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ほしとおる

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ほし とおる
ほし とおる
生年月日せいねんがっぴ 1850ねん5月19にち
よしみひさし3ねん4がつ8にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 武蔵むさしこく江戸えど築地つきじ小田原おだわらまち
げん東京とうきょう中央ちゅうおう築地つきじ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1901-06-21) 1901ねん6月21にち(51さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう
出身しゅっしんこう 高島たかしま学校がっこう
ヘボンじゅくげん明治学院大学めいじがくいんだいがく
ミドル・テンプル
ぜんしょく 官僚かんりょう
弁護士べんごし
所属しょぞく政党せいとう自由党じゆうとう→)
憲政けんせいとう→)
立憲りっけん政友せいゆうかい
称号しょうごう したがえろく

内閣ないかく だい4伊藤いとう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1900ねん10月19にち - 1900ねん12月21にち

在任ざいにん期間きかん 1892ねん5月3にち - 1893ねん12月13にち
天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう
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ほし とおる(ほし とおる、よしみひさし3ねん4がつ8にち1850ねん5月19にち〉 - 明治めいじ34ねん1901ねん6月21にち)は、日本にっぽん英学えいがくしゃ弁護士べんごし政治せいじ

概要がいよう

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江戸えど築地つきじ左官さかん職人しょくにんまれる。明治維新めいじいしんのち横浜よこはま税関ぜいかんちょうとなり、のちわたりすぐるして法廷ほうてい弁護士べんごし(バリスタ)資格しかく取得しゅとく日本にっぽんでも代言だいげんじん弁護士べんごし)となる[1]

1882ねん明治めいじ15ねん)、自由党じゆうとう入党にゅうとうし、『自由じゆう新聞しんぶん』の経営けいえい参加さんか1884ねん明治めいじ17ねん)にはみずか新聞しんぶん自由じゆうとう』を創刊そうかんし、政府せいふ批判ひはん論客ろんかくとなったが、その前後ぜんご官吏かんり侮辱ぶじょくざいなどで2かい入獄にゅうごく1887ねん明治めいじ20ねん)には在野ざいや各党かくとう大同団結だいどうだんけつ運動うんどう推進すいしんした[1][2]

1892ねん明治めいじ25ねん)、だい2かいそう選挙せんきょ当選とうせんし、衆議院しゅうぎいん議長ぎちょうつとめた。翌年よくねん後藤ごとう象二しょうじろうとともに取引とりひきしょ設置せっちをめぐる疑獄ぎごく事件じけん連座れんざして除名じょめいされたが、議長ぎちょう解任かいにん決議けつぎすうにわたって無視むしし、登院とういんしたことでられる[1]

にちしん戦争せんそう韓国かんこく法律ほうりつ顧問こもん就任しゅうにんし、1896ねん明治めいじ29ねん)には駐米ちゅうべい公使こうし就任しゅうにん1898ねん明治めいじ31ねん)に憲政けんせいとう内閣ないかくくまいたないかく)が誕生たんじょうすると帰国きこくして憲政けんせいとう分裂ぶんれつさせ、1900ねん明治めいじ33ねん)に伊藤いとう博文ひろぶみとともに立憲りっけん政友せいゆうかい結党けっとうした。同年どうねんだい4伊藤いとう内閣ないかく逓信ていしんしょうとしてはつ入閣にゅうかくしたが、東京とうきょう疑獄ぎごく事件じけん中心ちゅうしん人物じんぶつされ辞職じしょく[1][3][4]1901ねん明治めいじ34ねん)、伊庭いば想太郎そうたろう刺殺さしころされた[1]

生前せいぜん金権きんけん党利とうり党略とうりゃくとしてはげしく批判ひはんされたが、実際じっさいくに立憲りっけん体制たいせい根付ねつかせ、独立どくりつ不羈ふき強国きょうこくとしなければならないというつよおもいにつらぬかれていた。 その勉強べんきょうりはすさまじく獄中ごくちゅうでも当時とうじ最先端さいせんたん経済けいざいしょであるジェヴォンズやマクラウドを原書げんしょんでいた。

ほし政治せいじ主張しゅちょう手法しゅほうは、積極せっきょくてき建設けんせつ主義しゅぎ(Positive constructive)であり、軍事ぐんじ拡張かくちょう産業さんぎょう発展はってんにより日本にっぽん独立どくりつくにとすること、その手法しゅほうとして地方ちほうからの港湾こうわん鉄道てつどう大学だいがくとうのインフラ整備せいび要望ようぼう政党せいとう実現じつげんし、地域ちいきへの利益りえき誘導ゆうどうはかり、支持しじ獲得かくとく党勢とうせい拡大かくだい目指めざ日本にっぽんがた政党せいとう政治せいじ原型げんけいきずいたとされる。自身じしん独立どくりつ不羈ふきほしは、自由党じゆうとう政友せいゆうかい中心ちゅうしんとしたくに立憲りっけん体制たいせい確立かくりつ積極せっきょく主義しゅぎによる国力こくりょく増強ぞうきょう決定的けっていてき役割やくわりたした。

生涯しょうがい

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旧暦きゅうれきよしみひさし3ねん4がつ1850ねん5がつ)、江戸えど築地つきじ小田原おだわらまちげん東京とうきょう中央ちゅうおう築地つきじ)に、左官さかん職人しょくにんつくだ徳兵衛とくべえ長男ちょうなんとしてまれる(幼名ようみょう浜吉はまきち)。ははまつ相模さがみこく浦賀うらが漁夫ぎょふむすめ)。二人ふたりあねがいた。徳兵衛とくべえ破産はさん失踪しっそうむすめにん奉公ほうこうし、まつ浜吉はまきちれて漢方かんぽうほしやすしじゅん再婚さいこんほしせい名乗なのった[5]

一家いっか横浜よこはま転居てんきょ神奈川かながわ奉行ぶぎょうところづけ蘭方らんぽう渡辺わたなべさだあん弟子でしりし、そのつてで、通商つうしょうじょう英語えいごのできる人材じんざい育成いくせいのために幕府ばくふ設立せつりつした横浜よこはま英学えいがくしょ文久ぶんきゅう2ねん設立せつりつヘボン設立せつりつ教授きょうじゅ参画さんかく[6])で英学えいがくまなはじめた。その江戸えど持参じさんきんやくして御家人ごけにん小泉こいずみ養子ようしとなり、役務えきむとして幕府ばくふ陸軍りくぐんさん兵隊へいたい文久ぶんきゅう2ねん創設そうせつ)の軍事ぐんじ調練ちょうれんくわわるが挫折ざせつ(のち養子ようし破談はだん)。開成かいせいしょ教授きょうじゅ前島まえじまひそかいえじゅくはいり、前島まえじま仲介ちゅうかい慶応けいおう3ねん1867ねん)に開成かいせいしょ入所にゅうしょ英語えいご世話ぜわやく心得こころえされ仏語ふつごまなんだ。さらに同所どうしょ教授きょうじゅなにれい私塾しじゅくうつり、同年どうねん10がつなに海軍かいぐんしょ転出てんしゅつするさい、その推薦すいせん同所どうしょ英語えいご世話ぜわやくとなったが、戊辰戦争ぼしんせんそう勃発ぼっぱつにより3かげつ失職しっしょく横浜よこはま居留きょりゅうで『万国ばんこく新聞紙しんぶんし』を発行はっこうしていた英国えいこく領事館りょうじかんづけ牧師ぼくしマイケル・ベイリー手伝てつだい、英字えいじ新聞しんぶん翻訳ほんやく日銭ひぜにかせいだ[7]

明治めいじ元年がんねん1868ねん)、開成かいせいしょ同窓生どうそうせいらのえん若狭わかさこく小浜おばまはんえい学校がっこう教師きょうし、さらに大阪おおさかうつったなにれいの瓊江じゅくじょきょうとなり、明治めいじ2ねん9がつ1869ねん10がつ)にはなに設立せつりつ尽力じんりょくした大阪おおさかよう学校がっこう訓導くんどう翌年よくねん同校どうこう大学南だいがくみなみこう分校ぶんこう大阪おおさか開成かいせいしょ)となるとしょうじょきょうとなった。まもなく、陸奥むつ宗光むねみつから洋学ようがく教師きょうし人選じんせん依頼いらいされたなん推薦すいせんで、大阪おおさか和歌山わかやまはんやしき洋学ようがくじょきょうとしておしえ、のちどうはんへい学寮がくりょう明治めいじ2ねんまつ設置せっち出仕しゅっしとなった[7]

廃藩置県はいはんちけん明治めいじ4ねん8がつ1871ねん10がつ)に陸奥みちのく神奈川かながわ県知事けんちじ就任しゅうにんすると、どう時期じきほし和歌山わかやまけんぬきぞく身分みぶん[8]横浜よこはまえい学校がっこうおさむぶんかん教師きょうし就任しゅうにん明治めいじ5ねん3がつ1872ねん4がつ)、神奈川かながわけんとうやくかんされ、学校がっこう事務じむ取扱とりあつかいとしておさむぶんかん啓行ひろゆきどう教頭きょうとうにんぜられた[7]。さらに、大蔵省おおくらしょう租税そぜいあたま兼任けんにんとなった陸奥みちのくてにより、同年どうねん4がつ大蔵省おおくらしょうやとい、9月には租税そぜいりょうななとう出仕しゅっしとなり、新暦しんれき1874ねん明治めいじ7ねん)1がつ横浜よこはま税関ぜいかんちょう租税そぜい権助ごんすけしたがえろく)に抜擢ばってきされた。ところが同年どうねん5がつ、いわゆる「女王じょおう事件じけん[9]こし、7がつ非職ひしょくあつかいとなった。

まもなく、同年どうねん9がつ太政官だじょうかんより英国えいこく留学りゅうがくめいぜられ、翌月よくげつ横浜よこはま出航しゅっこう1875ねん明治めいじ8ねん)1がつ、ロンドンのミドル・テンプル(4だい法曹ほうそういんひとつ)に入学にゅうがく1877ねん明治めいじ10ねん)6がつには法廷ほうてい弁護士べんごし Barrister 資格しかく取得しゅとくしゃとなった[7][10]帰国きこく1878ねん明治めいじ11ねん)2がつには、司法省しほうしょう付属ふぞく代言だいげんじん弁護士べんごし)のだいいちごうとなった[1]はつだい仕事しごとである高島たかしま炭鉱たんこう事件じけんでの後藤ごとう象二しょうじろう弁護べんご一挙いっきょたかめ、官庁かんちょう依頼いらい訴訟そしょうでは高額こうがく弁護べんごりょう要求ようきゅうし、財産ざいさんきずく。

1882ねん明治めいじ15ねん)、前年ぜんねん10がつ結成けっせいされた自由党じゆうとう(84ねん10がつ解散かいさん)に入党にゅうとうし、機関きかん自由じゆう新聞しんぶん』の経営けいえい参加さんか以降いこう民権みんけん運動うんどうほか領袖りょうしゅうたちが機会きかい主義しゅぎてき右顧左眄うこさべんするなかで、一貫いっかんして自由党じゆうとう維持いじ運動うんどう再建さいけん尽力じんりょくする。1883ねん明治めいじ16ねん)4がつとう大会たいかいつね議員ぎいん就任しゅうにん。7月よりざいほうもとづくはつ高等法院こうとうほういん裁判さいばんとして福島ふくしま事件じけん国事犯こくじはん審理しんり東京とうきょう高等法院こうとうほういんひらかれたさいほし被告ひこく河野こうのひろしなか弁護人べんごにんつとめた[11]。6月、とう総理そうり板垣いたがき退助たいすけ欧州おうしゅう漫遊まんゆうから帰国きこく藩閥はんばつ政府せいふとの対抗たいこうする意欲いよくうしない、総理そうり辞任じにん自由党じゆうとう解党かいとうとなえるがめ、よく1884ねん明治めいじ17ねん)3がつとう大会たいかい板垣いたがき総理そうり再任さいにん承諾しょうだくさせた。5月に新聞しんぶん自由じゆうとう』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ売却ばいきゃくし、「東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん」となる)を創刊そうかん同年どうねん9がつ22にち前日ぜんじつ演説えんぜつ官吏かんり侮辱ぶじょくざいにあたるとして新潟にいがた逮捕たいほされ、12月18にち新潟にいがたけいざい裁判所さいばんしょじゅう禁固きんこ6かげつ罰金ばっきん40えん判決はんけつ。このあいだ9がつ自由じゆう党員とういんによる加波山かばさん事件じけん出来でかし、責任せきにん追及ついきゅうおそれた板垣いたがき土佐とさほし不在ふざいの11月のとう大会たいかい解党かいとう決議けつぎ。 また、1885ねん明治めいじ18ねんまつ発覚はっかくした大阪おおさか事件じけんをめぐる裁判さいばんでは大井おおい憲太郎けんたろうらを弁護べんごした。

1886ねん明治めいじ19ねん)10がつ24にちほし中江なかえ兆民ちょうみんらが発起人ほっきにんとなり、東京とうきょうきゅう自由じゆう党員とういん中心ちゅうしん全国ぜんこく有志ゆうし懇親こんしんかいひらき、ほしらは小異しょういてて大同団結だいどうだんけつすべしと主張しゅちょう藩閥はんばつ政治せいじ批判ひはんし、1887ねん明治めいじ20ねん)のさんだい事件じけん建白けんぱく運動うんどう参加さんかした。これがきっかけで、保安ほあん条例じょうれい東京とうきょうわれ[12]出版しゅっぱん条例じょうれい違反いはん投獄とうごくされる。

釈放しゃくほう1888ねん明治めいじ21ねん)に日本にっぽんち、カナダに7かげつ、そのワシントンしゅうニューヨークに3かげつ英国えいこくに1ねん、さらにドイツ帝国ていこく(ベルリン)に滞在たいざいし、1890ねん明治めいじ23ねん)に帰国きこく[13]。この外遊がいゆう日本にっぽん民権みんけん運動うんどう意義いぎうったえたがまった相手あいてにされず、日本にっぽん西洋せいようじん眼中がんちゅうにないことを痛感つうかん、それまでの民力みんりょく休養きゅうようろんしゃから、他国たこくから畏敬いけいされ国勢こくせい発展はってんさせるための租税そぜい増徴ぞうちょう軍備ぐんび増強ぞうきょうとする富国強兵ふこくきょうへい立場たちば転向てんこうし、同年どうねん結成けっせい立憲りっけん自由党じゆうとう参加さんかした[1]

1892ねん明治めいじ25ねん)、みずからの衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう就任しゅうにん公約こうやくとしてだい2かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ栃木とちぎけんだい1から出馬しゅつば当選とうせんたした[14]陸奥むつ宗光むねみつ意向いこうけ、「独立どくりつ倶楽部くらぶ」をほし支持しじでまとめた岡崎おかざきくに奔走ほんそうもあり、だい2だい議長ぎちょう選出せんしゅつされた。だいさん議会ぎかいでは陸奥みちのく指示しじもあり、松方まつかた内閣ないかくきびしくめた。内閣ないかく弾劾だんがい決議けつぎ可決かけつされ、追加ついか予算よさん削除さくじょされ、まれた松方まつかた内閣ないかく辞職じしょくした。いで成立せいりつした元勲げんくん総出そうでだい2伊藤いとう内閣ないかくに、天皇てんのうから不信ふしんこうむっていた陸奥みちのく外相がいしょうとして入閣にゅうかくしたのは、元老げんろうほし主導しゅどうする自由党じゆうとうとの協調きょうちょうなくしては議会ぎかい政治せいじ運営うんえい不可能ふかのうであることをさとったことによる。

だいよん議会ぎかいまえ自由党じゆうとう幹部かんぶは「世間せけん風評ふうひょうかまわずくまで積極せっきょくてき建設けんせつ主義しゅぎ(Positive constructive)の方針ほうしんり、この主義しゅぎうものはすべ採用さいようすること、吏党とかみんとうとか批評ひひょうかまわざること」を決議けつぎし、だいよん議会ぎかいにおいては陸奥みちのく協調きょうちょうし、自由党じゆうとう強引ごういん伊藤いとう内閣ないかく支持しじ転換てんかんさせ、予算よさんあんかんする「和協わきょう詔勅しょうちょく」の受諾じゅだく党内とうないをまとめた。これは藩閥はんばつ政府せいふたいみんとうという構図こうず崩壊ほうかいさせた日本にっぽん政治せいじ史上しじょう最大さいだいであり、議会ぎかいだいいちとう政府せいふ批判ひはんするのみでなく、国家こっかてき見地けんちち、政府せいふとの妥協だきょう調整ちょうせいとおして施策しさく責任せきにん体制たいせい濫觴らんしょうであり、その政友せいゆうかい自民党じみんとうがれた日本にっぽん立憲りっけん政党せいとう政治せいじ確立かくりつへのおおきないちであった。しかしその過程かていで、地租ちそ軽減けいげん公約こうやくとしていた党内とうないみんとう連合れんごうこわされたあらためしんとう存在そんざい軽視けいしされた吏党議員ぎいんからはうらみをうこととなり、その憎悪ぞうおほし議長ぎちょうたいする不信任ふしんにんとして噴出ふんしゅつした。

1893ねん明治めいじ26ねん)11月29にち衆議院しゅうぎいんにて相馬そうま事件じけん被告ひこく弁護べんご取引とりひきしょからの収賄しゅうわい疑惑ぎわくなどにより議長ぎちょう不信任ふしんにんあん可決かけつされる[15]ほし議長ぎちょう辞職じしょく拒否きょひしたため、さらに12月1にち議長ぎちょう不信任ふしんにん上奏じょうそうあん可決かけつされた。よく2にち明治天皇めいじてんのう上奏じょうそう議長ぎちょう更迭こうてつ請願せいがんか、議院ぎいん不明ふめいしゃするのかと質問しつもんし、衆議院しゅうぎいん後者こうしゃとする奉答ほうとうあん可決かけつ。12月5にち衆議院しゅうぎいん議院ぎいんほうだい96じょうもとづきぼしたいしていち週間しゅうかん登院とういん停止ていし懲罰ちょうばつ、さらにどう13にちにはもっとおも懲罰ちょうばつである議員ぎいん除名じょめい議決ぎけつされた。しかし、3かげつ衆院しゅういん選挙せんきょ再選さいせんされ、政界せいかい復帰ふっきした。

その政務せいむ委員いいんとしてとう幹部かんぶかえくが、苛烈かれつ選挙せんきょ莫大ばくだい借金しゃっきんのこし、にちしん戦争せんそう開戦かいせんによる挙国一致きょこくいっちムードのなか政争せいそう棚上たなあげとなり、ほし活動かつどううしなわれた。失意しついなか朝鮮ちょうせん視察しさつおもむき、井上いのうえかおるちゅうあさ公使こうしから朝鮮ちょうせん経営けいえい参画さんかくするようすすめられ、1895ねん明治めいじ28ねん)3がつ朝鮮ちょうせんわた法務ほうむ部門ぶもん顧問こもんとなる[16]。しかし、さんこく干渉かんしょうにより朝鮮ちょうせんでの日本にっぽん権威けんい失墜しっついし、ほし親日しんにち内部ないぶ大臣だいじんほおおよげこう閔妃びんびらせ、宮廷きゅうていにぎろうと画策かくさくするが失敗しっぱい、8がつには井上いのうえ公使こうし辞任じにんした。後任こうにん三浦みうら梧楼ごろうからは軽視けいしされ、10月の閔妃びんび暗殺あんさつ事件じけんでも計画けいかく埒外らちがいかれ、善後ぜんごさく協議きょうぎのための使者ししゃとして東京とうきょうかい、そのまま朝鮮ちょうせんへはもどらなかった。

自由党じゆうとう伊藤いとう内閣ないかくとの提携ていけいもっぱはやしゆうづくり伊東いとう巳代治みよじとのあいだ維持いじされたためほし出番でばんく、陸奥みちのくにちしん戦争せんそう終結しゅうけつ心労しんろうから病床びょうしょうにあった。板垣いたがき入閣にゅうかく問題もんだい伊藤いとうていむなどしたが、すで党内とうない全体ぜんたい政府せいふとの提携ていけい是認ぜにんしている状況じょうきょうでは、少数しょうすう関東かんとうひきいるほし主導しゅどうけんることはかなわず、党内とうない孤立こりつしたほし1896ねん明治めいじ29ねん)2がつ伊藤いとう博文ひろぶみ外国がいこくきの希望きぼうらす。 4月に駐米ちゅうべい公使こうし任命にんめいされ、関東かんとう陸奥みちのくたく渡米とべいした。このあいだ法典ほうてん調査ちょうさかい委員いいん鉄道てつどう国有こくゆう調査ちょうさかい委員いいんなどにもにんぜられた。

1898ねん明治めいじ31ねん)のだい1大隈おおくま内閣ないかくくまいたないかくでは、外務がいむ大臣だいじんとして入閣にゅうかくする予定よていであったが、大隈おおくま重信しげのぶ首相しゅしょうがこれを拒否きょひ憲政けんせいとう分裂ぶんれつ原因げんいんとなった。1899ねん明治めいじ32ねん)の憲政けんせいとう東北とうほく出張所しゅっちょうしょ開設かいせつしきにおいて、東北とうほく築港ちっこう東北とうほく鉄道てつどう完成かんせい東北大学とうほくだいがく設置せっち決議けつぎ。 「自由党じゆうとう専制せんせい昔時せきじにおいて破壊はかい運動うんどうをなせるも、憲政けんせい今日きょう積極せっきょくてき建設けんせつ運動うんどうをなしつつあるものなり」とし、「経済けいざい交通こうつうにおいて西南せいなんしておと東北とうほく鉄道てつどう築港ちっこうとう建設けんせつ主義しゅぎらなければならない、自由党じゆうとう東北とうほくにおいてかならとう事業じぎょう成就じょうじゅしなければ責任せきにんまっとうしたものでない」とする、日本にっぽん政党せいとう史上しじょう画期的かっきてき演説えんぜつをなす。それまで、田舎いなか代議士だいぎし機嫌きげんるための厄介やっかいごととかんがえられていた地方ちほうてき利益りえき実現じつげん要求ようきゅうを、利用りようすべき資源しげんとらえて積極せっきょくてき喚起かんきし、その実現じつげん政府せいふ提携ていけいする政党せいとう期待きたいさせることで党勢とうせい拡大かくだいはか戦略せんりゃく開発かいはつ確立かくりつした。1900ねん明治めいじ33ねん発足ほっそく立憲りっけん政友せいゆうかい参加さんかしたことで伊藤いとう博文ひろぶみから信頼しんらいけ、だい4伊藤いとう内閣ないかくにおいて逓信ていしん大臣だいじんとしてはつ入閣にゅうかく。そのたくましい政治せいじ手腕しゅわんから「おしとおる」と渾名あだなされた。収賄しゅうわいなどのうわさえなかったが、ほし活躍かつやくへの嫉妬しっとによるもので本人ほんにん金銭きんせん無頓着むとんじゃくであった。[15][17]

1900ねん明治めいじ33ねん)11月15にち東京とうきょうかい汚職おしょく事件じけんかんして参事さんじ会員かいいん兼任けんにんしていたほし逓信ていしんしょうらが告発こくはつされ、12月20にちぼし辞表じひょう提出ていしゅつ同月どうげつ22にちはらたかし後任こうにんとして任命にんめいされた。日本にっぽん裏面りめんよりれば、さん多摩たま村野むらのつねみぎ衛門えもん森久保もりくぼ作蔵さくぞうなど大阪おおさか事件じけん以降いこう自由党じゆうとう右派うは壮士そうしたちを政界せいかいれていることから、たとえほし自身じしん金銭きんせんてき潔白けっぱくであるとしても、東京とうきょうせい疑獄ぎごく数々かずかずにはほし責任せきにんおおきいとわれる。

1901ねん明治めいじ34ねん)6がつ21にち午後ごご3ぎ、東京とうきょうかい議長ぎちょう就任しゅうにんしていたほしは、東京とうきょう市庁しちょう参事さんじ会議かいぎごと室内しつない市長しちょう助役じょやく参事さんじ会議かいぎいんらと懇談こんだんちゅうもと東京とうきょう四谷よつや学務がくむ委員いいん伊庭いば想太郎そうたろうしんがたがたなりゅう剣術けんじゅつだい10代宗家そうけ)によって刺殺しさつされた[18]まん51さいぼつ。その2ねんまえほし静岡しずおかけん長沢ながさわつよしたてたくにて、大本おおもと出口いでぐち王仁三郎おにさぶろう会談かいだんし、出口でぐち予言よげんされていた[19]墓所はかしょ東京とうきょう大田おおた池上本門寺いけがみほんもんじ

つまほしつな(奈、つな綱子つなこ)、養嗣子ようししほしひかり家督かとく相続そうぞくした。

1913ねん大正たいしょう2ねん)、ほしひかりおよび遺族いぞくは1まんさつあまり蔵書ぞうしょ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく寄贈きぞう、「ほし文庫ぶんこ」として保管ほかんされている[20]

移民いみん政策せいさく推進すいしん

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1894ねん明治めいじ27ねん)、かんやく移民いみん廃止はいしにあたって、ほしわたしやく移民いみん体制たいせい設置せっち日本にっぽん政府せいふはたらきかけ、民間みんかん移民いみん会社かいしゃ認可にんかけた。以後いご日本にっぽん民間みんかん会社かいしゃとおした斡旋あっせんおこなわれるようになった。当時とうじ海外かいがい移民いみん国内こくないとの送金そうきん業務ぎょうむ横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう独占どくせんしていたが、ほし五大ごだい移民いみん会社かいしゃ広島ひろしま海外かいがい渡航とこう会社かいしゃ森岡もりおか商会しょうかい熊本くまもと移民いみん会社かいしゃ東京とうきょう移民いみん会社かいしゃ日本にっぽん移民いみん会社かいしゃ)のうち主要しゅようすうしゃ事業じぎょう関与かんよしていた[21]当時とうじホノルル稼働かどうしていた鉄道てつどう国内こくないへも導入どうにゅうしようとした井上いのうえ敬次郎けいじろう活動かつどうにも助力じょりょくした[22]

エピソード

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ほしとおる
  • 神奈川かながわけん出仕しゅっし時代じだい大坂おおさかからいてきた4、5にん書生しょせい起居ききょともにし、まちみかつ放吟ほうぎんしては邏卒らそつうことしばしばで、大蔵省おおくらしょう出仕しゅっし明治めいじ5ねん6がつ車夫しゃふ殴打おうだ邏卒らそつ乱暴らんぼうしたとして、閉門へいもんひゃくにちめいじられ、8がつ大蔵省おおくらしょう失職しっしょくする。上京じょうきょうした両親りょうしんは、失職しっしょくしたほし大勢おおぜい食客しょっきゃくかかえているのにあきれ、「このさい書生しょせいってはどうだ」といたが、有意ゆうい人材じんざいだからおよかぎやしなうとってかず、愛蔵あいぞう蔵書ぞうしょはらって食費しょくひてたという。閉門へいもんけたとき陸奥むつ宗光むねみつ生活せいかつえさせるために、みずからの屋敷やしきうつるようすすめ、ほし書生しょせいがいるからとことわると陸奥みちのく書生しょせいたちも一緒いっしょてもかまわぬといい、「食客しょっきゃく食客しょっきゃく」という世間せけんれいのない体裁ていさい陸奥みちのく屋敷やしきうつった。[23]
  • 横浜よこはま税関ぜいかん時代じだい外交がいこうかん特権とっけんだて荷物にもつ検査けんさ強要きょうよう抗議こうぎしたロシア臨時りんじ公使こうしたいして、氏名しめいげなかったそちらがわるいとっぱね、所定しょてい波止場はとば以外いがいから下船げせんしようとする外国がいこくじんたいしても密輸みつゆふうじの厳重げんじゅうまりをおこなった。[24]
  • 1874ねん明治めいじ7ねん)5がつ女王じょおう事件じけん[9] - ほし英国えいこく領事りょうじへの英文えいぶん書翰しょかんちゅうの Her Majesty's Court を訳文やくぶんで「女王じょおう陛下へいか裁判さいばんちょう」と表記ひょうきしたところ、ロバートソン領事りょうじが「女帝にょてい」でなく「女王じょおう陛下へいか」となっているのは不敬ふけい無礼ぶれいだと難癖なんくせけてきた。ほし英国えいこくでEmpressでなく、Queenを自称じしょうしているのだから、「女王じょおう陛下へいか」であやまりではないとっぱねたところ、よく6がつ英国えいこく公使こうしパークス外務省がいむしょうみ、「貴国きこく天皇てんのうおとこおううんフモむべじきぼし女王じょおううんセシヲばつセスンハわがまた貴国きこくおとこおうト唱フヘシ」などほし免職めんしょく謝罪しゃざいせまった。困惑こんわくした三条さんじょう太政大臣だじょうだいじん寺島てらしまはじめのり外務がいむきょうは、ほし文書ぶんしょあらため、陳謝ちんしゃするよういいふくめたが、ほし先方せんぽうこそ不当ふとう上申じょうしんおこなった。英国えいこく威勢いせいおそれる政府せいふが、公文書こうぶんしょには外国がいこく君主くんしゅ公称こうしょうはすべて「皇帝こうてい陛下へいか」をてることとし(明治めいじ7ねん太政官だじょうかん布告ふこく98ごう)、ほしたいしては、贖罪しょくざいきんえんし、横浜よこはま税関ぜいかんちょう免職めんしょくにして、パークスをなだめ事件じけん落着らくちゃくさせた。
  • 1893ねん明治めいじ26ねん11月29にち衆議院しゅうぎいんでは同院どういん議長ぎちょうであったほしたいする議長ぎちょう不信任ふしんにんあんが166たい119で可決かけつされた。しかし、ほしは「条約じょうやく改正かいせい支持しじする自分じぶんたいするかたろく国民こくみん協会きょうかい立憲りっけんあらためしんとうら)によるいやがらせでやましいところはない」として、これを拒否きょひ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうした議院ぎいんほうでは衆議院しゅうぎいん議長ぎちょうみことのり任官にんかんあつかいのため任免にんめんけん天皇てんのうにあった)。そこで明治天皇めいじてんのうたいしてほし解任かいにんもとめる上奏じょうそうあんを152たい126で可決かけつした。たいして、天皇てんのうからは「議院ぎいんみずか不明ふめいなりしとの過失かしつ」として衆議院しゅうぎいん怠慢たいまんめる勅答ちょくとうくだされた(これは、ほしへの不信任ふしんにん当時とうじ外務がいむ大臣だいじん陸奥むつ宗光むねみつへの間接かんせつてき攻撃こうげきとみた伊藤いとう博文ひろぶみ宮内みやうち大臣だいじん土方ひじかた久元ひさもと要請ようせいしてさせたものとされる)。以降いこうほしがなおも議長ぎちょうせき着席ちゃくせきして職務しょくむつづける姿勢しせいせたため、12月5にちにはほし登院とういん停止ていしいち週間しゅうかん懲罰ちょうばつ決議けつぎされた。しかし、登院とういん停止ていしれた12月12にちほしがまたも議長ぎちょうせきすわろうとしたため、12月13にちもっとおも懲罰ちょうばつである議員ぎいん除名じょめい議決ぎけつ(185たい92:除名じょめい要件ようけんである出席しゅっせき議院ぎいんさんぶんえる67%が賛成さんせい)されたため、ほし衆議院しゅうぎいん議員ぎいん資格しかくうしない、自動的じどうてき議長ぎちょう解任かいにんされた。
  • 病的びょうてき読書どくしょへき学者がくしゃ政治せいじ - えいふつどく・スペインかいし、膨大ぼうだい蔵書ぞうしょ読破どくはした。政治せいじ法律ほうりつ歴史れきしのほかジェヴォンズやマクラウドなど最先端さいせんたん経済けいざいがくしょんだ。横浜よこはま税関ぜいかん時代じだいかみむちつね野沢のざわにわとりいちらとウィリアム・ブラックストンの "Commentaries on the laws of England" を『英国えいこく法律ほうりつ全書ぜんしょ』とだいして翻訳ほんやく出版しゅっぱん底本ていほん短縮たんしゅくばんThe Student's Blackstone)した。獄中ごくちゅうでは早朝そうちょう薄明はくめいから、文字もじめなくなるころまで読書どくしょふけり、つまへの手紙てがみ洋書ようしょ注文ちゅうもんれにかんするものばかりであった。1888ねん石川いしかわとう監獄かんごくで、横山よこやま又吉またきち当時とうじ最新さいしんかんのマクラウドの『経済けいざい哲学てつがく』(田口たぐち卯吉うきちわけ、1885ねん)をんでいると、ほしはその議論ぎろん欧州おうしゅうではすで陳腐ちんぷぞくし、無益むえき、とうのでほしおりぼうたずねたところ、ろくななさつえいふつどく原書げんしょし、これはみな新刊しんかん経済けいざいしょだ、これがめぬようでは駄目だめで、いまから政党せいとういんはせめてえいふつくらいを正式せいしき修得しゅうとくしなければ生涯しょうがいただの運動うんどうにてりょうるのほかなし、とかたった。しかし、つまにはジェヴォンズやリカードあわせてマクラウドの経済けいざいしょれるよう依頼いらいしている[25]けっして知識ちしきをひけらかすことはかったが、岡崎おかざきくにによれば、ほし読書どくしょをしたいがために時間じかんしみ、無駄話むだばなしきらい、格別かくべつようもない訪問ほうもんしゃきら謝絶しゃぜつしたために人気にんきず、高慢こうまんわれたという。望月もちづき圭介けいすけ京都きょうと滞在たいざいちゅうほしたずねたところ丁度ちょうど食事しょくじちゅうであり、ぜんかたわらにほんいてみ、用談ようだんちゅう見向みむきもせず食事しょくじ読書どくしょをやめなかった。抗議こうぎすると自分じぶんみ、くちべ、みみきみはなしいている、うたがうならきみはなしたことを全部ぜんぶってせようとったという。蔵書ぞうしょは1まん1せんさつおよび、没後ぼつご慶應大学けいおうだいがく図書館としょかん寄託きたくされた蔵書ぞうしょえっした板倉いたくら卓造たくぞう学者がくしゃ政治せいじんだ[26]。また、駐米ちゅうべい公使こうし時代じだいおおくの図書としょ蒐集しゅうしゅうし、兵書へいしょふくまれていたため、駐在ちゅうざい武官ぶかんだった秋山あきやま真之まさゆきほし書斎しょさいから勝手かってほんし「こんなに沢山たくさんはとてもめないだろうから、自分じぶんわってんでげている」とうそぶいたりしていた[27]
  • 陸奥むつ宗光むねみつとの関係かんけい - みずからをてた恩人おんじん陸奥みちのくとの関係かんけいきにしてはほし行動こうどうかたれない。はらたかしのように陸奥みちのく敬服けいふくしてはいなかったが恩義おんぎかんじ、愚直ぐちょくせっした。自由党じゆうとう入党にゅうとう弁護士べんごしとして成功せいこうしていた当時とうじほしにとって積極せっきょくてき動機どうきはなく、獄中ごくちゅうにあった陸奥みちのく出獄しゅつごくならしであったというのが有力ゆうりょくである。出獄しゅつごく外遊がいゆうした陸奥みちのくをよそに私財しざいとうじ、板垣いたがき我儘わがままえ、自由党じゆうとう維持いじしたのも陸奥みちのく選択肢せんたくし確保かくほするためであった。それだけに1886ねん2がつ帰国きこくした陸奥みちのくが、10月に政府せいふ無任所むにんしょ弁理べんり公使こうしとなったとき失望しつぼういかりをかくさなかった。陸奥みちのくにとっては自由党じゆうとう藩閥はんばつ政府せいふ二者択一にしゃたくいつではなくしゃ拮抗きっこうする状態じょうたいこそがみずからにとってもっとのぞましかった。陸奥みちのくほしつめたくはなしたものの、やましさがのこり、だいさん議会ぎかいたり議長ぎちょうとしては河野こうの広中ひろなか有望ゆうぼうされていたが、陸奥みちのくんだ岡崎おかざきくに輔の奔走ほんそうによりほし衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう実現じつげんした。ほし陸奥みちのく指示しじもあり、松方まつかた内閣ないかくきびしく対決たいけつ内閣ないかく弾劾だんがい決議けつぎあん可決かけつ軍艦ぐんかん建造けんぞうほかのしん事業じぎょう全額ぜんがく削除さくじょとなり、松方まつかた内閣ないかく崩壊ほうかいした。つぎ陸奥みちのく外相がいしょうとして入閣にゅうかくしただい2伊藤いとう内閣ないかくたいしては自由じゆう党内とうない強引ごういん方向ほうこう転換てんかんさせ、「和協わきょう詔勅しょうちょく」の受諾じゅだくでまとめた。しかし、この過程かていほし自由じゆう党内とうないのみならず、あらためしんとうや吏党からの憎悪ぞうお一身いっしんけ、衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう辞職じしょく余儀よぎなくされた。陸奥みちのくぼつほしはなりふりかまわず権力けんりょく自体じたい目指めざはじめたようにえる[28]徳富とくとみ蘇峰そほうほし陸奥みちのく門下もんかとし、「とらのようなほしとおる陸奥みちのくまえではほとんどねこのようだった」としてしている。
  • ベンサムについて - ざいえいちゅうベンサムの "An Introduction to the Principle of Moral and Legislation"(1789ねん道徳どうとくおよ立法りっぽうしょ原理げんり序説じょせつ」)を反復はんぷく熟読じゅくどくした。理念りねんじゅんずることよりも具体ぐたいてき目的もくてき有効ゆうこうか、また計量けいりょう可能かのう成果せいか重視じゅうしするほし態度たいどにベンサムの影響えいきょうることができる。1877-78ねん陸奥むつ宗光むねみつ島田しまだ三郎さぶろう(ベンサム『立法りっぽうろんつな』の翻訳ほんやくしゃ)らとえいしょ会読かいどくおこなった。島田しまだによれば、あるとき陸奥みちのくから「人間にんげん是非ぜひ帰着きちゃくするところ如何いか」といういがはっせられ、ほしはベンサムの功利こうりろん法律ほうりつてき見地けんちから論評ろんぴょうしたという。だが、たいした行動こうどうもできず官憲かんけん弾圧だんあつびる自由党じゆうとう壮士そうしらへはふか同情どうじょうし、1884ねん急進きゅうしん旗頭はたがしら鈴木すずきしゃじょうが29さいわかさで急死きゅうししたさいほしはしきりに嗟嘆さたんし、「ひとはいたずらにきるばかりが能事のうじではない」とかなしみ、門弟もんてい野沢のざわから日頃ひごろとなえているベンサムの功利こうり主義しゅぎちがうではないかといわれ、「むかしまったちがった。いまくにのためにはいのちしまぬ」とこたえたという。[29]
  • はんエリート - なしの貧民ひんみんだしであり、出自しゅつじめぐまれた知的ちてきエリートには反感はんかんち、生涯しょうがい相容あいいれなかった。ロンドンのミドル・テンプルほう学院がくいん同窓どうそうだった馬場ばば辰猪たつい土佐とさはん上士じょうしいえまれたはん留学生りゅうがくせいであったが、一度いちど議論ぎろんてにつかいの喧嘩けんかわり、それきり交際こうさいかったという。1883ねんあらためしんとう攻撃こうげきくわわり、その度々たびたびあらためしんとうにせとうばわりしたのも、小野おのあずさ島田しまだ三郎さぶろうをはじめとする順境じゅんきょうあゆんだ知的ちてきエリートにたいする増悪ぞうあく、エリート集団しゅうだんであるのに民意みんい代弁だいべんしゃをもってにんずることに我慢がまん出来できなかったためである。[30]
  • ほしとおる銅像どうぞう - 墓所はかしょのある池上本門寺いけがみほんもんじ境内けいだいにはほし銅像どうぞうかれていたが、だい世界せかい大戦たいせんなか金属きんぞく供出きょうしゅつのため、台座だいざのこして撤去てっきょされた。戦後せんご遺族いぞくにより台座だいざ寄進きしんされたものの、現在げんざい日蓮にちれん上人しょうにんぞうかれている。
  • 数々かずかず汚職おしょく疑惑ぎわく当時とうじから金権きんけん政治せいじ権化ごんげひょうされているが、私生活しせいかつではつつましく実直じっちょくであったとわれる。後任こうにん逓信ていしん大臣だいじんはらたかしも「淡泊たんぱくひとにして金銭きんせんについてはきれいなおとこ」とひょうし、また、中村なかむら菊男きくおによれば「世間せけんつたえられているスキャンダルは、政敵せいてきあく宣伝せんでんか、門下生もんかせい壮士そうしのそれがおおかったものとおもわれる」という[31]ほし存命ぞんめいちゅうはもとより現代げんだい政治せいじでもわらわつことはめずらしくないが、女性じょせい関係かんけい潔癖けっぺきさはほし非難ひなんしているがわでさえもみとめざるをず、また、書生しょせいふくめて家中いえじゅうものには愛情あいじょうってせっしたとつたえられる。みずからの資産しさん形成けいせいかんしてもあまりもちいなかったとられ、暗殺あんさつあきらかになったほし遺産いさんは1まんえんあまりの借財しゃくざいのみだったという。

配下はいか

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利光としみつ鶴松つるまつ小林こばやし清一郎せいいちろう大塚おおつか常次郎つねじろう横田よこたせんこれすけ渡辺わたなべとおる磯部いそべ保次やすじはやし謙吉けんきちろう小久保こくぼ喜七きしち日向ひゅうが輝武てるたけ井上いのうえ敬次郎けいじろう渡辺わたなべかんじゅうろう菅原すがわらつたえなどがいる[32][33]

ほし海外かいがい経験けいけんませてとう原動力げんどうりょくとするねらいから渡米とべいしゃ一部いちぶ支援しえんし、帰国きこくには自由じゆう倶楽部くらぶいん政党せいとう機関きかんなどの要職ようしょく移民いみん事業じぎょうなどに重用じゅうようした。かれらはほし中核ちゅうかくにな人材じんざいとなり、自由じゆう倶楽部くらぶいんおおくがほしつらなり、壮士そうし政治せいじ上昇じょうしょう契機けいきとなった[34]

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょう

訳書やくしょ

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  • 海外かいがい万国ばんこく偉績いせきくさむらでんまんかんろうぜん4かん)、1872ねん
  • 印紙いんしぜい略説りゃくせつ大蔵省おおくらしょう有島ありしまたけ どもやく)、1873ねん
  • 各国かっこく国会こっかい要覧ようらんうららさわかん、1886ねん
  • 英国えいこく法律ほうりつ全書ぜんしょ東生とうせい亀次郎かめじろう、1873-78ねん底本ていほんウィリアム・ブラックストン著書ちょしょ短縮たんしゅくばん[38]

おも評伝ひょうでん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g 松尾まつお章一しょういちほしとおる」『日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)』小学館しょうがくかんおよび「ほしとおる」『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん』Britannica Japan(コトバンク参照さんしょう)。
  2. ^ しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ』545ぺーじ
  3. ^ しんてい 政治せいじ家人かじんめい事典じてん 明治めいじ昭和しょうわ』546ぺーじ
  4. ^ 明治めいじ編年史へんねんし編纂へんさんかい新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんしだい11かん、168-169ぺーじ:「ほし逓相辞職じしょく強要きょうようせらる」『日本にっぽん』1900ねん12月17にち、「ほし逓信ていしん大臣だいじんつい辞表じひょう提出ていしゅつ」『時事新報じじしんぽう同年どうねん12がつ22にち国立こくりつ国会こっかい図書としょ所蔵しょぞう)。
  5. ^ 中嶋なかじま繁雄しげお明治めいじ事件じけん日本人にっぽんじん本当ほんとう姿すがたえてくる!』 青春せいしゅん出版しゅっぱんしゃ青春せいしゅん文庫ぶんこ)、2004ねん、206-207ぺーじ
  6. ^ 権田ごんだ益美ますみ横浜よこはま開港かいこうじょうにおける英語えいご教育きょういく−ヘボンをかいして開設かいせつした『横浜よこはま英学えいがくしょ』」『郷土きょうど神奈川かながわ』55ごう神奈川かながわ県立けんりつ図書館としょかん、2017ねん3がつ
  7. ^ a b c d 石井いしい重光しげみつほしとおる 英学えいがく近代きんだい主義しゅぎ」『近畿大学きんきだいがく語学ごがく教育きょういく紀要きようだい5かん1ごう、2005ねん7がつ
  8. ^ 後年こうねん大蔵省おおくらしょう出仕しゅっしとなるさい肩書かたが参照さんしょう国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう和歌山わかやまけんぬきぞくほしとおる租税そぜいりょうななとう出仕しゅっしいのちけん明治めいじ5ねん9がつ)。
  9. ^ a b 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん横浜よこはま税関ぜいかんちょう租税そぜい権助ごんすけほしとおる英国えいこく領事りょうじおく書中しょちゅう女王じょおう文字もじ記載きさいセルざいヲ贖フ明治めいじ7ねん6がつ28にち参照さんしょう外務省がいむしょうによるパークス・寺島てらしま会談かいだん大蔵省おおくらしょうによる経緯けいい取調とりしらべほし本人ほんにん司法省しほうしょう上申じょうしんしょおよ翻訳ほんやく書翰しょかんうつしを収録しゅうろく)。
  10. ^ ほしのミドル・テンプル入学にゅうがくおよ資格しかく取得しゅとくねんかんしては以下いか書籍しょせき参照さんしょう。Foster, Joseph (1885) . Men-at-the-bar: A Biographical Hand-list of the Members of the Various Inns of Court, Including Her Majesty's Judges, Etc. (2nd ed.), London: Printed for the author. ほしについての記載きさい誤記ごきふくむ)は以下いかとおり:"Hoshi, Toru, a student of the Middle Temple 25 Jan., 1875, called to the bar 13 June, 1877 (only son of Taijinu Hoshi, of Tokio, Japan); born, 1851. Tokio, Japan" また、どう時期じき英国えいこくへの留学生りゅうがくせいについては、井上いのうえみがくさとし幕末ばくまつ明治めいじ大正たいしょうイギリス日本人にっぽんじん留学生りゅうがくせい資料しりょう(2)」『経済けいざいがく論究ろんきゅうだい57かん関西学院大学かんせいがくいんだいがく経済学部けいざいがくぶ(2003ねん4がつ)など参照さんしょう
  11. ^ 福島ふくしま事件じけんおよ高等法院こうとうほういん裁判さいばん概要がいようについては、手塚てづかゆたか自由黨じゆうとう福島ふくしま事件じけん高等法院こうとうほういん」『法學ほうがく研究けんきゅう法律ほうりつ政治せいじ社会しゃかい』Vo1.32、No.11、慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく法学ほうがく研究けんきゅうかい(1959ねん)など参照さんしょう
  12. ^ 新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんしだい6かん、551-553ぺーじ国立こくりつ国会こっかい図書としょ所蔵しょぞう) 。
  13. ^ 新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんしだい7かん、502-503ぺーじ:「ほしとおる帰朝きちょうす」『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』1890ねん10がつ9にち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう)。
  14. ^ 衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ一覧いちらん』1912ねん2がつ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう)。
  15. ^ a b 中嶋なかじま繁雄しげお前掲ぜんけいしょ、204-205ぺーじ
  16. ^ 新聞しんぶん集成しゅうせい明治めいじ編年史へんねんしだい9かん、236ぺーじ:「ほしとおる朝鮮ちょうせん法務ほうむ顧問こもんとなる」『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』1895ねん4がつ14にち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう)。
  17. ^ 江戸えど人物じんぶつ事典じてんほしとおる」(Weblio 辞書じしょ参照さんしょう)。
  18. ^ 中嶋なかじま繁雄しげお前掲ぜんけいしょ、202-203ぺーじ
  19. ^ おう仁三郎じんざぶろう予言よげん”. あいぜんえん 岡山おかやまぶんしょ. 2023ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  20. ^ 慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく三田みたメディアセンター所蔵しょぞうほし文庫ぶんこ概要がいよう明治めいじ39ねん(1906ねんほしひかりおよび遺族いぞくより慶應義塾けいおうぎじゅく委託いたく大正たいしょう2ねん(1913ねん)に正式せいしき寄贈きぞうされました。江戸えどから明治めいじにかけての和漢わかんしょ古典こてんと、政治せいじ経済けいざい法律ほうりつ資料しりょう中心ちゅうしんとする、和漢わかんしょ5732さつ洋書ようしょ4817さつのほか、若干じゃっかん中国ちゅうごくしょふくまれています。
  21. ^ 井上いのうえ敬次郎けいじろう自叙伝じじょでん 波乱はらん重畳ちょうじょうななじゅうねんしょう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん電子でんし展示てんじかい「ブラジル移民いみんの100ねん」より。
  22. ^ 飯田いいだこう二郎じろう移民いみんさきがけ星名ほしな謙一郎けんいちろうのハワイ時代じだい後期こうき : ワイアルア耕地こうち監督かんとく新婚しんこんころ」『大阪商業大学おおさかしょうぎょうだいがく論集ろんしゅうだい9かんだい4ごう大阪商業大学おおさかしょうぎょうだいがくしょうけい学会がっかい、2014ねん2がつ、97-112ぺーじCRID 1520009408108450176ISSN 02870959 
  23. ^ 有泉ありいずみ貞夫さだおほしとおる』26-27ぺーじ
  24. ^ 有泉ありいずみ貞夫さだおほしとおる』32ぺーじ
  25. ^ 野澤のざわ雞一、『ほしとおるとその時代じだい』1 86ぺーじ、2 93,97,111ぺーじ
  26. ^ 前田まえだれんさん、『ほしとおるでん』108ぺーじ
  27. ^ 有泉ありいずみ貞夫さだおほしとおる』215ぺーじ
  28. ^ 有泉ありいずみ貞夫さだおほしとおる
  29. ^ 有泉ありいずみとおる、『ほしとおる』86ぺーじ
  30. ^ 有泉ありいずみとおる、『ほしとおる』37,75ぺーじ
  31. ^ 中嶋なかじま繁雄しげお前掲ぜんけいしょ、206ぺーじ
  32. ^ 有磯ありいそ逸郎いつお横山よこやま源之助げんのすけ移民いみんかい活動かつどうしゃ」〜移民いみん散布さんぷ地図ちず国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん電子でんし展示てんじかい「ブラジル移民いみんの100ねん」より。
  33. ^ 鬼怒川きぬがわすいでんたおせ」『東京とうきょう毎日新聞まいにちしんぶん』1912ねん12月2にち-12月10日とおか神戸大学こうべだいがく附属ふぞく図書館としょかんデジタルアーカイブ・新聞しんぶん記事きじ文庫ぶんこ参照さんしょう)。
  34. ^ 海野うみの大地だいち官民かんみん調和ちょうわへの移行いこう院外いんがいしゃ―20世紀せいき転換期てんかんきにおける自由党じゆうとうけい青年せいねん運動うんどうとおして」『立命館大学りつめいかんだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ紀要きよう』117ごう立命館大学りつめいかんだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ、2019ねん
  35. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう太政官だじょうかん日誌にっし 明治めいじななねんだい24ごう(コマ番号ばんごう110参照さんしょう)。
  36. ^ 官報かんぽうだい5210ごう叙任じょにん及辞れい」1900ねん11月12にち
  37. ^ a b 官報かんぽうだい5391ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん6がつ23にち
  38. ^ 首巻しゅかんおよ附録ふろく序文じょぶんによれば、本編ほんぺん部分ぶぶん底本ていほんは1867ねん刊行かんこう英国えいこく裁判官さいばんかん R. Malcolm Kerr(うまみみみきかくなんじ編纂へんさんによる短縮たんしゅくばん The Student's Blackstone (斯周てんとく貌刺こごめ斯的おきな)。また、附録ふろく底本ていほん英国えいこく留学りゅうがく入手にゅうしゅした1876ねん発兌はつだのもので、前掲ぜんけいしょ以降いこう英国えいこくほう改革かいかく異同いどう抄録しょうろくされているという。

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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