星 ほし 亨 とおる (ほし とおる、嘉 よしみ 永 ひさし 3年 ねん 4月 がつ 8日 にち 〈1850年 ねん 5月19日 にち 〉 - 明治 めいじ 34年 ねん 〈1901年 ねん 〉6月21日 にち )は、日本 にっぽん の英学 えいがく 者 しゃ 、弁護士 べんごし 、政治 せいじ 家 か 。
江戸 えど ・築地 つきじ の左官 さかん 職人 しょくにん の子 こ に生 う まれる。明治維新 めいじいしん 後 のち に横浜 よこはま 税関 ぜいかん 長 ちょう となり、後 のち に渡 わたり 英 すぐる して法廷 ほうてい 弁護士 べんごし (バリスタ)資格 しかく を取得 しゅとく 、日本 にっぽん でも代言 だいげん 人 じん (後 ご の弁護士 べんごし )となる[ 1] 。
1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )、自由党 じゆうとう に入党 にゅうとう し、『自由 じゆう 新聞 しんぶん 』の経営 けいえい に参加 さんか 。1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )には自 みずか ら新聞 しんぶん 『自由 じゆう 燈 とう 』を創刊 そうかん し、政府 せいふ 批判 ひはん の論客 ろんかく となったが、その前後 ぜんご に官吏 かんり 侮辱 ぶじょく 罪 ざい などで2回 かい 入獄 にゅうごく 。1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )には在野 ざいや 各党 かくとう の大同団結 だいどうだんけつ 運動 うんどう を推進 すいしん した[ 1] [ 2] 。
1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )、第 だい 2回 かい 総 そう 選挙 せんきょ に当選 とうせん し、衆議院 しゅうぎいん 議長 ぎちょう を務 つと めた。翌年 よくねん 、後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう とともに取引 とりひき 所 しょ 設置 せっち をめぐる疑獄 ぎごく 事件 じけん に連座 れんざ して除名 じょめい されたが、議長 ぎちょう 解任 かいにん 決議 けつぎ を数 すう 度 ど にわたって無視 むし し、登院 とういん したことで知 し られる[ 1] 。
日 にち 清 しん 戦争 せんそう 後 ご 、韓国 かんこく の法律 ほうりつ 顧問 こもん に就任 しゅうにん し、1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )には駐米 ちゅうべい 公使 こうし に就任 しゅうにん 。1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )に憲政 けんせい 党 とう 内閣 ないかく (隈 くま 板 いた 内 ない 閣 かく )が誕生 たんじょう すると帰国 きこく して憲政 けんせい 党 とう を分裂 ぶんれつ させ、1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )に伊藤 いとう 博文 ひろぶみ とともに立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい を結党 けっとう した。同年 どうねん の第 だい 4次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく で逓信 ていしん 相 しょう として初 はつ 入閣 にゅうかく したが、東京 とうきょう 市 し 疑獄 ぎごく 事件 じけん の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ と目 め され辞職 じしょく [ 1] [ 3] [ 4] 。1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )、伊庭 いば 想太郎 そうたろう に刺殺 さしころ された[ 1] 。
生前 せいぜん は金権 きんけん 党利 とうり 党略 とうりゃく の徒 と として激 はげ しく批判 ひはん されたが、実際 じっさい は我 わ が国 くに に立憲 りっけん 体制 たいせい を根付 ねつ かせ、独立 どくりつ 不羈 ふき の強国 きょうこく としなければならないという強 つよ い思 おも いに貫 つらぬ かれていた。
その勉強 べんきょう 振 ぶ りは凄 すさ まじく獄中 ごくちゅう でも当時 とうじ 最先端 さいせんたん の経済 けいざい 書 しょ であるジェヴォンズ やマクラウドを原書 げんしょ で読 よ んでいた。
星 ほし の政治 せいじ 主張 しゅちょう ・手法 しゅほう は、積極 せっきょく 的 てき 建設 けんせつ 主義 しゅぎ (Positive constructive)であり、軍事 ぐんじ 拡張 かくちょう 、産業 さんぎょう の発展 はってん により日本 にっぽん を不 ふ 覊独立 どくりつ の国 くに とすること、その手法 しゅほう として地方 ちほう からの港湾 こうわん ・鉄道 てつどう ・大学 だいがく 等 とう のインフラ整備 せいび の要望 ようぼう を政党 せいとう が取 と り込 こ み実現 じつげん し、地域 ちいき への利益 りえき 誘導 ゆうどう を図 はか り、支持 しじ 獲得 かくとく ・党勢 とうせい 拡大 かくだい を目指 めざ す日本 にっぽん 型 がた 政党 せいとう 政治 せいじ の原型 げんけい を築 きず いたとされる。自身 じしん が独立 どくりつ 不羈 ふき の星 ほし は、自由党 じゆうとう →政友 せいゆう 会 かい を中心 ちゅうしん とした我 わ が国 くに の立憲 りっけん 体制 たいせい 確立 かくりつ と積極 せっきょく 主義 しゅぎ による国力 こくりょく 増強 ぞうきょう に決定的 けっていてき な役割 やくわり を果 は たした。
旧暦 きゅうれき ・嘉 よしみ 永 ひさし 3年 ねん 4月 がつ (1850年 ねん 5月 がつ )、江戸 えど 築地 つきじ 小田原 おだわら 町 まち (現 げん ・東京 とうきょう 都 と 中央 ちゅうおう 区 く 築地 つきじ )に、左官 さかん 職人 しょくにん 佃 つくだ 屋 や 徳兵衛 とくべえ の長男 ちょうなん として生 う まれる(幼名 ようみょう 浜吉 はまきち )。母 はは は松 まつ (相模 さがみ 国 こく 浦賀 うらが の漁夫 ぎょふ の娘 むすめ )。二人 ふたり の姉 あね がいた。徳兵衛 とくべえ の破産 はさん 失踪 しっそう 後 ご 、娘 むすめ 二 に 人 にん を奉公 ほうこう に出 だ し、松 まつ は浜吉 はまきち を連 つ れて漢方 かんぽう 医 い 星 ほし 泰 やすし 順 じゅん と再婚 さいこん 、星 ほし 姓 せい を名乗 なの った[ 5] 。
一家 いっか で横浜 よこはま に転居 てんきょ 後 ご 、神奈川 かながわ 奉行 ぶぎょう 所 ところ 付 づけ 蘭方 らんぽう 医 い 渡辺 わたなべ 貞 さだ 庵 あん に弟子 でし 入 い りし、そのつてで、通商 つうしょう 上 じょう 英語 えいご のできる人材 じんざい 育成 いくせい のために幕府 ばくふ が設立 せつりつ した横浜 よこはま 英学 えいがく 所 しょ (文久 ぶんきゅう 2年 ねん 設立 せつりつ :ヘボン が設立 せつりつ と教授 きょうじゅ に参画 さんかく [ 6] )で英学 えいがく を学 まな び始 はじ めた。その後 ご 、江戸 えど で持参 じさん 金 きん を約 やく して御家人 ごけにん 小泉 こいずみ 家 か の養子 ようし となり、役務 えきむ として幕府 ばくふ 陸軍 りくぐん 三 さん 兵隊 へいたい (文久 ぶんきゅう 2年 ねん 創設 そうせつ )の軍事 ぐんじ 調練 ちょうれん に加 くわ わるが挫折 ざせつ (のち養子 ようし も破談 はだん )。開成 かいせい 所 しょ 教授 きょうじゅ 前島 まえじま 密 ひそか の家 いえ 塾 じゅく に入 はい り、前島 まえじま の仲介 ちゅうかい で慶応 けいおう 3年 ねん (1867年 ねん )に開成 かいせい 所 しょ に入所 にゅうしょ 、英語 えいご 世話 ぜわ 役 やく 心得 こころえ に推 お され仏語 ふつご も学 まな んだ。さらに同所 どうしょ 教授 きょうじゅ 何 なに 礼 れい 之 の の私塾 しじゅく に移 うつ り、同年 どうねん 10月 がつ に何 なに が海軍 かいぐん 所 しょ へ転出 てんしゅつ する際 さい 、その推薦 すいせん で同所 どうしょ 英語 えいご 世話 ぜわ 役 やく となったが、戊辰戦争 ぼしんせんそう 勃発 ぼっぱつ により3か月 げつ で失職 しっしょく 。横浜 よこはま 居留 きょりゅう 地 ち で『万国 ばんこく 新聞紙 しんぶんし 』を発行 はっこう していた英国 えいこく 領事館 りょうじかん 付 づけ 牧師 ぼくし マイケル・ベイリー を手伝 てつだ い、英字 えいじ 新聞 しんぶん の翻訳 ほんやく で日銭 ひぜに を稼 かせ いだ[ 7] 。
明治 めいじ 元年 がんねん (1868年 ねん )、開成 かいせい 所 しょ 同窓生 どうそうせい らの縁 えん で若狭 わかさ 国 こく 小浜 おばま 藩 はん 英 えい 学校 がっこう 教師 きょうし 、さらに大阪 おおさか に移 うつ った何 なに 礼 れい 之 の の瓊江塾 じゅく 助 じょ 教 きょう となり、明治 めいじ 2年 ねん 9月 がつ (1869年 ねん 10月 がつ )には何 なに が設立 せつりつ に尽力 じんりょく した大阪 おおさか 洋 よう 学校 がっこう 訓導 くんどう 、翌年 よくねん 同校 どうこう が大学南 だいがくみなみ 校 こう 分校 ぶんこう (大阪 おおさか 開成 かいせい 所 しょ )となると小 しょう 助 じょ 教 きょう となった。まもなく、陸奥 むつ 宗光 むねみつ から洋学 ようがく 教師 きょうし の人選 じんせん を依頼 いらい された何 なん の推薦 すいせん で、大阪 おおさか の和歌山 わかやま 藩 はん 邸 やしき で洋学 ようがく 助 じょ 教 きょう として教 おし え、のち同 どう 藩 はん 兵 へい 学寮 がくりょう (明治 めいじ 2年 ねん 末 まつ 設置 せっち )出仕 しゅっし となった[ 7] 。
廃藩置県 はいはんちけん 後 ご の明治 めいじ 4年 ねん 8月 がつ (1871年 ねん 10月 がつ )に陸奥 みちのく が神奈川 かながわ 県知事 けんちじ に就任 しゅうにん すると、同 どう 時期 じき に星 ほし も和歌山 わかやま 県 けん 貫 ぬき 属 ぞく の身分 みぶん [ 8] で横浜 よこはま の英 えい 学校 がっこう ・修 おさむ 文 ぶん 館 かん の教師 きょうし に就任 しゅうにん 。明治 めいじ 5年 ねん 3月 がつ (1872年 ねん 4月 がつ )、神奈川 かながわ 県 けん 二 に 等 とう 訳 やく 官 かん に補 ほ され、学校 がっこう 事務 じむ 取扱 とりあつかい として修 おさむ 文 ぶん 館 かん (啓行 ひろゆき 堂 どう )教頭 きょうとう に任 にん ぜられた[ 7] 。さらに、大蔵省 おおくらしょう 租税 そぜい 頭 あたま 兼任 けんにん となった陸奥 みちのく の引 ひ き立 た てにより、同年 どうねん 4月 がつ に大蔵省 おおくらしょう 雇 やとい 、9月には租税 そぜい 寮 りょう 七 なな 等 とう 出仕 しゅっし となり、新暦 しんれき ・1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )1月 がつ 、横浜 よこはま 税関 ぜいかん 長 ちょう (租税 そぜい 権助 ごんすけ ・従 したがえ 六 ろく 位 い )に抜擢 ばってき された。ところが同年 どうねん 5月 がつ 、いわゆる「女王 じょおう 事件 じけん 」[ 9] を引 ひ き起 お こし、7月 がつ に非職 ひしょく 扱 あつか いとなった。
まもなく、同年 どうねん 9月 がつ に太政官 だじょうかん より英国 えいこく 留学 りゅうがく を命 めい ぜられ、翌月 よくげつ に横浜 よこはま 出航 しゅっこう 、1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )1月 がつ 、ロンドンのミドル・テンプル (4大 だい 法曹 ほうそう 院 いん の一 ひと つ)に入学 にゅうがく 、1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )6月 がつ には法廷 ほうてい 弁護士 べんごし Barrister 資格 しかく 取得 しゅとく 者 しゃ となった[ 7] [ 10] 。帰国 きこく 後 ご 、1878年 ねん (明治 めいじ 11年 ねん )2月 がつ には、司法省 しほうしょう 付属 ふぞく 代言 だいげん 人 じん (後 ご の弁護士 べんごし )の第 だい 一 いち 号 ごう となった[ 1] 。初 はつ の大 だい 仕事 しごと である高島 たかしま 炭鉱 たんこう 事件 じけん での後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう の弁護 べんご で一挙 いっきょ に名 な を高 たか め、官庁 かんちょう 依頼 いらい の訴訟 そしょう では高額 こうがく の弁護 べんご 料 りょう を要求 ようきゅう し、財産 ざいさん を築 きず く。
1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )、前年 ぜんねん 10月 がつ に結成 けっせい された自由党 じゆうとう (84年 ねん 10月 がつ 解散 かいさん )に入党 にゅうとう し、機関 きかん 紙 し 『自由 じゆう 新聞 しんぶん 』の経営 けいえい に参加 さんか 。以降 いこう 、民権 みんけん 運動 うんどう の他 ほか の領袖 りょうしゅう たちが機会 きかい 主義 しゅぎ 的 てき に右顧左眄 うこさべん するなかで、一貫 いっかん して自由党 じゆうとう の維持 いじ と運動 うんどう の再建 さいけん に尽力 じんりょく する。1883年 ねん (明治 めいじ 16年 ねん )4月 がつ の党 とう 大会 たいかい で常 つね 議員 ぎいん に就任 しゅうにん 。7月より治 ち 罪 ざい 法 ほう に基 もと づく初 はつ の高等法院 こうとうほういん 裁判 さいばん として福島 ふくしま 事件 じけん の国事犯 こくじはん 審理 しんり が東京 とうきょう 高等法院 こうとうほういん で開 ひら かれた際 さい 、星 ほし は被告 ひこく 河野 こうの 弘 ひろし 中 なか の弁護人 べんごにん を務 つと めた[ 11] 。6月、党 とう 総理 そうり の板垣 いたがき 退助 たいすけ が欧州 おうしゅう 漫遊 まんゆう から帰国 きこく 後 ご 、藩閥 はんばつ 政府 せいふ との対抗 たいこう する意欲 いよく を失 うしな い、総理 そうり 辞任 じにん 、自由党 じゆうとう 解党 かいとう を唱 とな えるが押 お し留 ど め、翌 よく 1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )3月 がつ の党 とう 大会 たいかい で板垣 いたがき に総理 そうり 再任 さいにん を承諾 しょうだく させた。5月に新聞 しんぶん 『自由 じゆう 燈 とう 』(後 ご 朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ に売却 ばいきゃく し、「東京 とうきょう 朝日新聞 あさひしんぶん 」となる)を創刊 そうかん 。同年 どうねん 9月 がつ 22日 にち 、前日 ぜんじつ の演説 えんぜつ が官吏 かんり 侮辱 ぶじょく 罪 ざい にあたるとして新潟 にいがた で逮捕 たいほ され、12月18日 にち 、新潟 にいがた 軽 けい 罪 ざい 裁判所 さいばんしょ は重 じゅう 禁固 きんこ 6か月 げつ 、罰金 ばっきん 40円 えん と判決 はんけつ 。この間 あいだ 9月 がつ に自由 じゆう 党員 とういん による加波山 かばさん 事件 じけん が出来 でか し、責任 せきにん 追及 ついきゅう を恐 おそ れた板垣 いたがき と土佐 とさ 派 は は星 ほし 不在 ふざい の11月の党 とう 大会 たいかい で解党 かいとう を決議 けつぎ 。
また、1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )末 まつ に発覚 はっかく した大阪 おおさか 事件 じけん をめぐる裁判 さいばん では大井 おおい 憲太郎 けんたろう らを弁護 べんご した。
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )10月 がつ 24日 にち 、星 ほし ・中江 なかえ 兆民 ちょうみん らが発起人 ほっきにん となり、東京 とうきょう で旧 きゅう 自由 じゆう 党員 とういん を中心 ちゅうしん に全国 ぜんこく 有志 ゆうし 懇親 こんしん 会 かい を開 ひら き、星 ほし らは小異 しょうい を捨 す てて大同団結 だいどうだんけつ すべしと主張 しゅちょう 。藩閥 はんばつ 政治 せいじ を批判 ひはん し、1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )の三 さん 大 だい 事件 じけん 建白 けんぱく 運動 うんどう に参加 さんか した。これがきっかけで、保安 ほあん 条例 じょうれい で東京 とうきょう を追 お われ[ 12] 、出版 しゅっぱん 条例 じょうれい 違反 いはん で投獄 とうごく される。
釈放 しゃくほう 後 ご の1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )に日本 にっぽん を発 た ち、カナダ に7か月 げつ 、その後 ご ワシントン州 しゅう 、ニューヨーク に3か月 げつ 、英国 えいこく に1年 ねん 、さらにドイツ帝国 ていこく (ベルリン)に滞在 たいざい し、1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )に帰国 きこく [ 13] 。この外遊 がいゆう で日本 にっぽん の民権 みんけん 運動 うんどう の意義 いぎ を訴 うった えたが全 まった く相手 あいて にされず、日本 にっぽん が西洋 せいよう 人 じん の眼中 がんちゅう にないことを痛感 つうかん 、それまでの民力 みんりょく 休養 きゅうよう 論 ろん 者 しゃ から、他国 たこく から畏敬 いけい され国勢 こくせい を発展 はってん させるための租税 そぜい 増徴 ぞうちょう と軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう を是 ぜ とする富国強兵 ふこくきょうへい の立場 たちば に転向 てんこう し、同年 どうねん 結成 けっせい の立憲 りっけん 自由党 じゆうとう に参加 さんか した[ 1] 。
1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )、自 みずか らの衆議院 しゅうぎいん 議長 ぎちょう 就任 しゅうにん を公約 こうやく として第 だい 2回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ に栃木 とちぎ 県 けん 第 だい 1区 く から出馬 しゅつば 、当選 とうせん を果 は たした[ 14] 。陸奥 むつ 宗光 むねみつ の意向 いこう を受 う け、「独立 どくりつ 倶楽部 くらぶ 」を星 ほし 支持 しじ でまとめた岡崎 おかざき 邦 くに 輔 の奔走 ほんそう もあり、第 だい 2代 だい 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ された。第 だい 三 さん 議会 ぎかい では陸奥 みちのく の指示 しじ もあり、松方 まつかた 内閣 ないかく を厳 きび しく追 お い詰 つ めた。内閣 ないかく 弾劾 だんがい 決議 けつぎ が可決 かけつ され、追加 ついか 予算 よさん は削除 さくじょ され、追 お い込 こ まれた松方 まつかた 内閣 ないかく は辞職 じしょく した。次 つ いで成立 せいりつ した元勲 げんくん 総出 そうで の第 だい 2次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく に、天皇 てんのう から不信 ふしん を蒙 こうむ っていた陸奥 みちのく が外相 がいしょう として入閣 にゅうかく したのは、元老 げんろう が星 ほし が主導 しゅどう する自由党 じゆうとう との協調 きょうちょう なくしては議会 ぎかい 政治 せいじ 運営 うんえい が不可能 ふかのう であることを悟 さと ったことによる。
第 だい 四 よん 議会 ぎかい を前 まえ に自由党 じゆうとう 幹部 かんぶ は「世間 せけん の風評 ふうひょう に構 かま わず飽 あ くまで積極 せっきょく 的 てき 建設 けんせつ 主義 しゅぎ (Positive constructive)の方針 ほうしん を執 と り、この主義 しゅぎ に合 あ うものは全 すべ て採用 さいよう すること、吏党とか民 みん 党 とう とか批評 ひひょう に構 かま わざること」を決議 けつぎ し、第 だい 四 よん 議会 ぎかい においては陸奥 みちのく と協調 きょうちょう し、自由党 じゆうとう を強引 ごういん に伊藤 いとう 内閣 ないかく 支持 しじ に転換 てんかん させ、予算 よさん 案 あん に関 かん する「和協 わきょう の詔勅 しょうちょく 」の受諾 じゅだく で党内 とうない をまとめた。これは藩閥 はんばつ 政府 せいふ 対 たい 民 みん 党 とう という構図 こうず を崩壊 ほうかい させた日本 にっぽん 政治 せいじ 史上 しじょう 最大 さいだい の画 が 期 き であり、議会 ぎかい 第 だい 一 いち 党 とう が政府 せいふ を批判 ひはん するのみでなく、国家 こっか 的 てき 見地 けんち に立 た ち、政府 せいふ との妥協 だきょう や調整 ちょうせい を通 とお して施策 しさく に責任 せきにん を持 も つ体制 たいせい の濫觴 らんしょう であり、その後 ご の政友 せいゆう 会 かい や自民党 じみんとう に引 ひ き継 つ がれた日本 にっぽん の立憲 りっけん 政党 せいとう 政治 せいじ 確立 かくりつ への大 おお きな一 いち 歩 ほ であった。しかしその過程 かてい で、地租 ちそ 軽減 けいげん を公約 こうやく としていた党内 とうない や民 みん 党 とう 連合 れんごう を壊 こわ された改 あらため 進 しん 党 とう 、存在 そんざい を軽視 けいし された吏党議員 ぎいん からは恨 うら みを買 か うこととなり、その憎悪 ぞうお は星 ほし 議長 ぎちょう に対 たい する不信任 ふしんにん として噴出 ふんしゅつ した。
1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )11月29日 にち 、衆議院 しゅうぎいん にて相馬 そうま 事件 じけん の被告 ひこく 弁護 べんご 、取引 とりひき 所 しょ からの収賄 しゅうわい 疑惑 ぎわく などにより議長 ぎちょう 不信任 ふしんにん 案 あん が可決 かけつ される[ 15] 。星 ほし は議長 ぎちょう 辞職 じしょく を拒否 きょひ したため、さらに12月1日 にち 議長 ぎちょう 不信任 ふしんにん 上奏 じょうそう 案 あん が可決 かけつ された。翌 よく 2日 にち 、明治天皇 めいじてんのう は上奏 じょうそう は議長 ぎちょう 更迭 こうてつ の請願 せいがん か、議院 ぎいん の不明 ふめい を謝 しゃ するの意 い かと質問 しつもん し、衆議院 しゅうぎいん は後者 こうしゃ の意 い とする奉答 ほうとう 案 あん を可決 かけつ 。12月5日 にち 、衆議院 しゅうぎいん は議院 ぎいん 法 ほう 第 だい 96条 じょう に基 もと づき星 ぼし に対 たい して一 いち 週間 しゅうかん の登院 とういん 停止 ていし の懲罰 ちょうばつ 、さらに同 どう 13日 にち には最 もっと も重 おも い懲罰 ちょうばつ である議員 ぎいん 除名 じょめい が議決 ぎけつ された。しかし、3か月 げつ 後 ご の衆院 しゅういん 選挙 せんきょ で再選 さいせん され、政界 せいかい に復帰 ふっき した。
その後 ご 政務 せいむ 委員 いいん として党 とう 幹部 かんぶ に返 かえ り咲 ざ くが、苛烈 かれつ な選挙 せんきょ で莫大 ばくだい な借金 しゃっきん を残 のこ し、日 にち 清 しん 戦争 せんそう 開戦 かいせん による挙国一致 きょこくいっち ムードの中 なか で政争 せいそう は棚上 たなあ げとなり、星 ほし の活動 かつどう の場 ば は失 うしな われた。失意 しつい の中 なか で朝鮮 ちょうせん 視察 しさつ に赴 おもむ き、井上 いのうえ 馨 かおる 駐 ちゅう 朝 あさ 公使 こうし から朝鮮 ちょうせん 経営 けいえい に参画 さんかく するよう勧 すす められ、1895年 ねん (明治 めいじ 28年 ねん )3月 がつ 、朝鮮 ちょうせん に渡 わた り法務 ほうむ 部門 ぶもん 顧問 こもん となる[ 16] 。しかし、三 さん 国 こく 干渉 かんしょう により朝鮮 ちょうせん での日本 にっぽん の権威 けんい は失墜 しっつい し、星 ほし は親日 しんにち 派 は の内部 ないぶ 大臣 だいじん 朴 ほお 泳 およげ 孝 こう を閔妃 びんび に取 と り入 い らせ、宮廷 きゅうてい を握 にぎ ろうと画策 かくさく するが失敗 しっぱい 、8月 がつ には井上 いのうえ が公使 こうし を辞任 じにん した。後任 こうにん の三浦 みうら 梧楼 ごろう からは軽視 けいし され、10月の閔妃 びんび 暗殺 あんさつ 事件 じけん でも計画 けいかく の埒外 らちがい に置 お かれ、善後 ぜんご 策 さく 協議 きょうぎ のための使者 ししゃ として東京 とうきょう へ向 む かい、そのまま朝鮮 ちょうせん へは戻 もど らなかった。
自由党 じゆうとう と伊藤 いとう 内閣 ないかく との提携 ていけい は専 もっぱ ら林 はやし 有 ゆう 造 づくり と伊東 いとう 巳代治 みよじ との間 あいだ で維持 いじ されたため星 ほし の出番 でばん は無 な く、陸奥 みちのく も日 にち 清 しん 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ の心労 しんろう から病床 びょうしょう にあった。板垣 いたがき 入閣 にゅうかく 問題 もんだい で伊藤 いとう 邸 てい に乗 の り込 こ むなどしたが、既 すで に党内 とうない 全体 ぜんたい が政府 せいふ との提携 ていけい を是認 ぜにん している状況 じょうきょう では、少数 しょうすう 派 は の関東 かんとう 派 は を率 ひき いる星 ほし が主導 しゅどう 権 けん を取 と ることはかなわず、党内 とうない で孤立 こりつ した星 ほし は1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )2月 がつ 、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ に外国 がいこく 行 い きの希望 きぼう を洩 も らす。
4月に駐米 ちゅうべい 公使 こうし に任命 にんめい され、関東 かんとう 派 は を陸奥 みちのく に託 たく し渡米 とべい した。この間 あいだ 、法典 ほうてん 調査 ちょうさ 会 かい 委員 いいん 、鉄道 てつどう 国有 こくゆう 調査 ちょうさ 会 かい 委員 いいん などにも任 にん ぜられた。
1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )の第 だい 1次 じ 大隈 おおくま 内閣 ないかく (隈 くま 板 いた 内 ない 閣 かく ) では、外務 がいむ 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく する予定 よてい であったが、大隈 おおくま 重信 しげのぶ 首相 しゅしょう がこれを拒否 きょひ 、憲政 けんせい 党 とう 分裂 ぶんれつ を生 う む原因 げんいん となった。1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )の憲政 けんせい 党 とう 東北 とうほく 出張所 しゅっちょうしょ 開設 かいせつ 式 しき において、東北 とうほく 築港 ちっこう 、東北 とうほく 鉄道 てつどう 完成 かんせい 、東北大学 とうほくだいがく 設置 せっち を決議 けつぎ 。
「自由党 じゆうとう は専制 せんせい の昔時 せきじ において破壊 はかい の運動 うんどう をなせるも、憲政 けんせい の今日 きょう は積極 せっきょく 的 てき に建設 けんせつ の運動 うんどう をなしつつある者 もの なり」とし、「経済 けいざい 、交通 こうつう において西南 せいなん に比 ひ して劣 おと る東北 とうほく は鉄道 てつどう 、築港 ちっこう 等 とう の建設 けんせつ 主義 しゅぎ を取 と らなければならない、自由党 じゆうとう は東北 とうほく において必 かなら ず是 ぜ 等 とう の事業 じぎょう を成就 じょうじゅ しなければ責任 せきにん を全 まっと うしたものでない」とする、日本 にっぽん 政党 せいとう 史上 しじょう 画期的 かっきてき な演説 えんぜつ をなす。それまで、田舎 いなか 代議士 だいぎし の機嫌 きげん を取 と るための厄介 やっかい ごとと考 かんが えられていた地方 ちほう 的 てき 利益 りえき 実現 じつげん 要求 ようきゅう を、利用 りよう すべき資源 しげん と捉 とら えて積極 せっきょく 的 てき に喚起 かんき し、その実現 じつげん を政府 せいふ と提携 ていけい する政党 せいとう に期待 きたい させることで党勢 とうせい 拡大 かくだい を図 はか る戦略 せんりゃく を開発 かいはつ 、確立 かくりつ した。1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )発足 ほっそく の立憲 りっけん 政友 せいゆう 会 かい に参加 さんか したことで伊藤 いとう 博文 ひろぶみ から信頼 しんらい を受 う け、第 だい 4次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく において逓信 ていしん 大臣 だいじん として初 はつ 入閣 にゅうかく 。その逞 たくま しい政治 せいじ 手腕 しゅわん から「おしとおる」と渾名 あだな された。収賄 しゅうわい などの噂 うわさ も絶 た えなかったが、星 ほし の活躍 かつやく への嫉妬 しっと によるもので本人 ほんにん は金銭 きんせん に無頓着 むとんじゃく であった。[ 15] [ 17] 。
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )11月15日 にち 、東京 とうきょう 市 し 会 かい 汚職 おしょく 事件 じけん に関 かん して市 し 参事 さんじ 会員 かいいん を兼任 けんにん していた星 ほし 逓信 ていしん 相 しょう らが告発 こくはつ され、12月20日 にち 星 ぼし は辞表 じひょう を提出 ていしゅつ 。同月 どうげつ 22日 にち 、原 はら 敬 たかし が後任 こうにん として任命 にんめい された。日本 にっぽん 裏面 りめん 史 し より見 み れば、三 さん 多摩 たま の村野 むらの 常 つね 右 みぎ 衛門 えもん 、森久保 もりくぼ 作蔵 さくぞう など大阪 おおさか 事件 じけん 以降 いこう の自由党 じゆうとう 右派 うは の壮士 そうし たちを政界 せいかい に引 ひ き入 い れていることから、たとえ星 ほし 自身 じしん が金銭 きんせん 的 てき に潔白 けっぱく であるとしても、東京 とうきょう 市 し 政 せい の疑獄 ぎごく の数々 かずかず には星 ほし の責任 せきにん も大 おお きいと言 い われる。
1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )6月 がつ 21日 にち 午後 ごご 3時 じ 過 す ぎ、東京 とうきょう 市 し 会 かい 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん していた星 ほし は、東京 とうきょう 市庁 しちょう 参事 さんじ 会議 かいぎ 事 ごと 室内 しつない で市長 しちょう ・助役 じょやく ・参事 さんじ 会議 かいぎ 員 いん らと懇談 こんだん 中 ちゅう 、元 もと 東京 とうきょう 市 し 四谷 よつや 区 く 学務 がくむ 委員 いいん の伊庭 いば 想太郎 そうたろう (心 しん 形 がた 刀 がたな 流 りゅう 剣術 けんじゅつ 第 だい 10代宗家 そうけ )によって刺殺 しさつ された[ 18] 。満 まん 51歳 さい 没 ぼつ 。その2年 ねん 前 まえ に星 ほし は静岡 しずおか 県 けん の長沢 ながさわ 雄 つよし 盾 たて 宅 たく にて、大本 おおもと の出口 いでぐち 王仁三郎 おにさぶろう と会談 かいだん し、出口 でぐち に死 し を予言 よげん されていた[ 19] 。墓所 はかしょ は東京 とうきょう 大田 おおた 区 く の池上本門寺 いけがみほんもんじ 。
妻 つま は星 ほし つな(津 つ 奈、綱 つな 、綱子 つなこ )、養嗣子 ようしし の星 ほし 光 ひかり が家督 かとく 相続 そうぞく した。
1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )、星 ほし 光 ひかり および遺族 いぞく は1万 まん 冊 さつ 余 あまり の蔵書 ぞうしょ を慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく に寄贈 きぞう 、「星 ほし 文庫 ぶんこ 」として保管 ほかん されている[ 20] 。
1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )、官 かん 約 やく 移民 いみん の廃止 はいし にあたって、星 ほし は私 わたし 約 やく 移民 いみん 体制 たいせい の設置 せっち を日本 にっぽん 政府 せいふ に働 はたら きかけ、民間 みんかん 移民 いみん 会社 かいしゃ の認可 にんか を取 と り付 つ けた。以後 いご 、日本 にっぽん の民間 みんかん 会社 かいしゃ を通 とお した斡旋 あっせん が行 おこな われるようになった。当時 とうじ は海外 かいがい 移民 いみん と国内 こくない との送金 そうきん 業務 ぎょうむ は横浜 よこはま 正金 しょうきん 銀行 ぎんこう が独占 どくせん していたが、星 ほし は五大 ごだい 移民 いみん 会社 かいしゃ (広島 ひろしま 海外 かいがい 渡航 とこう 会社 かいしゃ 、森岡 もりおか 商会 しょうかい 、熊本 くまもと 移民 いみん 会社 かいしゃ 、東京 とうきょう 移民 いみん 会社 かいしゃ 、日本 にっぽん 移民 いみん 会社 かいしゃ )のうち主要 しゅよう 数 すう 社 しゃ の事業 じぎょう に関与 かんよ していた[ 21] 。当時 とうじ ホノルル で稼働 かどう していた鉄道 てつどう を国内 こくない へも導入 どうにゅう しようとした井上 いのうえ 敬次郎 けいじろう の活動 かつどう にも助力 じょりょく した[ 22] 。
星 ほし 亨 とおる
神奈川 かながわ 県 けん 出仕 しゅっし 時代 じだい 、大坂 おおさか から付 つ いてきた4、5人 にん の書生 しょせい と起居 ききょ を共 とも にし、街 まち に出 で て飲 の みかつ放吟 ほうぎん しては邏卒 らそつ と揉 も み合 あ うことしばしばで、大蔵省 おおくらしょう 出仕 しゅっし 時 じ の明治 めいじ 5年 ねん 6月 がつ 、車夫 しゃふ を殴打 おうだ し邏卒 らそつ に乱暴 らんぼう したとして、閉門 へいもん 百 ひゃく 日 にち を命 めい じられ、8月 がつ に大蔵省 おおくらしょう も失職 しっしょく する。上京 じょうきょう した両親 りょうしん は、失職 しっしょく した星 ほし が大勢 おおぜい の食客 しょっきゃく を抱 かか えているのに呆 あき れ、「この際 さい 書生 しょせい を断 た ってはどうだ」と説 と いたが、有意 ゆうい な人材 じんざい だから及 およ ぶ限 かぎ り養 やしな うと言 い って聞 き かず、愛蔵 あいぞう の蔵書 ぞうしょ も売 う り払 はら って食費 しょくひ に充 あ てたという。閉門 へいもん が解 と けた時 とき 、陸奥 むつ 宗光 むねみつ は生活 せいかつ を変 か えさせるために、自 みずか らの屋敷 やしき に移 うつ るよう勧 すす め、星 ほし が書生 しょせい がいるからと断 ことわ ると陸奥 みちのく は書生 しょせい たちも一緒 いっしょ に来 き てもかまわぬといい、「食客 しょっきゃく の食客 しょっきゃく 」という世間 せけん に例 れい のない体裁 ていさい で陸奥 みちのく 屋敷 やしき に移 うつ った。[ 23]
横浜 よこはま 税関 ぜいかん 時代 じだい 、外交 がいこう 官 かん 特権 とっけん を楯 だて に荷物 にもつ 検査 けんさ の強要 きょうよう を抗議 こうぎ したロシア 臨時 りんじ 公使 こうし に対 たい して、氏名 しめい を告 つ げなかったそちらが悪 わる いと突 つ っぱね、所定 しょてい の波止場 はとば 以外 いがい から乗 の 下船 げせん しようとする外国 がいこく 人 じん に対 たい しても密輸 みつゆ 封 ふう じの厳重 げんじゅう な取 と り締 し まりを行 おこな った。[ 24]
1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )5月 がつ の女王 じょおう 事件 じけん [ 9] - 星 ほし が英国 えいこく 領事 りょうじ への英文 えいぶん 書翰 しょかん 中 ちゅう の Her Majesty's Court を訳文 やくぶん で「女王 じょおう 陛下 へいか ノ裁判 さいばん 庁 ちょう 」と表記 ひょうき したところ、ロバートソン領事 りょうじ が「女帝 にょてい 」でなく「女王 じょおう 陛下 へいか 」となっているのは不敬 ふけい 無礼 ぶれい だと難癖 なんくせ を付 つ けてきた。星 ほし は英国 えいこく でEmpressでなく、Queenを自称 じしょう しているのだから、「女王 じょおう 陛下 へいか 」で誤 あやま りではないと突 つ っぱねたところ、翌 よく 6月 がつ に英国 えいこく 公使 こうし パークス が外務省 がいむしょう に乗 の り込 こ み、「貴国 きこく 天皇 てんのう ヲ男 おとこ 王 おう ト云 うん フモ宜 むべ 敷 じき 星 ぼし ノ女王 じょおう ト云 うん セシヲ罰 ばつ セスンハ我 わが モ亦 また タ貴国 きこく 男 おとこ 王 おう ト唱フヘシ」など星 ほし の免職 めんしょく と謝罪 しゃざい を迫 せま った。困惑 こんわく した三条 さんじょう 太政大臣 だじょうだいじん と寺島 てらしま 宗 はじめ 則 のり 外務 がいむ 卿 きょう は、星 ほし に文書 ぶんしょ を改 あらた め、陳謝 ちんしゃ するようい含 いふく めたが、星 ほし は先方 せんぽう こそ不当 ふとう と上申 じょうしん を行 おこな った。英国 えいこく の威勢 いせい を恐 おそ れる政府 せいふ が、公文書 こうぶんしょ には外国 がいこく 君主 くんしゅ の公称 こうしょう はすべて「皇帝 こうてい 陛下 へいか 」を宛 あ てることとし(明治 めいじ 7年 ねん 太政官 だじょうかん 布告 ふこく 98号 ごう )、星 ほし に対 たい しては、贖罪 しょくざい 金 きん 二 に 円 えん を科 か し、横浜 よこはま 税関 ぜいかん 長 ちょう を免職 めんしょく にして、パークスをなだめ事件 じけん を落着 らくちゃく させた。
1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )11月29日 にち 、衆議院 しゅうぎいん では同院 どういん 議長 ぎちょう であった星 ほし に対 たい する議長 ぎちょう 不信任 ふしんにん 案 あん が166対 たい 119で可決 かけつ された。しかし、星 ほし は「条約 じょうやく 改正 かいせい を支持 しじ する自分 じぶん に対 たい する硬 かた 六 ろく 派 は (国民 こくみん 協会 きょうかい ・立憲 りっけん 改 あらため 進 しん 党 とう ら)による嫌 いや がらせでやましい所 ところ はない」として、これを拒否 きょひ (大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう 下 した の議院 ぎいん 法 ほう では衆議院 しゅうぎいん 議長 ぎちょう は勅 みことのり 任官 にんかん 扱 あつか いのため任免 にんめん 権 けん は天皇 てんのう にあった)。そこで明治天皇 めいじてんのう に対 たい して星 ほし の解任 かいにん を求 もと める上奏 じょうそう 案 あん を152対 たい 126で可決 かけつ した。対 たい して、天皇 てんのう からは「議院 ぎいん 自 みずか ら不明 ふめい なりしとの過失 かしつ 」として衆議院 しゅうぎいん の怠慢 たいまん を責 せ める勅答 ちょくとう が下 くだ された(これは、星 ほし への不信任 ふしんにん を当時 とうじ の外務 がいむ 大臣 だいじん 陸奥 むつ 宗光 むねみつ への間接 かんせつ 的 てき 攻撃 こうげき とみた伊藤 いとう 博文 ひろぶみ が宮内 みやうち 大臣 だいじん 土方 ひじかた 久元 ひさもと に要請 ようせい して出 だ させたものとされる)。以降 いこう 、星 ほし がなおも議長 ぎちょう 席 せき に着席 ちゃくせき して職務 しょくむ を続 つづ ける姿勢 しせい を見 み せたため、12月5日 にち には星 ほし の登院 とういん 停止 ていし 一 いち 週間 しゅうかん の懲罰 ちょうばつ が決議 けつぎ された。しかし、登院 とういん 停止 ていし が切 き れた12月12日 にち に星 ほし がまたも議長 ぎちょう 席 せき に座 すわ ろうとしたため、12月13日 にち に最 もっと も重 おも い懲罰 ちょうばつ である議員 ぎいん 除名 じょめい が議決 ぎけつ (185対 たい 92:除名 じょめい 要件 ようけん である出席 しゅっせき 議院 ぎいん の三 さん 分 ぶん の二 に を超 こ える67%が賛成 さんせい )されたため、星 ほし は衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん の資格 しかく を失 うしな い、自動的 じどうてき に議長 ぎちょう を解任 かいにん された。
病的 びょうてき 読書 どくしょ 癖 へき ・学者 がくしゃ 政治 せいじ 家 か - 英 えい ・仏 ふつ ・独 どく ・伊 い ・スペイン語 ご を解 かい し、膨大 ぼうだい な蔵書 ぞうしょ を読破 どくは した。政治 せいじ 、法律 ほうりつ 、歴史 れきし のほかジェヴォンズ やマクラウドなど最先端 さいせんたん の経済 けいざい 学 がく 書 しょ も読 よ んだ。横浜 よこはま 税関 ぜいかん 時代 じだい は神 かみ 鞭 むち 知 ち 常 つね 、野沢 のざわ 鶏 にわとり 一 いち らとウィリアム・ブラックストン の "Commentaries on the laws of England " を『英国 えいこく 法律 ほうりつ 全書 ぜんしょ 』と題 だい して翻訳 ほんやく 出版 しゅっぱん (底本 ていほん は短縮 たんしゅく 版 ばん のThe Student's Blackstone )した。獄中 ごくちゅう では早朝 そうちょう の薄明 はくめい から、文字 もじ が読 よ めなくなる頃 ころ まで読書 どくしょ に耽 ふけ り、妻 つま への手紙 てがみ は洋書 ようしょ の注文 ちゅうもん と差 さ し入 い れに関 かん するものばかりであった。1888年 ねん 、石川 いしかわ 島 とう 監獄 かんごく で、横山 よこやま 又吉 またきち が当時 とうじ 最新 さいしん 刊 かん のマクラウドの『経済 けいざい 哲学 てつがく 』(田口 たぐち 卯吉 うきち 訳 わけ 、1885年 ねん )を読 よ んでいると、星 ほし はその議論 ぎろん は欧州 おうしゅう では既 すで に陳腐 ちんぷ に属 ぞく し、無益 むえき 、と言 い うので星 ほし の檻 おり 房 ぼう を訪 たず ねたところ、六 ろく 、七 なな 冊 さつ の伊 い 、英 えい 、仏 ふつ 、独 どく の原書 げんしょ を投 な げ出 だ し、これはみな新刊 しんかん の経済 けいざい 書 しょ だ、これが読 よ めぬようでは駄目 だめ で、今 いま から政党 せいとう 員 いん はせめて英 えい 仏 ふつ 語 ご くらいを正式 せいしき に修得 しゅうとく しなければ生涯 しょうがい ただの運動 うんどう 屋 や にて了 りょう るのほかなし、と語 かた った。しかし、妻 つま にはジェヴォンズやリカード と併 あわ せてマクラウドの経済 けいざい 書 しょ を差 さ し入 い れるよう依頼 いらい している[ 25] 。決 けっ して知識 ちしき をひけらかすことは無 な かったが、岡崎 おかざき 邦 くに 輔 によれば、星 ほし は読書 どくしょ をしたいがために時間 じかん を惜 お しみ、無駄話 むだばなし を嫌 きら い、格別 かくべつ の用 よう もない訪問 ほうもん 者 しゃ を嫌 きら い謝絶 しゃぜつ したために人気 にんき が出 で ず、高慢 こうまん と言 い われたという。望月 もちづき 圭介 けいすけ が京都 きょうと 滞在 たいざい 中 ちゅう の星 ほし を訪 たず ねたところ丁度 ちょうど 食事 しょくじ 中 ちゅう であり、膳 ぜん の傍 かたわ らに本 ほん を置 お いて読 よ み、用談 ようだん 中 ちゅう も見向 みむ きもせず食事 しょくじ と読書 どくしょ をやめなかった。抗議 こうぎ すると自分 じぶん は目 め で読 よ み、口 くち で食 た べ、耳 みみ で君 きみ の話 はなし を聞 き いている、疑 うたが うなら君 きみ の話 はな したことを全部 ぜんぶ 言 い って見 み せようと言 い ったという。蔵書 ぞうしょ は1万 まん 1千 せん 冊 さつ に及 およ び、没後 ぼつご に慶應大学 けいおうだいがく 図書館 としょかん に寄託 きたく された蔵書 ぞうしょ を閲 えっ した板倉 いたくら 卓造 たくぞう は学者 がくしゃ 政治 せいじ 家 か と呼 よ んだ[ 26] 。また、駐米 ちゅうべい 公使 こうし 時代 じだい も多 おお くの図書 としょ を蒐集 しゅうしゅう し、兵書 へいしょ も含 ふく まれていたため、駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん だった秋山 あきやま 真之 まさゆき が星 ほし の書斎 しょさい から勝手 かって に本 ほん を取 と り出 だ し「こんなに沢山 たくさん はとても読 よ めないだろうから、自分 じぶん が代 か わって読 よ んで差 さ し上 あ げている」と嘯 うそぶ いたりしていた[ 27] 。
陸奥 むつ 宗光 むねみつ との関係 かんけい - 自 みずか らを引 ひ き立 た てた恩人 おんじん 陸奥 みちのく との関係 かんけい を抜 ぬ きにしては星 ほし の行動 こうどう は語 かた れない。原 はら 敬 たかし のように陸奥 みちのく を敬服 けいふく してはいなかったが恩義 おんぎ を感 かん じ、愚直 ぐちょく に接 せっ した。自由党 じゆうとう 入党 にゅうとう は弁護士 べんごし として成功 せいこう していた当時 とうじ の星 ほし にとって積極 せっきょく 的 てき な動機 どうき はなく、獄中 ごくちゅう にあった陸奥 みちのく の出獄 しゅつごく 後 ご の地 じ ならしであったというのが有力 ゆうりょく である。出獄 しゅつごく 後 ご 外遊 がいゆう した陸奥 みちのく をよそに私財 しざい を投 とう じ、板垣 いたがき の我儘 わがまま に耐 た え、自由党 じゆうとう を維持 いじ したのも陸奥 みちのく の選択肢 せんたくし を確保 かくほ するためであった。それだけに1886年 ねん 2月 がつ 、帰国 きこく した陸奥 みちのく が、10月に政府 せいふ の無任所 むにんしょ 弁理 べんり 公使 こうし となった時 とき は失望 しつぼう し怒 いか りを隠 かく さなかった。陸奥 みちのく にとっては自由党 じゆうとう と藩閥 はんばつ 政府 せいふ の二者択一 にしゃたくいつ ではなく二 に 者 しゃ 拮抗 きっこう する状態 じょうたい こそが自 みずか らにとって最 もっと も望 のぞ ましかった。陸奥 みちのく は星 ほし を冷 つめ たく突 つ き放 はな したものの、疾 やま しさが残 のこ り、第 だい 三 さん 議会 ぎかい に当 あ たり議長 ぎちょう としては河野 こうの 広中 ひろなか が有望 ゆうぼう 視 し されていたが、陸奥 みちのく の意 い を汲 く んだ岡崎 おかざき 邦 くに 輔の奔走 ほんそう により星 ほし の衆議院 しゅうぎいん 議長 ぎちょう が実現 じつげん した。星 ほし は陸奥 みちのく の指示 しじ もあり、松方 まつかた 内閣 ないかく と厳 きび しく対決 たいけつ 、内閣 ないかく 弾劾 だんがい 決議 けつぎ 案 あん を可決 かけつ 、軍艦 ぐんかん 建造 けんぞう 費 ひ ほかの新 しん 事業 じぎょう 費 ひ は全額 ぜんがく 削除 さくじょ となり、松方 まつかた 内閣 ないかく は崩壊 ほうかい した。次 つぎ の陸奥 みちのく が外相 がいしょう として入閣 にゅうかく した第 だい 2次 じ 伊藤 いとう 内閣 ないかく に対 たい しては自由 じゆう 党内 とうない を強引 ごういん に方向 ほうこう 転換 てんかん させ、「和協 わきょう の詔勅 しょうちょく 」の受諾 じゅだく でまとめた。しかし、この過程 かてい で星 ほし は自由 じゆう 党内 とうない のみならず、改 あらため 進 しん 党 とう や吏党からの憎悪 ぞうお を一身 いっしん に受 う け、衆議院 しゅうぎいん 議長 ぎちょう 辞職 じしょく を余儀 よぎ なくされた。陸奥 みちのく 没 ぼつ 後 ご の星 ほし はなりふり構 かま わず権力 けんりょく 自体 じたい を目指 めざ し始 はじ めたように見 み える[ 28] 。徳富 とくとみ 蘇峰 そほう は星 ほし を陸奥 みちのく 門下 もんか とし、「虎 とら のような星 ほし 亨 とおる も陸奥 みちのく の前 まえ ではほとんど猫 ねこ のようだった」としてしている。
ベンサムについて - 在 ざい 英 えい 中 ちゅう にベンサム の "An Introduction to the Principle of Moral and Legislation "(1789年 ねん 「道徳 どうとく 及 およ び立法 りっぽう の諸 しょ 原理 げんり 序説 じょせつ 」)を反復 はんぷく 熟読 じゅくどく した。理念 りねん に殉 じゅん ずることよりも具体 ぐたい 的 てき な目的 もくてき に有効 ゆうこう か否 ひ か、また計量 けいりょう 可能 かのう な成果 せいか を重視 じゅうし する星 ほし の態度 たいど にベンサムの影響 えいきょう を見 み ることができる。1877-78年 ねん 、陸奥 むつ 宗光 むねみつ 、島田 しまだ 三郎 さぶろう (ベンサム『立法 りっぽう 論 ろん 綱 つな 』の翻訳 ほんやく 者 しゃ )らと英 えい 書 しょ の会読 かいどく を行 おこな った。島田 しまだ によれば、ある時 とき 陸奥 みちのく から「人間 にんげん 是非 ぜひ の帰着 きちゃく する所 ところ 如何 いか 」という問 と いが発 はっ せられ、星 ほし はベンサムの功利 こうり 論 ろん に立 た つ法律 ほうりつ 的 てき 見地 けんち から論評 ろんぴょう したという。だが、たいした行動 こうどう もできず官憲 かんけん の弾圧 だんあつ を浴 あ びる自由党 じゆうとう の壮士 そうし らへは深 ふか く同情 どうじょう し、1884年 ねん に急進 きゅうしん 派 は の旗頭 はたがしら 鈴木 すずき 舎 しゃ 定 じょう が29歳 さい の若 わか さで急死 きゅうし した際 さい 、星 ほし はしきりに嗟嘆 さたん し、「人 ひと はいたずらに生 い きるばかりが能事 のうじ ではない」と悲 かな しみ、門弟 もんてい の野沢 のざわ から日頃 ひごろ 唱 とな えているベンサムの功利 こうり 主義 しゅぎ と違 ちが うではないかといわれ、「昔 むかし と全 まった く違 ちが った。今 いま は国 くに のためには命 いのち を惜 お しまぬ」と答 こた えたという。[ 29]
反 はん エリート - 掛 か け値 ね なしの貧民 ひんみん の出 だし であり、出自 しゅつじ に恵 めぐ まれた知的 ちてき エリートには反感 はんかん を持 も ち、生涯 しょうがい 相容 あいい れなかった。ロンドンのミドル・テンプル法 ほう 学院 がくいん で同窓 どうそう だった馬場 ばば 辰猪 たつい は土佐 とさ 藩 はん 上士 じょうし の家 いえ に生 う まれた藩 はん 費 ひ 留学生 りゅうがくせい であったが、一度 いちど 議論 ぎろん の果 は てに掴 つか み合 あ いの喧嘩 けんか に終 お わり、それきり交際 こうさい は無 な かったという。1883年 ねん の改 あらため 進 しん 党 とう 攻撃 こうげき に加 くわ わり、その後 ご も度々 たびたび 改 あらため 進 しん 党 とう を偽 にせ 党 とう 呼 よ ばわりしたのも、小野 おの 梓 あずさ 、島田 しまだ 三郎 さぶろう をはじめとする順境 じゅんきょう を歩 あゆ んだ知的 ちてき エリートに対 たい する増悪 ぞうあく 、エリート集団 しゅうだん であるのに民意 みんい の代弁 だいべん 者 しゃ をもって任 にん ずることに我慢 がまん が出来 でき なかったためである。[ 30]
星 ほし 亨 とおる の銅像 どうぞう - 墓所 はかしょ のある池上本門寺 いけがみほんもんじ 境内 けいだい には星 ほし の銅像 どうぞう が置 お かれていたが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の金属 きんぞく 供出 きょうしゅつ のため、台座 だいざ を残 のこ して撤去 てっきょ された。戦後 せんご 、遺族 いぞく により台座 だいざ は寄進 きしん されたものの、現在 げんざい は日蓮 にちれん 上人 しょうにん の像 ぞう が置 お かれている。
数々 かずかず の汚職 おしょく 疑惑 ぎわく で当時 とうじ から金権 きんけん 政治 せいじ の権化 ごんげ と評 ひょう されているが、私生活 しせいかつ では慎 つつ ましく実直 じっちょく であったと言 い われる。後任 こうにん の逓信 ていしん 大臣 だいじん 原 はら 敬 たかし も「淡泊 たんぱく の人 ひと にして金銭 きんせん についてはきれいな男 おとこ 」と評 ひょう し、また、中村 なかむら 菊男 きくお によれば「世間 せけん に伝 つた えられているスキャンダルは、政敵 せいてき の悪 あく 宣伝 せんでん か、門下生 もんかせい や壮士 そうし のそれが多 おお かったものと思 おも われる」という[ 31] 。星 ほし の存命 ぞんめい 中 ちゅう はもとより現代 げんだい の政治 せいじ 家 か でも妾 わらわ を持 も つことは珍 めずら しくないが、女性 じょせい 関係 かんけい の潔癖 けっぺき さは星 ほし を非難 ひなん している側 がわ でさえも認 みと めざるを得 え ず、また、書生 しょせい を含 ふく めて家中 いえじゅう の者 もの には愛情 あいじょう を持 も って接 せっ したと伝 つた えられる。自 みずか らの資産 しさん 形成 けいせい に関 かん してもあまり意 い を用 もち いなかったと見 み られ、暗殺 あんさつ 後 ご に明 あき らかになった星 ほし の遺産 いさん は1万 まん 円 えん 余 あま りの借財 しゃくざい のみだったという。
利光 としみつ 鶴松 つるまつ 、小林 こばやし 清一郎 せいいちろう 、大塚 おおつか 常次郎 つねじろう 、横田 よこた 千 せん 之 これ 助 すけ 、渡辺 わたなべ 亨 とおる 、磯部 いそべ 保次 やすじ 、林 はやし 謙吉 けんきち 郎 ろう 、小久保 こくぼ 喜七 きしち 、日向 ひゅうが 輝武 てるたけ 、井上 いのうえ 敬次郎 けいじろう 、渡辺 わたなべ 勘 かん 十 じゅう 郎 ろう 、菅原 すがわら 伝 つたえ などがいる[ 32] [ 33] 。
星 ほし は海外 かいがい 経験 けいけん を積 つ ませて党 とう の原動力 げんどうりょく とする狙 ねら いから渡米 とべい 者 しゃ の一部 いちぶ を支援 しえん し、帰国 きこく 後 ご には自由 じゆう 倶楽部 くらぶ 員 いん を政党 せいとう 機関 きかん 紙 し 誌 し などの要職 ようしょく や移民 いみん 事業 じぎょう などに重用 じゅうよう した。彼 かれ らは星 ほし 派 は の中核 ちゅうかく を担 にな う人材 じんざい となり、自由 じゆう 倶楽部 くらぶ 員 いん も多 おお くが星 ほし 派 は に連 つら なり、壮士 そうし の政治 せいじ 上昇 じょうしょう の契機 けいき となった[ 34] 。
位階 いかい
勲章 くんしょう
『海外 かいがい 万国 ばんこく 偉績 いせき 叢 くさむら 伝 でん 』萬 まん 巻 かん 楼 ろう (全 ぜん 4巻 かん )、1872年 ねん 。
『印紙 いんし 税 ぜい 略説 りゃくせつ 』大蔵省 おおくらしょう (有島 ありしま 武 たけ 共 ども 訳 やく )、1873年 ねん 。
『各国 かっこく 国会 こっかい 要覧 ようらん 』麗 うらら 沢 さわ 館 かん 、1886年 ねん 。
『英国 えいこく 法律 ほうりつ 全書 ぜんしょ 』東生 とうせい 亀次郎 かめじろう 、1873-78年 ねん (底本 ていほん はウィリアム・ブラックストン の著書 ちょしょ の短縮 たんしゅく 版 ばん )[ 38] 。
^ a b c d e f g 松尾 まつお 章一 しょういち 「星 ほし 亨 とおる 」『日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)』小学館 しょうがくかん 及 およ び「星 ほし 亨 とおる 」『ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん 』Britannica Japan(コトバンク 参照 さんしょう )。
^ 『新 しん 訂 てい 政治 せいじ 家人 かじん 名 めい 事典 じてん 明治 めいじ ~昭和 しょうわ 』545頁 ぺーじ 。
^ 『新 しん 訂 てい 政治 せいじ 家人 かじん 名 めい 事典 じてん 明治 めいじ ~昭和 しょうわ 』546頁 ぺーじ 。
^ 明治 めいじ 編年史 へんねんし 編纂 へんさん 会 かい 『新聞 しんぶん 集成 しゅうせい 明治 めいじ 編年史 へんねんし 』 第 だい 11巻 かん 、168-169頁 ぺーじ :「星 ほし 逓相辞職 じしょく を強要 きょうよう せらる」『日本 にっぽん 』1900年 ねん 12月17日 にち 、「星 ほし 逓信 ていしん 大臣 だいじん 遂 つい に辞表 じひょう 提出 ていしゅつ 」『時事新報 じじしんぽう 』同年 どうねん 12月 がつ 22日 にち (国立 こくりつ 国会 こっかい 図書 としょ 所蔵 しょぞう )。
^ 中嶋 なかじま 繁雄 しげお 『明治 めいじ の事件 じけん 史 し ―日本人 にっぽんじん の本当 ほんとう の姿 すがた が見 み えてくる!』 青春 せいしゅん 出版 しゅっぱん 社 しゃ (青春 せいしゅん 文庫 ぶんこ )、2004年 ねん 、206-207頁 ぺーじ 。
^ 権田 ごんだ 益美 ますみ 「横浜 よこはま 開港 かいこう 場 じょう における英語 えいご 教育 きょういく −ヘボンを介 かい して開設 かいせつ した『横浜 よこはま 英学 えいがく 所 しょ 』」『郷土 きょうど 神奈川 かながわ 』55号 ごう 、神奈川 かながわ 県立 けんりつ 図書館 としょかん 、2017年 ねん 3月 がつ 。
^ a b c d 石井 いしい 重光 しげみつ 「星 ほし 亨 とおる 英学 えいがく と近代 きんだい 主義 しゅぎ 」『近畿大学 きんきだいがく 語学 ごがく 教育 きょういく 部 ぶ 紀要 きよう 』第 だい 5巻 かん 1号 ごう 、2005年 ねん 7月 がつ 。
^ 後年 こうねん 大蔵省 おおくらしょう 出仕 しゅっし となる際 さい の肩書 かたが き参照 さんしょう (国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん 所蔵 しょぞう 「和歌山 わかやま 県 けん 貫 ぬき 属 ぞく 星 ほし 亨 とおる 租税 そぜい 寮 りょう 七 なな 等 とう 出仕 しゅっし 被 ひ 命 いのち ノ件 けん 」明治 めいじ 5年 ねん 9月 がつ )。
^ a b 国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん 「横浜 よこはま 税関 ぜいかん 長 ちょう 租税 そぜい 権助 ごんすけ 星 ほし 亨 とおる 英国 えいこく 領事 りょうじ ニ贈 おく 書中 しょちゅう 女王 じょおう ノ文字 もじ ヲ記載 きさい セル罪 ざい ヲ贖フ 」明治 めいじ 7年 ねん 6月 がつ 28日 にち 参照 さんしょう (外務省 がいむしょう によるパークス・寺島 てらしま 会談 かいだん 、大蔵省 おおくらしょう による経緯 けいい 取調 とりしらべ 、星 ほし 本人 ほんにん 、司法省 しほうしょう の上申 じょうしん 書 しょ 及 およ び翻訳 ほんやく 書翰 しょかん の写 うつ しを収録 しゅうろく )。
^ 星 ほし のミドル・テンプル入学 にゅうがく 及 およ び資格 しかく 取得 しゅとく 年 ねん に関 かん しては以下 いか の書籍 しょせき 参照 さんしょう 。Foster, Joseph (1885) . Men-at-the-bar: A Biographical Hand-list of the Members of the Various Inns of Court, Including Her Majesty's Judges, Etc. (2nd ed.) , London: Printed for the author. 星 ほし についての記載 きさい (誤記 ごき 含 ふく む)は以下 いか の通 とお り:"Hoshi, Toru, a student of the Middle Temple 25 Jan., 1875, called to the bar 13 June, 1877 (only son of Taijinu Hoshi, of Tokio, Japan); born, 1851. Tokio, Japan" また、同 どう 時期 じき の英国 えいこく への留学生 りゅうがくせい については、井上 いのうえ 琢 みがく 智 さとし 「幕末 ばくまつ ・明治 めいじ ・大正 たいしょう 期 き イギリス日本人 にっぽんじん 留学生 りゅうがくせい 資料 しりょう (2)」『経済 けいざい 学 がく 論究 ろんきゅう 』第 だい 57巻 かん 、関西学院大学 かんせいがくいんだいがく 経済学部 けいざいがくぶ (2003年 ねん 4月 がつ )など参照 さんしょう 。
^ 福島 ふくしま 事件 じけん 及 およ び高等法院 こうとうほういん 裁判 さいばん の概要 がいよう については、手塚 てづか 豊 ゆたか 「自由黨 じゆうとう 福島 ふくしま 事件 じけん と高等法院 こうとうほういん 」『法學 ほうがく 研究 けんきゅう :法律 ほうりつ ・政治 せいじ ・社会 しゃかい 』Vo1.32、No.11、慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 法学 ほうがく 研究 けんきゅう 会 かい (1959年 ねん )など参照 さんしょう 。
^ 『新聞 しんぶん 集成 しゅうせい 明治 めいじ 編年史 へんねんし 』第 だい 6巻 かん 、551-553頁 ぺーじ (国立 こくりつ 国会 こっかい 図書 としょ 所蔵 しょぞう ) 。
^ 『新聞 しんぶん 集成 しゅうせい 明治 めいじ 編年史 へんねんし 』第 だい 7巻 かん 、502-503頁 ぺーじ :「星 ほし 亨 とおる 帰朝 きちょう す」『東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん 』1890年 ねん 10月 がつ 9日 にち (国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 所蔵 しょぞう )。
^ 『衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ 一覧 いちらん 』1912年 ねん 2月 がつ (国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 所蔵 しょぞう )。
^ a b 中嶋 なかじま 繁雄 しげお 、前掲 ぜんけい 書 しょ 、204-205頁 ぺーじ 。
^ 『新聞 しんぶん 集成 しゅうせい 明治 めいじ 編年史 へんねんし 』第 だい 9巻 かん 、236頁 ぺーじ :「星 ほし 亨 とおる 朝鮮 ちょうせん 法務 ほうむ 顧問 こもん となる」『東京日日新聞 とうきょうにちにちしんぶん 』1895年 ねん 4月 がつ 14日 にち (国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 所蔵 しょぞう )。
^ 江戸 えど 人物 じんぶつ 事典 じてん 「星 ほし 亨 とおる 」(Weblio 辞書 じしょ 参照 さんしょう )。
^ 中嶋 なかじま 繁雄 しげお 、前掲 ぜんけい 書 しょ 、202-203頁 ぺーじ 。
^ “王 おう 仁三郎 じんざぶろう の予言 よげん ”. 愛 あい 善 ぜん 苑 えん 岡山 おかやま 分 ぶん 所 しょ . 2023年 ねん 7月 がつ 3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 三田 みた メディアセンター所蔵 しょぞう 「星 ほし 文庫 ぶんこ 」概要 がいよう :明治 めいじ 39年 ねん (1906年 ねん )星 ほし 光 ひかり および遺族 いぞく より慶應義塾 けいおうぎじゅく へ委託 いたく 、大正 たいしょう 2年 ねん (1913年 ねん )に正式 せいしき に寄贈 きぞう されました。江戸 えど から明治 めいじ にかけての和漢 わかん 書 しょ の古典 こてん と、政治 せいじ 、経済 けいざい 、法律 ほうりつ 資料 しりょう を中心 ちゅうしん とする、和漢 わかん 書 しょ 5732冊 さつ 、洋書 ようしょ 4817冊 さつ のほか、若干 じゃっかん の中国 ちゅうごく 書 しょ が含 ふく まれています。
^ 井上 いのうえ 敬次郎 けいじろう 「自叙伝 じじょでん 波乱 はらん 重畳 ちょうじょう の七 なな 十 じゅう 年 ねん (抄 しょう ) 」国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 電子 でんし 展示 てんじ 会 かい 「ブラジル移民 いみん の100年 ねん 」より。
^ 飯田 いいだ 耕 こう 二郎 じろう 「移民 いみん の魁 さきがけ ・星名 ほしな 謙一郎 けんいちろう のハワイ時代 じだい 後期 こうき : ワイアルア耕地 こうち 監督 かんとく ・新婚 しんこん の頃 ころ 」『大阪商業大学 おおさかしょうぎょうだいがく 論集 ろんしゅう 』第 だい 9巻 かん 第 だい 4号 ごう 、大阪商業大学 おおさかしょうぎょうだいがく 商 しょう 経 けい 学会 がっかい 、2014年 ねん 2月 がつ 、97-112頁 ぺーじ 、CRID 1520009408108450176 、ISSN 02870959 。
^ 有泉 ありいずみ 貞夫 さだお 『星 ほし 亨 とおる 』26-27頁 ぺーじ 。
^ 有泉 ありいずみ 貞夫 さだお 『星 ほし 亨 とおる 』32頁 ぺーじ 。
^ 野澤 のざわ 雞一、『星 ほし 亨 とおる とその時代 じだい 』1 86頁 ぺーじ 、2 93,97,111頁 ぺーじ 。
^ 前田 まえだ 蓮 れん 山 さん 、『星 ほし 亨 とおる 傳 でん 』108頁 ぺーじ 。
^ 有泉 ありいずみ 貞夫 さだお 『星 ほし 亨 とおる 』215頁 ぺーじ 。
^ 有泉 ありいずみ 貞夫 さだお 『星 ほし 亨 とおる 』
^ 有泉 ありいずみ 亨 とおる 、『星 ほし 亨 とおる 』86頁 ぺーじ 。
^ 有泉 ありいずみ 亨 とおる 、『星 ほし 亨 とおる 』37,75頁 ぺーじ 。
^ 中嶋 なかじま 繁雄 しげお 、前掲 ぜんけい 書 しょ 、206頁 ぺーじ 。
^ 有磯 ありいそ 逸郎 いつお (横山 よこやま 源之助 げんのすけ )「移民 いみん 界 かい の活動 かつどう 者 しゃ 」〜移民 いみん の散布 さんぷ 地図 ちず 、国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 電子 でんし 展示 てんじ 会 かい 「ブラジル移民 いみん の100年 ねん 」より。
^ 「鬼怒川 きぬがわ 水 すい 電 でん を倒 たお せ」『東京 とうきょう 毎日新聞 まいにちしんぶん 』1912年 ねん 12月2日 にち -12月10日 とおか (神戸大学 こうべだいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん デジタルアーカイブ・新聞 しんぶん 記事 きじ 文庫 ぶんこ 参照 さんしょう )。
^ 海野 うみの 大地 だいち 「官民 かんみん 調和 ちょうわ への移行 いこう と院外 いんがい 者 しゃ ―20世紀 せいき 転換期 てんかんき における自由党 じゆうとう 系 けい 青年 せいねん 運動 うんどう を通 とお して 」『立命館大学 りつめいかんだいがく 人文 じんぶん 科学 かがく 研究所 けんきゅうじょ 紀要 きよう 』117号 ごう 、立命館大学 りつめいかんだいがく 人文 じんぶん 科学 かがく 研究所 けんきゅうじょ 、2019年 ねん 。
^ 国立 こくりつ 国会図書館 こっかいとしょかん 所蔵 しょぞう 『太政官 だじょうかん 日誌 にっし 明治 めいじ 七 なな 年 ねん 』第 だい 24号 ごう (コマ番号 ばんごう 110参照 さんしょう )。
^ 『官報 かんぽう 』第 だい 5210号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1900年 ねん 11月12日 にち 。
^ a b 『官報 かんぽう 』第 だい 5391号 ごう 「叙任 じょにん 及辞令 れい 」1901年 ねん 6月 がつ 23日 にち 。
^ 首巻 しゅかん 及 およ び附録 ふろく の序文 じょぶん によれば、本編 ほんぺん 部分 ぶぶん の底本 ていほん は1867年 ねん 刊行 かんこう の英国 えいこく 裁判官 さいばんかん R. Malcolm Kerr(馬 うま 耳 みみ 幹 みき 格 かく 爾 なんじ )編纂 へんさん による短縮 たんしゅく 版 ばん The Student's Blackstone (斯周典 てん 徳 とく 貌刺屈 こごめ 斯的翁 おきな )。また、附録 ふろく の底本 ていほん は英国 えいこく 留学 りゅうがく で入手 にゅうしゅ した1876年 ねん 発兌 はつだ のもので、前掲 ぜんけい 書 しょ 以降 いこう の英国 えいこく 法 ほう の改革 かいかく ・異同 いどう が抄録 しょうろく されているという。
映画 えいが
テレビドラマ
代理 だいり 公使 こうし ・弁理 べんり 公使 こうし 特命 とくめい 全権 ぜんけん 公使 こうし 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし 在外 ざいがい 事務所 じむしょ 長 ちょう 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし
a 外務 がいむ 少 しょう 輔・外務 がいむ 卿 きょう 代理 だいり を一時期 いちじき 兼 か ねる b 再任 さいにん c 遣 や アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし (在 ざい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし の野村 のむら に加 くわ えての大使 たいし ) d 1941年 ねん 12月の日米 にちべい 開戦 かいせん 後 ご に大使館 たいしかん が閉鎖 へいさ されたため実質 じっしつ 的 てき に失職 しっしょく 、両 りょう 名 な は翌年 よくねん 8月 がつ の抑留 よくりゅう 者 しゃ 交換 こうかん 船 せん で帰朝 きちょう
逓信 ていしん 大臣 だいじん (第 だい 1期 き )通信 つうしん 院 いん 総裁 そうさい (運輸 うんゆ 通信 つうしん 省 しょう )逓信 ていしん 院 いん 総裁 そうさい (内閣 ないかく )逓信 ていしん 大臣 だいじん (第 だい 2期 き )
カテゴリ