とくべつ委員いいんかい だい5ごう 昭和しょうわ26ねん10がつ29にち”. 国会こっかい会議かいぎろく検索けんさくシステム. 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. 2020ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん
  6. ^ 伊藤いとう, きよし (1993-09-30). 台湾たいわん. 中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ. pp. 166-167 
  7. ^ 袁, かつつとむ外圧がいあつ利用りよう外交がいこうとしての「吉田よしだ書簡しょかん」『いちきょう論叢ろんそうだい107かんだい1ごう、1992ねん1がつ1にち、91-118ぺーじdoi:10.15057/12451ISSN 0018-2818 
  8. ^ a b ダレスがいた「吉田よしだ書簡しょかん”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 電子でんしばん (2014ねん1がつ18にち). 2020ねん3がつ7にち閲覧えつらん
  9. ^ ちんはじめあきら吉田よしだ書簡しょかん再考さいこう -「西村にしむら調書ちょうしょ」を中心ちゅうしんに-」『北大ほくだい法学ほうがく論集ろんしゅうだい54かんだい4ごう北海道大学ほっかいどうだいがく大学院だいがくいん法学ほうがく研究けんきゅう、2003ねん、1201-1228ぺーじISSN 03855953NAID 120000959604 
  10. ^ a b 吉田よしだ書簡しょかん」に日本にっぽんがわ修正しゅうせい要求ようきゅう写真しゃしん共同きょうどう”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 電子でんしばん (2014ねん1がつ25にち). 2020ねん3がつ7にち閲覧えつらん
  11. ^ いんつばめぐん 1995.
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  13. ^ ちんはじめあきら 2009.
  14. ^ 加藤かとう, とおる; はやし, こう (2020-03-20). にちちゅう戦後せんご外交がいこう秘史ひし. 新潮社しんちょうしゃ. pp. 62-63,117-119 
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]