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憲政けんせいとう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本の旗 日本にっぽん政党せいとう
憲政けんせいとう
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1898ねん6がつ22にち (126ねんまえ) (1898-06-22)[1]
前身ぜんしん政党せいとう 自由党じゆうとう[1]
進歩しんぽとう[1]
解散かいさん年月日ねんがっぴ 1900ねん9月13にち[2]
解散かいさん理由りゆう伊藤いとう新党しんとう」への合流ごうりゅうのため[2]
後継こうけい政党せいとう 憲政けんせいほんとうきゅう進歩しんぽとうけい[1][3][4]
立憲りっけん政友せいゆうかいきゅう自由党じゆうとうけい[3][4]
政治せいじてき思想しそう立場たちば 憲法けんぽう擁護ようご[3][4]
政党せいとうないかく樹立じゅりつ[3][4]
藩閥はんばつ勢力せいりょく打倒だとう[3]
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憲政けんせいとう(けんせいとう、きゅう字体じたいけん󠄁政黨せいとう)は、明治めいじ時代じだい日本にっぽん政党せいとう

後述こうじゅつ経緯けいいから、同名どうめいふたつの政党せいとう連続れんぞくして存続そんぞくしており、ほん記事きじでは両者りょうしゃあつかう。

概要がいよう

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帝国ていこく議会ぎかい創設そうせつだい政党せいとうであった自由党じゆうとう板垣いたがき退助たいすけ総理そうり)と進歩しんぽとう大隈おおくま重信しげのぶ党首とうしゅ)が、だい6かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょまえ合同ごうどうして、当時とうじ空前絶後くうぜんぜつご一大いちだい政党せいとう憲政けんせいとう結党けっとうした。この直後ちょくご藩閥はんばつがわ中枢ちゅうすうである元老げんろう会議かいぎは、選挙せんきょ巨大きょだい勢力せいりょく維持いじすることは確実かくじつ憲政けんせいとう対立たいりつしての政権せいけん運営うんえい不可能ふかのう判断はんだんし、憲政けんせいとう板垣いたがき大隈おおくまりょう首相しゅしょう推挙すいきょする。これにより、史上しじょうはつ政党せいとうないかくであるだい1大隈おおくま内閣ないかくくまいたないかく)が発足ほっそくする。

しかし、元々もともと地盤じばん政治せいじ思想しそうなどの利害りがい対立たいりつがあった自由じゆう進歩しんぽりょうとう合同ごうどうによる政党せいとうであったため、とう運営うんえい政権せいけん運営うんえいめぐって混乱こんらん発生はっせいする。共和きょうわ演説えんぜつ事件じけんはしはっする大臣だいじんポストの配分はいぶん問題もんだいがねとなり、きゅう自由党じゆうとうきゅう進歩しんぽとうかたち憲政けんせいとう解党かいとう同時どうじ内閣ないかくからも閣僚かくりょうげ、とう内閣ないかくともに、やく4かげつ短命たんめいわった。

このとき憲政けんせいとう解党かいとうとともに、きゅう自由党じゆうとうのみで同名どうめいべつ政党せいとう憲政けんせいとう」をあらたに結成けっせい党名とうめい独占どくせんするかたち自由党じゆうとう復活ふっかつさせた。こちらの憲政けんせいとう自由じゆう憲政けんせいとう)は、きゅう自由党じゆうとう以来いらいえんであった伊藤いとう博文ひろぶみ新党しんとう構想こうそうとうまるごと参加さんかするかたち立憲りっけん政友せいゆうかいへと改組かいそし、大正たいしょうから昭和しょうわ前期ぜんきにかけてのだい政党せいとう一翼いちよくになう。一方いっぽうかれたがわきゅう進歩しんぽとうは、対抗たいこうして「憲政けんせいほんとう」を結成けっせい政友せいゆうかい後塵こうじんはいするかたちとなったが、離合りごう集散しゅうさん立憲りっけん同志どうしかい憲政けんせいかい時代じだいには与党よとうとなり、そのだい政党せいとう一翼いちよくである立憲りっけん民政みんせいとう組織そしきする。

憲政けんせいとう

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明治めいじ23ねん(1890ねん)の帝国ていこく議会ぎかい開設かいせつすうねんあいだ(いわゆる"初期しょき議会ぎかい")、藩閥はんばつ政府せいふ議会ぎかい対策たいさくのため、当時とうじ衆議院しゅうぎいんだい勢力せいりょくであった自由党じゆうとう板垣いたがき退助たいすけ総理そうり)と進歩しんぽとう大隈おおくま重信しげのぶ党首とうしゅ)のどちらか片方かたがた連携れんけいし、その親藩しんぱんばつ中小ちゅうしょう会派かいは温和おんわ/吏党)をまじえつつ政権せいけん運営うんえいおこなっていた。しかし、だい3伊藤いとう内閣ないかくりょうとう協力きょうりょくられずに少数しょうすう与党よとう発足ほっそく自由じゆう進歩しんぽりょうとうはげしく対立たいりつし、明治めいじ31ねん(1898ねん)6がつ10日とおか前回ぜんかい選挙せんきょからわずか3かげつ衆議院しゅうぎいん解散かいさんする。

このころ、ともに野党やとうとして藩閥はんばつないかく対峙たいじしていた自由じゆう進歩しんぽりょうとうは、だい6かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ(8がつ10日とおか投開票とうかいひょう)をまえに、合同ごうどう機運きうんがる。かくして6がつ22にちりょうとう合同ごうどうして新党しんとう憲政けんせいとう発足ほっそくさせた。新党しんとうは「政党せいとうないかく樹立じゅりつ」「地方ちほう自治じち発達はったつ」「通商つうしょう貿易ぼうえき拡大かくだい」「産業さんぎょう鉄道てつどう充実じゅうじつ」「国力こくりょく見合みあった軍備ぐんび増強ぞうきょう」「財政ざいせい基盤きばん確立かくりつ」「教育きょういく発達はったつ」「皇室こうしつおよ憲法けんぽう擁護ようご」「文官ぶんかん任用にんようれい廃止はいし」などをかかげていた。当面とうめん総裁そうさい設置せっちせず、きゅう自由党じゆうとう松田まつだ正久まさひさはやしゆうづくりきゅう進歩しんぽとう尾崎おざき行雄ゆきお大東おおひがしよしとおるの4めい総務そうむ委員いいん就任しゅうにんして党務とうむおこなうものとした。

これをった伊藤いとう首相しゅしょうは、藩閥はんばつ政府せいふ主体しゅたいてき政党せいとう組織そしきし、これをもって議会ぎかい基盤きばんとすることを計画けいかく創設そうせつ準備じゅんび開始かいしする。しかし、山縣やまがた有朋ありとも元老げんろうはじめ、藩閥はんばつ首脳しゅのう元老げんろう内閣ないかく)のあいだでは政党せいとうないかくせいそのものにたいする反対はんたい意見いけんつよく、「伊藤いとう新党しんとう計画けいかく頓挫とんざする。伊藤いとう内閣ないかくそう辞職じしょく選択せんたくしたが、元老げんろうあいだでは憲政けんせいとう対峙たいじする役割やくわりけるものはいなかった。そのため、憲政けんせいとう内閣ないかく組織そしきさせることにけっし、6月27にち大隈おおくま板垣いたがきりょう大命たいめい降下こうかされた。こうして、憲政けんせいとう結党けっとうからわずか5にちにして、史上しじょうはつ政党せいとうないかくだい1大隈おおくま内閣ないかくくまいたないかく)を組織そしきすることになった。

6月30にち大隈おおくま内閣ないかく総理そうり大臣だいじん板垣いたがき内務ないむ大臣だいじんとして内閣ないかく発足ほっそく政権せいけん運営うんえいはじまったが、元々もともと憲政けんせいとう直接ちょくせつ政権せいけん主体しゅたいてきになうことを想定そうていしておらず、さら自由じゆう進歩しんぽりょうとう帝国ていこく議会ぎかい開設かいせつ直前ちょくぜん大同団結だいどうだんけつ運動うんどうにおいても合同ごうどう断念だんねんするほど、政策せいさくてき人脈じんみゃくてきへだたりがあったこともあり、結党けっとう組閣そかく直後ちょくごから、内部ないぶにおいてきゅうとうけいかれての対立たいりつえなかった[5]

とくに、きゅう自由党じゆうとう実力じつりょくしゃであったほしとおるは、きゅう自由党じゆうとう時代じだい主流しゅりゅうてんじたさい駐米ちゅうべい公使こうししょくをあてがわれていたが、大隈おおくま兼任けんにんしている外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんするとの目算もくさんのもと、公使こうししょくげうって帰国きこくする。ほし帰国きこく直前ちょくぜんの8がつ10日とおかだい6かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ投開票とうかいひょうおこなわれ、憲政けんせいとう議席ぎせき占有せんゆうりつ8わりというだい勝利しょうりおさめる。しかし、ほし当初とうしょ帰国きこく目的もくてきりょうとう合同ごうどう反対はんたいするためのものであったことった大隈おおくまみずか外相がいしょうねてほし起用きようした(おり鳩山はとやま和夫かずおえる予定よていであったとするせつもある)。ほしはこれに反発はんぱつし、そう選挙せんきょ直後ちょくごふたた党内とうない対立たいりつ発生はっせいする[5]

そして8がつ22にち尾崎おざき行雄ゆきお文相ぶんしょうきゅう進歩しんぽとう)が帝国ていこく教育きょういくかいおこなった所謂いわゆる共和きょうわ演説えんぜつ事件じけんによって両派りょうはこうそう拍車はくしゃがかかり、板垣いたがきらが尾崎おざきとともに内閣ないかくささえることはできないと明治天皇めいじてんのう奏上そうじょうする事態じたいとなった。最終さいしゅうてきに10月24にち尾崎おざき文相ぶんしょう辞任じにん大隈おおくまがそのにんとしてきゅう進歩しんぽとういぬやしなえあつし指名しめいしたことで、きゅう自由党じゆうとうがわ不満ふまんはますますたかまった。

28にち松田まつだ正久まさひさ蔵相ぞうしょう官邸かんていひらかれたきゅう自由党じゆうとう領袖りょうしゅう会議かいぎに、帰朝きちょう以来いらいきこもっていたほしひさしぶりに姿すがたし、憲政けんせいとう解党かいとうさせることを主張しゅちょうする。領袖りょうしゅうほしきずられてそれを了承りょうしょう同日どうじつ憲政けんせいとう総務そうむかいにて、円満えんまんぶんとうすることを提案ていあんするが、きゅう進歩しんぽとうがわは、きゅう自由党じゆうとう脱党だっとうしたほうが、きゅう進歩しんぽとう政権せいけんとう資産しさん独占どくせんできることから、解党かいとう反対はんたいし、きゅう自由党じゆうとうがわをじらす作戦さくせんる。きゅう進歩しんぽとうがわ魂胆こんたん見抜みぬいたきゅう自由党じゆうとうは、きゅう進歩しんぽとういて憲政けんせいとう解党かいとうし、同時どうじに、同名どうめいしん政党せいとう憲政けんせいとう」を、きゅう自由党じゆうとうがわ主導しゅどうあらたに結党けっとうすることをめる。同日どうじつきゅう進歩しんぽとう幹部かんぶ相手あいてに、翌日よくじつ臨時りんじ大会たいかいひらいて憲政けんせいとう解党かいとう決議けつぎすることのみを通達つうたつする。きゅう進歩しんぽとう幹部かんぶ再考さいこうもとめたがきゅう自由党じゆうとうがわはこれをっぱね、深夜しんやまでの激論げきろんすえ物別ものわかれにわったが、この時点じてん臨時りんじ大会たいかい案内あんないじょうくばられ、憲政けんせいとう解党かいとう既成きせい事実じじつとなっていた[6]

自由じゆう憲政けんせいとう

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よく10がつ29にち憲政けんせいとう臨時りんじ大会たいかいひらかれ、きゅう自由党じゆうとうがわきゅう進歩しんぽとう反対はんたいり、解党かいとう決議けつぎされた。その憲政けんせいとう解党かいとうとどけ提出ていしゅつされ、それと同時どうじに、あらたに結成けっせいされる「憲政けんせいとう」(自由じゆう憲政けんせいとう)の結党けっとうとどけされた。内相ないしょう板垣いたがきであったこともあり、届出とどけではその受理じゅりされ、党名とうめいのみならず綱領こうりょう規約きやくまでそのままの、自由じゆうのみによるあたらしい憲政けんせいとう発足ほっそくした。事情じじょうらされたきゅう進歩しんぽとうただちに抗議こうぎしたが、解党かいとうとどけ結党けっとうとどけともに正規せいきのものであるとして却下きゃっかされ、さらとう本部ほんぶ党名とうめいなどについても内務省ないむしょうすべきゅう自由党じゆうとうかたち、政争せいそうきゅう自由党じゆうとう完勝かんしょうわった。大隈おおくまは10月31にち辞表じひょう提出ていしゅつきゅう進歩しんぽとうはやむなく憲政けんせいほんとう発足ほっそくさせるも、内閣ないかくは11月8にちそう辞職じしょくした[7]

あたらしい自由党じゆうとう事実じじつじょう指導しどうしゃとなったほしとおるは、くまいたないかく崩壊ほうかいすることを見込みこんで藩閥はんばつがわ連立れんりつ交渉こうしょうおこなっており、くまいたないかくののちに成立せいりつしただい2やま縣内けんないかくにおいて、与党よとうとして参画さんかくする。入閣にゅうかくについては人数にんずうめんいがつかなかったため閣外かくがい協力きょうりょくかたちとなったが、山縣やまがた憲政けんせいとう国策こくさくへの関与かんよについては妥協だきょうてき態度たいどをとったため、おも以下いか妥協だきょう条件じょうけん合意ごういされた[8]

  • 超然ちょうぜん主義しゅぎ放棄ほうきすること。
  • 憲政けんせいとう政策せいさくのうち、政府せいふ方針ほうしん一致いっちするものを議会ぎかい提出ていしゅつすること
  • 憲政けんせいとう利害りがい一致いっちさせ、将来しょうらいにわたり連携れんけいすべきこと

やま縣内けんないかく憲政けんせいとう与党よとうとして、やく2ねんにわたり安定あんていてき政権せいけん運営うんえいし、懸案けんあん地租ちそ増徴ぞうちょうをはじめ、府県ふけんせい改正かいせい文官ぶんかん任用にんようれい改正かいせい衆議院しゅうぎいん議員ぎいん選挙せんきょほう改正かいせいなどの施策しさく議会ぎかい協賛きょうさんうちった。

しかしこれらの施策しさくうち文官ぶんかん任用にんようれい改正かいせい(1899ねん3がつ28にち成立せいりつ)については、政党せいとういん高級こうきゅう官僚かんりょうへの任命にんめい政治せいじ任用にんよう)のわくせばめるものであったため憲政けんせいとうとひと悶着もんちゃくあり、このころから憲政けんせいとうは、"さんけん以後いご"の連携れんけいさき模索もさくはじめる。ちょうどこのころ伊藤いとう博文ひろぶみ筆頭ひっとう元老げんろうが、政党せいとうないかくせい確立かくりつ標榜ひょうぼうし、独自どくじ新党しんとう結成けっせいけて各地かくち遊説ゆうぜいはじめていた。憲政けんせいとうきゅう自由党じゆうとう時代じだいだい2伊藤いとう内閣ないかく与党よとうになって以来いらい伊藤いとうとのあいだ友誼ゆうぎ関係かんけいにあったため、伊藤いとう憲政けんせいとうへの入党にゅうとうすすめるなど、意見いけん交換こうかんはじめた[9]

1900ねんはいると、やま縣内けんないかく憲政けんせいとうとのあいだ仲違なかたがいのたびはげしくなってくる。憲政けんせいとうがわ板垣いたがきとう幹部かんぶ入閣にゅうかく、もしくはげん閣僚かくりょう入党にゅうとうもとめたが、山縣やまがた議会ぎかいちゅうであること、皇太子こうたいし大正天皇たいしょうてんのう)の成婚せいこんしき同年どうねん5がつ10日とおか)などを理由りゆう確約かくやくあたえず、さらには辞意じいらすようになった。ほしは、山縣やまがた辞意じいらした5月31にち、ただちにげん内閣ないかくとの提携ていけい断絶だんぜつ宣言せんげん、そのまま伊藤いとう筆頭ひっとう元老げんろうのもとへかい、憲政けんせいとうへの入党にゅうとう要請ようせいした。伊藤いとうは、自身じしん本意ほんい既成きせい政党せいとう宿弊しゅくへい矯正きょうせいであって、伊藤いとう本人ほんにん主体しゅたいとなって新党しんとう結成けっせいすることである、と返答へんとうした。そのため、ほし憲政けんせいとう解党かいとう伊藤いとう新党しんとうまるごと合流ごうりゅうすることによって、党勢とうせい拡張かくちょうすることを決定けっていする[10]

伊藤いとう山縣やまがた了解りょうかいたうえで、8がつ25にち新党しんとう創立そうりつ委員いいんかいひらかれる。9月13にち憲政けんせいとう解党かいとう。15にちには伊藤いとう総裁そうさいとする立憲りっけん政友せいゆうかい結成けっせいされ、同時どうじきゅう自由党じゆうとう以来いらい盟主めいしゅであった板垣いたがき政界せいかい引退いんたいした。これと前後ぜんごして山縣やまがた首相しゅしょう辞任じにんして、立憲りっけん政友せいゆうかいだい4伊藤いとう内閣ないかく政権せいけん与党よとうとしてささえることとなる[11]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 宇野うの俊一しゅんいちほかへん日本にっぽんぜん(ジャパン・クロニック)』 講談社こうだんしゃ、1991ねん、974ぺーじISBN 4-06-203994-X
  2. ^ a b 宇野うの俊一しゅんいちほかへん日本にっぽんぜん(ジャパン・クロニック)』 講談社こうだんしゃ、1991ねん、978ぺーじISBN 4-06-203994-X
  3. ^ a b c d e ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん コトバンク. 2018ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d 百科ひゃっか事典じてんマイペディア コトバンク. 2018ねん10がつ1にち閲覧えつらん
  5. ^ a b ますあじ, p. 298.
  6. ^ ますあじ, pp. 298–300.
  7. ^ ますあじ, pp. 300–301.
  8. ^ ますあじ, pp. 303–307.
  9. ^ ますあじ, pp. 341–343.
  10. ^ ますあじ, p. 344.
  11. ^ ますあじ, pp. 356–357.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ますあじじゅん新装しんそうばん 日本にっぽん政党せいとう史論しろん 2』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい東京とうきょう文京ぶんきょう、2011ねん12月15にちISBN 978-4-13-034272-8 

関連かんれん項目こうもく

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