日系にっけいアメリカじん市民しみん同盟どうめい

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日系にっけいアメリカじん市民しみん同盟どうめい
全米ぜんべい日系にっけい市民しみん協会きょうかい
Japanese American Citizens League
JACL本部ほんぶ2021ねん5月21にち撮影さつえい
略称りゃくしょう JACL
設立せつりつ 1929ねん
設立せつりつしゃ 荒井あらいクラレンスわたる
谷田部やたべトーマス
坂本さかもとジェームズ好徳よしのり
城戸きど三郎さぶろう 
種類しゅるい 501(c)(3)団体だんたいたる慈善じぜん団体だんたい
目的もくてき アジアけいアメリカじん権利けんり擁護ようご
同性どうせいこん支持しじ
本部ほんぶ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうサンフランシスコジャパンタウン
公用こうよう 英語えいご
提携ていけい アジア・太平洋たいへいよう諸島しょとうけいアメリカじん擁護ようごかい英語えいごばん
ウェブサイト jacl.org
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日系にっけいアメリカじん市民しみん同盟どうめい[注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2](にっけいアメリカじんしみんどうめい、英語えいご: Japanese American Citizens League略称りゃくしょう: JACL) は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうサンフランシスコ本部ほんぶく、アジアけいアメリカじん権利けんり擁護ようごと、同性どうせい結婚けっこんへの支持しじ目的もくてきとした公民こうみんけん団体だんたい[10][11]。アメリカ国内こくないでは、最古さいこかつ最大さいだいのアジアけい人権じんけん団体だんたいである[10]

組織そしき概要がいよう[編集へんしゅう]

戦前せんぜんは、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトルシカゴ支部しぶ首都しゅとワシントンD.C.にロビー機関きかんが、各々おのおのかれていた。

現在げんざいでは、全国ぜんこく組織そしきは100以上いじょう支部しぶ構成こうせいされている。国内こくない主要しゅよう都市とし大都市だいとしけんかれている支部しぶは、

  • カリフォルニア中央ちゅうおう地区ちく
  • 東部とうぶ地区ちく
  • 山間さんかん地区ちく
  • 中西部ちゅうせいぶ地区ちく
  • きたカリフォルニア・西にしネバダ・太平洋たいへいよう地区ちく
  • 太平洋たいへいよう北部ほくぶ地区ちく
  • 太平洋たいへいよう南西なんせい地区ちく

といった7地区ちくにもうけられた評議ひょうぎかいの、いずれかにぞくかたちとなっている[11]

黎明れいめい(1929ねん~1936ねん[編集へんしゅう]

設立せつりつ[編集へんしゅう]

クラレンス・アライ(荒井あらいたけしわたる[注釈ちゅうしゃく 3]ジェームズ・サカモト(坂本さかもと好徳よしのり英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 4]中心ちゅうしんとして、1921ねん9月14にち発足ほっそくした『シアトル革新かくしん市民しみん連盟れんめい』のほか、トーマス・ヤタベ(谷田部やたべたもつ[注釈ちゅうしゃく 5]代表だいひょうとして1923ねん5月5にちフレズノ発足ほっそくした『アメリカ忠誠ちゅうせい協会きょうかい』、城戸きど三郎さぶろう代表だいひょうとして1928ねん10月19にちにサンフランシスコで発足ほっそくした『しんアメリカ市民しみん協会きょうかい』など、既存きそん2せい組織そしき統合とうごうするかたちで、1929ねん4がつ発足ほっそくした[16]初代しょだい会長かいちょうには、アライが就任しゅうにんすることとなった[15]

発足ほっそく当初とうしょは、2せいかく分野ぶんやにおける専門せんもん中小ちゅうしょう企業きぎょう経営けいえいしゃ育成いくせいすべく、自由じゆう起業きぎょう自助じじょ努力どりょくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくへの忠誠ちゅうせいうながことに、主眼しゅがんいた[16]

ロビー活動かつどう展開てんかい[編集へんしゅう]

そのは、サカモトをはじめとするシアトルの活動かつどうたちによる積極せっきょくてき支援しえんもあり、1930ねん8がつ29にちにははつとなる全国ぜんこく大会たいかいが、シアトルで開催かいさいされた[17]。そこでは、「日本語にほんご学校がっこうまい存在そんざいじゅう国籍こくせき、1せい経済けいざいてき支配しはいおよ中国ちゅうごく情勢じょうせいへの日本にっぽんたいする共感きょうかん」が、移民いみん社会しゃかいに「日本にっぽんてきなもの」を蔓延まんえんさせること警戒けいかいし、アメリカ市民しみんとしての忠誠ちゅうせいしんもとづく「2せい立場たちば」を強調きょうちょうすることが、あらためて確認かくにんされた[18]。それにともない、1924ねん施行しこうされた『排日はいにち移民いみんほう』において「帰化きか不能ふのう外国がいこくじん」となされた日系にっけいじんとアジアけい移民いみん市民しみんけんを、拡大かくだいするためロビー活動かつどう開始かいしした[16][19]

まずは、1922ねん9月に連邦れんぽう議会ぎかい通過つうかした、帰化きか不能ふのう外国がいこくじんである男性だんせい結婚けっこんした女性じょせいは、アメリカ市民しみんけん剥奪はくだつされることさだめた『ケーブルほう英語えいごばん』を、撤廃てっぱいさせること目標もくひょうとした。結果けっかとして、1931ねん連邦れんぽう議会ぎかいは、帰化きか不能ふのう外国がいこくじん結婚けっこんしても、市民しみんけん保持ほじつづけること可能かのうとなるようほう改正かいせいし、1936ねんには撤廃てっぱいされることとなった[6][20]

トクタロー・スローカム(1942ねん4がつ11にち撮影さつえい

いで、別所べっしょ南洋なんよう[注釈ちゅうしゃく 6]代表だいひょうされる、だいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんした838めい1せいふくめた、アジアけい移民いみん退役たいえき軍人ぐんじんたいして、市民しみんけん付与ふよさせるためのキャンペーンを開始かいしした。このみも、別所べっしょおなじ1せい退役たいえき軍人ぐんじんであるトクタロー・スローカム(西村にしむら徳太郎とくたろう[注釈ちゅうしゃく 7]によるロビー活動かつどうこうそうし、1935ねん6月24にちフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうは、アジアけい退役たいえき軍人ぐんじん市民しみんけんあたえる『ナイ・リーほう』に署名しょめいすることとなった[20][23][24]

まい2せい」への支援しえん[編集へんしゅう]

2せいにおいて、重要じゅうようなファクターをめるひとつの集団しゅうだんとして、アメリカでまれながら、日本にっぽん教育きょういくけたのちさい渡米とべいした「まい2せい」がげられる。

1930年代ねんだいから、全米ぜんべい各地かくち日本人にっぽんじんかいは「1せい真摯しんし後継こうけいしゃは、日本にっぽん教育きょういくされた2せいである」という見地けんちから、日本にっぽん滞在たいざいする2せいたいして、旅費りょひ支援しえんしたうえで、アメリカでの就職しゅうしょく斡旋あっせんする「まい奨励しょうれい運動うんどう」を展開てんかいした。結果けっかとして、1まんにん以上いじょうの2せいが「まい」したとつたえられている。

しかし、法的ほうてき地位ちいの2せいおなじであっても、日本にっぽん教育きょういくけた影響えいきょうから、おおくのまいがアメリカ社会しゃかいなか孤立こりつかん疎外そがいかんさいなまれることとなってしまった。とくに、幼少ようしょうから日本にっぽん滞在たいざいしていたまい場合ばあい英語えいご不自由ふじゆうものおおかった。奨励しょうれい運動うんどうによる支援しえんがあったとはいえ、本来ほんらいならアメリカでの生活せいかつ醸成じょうせいされるはずの「日系にっけい」をじくとしたエスニックな意識いしき共有きょうゆうできず、JACLのようだい部分ぶぶんの2せいからは「あらっぽい」「わりもの」とひょうされる独自どくじのグループを形成けいせいするようになった。そうしたまいも、職業しょくぎょうめんではの2せい同様どうように、日系にっけいコミュニティに依存いぞんせざるをなかった。こうして、アメリカにおいて生活せいかつするうえで、あらゆるめん困難こんなん直面ちょくめんすることとなったまいは、日系にっけいをめぐる人種じんしゅエスニック編成へんせいにおいて、あるしゅの「逸脱いつだつした存在そんざい」としてあつかわれることとなった[注釈ちゅうしゃく 8]

そのことから、JACLのロサンゼルス支部しぶは、これらの問題もんだい対処たいしょするべく、1935ねんに「まい」をげた。かえりまいは、1936ねんのJACL全国ぜんこく大会たいかいにおいて、その立場たちば主張しゅちょうし、どう大会たいかい使用しよう言語げんご日本語にほんごみとめることのほか、機関きかんとうにおける日本語にほんごらん開設かいせつ決議けつぎさせた。そのも、まい対象たいしょうとした英会話えいかいわ教室きょうしつ設置せっち実現じつげんさせるなど、積極せっきょくてき活動かつどうした[26]

開戦かいせん前後ぜんご(1937ねん~1942ねん[編集へんしゅう]

日米にちべい関係かんけい悪化あっか日系にっけいコミュニティの危機きき[編集へんしゅう]

上述じょうじゅつした1924ねんの『排日はいにち移民いみんほう制定せいていをきっかけに、昭和しょうわはじごろから悪化あっか一途いっと辿たどっていた日米にちべい関係かんけいは、1937ねんにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつと、それにともな10月25にちのルーズベルト大統領だいとうりょうによる隔離かくり演説えんぜつ12月12にちパナイごう事件じけんよく1938ねん11月の援蔣ルート完成かんせいなどにより、修復しゅうふく不可能ふかのうなものと、なりつつあった。くわえて、1938ねん7がつ26にちにアメリカが、日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく破棄はき通告つうこくよく1939ねん1がつ26にち失効しっこうした。これにより、両国りょうこく1855ねん2がつ21にち日米にちべい和親わしん条約じょうやく発効はっこう以来いらいはじめての「条約じょうやく時代じだい」に突入とつにゅうすることとなった。

にちちゅう戦争せんそう初期しょき時点じてんでは、JACLは日本にっぽん擁護ようごするスタンスをった。『新報しんぽう』の英文えいぶんらん編集へんしゅうちょうでJACLのメンバーでもあった田中たなかただし英語えいごばんは、盧溝橋ろこうきょう事件じけん勃発ぼっぱつしたさい日本にっぽん経済けいざいてき権益けんえきをたてに、それを正当せいとうした。以降いこうの1930年代ねんだいにおいて、田中たなか一貫いっかんして、日本にっぽん立場たちばへの理解りかいを、同紙どうしつうじてアメリカ社会しゃかいうったつづけた。

また、JACL創設そうせつメンバーの一人ひとりである城戸きど三郎さぶろうも、とある日系にっけいのコラムにおいて、日本にっぽんを「人種じんしゅ平等びょうどうのチャンピオン」「唯一ゆいいつ白人はくじんによる大国たいこく」とび、その「ひろしアジア主義しゅぎ」を、「すべての人種じんしゅが、隣人りんじんたち平和へいわきる」思想しそうであるとひょうするなど、日本にっぽんをめぐる国際こくさい政治せいじを、「人種じんしゅ平等びょうどう」をとなえるJACL独自どくじ関心かんしんもとづき解釈かいしゃくした。

ほかにも、JACL幹部かんぶ一人ひとりであったジョージ・イナガキ(稲垣いながき譲次じょうじ[注釈ちゅうしゃく 9]は、

おおくのアメリカじんかられば、我々われわれみな日本人にっぽんじんである。彼等かれら日本にっぽん日本人にっぽんじんについての意見いけんは、極東きょくとう情勢じょうせいかんする悪意あくいあるプロパガンダと無知むちによってつくされたものであるにもかかわらず、我々われわれ2せいたいしてもけられている」
いま我々われわれ将来しょうらいおな状況じょうきょうたいして自分じぶん自身じしんまもためには、一致いっち団結だんけつして、このくに人々ひとびとに、我々われわれしん立場たちば意識いしきさせなくてはならないと、自覚じかくしつつある」

主張しゅちょう極東きょくとう情勢じょうせいかんする日本にっぽんがわ正当せいとうせい宣伝せんでんし、中国ちゅうごく国民党こくみんとう反日はんにち団体だんたいによりゆがめられたアメリカ社会しゃかい認識にんしきただことが、アメリカ市民しみんとしての忠誠ちゅうせいしめことつながるとかんがえた[27]

しかし、アメリカ社会しゃかいにおける日系にっけいじんたいする風当かぜあたりは、ごときびしいものとした。とく反日はんにち団体だんたいは、2せいによるじゅう国籍こくせき問題もんだいを、攻撃こうげき標的ひょうてきとするようになった。こうしたうごきを察知さっちしたJACLは、1939ねん6月7にちづけの『新報しんぽう』に、ウォルター・ツカモト(塚本つかもと武雄たけお会長かいちょうによる、

合衆国がっしゅうこくたいするいつわりなき忠誠ちゅうせいという原則げんそくについて、妥協だきょうない。そして、如何いかなる犠牲ぎせいともなおうとも、我々われわれ最初さいしょから最後さいごまで、つねにアメリカじんであることを、わすれてはならない」

といった声明せいめい掲載けいさい。2せい地位ちいまもため具体ぐたいてき行動こうどう要請ようせいすべく、じゅう国籍こくせき廃絶はいぜつする運動うんどうけた[7]

その日本にっぽんではだい2近衛このえないかくによって、1940ねん7がつ26にちに『基本きほん国策こくさく要綱ようこう』が閣議かくぎ決定けっていされ、『だい東亜とうあ共栄きょうえいけん』の建設けんせつ政策せいさくとなったことつづき、同年どうねん9月27にちにはにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつされ、いよいよ日米にちべい開戦かいせん不可避ふかひ情勢じょうせいとなった。

そのことから、JACLはよく1941ねん1がつ26にちづけの『新報しんぽう』に、ロサンゼルス支部しぶちょうのフレッド・タヤマ(田山たやままさる)による、

わたしたちが、両親りょうしんくにかって武器ぶきらなければならないないことを、わたしたちはいつもねがっております。しかし、まんいちそのようことがあれば、2せい覚悟かくご出来できております。わたしたちは、ただひとつのはた合衆国がっしゅうこく星条旗せいじょうき”にたいして、忠誠ちゅうせいうのであります」

といった声明せいめい掲載けいさいした。

また田中たなかも、1940年代ねんだいはいると、最早もはや日系にっけい」としてのほこりを、問題もんだい出来でき時勢じせいではないことさとり、それまでのスタンスをえざるをなくなった。『新報しんぽう』の紙面しめんにおいて、1940ねん5がつ26にちに、JACLによるじゅう国籍こくせき廃絶はいぜつ運動うんどうを、熱烈ねつれつ支持しじする論調ろんちょうったほか、よく1941ねん6がつ15にちには、9にちまえざいロサンゼルス総領事館そうりょうじかん駐在ちゅうざい立花たちばなとめ帝国ていこく海軍かいぐん中佐ちゅうさがスパイ容疑ようぎ逮捕たいほされたことけて、いま日本にっぽんてきである」明言めいげん。2せいは、日本にっぽんじゅうける覚悟かくごがあることを、アメリカ社会しゃかいけて発信はっしんした[28]

1941ねん初頭しょとうには、JACL山間さんかん地区ちく評議ひょうぎかい議長ぎちょうマイク・マサオカ(正岡まさおかゆうによって作成さくせいされた日系にっけいアメリカじん信条しんじょう発表はっぴょうされた。

わたしは、日系にっけいアメリカじんであることを、名誉めいよおもっている。それは、わたし経歴けいれきこそが、このくに素晴すばらしい利点りてんを、わたし十分じゅうぶん認識にんしきさせてくれるからである。このくに制度せいど理想りそう伝統でんとうしんじている。母国ぼこく遺産いさんほこりとしている。母国ぼこく歴史れきし自慢じまんおもう。母国ぼこく未来みらい希望きぼうっている。母国ぼこくは、今日きょう世界せかいにおいて、他国たこくでは享受きょうじゅできないよう自由じゆう機会きかいを、わたしあたえてくれた。母国ぼこくは、わたし大立者おおだてものとなるにふさわしい教育きょういくあたえてくれた。母国ぼこくは、参政さんせいけん責任せきにんわたしゆだねてくれた。母国ぼこくは、わたし国民こくみんどうじ、自由じゆういち市民しみんとして、いえて、生計せいけいて、礼拝れいはいし、かんがえ、はなし、おもどおりに行動こうどうすることゆるしてくれた。
一部いちぶ人々ひとびとは、わたし差別さべつするかもしれない。しかし、わたしけっして、そのこと相手あいて苦々にがにがしくおもいもしなければ、母国ぼこく不信ふしんいたりもしない。何故なぜなら、そういった人々ひとびとは、アメリカ国民こくみん多数たすう代表だいひょうする人間にんげんではことを、わたしっているからである。たしかに、そうした慣行かんこうおもとどまらせるべく、わたし全力ぜんりょくくすつもりである。しかし、法廷ほうていとおして、自身じしん平等びょうどうあつかいと尊敬そんけいけるにあたいする人間にんげんであることを、教育きょういくもとづいて、公明正大こうめいせいだい証明しょうめいするという、アメリカりゅう方法ほうほうもってして、それをおこなうつもりである。アメリカにおけるスポーツマンシップとフェアプレーの精神せいしんは、身体しんたいてき特徴とくちょうではなく、行動こうどう成果せいかもとづく公民こうみんけん愛国心あいこくしんもとづき、判断はんだんされるものであると、わたしかたしんじている。
わたしはアメリカをしんじており、母国ぼこくわたししんじてくれていると、確信かくしんしている。母国ぼこくから数多すうた恩恵おんけいけたことかんがみて、その体制たいせいささえ、国内こくないほう遵守じゅんしゅし、星条旗せいじょうき敬意けいいあらわし、国内外こくないがいにおけるすべてのてきから母国ぼこくまもり、市民しみんとしての責務せきむを、積極せっきょくてきけるべく、より偉大いだいなるアメリカで、よりきアメリカじんになることねがいつつ、なん如何いかなる場所ばしょでも、母国ぼこくつつしんで敬意けいいはらことを、わたしちかう。

つづられ、今日きょうでは「2せいによる、愛国あいこく主義しゅぎてき市民しみんナショナリズムの集大成しゅうたいせい」とひょうされているどう声明せいめいぶんは、発表はっぴょう同時どうじに、日系にっけいコミュニティおいて、おおきな反響はんきょうこととなった。それにまらず、モルモン宣教師せんきょうしとしての滞日たいにち経験けいけんがあるとしてられ、マサオカの盟友めいゆうでもあった、民主党みんしゅとうエルバート・D・トーマス英語えいごばん上院じょういん議員ぎいんによって、同年どうねん5月9にちづけ上院じょういん議会ぎかい記録きろくにも、記載きさいされることとなった[29]

太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつともな強制きょうせい収容しゅうよう執行しっこうへの協力きょうりょく[編集へんしゅう]

リトル・トーキョーのJACLロサンゼルス支部しぶもうけられた「はん枢軸すうじく委員いいんかい本部ほんぶ入口いりくちよりかって、うえ看板かんばんには母国ぼこくよ、我々われわれ準備じゅんび出来できております」左下ひだりしたのボードには軍国ぐんこく日本にっぽんちてしまむ[注釈ちゅうしゃく 10]みぎのボードには「この非常時ひじょうじに、我々われわれ組織そしきとしても、いち国民こくみんとしても、政府せいふ忠誠ちゅうせいちかこと宣言せんげんします。我々われわれは、断固だんことして日本にっぽん糾弾きゅうだんし、アメリカの勝利しょうりないし枢軸すうじくこく打倒だとうという、共通きょうつう目標もくひょう達成たっせいするために、尽力じんりょくすることちかいます」かれているのが、それぞれ確認かくにんできる(1941ねん12月8にち撮影さつえい

1941ねん12月7にち真珠湾しんじゅわん攻撃こうげききた数時間すうじかんより、FBIおもに1せい日本語にほんご学校がっこう校長こうちょう日本人にっぽんじんかいおよ都道府県とどうふけんじんかい会長かいちょう僧侶そうりょ武術ぶじゅつ師範しはん個人こじん事業じぎょうぬしといった、日系にっけいコミュニティの指導しどうしゃなした人物じんぶつ逮捕たいほ開始かいしした[30][31]。これにともない、JACLの城戸きど会長かいちょうは、日本にっぽんへの宣戦せんせん布告ふこくに、日系にっけいじんせられただいれつとしての汚名おめいをそそぐことを、急務きゅうむとらえた。そのことから、12月15にちに「忠誠ちゅうせい宣言せんげん」と銘打めいうって、ルーズベルト大統領だいとうりょうたいして、

「この非常時ひじょうじに、我々われわれ大統領だいとうりょう閣下かっか母国ぼこくたいして、最大限さいだいげん協力きょうりょくしまないこと約束やくそくします。日本にっぽんくにへの攻撃こうげき開始かいししたいま我々われわれ同胞どうほうともに、この侵略しんりゃく撃退げきたいすべく、あらゆる努力どりょくはら準備じゅんびができています」

つづった電報でんぽうおくると同時どうじに、日系にっけいコミュニティをふくめたアメリカ社会しゃかいけては、

我々われわれは、アメリカ市民しみんとしての義務ぎむを、あくまでもたすものである。いまこそ、われらの誠心せいしんくすべきときた。日米にちべい開戦かいせんは、もっと不幸ふこう出来事できごとであるが、戦場せんじょうおくられるとえども、われらの忠誠ちゅうせい不変ふへんである。とう父母ちちははは、法律ほうりつしたにアメリカ市民しみんたることゆるされないが、しかしアメリカ市民しみん父母ちちははとして、善良ぜんりょうなる居住きょじゅうみんとして、あくまでもとうともすすことしんじてうたがわないものである」

といった声明せいめい発表はっぴょうした[32][33]

以降いこうのJACLは、政府せいふ公聴こうちょうかいひとしにおいて率直そっちょく日本にっぽんえんる」こと声明せいめいしたほか、忠実ちゅうじつ愛国あいこくてきなアメリカじんとしての、2せい実像じつぞう喧伝けんでんした。また、マサオカ書記しょきちょうをはじめとするおおくのメンバーが「日系にっけいコミュニティの政治せいじてき安全あんぜんまもためには、アメリカ市民しみんけんたない高齢こうれいの1せいが、ある程度ていど犠牲ぎせいこうむことむをない」と主張しゅちょうしたこともあり、FBIと海軍かいぐん情報じょうほうきょくが「危険きけん人物じんぶつ」とおぼしき1せいを、特定とくていすることへの捜査そうさ協力きょうりょくなどもおこなった[34][35]

陸軍りくぐんによる『市民しみん排除はいじょ命令めいれいだい20ごう』におうじるかたちで、JACL本部ほんぶ講堂こうどうにもうけられた戦時せんじ民事みんじ監督かんとくきょく[36]出頭しゅっとうする日系にっけいじんたち(1942ねん4がつ25にちドロシア・ラング撮影さつえい

1942ねん2がつ19にちにルーズベルト大統領だいとうりょうが『大統領だいとうりょうれい9066ごう』に署名しょめいしたことともない、日系にっけいじん強制きょうせい収容しゅうようしょ送致そうちすること決定けっていした。そのさい、JACLの指導しどうは、連邦れんぽう政府せいふ方針ほうしん反発はんぱつする姿勢しせいしめさなかった。むしろ、積極せっきょくてき政府せいふ方針ほうしんしたがったほうが、日系にっけいじんによる母国ぼこくへの忠誠ちゅうせいしん証明しょうめいし、ひいては日系にっけいじん敵視てきしするアメリカのあやまりをただことにもつながる、とかんがえた。そのことからJACLは、やく12まんにん日系にっけいじんたいし、冷静れいせい退きをおこない、命令めいれい反発はんぱつするものからは、距離きょりようけた[37][注釈ちゅうしゃく 11]

ほかにも、退きの執行しっこうにあたってJACLのメンバーは、戦争せんそうしょうとの交渉こうしょうのほか、英語えいご能力のうりょくひくい1せいために、必要ひつよう書類しょるい整理せいり各種かくしゅ代筆だいひつ執行しっこう当日とうじつにおける自宅じたくから集合しゅうごう場所ばしょへの送迎そうげいつなど、おおくの重要じゅうよう役割やくわりたした[9]

強制きょうせい収容しゅうよう(1942ねん~1945ねん[編集へんしゅう]

収容しゅうようしょにおける活動かつどう[編集へんしゅう]

退問題もんだい解決かいけつしたのちのJACLは、収容しゅうようしょから解放かいほうされたのち日系にっけいじんたちによる生活せいかつ再建さいけんを、如何いかにして支援しえんするか、という問題もんだいこととなった。それにあたっては、あらたに本部ほんぶ移転いてんしたソルトレイクシティオグデンをはじめとして、モルモンきょうおおことから、日系にっけいじんこころよれる土壌どじょうのあったユタしゅう各地かくちのほか、工場こうじょう農場のうじょうにおける極度きょくど労働ろうどうりょく不足ふそく深刻しんこく問題もんだいとなっていた、中西部ちゅうせいぶへのさい定住ていじゅう積極せっきょくてきうながすべく、住宅じゅうたくローンサービスを提供ていきょうしたほか、シカゴにあらたな事務所じむしょ設置せっちするなどした[16][39]

ポストン収容しゅうようしょにおけるコミュニティ評議ひょうぎかいのメンバー(1943ねん9がつ1にち撮影さつえい

また、JACLは収容しゅうようしょ生活せいかつにおいて、戦時せんじ転住てんじゅうきょく(WRA)英語えいごばん緊密きんみつ協力きょうりょく関係かんけいむすんでいた。WRAとJACLは、「よりいアメリカじんつくす」こと目的もくてきとした『コミュニティ評議ひょうぎかい』としょうする自治じち組織そしきを、かく収容しゅうよう所内しょないげた。教育きょういくめんでも、英語えいごやアメリカの歴史れきし文化ぶんかまな学校がっこうを、収容しゅうよう所内しょない設置せっちわかい2せい・3せいたいして、アメリカ教育きょういくやスポーツのレクリエーション提供ていきょうした。これらの収容しゅうよう所内しょないにおけるしょ制度せいどは、政治せいじ参加さんか教育きょういく経験けいけんとおして、「アメリカの民主みんしゅ主義しゅぎ」を日系にっけいじんつたえるものとして導入どうにゅうされた。アメリカへの忠誠ちゅうせいアメリカをスローガンとしてきたJACLも、強制きょうせい収容しゅうようへの「建設けんせつてき協力きょうりょく」は、日系にっけいじん社会しゃかいのアメリカ達成たっせいし、自身じしんらのリーダーシップを確立かくりつする好機こうきなした[40]

戦時せんじ強制きょうせい収容しゅうようは、多様たよう背景はいけいによって分節ぶんせつされていた日系にっけいじんを、「敵性てきせい市民しみん」として一括いっかつする人種じんしゅされた実践じっせんであった。収容しゅうようしょにおいて日系にっけいじんたちは、アメリカと日本にっぽんのどちらに忠誠ちゅうせいちかうか、という選択せんたくせまられることとなった。そうした状況じょうきょうで、英語えいごによる高等こうとう教育きょういくけたエリートそう中心ちゅうしんとするJACLは、WRAと協力きょうりょく関係かんけいきずことで、独自どくじ愛国あいこく主義しゅぎてき市民しみんナショナリズムを結晶けっしょうさせた。結果けっかとしてJACLは、収容しゅうよう所内しょないにおける政治せいじてき指導しどうりょく、ひいては日系にっけいコミュニティにおけるリーダーシップを確立かくりつすることとなった。それは、きゅう指導しどうしゃそうとしての1せいのほか、滞日たいにち経験けいけんかえりまい2せい地位ちい周縁しゅうえんさせ、その一部いちぶトゥーリーレイク収容しゅうようしょへと“隔離かくり”させた。こうして、戦前せんぜん排日はいにち運動うんどうなか構築こうちくされた日系にっけいコミュニティの姿すがたは、強制きょうせい収容しゅうようにおいて解体かいたいされることとなった[41]

その一方いっぽうで、本土ほんどとはことなり日系にっけいじんたいする一斉いっせい収容しゅうよう実施じっしされず、JACLの拠点きょてん設置せっちされていなかったハワイじゅんしゅう[注釈ちゅうしゃく 12]においては、『大学だいがく勝利しょうり奉仕ほうしだん』による活躍かつやくをはじめとして、おおくの日系にっけいじんたちがあらゆる銃後じゅうご仕事しごとをやりげ、1942ねん6月12にちには『だい100歩兵ほへい大隊だいたい』が創設そうせつされた[43]。そのことからJACLは、本土ほんど日系にっけいじんにも、アメリカぐん従軍じゅうぐんする権利けんりがあること主張しゅちょうした。

ぐんがわからも、陸軍りくぐんのカイ・E・ラスムセン大佐たいさ[注釈ちゅうしゃく 13]が、1942ねん11月17にちから25にちにかけてソルトレイクシティの日系にっけいキリスト教会きょうかい開催かいさいされた、JACLの緊急きんきゅう特別とくべつ全米ぜんべい会議かいぎにおいて、

「2せい将来しょうらいそのものが、きっと2つの集団しゅうだん―JACLと軍務ぐんむいている2せい―とともにあるということを、ご承知しょうちいただきたいとぞんじます。会場かいじょうみなさん日系にっけいじんは、ただたんにアメリカじんというだけではなく、一般いっぱんのアメリカじんよりおおきな犠牲ぎせいはらって、戦時せんじ挙国一致きょこくいっち体制たいせいしたおおきな貢献こうけんをしていらっしゃる、優秀ゆうしゅうなアメリカじんなのです。このてんこそ、このくに国民こくみんに、納得なっとくさせなくてはなりません。…道義どうぎことわすれましょう。現状げんじょうおくすることなく直視ちょくししましょう。現状げんじょう改善かいぜんしてながせる、最善さいぜん方法ほうほうつけましょう。あなたかた背負せおっている宿命しゅくめいを、どんなときでも好転こうてんさせてください。ただし、それが可能かのうとなるのは、無私むし無欲むよくろういとわない場合ばあいだけです。あなたかた双肩そうけんにこそ、常々つねづねかかげておられる大義たいぎ成功せいこうかっております」

と、本土ほんどの2せいによる真摯しんし支援しえん要請ようせいする演説えんぜつを、JACL幹部かんぶけてった[20]

どう会議かいぎから1ヶ月かげつ同年どうねん12がつ16にちに、統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶ日系にっけいじんのみで編成へんせいされた戦闘せんとう部隊ぶたい創設そうせつを、ジョージ・マーシャル陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう提案ていあんした。よく1943ねん1がつ1にちに、マーシャルがそれを承認しょうにんしたことで、1がつ28にち日系にっけいじんによる連隊れんたい規模きぼ部隊ぶたい編制へんせいされること発表はっぴょう収容しゅうよう所内しょないなどにおいて、志願しがんへい募集ぼしゅう開始かいしされた。最終さいしゅうてきには、ハワイからは『大学だいがく勝利しょうり奉仕ほうしだん』で活躍かつやくしていたものふくむ2,686にん本土ほんど収容しゅうようしょからは1,500にん志願しがんへい入隊にゅうたいし、『だい442連隊れんたい戦闘せんとうだん』が創設そうせつされることとなった[45][46]

日系にっけいコミュニティとの確執かくしつ[編集へんしゅう]

陸軍りくぐん志願しがんすること決意けついした日系にっけいじん青年せいねんを、陸軍りくぐん大尉たいい日系にっけいじん志願しがんへい2めい見守みまもなか祝福しゅくふくする、ローワー収容しゅうようしょのレイ・ジョンストン所長しょちょう(1943ねん3がつ10日とおか撮影さつえい

それにともないJACLは、1せいたち志願しがんへいとなったかんする投書とうしょを、収容しゅうよう所内しょない発行はっこうされている新聞しんぶんや、収容しゅうようしょから解放かいほうされたのち定住ていじゅうした地域ちいきにおけるかく地方紙ちほうしけて、積極せっきょくてきおこなことうながしたりもした。しかし一方いっぽうで、メンバーたち収容しゅうよう所内しょないにおいて、徴兵ちょうへい拒否きょひしゃいたるきびしく糾弾きゅうだんしたため、JACLはだい部分ぶぶん日系にっけいじんたちから非難ひなんびることとなった[16]

ただ、JACLと日系にっけいコミュニティのあいだ確執かくしつは、442連隊れんたいへの志願しがん問題もんだいだけに、起因きいんするものではなかった。その発端ほったんとして、JACLに参加さんかしていたメンバーの大半たいはんが、2せい富裕ふゆうそうだったことげられる。1941ねん時点じてんで、JACL会員かいいん職種しょくしゅのうち、もっとおおかったのは弁護士べんごし教員きょういん医療いりょう従事じゅうじしゃといった専門せんもんしょくで、その比率ひりつは26.3%(2せい全体ぜんたいでは8.3%)だった。また、キリスト教徒きりすときょうと大卒だいそつ以上いじょう学歴がくれきもの割合わりあいも、2せいなかではいちじるしくたかかったという。

こうした人的じんてき社会しゃかいてきめぐまれた背景はいけいをもとに、アメリカへの忠誠ちゅうせいとアメリカうったつづけたJACLは、まい2せい労働ろうどう運動うんどういえであるジェームス・オダが、1940ねん7がつ15にちづけの『同胞どうほう』において、

いまのままでは、市民しみん協会きょうかいなんまでってもレストランのボスや弁護士べんごし教師きょうし歯医者はいしゃ団体だんたいさかいえず、いや反対はんたい商工しょうこう会議かいぎしょのような、日本人にっぽんじん名士めいし有名ゆうめい無実むじつ代表だいひょう機関きかんがるであろう」

べたことをはじめとして、2せい大半たいはんめる労働ろうどうしゃそうからは、そのエリート主義しゅぎきびしく批判ひはんされることとなった[47]

またJACLは、上述じょうじゅつしたとおり、政府せいふによる強制きょうせい収容しゅうよう執行しっこう反対はんたいしなかっただけでなく、「もっと危険きけん任務にんむ先頭せんとうち、何処どこへでも出撃しゅつげきする」ことむねとした、日系にっけいじん特攻とっこう部隊ぶたい創設そうせつすることと、どう部隊ぶたい忠誠ちゅうせいしんうたが人々ひとびと安心あんしんさせるために、隊員たいいん家族かぞく友人ゆうじん政府せいふの「人質ひとじち」とすることなどを提案ていあんした。そうした姿勢しせいかたきとなり、JACLは収容しゅうよう初期しょき時点じてんで、日本にっぽん教育きょういくけた1せいまい2せいおおくからも、反感はんかんいだかれるようになっていた[48][49]

くわえて、収容しゅうようしょにおける食事しょくじ住居じゅうきょは、きわめて劣悪れつあくなものだったこともあり、とくわかい2せいあいだでは、自身じしんらがかれているそれらの状況じょうきょうと、上述じょうじゅつした収容しゅうよう所内しょない学校がっこうにおいてまなぶ「アメリカの民主みんしゅ主義しゅぎ」の理念りねんあいだ矛盾むじゅんおぼえるものも、けっしてすくなくなかった。そのことから、収容しゅうようしゃあいだでは、収容しゅうようしょにおけるWRAとJACLによる支配しはい体制たいせいたいし、徐々じょじょ疑心暗鬼ぎしんあんきしょうじるようになった[38]

上述じょうじゅつした背景はいけいもあって、重鎮じゅうちんメンバーのなかでも、タヤマはマンザナー収容しゅうようしょにて1942ねん12月5にちに、城戸きどポストン収容しゅうようしょにて1942ねん9がつと1943ねん1がつ28にちの2わたって、トーマス・ヤタベとジョン・ヤマザキ(山崎やまざきたかし)はジェローム収容しゅうようしょにて1943ねん3がつ6にちに、各々おのおの暴行ぼうこうける事態じたい見舞みまわれることとなった。とくに、タヤマへの暴行ぼうこう事件じけんさいしては、主犯しゅはんかくなされたまい2せいハリー・ウエノ(上野うえの義雄よしお英語えいごばんがWRAに逮捕たいほされたことで、それに抗議こうぎしたやく2,000めい収容しゅうようしゃたちが、暴動ぼうどうこす事態じたいにまで発展はってん最終さいしゅうてきに、ともに2せいであるジミー・イトー(当時とうじ17さい)とジェームス・カナガワ(どう21さい)の2めいが、歩哨ほしょうにより射殺しゃさつされたほか、9めい負傷ふしょう、22めい(うち10めいが1せい、9めいまい2せい)が拘禁こうきんされることとなった[33][46][50][注釈ちゅうしゃく 14]

このように、戦前せんぜんからその火種ひだねかくれしていた、JACLと日系にっけいコミュニティによる確執かくしつは、強制きょうせい収容しゅうようにおいて顕在けんざいかつ深刻しんこくすることとなり、戦後せんご双方そうほうあいだには、ながらくふかみぞのここととなった[37]

また、公民こうみんけん弁護士べんごしとしてられるウェイン・M・コリンズ英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 15]も、戦後せんごのインタビューにおいて、

「JACLは、日系にっけいじん代弁だいべんしゃ自称じしょうしていましたが、同胞どうほうためがろうとする様子ようすうかがえませんでした…。彼等かれらは、まるでわずらわしいばとれでもあつかうかのごとく、日系にっけいじん強制きょうせい収容しゅうようしょみちびきました」

かたり、戦時せんじちゅうのJACLによる一連いちれん姿勢しせい非難ひなんした[51]

リドレス運動うんどう(1945ねん~1988ねん[編集へんしゅう]

日系にっけいコミュニティの再建さいけん組織そしき盤石ばんじゃく[編集へんしゅう]

WRAが2せいによる戦場せんじょうでの貢献こうけんをアピールするため作成さくせいしたパンフレット「制服せいふくた2せい

1945ねん1がつに、西海岸にしかいがんにおける退命令めいれい解除かいじょ発行はっこうされると、WRAは日系にっけいじんへのさい定住ていじゅう支援しえん開始かいしした。政策せいさく実施じっしにあたっては、442連隊れんたい活躍かつやく代表だいひょうされる日系にっけいじんの「忠誠ちゅうせいしんあふれた市民しみん」としてのめんを、殊更ことさら強調きょうちょうしたパンフレットをおお出版しゅっぱんするなどして、アメリカ社会しゃかいけて寛容かんよう対応たいおうけた。

無論むろん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきのトラウマが生々なまなましいアメリカの世論せろんは、西海岸にしかいがん排日はいにち運動うんどうによる「いちジャップだったものは、永久えいきゅうにジャップだ」というスローガン象徴しょうちょうされるように、日系にっけいじんによるもと居住きょじゅうへの帰還きかんには、依然いぜんとして反対はんたいこえ根強ねづよかった。しかし、連邦れんぽうおよしゅう政府せいふ英語えいごばんのほか、アメリカ自由じゆう人権じんけん協会きょうかい一部いちぶキリスト教きりすときょう団体だんたい代表だいひょうされるリベラルけい団体だんたい有識者ゆうしきしゃ白人はくじん日系にっけいじんによるマイノリティ団体だんたいは、WRAに触発しょくはつされるかたちで、住宅じゅうたく雇用こようといった日系にっけいじんさい統合とうごう必要ひつよう支援しえんを、世論せろんけてうったはじめた。日系にっけいじん支援しえん賛同さんどうした各派かくは代表だいひょうによる協力きょうりょく会議かいぎ席上せきじょうでは、「日系にっけいじんのアメリカ市民しみんは、おなじボートにっている」こと強調きょうちょうされたうえで、「日本にっぽんぐんによる残虐ざんぎゃく行為こういたいするいかりを、無実むじつ不運ふうん日系にっけいアメリカじんへの復讐ふくしゅうてんじさせてはならない」として、「日本にっぽんぐん」と「日系にっけいじん」を明確めいかく区別くべつすべきであること表明ひょうめいされた[52]

こうした一連いちれんうごきが結実けつじつするかたちで、アメリカ国内こくないにおけるたい日系にっけいじん感情かんじょうは、徐々じょじょにではあるものの、軟化なんかきざしがられはじめた。くわえて、戦後せんご東西とうざい冷戦れいせん構造こうぞう成立せいりつしたことともない、日本にっぽんがアメリカのパートナーとしてなされるようになったことも、日系にっけいじんによる忠誠ちゅうせいしん称賛しょうさんされ、各地かくちへのさい定住ていじゅうさい統合とうごう促進そくしんされることへのかぜとなった[53]

そのよう背景はいけいをもとに、強制きょうせい収容しゅうよう実施じっしした各地かくちへのさい定住ていじゅう支援しえんとおして、地域ちいきえた広範こうはんなネットワークを構築こうちくしたJACLは、全米ぜんべい規模きぼ組織そしき成長せいちょうした。大学だいがく教育きょういくけ、ホワイトカラーはたらくといったものたちが、2せい主流しゅりゅうであること自認じにんし、本部ほんぶ強力きょうりょくなリーダーシップにささえられながら、全米ぜんべいちゅう日系にっけいじんむすけるようになった。また、それぞれの地域ちいき独自どくじ利害りがい影響えいきょうされないJACLの体質たいしつは、日系にっけいじん一般いっぱん労働ろうどう市場いちば進出しんしゅつすると同時どうじに、地理ちりてき分散ぶんさんはじめた時勢じせいにも適合てきごうしていた。そうした状況じょうきょうかんがみて、ロサンゼルスでも引導いんどうわたされたかつての1せい指導しどうしゃたちが、JACLの活動かつどう全面ぜんめんてき援助えんじょすること決議けつぎした[53]

市民しみんけん向上こうじょう日米にちべい関係かんけいさい構築こうちくへの[編集へんしゅう]

終戦しゅうせんむかえると、JACLは本部ほんぶをサンフランシスコへさい移転いてんする同時どうじに、活動かつどう主眼しゅがんを、日系にっけいじん市民しみんけん向上こうじょう回帰かいきする方針ほうしんかためた。

戦後せんごはつ全国ぜんこく大会たいかいは、1946ねん2がつ28にちから3月4にちにかけて、コロラドしゅう[注釈ちゅうしゃく 16]デンバー開催かいさいされた。どう大会たいかいにおいては、上述じょうじゅつした『日系にっけいアメリカじん信条しんじょう』を、団体だんたい公式こうしき理念りねんとして採用さいようすることが、発表はっぴょうされたことくわえ、

  • 日本にっぽん国籍こくせきしか保持ほじしない1せいたいする、国外こくがい追放ついほう阻止そし帰化きか推進すいしん
  • 戦時せんじちゅうにおける強制きょうせい収容しゅうようたいする、謝罪しゃざい補償ほしょう請求せいきゅう
  • 強制きょうせい収容しゅうようそのものの合憲ごうけんせいさい検証けんしょう
  • 退きにおうじること困難こんなんものに、措置そち執行しっこう猶予ゆうよしなかったことへの非難ひなん
  • 少数しょうすう民族みんぞくによる全国ぜんこく会議かいぎ召集しょうしゅうと、問題もんだい解決かいけつため連邦れんぽう政府せいふないでの省庁しょうちょう設置せっち
  • 居住きょじゅう雇用こようにおける差別さべつ撤廃てっぱい
  • 各州かくしゅうにおける外国がいこくじん土地とちほう撤廃てっぱい[注釈ちゅうしゃく 17]
  • 強制きょうせい収容しゅうようかんする、第三者だいさんしゃによる調査ちょうさ機関きかん設置せっち
  • 2せい退役たいえき軍人ぐんじんへの支援しえん
  • 日系にっけいアメリカじんのアメリカ

など、14項目こうもくから日系にっけいコミュニティの再建さいけんあんも、採択さいたくされることとなった[19][29][56]

1950年代ねんだいのJACLは、人種じんしゅあいだ結婚けっこん英語えいごばん人種じんしゅ隔離かくり英語えいごばん人種じんしゅもとづく移民いみん帰化きか制限せいげんする法律ほうりつを、撤廃てっぱいしくは改正かいせいするべく、訴訟そしょう運動うんどう連邦れんぽう議会ぎかいにおけるロビー活動かつどう展開てんかいした。

その成功せいこうれいとして、ヨーロッパ戦線せんせん英語えいごばんから復員ふくいんしたのちに、はん差別さべつ委員いいんかい委員いいんちょうとなったマイク・マサオカの尽力じんりょくにより、1952ねん6月27にちに『移民いみん国籍こくせきほう』が成立せいりつ。これにともない、1せい帰化きか市民しみんけんあたえられると同時どうじに、日本にっぽんからの移民いみん再度さいどみとめられることとなった[16][19]

これをきっかけにJACLは、1せいにアメリカ市民しみんけん取得しゅとくすること奨励しょうれいし、1せいからも市民しみんけん取得しゅとく要望ようぼうするこえが、おおがるようになった。そのため通訳つうやく動員どういんして日本語にほんご授業じゅぎょうおこな米国べいこく市民しみんけんテストの講習こうしゅうかいが、JACLのはたらけによって、全米ぜんべい各地かくち開催かいさいされることとなった[57]。その1954ねんに1,600にんの1せいによる帰化きか宣誓せんせいしきが、おこなわれたこと皮切かわきりに、1965ねんまでに4まんにん以上いじょうの1せいが、アメリカ市民しみんけん取得しゅとくした[58]

一方いっぽうで、『排日はいにち移民いみんほう』からがれたくにべつ割当わりあて制度せいどにより、日本にっぽんからの新規しんき移民いみんすうは、年間ねんかんたり185にんにまで制限せいげんされることとなった[59][注釈ちゅうしゃく 18]。そのため割当わりあてがいとなっていた「戦争せんそう花嫁はなよめ以外いがい新規しんき移民いみん見込みこことは、当初とうしょ困難こんなんであるとおもわれていた。しかし、1953ねん8がつ7にちに『難民なんみん救済きゅうさいほう英語えいごばん』が成立せいりつしたことともない、10さい以下いか孤児こじ対象たいしょうとした養子ようし縁組えんぐみ移民いみんを、年間ねんかんたり4,000にんまでれること可能かのうとなった。また、1955ねんどうほう規定きてい変更へんこうされると、台風たいふうをはじめとする自然しぜん災害さいがい被災ひさいしゃを「難民なんみん」としておくせることに、マサオカや日本にっぽん政治せいじらが着目ちゃくもくするようになった。これにともない、日本にっぽんからの新規しんき移民いみん送出そうしゅつにおける消極しょうきょくてき局面きょくめんは、おおきく変化へんかすることとなった。結果けっかとして、1956ねんどうほう失効しっこうするまで、所謂いわゆるGIベビー」としてまれた戦災せんさい混血こんけつ英語えいごばん2,500めいと、和歌山わかやまけん広島ひろしまけん鹿児島かごしまけんからの農業のうぎょう移民いみん1,005めいが、アメリカへわたこととなった[61][62]

このように、日系にっけいじんさい定住ていじゅうさい統合とうごうや1せい帰化きかけん外国がいこくじん土地とちほう撤廃てっぱい日本にっぽんからの新規しんき移民いみんれの再開さいかいなどの問題もんだいんだことは、JACLが2せい一部いちぶだけでなく、日系にっけいアメリカじん全体ぜんたい代表だいひょうする団体だんたいであること周知しゅうちさせ、日系にっけいコミュニティとのわだかまりがける、おおきなきっかけとなった[63]

リドレス運動うんどう展開てんかい[編集へんしゅう]

1948ねん7がつ2にちに、日系にっけいじん強制きょうせい収容しゅうようたいする連邦れんぽう政府せいふによる補償ほしょうさくとしては、最初さいしょのものとなる『日系にっけいじん退去たいきょ補償ほしょう請求せいきゅうほう英語えいごばん』が、ハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょうによって署名しょめいされた[64]どうほうもとづき、総額そうがくやく3,800まんドルの賠償金ばいしょうきん支払しはらわれたものの、請求せいきゅう総額そうがくやく25%、日系にっけいじん損害そんがい総額そうがくの10%未満みまんぎず、一連いちれん損害そんがい補填ほてんするには、ほぼ「いしみず」の状態じょうたいだった[65]

そうしたなかで、1950年代ねんだいなかごろから黒人こくじんによる公民こうみんけん運動うんどう展開てんかいされ、結果けっかとして1964ねんに『公民こうみんけんほう』、よく1965ねんには『投票とうひょうけんほう』が、相次あいついで制定せいていされることとなった。こうしたうごきに触発しょくはつされた日系にっけいじんたちによって、1948ねんほうでは考慮こうりょされなかった、無形むけい損害そんがい日系にっけいじん自由じゆうおよ尊厳そんげん回復かいふくもとめる「リドレス運動うんどう」が、1970年代ねんだいから展開てんかいされるようになった[66]

当初とうしょは、運動うんどう方針ほうしん賠償金ばいしょうきんられた場合ばあい使途しとめぐって、指導しどうあいだ対立たいりつきた[67]。しかし、1970ねん7がつひらかれた全国ぜんこく大会たいかいにおいて「サンフランシスコ連邦れんぽう準備じゅんび銀行ぎんこう見積みつもった、4おくドルの推定すいてい損失そんしつがくえる補償ほしょう総額そうがくもって、個々人ここじんたいして、抑留よくりゅうされた日数にっすうおうじた補償ほしょうおこなことすべての弁済べんさいは、免税めんぜいであることさだめた適切てきせつほうを、連邦れんぽう議会ぎかい制定せいていすること」をもとめる、エディソン・ウノ(宇野うのとみ麿まろ英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 19]によるあんが、採択さいたくされることとなった[16][70]。これにともない、太平洋戦争たいへいようせんそうなかにおける日系にっけいじん強制きょうせい収容しゅうようたいする、謝罪しゃざい補償ほしょう要求ようきゅうするための『全米ぜんべい補償ほしょう請求せいきゅう委員いいんかい(NCR)』が設立せつりつされ、運動うんどう嚆矢こうしとなった[56]

そのは、1978ねん7がつソルトレイクシティもよおされたJACL全国ぜんこく大会たいかいにおいて、連邦れんぽう政府せいふたいする損害そんがい賠償ばいしょう要求ようきゅう決議けつぎされたことで、リドレス運動うんどう大々的だいだいてき展開てんかいされることとなった。JACLは、政府せいふによる救済きゅうさい措置そちとして、

  • 当時とうじ政府せいふあやまちをみとめる、連邦れんぽう議会ぎかいによる正式せいしき謝罪しゃざい
  • 抑留よくりゅうされた各人かくじんに、2まん5せんドルの賠償金ばいしょうきん支払しはらうこと
  • 強制きょうせい収容しゅうようについての、ただしい歴史れきし教育きょういくおこな基金ききん設立せつりつ

の3てん要求ようきゅうした。

市民しみん自由じゆうほう』に署名しょめいするレーガン大統領だいとうりょうと、その様子ようす見守みまもる(ひだりから)スパーク・マツナガ上院じょういん議員ぎいん、ノーマン・ミネタ下院かいん議員ぎいんパット・サイキ下院かいん議員ぎいんピート・ウィルソン上院じょういん議員ぎいんドン・ヤング下院かいん議員ぎいんボブ・マツイ下院かいん議員ぎいんビル・ローリー英語えいごばん下院かいん議員ぎいん、ハリー・カジハラJACL会長かいちょう

1988ねん8がつ10日とおかに、ロナルド・レーガン大統領だいとうりょうは『市民しみん自由じゆうほう英語えいごばん』(別称べっしょう: 日系にっけいアメリカじん補償ほしょうほう)に署名しょめい連邦れんぽう政府せいふは、強制きょうせい収容しゅうよう経験けいけんした存命ぞんめいしゃ1にんたり2まんドルの賠償金ばいしょうきん支払しはらことをはじめとして、上述じょうじゅつしたJACLによる要求ようきゅうを、ほぼまるみすることとなった[4][71]

また、3せい以降いこうにあたる戦後せんごまれのJACL指導しどうは、戦時せんじちゅう強制きょうせい収容しゅうようあらがったものたちへの名誉めいよ回復かいふくつとめるようになり、2002ねんには徴兵ちょうへい拒否きょひした2せい批判ひはんしたことを、公式こうしき謝罪しゃざいした[16]

平成へいせい以降いこう(1994ねん以降いこう[編集へんしゅう]

戦没せんぼつ将兵しょうへい追悼ついとう記念きねんアーリントン国立こくりつ墓地ぼちもよおされた日系にっけいじん兵士へいし慰霊いれい式典しきてんにおいて、スピーチをおこなうJACLワシントンD.C.支部しぶちょうのジョン・トベ(2015ねん5月24にち撮影さつえい

LGBT問題もんだいへの[編集へんしゅう]

1994ねんには、全国ぜんこく大会たいかいにおいて同性どうせいカップルによる結婚けっこん権利けんりふくめた、結婚けっこん自由じゆうすべてのひとみとめるべきだとするスタンスを、確認かくにんする決議けつぎ採択さいたくした。このことからJACLは、アメリカ国内こくないにおける公民こうみんけん団体だんたいとしてははじめて、LGBT組織そしきとしては、アメリカ自由じゆう人権じんけん協会きょうかいいで、同性どうせい結婚けっこんへの支持しじ明確めいかくした組織そしきとなった[72][73]

民族みんぞく集団しゅうだんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

2000ねん以降いこう人口じんこう動態どうたい政治せいじ変化へんかは、日系にっけいじんコミュニティの様相ようそうにも変革へんかくをもたらし、JACLはアジア・太平洋たいへいよう諸島しょとうけいアメリカじんをはじめとする、あらゆる民族みんぞく集団しゅうだんによる権利けんり保護ほごとくわか混血こんけつ会員かいいんによる「ハパ英語えいごばん・アイデンティティ」の重要じゅうようせいかんする問題もんだい焦点しょうてんてることにも、その使命しめい拡大かくだいすることとなった[74]

2001ねん9月11にちアメリカ同時どうじ多発たはつテロをきっかけに、どう国内こくないにおいてアラブけい住民じゅうみん英語えいごばんたいするヘイトクライム急増きゅうぞうした。この事態じたいけてJACLは、自身じしんたちかつ見舞みまわれた経験けいけんかんがみて、テロ発生はっせい数日すうじつひらいた記者きしゃ会見かいけんにおいて、一連いちれんのヘイトクライムを非難ひなんする声明せいめい発表はっぴょうした[75]

また、ノーマン・ミネタ運輸うんゆ長官ちょうかんは、アラブけいムスリムであるという理由りゆうで、空港くうこうにおいてじょう拒否きょひされる事例じれい確認かくにんされたことけ、国内こくないかく航空こうくう会社かいしゃ英語えいごばんへ、

といったむね通達つうたつ発出はっしゅつした。

上述じょうじゅつした措置そちったことともない、ミネタはかく方面ほうめんから非難ひなんびるようになった。しかし、そうした最中さいちゅう出演しゅつえんしたCBSの『60 Minutes』では、

「アラブけい住民じゅうみんないしムスリムは、すべての国民こくみんおなじだけの尊厳そんげん敬意けいいをもってせっせられます。外見がいけんはだいろ判断はんだんされることについて、わたし実体験じつたいけんとしてっています」

べた。同時どうじに、レイシャル・プロファイリング安全あんぜん基礎きそとならないことは、自身じしん経験けいけんからあきらかである、とも主張しゅちょうした。これ以降いこう人種じんしゅ信仰しんこうもとづいた当局とうきょくによる捜査そうさは、回避かいひされることとなった[76][77]

これをに、日系にっけいをはじめとするアジアけいコミュニティとムスリム英語えいごばんふくめたアラブけいコミュニティによる、双方そうほう相互そうご理解りかい促進そくしんするべく、高校生こうこうせい中心ちゅうしんとする若者わかもの対象たいしょうとした“Bridging Communities Program”が、げられることとなった。参加さんかしゃは、民族みんぞくせい共同きょうどうたい組織そしき文化ぶんかエンパワーメントかんするワークショップ受講じゅこうすることとなる。また、トゥーリーレイク・マンザナー・ミニドカ収容しゅうようしょ跡地あとちへの訪問ほうもん実施じっししている。どうプログラムの運営うんえいにあたっては、国立こくりつ公園こうえんきょくから助成じょせいきんけており、『アメリカ・イスラム関係かんけい評議ひょうぎかい英語えいごばん』『トゥーリーレイク巡礼じゅんれい委員いいんかい』『全米ぜんべい日系にっけいじん歴史れきし協会きょうかい』『公民こうみんけん戦時せんじ補償ほしょうのための日系にっけいじん組織そしき』などとも提携ていけいしている[78]

カケハシ・プロジェクト[編集へんしゅう]

2014ねんからは、日本にっぽん外務省がいむしょうおよJICE提携ていけいし、10日間にちかん前後ぜんこう無料むりょう招待しょうたい旅行りょこうとおして、

  • 両国りょうこくあいだで、対外たいがい発信はっしんりょくゆう将来しょうらいにな人材じんざい招聘しょうへい派遣はけんし、政治せいじ経済けいざい社会しゃかい文化ぶんか歴史れきし外交がいこう政策せいさくとうかんするたいにち理解りかい促進そくしんはかる。
  • 日系にっけいじん大学生だいがくせいふくめた若者わかものなかから、親日しんにち発掘はっくつし、日本にっぽん外交がいこう姿勢しせい魅力みりょくとうについて、招聘しょうへいしゃ派遣はけんしゃから積極せっきょくてき発信はっしんしてもらうことで、対外たいがい発信はっしんりょくをはじめとする、くに外交がいこう基盤きばん強化きょうかする。
  • 参加さんかしゃに、帰国きこく訪日ほうにち経験けいけんとう共有きょうゆう地元じもとでのたいにち理解りかいする活動かつどう計画けいかく作成さくせいしてもらうことで、中長期ちゅうちょうきてき対外たいがい発信はっしんおこなう。

ことなどを目的もくてきとした『カケハシ・プロジェクト』実施じっし参加さんかしている[19][79]

著名ちょめいなメンバー[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 連盟れんめい(れんめい)」[1][2][3]や「協会きょうかい(きょうかい)」[4][5][6][7]やく事例じれい見受みうけられる。
  2. ^ 全米ぜんべい日系にっけい市民しみん協会きょうかい(ぜんべいにっけいしみんきょうかい)』[8][9]呼称こしょうされる事例じれい見受みうけられる。
  3. ^ 1920ねんに、はつとなる日系にっけいじんによるボーイスカウトたい創設そうせつした。1924ねんには、日系にっけいじんとしてはじめてワシントン大学だいがくロー・スクール卒業そつぎょうし、弁護士べんごしとなった[12]1934ねん8がつ7にちには、ワシントンしゅう下院かいん英語えいごばん議員ぎいん選挙せんきょに、キングぐんだい37から共和党きょうわとう候補こうほとして出馬しゅつばした。しかし、同年どうねん9月11にち実施じっしされた予選よせん投票とうひょうにおいて、選挙せんきょ区内くない共和党きょうわとう候補者こうほしゃ5めいちゅう最下位さいかい落選らくせんしている[8]ちなみにちち達弥たつやは、日本にっぽんでは自由じゆう民権みんけん運動うんどうたずさわっており、ジョージ山岡やまおかちちおとだかとも、したしい間柄あいだがらだった[13]
  4. ^ 日系にっけいじんのボクシング選出せんしゅつとしては、はじめてマディソン・スクエア・ガーデンのステージにつも、当時とうじ規定きていえた試合しあいすうかさねたこと原因げんいんで、網膜もうまく損傷そんしょう。1927ねん全盲ぜんもうとなり、時期じきおなじくしてつまにも先立さきだたれる。しかし、1せい後妻ごさい・ミサオのたすけもあり、1928ねんにアメリカでははつとなる、日系にっけいじんけの完全かんぜん英字えいじ新聞しんぶんである“Japanese American Courier”創刊そうかんする[14]1937ねんだい5だいJACL会長かいちょうとなった[15]
  5. ^ フレズノ在住ざいじゅう歯科しか医師いしであり、1935ねんだい4だいJACL会長かいちょうとなった[15]
  6. ^ 1872ねん日本にっぽんまれる。渡米とべい1898ねん7がつ9にち海軍かいぐん入隊にゅうたいべい西にし戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんしただけでなく、マッキンリールーズベルトタフトといった、3にん歴代れきだい大統領だいとうりょうもとで、個人こじん給仕きゅうじがかりつとめた。1921ねん退役たいえきした[21]
  7. ^ 1895ねん日本にっぽんまれる。10さい渡米とべいしたのち父親ちちおやカナダわたったことに、ノースダコタしゅうマイノット居住きょじゅうするスローカム養子ようし縁組えんぐみする。ミネソタ大学だいがくツインシティーこうコロンビア・ロー・スクール進学しんがくするものの、だいいち世界せかい大戦たいせん出征しゅっせいするため中退ちゅうたい陸軍りくぐんだい82空挺くうてい師団しだんだい328歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばん一員いちいんとして、ムーズ・アルゴンヌ攻勢こうせいサン・ミッシェルのたたか英語えいごばん従軍じゅうぐん上級じょうきゅう曹長そうちょう階級かいきゅう退役たいえきした[22]
  8. ^ 日本にっぽん教育きょういくけたまい2せいは、戦前せんぜん日系にっけいコミュニティのなかでは、けっして少数しょうすうではなかった。その証左しょうさとして、1942ねん強制きょうせい収容しゅうようされた20さい以上いじょうの2せいのうち、4ぶんの1以上いじょう日本にっぽんで3ねん以上いじょう教育きょういくけた経験けいけんがあった、と報告ほうこくされている。かえりまいが「逸脱いつだつした存在そんざい」としてあつかわれたのは、少数しょうすうだったからではなく、彼等かれら経験けいけんが、当時とうじ日系にっけいコミュニティとアメリカ社会しゃかいの「関係かんけいつくかた」を定義ていぎしていた人種じんしゅエスニック編成へんせい不文ふぶんりつに、十分じゅうぶん適合てきごうしていなかったこと起因きいんしたものとおもわれる[25]
  9. ^ 1952ねんだい10代JACL会長かいちょうとなった[15]
  10. ^ あく枢軸すうじく日本にっぽん打倒だとう協力きょうりょくを」ともやくせる。
  11. ^ たとえば、強制きょうせい収容しゅうよう異議いぎとなえ、外出がいしゅつ禁止きんしれい故意こいおかして逮捕たいほされた安井やすいみのる弁護士べんごしを、マサオカ書記しょきちょうは「おろかな行為こうい」ときびしく批判ひはんした[38]
  12. ^ どうしゅうにおいても、1980ねんはじめて支部しぶ設立せつりつされた[42]
  13. ^ 1902ねんデンマークコペンハーゲンまれ、20さいでアメリカへ移住いじゅうする。1929ねん6がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょう。そのは、1936ねんから4年間ねんかん日本にっぽん滞在たいざいしたさいに、日本語にほんご習得しゅうとくする。これにより、大尉たいい時代じだいの1941ねん7がつから10がつにかけて、自身じしんおなじくちゅうにち経験けいけんのあるジョセフ・K・ディッキー大尉たいいとジョン・E・ウェッカリング中佐ちゅうさともに、陸軍りくぐん日本語にほんご学校がっこう創設そうせつにあたって、西海岸にしかいがん服務ふくむしているやく1,300にんの2せい兵士へいし全員ぜんいん面接めんせつ実施じっしし、学生がくせい教官きょうかん選抜せんばつする役割やくわりになこととなった[44]
  14. ^ 余談よだんではあるが、TBSけい2010ねん11月に放送ほうそうされたドラマ『99ねんあい〜JAPANESE AMERICANS〜』のだい3強制きょうせい収容しゅうようしょ」では、タヤマへの暴行ぼうこう事件じけんもとにしたシーンが、えがかれている。
  15. ^ 1944ねんコレマツたいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく事件じけんでは、原告げんこくがわ弁護人べんごにんつとめた。
  16. ^ だい世界せかい大戦たいせんなかのアメリカにおいて、一貫いっかんして日系にっけいじん強制きょうせい収容しゅうよう反対はんたいしていた数少かずすくない政治せいじだった、ラルフ・ローレンス・カーしゅう知事ちじつとめていたこともあり、おおくの日系にっけいじん保護ほごもとめて、どうしゅう流入りゅうにゅうしたという背景はいけいがある[54]
  17. ^ カリフォルニアしゅうでは、1952ねん4がつしゅう最高さいこう裁判所さいばんしょが、外国がいこくじん土地とちほう合衆国がっしゅうこく憲法けんぽう修正しゅうせいだい14じょうはんする、不当ふとう人種じんしゅ差別さべつたると判示はんじ。1956ねんに、住民じゅうみん投票とうひょうとおして撤廃てっぱいされることとなった。国内こくないにおいて、最後さいごまで施行しこうされていたワシントンしゅうにおけるものも、1966ねん撤廃てっぱいされた[55]
  18. ^ 1965ねんに『移民いみんおよ国籍こくせきほう英語えいごばん』が成立せいりつしたことともない、くにべつ割当わりあて制度せいど撤廃てっぱいされることとなった[60]
  19. ^ カリフォルニア州立しゅうりつ大学だいがくロサンゼルスこう英語えいごばん在学ざいがくちゅう1950ねんに、当時とうじとしてはJACLの創設そうせつ以来いらい最年少さいねんしょう支部しぶちょう就任しゅうにんする。のちに、サンフランシスコ州立しゅうりつ大学だいがく(SFSU)講師こうしとして、国内こくないはつとなるエスニック研究けんきゅうプログラムの創設そうせつたずさわる。1976ねん12月24にちに、47さいわかさで急逝きゅうせいするも、SFSUは生前せいぜん功績こうせきとなえ、かれかんしたしょう研究所けんきゅうじょをもうけている[68][69]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]