ハワイの製糖 せいとう 工場 こうじょう で働 はたら く人 ひと びと(1910年 ねん 頃 ごろ )
手 て 彩色 さいしき 絵葉書 えはがき ヒロ湾 わん 明治 めいじ 時代 じだい
ハワイにおける日本人 にっぽんじん 移民 いみん (ハワイにおけるにほんじんいみん、英語 えいご :Japanese settlement in Hawaii)とは、1868年 ねん 以降 いこう 、労働 ろうどう 者 しゃ として日本 にっぽん からハワイ王国 おうこく (1893年 ねん -1897年 ねん ハワイ共和 きょうわ 国 こく 、1898年 ねん のハワイ併合 へいごう 後 こう はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ハワイ準 じゅん 州 しゅう )へ移住 いじゅう していった人 ひと びとを指 さ す。1900年 ねん までの国 くに や民間 みんかん 企業 きぎょう の斡旋 あっせん によりやって来 き た移民 いみん を契約 けいやく 移民 いみん 、以降 いこう 1908年 ねん までの移民 いみん を自由 じゆう 移民 いみん と呼称 こしょう する[1] 。
ハワイ における移民 いみん は、急増 きゅうぞう するサトウキビ 農園 のうえん (英語 えいご 版 ばん ) や製糖 せいとう 工場 こうじょう で働 はたら く労働 ろうどう 者 しゃ を確保 かくほ するため[2] 、1830年 ねん 頃 ごろ より始 はじ められ、関税 かんぜい が撤廃 てっぱい された1876年 ねん 以降 いこう にその数 かず が増 ふ え始 はじ めた[3] 。中国 ちゅうごく 、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々 さまざま な国 くに から移民 いみん が来島 らいとう したが、日本 にっぽん からやってきた移民 いみん が最 もっと も多 おお かった。日本 にっぽん からの移民 いみん は1868年 ねん から開始 かいし され、1902年 ねん にはサトウキビ労働 ろうどう 者 しゃ の70%が日本人 にっぽんじん 移民 いみん で占 し められるほどとなり、1924年 ねん の排日 はいにち 移民 いみん 法 ほう 成立 せいりつ まで約 やく 22万 まん 人 にん がハワイへ渡 わた っている[1] 。
移民 いみん の多 おお くは契約 けいやく 期間 きかん 満了 まんりょう 後 ご もハワイに定着 ていちゃく し、日系 にっけい アメリカ人 じん としてハワイ社会 しゃかい の基礎 きそ を作 つく り上 あ げていった[4] 。
中国人 ちゅうごくじん 排斥 はいせき 法 ほう (1882年 ねん アメリカ)
19世紀 せいき 初頭 しょとう 、ハワイ王国 おうこく において摂政 せっしょう カアフマヌ が政治 せいじ 的 てき 実権 じっけん を握 にぎ ると、キリスト教 きょう を中心 ちゅうしん とした欧米 おうべい 文化 ぶんか を取 と り入 い れようとする動 うご きが活発 かっぱつ 化 か し、彼女 かのじょ に取 と り入 い った白人 はくじん たちが発言 はつげん 力 りょく を増 ま すようになる。貿易 ぼうえき 負債 ふさい 削減 さくげん のため、それまではネイティブハワイアンの食料 しょくりょう としてのみ栽培 さいばい されていたサトウキビを輸出 ゆしゅつ 用 よう 資源 しげん として大 だい 規模 きぼ 生産 せいさん を行 おこな おうとする動 うご きが1835年 ねん より開始 かいし された[2] 。
1850年 ねん 、外国 がいこく 人 じん による土地 とち 私有 しゆう が認 みと められるようになると、白人 はくじん の投資 とうし 家 か たちの手 て によってハワイ各地 かくち にサトウキビ農場 のうじょう が設立 せつりつ され、一大 いちだい 産業 さんぎょう へと急 きゅう 成長 せいちょう した。その後 ご 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 ない において南北戦争 なんぼくせんそう が勃発 ぼっぱつ するとこの動 うご きはさらに加速 かそく 、1876年 ねん の関税 かんぜい 撤廃 てっぱい に至 いた り、ハワイ王国 おうこく は世界 せかい 有数 ゆうすう のサトウキビ輸出 ゆしゅつ 国 こく となった[2] [† 1] 。
増加 ぞうか する農場 のうじょう に対 たい し、ハワイ王国 おうこく 内 ない のハワイ人 じん のみでは労働 ろうどう 力 りょく を確保 かくほ することが困難 こんなん となり、1830年代 ねんだい より国外 こくがい の労働 ろうどう 力 りょく を輸入 ゆにゅう する方策 ほうさく が模索 もさく されはじめ、1852年 ねん 、3年間 ねんかん という契約 けいやく で、中国 ちゅうごく より最初 さいしょ の契約 けいやく 労働 ろうどう 者 しゃ がハワイへ来島 らいとう した。以降 いこう も中国 ちゅうごく より多数 たすう の労働 ろうどう 移民 いみん がやってきたが[† 2] 、中国人 ちゅうごくじん らは定着 ていちゃく 率 りつ が悪 わる く、契約 けいやく 終了 しゅうりょう 後 ご 、独自 どくじ に別 べつ の商売 しょうばい を始 はじ めたりするなどしたことにより彼 かれ らに対 たい する風当 かぜあ たりが強 つよ くなったことから、ハワイ政府 せいふ は中国人 ちゅうごくじん 移民 いみん の数 かず を制限 せいげん し、他 た の国 くに から労働 ろうどう 力 りょく を輸入 ゆにゅう するようになる。
日本 にっぽん もその対象 たいしょう の一 いち 国 こく として交渉 こうしょう が持 も たれた。1898年 ねん 、ハワイがアメリカに併合 へいごう されると、アメリカの中国人 ちゅうごくじん 排斥 はいせき 法 ほう が適用 てきよう され、中国人 ちゅうごくじん の移住 いじゅう が事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう となった。
1860年 ねん (万延 まんえん 元年 がんねん )、日本 にっぽん の遣 や 米 べい 使節 しせつ 団 だん がハワイに寄港 きこう した際 さい 、カメハメハ4世 せい は労働 ろうどう 者 しゃ 供給 きょうきゅう を請願 せいがん する親書 しんしょ を信託 しんたく したが、日本 にっぽん は明治維新 めいじいしん へと向 む かう混迷 こんめい 期 き にあり、積極 せっきょく 的 てき な対応 たいおう がなされずにいた。
カメハメハ5世 せい は、在日 ざいにち ハワイ領事 りょうじ として横浜 よこはま に滞在 たいざい していたユージン・ヴァン・リード に日本人 にっぽんじん 労働 ろうどう 者 しゃ の招致 しょうち について、日本 にっぽん 政府 せいふ と交渉 こうしょう するよう指示 しじ した。ヴァン・リードは徳川 とくがわ 幕府 ばくふ と交渉 こうしょう し、出稼 でかせ ぎ300人 にん 分 ぶん の渡航 とこう 印章 いんしょう の下 しも 附 ふ を受 う ける。その後 ご 日本 にっぽん 側 がわ 政府 せいふ が明治 めいじ 政府 せいふ へと入 い れ替 か わり、明治 めいじ 政府 せいふ はハワイ王国 おうこく が条約 じょうやく 未済 みさい 国 こく であることを理由 りゆう に、徳川 とくがわ 幕府 ばくふ との交渉 こうしょう 内容 ないよう を全 すべ て無効 むこう 化 か した[5] 。
しかし、すでに渡航 とこう 準備 じゅんび を終 お えていたヴァン・リードは、1868年 ねん (慶応 けいおう 4年 ねん /明治 めいじ 元年 がんねん )5月17日 にち (旧暦 きゅうれき 4月 がつ 25日 にち )[6] 、サイオト号 ごう で153名 めい [† 3] の日本人 にっぽんじん を、無 む 許可 きょか でホノルルへ送 おく り出 だ した。こうして送 おく られた初 はつ の日本人 にっぽんじん 労働 ろうどう 者 しゃ は、明治 めいじ 初年 しょねん の元年 がんねん 者 しゃ (がんねんもの)と呼 よ ばれた。
153人 にん のうち、少 すく なくとも男性 だんせい 50人 にん 、女性 じょせい 6人 にん は、「契約 けいやく と実際 じっさい の状況 じょうきょう が違 ちが う」と年季 ねんき 明 あ けを待 ま たずに1870年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )に帰国 きこく した[7] 。一方 いっぽう で、元年 がんねん 者 しゃ の中 なか にはリーダーの牧野 まきの 富三郎 とみさぶろう (宮城 みやぎ 県 けん 石巻 いしのまき 市 し 出身 しゅっしん )、最年少 さいねんしょう の石村 いしむら 市五郎 いちごろう (13歳 さい )、マウイ島 とう で102歳 さい の生涯 しょうがい を終 お えた石井 いしい 千 せん 太郎 たろう (岡山 おかやま 県 けん の侍 さむらい )、ハワイ人 じん 女性 じょせい と結婚 けっこん してワイピオ渓谷 けいこく に住 す んで子孫 しそん を残 のこ した佐藤 さとう 徳次郎 とくじろう (東京 とうきょう ・京橋 きょうばし )など、後 ご の日系 にっけい 移民 いみん の語 かた り草 ぐさ になった人 ひと たちがいた[8] 。
日本 にっぽん 側 がわ は自 じ 国民 こくみん を奪 うば われたとして、1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )に上野 うえの 景 けい 範 はん と三輪 みわ 甫 はじめ 一 いち をハワイに派遣 はけん し、抗議 こうぎ を行 おこな った。折衝 せっしょう の結果 けっか 、契約 けいやく 内容 ないよう が異 こと なるとして40名 めい が即時 そくじ 帰国 きこく し、残留 ざんりゅう を希望 きぼう した者 もの に対 たい しての待遇 たいぐう 改善 かいぜん を取 と り付 つ けた[5] 。この事件 じけん を契機 けいき として日本 にっぽん とハワイの通商 つうしょう 条約 じょうやく が議論 ぎろん され、1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )8月 がつ 、日 にち 布 ぬの 修好 しゅうこう 通商 つうしょう 条約 じょうやく が締結 ていけつ された。
『明治 めいじ 拾 ひろえ 八 はち 年 ねん に於 お ける布 ふ 哇砂糖 さとう 耕地 こうち の情景 じょうけい 』Joseph Dwight Strong 、1885年 ねん
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )1月 がつ 28日 にち 、日 にち 布 ぬの 移民 いみん 条約 じょうやく が結 むす ばれ[9] 、ハワイへの移民 いみん が公式 こうしき に許可 きょか されるようになり、政府 せいふ の斡旋 あっせん した移民 いみん は官 かん 約 やく 移民 いみん と呼 よ ばれた。1894年 ねん に民間 みんかん に委託 いたく されるまで、約 やく 29,000人 にん がハワイへ渡 わた った[1] 。
1884年 ねん 、最初 さいしょ の移民 いみん 600人 にん の公募 こうぼ に対 たい し、28,000人 にん の応募 おうぼ があり[10] 、946名 めい (異説 いせつ あり)[† 4] が「シティ・オブ・トウキョウ 」に乗 の り込 こ み、ハワイへと渡 わた った。この時期 じき の移民 いみん 者 しゃ には、江戸 えど 時代 じだい に幕府 ばくふ 通訳 つうやく 官 かん として活躍 かつやく しハワイの移民 いみん 監督 かんとく 官 かん を8年 ねん 務 つと めた後 のち 、商会 しょうかい を設立 せつりつ して菊 きく 正宗 まさむね を輸出 ゆしゅつ して財産 ざいさん を築 きず き、社会 しゃかい 事業 じぎょう に尽力 じんりょく した木村 きむら 斉 ひとし 次 じ 、ワイアケア 耕作 こうさく 地 ち の監督 かんとく もした星名 ほしな 謙一郎 けんいちろう 、牧師 ぼくし の岡部 おかべ 次郎 じろう 、勉学 べんがく ののちにロサンゼルス に渡 わた った実業 じつぎょう 家 か の甲斐 かい 政次郎 まさじろう [11] などがいる。
官 かん 約 やく 移民 いみん は「3年間 ねんかん で400万 まん 円 えん 稼 かせ げる」といったことを謳 うた い文句 もんく に盛大 せいだい に募集 ぼしゅう が行 おこな われたが、その実態 じったい は人身 じんしん 売買 ばいばい に類似 るいじ し、半 なか ば奴隷 どれい に近 ちか かった。労働 ろうどう は過酷 かこく で、現場 げんば 監督 かんとく (ルナ)の鞭 むち で殴 なぐ る等 とう の酷使 こくし や虐待 ぎゃくたい が行 おこな われ、1日 にち 10時 じ 間 あいだ の労働 ろうどう で、休 やす みは週 しゅう 1日 にち 、給与 きゅうよ は月額 げつがく 10ドルから諸 しょ 経費 けいひ を差 さ し引 ひ かれた金額 きんがく であった[12] 。これは労働 ろうどう 者 しゃ が契約 けいやく を満了 まんりょう することを義務付 ぎむづ けられたハワイの法律 ほうりつ (通称 つうしょう 、主人 しゅじん と召使 めしつかい 法 ほう )に起因 きいん するところが大 おお きい[13] 。仕事 しごと を中途 ちゅうと で辞 や めることが法的 ほうてき に認 みと められていなかったのである。
官 かん 約 やく 移民 いみん 制度 せいど における具体 ぐたい 的 てき な交渉 こうしょう は、後 のち に「移民 いみん 帝王 ていおう 」とも揶揄 やゆ される[13] 在日 ざいにち ハワイ総領事 そうりょうじ ロバート・W・アーウィン に一任 いちにん されていた。井上 いのうえ 馨 かおる と親交 しんこう を持 も ち、その関係 かんけい から三井物産 みついぶっさん 会社 かいしゃ を用 もち いて日本 にっぽん 各地 かくち から労働 ろうどう 者 しゃ を集 あつ め、その仲介 ちゅうかい 料 りょう を日本 にっぽん ・ハワイの双方 そうほう から徴収 ちょうしゅう するなど、莫大 ばくだい な稼 かせ ぎを得 え ていた[13] 。アーウィンとの仲介 ちゅうかい 料 りょう の折 お り合 あ いが合 あ わず、1894年 ねん の26回 かい 目 め の移民 いみん をもって官 かん 約 やく 移民 いみん 制度 せいど は廃止 はいし された。
民間 みんかん 移民 いみん 会社 かいしゃ [ 編集 へんしゅう ]
1894年 ねん の官 かん 約 やく 移民 いみん の廃止 はいし と同 どう 時期 じき に、弁護士 べんごし の星 ほし 亨 とおる が日本 にっぽん 政府 せいふ に働 はたら きかけ、民間 みんかん 移民 いみん 会社 かいしゃ が認可 にんか されることとなり、以後 いご は日本 にっぽん の民間 みんかん 会社 かいしゃ を通 とお した斡旋 あっせん (私 わたし 約 やく 移民 いみん )が行 おこな われるようになった[14] [15] 。1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )には移民 いみん 者 しゃ 送 おく り出 だ しの多 おお かった熊本 くまもと に、井上 いのうえ 敬次郎 けいじろう が熊本 くまもと 移民 いみん 会社 かいしゃ を設立 せつりつ した。
日本 にっぽん との移民 いみん 事業 じぎょう を行 おこな う会社 かいしゃ が30社 しゃ 以上 いじょう 設立 せつりつ され、特 とく に広島 ひろしま 海外 かいがい 渡航 とこう 会社 かいしゃ 、森岡 もりおか 商会 しょうかい 、熊本 くまもと 移民 いみん 会社 かいしゃ 、東京 とうきょう 移民 いみん 会社 かいしゃ 、日本 にっぽん 移民 いみん 会社 かいしゃ は五大 ごだい 移民 いみん 会社 かいしゃ と呼 よ ばれ、勢力 せいりょく を誇 ほこ った[16] 。当時 とうじ の国際 こくさい 取引 とりひき 銀行 ぎんこう は英国 えいこく HSBC の協力 きょうりょく で設立 せつりつ された横浜 よこはま 正金 しょうきん 銀行 ぎんこう であったが、移民 いみん 会社 かいしゃ らは共同 きょうどう で私設 しせつ の京浜 けいひん 銀行 ぎんこう も設立 せつりつ し、移民 いみん 労働 ろうどう 者 しゃ の郷里 きょうり 送金 そうきん の代行 だいこう 業務 ぎょうむ などを行 おこな っていた。
日本人 にっぽんじん 移民 いみん の急増 きゅうぞう で、労働 ろうどう 者 しゃ 支配 しはい の弱体 じゃくたい 化 か を怖 こわ れたアメリカ人 じん 農園 のうえん 経営 けいえい 者 しゃ たちは、自 みずか らの支配 しはい 力 りょく 強化 きょうか のため異 い 民族 みんぞく の移民 いみん 同士 どうし の対立 たいりつ を利用 りよう することを企図 きと し、日 にち 中 ちゅう 移民 いみん のほかに、1903年 ねん から韓国 かんこく 人 じん の移民 いみん を推進 すいしん した(当時 とうじ 、中国人 ちゅうごくじん 移民 いみん は5万 まん 人 にん 、日本人 にっぽんじん 移民 いみん は18万 まん 人 にん いた)[17] 。また、ハワイより賃金 ちんぎん の高 たか いカリフォルニア (ロサンゼルス のリトル・トーキョー 、サンフランシスコ のジャパンタウン などの日本人 にっぽんじん 街 がい )に移 うつ る日系 にっけい 移民 いみん も増 ふ えていった[17] 。
1898年 ねん のハワイ併合 へいごう 、1908年 ねん の日米 にちべい 紳士 しんし 協約 きょうやく などにより日系 にっけい の移民 いみん 会社 かいしゃ は全 すべ て消滅 しょうめつ した。これ以降 いこう 、移民 いみん の家族 かぞく はいったん日本 にっぽん へ帰国 きこく し、再度 さいど 移住 いじゅう を希望 きぼう する帰 かえり 米 まい 者 しゃ のみ移住 いじゅう が許可 きょか されるようになり、そうした者 もの も1924年 ねん の移民 いみん 法 ほう 成立 せいりつ により、日本人 にっぽんじん のハワイへの移住 いじゅう は事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう となった[1] 。
その後 ご 定住 ていじゅう した日本人 にっぽんじん 移民 いみん の子孫 しそん が増加 ぞうか したことから、ハワイの全 ぜん 人口 じんこう における日本人 にっぽんじん 移民 いみん と日系 にっけい 人 じん の割合 わりあい は増加 ぞうか を続 つづ け、日本人 にっぽんじん 移民 いみん と日系 にっけい 人 じん はハワイ最大 さいだい の民族 みんぞく 集団 しゅうだん となった[18] 。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の期間 きかん 、アメリカ本土 ほんど の日本人 にっぽんじん 移民 いみん と日系 にっけい アメリカ人 じん がアメリカ政府 せいふ により強制 きょうせい 収容 しゅうよう が実施 じっし された。ハワイにおいては日系 にっけい 人 じん 人口 じんこう が多 おお く、その全 すべ てを収容 しゅうよう することが事実 じじつ 上 じょう 不可能 ふかのう である上 うえ 、もし日系 にっけい 人 じん を強制 きょうせい 収用 しゅうよう するとハワイの経済 けいざい が立 た ち行 ゆ かなくなると推測 すいそく されたことから、アメリカへの帰属 きぞく 心 しん が弱 よわ く、しかも影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ いと目 め された、一部 いちぶ の日系 にっけい 人 じん しか強制 きょうせい 収容 しゅうよう の対象 たいしょう とならなかった。最近 さいきん ではハワイへの日本人 にっぽんじん 移民 いみん が急増 きゅうぞう している。2022年 ねん 、日本 にっぽん はEビザ発給 はっきゅう 数 すう で再 ふたた び首位 しゅい となった。[19]
農奴 のうど の如 ごと き過酷 かこく な労働 ろうどう 条件下 じょうけんか において、日本人 にっぽんじん 移民 いみん は激 はげ しく抵抗 ていこう し、度々 どど ストライキ を行 おこな った。1900年 ねん までのストライキ件数 けんすう は数 すう 百 ひゃく 件 けん にのぼり、不当 ふとう な扱 あつか いに対 たい する改善 かいぜん が訴 うった えられたが、こうした行 おこな いは当地 とうち 法 ほう において違法 いほう とされ、牢獄 ろうごく 送 おく りとなっていたため、待遇 たいぐう 改善 かいぜん には至 いた らなかった。
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )のアメリカのハワイ併合 へいごう 後 こう は、1900年 ねん 基本 きほん 法 ほう により既存 きそん の労働 ろうどう 契約 けいやく が全 すべ て無効 むこう となって過酷 かこく な労働 ろうどう 条件 じょうけん が緩和 かんわ されるに至 いた り、ストライキの件数 けんすう も減少 げんしょう していった。この時期 じき の移民 いみん 者 しゃ には、ハワイ大学 はわいだいがく 社会 しゃかい 学科 がっか に勤 つと めたのち帰国 きこく して政府 せいふ の翻訳 ほんやく 家 か となった甲斐 かい 兼蔵 かねぞう がいる。
このような状況 じょうきょう の中 なか で1908年 ねん 、法学 ほうがく 者 しゃ の根来 ねごろ 源 はじめ 之 これ が『日 にち 布 ぬの 時事 じじ 』にハワイとアメリカ本土 ほんど の労働 ろうどう 条件 じょうけん の乖離 かいり を指摘 してき し、労働 ろうどう 者 しゃ の待遇 たいぐう 改善 かいぜん を主張 しゅちょう した論文 ろんぶん を掲載 けいさい し、経済 けいざい 界 かい に大 だい 論争 ろんそう が始 はじ まった。増給 ぞうきゅう 論 ろん を支持 しじ する石井 いしい 勇吉 ゆうきち らにより「増給 ぞうきゅう 期成 きせい 会 かい 」が結成 けっせい され、待遇 たいぐう 改善 かいぜん 運動 うんどう が展開 てんかい された。1909年 ねん 5月 がつ 9日 にち 、これに呼応 こおう した日本人 にっぽんじん 労働 ろうどう 者 しゃ ら7,000人 にん により、アイエア、ワイパフ、カフク、ワイアナエ、エヴァなどのオアフ島 とう 各 かく 農園 のうえん で一斉 いっせい にストライキが実施 じっし された。これに対 たい し農園 のうえん 経営 けいえい 者 しゃ 協会 きょうかい (HSPA )は参加 さんか 者 しゃ らとその家族 かぞく に対 たい し受 う け入 い れを拒否 きょひ し、立 た ち退 の き命令 めいれい を出 だ した。この結果 けっか 5,000人 にん 以上 いじょう のストライキ難民 なんみん がホノルルなどに溢 あふ れ返 かえ った。煽動 せんどう した日本人 にっぽんじん 活動 かつどう 家 か らは耕地 こうち 営業 えいぎょう 妨害 ぼうがい 罪 ざい などで逮捕 たいほ され、ストライキは失敗 しっぱい に終 お わったが、200万 まん ドル以上 いじょう の損失 そんしつ を計上 けいじょう した経営 けいえい 者 しゃ 側 がわ も労働 ろうどう 環境 かんきょう の見直 みなお しを図 はか らざるを得 え ず、若干 じゃっかん の増給 ぞうきゅう が実施 じっし された[20] 。
しかし、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん などの影響 えいきょう によりインフレ化 か が進行 しんこう すると応急 おうきゅう 処置 しょち 的 てき な賃上 ちんあ げでは生活 せいかつ が立 た ち行 ゆ かなくなり、1920年 ねん 1月 がつ 19日 にち には他国 たこく 出身 しゅっしん 者 しゃ もあわせたハワイ史上 しじょう 最大 さいだい のストライキがオアフ島 とう にて実施 じっし され、全 ぜん 農園 のうえん 労働 ろうどう 者 しゃ の約 やく 77%がこれに参加 さんか した[21] 。このストライキでは1万 まん 人 にん を超 こ える日本人 にっぽんじん 労働 ろうどう 者 しゃ が農園 のうえん を退去 たいきょ させられ、その結果 けっか 、野営 やえい していた労働 ろうどう 者 しゃ ら2,500人 にん がインフルエンザ に感染 かんせん し150名 めい が死亡 しぼう するなど、深刻 しんこく な被害 ひがい をもたらした。結果 けっか 的 てき に5割 わり の賃上 ちんあ げ、労働 ろうどう 環境 かんきょう の改善 かいぜん を勝 か ち取 と ることができたが、多 おお くは農場 のうじょう を去 さ り、製糖 せいとう 産業 さんぎょう における日本人 にっぽんじん 労働 ろうどう 者 しゃ の割合 わりあい は1902年 ねん の70%から19%へ急落 きゅうらく した[21] 。また、こうした行動 こうどう は後 ご の排日 はいにち 運動 うんどう を加速 かそく させ、日系 にっけい 人 じん 社会 しゃかい への圧力 あつりょく がより強 つよ められることとなった。
日本人 にっぽんじん 移民 いみん と宗教 しゅうきょう [ 編集 へんしゅう ]
マキキ聖 せい 城 しろ 教会 きょうかい
ハワイでは元来 がんらい 北 きた アメリカ東海岸 ひがしかいがん から来 き た者 もの たちによって会衆 かいしゅう 派 は 教会 きょうかい が大 おお きな位置 いち を占 し めていたが[22] 、日本 にっぽん や中国 ちゅうごく からの移民 いみん からも儒教 じゅきょう 、道教 どうきょう 、仏教 ぶっきょう 、神道 しんとう などが持 も ち込 こ まれ、特 とく に仏教 ぶっきょう が栄 さか えた[22] 。ハワイにおける仏教 ぶっきょう は、1889年 ねん に浄土真宗 じょうどしんしゅう の僧侶 そうりょ であった曜日 ようび 蒼 あおい 竜 りゅう が本願寺 ほんがんじ 派 は の布教 ふきょう を開始 かいし したことを嚆矢 こうし とする[22] 。これは、西日本 にしにほん (広島 ひろしま 県 けん 、山口 やまぐち 県 けん )出身 しゅっしん の移民 いみん や、沖縄 おきなわ 系 けい アメリカ人 じん が多 おお かったことが要因 よういん とされている[22] 。
こうした宗教 しゅうきょう は年中 ねんじゅう 行事 ぎょうじ や冠婚葬祭 かんこんそうさい だけでなく日本語 にほんご 学校 がっこう 、寺子屋 てらこや 、合唱 がっしょう 隊 たい 、ボーイスカウト 、講演 こうえん 会 かい 、バザー など様々 さまざま な催 もよお しの場 ば を提供 ていきょう し、日系 にっけい 社会 しゃかい のコミュニケーションの基礎 きそ 固 がた めという役割 やくわり を果 は たすようになった[23] 。
^ サトウキビ生産 せいさん 量 りょう は1837年 ねん 時点 じてん 約 やく 2トン、1870年 ねん 1万 まん トン、1900年 ねん 30万 まん トン、1930年 ねん 100万 まん トン。
^ 19世紀 せいき に中国 ちゅうごく からハワイへやってきた労働 ろうどう 者 しゃ 数 すう は約 やく 46,000人 にん である。
^ 内訳 うちわけ は男 おとこ 146、女 おんな 5、子供 こども 2で『ハワイ・さまよえる楽園 らくえん 』による。『ハワイの歴史 れきし と文化 ぶんか 』では149名 めい とされている。
^ 約 やく 45%が山口 やまぐち 県 けん 、約 やく 23%が広島 ひろしま 県 けん からの移民 いみん であった。
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