日系 にっけい アメリカ人 じん 市民 しみん 同盟 どうめい [注釈 ちゅうしゃく 1] [注釈 ちゅうしゃく 2] (にっけいアメリカじんしみんどうめい、英語 えいご : Japanese American Citizens League 、略称 りゃくしょう : JACL ) は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく カリフォルニア州 しゅう サンフランシスコ に本部 ほんぶ を置 お く、アジア系 けい アメリカ人 じん の権利 けんり 擁護 ようご と、同性 どうせい 結婚 けっこん への支持 しじ を目的 もくてき とした公民 こうみん 権 けん 団体 だんたい [10] [11] 。アメリカ国内 こくない では、最古 さいこ かつ最大 さいだい のアジア系 けい 人権 じんけん 団体 だんたい である[10] 。
戦前 せんぜん は、ロサンゼルス ・サンフランシスコ・シアトル ・シカゴ に支部 しぶ 、首都 しゅと ワシントンD.C. にロビー機関 きかん が、各々 おのおの 置 お かれていた。
現在 げんざい では、全国 ぜんこく 組織 そしき は100以上 いじょう の支部 しぶ で構成 こうせい されている。国内 こくない の主要 しゅよう 都市 とし と大都市 だいとし 圏 けん に置 お かれている支部 しぶ は、
カリフォルニア中央 ちゅうおう 地区 ちく
東部 とうぶ 地区 ちく
山間 さんかん 地区 ちく
中西部 ちゅうせいぶ 地区 ちく
北 きた カリフォルニア・西 にし ネバダ・太平洋 たいへいよう 地区 ちく
太平洋 たいへいよう 北部 ほくぶ 地区 ちく
太平洋 たいへいよう 南西 なんせい 部 ぶ 地区 ちく
といった7地区 ちく にもうけられた評議 ひょうぎ 会 かい の、何 いず れかに属 ぞく す形 かたち となっている[11] 。
黎明 れいめい 期 き (1929年 ねん ~1936年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
クラレンス・アライ(荒井 あらい 威 たけし 弥 わたる )[注釈 ちゅうしゃく 3] やジェームズ・サカモト(坂本 さかもと 好徳 よしのり ) (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 4] を中心 ちゅうしん として、1921年 ねん 9月14日 にち に発足 ほっそく した『シアトル革新 かくしん 市民 しみん 連盟 れんめい 』のほか、トーマス・ヤタベ(谷田部 やたべ 保 たもつ )[注釈 ちゅうしゃく 5] を代表 だいひょう として1923年 ねん 5月5日 にち にフレズノ で発足 ほっそく した『アメリカ忠誠 ちゅうせい 協会 きょうかい 』、城戸 きど 三郎 さぶろう を代表 だいひょう として1928年 ねん 10月19日 にち にサンフランシスコで発足 ほっそく した『新 しん アメリカ市民 しみん 協会 きょうかい 』など、既存 きそん の2世 せい 組織 そしき が統合 とうごう する形 かたち で、1929年 ねん 4月 がつ に発足 ほっそく した[16] 。初代 しょだい 会長 かいちょう には、アライが就任 しゅうにん する事 こと となった[15] 。
発足 ほっそく 当初 とうしょ は、2世 せい を各 かく 分野 ぶんや における専門 せんもん 家 か や中小 ちゅうしょう 企業 きぎょう の経営 けいえい 者 しゃ に育成 いくせい すべく、自由 じゆう な起業 きぎょう ・自助 じじょ 努力 どりょく ・アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく への忠誠 ちゅうせい を促 うなが す事 こと に、主眼 しゅがん を置 お いた[16] 。
ロビー活動 かつどう の展開 てんかい [ 編集 へんしゅう ]
その後 ご は、サカモトをはじめとするシアトルの活動 かつどう 家 か 達 たち による積極 せっきょく 的 てき な支援 しえん もあり、1930年 ねん 8月 がつ 29日 にち には初 はつ となる全国 ぜんこく 大会 たいかい が、シアトルで開催 かいさい された[17] 。そこでは、「日本語 にほんご 学校 がっこう 、帰 き 米 まい の存在 そんざい 、二 に 重 じゅう 国籍 こくせき 、1世 せい の経済 けいざい 的 てき 支配 しはい 及 およ び中国 ちゅうごく 情勢 じょうせい への日本 にっぽん に対 たい する共感 きょうかん 」が、移民 いみん 社会 しゃかい に「日本 にっぽん 的 てき なもの」を蔓延 まんえん させる事 こと を警戒 けいかい し、アメリカ市民 しみん としての忠誠 ちゅうせい 心 しん に基 もと づく「2世 せい の立場 たちば 」を強調 きょうちょう する事 こと が、改 あらた めて確認 かくにん された。それに伴 ともな い、1924年 ねん に施行 しこう された『排日 はいにち 移民 いみん 法 ほう 』において「帰化 きか 不能 ふのう 外国 がいこく 人 じん 」と見 み なされた日系 にっけい 人 じん とアジア系 けい 移民 いみん の市民 しみん 権 けん を、拡大 かくだい する為 ため のロビー活動 かつどう を開始 かいし した[16] [19] 。
まずは、1922年 ねん 9月に連邦 れんぽう 議会 ぎかい を通過 つうか した、帰化 きか 不能 ふのう 外国 がいこく 人 じん である男性 だんせい と結婚 けっこん した女性 じょせい は、アメリカ市民 しみん 権 けん を剥奪 はくだつ される事 こと を定 さだ めた『ケーブル法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) 』を、撤廃 てっぱい させる事 こと を目標 もくひょう とした。結果 けっか として、1931年 ねん に連邦 れんぽう 議会 ぎかい は、帰化 きか 不能 ふのう 外国 がいこく 人 じん と結婚 けっこん しても、市民 しみん 権 けん を保持 ほじ し続 つづ ける事 こと が可能 かのう となる様 よう に法 ほう 改正 かいせい し、1936年 ねん には撤廃 てっぱい される事 こと となった[20] 。
トクタロー・スローカム(1942年 ねん 4月 がつ 11日 にち 撮影 さつえい )
次 つ いで、別所 べっしょ 南洋 なんよう [注釈 ちゅうしゃく 6] に代表 だいひょう される、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に従軍 じゅうぐん した838名 めい の1世 せい を含 ふく めた、アジア系 けい 移民 いみん の退役 たいえき 軍人 ぐんじん に対 たい して、市民 しみん 権 けん を付与 ふよ させる為 ため のキャンペーンを開始 かいし した。この取 と り組 く みも、別所 べっしょ と同 おな じ1世 せい の退役 たいえき 軍人 ぐんじん であるトクタロー・スローカム(西村 にしむら 徳太郎 とくたろう )[注釈 ちゅうしゃく 7] によるロビー活動 かつどう が功 こう を奏 そう し、1935年 ねん 6月24日 にち にフランクリン・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう は、アジア系 けい 退役 たいえき 軍人 ぐんじん へ市民 しみん 権 けん を与 あた える『ナイ・リー法 ほう 』に署名 しょめい する事 こと となった[20] [24] 。
「帰 き 米 まい 2世 せい 」への支援 しえん [ 編集 へんしゅう ]
2世 せい において、重要 じゅうよう なファクターを占 し める一 ひと つの集団 しゅうだん として、アメリカで生 う まれながら、日本 にっぽん で教育 きょういく を受 う けた後 のち に再 さい 渡米 とべい した「帰 き 米 まい 2世 せい 」が挙 あ げられる。
1930年代 ねんだい から、全米 ぜんべい 各地 かくち の日本人 にっぽんじん 会 かい は「1世 せい の真摯 しんし な後継 こうけい 者 しゃ は、日本 にっぽん で教育 きょういく された2世 せい である」という見地 けんち から、日本 にっぽん に滞在 たいざい する2世 せい に対 たい して、旅費 りょひ を支援 しえん したうえで、アメリカでの就職 しゅうしょく を斡旋 あっせん する「帰 き 米 まい 奨励 しょうれい 運動 うんどう 」を展開 てんかい した。結果 けっか として、1万 まん 人 にん 以上 いじょう の2世 せい が「帰 き 米 まい 」したと伝 つた えられている。
しかし、法的 ほうてき な地位 ちい は他 た の2世 せい と同 おな じであっても、日本 にっぽん で教育 きょういく を受 う けた影響 えいきょう から、多 おお くの帰 き 米 まい がアメリカ社会 しゃかい の中 なか で孤立 こりつ 感 かん ・疎外 そがい 感 かん に苛 さいな まれる事 こと となってしまった。特 とく に、幼少 ようしょう 期 き から日本 にっぽん に滞在 たいざい していた帰 き 米 まい の場合 ばあい 、英語 えいご に不自由 ふじゆう な者 もの が多 おお かった。奨励 しょうれい 運動 うんどう による支援 しえん があったとはいえ、本来 ほんらい ならアメリカでの生活 せいかつ で醸成 じょうせい される筈 はず の「日系 にっけい 」を軸 じく としたエスニックな意識 いしき を共有 きょうゆう できず、JACLの様 よう な大 だい 部分 ぶぶん の2世 せい からは「荒 あら っぽい」「変 か わり者 もの 」と評 ひょう される独自 どくじ のグループを形成 けいせい する様 よう になった。そうした帰 き 米 まい も、職業 しょくぎょう 面 めん では他 た の2世 せい と同様 どうよう に、日系 にっけい コミュニティに依存 いぞん せざるを得 え なかった。こうして、アメリカにおいて生活 せいかつ するうえで、あらゆる面 めん で困難 こんなん に直面 ちょくめん する事 こと となった帰 き 米 まい は、日系 にっけい をめぐる人種 じんしゅ エスニック編成 へんせい において、ある種 しゅ の「逸脱 いつだつ した存在 そんざい 」として扱 あつか われる事 こと となった[注釈 ちゅうしゃく 8] 。
その事 こと から、JACLのロサンゼルス支部 しぶ は、これらの問題 もんだい に対処 たいしょ するべく、1935年 ねん に「帰 き 米 まい 部 ぶ 」を立 た ち上 あ げた。帰 かえり 米 まい 部 ぶ は、1936年 ねん のJACL全国 ぜんこく 大会 たいかい において、その立場 たちば を主張 しゅちょう し、同 どう 大会 たいかい の使用 しよう 言語 げんご に日本語 にほんご を認 みと める事 こと のほか、機関 きかん 誌 し 等 とう における日本語 にほんご 欄 らん の開設 かいせつ を決議 けつぎ させた。その後 ご も、帰 き 米 まい を対象 たいしょう とした英会話 えいかいわ 教室 きょうしつ の設置 せっち を実現 じつげん させるなど、積極 せっきょく 的 てき に活動 かつどう した。
開戦 かいせん 前後 ぜんご 期 き (1937年 ねん ~1942年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
日米 にちべい 関係 かんけい の悪化 あっか と日系 にっけい コミュニティの危機 きき [ 編集 へんしゅう ]
上述 じょうじゅつ した1924年 ねん の『排日 はいにち 移民 いみん 法 ほう 』制定 せいてい をきっかけに、昭和 しょうわ の初 はじ め頃 ごろ から悪化 あっか の一途 いっと を辿 たど っていた日米 にちべい 関係 かんけい は、1937年 ねん の日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ と、それに伴 ともな う10月25日 にち のルーズベルト大統領 だいとうりょう による隔離 かくり 演説 えんぜつ 、12月12日 にち のパナイ号 ごう 事件 じけん 、翌 よく 1938年 ねん 11月の援蔣ルート 完成 かんせい などにより、修復 しゅうふく が不可能 ふかのう なものと、なりつつあった。加 くわ えて、1938年 ねん 7月 がつ 26日 にち にアメリカが、日米 にちべい 通商 つうしょう 航海 こうかい 条約 じょうやく の破棄 はき を通告 つうこく 、翌 よく 1939年 ねん 1月 がつ 26日 にち に失効 しっこう した。これにより、両国 りょうこく は1855年 ねん 2月 がつ 21日 にち の日米 にちべい 和親 わしん 条約 じょうやく 発効 はっこう 以来 いらい 、初 はじ めての「無 む 条約 じょうやく 時代 じだい 」に突入 とつにゅう する事 こと となった。
日 にち 中 ちゅう 戦争 せんそう の初期 しょき の時点 じてん では、JACLは日本 にっぽん を擁護 ようご するスタンスを取 と った。『羅 ら 府 ふ 新報 しんぽう 』の英文 えいぶん 欄 らん 編集 へんしゅう 長 ちょう でJACLのメンバーでもあった田中 たなか 董 ただし 梧(英語 えいご 版 ばん ) は、盧溝橋 ろこうきょう 事件 じけん が勃発 ぼっぱつ した際 さい 、日本 にっぽん の経済 けいざい 的 てき 権益 けんえき をたてに、それを正当 せいとう 化 か した。以降 いこう の1930年代 ねんだい において、田中 たなか は一貫 いっかん して、日本 にっぽん の立場 たちば への理解 りかい を、同紙 どうし を通 つう じてアメリカ社会 しゃかい へ訴 うった え続 つづ けた。
また、JACL創設 そうせつ メンバーの一人 ひとり である城戸 きど 三郎 さぶろう も、とある日系 にっけい 紙 し のコラムにおいて、日本 にっぽん を「人種 じんしゅ 平等 びょうどう のチャンピオン」「唯一 ゆいいつ の非 ひ 白人 はくじん による大国 たいこく 」と呼 よ び、その「汎 ひろし アジア主義 しゅぎ 」を、「全 すべ ての人種 じんしゅ が、隣人 りんじん 達 たち と平和 へいわ に生 い きる」思想 しそう であると評 ひょう するなど、日本 にっぽん をめぐる国際 こくさい 政治 せいじ を、「人種 じんしゅ 平等 びょうどう 」を唱 とな えるJACL独自 どくじ の関心 かんしん に基 もと づき解釈 かいしゃく した。
他 ほか にも、JACL幹部 かんぶ の一人 ひとり であったジョージ・イナガキ(稲垣 いながき 譲次 じょうじ )[注釈 ちゅうしゃく 9] は、
「多 おお くのアメリカ人 じん から見 み れば、我々 われわれ は皆 みな 日本人 にっぽんじん である。彼等 かれら の日本 にっぽん や日本人 にっぽんじん についての意見 いけん は、極東 きょくとう 情勢 じょうせい に関 かん する悪意 あくい あるプロパガンダと無知 むち によって作 つく り出 だ されたものであるにもかかわらず、我々 われわれ 2世 せい に対 たい しても向 む けられている」 「今 いま 、我々 われわれ は将来 しょうらい の同 おな じ状況 じょうきょう に対 たい して自分 じぶん 自身 じしん を守 まも る為 ため には、一致 いっち 団結 だんけつ して、この国 くに の人々 ひとびと に、我々 われわれ の真 しん の立場 たちば を意識 いしき させなくてはならないと、自覚 じかく しつつある」
と主張 しゅちょう 。極東 きょくとう 情勢 じょうせい に関 かん する日本 にっぽん 側 がわ の正当 せいとう 性 せい を宣伝 せんでん し、中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう や反日 はんにち 団体 だんたい により歪 ゆが められたアメリカ社会 しゃかい の認識 にんしき を正 ただ す事 こと が、アメリカ市民 しみん としての忠誠 ちゅうせい を示 しめ す事 こと に繋 つな がると考 かんが えた。
しかし、アメリカ社会 しゃかい における日系 にっけい 人 じん に対 たい する風当 かぜあ たりは、日 ひ を追 お う毎 ごと に厳 きび しいものと化 か した。特 とく に反日 はんにち 団体 だんたい は、2世 せい による二 に 重 じゅう 国籍 こくせき 問題 もんだい を、攻撃 こうげき の標的 ひょうてき とする様 よう になった。こうした動 うご きを察知 さっち したJACLは、1939年 ねん 6月7日 にち 付 づけ の『羅 ら 府 ふ 新報 しんぽう 』に、ウォルター・ツカモト(塚本 つかもと 武雄 たけお )会長 かいちょう による、
「合衆国 がっしゅうこく に対 たい する偽 いつわ りなき忠誠 ちゅうせい という原則 げんそく について、妥協 だきょう は有 あ り得 え ない。そして、如何 いか なる犠牲 ぎせい を伴 ともな おうとも、我々 われわれ が最初 さいしょ から最後 さいご まで、常 つね にアメリカ人 じん である事 こと を、忘 わす れてはならない」
といった声明 せいめい を掲載 けいさい 。2世 せい の地位 ちい を守 まも る為 ため の具体 ぐたい 的 てき な行動 こうどう を要請 ようせい すべく、二 に 重 じゅう 国籍 こくせき を廃絶 はいぜつ する運動 うんどう を呼 よ び掛 か けた。
その後 ご 、日本 にっぽん では第 だい 2次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく によって、1940年 ねん 7月 がつ 26日 にち に『基本 きほん 国策 こくさく 要綱 ようこう 』が閣議 かくぎ 決定 けってい され、『大 だい 東亜 とうあ 共栄 きょうえい 圏 けん 』の建設 けんせつ が政策 せいさく となった事 こと に続 つづ き、同年 どうねん 9月27日 にち には日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい が締結 ていけつ され、いよいよ日米 にちべい 開戦 かいせん は不可避 ふかひ な情勢 じょうせい となった。
その事 こと から、JACLは翌 よく 1941年 ねん 1月 がつ 26日 にち 付 づけ の『羅 ら 府 ふ 新報 しんぽう 』に、ロサンゼルス支部 しぶ 長 ちょう のフレッド・タヤマ(田山 たやま 勝 まさる )による、
「私 わたし 達 たち が、両親 りょうしん の国 くに に向 む かって武器 ぶき を取 と らなければならない日 ひ が来 こ ない事 こと を、私 わたし 達 たち はいつも願 ねが っております。しかし、万 まん が一 いち その日 ひ が来 く る様 よう な事 こと があれば、2世 せい は覚悟 かくご が出来 でき ております。私 わたし 達 たち は、唯 ただ 一 ひと つの旗 はた “合衆国 がっしゅうこく 星条旗 せいじょうき ”に対 たい して、忠誠 ちゅうせい を負 お うのであります」
といった声明 せいめい を掲載 けいさい した。
また田中 たなか も、1940年代 ねんだい に入 はい ると、最早 もはや 「日系 にっけい 」としての誇 ほこ りを、問題 もんだい に出来 でき る時勢 じせい ではない事 こと を覚 さと り、それまでのスタンスを変 か えざるを得 え なくなった。『羅 ら 府 ふ 新報 しんぽう 』の紙面 しめん において、1940年 ねん 5月 がつ 26日 にち に、JACLによる二 に 重 じゅう 国籍 こくせき 廃絶 はいぜつ 運動 うんどう を、熱烈 ねつれつ に支持 しじ する論調 ろんちょう を張 は ったほか、翌 よく 1941年 ねん 6月 がつ 15日 にち には、9日 にち 前 まえ に在 ざい ロサンゼルス総領事館 そうりょうじかん 駐在 ちゅうざい の立花 たちばな 止 とめ 帝国 ていこく 海軍 かいぐん 中佐 ちゅうさ がスパイ容疑 ようぎ で逮捕 たいほ された事 こと を受 う けて、「今 いま や日本 にっぽん は敵 てき である」 と明言 めいげん 。2世 せい は、日本 にっぽん に銃 じゅう を向 む ける覚悟 かくご がある事 こと を、アメリカ社会 しゃかい へ向 む けて発信 はっしん した[28] 。
1941年 ねん 初頭 しょとう には、JACL山間 さんかん 地区 ちく 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう のマイク・マサオカ(正岡 まさおか 優 ゆう ) によって作成 さくせい された『日系 にっけい アメリカ人 じん の信条 しんじょう 』 が発表 はっぴょう された。
私 わたし は、
日系 にっけい アメリカ人 じん である
事 こと を、
名誉 めいよ に
思 おも っている。それは、
私 わたし の
経歴 けいれき こそが、この
国 くに の
素晴 すば らしい
利点 りてん を、
私 わたし へ
十分 じゅうぶん に
認識 にんしき させてくれるからである。この
国 くに の
制度 せいど ・
理想 りそう ・
伝統 でんとう を
信 しん じている。
母国 ぼこく の遺産 いさん を
誇 ほこ りとしている。
母国 ぼこく の歴史 れきし を
自慢 じまん に
思 おも う。
母国 ぼこく の
未来 みらい に
希望 きぼう を
持 も っている。
母国 ぼこく は、
今日 きょう の
世界 せかい において、
他国 たこく では
享受 きょうじゅ できない
様 よう な
自由 じゆう と
機会 きかい を、
私 わたし に
与 あた えてくれた。
母国 ぼこく は、
私 わたし に
大立者 おおだてもの となるにふさわしい
教育 きょういく を
与 あた えてくれた。
母国 ぼこく は、
参政 さんせい 権 けん の
責任 せきにん を
私 わたし に
委 ゆだ ねてくれた。
母国 ぼこく は、
私 わたし を
他 た の
自 じ 国民 こくみん と
同 どう じ、
自由 じゆう な
一 いち 市民 しみん として、
家 いえ を
建 た て、
生計 せいけい を
立 た て、
礼拝 れいはい し、
考 かんが え、
話 はな し、
思 おも い
通 どお りに
行動 こうどう する
事 こと を
許 ゆる してくれた。
一部 いちぶ の
人々 ひとびと は、
私 わたし を
差別 さべつ するかもしれない。しかし、
私 わたし は
決 けっ して、その
事 こと で
相手 あいて を
苦々 にがにが しく
思 おも いもしなければ、
母国 ぼこく に
不信 ふしん を
抱 だ いたりもしない。
何故 なぜ なら、そういった
人々 ひとびと は、アメリカ
国民 こくみん の
多数 たすう を
代表 だいひょう する
人間 にんげん では
無 な い
事 こと を、
私 わたし は
知 し っているからである。
確 たし かに、そうした
慣行 かんこう を
思 おも い
止 とど まらせるべく、
私 わたし は
全力 ぜんりょく を
尽 つ くすつもりである。しかし、
法廷 ほうてい の
場 ば を
通 とお して、
自身 じしん が
平等 びょうどう な
扱 あつか いと
尊敬 そんけい を
受 う けるに
値 あたい する
人間 にんげん である
事 こと を、
教育 きょういく に
基 もと づいて、
公明正大 こうめいせいだい に
証明 しょうめい するという、アメリカ
流 りゅう の
方法 ほうほう を
以 もっ てして、それを
行 おこな うつもりである。アメリカにおける
スポーツマンシップ とフェアプレーの
精神 せいしん は、
身体 しんたい 的 てき 特徴 とくちょう ではなく、
行動 こうどう と
成果 せいか に
基 もと づく
公民 こうみん 権 けん と
愛国心 あいこくしん に
基 もと づき、
判断 はんだん されるものであると、
私 わたし は
固 かた く
信 しん じている。
私 わたし はアメリカを
信 しん じており、
母国 ぼこく も
私 わたし を
信 しん じてくれていると、
確信 かくしん している。
母国 ぼこく から
数多 すうた の
恩恵 おんけい を
受 う けた
事 こと を
鑑 かんが みて、その
体制 たいせい を
支 ささ え、
国内 こくない 法 ほう を
遵守 じゅんしゅ し、
星条旗 せいじょうき に
敬意 けいい を
表 あらわ し、
国内外 こくないがい における
全 すべ ての
敵 てき から
母国 ぼこく を
守 まも り、
市民 しみん としての
責務 せきむ を、
積極 せっきょく 的 てき に
引 ひ き
受 う けるべく、より
偉大 いだい なるアメリカで、より
良 よ きアメリカ
人 じん になる
事 こと を
願 ねが いつつ、
何 なん 時 じ 如何 いか なる
場所 ばしょ でも、
母国 ぼこく に
謹 つつし んで
敬意 けいい を
払 はら う
事 こと を、
私 わたし は
誓 ちか う。
と綴 つづ られ、今日 きょう では「2世 せい による、愛国 あいこく 主義 しゅぎ 的 てき 市民 しみん ナショナリズムの集大成 しゅうたいせい 」と評 ひょう されている同 どう 声明 せいめい 文 ぶん は、発表 はっぴょう と同時 どうじ に、日系 にっけい コミュニティおいて、大 おお きな反響 はんきょう を呼 よ ぶ事 こと となった。それに止 と まらず、モルモン宣教師 せんきょうし としての滞日 たいにち 経験 けいけん がある知 ち 日 び 派 は として知 し られ、マサオカの盟友 めいゆう でもあった、民主党 みんしゅとう のエルバート・D・トーマス (英語 えいご 版 ばん ) 上院 じょういん 議員 ぎいん によって、同年 どうねん 5月9日 にち 付 づけ の上院 じょういん 議会 ぎかい 記録 きろく にも、記載 きさい される事 こと となった[29] 。
太平洋戦争 たいへいようせんそう の勃発 ぼっぱつ に伴 ともな う強制 きょうせい 収容 しゅうよう 執行 しっこう への協力 きょうりょく [ 編集 へんしゅう ]
リトル・トーキョー のJACLロサンゼルス支部 しぶ に設 もう けられた「反 はん 枢軸 すうじく 委員 いいん 会 かい 」本部 ほんぶ 。入口 いりくち より向 む かって、上 うえ の看板 かんばん には「母国 ぼこく よ、我々 われわれ は準備 じゅんび が出来 でき ております」 、左下 ひだりした のボードには「軍国 ぐんこく 日本 にっぽん 、撃 う ちてし止 と まむ 」 [注釈 ちゅうしゃく 10] 、右 みぎ 下 か のボードには「この非常時 ひじょうじ に、我々 われわれ は組織 そしき としても、一 いち 国民 こくみん としても、政府 せいふ に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか う事 こと を宣言 せんげん します。我々 われわれ は、断固 だんこ として日本 にっぽん を糾弾 きゅうだん し、アメリカの勝利 しょうり ないし枢軸 すうじく 国 こく の打倒 だとう という、共通 きょうつう の目標 もくひょう を達成 たっせい する為 ため に、尽力 じんりょく する事 こと を誓 ちか います」 と書 か かれているのが、それぞれ確認 かくにん できる(1941年 ねん 12月8日 にち 撮影 さつえい )
1941年 ねん 12月7日 にち に真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき が起 お きた数時間 すうじかん 後 ご より、FBI は主 おも に1世 せい の日本語 にほんご 学校 がっこう 校長 こうちょう ・日本人 にっぽんじん 会 かい 及 およ び都道府県 とどうふけん 人 じん 会 かい の会長 かいちょう ・僧侶 そうりょ ・武術 ぶじゅつ 師範 しはん ・個人 こじん 事業 じぎょう 主 ぬし といった、日系 にっけい コミュニティの指導 しどう 者 しゃ と見 み なした人物 じんぶつ の逮捕 たいほ を開始 かいし した[30] 。これに伴 ともな い、JACLの城戸 きど 会長 かいちょう は、日本 にっぽん への宣戦 せんせん 布告 ふこく を期 き に、日系 にっけい 人 じん へ着 き せられた第 だい 五 ご 列 れつ としての汚名 おめい をそそぐ事 こと を、急務 きゅうむ と捉 とら えた。その事 こと から、12月15日 にち に「忠誠 ちゅうせい 宣言 せんげん 」と銘打 めいう って、ルーズベルト大統領 だいとうりょう に対 たい して、
「この非常時 ひじょうじ に、我々 われわれ は大統領 だいとうりょう 閣下 かっか と母国 ぼこく に対 たい して、最大限 さいだいげん の協力 きょうりょく を惜 お しまない事 こと を約束 やくそく します。日本 にっぽん が我 わ が国 くに への攻撃 こうげき を開始 かいし した今 いま 、我々 われわれ は同胞 どうほう と共 とも に、この侵略 しんりゃく を撃退 げきたい すべく、あらゆる努力 どりょく を払 はら う準備 じゅんび ができています」
と綴 つづ った電報 でんぽう を送 おく ると同時 どうじ に、日系 にっけい コミュニティを含 ふく めたアメリカ社会 しゃかい へ向 む けては、
「我々 われわれ は、アメリカ市民 しみん としての義務 ぎむ を、あくまでも果 は たすものである。今 いま こそ、我 われ らの誠心 せいしん を尽 つ くすべき時 とき が来 き た。日米 にちべい 開戦 かいせん は、最 もっと も不幸 ふこう な出来事 できごと であるが、戦場 せんじょう に送 おく られると言 い えども、我 われ らの忠誠 ちゅうせい は不変 ふへん である。我 が 等 とう の父母 ちちはは は、法律 ほうりつ の下 した にアメリカ市民 しみん たる事 こと を許 ゆる されないが、しかしアメリカ市民 しみん の父母 ちちはは として、善良 ぜんりょう なる居住 きょじゅう 民 みん として、あくまでも我 が 等 とう と共 とも に進 すす む事 こと を信 しん じて疑 うたが わないものである」
といった声明 せいめい を発表 はっぴょう した[32] [33] 。
以降 いこう のJACLは、政府 せいふ の公聴 こうちょう 会 かい 等 ひとし において「率直 そっちょく に日本 にっぽん と縁 えん を切 き る」 事 こと を声明 せいめい したほか、忠実 ちゅうじつ で愛国 あいこく 的 てき なアメリカ人 じん としての、2世 せい の実像 じつぞう を喧伝 けんでん した。また、マサオカ書記 しょき 長 ちょう をはじめとする多 おお くのメンバーが「日系 にっけい コミュニティの政治 せいじ 的 てき 安全 あんぜん を守 まも る為 ため には、アメリカ市民 しみん 権 けん を持 も たない高齢 こうれい の1世 せい が、ある程度 ていど の犠牲 ぎせい を被 こうむ る事 こと は止 や むを得 え ない」と主張 しゅちょう した事 こと もあり、FBIと海軍 かいぐん 情報 じょうほう 局 きょく が「危険 きけん 人物 じんぶつ 」とおぼしき1世 せい を、特定 とくてい する事 こと への捜査 そうさ 協力 きょうりょく なども行 おこな った[34] [35] 。
陸軍 りくぐん による『市民 しみん 排除 はいじょ 命令 めいれい 第 だい 20号 ごう 』に応 おう じる形 かたち で、JACL本部 ほんぶ の講堂 こうどう にもうけられた戦時 せんじ 民事 みんじ 監督 かんとく 局 きょく [36] へ出頭 しゅっとう する日系 にっけい 人 じん 達 たち (1942年 ねん 4月 がつ 25日 にち 、ドロシア・ラング 撮影 さつえい )
1942年 ねん 2月 がつ 19日 にち にルーズベルト大統領 だいとうりょう が『大統領 だいとうりょう 令 れい 9066号 ごう 』に署名 しょめい した事 こと に伴 ともな い、日系 にっけい 人 じん を強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ へ送致 そうち する事 こと が決定 けってい した。その際 さい 、JACLの指導 しどう 部 ぶ は、連邦 れんぽう 政府 せいふ の方針 ほうしん に反発 はんぱつ する姿勢 しせい を示 しめ さなかった。寧 むし ろ、積極 せっきょく 的 てき に政府 せいふ の方針 ほうしん に従 したが った方 ほう が、日系 にっけい 人 じん による母国 ぼこく への忠誠 ちゅうせい 心 しん を証明 しょうめい し、ひいては日系 にっけい 人 じん を敵視 てきし するアメリカの誤 あやま りを正 ただ す事 こと にも繋 つな がる、と考 かんが えた。その事 こと からJACLは、約 やく 12万 まん 人 にん の日系 にっけい 人 じん に対 たい し、冷静 れいせい に立 た ち退 の きを行 おこな い、命令 めいれい に反発 はんぱつ する者 もの からは、距離 きょり を置 お く様 よう に呼 よ び掛 か けた[37] [注釈 ちゅうしゃく 11] 。
他 ほか にも、立 た ち退 の きの執行 しっこう にあたってJACLのメンバーは、戦争 せんそう 省 しょう との交渉 こうしょう のほか、英語 えいご 能力 のうりょく の低 ひく い1世 せい の為 ため に、必要 ひつよう 書類 しょるい の整理 せいり や各種 かくしゅ 代筆 だいひつ 、執行 しっこう 当日 とうじつ における自宅 じたく から集合 しゅうごう 場所 ばしょ への送迎 そうげい を受 う け持 も つなど、多 おお くの重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした。
強制 きょうせい 収容 しゅうよう 期 き (1942年 ねん ~1945年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
収容 しゅうよう 所 しょ における活動 かつどう [ 編集 へんしゅう ]
立 た ち退 の き問題 もんだい が解決 かいけつ した後 のち のJACLは、収容 しゅうよう 所 しょ から解放 かいほう された後 のち の日系 にっけい 人 じん 達 たち による生活 せいかつ 再建 さいけん を、如何 いか にして支援 しえん するか、という問題 もんだい に取 と り組 く む事 こと となった。それにあたっては、新 あら たに本部 ほんぶ を移転 いてん したソルトレイクシティ やオグデン をはじめとして、モルモン教 きょう 徒 と が多 おお い事 こと から、日系 にっけい 人 じん を快 こころよ く受 う け入 い れる土壌 どじょう のあったユタ州 しゅう 各地 かくち のほか、工場 こうじょう や農場 のうじょう における極度 きょくど の労働 ろうどう 力 りょく 不足 ふそく が深刻 しんこく な問題 もんだい となっていた、中西部 ちゅうせいぶ への再 さい 定住 ていじゅう を積極 せっきょく 的 てき に促 うなが すべく、住宅 じゅうたく ローン サービスを提供 ていきょう したほか、シカゴに新 あら たな事務所 じむしょ を設置 せっち するなどした[16] [39] 。
ポストン収容 しゅうよう 所 しょ におけるコミュニティ評議 ひょうぎ 会 かい のメンバー(1943年 ねん 9月 がつ 1日 にち 撮影 さつえい )
また、JACLは収容 しゅうよう 所 しょ の生活 せいかつ において、戦時 せんじ 転住 てんじゅう 局 きょく (WRA)(英語 えいご 版 ばん ) と緊密 きんみつ な協力 きょうりょく 関係 かんけい を結 むす んでいた。WRAとJACLは、「より良 よ いアメリカ人 じん を作 つく り出 だ す」事 こと を目的 もくてき とした『コミュニティ評議 ひょうぎ 会 かい 』と称 しょう する自治 じち 組織 そしき を、各 かく 収容 しゅうよう 所内 しょない に立 た ち上 あ げた。教育 きょういく 面 めん でも、英語 えいご やアメリカの歴史 れきし ・文化 ぶんか を学 まな ぶ学校 がっこう を、収容 しゅうよう 所内 しょない に設置 せっち 。若 わか い2世 せい ・3世 せい に対 たい して、アメリカ化 か 教育 きょういく やスポーツのレクリエーション の場 ば を提供 ていきょう した。これらの収容 しゅうよう 所内 しょない における諸 しょ 制度 せいど は、政治 せいじ 参加 さんか や教育 きょういく の経験 けいけん を通 とお して、「アメリカの民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」を日系 にっけい 人 じん に伝 つた えるものとして導入 どうにゅう された。アメリカへの忠誠 ちゅうせい とアメリカ化 か をスローガンとしてきたJACLも、強制 きょうせい 収容 しゅうよう への「建設 けんせつ 的 てき 協力 きょうりょく 」は、日系 にっけい 人 じん 社会 しゃかい のアメリカ化 か を達成 たっせい し、自身 じしん らのリーダーシップを確立 かくりつ する好機 こうき と見 み なした。
戦時 せんじ 下 か の強制 きょうせい 収容 しゅうよう は、多様 たよう な背景 はいけい によって分節 ぶんせつ 化 か されていた日系 にっけい 人 じん を、「敵性 てきせい 市民 しみん 」として一括 いっかつ する人種 じんしゅ 化 か された実践 じっせん であった。収容 しゅうよう 所 しょ において日系 にっけい 人 じん 達 たち は、アメリカと日本 にっぽん のどちらに忠誠 ちゅうせい を誓 ちか うか、という選択 せんたく を迫 せま られる事 こと となった。そうした状況 じょうきょう 下 か で、英語 えいご による高等 こうとう 教育 きょういく を受 う けたエリート層 そう を中心 ちゅうしん とするJACLは、WRAと協力 きょうりょく 関係 かんけい を築 きず く事 こと で、独自 どくじ の愛国 あいこく 主義 しゅぎ 的 てき 市民 しみん ナショナリズムを結晶 けっしょう 化 か させた。結果 けっか としてJACLは、収容 しゅうよう 所内 しょない における政治 せいじ 的 てき 指導 しどう 力 りょく 、ひいては日系 にっけい コミュニティにおけるリーダーシップを確立 かくりつ する事 こと となった。それは、旧 きゅう 指導 しどう 者 しゃ 層 そう としての1世 せい のほか、滞日 たいにち 経験 けいけん を持 も つ帰 かえり 米 まい 2世 せい の地位 ちい を周縁 しゅうえん 化 か させ、その一部 いちぶ をトゥーリーレイク収容 しゅうよう 所 しょ へと“隔離 かくり ”させた。こうして、戦前 せんぜん 期 き に排日 はいにち 運動 うんどう の中 なか で構築 こうちく された日系 にっけい コミュニティの姿 すがた は、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 期 き において解体 かいたい される事 こと となった。
その一方 いっぽう で、本土 ほんど とは異 こと なり日系 にっけい 人 じん に対 たい する一斉 いっせい 収容 しゅうよう は実施 じっし されず、JACLの拠点 きょてん も設置 せっち されていなかったハワイ準 じゅん 州 しゅう [注釈 ちゅうしゃく 12] においては、『大学 だいがく 勝利 しょうり 奉仕 ほうし 団 だん 』による活躍 かつやく をはじめとして、多 おお くの日系 にっけい 人 じん 達 たち があらゆる銃後 じゅうご の仕事 しごと をやり遂 と げ、1942年 ねん 6月12日 にち には『第 だい 100歩兵 ほへい 大隊 だいたい 』が創設 そうせつ された[43] 。その事 こと からJACLは、本土 ほんど の日系 にっけい 人 じん にも、アメリカ軍 ぐん へ従軍 じゅうぐん する権利 けんり がある事 こと を主張 しゅちょう した。
軍 ぐん 側 がわ からも、陸軍 りくぐん のカイ・E・ラスムセン大佐 たいさ [注釈 ちゅうしゃく 13] が、1942年 ねん 11月17日 にち から25日 にち にかけてソルトレイクシティの日系 にっけい キリスト教会 きょうかい で開催 かいさい された、JACLの緊急 きんきゅう 特別 とくべつ 全米 ぜんべい 会議 かいぎ において、
「2世 せい の将来 しょうらい そのものが、きっと2つの集団 しゅうだん ―JACLと軍務 ぐんむ に就 つ いている2世 せい ―と共 とも にあるという事 こと を、ご承知 しょうち 頂 いただ きたいと存 ぞん じます。会場 かいじょう の皆 みな さん日系 にっけい 人 じん は、ただ単 たん にアメリカ人 じん というだけではなく、一般 いっぱん のアメリカ人 じん より大 おお きな犠牲 ぎせい を払 はら って、戦時 せんじ 挙国一致 きょこくいっち 体制 たいせい の下 した で大 おお きな貢献 こうけん をしていらっしゃる、優秀 ゆうしゅう なアメリカ人 じん なのです。この点 てん こそ、この国 くに の国民 こくみん に、納得 なっとく させなくてはなりません。…道義 どうぎ の事 こと は忘 わす れましょう。現状 げんじょう を臆 おく することなく直視 ちょくし しましょう。現状 げんじょう を改善 かいぜん して受 う け流 なが せる、最善 さいぜん の方法 ほうほう を見 み つけましょう。あなた方 かた が背負 せお っている宿命 しゅくめい を、どんな時 とき でも好転 こうてん させて下 くだ さい。但 ただ し、それが可能 かのう となるのは、無私 むし 無欲 むよく の労 ろう を厭 いと わない場合 ばあい だけです。あなた方 かた の双肩 そうけん にこそ、常々 つねづね 掲 かか げておられる大義 たいぎ の成功 せいこう が懸 か かっております」
と、本土 ほんど の2世 せい による真摯 しんし な支援 しえん を要請 ようせい する演説 えんぜつ を、JACL幹部 かんぶ へ向 む けて行 い った[20] 。
同 どう 会議 かいぎ から1ヶ月 かげつ 後 ご の同年 どうねん 12月 がつ 16日 にち に、統合 とうごう 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ が日系 にっけい 人 じん のみで編成 へんせい された戦闘 せんとう 部隊 ぶたい の創設 そうせつ を、ジョージ・マーシャル 陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう に提案 ていあん した。翌 よく 1943年 ねん 1月 がつ 1日 にち に、マーシャルがそれを承認 しょうにん した事 こと で、1月 がつ 28日 にち に日系 にっけい 人 じん による連隊 れんたい 規模 きぼ の部隊 ぶたい が編制 へんせい される事 こと が発表 はっぴょう 。収容 しゅうよう 所内 しょない などにおいて、志願 しがん 兵 へい の募集 ぼしゅう が開始 かいし された。最終 さいしゅう 的 てき には、ハワイからは『大学 だいがく 勝利 しょうり 奉仕 ほうし 団 だん 』で活躍 かつやく していた者 もの を含 ふく む2,686人 にん 、本土 ほんど の収容 しゅうよう 所 しょ からは1,500人 にん の志願 しがん 兵 へい が入隊 にゅうたい し、『第 だい 442連隊 れんたい 戦闘 せんとう 団 だん 』が創設 そうせつ される事 こと となった[45] [46] 。
日系 にっけい コミュニティとの確執 かくしつ [ 編集 へんしゅう ]
陸軍 りくぐん へ志願 しがん する事 こと を決意 けつい した日系 にっけい 人 じん 青年 せいねん を、陸軍 りくぐん 大尉 たいい と他 た の日系 にっけい 人 じん 志願 しがん 兵 へい 2名 めい が見守 みまも る中 なか で祝福 しゅくふく する、ローワー収容 しゅうよう 所 しょ のレイ・ジョンストン所長 しょちょう (1943年 ねん 3月 がつ 10日 とおか 撮影 さつえい )
それに伴 ともな いJACLは、1世 せい 達 たち に志願 しがん 兵 へい となった我 わ が子 こ に関 かん する投書 とうしょ を、収容 しゅうよう 所内 しょない で発行 はっこう されている新聞 しんぶん や、収容 しゅうよう 所 しょ から解放 かいほう された後 のち に定住 ていじゅう した地域 ちいき における各 かく 地方紙 ちほうし へ向 む けて、積極 せっきょく 的 てき に行 おこな う事 こと を促 うなが したりもした。しかし一方 いっぽう で、メンバー達 たち が収容 しゅうよう 所内 しょない において、徴兵 ちょうへい 拒否 きょひ 者 しゃ 達 いたる を厳 きび しく糾弾 きゅうだん したため、JACLは大 だい 部分 ぶぶん の日系 にっけい 人 じん 達 たち から非難 ひなん を浴 あ びる事 こと となった[16] 。
ただ、JACLと日系 にっけい コミュニティの間 あいだ の確執 かくしつ は、442連隊 れんたい への志願 しがん 問題 もんだい だけに、起因 きいん するものではなかった。その発端 ほったん として、JACLに参加 さんか していたメンバーの大半 たいはん が、2世 せい の富裕 ふゆう 層 そう だった事 こと が挙 あ げられる。1941年 ねん の時点 じてん で、JACL会員 かいいん の職種 しょくしゅ のうち、最 もっと も多 おお かったのは弁護士 べんごし ・教員 きょういん ・医療 いりょう 従事 じゅうじ 者 しゃ といった専門 せんもん 職 しょく で、その比率 ひりつ は26.3%(2世 せい 全体 ぜんたい では8.3%)だった。また、キリスト教徒 きりすときょうと や大卒 だいそつ 以上 いじょう の学歴 がくれき を持 も つ者 もの の割合 わりあい も、2世 せい の中 なか では著 いちじる しく高 たか かったという。
こうした人的 じんてき ・社会 しゃかい 的 てき に恵 めぐ まれた背景 はいけい をもとに、アメリカへの忠誠 ちゅうせい とアメリカ化 か を訴 うった え続 つづ けたJACLは、帰 き 米 まい 2世 せい の労働 ろうどう 運動 うんどう 家 いえ であるジェームス・オダ が、1940年 ねん 7月 がつ 15日 にち 付 づけ の『同胞 どうほう 』において、
「今 いま のままでは、市民 しみん 協会 きょうかい は何 なん 時 じ まで経 た ってもレストランのボスや弁護士 べんごし 、教師 きょうし 、歯医者 はいしゃ の団体 だんたい を境 さかい を越 こ えず、否 いや 反対 はんたい に商工 しょうこう 会議 かいぎ 所 しょ のような、日本人 にっぽんじん 名士 めいし の有名 ゆうめい 無実 むじつ の代表 だいひょう 機関 きかん に成 な り下 さ がるであろう」
と述 の べた事 こと をはじめとして、2世 せい の大半 たいはん を占 し める労働 ろうどう 者 しゃ 層 そう からは、そのエリート 主義 しゅぎ を厳 きび しく批判 ひはん される事 こと となった。
またJACLは、上述 じょうじゅつ した通 とお り、政府 せいふ による強制 きょうせい 収容 しゅうよう の執行 しっこう に反対 はんたい しなかっただけでなく、「最 もっと も危険 きけん な任務 にんむ の先頭 せんとう に立 た ち、何処 どこ へでも出撃 しゅつげき する」事 こと を旨 むね とした、日系 にっけい 人 じん 特攻 とっこう 部隊 ぶたい を創設 そうせつ する事 こと と、同 どう 部隊 ぶたい の忠誠 ちゅうせい 心 しん を疑 うたが う人々 ひとびと を安心 あんしん させる為 ため に、隊員 たいいん の家族 かぞく や友人 ゆうじん を政府 せいふ の「人質 ひとじち 」とする事 こと などを提案 ていあん した。そうした姿勢 しせい が仇 かたき となり、JACLは収容 しゅうよう 初期 しょき の時点 じてん で、日本 にっぽん で教育 きょういく を受 う けた1世 せい や帰 き 米 まい 2世 せい の多 おお くからも、反感 はんかん を抱 いだ かれる様 よう になっていた[48] [49] 。
加 くわ えて、収容 しゅうよう 所 しょ における食事 しょくじ や住居 じゅうきょ は、極 きわ めて劣悪 れつあく なものだった事 こと もあり、特 とく に若 わか い2世 せい の間 あいだ では、自身 じしん らが置 お かれているそれらの状況 じょうきょう と、上述 じょうじゅつ した収容 しゅうよう 所内 しょない の学校 がっこう において学 まな ぶ「アメリカの民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」の理念 りねん の間 あいだ に矛盾 むじゅん を覚 おぼ える者 もの も、決 けっ して少 すく なくなかった。その事 こと から、収容 しゅうよう 者 しゃ の間 あいだ では、収容 しゅうよう 所 しょ におけるWRAとJACLによる支配 しはい 体制 たいせい に対 たい し、徐々 じょじょ に疑心暗鬼 ぎしんあんき が生 しょう じる様 よう になった。
上述 じょうじゅつ した背景 はいけい もあって、重鎮 じゅうちん メンバーの中 なか でも、タヤマはマンザナー収容 しゅうよう 所 しょ にて1942年 ねん 12月5日 にち に、城戸 きど はポストン収容 しゅうよう 所 しょ にて1942年 ねん 9月 がつ と1943年 ねん 1月 がつ 28日 にち の2度 ど に亘 わた って、トーマス・ヤタベとジョン・ヤマザキ(山崎 やまざき 節 たかし )はジェローム収容 しゅうよう 所 しょ にて1943年 ねん 3月 がつ 6日 にち に、各々 おのおの 暴行 ぼうこう を受 う ける事態 じたい に見舞 みま われる事 こと となった。特 とく に、タヤマへの暴行 ぼうこう 事件 じけん に際 さい しては、主犯 しゅはん 格 かく と見 み なされた帰 き 米 まい 2世 せい のハリー・ウエノ(上野 うえの 義雄 よしお ) (英語 えいご 版 ばん ) がWRAに逮捕 たいほ された事 こと で、それに抗議 こうぎ した約 やく 2,000名 めい の収容 しゅうよう 者 しゃ 達 たち が、暴動 ぼうどう を起 お こす事態 じたい にまで発展 はってん 。最終 さいしゅう 的 てき に、共 とも に2世 せい であるジミー・イトー(当時 とうじ 17歳 さい )とジェームス・カナガワ(同 どう 21歳 さい )の2名 めい が、歩哨 ほしょう により射殺 しゃさつ されたほか、9名 めい が負傷 ふしょう 、22名 めい (うち10名 めい が1世 せい 、9名 めい が帰 き 米 まい 2世 せい )が拘禁 こうきん される事 こと となった[33] [46] [50] [注釈 ちゅうしゃく 14] 。
この様 よう に、戦前 せんぜん からその火種 ひだね が見 み え隠 かく れしていた、JACLと日系 にっけい コミュニティによる確執 かくしつ は、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 期 き において顕在 けんざい 化 か かつ深刻 しんこく 化 か する事 こと となり、戦後 せんご も双方 そうほう の間 あいだ には、長 なが らく深 ふか い溝 みぞ が残 のこ る事 こと となった[37] 。
また、公民 こうみん 権 けん 弁護士 べんごし として知 し られるウェイン・M・コリンズ (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 15] も、戦後 せんご のインタビューにおいて、
「JACLは、日系 にっけい 人 じん の代弁 だいべん 者 しゃ を自称 じしょう していましたが、同胞 どうほう の為 ため に立 た ち上 あ がろうとする様子 ようす は窺 うかが えませんでした…。彼等 かれら は、まるで煩 わずら わしい鳩 ばと の群 む れでも扱 あつか うかの如 ごと く、日系 にっけい 人 じん を強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ へ導 みちび きました」
と語 かた り、戦時 せんじ 中 ちゅう のJACLによる一連 いちれん の姿勢 しせい を非難 ひなん した[51] 。
リドレス運動 うんどう 期 き (1945年 ねん ~1988年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
日系 にっけい コミュニティの再建 さいけん と組織 そしき の盤石 ばんじゃく 化 か [ 編集 へんしゅう ]
WRAが2世 せい による戦場 せんじょう での貢献 こうけん をアピールする為 ため に作成 さくせい したパンフレット「制服 せいふく を着 き た2世 せい 」
1945年 ねん 1月 がつ に、西海岸 にしかいがん における立 た ち退 の き命令 めいれい 解除 かいじょ が発行 はっこう されると、WRAは日系 にっけい 人 じん への再 さい 定住 ていじゅう 支援 しえん を開始 かいし した。政策 せいさく の実施 じっし にあたっては、442連隊 れんたい の活躍 かつやく に代表 だいひょう される日系 にっけい 人 じん の「忠誠 ちゅうせい 心 しん に溢 あふ れた市民 しみん 」としての面 めん を、殊更 ことさら に強調 きょうちょう したパンフレットを多 おお く出版 しゅっぱん するなどして、アメリカ社会 しゃかい に向 む けて寛容 かんよう な対応 たいおう を呼 よ び掛 か けた。
無論 むろん 、真珠湾 しんじゅわん 攻撃 こうげき のトラウマが生々 なまなま しいアメリカの世論 せろん は、西海岸 にしかいがん の排日 はいにち 運動 うんどう 家 か による「一 いち 度 ど ジャップ だった者 もの は、永久 えいきゅう にジャップだ」というスローガン に象徴 しょうちょう される様 よう に、日系 にっけい 人 じん による元 もと の居住 きょじゅう 地 ち への帰還 きかん には、依然 いぜん として反対 はんたい の声 こえ が根強 ねづよ かった。しかし、連邦 れんぽう 及 およ び州 しゅう 政府 せいふ (英語 えいご 版 ばん ) のほか、アメリカ自由 じゆう 人権 じんけん 協会 きょうかい や一部 いちぶ のキリスト教 きりすときょう 団体 だんたい に代表 だいひょう されるリベラル系 けい 団体 だんたい ・有識者 ゆうしきしゃ 、非 ひ 白人 はくじん ・非 ひ 日系 にっけい 人 じん によるマイノリティ団体 だんたい は、WRAに触発 しょくはつ される形 かたち で、住宅 じゅうたく や雇用 こよう といった日系 にっけい 人 じん の再 さい 統合 とうごう に必要 ひつよう な支援 しえん を、世論 せろん に向 む けて訴 うった え始 はじ めた。日系 にっけい 人 じん 支援 しえん に賛同 さんどう した各派 かくは の代表 だいひょう による協力 きょうりょく 会議 かいぎ の席上 せきじょう では、「日系 にっけい 人 じん と他 た のアメリカ市民 しみん は、同 おな じボートに乗 の っている」事 こと が強調 きょうちょう されたうえで、「日本 にっぽん 軍 ぐん による残虐 ざんぎゃく 行為 こうい に対 たい する怒 いか りを、無実 むじつ で不運 ふうん な日系 にっけい アメリカ人 じん への復讐 ふくしゅう に転 てん じさせてはならない」として、「日本 にっぽん 軍 ぐん 」と「日系 にっけい 人 じん 」を明確 めいかく に区別 くべつ すべきである事 こと が表明 ひょうめい された。
こうした一連 いちれん の動 うご きが結実 けつじつ する形 かたち で、アメリカ国内 こくない における対 たい 日系 にっけい 人 じん 感情 かんじょう は、徐々 じょじょ にではあるものの、軟化 なんか の兆 きざ しが見 み られ始 はじ めた。加 くわ えて、戦後 せんご に東西 とうざい 冷戦 れいせん 構造 こうぞう が成立 せいりつ した事 こと に伴 ともな い、日本 にっぽん がアメリカのパートナーとして見 み なされる様 よう になった事 こと も、日系 にっけい 人 じん による忠誠 ちゅうせい 心 しん が称賛 しょうさん され、各地 かくち への再 さい 定住 ていじゅう ・再 さい 統合 とうごう が促進 そくしん される事 こと への追 お い風 かぜ となった。
その様 よう な背景 はいけい をもとに、強制 きょうせい 収容 しゅうよう 期 き に実施 じっし した各地 かくち への再 さい 定住 ていじゅう 支援 しえん を通 とお して、地域 ちいき を越 こ えた広範 こうはん なネットワークを構築 こうちく したJACLは、全米 ぜんべい 規模 きぼ の組織 そしき に成長 せいちょう した。大学 だいがく 教育 きょういく を受 う け、ホワイトカラー で働 はたら くといった者 もの 達 たち が、2世 せい の主流 しゅりゅう である事 こと を自認 じにん し、本部 ほんぶ の強力 きょうりょく なリーダーシップに支 ささ えられながら、全米 ぜんべい 中 ちゅう の日系 にっけい 人 じん を結 むす び付 つ ける様 よう になった。また、それぞれの地域 ちいき 独自 どくじ の利害 りがい に影響 えいきょう されないJACLの体質 たいしつ は、日系 にっけい 人 じん が一般 いっぱん 労働 ろうどう 市場 いちば に進出 しんしゅつ すると同時 どうじ に、地理 ちり 的 てき に分散 ぶんさん し始 はじ めた時勢 じせい にも適合 てきごう していた。そうした状況 じょうきょう を鑑 かんが みて、ロサンゼルスでも引導 いんどう を渡 わた された嘗 かつ ての1世 せい 指導 しどう 者 しゃ 達 たち が、JACLの活動 かつどう を全面 ぜんめん 的 てき に援助 えんじょ する事 こと を決議 けつぎ した。
市民 しみん 権 けん の向上 こうじょう と日米 にちべい 関係 かんけい の再 さい 構築 こうちく への取 と り組 く み[ 編集 へんしゅう ]
終戦 しゅうせん を迎 むか えると、JACLは本部 ほんぶ をサンフランシスコへ再 さい 移転 いてん する同時 どうじ に、活動 かつどう の主眼 しゅがん を、日系 にっけい 人 じん の市民 しみん 権 けん 向上 こうじょう に回帰 かいき する方針 ほうしん を固 かた めた。
戦後 せんご 初 はつ の全国 ぜんこく 大会 たいかい は、1946年 ねん 2月 がつ 28日 にち から3月4日 にち にかけて、コロラド州 しゅう [注釈 ちゅうしゃく 16] デンバー で開催 かいさい された。同 どう 大会 たいかい においては、上述 じょうじゅつ した『日系 にっけい アメリカ人 じん の信条 しんじょう 』を、団体 だんたい の公式 こうしき 理念 りねん として採用 さいよう する事 こと が、発表 はっぴょう された事 こと に加 くわ え、
日本 にっぽん 国籍 こくせき しか保持 ほじ しない1世 せい に対 たい する、国外 こくがい 追放 ついほう の阻止 そし と帰化 きか の推進 すいしん
戦時 せんじ 中 ちゅう における強制 きょうせい 収容 しゅうよう に対 たい する、謝罪 しゃざい と補償 ほしょう の請求 せいきゅう
強制 きょうせい 収容 しゅうよう そのものの合憲 ごうけん 性 せい の再 さい 検証 けんしょう
立 た ち退 の きに応 おう じる事 こと が困難 こんなん な者 もの に、措置 そち の執行 しっこう を猶予 ゆうよ しなかった事 こと への非難 ひなん
少数 しょうすう 民族 みんぞく による全国 ぜんこく 会議 かいぎ の召集 しょうしゅう と、問題 もんだい 解決 かいけつ の為 ため の連邦 れんぽう 政府 せいふ 内 ない での省庁 しょうちょう の設置 せっち
居住 きょじゅう や雇用 こよう における差別 さべつ の撤廃 てっぱい
各州 かくしゅう における外国 がいこく 人 じん 土地 とち 法 ほう の撤廃 てっぱい [注釈 ちゅうしゃく 17]
強制 きょうせい 収容 しゅうよう に関 かん する、第三者 だいさんしゃ による調査 ちょうさ 機関 きかん の設置 せっち
2世 せい の退役 たいえき 軍人 ぐんじん への支援 しえん
日系 にっけい アメリカ人 じん のアメリカ化 か
など、14項目 こうもく から成 な る日系 にっけい コミュニティの再建 さいけん 案 あん も、採択 さいたく される事 こと となった[19] [29] [56] 。
1950年代 ねんだい のJACLは、異 い 人種 じんしゅ 間 あいだ 結婚 けっこん (英語 えいご 版 ばん ) や人種 じんしゅ 隔離 かくり (英語 えいご 版 ばん ) 、人種 じんしゅ に基 もと づく移民 いみん や帰化 きか を制限 せいげん する法律 ほうりつ を、撤廃 てっぱい 若 も しくは改正 かいせい するべく、訴訟 そしょう 運動 うんどう や連邦 れんぽう 議会 ぎかい におけるロビー活動 かつどう を展開 てんかい した。
その成功 せいこう 例 れい として、ヨーロッパ戦線 せんせん (英語 えいご 版 ばん ) から復員 ふくいん した後 のち に、反 はん 差別 さべつ 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう となったマイク・マサオカの尽力 じんりょく により、1952年 ねん 6月27日 にち に『移民 いみん 国籍 こくせき 法 ほう 』が成立 せいりつ 。これに伴 ともな い、1世 せい に帰化 きか 市民 しみん 権 けん が与 あた えられると同時 どうじ に、日本 にっぽん からの移民 いみん が再度 さいど 認 みと められる事 こと となった[16] [19] 。
これをきっかけにJACLは、1世 せい にアメリカ市民 しみん 権 けん を取得 しゅとく する事 こと を奨励 しょうれい し、1世 せい からも市民 しみん 権 けん 取得 しゅとく を要望 ようぼう する声 こえ が、多 おお く挙 あ がる様 よう になった。その為 ため 、通訳 つうやく を動員 どういん して日本語 にほんご で授業 じゅぎょう を行 おこな う米国 べいこく 市民 しみん 権 けん テストの講習 こうしゅう 会 かい が、JACLの働 はたら き掛 か けによって、全米 ぜんべい 各地 かくち で開催 かいさい される事 こと となった。その後 ご 、1954年 ねん に1,600人 にん の1世 せい による帰化 きか 宣誓 せんせい 式 しき が、執 と り行 おこな われた事 こと を皮切 かわき りに、1965年 ねん までに4万 まん 人 にん 以上 いじょう の1世 せい が、アメリカ市民 しみん 権 けん を取得 しゅとく した[58] 。
一方 いっぽう で、『排日 はいにち 移民 いみん 法 ほう 』から引 ひ き継 つ がれた国 くに 別 べつ 割当 わりあて 制度 せいど により、日本 にっぽん からの新規 しんき 移民 いみん 受 う け入 い れ数 すう は、年間 ねんかん 当 あ たり185人 にん にまで制限 せいげん される事 こと となった[59] [注釈 ちゅうしゃく 18] 。その為 ため 、割当 わりあて 外 がい となっていた「戦争 せんそう 花嫁 はなよめ 」以外 いがい の新規 しんき 移民 いみん を見込 みこ む事 こと は、当初 とうしょ 困難 こんなん であると思 おも われていた。しかし、1953年 ねん 8月 がつ 7日 にち に『難民 なんみん 救済 きゅうさい 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) 』が成立 せいりつ した事 こと に伴 ともな い、10歳 さい 以下 いか の孤児 こじ を対象 たいしょう とした養子 ようし 縁組 えんぐみ 移民 いみん を、年間 ねんかん 当 あ たり4,000人 にん まで受 う け入 い れる事 こと が可能 かのう となった。また、1955年 ねん に同 どう 法 ほう の規定 きてい が変更 へんこう されると、台風 たいふう をはじめとする自然 しぜん 災害 さいがい の被災 ひさい 者 しゃ を「難民 なんみん 」として送 おく り出 だ せる事 こと に、マサオカや日本 にっぽん の政治 せいじ 家 か らが着目 ちゃくもく する様 よう になった。これに伴 ともな い、日本 にっぽん からの新規 しんき 移民 いみん 送出 そうしゅつ における消極 しょうきょく 的 てき 局面 きょくめん は、大 おお きく変化 へんか する事 こと となった。結果 けっか として、1956年 ねん に同 どう 法 ほう が失効 しっこう するまで、所謂 いわゆる 「GIベビー 」として生 う まれた戦災 せんさい 混血 こんけつ 児 じ (英語 えいご 版 ばん ) 2,500名 めい と、和歌山 わかやま 県 けん ・広島 ひろしま 県 けん ・鹿児島 かごしま 県 けん からの農業 のうぎょう 移民 いみん 1,005名 めい が、アメリカへ渡 わた る事 こと となった[61] [62] 。
この様 よう に、日系 にっけい 人 じん の再 さい 定住 ていじゅう ・再 さい 統合 とうごう や1世 せい の帰化 きか 権 けん 、外国 がいこく 人 じん 土地 とち 法 ほう の撤廃 てっぱい 、日本 にっぽん からの新規 しんき 移民 いみん 受 う け入 い れの再開 さいかい などの問題 もんだい に取 と り組 く んだ事 こと は、JACLが2世 せい の一部 いちぶ だけでなく、日系 にっけい アメリカ人 じん 全体 ぜんたい を代表 だいひょう する団体 だんたい である事 こと を周知 しゅうち させ、日系 にっけい コミュニティとのわだかまりが解 と ける、大 おお きなきっかけとなった。
リドレス運動 うんどう の展開 てんかい [ 編集 へんしゅう ]
1948年 ねん 7月 がつ 2日 にち に、日系 にっけい 人 じん の強制 きょうせい 収容 しゅうよう に対 たい する連邦 れんぽう 政府 せいふ による補償 ほしょう 策 さく としては、最初 さいしょ のものとなる『日系 にっけい 人 じん 退去 たいきょ 補償 ほしょう 請求 せいきゅう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) 』が、ハリー・S・トルーマン 大統領 だいとうりょう によって署名 しょめい された[64] 。同 どう 法 ほう に基 もと づき、総額 そうがく で約 やく 3,800万 まん ドルの賠償金 ばいしょうきん が支払 しはら われたものの、請求 せいきゅう 総額 そうがく の約 やく 25%、日系 にっけい 人 じん の損害 そんがい 総額 そうがく の10%未満 みまん に過 す ぎず、一連 いちれん の損害 そんがい を補填 ほてん するには、ほぼ「焼 や け石 いし に水 みず 」の状態 じょうたい だった[65] 。
そうした中 なか で、1950年代 ねんだい 半 なか ば頃 ごろ から黒人 こくじん による公民 こうみん 権 けん 運動 うんどう が展開 てんかい され、結果 けっか として1964年 ねん に『公民 こうみん 権 けん 法 ほう 』、翌 よく 1965年 ねん には『投票 とうひょう 権 けん 法 ほう 』が、相次 あいつ いで制定 せいてい される事 こと となった。こうした動 うご きに触発 しょくはつ された日系 にっけい 人 じん 達 たち によって、1948年 ねん 法 ほう では考慮 こうりょ されなかった、無形 むけい の損害 そんがい や日系 にっけい 人 じん の自由 じゆう 及 およ び尊厳 そんげん の回復 かいふく を求 もと める「リドレス運動 うんどう 」が、1970年代 ねんだい から展開 てんかい される様 よう になった[66] 。
当初 とうしょ は、運動 うんどう の方針 ほうしん や賠償金 ばいしょうきん を得 え られた場合 ばあい の使途 しと を巡 めぐ って、指導 しどう 部 ぶ の間 あいだ で対立 たいりつ が起 お きた[67] 。しかし、1970年 ねん 7月 がつ に開 ひら かれた全国 ぜんこく 大会 たいかい において「サンフランシスコ連邦 れんぽう 準備 じゅんび 銀行 ぎんこう が見積 みつ もった、4億 おく ドルの推定 すいてい 損失 そんしつ 額 がく を超 こ える補償 ほしょう 総額 そうがく を以 もっ て、個々人 ここじん に対 たい して、抑留 よくりゅう された日数 にっすう に応 おう じた補償 ほしょう を行 おこな う事 こと 。全 すべ ての弁済 べんさい は、免税 めんぜい である事 こと を定 さだ めた適切 てきせつ な法 ほう を、連邦 れんぽう 議会 ぎかい が制定 せいてい する事 こと 」を求 もと める、エディソン・ウノ(宇野 うの 富 とみ 麿 まろ ) (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 19] による案 あん が、採択 さいたく される事 こと となった[16] [70] 。これに伴 ともな い、太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 なか における日系 にっけい 人 じん の強制 きょうせい 収容 しゅうよう に対 たい する、謝罪 しゃざい と補償 ほしょう を要求 ようきゅう する為 ため の『全米 ぜんべい 補償 ほしょう 請求 せいきゅう 委員 いいん 会 かい (NCR)』が設立 せつりつ され、運動 うんどう の嚆矢 こうし となった[56] 。
その後 ご は、1978年 ねん 7月 がつ にソルトレイクシティ で催 もよお されたJACL全国 ぜんこく 大会 たいかい において、連邦 れんぽう 政府 せいふ に対 たい する損害 そんがい 賠償 ばいしょう 要求 ようきゅう が決議 けつぎ された事 こと で、リドレス運動 うんどう は大々的 だいだいてき に展開 てんかい される事 こと となった。JACLは、政府 せいふ による救済 きゅうさい 措置 そち として、
当時 とうじ の政府 せいふ の過 あやま ちを認 みと める、連邦 れんぽう 議会 ぎかい による正式 せいしき の謝罪 しゃざい
抑留 よくりゅう された各人 かくじん に、2万 まん 5千 せん ドルの賠償金 ばいしょうきん を支払 しはら うこと
強制 きょうせい 収容 しゅうよう についての、正 ただ しい歴史 れきし 教育 きょういく を行 おこな う基金 ききん の設立 せつりつ
の3点 てん を要求 ようきゅう した。
『市民 しみん の自由 じゆう 法 ほう 』に署名 しょめい するレーガン大統領 だいとうりょう と、その様子 ようす を見守 みまも る(左 ひだり から)スパーク・マツナガ 上院 じょういん 議員 ぎいん 、ノーマン・ミネタ下院 かいん 議員 ぎいん 、パット・サイキ 下院 かいん 議員 ぎいん 、ピート・ウィルソン 上院 じょういん 議員 ぎいん 、ドン・ヤング 下院 かいん 議員 ぎいん 、ボブ・マツイ 下院 かいん 議員 ぎいん 、ビル・ローリー (英語 えいご 版 ばん ) 下院 かいん 議員 ぎいん 、ハリー・カジハラJACL会長 かいちょう 。
1988年 ねん 8月 がつ 10日 とおか に、ロナルド・レーガン 大統領 だいとうりょう は『市民 しみん の自由 じゆう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) 』(別称 べっしょう : 日系 にっけい アメリカ人 じん 補償 ほしょう 法 ほう )に署名 しょめい 。連邦 れんぽう 政府 せいふ は、強制 きょうせい 収容 しゅうよう を経験 けいけん した存命 ぞんめい 者 しゃ 1人 にん 当 あ たり2万 まん ドルの賠償金 ばいしょうきん を支払 しはら う事 こと をはじめとして、上述 じょうじゅつ したJACLによる要求 ようきゅう を、ほぼ丸 まる 飲 の みする事 こと となった[4] 。
また、3世 せい 以降 いこう にあたる戦後 せんご 生 う まれのJACL指導 しどう 部 ぶ は、戦時 せんじ 中 ちゅう に強制 きょうせい 収容 しゅうよう へ抗 あらが った者 もの 達 たち への名誉 めいよ 回復 かいふく に努 つと める様 よう になり、2002年 ねん には徴兵 ちょうへい を拒否 きょひ した2世 せい を批判 ひはん した事 こと を、公式 こうしき に謝罪 しゃざい した[16] 。
平成 へいせい 以降 いこう (1994年 ねん 以降 いこう )[ 編集 へんしゅう ]
戦没 せんぼつ 将兵 しょうへい 追悼 ついとう 記念 きねん 日 び にアーリントン国立 こくりつ 墓地 ぼち で催 もよお された日系 にっけい 人 じん 兵士 へいし の慰霊 いれい 式典 しきてん において、スピーチを行 おこな うJACLワシントンD.C.支部 しぶ 長 ちょう のジョン・トベ(2015年 ねん 5月24日 にち 撮影 さつえい )
LGBT問題 もんだい への取 と り組 く み [ 編集 へんしゅう ]
1994年 ねん には、全国 ぜんこく 大会 たいかい において同性 どうせい カップル による結婚 けっこん の権利 けんり を含 ふく めた、結婚 けっこん の自由 じゆう を全 すべ ての人 ひと に認 みと めるべきだとするスタンスを、確認 かくにん する決議 けつぎ を採択 さいたく した。この事 こと からJACLは、アメリカ国内 こくない における公民 こうみん 権 けん 団体 だんたい としては初 はじ めて、非 ひ LGBT 組織 そしき としては、アメリカ自由 じゆう 人権 じんけん 協会 きょうかい に次 つ いで、同性 どうせい 結婚 けっこん への支持 しじ を明確 めいかく 化 か した組織 そしき となった[72] [73] 。
他 た の民族 みんぞく 集団 しゅうだん との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
2000年 ねん 以降 いこう 、人口 じんこう 動態 どうたい と政治 せいじ の変化 へんか は、日系 にっけい 人 じん コミュニティの様相 ようそう にも変革 へんかく をもたらし、JACLは他 た のアジア・太平洋 たいへいよう 諸島 しょとう 系 けい アメリカ人 じん をはじめとする、あらゆる民族 みんぞく 集団 しゅうだん による権利 けんり の保護 ほご 、特 とく に若 わか い混血 こんけつ の会員 かいいん による「ハパ (英語 えいご 版 ばん ) ・アイデンティティ」の重要 じゅうよう 性 せい に関 かん する問題 もんだい へ焦点 しょうてん を当 あ てる事 こと にも、その使命 しめい を拡大 かくだい する事 こと となった[74] 。
2001年 ねん 9月11日 にち のアメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ をきっかけに、同 どう 国内 こくない においてアラブ系 けい 住民 じゅうみん (英語 えいご 版 ばん ) に対 たい するヘイトクライム が急増 きゅうぞう した。この事態 じたい を受 う けてJACLは、自身 じしん 達 たち が嘗 かつ て見舞 みま われた経験 けいけん を鑑 かんが みて、テロ発生 はっせい の数日 すうじつ 後 ご に開 ひら いた記者 きしゃ 会見 かいけん において、一連 いちれん のヘイトクライムを非難 ひなん する声明 せいめい を発表 はっぴょう した[75] 。
また、ノーマン・ミネタ 運輸 うんゆ 長官 ちょうかん は、アラブ系 けい やムスリム であるという理由 りゆう で、空港 くうこう において乗 じょう 機 き を拒否 きょひ される事例 じれい が確認 かくにん された事 こと を受 う け、国内 こくない の各 かく 航空 こうくう 会社 かいしゃ (英語 えいご 版 ばん ) へ、
といった旨 むね の通達 つうたつ を発出 はっしゅつ した。
上述 じょうじゅつ した措置 そち を取 と った事 こと に伴 ともな い、ミネタは各 かく 方面 ほうめん から非難 ひなん を浴 あ びるようになった。しかし、そうした最中 さいちゅう に出演 しゅつえん したCBS の『60 Minutes 』では、
「アラブ系 けい 住民 じゅうみん ないしムスリムは、全 すべ ての国民 こくみん と同 おな じだけの尊厳 そんげん と敬意 けいい をもって接 せっ せられます。外見 がいけん や肌 はだ の色 いろ で判断 はんだん される事 こと について、私 わたし は実体験 じつたいけん として知 し っています」
と述 の べた。同時 どうじ に、レイシャル・プロファイリング が安全 あんぜん の基礎 きそ とならない事 こと は、自身 じしん の経験 けいけん から明 あき らかである、とも主張 しゅちょう した。これ以降 いこう 、人種 じんしゅ や信仰 しんこう に基 もと づいた当局 とうきょく による捜査 そうさ は、回避 かいひ される事 こと となった[76] [77] 。
これを機 き に、日系 にっけい をはじめとするアジア系 けい コミュニティとムスリム (英語 えいご 版 ばん ) を含 ふく めたアラブ系 けい コミュニティによる、双方 そうほう の相互 そうご 理解 りかい を促進 そくしん するべく、高校生 こうこうせい を中心 ちゅうしん とする若者 わかもの を対象 たいしょう とした“Bridging Communities Program” が、立 た ち上 あ げられる事 こと となった。参加 さんか 者 しゃ は、民族 みんぞく 性 せい ・共同 きょうどう 体 たい ・組織 そしき 化 か ・文化 ぶんか ・エンパワーメント に関 かん するワークショップ を受講 じゅこう する事 こと となる。また、トゥーリーレイク・マンザナー・ミニドカ の収容 しゅうよう 所 しょ 跡地 あとち への訪問 ほうもん も実施 じっし している。同 どう プログラムの運営 うんえい にあたっては、国立 こくりつ 公園 こうえん 局 きょく から助成 じょせい 金 きん を受 う けており、『アメリカ・イスラム関係 かんけい 評議 ひょうぎ 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) 』『トゥーリーレイク巡礼 じゅんれい 委員 いいん 会 かい 』『全米 ぜんべい 日系 にっけい 人 じん 歴史 れきし 協会 きょうかい 』『公民 こうみん 権 けん と戦時 せんじ 補償 ほしょう のための日系 にっけい 人 じん 組織 そしき 』などとも提携 ていけい している[78] 。
2014年 ねん からは、日本 にっぽん の外務省 がいむしょう 及 およ びJICE と提携 ていけい し、10日間 にちかん 前後 ぜんこう の無料 むりょう 招待 しょうたい 旅行 りょこう を通 とお して、
両国 りょうこく 間 あいだ で、対外 たいがい 発信 はっしん 力 りょく を有 ゆう し将来 しょうらい を担 にな う人材 じんざい を招聘 しょうへい ・派遣 はけん し、政治 せいじ ・経済 けいざい ・社会 しゃかい ・文化 ぶんか ・歴史 れきし ・外交 がいこう 政策 せいさく 等 とう に関 かん する対 たい 日 にち 理解 りかい の促進 そくしん を図 はか る。
日系 にっけい 人 じん 大学生 だいがくせい を含 ふく めた若者 わかもの の中 なか から、親日 しんにち 派 は ・知 ち 日 び 派 は を発掘 はっくつ し、日本 にっぽん の外交 がいこう 姿勢 しせい や魅力 みりょく 等 とう について、被 ひ 招聘 しょうへい 者 しゃ ・被 ひ 派遣 はけん 者 しゃ から積極 せっきょく 的 てき に発信 はっしん してもらうことで、対外 たいがい 発信 はっしん 力 りょく をはじめとする、我 わ が国 くに の外交 がいこう 基盤 きばん を強化 きょうか する。
参加 さんか 者 しゃ に、帰国 きこく 後 ご の訪日 ほうにち 経験 けいけん 等 とう の共有 きょうゆう や地元 じもと での対 たい 日 にち 理解 りかい に資 し する活動 かつどう 計画 けいかく を作成 さくせい してもらうことで、中長期 ちゅうちょうき 的 てき な対外 たいがい 発信 はっしん を行 おこな う。
ことなどを目的 もくてき とした『カケハシ・プロジェクト』 の実施 じっし に参加 さんか している[19] [79] 。
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