ざいみなみアフリカ日本人にっぽんじん

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ざいみなみアフリカ日本人にっぽんじん
日本の旗南アフリカ共和国の旗
そう人口じんこう
1,474にん(2013ねん10がつ現在げんざい[1][ちゅう 1]
言語げんご
日本語にほんご英語えいごアフリカーンス
宗教しゅうきょう
仏教ぶっきょう神道しんとう

ざいみなみアフリカ日本人にっぽんじん(ざいみなみアフリカにほんじん)では、みなみアフリカ共和きょうわこく生活せいかつする日本人にっぽんじんについて記述きじゅつする。

歴史れきし[編集へんしゅう]

みなみアフリカを公式こうしき最初さいしょおとずれた日本人にっぽんじんは、江戸えど幕府ばくふロシア派遣はけんした山内やまうちつくる左衛門さえもんら6にん留学生りゅうがくせいたちである。引率いんそつ山内さんないと、留学生りゅうがくせい市川いちかわ文吉ぶんきち緒方おがたじょう次郎じろう大築おおつき彦五ろう田中たなか次郎じろう小沢おざわ清次郎せいじろうの6にんはこかんから香港ほんこんシンガポールバタヴィア慶応けいおう2ねん1866ねん)1がつケープタウン到着とうちゃくし、5日間にちかん滞在たいざいした。訪問ほうもんしゃとしては、1903ねん入国にゅうこくした探検たんけん中村なかむら直吉なおきちがいる[2]人種じんしゅ差別さべつにより国内こくない移動いどう阻止そしされた中村なかむらは、地元じもと新聞しんぶんうった通行つうこうしょうにした[2]

最初さいしょ定住ていじゅうしゃとしては、1898ねん明治めいじ31ねん)に茨城いばらきけん出身しゅっしん古谷ふるやこまひらた(1870ねんまれ)・喜代子きよこ夫婦ふうふがケープタウンに移住いじゅうし、市内しない繁華はんかがい日本にっぽんせい雑貨ざっか美術びじゅつひんあつかう「ミカド商会しょうかい」をオープンさせた。古谷ふるやは1890ねんごろにサンフランシスコ移住いじゅうし、ハワイ雑貨ざっかてん経営けいえいしていたが、新天地しんてんちとして当時とうじダイアモンド産業さんぎょうにぎわっていたみなみアフリカに転居てんきょした。古谷ふるや到着とうちゃくにすでに日本人にっぽんじんもと船員せんいん2人ふたり売春ばいしゅんがケープタウンにいたという[3]前述ぜんじゅつ中村なかむらも、古谷ふるやおなじころにダーバン(岩崎いわさきぬきさん[4])とタンガでも日本人にっぽんじんみせ経営けいえいし、その洗濯せんたく、コック、売春ばいしゅんなどがいたとしるしている[2]。1918ねん(大正たいしょう7ねん)には日本にっぽん領事館りょうじかん開設かいせつされた。

古谷ふるやのミカド商会しょうかい経営けいえい順調じゅんちょうで、日本にっぽん製品せいひん販売はんばいだけでなくみなみアフリカさん羊毛ようもうなどを日本にっぽん輸出ゆしゅつする事業じぎょうがけるようになっていった。しかしだいいち大戦たいせん日本人にっぽんじんなどアジアじんたいする排斥はいせきはげしくなり、つよ望郷ぼうきょうねんられた古谷ふるやは、1915ねん大正たいしょう4ねん)にみせ経営けいえい従業じゅうぎょういんまかせて帰国きこくし、帰国きこくみなみアフリカの現地げんち法人ほうじんとしてザ・ミカド・サウスアフリカ・リミテッドしゃげた。ザ・ミカド・サウスアフリカ・リミテッドしゃはその日本人にっぽんじん従業じゅうぎょういんによってダーバンで経営けいえいされていたが[5]太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん1942ねん昭和しょうわ17ねん)に日本人にっぽんじん従業じゅうぎょういん全員ぜんいん戦時せんじ交換こうかんせん帰国きこくし、のこされたザ・ミカド・サウスアフリカ・リミテッドしゃ資産しさん敵性てきせい資産しさんとして現地げんち政府せいふ接収せっしゅうされた[6]

だい大戦たいせんアパルトヘイト体制たいせいにおいて、日本にっぽんみなみアフリカにとっての最大さいだい貿易ぼうえき相手あいてこくとなったころから、日本人にっぽんじんみなみアフリカへの移住いじゅうふたたはじまった。

当時とうじ首相しゅしょうだったヘンドリック・フルウールトは、日本にっぽん貿易ぼうえき代表だいひょうだん定期ていきてき訪問ほうもんするようになって以来いらい日本人にっぽんじん有色ゆうしょく人種じんしゅおなあつかいをすることは、外交がいこうじょう不利ふりだと判断はんだんしたころから、1961ねん1がつ19にちより、両国りょうこくあいだ締結ていけつされた貿易ぼうえき協定きょうていもとづいて、みなみアフリカに日本にっぽん国籍こくせき所持しょじしゃを「名誉めいよ白人はくじん」とあつかうことを[7]日本人にっぽんじんには参政さんせいけん兵役へいえきのぞいて、ほぼすべてのめんにおいて白人はくじんおな権利けんりならびに特権とっけんあたえられることとなった。

アパルトヘイトの撤廃てっぱいともない、日本人にっぽんじん移住いじゅう減少げんしょうすることとなった。

教育きょういく[編集へんしゅう]

在住ざいじゅう日本人にっぽんじんたいする教育きょういく機関きかんとしては、「ヨハネスブルグ日本人にっぽんじん学校がっこう」と「ケープタウン日本語にほんごかい[8]」がある。

メディア[編集へんしゅう]

日本語にほんごによるみなみアフリカ情報じょうほうのメディアとして、「ケープタウン新聞しんぶん[9]」がある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ “Japan-South Africa Relations” (英語えいご). 外務省がいむしょうHP英語えいごばん. (2011ねん6がつ1にち). https://www.mofa.go.jp/region/africa/s_africa/data.html(2006ねん10がつ現在げんざい)の時点じてんでは1,238にん 

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ みなみアフリカ共和きょうわこく こくあいだ関係かんけい. 外務省がいむしょうHP (外務省がいむしょう). (2015ねん4がつ17にち). https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_africa/data.html 
  2. ^ a b c 藤田ふじたみどり探険たんけん殖民しょくみん : 明治めいじ日本にっぽんにおけるアフリカぞう」『国際こくさい文化ぶんか研究けんきゅう論集ろんしゅうだい2かん東北大学とうほくだいがく大学院だいがくいん国際こくさい文化ぶんか研究けんきゅう、1994ねん12月、19-33ぺーじhdl:10097/34412ISSN 1341-0857NAID 1100048119862023ねん3がつ27にち閲覧えつらん 
  3. ^ Masako Osada (2002). Sanctions and Honorary Whites: Diplomatic Policies and Economic Realities in Relations Between Japan and South Africa. Greenwood Publishing Group. https://books.google.co.jp/books?id=XmD52sveLMEC&pg=PA30. 
  4. ^ “アフリカにわたった日本人にっぽんじん. ほん万華鏡まんげきょう (国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん). https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/14/1.html 
  5. ^ みなみおもね貿易ぼうえき将来しょうらい”. 大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん. (1917ねん1がつ26にち) 
  6. ^ 熊田くまだ忠雄ただお (2010, p. 31)
  7. ^ “South Africa: Honorary Whites”. TIME (TIMEしゃ). (January 19, 1962). ISSN 0040-781X. OCLC 473353445. http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,895835,00.html. 
  8. ^ ケープタウン日本語にほんごかい”. 2012ねん10がつ7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん12月8にち閲覧えつらん
  9. ^ ケープタウン新聞しんぶん”. 2015ねん12月8にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]