ハワイにおける日本人にっぽんじん移民いみん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハワイの製糖せいとう工場こうじょうはたらひとびと(1910ねんごろ
彩色さいしき絵葉書えはがきヒロわん明治めいじ時代じだい

ハワイにおける日本人にっぽんじん移民いみん(ハワイにおけるにほんじんいみん、英語えいご:Japanese settlement in Hawaii)とは、1868ねん以降いこう労働ろうどうしゃとして日本にっぽんからハワイ王国おうこく1893ねん-1897ねんハワイ共和きょうわこく1898ねんハワイ併合へいごうこうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくハワイじゅんしゅう)へ移住いじゅうしていったひとびとをす。1900ねんまでのくに民間みんかん企業きぎょう斡旋あっせんによりやって移民いみん契約けいやく移民いみん以降いこう1908ねんまでの移民いみん自由じゆう移民いみん呼称こしょうする[1]

ハワイにおける移民いみんは、急増きゅうぞうするサトウキビ農園のうえん英語えいごばん製糖せいとう工場こうじょうはたら労働ろうどうしゃ確保かくほするため[2]、1830ねんごろよりはじめられ、関税かんぜい撤廃てっぱいされた1876ねん以降いこうにそのかずはじめた[3]中国ちゅうごく、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々さまざまくにから移民いみん来島らいとうしたが、日本にっぽんからやってきた移民いみんもっとおおかった。日本にっぽんからの移民いみんは1868ねんから開始かいしされ、1902ねんにはサトウキビ労働ろうどうしゃの70%が日本人にっぽんじん移民いみんめられるほどとなり、1924ねん排日はいにち移民いみんほう成立せいりつまでやく22まんにんがハワイへわたっている[1]

移民いみんおおくは契約けいやく期間きかん満了まんりょうもハワイに定着ていちゃくし、日系にっけいアメリカじんとしてハワイ社会しゃかい基礎きそつくげていった[4]

背景はいけい[編集へんしゅう]

中国人ちゅうごくじん排斥はいせきほう
(1882ねんアメリカ)

19世紀せいき初頭しょとうハワイ王国おうこくにおいて摂政せっしょうカアフマヌ政治せいじてき実権じっけんにぎると、キリストきょう中心ちゅうしんとした欧米おうべい文化ぶんかれようとするうごきが活発かっぱつし、彼女かのじょった白人はくじんたちが発言はつげんりょくすようになる。貿易ぼうえき負債ふさい削減さくげんのため、それまではネイティブハワイアンの食料しょくりょうとしてのみ栽培さいばいされていたサトウキビを輸出ゆしゅつよう資源しげんとしてだい規模きぼ生産せいさんおこなおうとするうごきが1835ねんより開始かいしされた[2]

1850ねん外国がいこくじんによる土地とち私有しゆうみとめられるようになると、白人はくじん投資とうしたちのによってハワイ各地かくちにサトウキビ農場のうじょう設立せつりつされ、一大いちだい産業さんぎょうへときゅう成長せいちょうした。そのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくないにおいて南北戦争なんぼくせんそう勃発ぼっぱつするとこのうごきはさらに加速かそく、1876ねん関税かんぜい撤廃てっぱいいたり、ハワイ王国おうこく世界せかい有数ゆうすうのサトウキビ輸出ゆしゅつこくとなった[2][† 1]

増加ぞうかする農場のうじょうたいし、ハワイ王国おうこくないハワイじんのみでは労働ろうどうりょく確保かくほすることが困難こんなんとなり、1830年代ねんだいより国外こくがい労働ろうどうりょく輸入ゆにゅうする方策ほうさく模索もさくされはじめ、1852ねん、3年間ねんかんという契約けいやくで、中国ちゅうごくより最初さいしょ契約けいやく労働ろうどうしゃがハワイへ来島らいとうした。以降いこう中国ちゅうごくより多数たすう労働ろうどう移民いみんがやってきたが[† 2]中国人ちゅうごくじんらは定着ていちゃくりつわるく、契約けいやく終了しゅうりょう独自どくじべつ商売しょうばいはじめたりするなどしたことによりかれらにたいする風当かぜあたりがつよくなったことから、ハワイ政府せいふ中国人ちゅうごくじん移民いみんかず制限せいげんし、くにから労働ろうどうりょく輸入ゆにゅうするようになる。

日本にっぽんもその対象たいしょういちこくとして交渉こうしょうたれた。1898ねん、ハワイがアメリカに併合へいごうされると、アメリカの中国人ちゅうごくじん排斥はいせきほう適用てきようされ、中国人ちゅうごくじん移住いじゅう事実じじつじょう不可能ふかのうとなった。

来島らいとうなが[編集へんしゅう]

元年がんねんしゃ[編集へんしゅう]

1860ねん万延まんえん元年がんねん)、日本にっぽんべい使節しせつだんがハワイに寄港きこうしたさいカメハメハ4せい労働ろうどうしゃ供給きょうきゅう請願せいがんする親書しんしょ信託しんたくしたが、日本にっぽん明治維新めいじいしんへとかう混迷こんめいにあり、積極せっきょくてき対応たいおうがなされずにいた。

カメハメハ5せいは、在日ざいにちハワイ領事りょうじとして横浜よこはま滞在たいざいしていたユージン・ヴァン・リード日本人にっぽんじん労働ろうどうしゃ招致しょうちについて、日本にっぽん政府せいふ交渉こうしょうするよう指示しじした。ヴァン・リードは徳川とくがわ幕府ばくふ交渉こうしょうし、出稼でかせぎ300にんぶん渡航とこう印章いんしょうしもける。その日本にっぽんがわ政府せいふ明治めいじ政府せいふへとわり、明治めいじ政府せいふはハワイ王国おうこく条約じょうやく未済みさいこくであることを理由りゆうに、徳川とくがわ幕府ばくふとの交渉こうしょう内容ないようすべ無効むこうした[5]

しかし、すでに渡航とこう準備じゅんびえていたヴァン・リードは、1868ねん慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん5月17にち旧暦きゅうれき4がつ25にち[6]、サイオトごうで153めい[† 3]日本人にっぽんじんを、許可きょかでホノルルへおくした。こうしておくられたはつ日本人にっぽんじん労働ろうどうしゃは、明治めいじ初年しょねん元年がんねんしゃ(がんねんもの)とばれた。

153にんのうち、すくなくとも男性だんせい50にん女性じょせい6にんは、「契約けいやく実際じっさい状況じょうきょうちがう」と年季ねんきけをたずに1870ねん明治めいじ2ねん)に帰国きこくした[7]一方いっぽうで、元年がんねんしゃなかにはリーダーの牧野まきの富三郎とみさぶろう宮城みやぎけん石巻いしのまき出身しゅっしん)、最年少さいねんしょう石村いしむら市五郎いちごろう(13さい)、マウイとうで102さい生涯しょうがいえた石井いしいせん太郎たろう岡山おかやまけんさむらい)、ハワイじん女性じょせい結婚けっこんしてワイピオ渓谷けいこくんで子孫しそんのこした佐藤さとう徳次郎とくじろう東京とうきょう京橋きょうばし)など、日系にっけい移民いみんかたぐさになったひとたちがいた[8]

日本にっぽんがわ国民こくみんうばわれたとして、1869ねん明治めいじ2ねん)に上野うえのけいはん三輪みわはじめいちをハワイに派遣はけんし、抗議こうぎおこなった。折衝せっしょう結果けっか契約けいやく内容ないようことなるとして40めい即時そくじ帰国きこくし、残留ざんりゅう希望きぼうしたものたいしての待遇たいぐう改善かいぜんけた[5]。この事件じけん契機けいきとして日本にっぽんとハワイの通商つうしょう条約じょうやく議論ぎろんされ、1871ねん明治めいじ4ねん)8がつにちぬの修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつされた。

契約けいやく移民いみん[編集へんしゅう]

明治めいじひろえはちねんける砂糖さとう耕地こうち情景じょうけい
Joseph Dwight Strong、1885ねん

1886ねん明治めいじ19ねん)1がつ28にちにちぬの移民いみん条約じょうやくむすばれ[9]、ハワイへの移民いみん公式こうしき許可きょかされるようになり、政府せいふ斡旋あっせんした移民いみんかんやく移民いみんばれた。1894ねん民間みんかん委託いたくされるまで、やく29,000にんがハワイへわたった[1]

1884ねん最初さいしょ移民いみん600にん公募こうぼたいし、28,000にん応募おうぼがあり[10]、946めい異説いせつあり)[† 4]が「シティ・オブ・トウキョウ」にみ、ハワイへとわたった。この時期じき移民いみんしゃには、江戸えど時代じだい幕府ばくふ通訳つうやくかんとして活躍かつやくしハワイの移民いみん監督かんとくかんを8ねんつとめたのち商会しょうかい設立せつりつしてきく正宗まさむね輸出ゆしゅつして財産ざいさんきずき、社会しゃかい事業じぎょう尽力じんりょくした木村きむらひとしワイアケア耕作こうさく監督かんとくもした星名ほしな謙一郎けんいちろう牧師ぼくし岡部おかべ次郎じろう勉学べんがくののちにロサンゼルスわたった実業じつぎょう甲斐かい政次郎まさじろう[11]などがいる。

かんやく移民いみんは「3年間ねんかんで400まんえんかせげる」といったことをうた文句もんく盛大せいだい募集ぼしゅうおこなわれたが、その実態じったい人身じんしん売買ばいばい類似るいじし、なか奴隷どれいちかかった。労働ろうどう過酷かこくで、現場げんば監督かんとく(ルナ)のむちなぐとう酷使こくし虐待ぎゃくたいおこなわれ、1にち10あいだ労働ろうどうで、やすみはしゅう1にち給与きゅうよ月額げつがく10ドルからしょ経費けいひかれた金額きんがくであった[12]。これは労働ろうどうしゃ契約けいやく満了まんりょうすることを義務付ぎむづけられたハワイの法律ほうりつ通称つうしょう主人しゅじん召使めしつかいほう)に起因きいんするところがおおきい[13]仕事しごと中途ちゅうとめることが法的ほうてきみとめられていなかったのである。

かんやく移民いみん制度せいどにおける具体ぐたいてき交渉こうしょうは、のちに「移民いみん帝王ていおう」とも揶揄やゆされる[13]在日ざいにちハワイ総領事そうりょうじロバート・W・アーウィン一任いちにんされていた。井上いのうえかおる親交しんこうち、その関係かんけいから三井物産みついぶっさん会社かいしゃもちいて日本にっぽん各地かくちから労働ろうどうしゃあつめ、その仲介ちゅうかいりょう日本にっぽん・ハワイの双方そうほうから徴収ちょうしゅうするなど、莫大ばくだいかせぎをていた[13]。アーウィンとの仲介ちゅうかいりょういがわず、1894ねんの26かい移民いみんをもってかんやく移民いみん制度せいど廃止はいしされた。

民間みんかん移民いみん会社かいしゃ[編集へんしゅう]

1894ねんかんやく移民いみん廃止はいしどう時期じきに、弁護士べんごしほしとおる日本にっぽん政府せいふはたらきかけ、民間みんかん移民いみん会社かいしゃ認可にんかされることとなり、以後いご日本にっぽん民間みんかん会社かいしゃとおした斡旋あっせんわたしやく移民いみん)がおこなわれるようになった[14][15]。1896ねん明治めいじ29ねん)には移民いみんしゃおくしのおおかった熊本くまもとに、井上いのうえ敬次郎けいじろう熊本くまもと移民いみん会社かいしゃ設立せつりつした。

日本にっぽんとの移民いみん事業じぎょうおこな会社かいしゃが30しゃ以上いじょう設立せつりつされ、とく広島ひろしま海外かいがい渡航とこう会社かいしゃ森岡もりおか商会しょうかい熊本くまもと移民いみん会社かいしゃ東京とうきょう移民いみん会社かいしゃ日本にっぽん移民いみん会社かいしゃ五大ごだい移民いみん会社かいしゃばれ、勢力せいりょくほこった[16]当時とうじ国際こくさい取引とりひき銀行ぎんこう英国えいこくHSBC協力きょうりょく設立せつりつされた横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこうであったが、移民いみん会社かいしゃらは共同きょうどう私設しせつ京浜けいひん銀行ぎんこう設立せつりつし、移民いみん労働ろうどうしゃ郷里きょうり送金そうきん代行だいこう業務ぎょうむなどをおこなっていた。

日本人にっぽんじん移民いみん急増きゅうぞうで、労働ろうどうしゃ支配しはい弱体じゃくたいこわれたアメリカじん農園のうえん経営けいえいしゃたちは、みずからの支配しはいりょく強化きょうかのため民族みんぞく移民いみん同士どうし対立たいりつ利用りようすることを企図きとし、にちちゅう移民いみんのほかに、1903ねんから韓国かんこくじん移民いみん推進すいしんした(当時とうじ中国人ちゅうごくじん移民いみんは5まんにん日本人にっぽんじん移民いみんは18まんにんいた)[17]。また、ハワイより賃金ちんぎんたかカリフォルニアロサンゼルスリトル・トーキョーサンフランシスコジャパンタウンなどの日本人にっぽんじんがい)にうつ日系にっけい移民いみんえていった[17]

1898ねんハワイ併合へいごう、1908ねん日米にちべい紳士しんし協約きょうやくなどにより日系にっけい移民いみん会社かいしゃすべ消滅しょうめつした。これ以降いこう移民いみん家族かぞくはいったん日本にっぽん帰国きこくし、再度さいど移住いじゅう希望きぼうするかえりまいしゃのみ移住いじゅう許可きょかされるようになり、そうしたものも1924ねん移民いみんほう成立せいりつにより、日本人にっぽんじんのハワイへの移住いじゅう事実じじつじょう不可能ふかのうとなった[1]

その[編集へんしゅう]

その定住ていじゅうした日本人にっぽんじん移民いみん子孫しそん増加ぞうかしたことから、ハワイのぜん人口じんこうにおける日本人にっぽんじん移民いみん日系にっけいじん割合わりあい増加ぞうかつづけ、日本人にっぽんじん移民いみん日系にっけいじんはハワイ最大さいだい民族みんぞく集団しゅうだんとなった[18]だい世界せかい大戦たいせん期間きかん、アメリカ本土ほんど日本人にっぽんじん移民いみん日系にっけいアメリカじんがアメリカ政府せいふにより強制きょうせい収容しゅうよう実施じっしされた。ハワイにおいては日系にっけいじん人口じんこうおおく、そのすべてを収容しゅうようすることが事実じじつじょう不可能ふかのうであるうえ、もし日系にっけいじん強制きょうせい収用しゅうようするとハワイの経済けいざいかなくなると推測すいそくされたことから、アメリカへの帰属きぞくしんよわく、しかも影響えいきょうりょくつよいとされた、一部いちぶ日系にっけいじんしか強制きょうせい収容しゅうよう対象たいしょうとならなかった。最近さいきんではハワイへの日本人にっぽんじん移民いみん急増きゅうぞうしている。2022ねん日本にっぽんはEビザ発給はっきゅうすうふたた首位しゅいとなった。[19]

ストライキ[編集へんしゅう]

農奴のうどごと過酷かこく労働ろうどう条件下じょうけんかにおいて、日本人にっぽんじん移民いみんはげしく抵抗ていこうし、度々どどストライキおこなった。1900ねんまでのストライキ件数けんすうすうひゃくけんにのぼり、不当ふとうあつかいにたいする改善かいぜんうったえられたが、こうしたおこないは当地とうちほうにおいて違法いほうとされ、牢獄ろうごくおくりとなっていたため、待遇たいぐう改善かいぜんにはいたらなかった。

1900ねん明治めいじ33ねん)のアメリカのハワイ併合へいごうこうは、1900ねん基本きほんほうにより既存きそん労働ろうどう契約けいやくすべ無効むこうとなって過酷かこく労働ろうどう条件じょうけん緩和かんわされるにいたり、ストライキの件数けんすう減少げんしょうしていった。この時期じき移民いみんしゃには、ハワイ大学はわいだいがく社会しゃかい学科がっかつとめたのち帰国きこくして政府せいふ翻訳ほんやくとなった甲斐かい兼蔵かねぞうがいる。

このような状況じょうきょうなかで1908ねん法学ほうがくしゃ根来ねごろはじめこれが『にちぬの時事じじ』にハワイとアメリカ本土ほんど労働ろうどう条件じょうけん乖離かいり指摘してきし、労働ろうどうしゃ待遇たいぐう改善かいぜん主張しゅちょうした論文ろんぶん掲載けいさいし、経済けいざいかいだい論争ろんそうはじまった。増給ぞうきゅうろん支持しじする石井いしい勇吉ゆうきちらにより「増給ぞうきゅう期成きせいかい」が結成けっせいされ、待遇たいぐう改善かいぜん運動うんどう展開てんかいされた。1909ねん5がつ9にち、これに呼応こおうした日本人にっぽんじん労働ろうどうしゃら7,000にんにより、アイエア、ワイパフ、カフク、ワイアナエ、エヴァなどのオアフとうかく農園のうえん一斉いっせいにストライキが実施じっしされた。これにたい農園のうえん経営けいえいしゃ協会きょうかいHSPA)は参加さんかしゃらとその家族かぞくたいれを拒否きょひし、退命令めいれいした。この結果けっか5,000にん以上いじょうのストライキ難民なんみんがホノルルなどにあふかえった。煽動せんどうした日本人にっぽんじん活動かつどうらは耕地こうち営業えいぎょう妨害ぼうがいざいなどで逮捕たいほされ、ストライキは失敗しっぱいわったが、200まんドル以上いじょう損失そんしつ計上けいじょうした経営けいえいしゃがわ労働ろうどう環境かんきょう見直みなおしをはからざるをず、若干じゃっかん増給ぞうきゅう実施じっしされた[20]

しかし、だいいち世界せかい大戦たいせんなどの影響えいきょうによりインフレ進行しんこうすると応急おうきゅう処置しょちてき賃上ちんあげでは生活せいかつかなくなり、1920ねん1がつ19にちには他国たこく出身しゅっしんしゃもあわせたハワイ史上しじょう最大さいだいのストライキがオアフとうにて実施じっしされ、ぜん農園のうえん労働ろうどうしゃやく77%がこれに参加さんかした[21]。このストライキでは1まんにんえる日本人にっぽんじん労働ろうどうしゃ農園のうえん退去たいきょさせられ、その結果けっか野営やえいしていた労働ろうどうしゃら2,500にんインフルエンザ感染かんせんし150めい死亡しぼうするなど、深刻しんこく被害ひがいをもたらした。結果けっかてきに5わり賃上ちんあげ、労働ろうどう環境かんきょう改善かいぜんることができたが、おおくは農場のうじょうり、製糖せいとう産業さんぎょうにおける日本人にっぽんじん労働ろうどうしゃ割合わりあいは1902ねんの70%から19%へ急落きゅうらくした[21]。また、こうした行動こうどう排日はいにち運動うんどう加速かそくさせ、日系にっけいじん社会しゃかいへの圧力あつりょくがよりつよめられることとなった。

日本人にっぽんじん移民いみん宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

マキキせいしろ教会きょうかい

ハワイでは元来がんらいきたアメリカ東海岸ひがしかいがんからものたちによって会衆かいしゅう教会きょうかいおおきな位置いちめていたが[22]日本にっぽん中国ちゅうごくからの移民いみんからも儒教じゅきょう道教どうきょう仏教ぶっきょう神道しんとうなどがまれ、とく仏教ぶっきょうさかえた[22]。ハワイにおける仏教ぶっきょうは、1889ねん浄土真宗じょうどしんしゅう僧侶そうりょであった曜日ようびあおいりゅう本願寺ほんがんじ布教ふきょう開始かいししたことを嚆矢こうしとする[22]。これは、西日本にしにほん広島ひろしまけん山口やまぐちけん出身しゅっしん移民いみんや、沖縄おきなわけいアメリカじんおおかったことが要因よういんとされている[22]

こうした宗教しゅうきょう年中ねんじゅう行事ぎょうじ冠婚葬祭かんこんそうさいだけでなく日本語にほんご学校がっこう寺子屋てらこや合唱がっしょうたいボーイスカウト講演こうえんかいバザーなど様々さまざまもよおしの提供ていきょうし、日系にっけい社会しゃかいのコミュニケーションの基礎きそがためという役割やくわりたすようになった[23]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ サトウキビ生産せいさんりょうは1837ねん時点じてんやく2トン、1870ねん1まんトン、1900ねん30まんトン、1930ねん100まんトン。
  2. ^ 19世紀せいき中国ちゅうごくからハワイへやってきた労働ろうどうしゃすうやく46,000にんである。
  3. ^ 内訳うちわけおとこ146、おんな5、子供こども2で『ハワイ・さまよえる楽園らくえん』による。『ハワイの歴史れきし文化ぶんか』では149めいとされている。
  4. ^ やく45%が山口やまぐちけんやく23%が広島ひろしまけんからの移民いみんであった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 矢口やぐちp.25-27
  2. ^ a b c 矢口やぐちp.20-21
  3. ^ 矢口やぐちp.24-25
  4. ^ 矢口やぐちp.27-30
  5. ^ a b 中嶋なかじまp.133-136
  6. ^ 元年がんねんしゃ、150ねん歴史れきし ハワイしゅう観光かんこうきょく、2019ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  7. ^ Yamashita, Souen (1968). 元年がんねんしゃのおもかげ:ハワイ日本人にっぽんじん移民いみんひゃくねんさい記念きねん. Tokyo: Nihon Hawai Kyokai 
  8. ^ ざいホノルル日本国にっぽんこく総領事館そうりょうじかん協賛きょうさん 主婦しゅふソサエティー・オブ・ハワイ総会そうかい開催かいさい三澤みさわやすし総領事そうりょうじのスピーチ、2016ねん
  9. ^ CONVENTION BETWEEN THE EMPIRE OF JAPAN AND THE KINGDOM OF THE HAWAIIAN ISLANDS”. 2021ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  10. ^ 矢口やぐちp.30-32
  11. ^ 甲佐こうさまち先人せんじん 甲斐かい政次郎まさじろう 熊本くまもとけん甲佐こうさまち、2022ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  12. ^ 矢口やぐちp.32-33
  13. ^ a b c 中嶋なかじまp.137-140
  14. ^ 井上いのうえ敬次郎けいじろう自叙伝じじょでん 波乱はらん重畳ちょうじょうの70ねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん、2022ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  15. ^ 大陸たいりく植民しょくみん合資ごうし会社かいしゃ
  16. ^ 中嶋なかじまp.142-148
  17. ^ a b Hearn - Men And Spirituality A StudyMark Chung Hearn. 2011
  18. ^ 吉岡よしおか桂子けいこ (2018ねん6がつ8にち). “「越境えっきょうしゃ政治せいじ書評しょひょう移動いどう」に焦点しょうてん、「日本人にっぽんじん」とは”. 朝日新聞あさひしんぶん. オリジナルの2020ねん3がつ26にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200326222025/https://book.asahi.com/article/11605271 
  19. ^ E2 Visa - German American Legal - Ihre Internationale Anwaltskanzlei” (2023ねん11月16にち). 2024ねん2がつ23にち閲覧えつらん
  20. ^ 中嶋なかじまp.149-154
  21. ^ a b 中嶋なかじまp.157-161
  22. ^ a b c d 中嶋なかじまp.271
  23. ^ 中嶋なかじまp.272

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 坪井つぼいみゑ『ハワイ最初さいしょ日本語にほんご新聞しんぶん発行はっこうしたおとこ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ東京とうきょう、2000ねん 
  • 飯田いいだこう二郎じろうハワイにおける日本人にっぽんじん居住きょじゅう出身しゅっしん分布ぶんぷ」『人文じんぶん地理ちりだい46かんだい1ごう人文じんぶん地理ちり学会がっかい、1994ねん、85-102ぺーじdoi:10.4200/jjhg1948.46.85ISSN 00187216CRID 1390001205139852032 
  • かみ繁司しげじハワイ・北米ほくべいにおける日本人にっぽんじん移民いみんおよび日系にっけいじんかんする資料しりょうについて(3)」『参考さんこう書誌しょし研究けんきゅうだい52ごう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん、2000ねん3がつ、17-88,巻末かんまつひょう1まいdoi:10.11501/3051442ISSN 03853306NDLJP:3051442 
  • ホ ノルル熊本くまもとけんじんかいへん『ホノルル熊本くまもとけんじん会誌かいし文成ふみなりしゃ、1937ねん 
  • 矢口やぐちゆうじん『ハワイの歴史れきし文化ぶんか中公新書ちゅうこうしんしょ、2002ねんISBN 4-12-101644-0 
  • 中嶋なかじま弓子ゆみこ『ハワイ・さまよえる楽園らくえん東京書籍とうきょうしょせき、1993ねんISBN 4-487-75396-1 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]