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米 べい 西 にし 戦争 せんそう (べいせいせんそう、英語 えいご : Spanish–American War 、スペイン語 ご : Guerra hispano-estadounidense )は、1898年 ねん 4月 がつ にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とスペイン帝国 ていこく の間 あいだ で発生 はっせい した戦争 せんそう である。
1898年 ねん 2月 がつ に起 お きたアメリカ海軍 かいぐん ・メイン号 ごう の爆発 ばくはつ を機 き にアメリカ国内 こくない の世論 せろん の好戦 こうせん ムードは高 たか まる一方 いっぽう だった。スペインは自国 じこく 傘下 さんか の海底 かいてい ケーブル を持 も たなかったので、通信 つうしん 面 めん で不利 ふり に立 た たされた。この戦争 せんそう でスペインは敗北 はいぼく し、アメリカはカリブ海 かりぶかい 及 およ び太平洋 たいへいよう の旧 きゅう スペイン植民 しょくみん 地 ち に対 たい する管理 かんり 権 けん を獲得 かくとく した。
20世紀 せいき のキューバの歴史 れきし 家 か は、1868年 ねん 10月から独立 どくりつ 運動 うんどう を続 つづ けてきたキューバ独立 どくりつ 軍 ぐん との関係 かんけい から、この戦争 せんそう をスペイン・アメリカ・キューバ戦争 せんそう (米 べい 西 にし キューバ戦争 せんそう )と呼 よ び、1946年 ねん にキューバ議会 ぎかい はこの名称 めいしょう をキューバにおけるこの戦争 せんそう の正式 せいしき 名称 めいしょう とすることを決議 けつぎ した[3] 。
前史 ぜんし -スペイン帝国 ていこく の全盛期 ぜんせいき と衰退 すいたい -[ 編集 へんしゅう ]
1492年 ねん 1月 がつ に成立 せいりつ し、かつて「太陽 たいよう の沈 しず まない国 くに 」と呼 よ ばれ、世界 せかい 的 てき な強国 きょうこく として君臨 くんりん していたスペイン帝国 ていこく の地位 ちい は、19世紀 せいき 後半 こうはん までの数 すう 世紀 せいき の間 あいだ に低下 ていか していった。それ以前 いぜん 、中世 ちゅうせい 末期 まっき の大 だい 航海 こうかい 時代 じだい にコロンブス が現在 げんざい のバハマ諸島 しょとう の東 ひがし 端 はし に位置 いち するサンサルバドル島 とう に上陸 じょうりく し、当初 とうしょ はそれを香料 こうりょう 諸島 しょとう のインドと勘違 かんちが いしてそこに住 す む原住民 げんじゅうみん を「インディアン (インドの人々 ひとびと )」と呼 よ んだ。それ以降 いこう スペインの軍人 ぐんじん であるコルテス の「アステカ文明 ぶんめい の発見 はっけん と征服 せいふく 」を皮切 かわき りに、南北 なんぼく アメリカ大陸 あめりかたいりく の大 だい 部分 ぶぶん にまで及 およ んだ金 きむ ・銀鉱 ぎんこう 山 やま の盗掘 とうくつ 、そして現地 げんち の先住民 せんじゅうみん を奴隷 どれい 化 か して彼 かれ ら自身 じしん に金 かね ・銀 ぎん を掘 ほ らせるエンコミエンダ制 せい を実施 じっし し、その金 かね ・銀 ぎん を船 ふね に積 つ み込 こ んでスペインのセビリャ 港 みなと に運 はこ び出 だ した。本国 ほんごく ではその金 かね ・銀 ぎん で貨幣 かへい を大量 たいりょう に鋳造 ちゅうぞう し、それを海軍 かいぐん 力 りょく の増強 ぞうきょう や植民 しょくみん 地 ち 拡大 かくだい のための戦費 せんぴ に充 あ てた。こうして近代 きんだい 16~17世紀 せいき のスペイン帝国 ていこく は繁栄 はんえい した。
しかし、ヨーロッパでのオランダ独立 どくりつ 戦争 せんそう においてオランダとイギリスの連合 れんごう 軍 ぐん にドーバー海峡 かいきょう で敗北 はいぼく し、オランダの独立 どくりつ を許 ゆる した。これ以来 いらい 、香料 こうりょう 諸島 しょとう の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の主導 しゅどう 権 けん はオランダに奪 うば われ、ポトシ銀山 ぎんざん を始 はじ めとする南 みなみ アメリカ各地 かくち の金 かね ・銀 ぎん の産出 さんしゅつ 量 りょう は減少 げんしょう し、海軍 かいぐん 力 りょく は既 すで に世界一 せかいいち の座 ざ から落 お ちるという具合 ぐあい に、明 あき らかに衰退 すいたい していった。
植民 しょくみん 地 ち の独立 どくりつ 運動 うんどう [ 編集 へんしゅう ]
時 どき を経 へ て時代 じだい は19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき に入 にゅう ろうとする頃 ころ 、既 すで にスペインにかつての大 だい 帝国 ていこく の面影 おもかげ はほとんどなかった。東南 とうなん アジア では16世紀 せいき に当時 とうじ のスペイン帝国 ていこく で最大 さいだい の版図 はんと を誇 ほこ ったフェリペ2世 せい の名前 なまえ をとって名付 なづ けられたフィリピン が残 のこ るのみで、太平洋 たいへいよう ・アフリカ ・西 にし インド諸島 しょとう にはほんの少数 しょうすう の散在 さんざい した植民 しょくみん 地 ち しか残 のこ らなかった上 うえ に、その多 おお くも独立 どくりつ 運動 うんどう を繰 く り広 ひろ げていた。
フィリピン ではアギナルド により、キューバ ではアントニオ・マセオ 、マクシモ・ゴメス 、ホセ・マルティ などにより既 すで に数 すう 十 じゅう 年 ねん に渡 わた るゲリラ 戦争 せんそう が展開 てんかい されていたが、スペイン本国 ほんごく はこれらの脅威 きょうい に対抗 たいこう しうる予算 よさん あるいは人的 じんてき 資源 しげん を十分 じゅうぶん に持 も っておらず、全 すべ ての面 めん で不足 ふそく していた。
そこでキューバにおいてキャンプを構築 こうちく し、住民 じゅうみん と独立 どくりつ 軍 ぐん を分離 ぶんり させて支援 しえん を止 と めさせる作戦 さくせん を布告 ふこく した。スペインはさらに反逆 はんぎゃく 者 しゃ と疑 うたが わしい人々 ひとびと の多 おお くを処刑 しょけい し、村 むら 々に残酷 ざんこく な仕打 しう ちを行 おこな った。しかし1898年 ねん にはキューバ島 とう の約 やく 半分 はんぶん がマクシモ・ゴメス将軍 しょうぐん の率 ひき いる独立 どくりつ 軍 ぐん に支配 しはい され、結局 けっきょく スペインは立場 たちば を完全 かんぜん に回復 かいふく することができなかった(第 だい 二 に 次 じ キューバ独立 どくりつ 戦争 せんそう )。
ジャーナリズムの読者 どくしゃ 数 すう 獲得 かくとく 競争 きょうそう と捏造 ねつぞう 記事 きじ [ 編集 へんしゅう ]
キューバでのこれらの出来事 できごと は、アメリカの新聞 しんぶん が読者 どくしゃ 数 すう を伸 の ばそうとしていた時期 じき に起 お きた。1897年 ねん の「アメリカ婦人 ふじん を裸 はだか にするスペイン警察 けいさつ 」という新聞 しんぶん 記者 きしゃ による捏造 ねつぞう 記事 きじ をきっかけに[4] 、各紙 かくし はスペインのキューバ人 じん に対 たい する残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を誇大 こだい に報道 ほうどう し、アメリカ国民 こくみん の人道的 じんどうてき 感情 かんじょう を刺激 しげき した。そしてキューバへの介入 かいにゅう を求 もと める勢力 せいりょく の増大 ぞうだい を招 まね いた。
開戦 かいせん への圧力 あつりょく [ 編集 へんしゅう ]
そのため開戦 かいせん への他 ほか の圧力 あつりょく も増大 ぞうだい し、アメリカ海軍 かいぐん は開戦 かいせん の1年 ねん 以上 いじょう 前 まえ にフィリピンでスペイン軍 ぐん を攻撃 こうげき する計画 けいかく を作成 さくせい していた。西部 せいぶ への拡張 かくちょう およびインディアン との大 だい 規模 きぼ 交戦 こうせん の終了 しゅうりょう はアメリカ陸軍 りくぐん の職務 しょくむ を減少 げんしょう させ、軍 ぐん の指導 しどう 陣 じん は新 あたら しい職務 しょくむ を望 のぞ んだ。
早期 そうき から、アメリカ人 じん の多数 たすう はキューバが彼 かれ らのものであると考 かんが えており、マニフェスト・デスティニー に関 かん する理論 りろん はちょうどフロリダ の沖合 おきあい にある、非常 ひじょう に魅力 みりょく 的 てき に見 み える島 しま によって作 つく られた。キューバの経済 けいざい の多 おお くは既 すで にアメリカの手 て にあり、ほとんどの貿易 ぼうえき (その多 おお くは闇 やみ 市場 いちば だった)はアメリカとの間 あいだ のものであった。
何人 なんにん かの財界 ざいかい 人 じん も同様 どうよう に開戦 かいせん を要求 ようきゅう した。ネブラスカ州 しゅう のジョン・M・サーストン上院 じょういん 議員 ぎいん は、「スペインとの戦 たたか いは、すべてのアメリカの鉄道 てつどう ビジネス及 およ び所得 しょとく を増加 ぞうか させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場 こうじょう の出力 しゅつりょく を増加 ぞうか させるだろう。それは、産業 さんぎょう と国内 こくない 通商 つうしょう のすべての流通 りゅうつう を刺激 しげき するだろう。」と明言 めいげん した。太平洋 たいへいよう を渡 わた ってマニラまで向 む かうのに2ヶ月 かげつ はかかる時代 じだい であったにもかかわらず、マニラ湾 まにらわん 海戦 かいせん は開戦 かいせん からわずか約 やく 2週間 しゅうかん 後 ご の5月 がつ 1日 にち に勃発 ぼっぱつ した。
1898年 ねん 2月 がつ 15日 にち にハバナ湾 わん で、アメリカ海軍 かいぐん の戦艦 せんかん メイン号 ごう (USS Maine, ACR-1 )が白人 はくじん 士官 しかん の上陸 じょうりく 後 ご に爆発 ばくはつ ・沈没 ちんぼつ し、266名 めい の乗員 じょういん を失 うしな う事故 じこ が発生 はっせい した(この中 なか には8名 めい の日本人 にっぽんじん コックとボーイが含 ふく まれていた)。爆発 ばくはつ の原因 げんいん に関 かん する証拠 しょうこ とされたものは矛盾 むじゅん が多 おお く決定的 けっていてき なものが無 な かったが、『ニューヨーク・ジャーナル 』、『ニューヨーク・ワールド 』の2紙 し を始 はじ めとした当時 とうじ のアメリカのメディアはスペイン人 じん による卑劣 ひれつ なサボタージュ(破壊 はかい 活動 かつどう ) が原因 げんいん であると主張 しゅちょう した。「Remember the Maine, to Hell with Spain! (メインを思 おも い出 だ せ!くたばれスペイン!)」という好戦 こうせん 的 てき で感情 かんじょう 的 てき なスローガン を伴 ともな ったこの報道 ほうどう は、一層 いっそう アメリカ国民 こくみん を刺激 しげき することとなった。この愛国 あいこく 的 てき で好戦 こうせん 的 てき な風潮 ふうちょう はスプレッド・イーグリズムあるいは主戦 しゅせん 論 ろん として知 し られている。
爆発 ばくはつ 原因 げんいん に関 かん する専門 せんもん 家 か の見解 けんかい は現在 げんざい も定 さだ まっていないが燃料 ねんりょう である石炭 せきたん の偶発 ぐうはつ 的 てき な爆発 ばくはつ によるものとするのが一般 いっぱん 的 てき であり、コンピューター・シミュレーションによって確認 かくにん もされている。なおアメリカ海軍 かいぐん は、調査 ちょうさ により原因 げんいん をボイラー の欠陥 けっかん と結論 けつろん 付 つ けている[5] 。一方 いっぽう で石炭 せきたん 自体 じたい にその原因 げんいん を求 もと めるものやアメリカを戦争 せんそう に引 ひ き込 こ もうとするキューバ人 じん 革命 かくめい 家 か によるサボタージュによるものとする異論 いろん も存在 そんざい するが、スペインが戦争 せんそう に消極 しょうきょく 的 てき であったという点 てん では一致 いっち している。
アメリカのウィリアム・マッキンリー 大統領 だいとうりょう は開戦 かいせん に同意 どうい せず、世論 せろん に対 たい して長 なが い間 あいだ 持 も ちこたえた。しかしメイン号 ごう の爆発 ばくはつ は、戦争 せんそう への世論 せろん を非常 ひじょう に強力 きょうりょく に形成 けいせい した。スペインのサガスタ 首相 しゅしょう はキューバから職員 しょくいん を撤退 てったい させてキューバ人 じん に自治 じち を与 あた えるなど、戦争 せんそう を防 ふせ ぐ為 ため の多 おお くの努力 どりょく をした。しかしながらこれはキューバの完全 かんぜん 独立 どくりつ には不十分 ふじゅうぶん なもので有 あ り、大 おお きく現状 げんじょう を変更 へんこう するには足 た りなかった。
4月 がつ 11日 にち にマッキンリー大統領 だいとうりょう は内戦 ないせん の終了 しゅうりょう を目的 もくてき としてキューバへアメリカ軍 ぐん を派遣 はけん する権限 けんげん を求 もと める議案 ぎあん を議会 ぎかい に提出 ていしゅつ した。4月 がつ 19日 にち に議会 ぎかい はキューバの自由 じゆう と独立 どくりつ を求 もと める共同 きょうどう 宣言 せんげん を承認 しょうにん し、大統領 だいとうりょう はスペインの撤退 てったい を要求 ようきゅう する為 ため に軍事 ぐんじ 力 りょく を行使 こうし することを承認 しょうにん した。これを受 う けてスペインはアメリカとの外交 がいこう 関係 かんけい を停止 ていし し、4月 がつ 25日 にち に連邦 れんぽう 議会 ぎかい はアメリカとスペインの間 あいだ の戦争 せんそう 状態 じょうたい が4月 がつ 21日 にち 以来 いらい 存在 そんざい することを宣言 せんげん した。なお議会 ぎかい はその後 ご 、4月 がつ 20日 はつか に戦争 せんそう の宣言 せんげん を遡 さかのぼ らせる議決 ぎけつ を承認 しょうにん した。
太平洋 たいへいよう での戦 たたか い
フィリピンにおける最初 さいしょ の戦闘 せんとう は、5月1日 にち のマニラ湾 まにらわん 海戦 かいせん である。香港 ほんこん を出港 しゅっこう したジョージ・デューイ 提督 ていとく 率 ひき いるアメリカ太平洋艦隊 たいへいようかんたい が、マニラ湾 まにらわん でパトリシオ・モントーホ 提督 ていとく 率 ひき いる7隻 せき のスペイン艦隊 かんたい を攻撃 こうげき した。6時 じ 間 あいだ ほどでスペイン艦隊 かんたい は旗艦 きかん を含 ふく む3隻 せき が沈没 ちんぼつ し、4隻 せき が炎上 えんじょう するなど壊滅 かいめつ 状態 じょうたい に陥 おちい った一方 いっぽう 、アメリカ艦隊 かんたい の被害 ひがい は負傷 ふしょう 者 しゃ 7名 めい のみとほぼ無傷 むきず であった。
マニラ湾 まにらわん 海戦 かいせん の結果 けっか フィリピンのスペイン海軍 かいぐん は壊滅 かいめつ したが、マニラでは1万 まん 人 にん 以上 いじょう のスペイン陸軍 りくぐん が駐留 ちゅうりゅう していた。海戦 かいせん 後 ご にデューイと会談 かいだん し、勝利 しょうり の暁 あかつき に独立 どくりつ させると約束 やくそく されたフィリピン独立 どくりつ 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ エミリオ・アギナルド 率 ひき いるフィリピンの民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ は、アメリカ軍 ぐん の支援 しえん と相互 そうご 連携 れんけい してスペイン軍 ぐん を攻撃 こうげき した。独立 どくりつ 軍 ぐん は1万 まん 人 にん を超 こ え、1898年 ねん 6月 がつ にはルソン島 るそんとう 中部 ちゅうぶ を制圧 せいあつ し、アギナルドはフィリピン共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ を宣言 せんげん して暫定 ざんてい 政府 せいふ を組織 そしき した。アメリカ本国 ほんごく のマッキンリー政権 せいけん はマニラ市 し を占領 せんりょう するためウェズリー・E・メリット 少将 しょうしょう の指揮 しき で大 だい 規模 きぼ な派遣 はけん 軍 ぐん (正規 せいき 軍 ぐん 5千 せん 人 にん を含 ふく む2万 まん 人 にん 規模 きぼ )を派遣 はけん した。6月30日 にち に派遣 はけん 軍 ぐん の先発 せんぱつ 部隊 ぶたい 、7月 がつ 半 なか ばにはメリット少将 しょうしょう も現地 げんち に到着 とうちゃく し、8月 がつ にはスペイン軍 ぐん に降伏 ごうぶく 勧告 かんこく を行 おこな い、14日 にち に休戦 きゅうせん 協定 きょうてい が決定 けってい した。
フィリピン人 じん による報復 ほうふく を恐 おそ れたスペイン軍 ぐん は、マニラ へフィリピン軍 ぐん が入城 にゅうじょう しないことを降伏 ごうぶく 条件 じょうけん としており、スペイン降伏 ごうぶく 後 ご のフィリピンの統治 とうち はアメリカが握 にぎ ることとなった。これはフィリピンの独立 どくりつ 運動 うんどう 側 がわ からすると不満 ふまん な結果 けっか であり、独立 どくりつ 運動 うんどう の対象 たいしょう はスペインからアメリカへ移 うつ り、米 べい 比 ひ 戦争 せんそう へ繋 つな がることとなった[6] 。
1898年 ねん 6月 がつ 20日 はつか にアメリカ海軍 かいぐん の巡洋艦 じゅんようかん チャールストン 及 およ び輸送 ゆそう 船 せん 3隻 せき の艦隊 かんたい が、当時 とうじ スペインの植民 しょくみん 地 ち だったグアム島 とう をカノン砲 ほう で砲撃 ほうげき し、これを占領 せんりょう しようとしたがスペイン側 がわ の司令 しれい 官 かん は戦争 せんそう が始 はじ まったことを知 し らず、司令 しれい 官 かん 自身 じしん がチャールストンに現 あらわ れて降伏 ごうぶく の意思 いし を伝 つた え、島 しま にいた54名 めい のスペイン軍 ぐん 兵士 へいし は捕虜 ほりょ となり、グアムは占領 せんりょう された。
5月19日 にち に大西洋 たいせいよう 側 がわ のキューバではパスクワル・セルベラ 提督 ていとく 率 ひき いるスペイン大西洋 たいせいよう 艦隊 かんたい がサンチャゴ湾 わん に入港 にゅうこう した。ウィリアム・サンプソン提督 ていとく 率 ひき いるアメリカ大西洋 たいせいよう 艦隊 かんたい はサンチャゴ湾 わん を封鎖 ふうさ し、陸海 りくかい 軍 ぐん 共同 きょうどう でスペイン艦隊 かんたい を攻撃 こうげき することになる。6月2日 にち にアメリカ軍 ぐん は給 きゅう 炭 ずみ 船 せん 「メリマック (英語 えいご 版 ばん ) 」をサンチャゴ湾 わん の湾口 わんこう に自沈 じちん させてスペイン艦隊 かんたい の出港 しゅっこう を防 ふせ ぐ閉塞 へいそく 作戦 さくせん を実行 じっこう したが、失敗 しっぱい した。なお、この状況 じょうきょう を日本 にっぽん 海軍 かいぐん の観戦 かんせん 武官 ぶかん として秋山 あきやま 真之 まさゆき が視察 しさつ しており、後 のち に日 にち 露 ろ 戦争 せんそう における旅順 りょじゅん 港 こう 閉塞 へいそく 作戦 さくせん の参考 さんこう とされた。
セオドア・ルーズベルト 率 ひき いるラフ・ライダーズ
キューバに駐屯 ちゅうとん していたスペイン軍 ぐん は約 やく 10万 まん を数 かぞ えたが、サンチャゴ湾 わん 付近 ふきん には1万 まん 4000人 にん ほどしか配置 はいち されていなかった。アメリカの陸上 りくじょう 兵力 へいりょく は義勇 ぎゆう 騎兵隊 きへいたい であるラフ・ライダーズ(荒馬 あらうま 乗 の り隊 たい )連隊 れんたい を含 ふく む約 やく 17,000人 にん である。陸上 りくじょう での大 おお きな戦 たたか いは7月 がつ 1日 にち のエルカネーの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) とサンフアン高地 こうち の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) (サン・フアン・ヒルの戦 たたか い)だけだったが、要所 ようしょ であるサンフアン高地 こうち が陥落 かんらく するなど一 いち 日 にち で決着 けっちゃく がついた。この時 とき ラフ・ライダーズ連隊 れんたい の中佐 ちゅうさ としてサン・フアン高地 こうち の戦 たたか いを指揮 しき し、戦争 せんそう の英雄 えいゆう となったのがセオドア・ルーズベルト である。アメリカ軍 ぐん はガルシア将軍 しょうぐん によって率 ひき いられた独立 どくりつ 支持 しじ 者 しゃ によってキューバで援助 えんじょ された。
7月 がつ 3日 にち にスペイン艦隊 かんたい が湾 わん 外 がい に脱出 だっしゅつ したところ、アメリカ海軍 かいぐん に捕捉 ほそく されて攻撃 こうげき を受 う け、沈没 ちんぼつ ・座礁 ざしょう ・降伏 ごうぶく などで全滅 ぜんめつ した 。アメリカ軍 ぐん はスペイン艦隊 かんたい を撃破 げきは してキューバ周辺 しゅうへん のスペインに管理 かんり された水路 すいろ を破 やぶ った。これはスペイン軍 ぐん の再 さい 補給 ほきゅう を妨害 ぼうがい し、アメリカ軍 ぐん が相当 そうとう 兵力 へいりょく を安全 あんぜん に上陸 じょうりく させることを可能 かのう にした。
その後 ご 、サンチャゴ要塞 ようさい に籠城 ろうじょう したスペイン軍 ぐん との間 あいだ でサンチャゴ攻囲 こうい 戦 せん が続 つづ いた。地上 ちじょう 戦 せん はスペイン軍 ぐん に対 たい するよりも熱 あつ 及 およ び疾病 しっぺい への対処 たいしょ の方 ほう が問題 もんだい であった。7月17日 にち にサンチャゴ要塞 ようさい は降伏 ごうぶく した。7月21日 にち には小規模 しょうきぼ なニペ湾 わん 海戦 かいせん が発生 はっせい し、アメリカ艦隊 かんたい がスペイン艦 かん を撃破 げきは した。アメリカ軍 ぐん は8月 がつ 7日 にち にはキューバからの撤収 てっしゅう を開始 かいし した。
秋山 あきやま 真之 まさゆき は報告 ほうこく 書 しょ 「サンチャゴ・デ・クーバの役 やく 」(極秘 ごくひ 諜報 ちょうほう 第 だい 百 ひゃく 十 じゅう 八 はち 号 ごう )において、アメリカ軍 ぐん の前線 ぜんせん 部隊 ぶたい がハイチ島 とう 経由 けいゆ の海底 かいてい 電線 でんせん の端末 たんまつ を用 もち いてアメリカ本国 ほんごく と通信 つうしん を交 か わしていたこと・仮 かり の根拠地 こんきょち を作 つく り軍 ぐん 需品 じゅひん の供給 きょうきゅう のスピードを高 たか めていたこと・キューバ独立 どくりつ 軍 ぐん に兵器 へいき や食料 しょくりょう を与 あた えることにより、アメリカ軍 ぐん が独立 どくりつ 軍 ぐん の支援 しえん を受 う けていたことなど、兵站 へいたん ・後方 こうほう 支援 しえん に見 み るべきものがあったと強調 きょうちょう している。
7月 がつ 25日 にち にアメリカ軍 ぐん はプエルトリコ に上陸 じょうりく した。
アメリカ軍 ぐん 管理 かんり 下 か のキューバの独立 どくりつ [ 編集 へんしゅう ]
スペインは太平洋艦隊 たいへいようかんたい ・大西洋 たいせいよう 艦隊 かんたい と継 つぎ 戦 せん 能力 のうりょく を失 うしな った。交戦 こうせん 状態 じょうたい は8月 がつ 12日 にち に停止 ていし され、形式 けいしき 上 じょう の平和 へいわ 条約 じょうやく は12月10日 にち にパリ で調印 ちょういん された1898年 ねん パリ条約 じょうやく で、1899年 ねん 2月 がつ 6日 にち にアメリカ上院 じょういん によって批准 ひじゅん された。
同 どう 戦争 せんそう に勝利 しょうり したアメリカはフィリピン・グアム・プエルトリコを含 ふく む旧 きゅう スペイン植民 しょくみん 地 ち のほとんど全 すべ てを獲得 かくとく し、キューバを保護 ほご 国 こく として事実 じじつ 上 じょう 支配 しはい 下 か に置 お いた。以後 いご アメリカの国力 こくりょく は飛躍 ひやく 的 てき に拡大 かくだい していき、南北 なんぼく アメリカ大陸 あめりかたいりく と太平洋 たいへいよう においてスペインの影響 えいきょう 力 りょく が一掃 いっそう され、代 か わりにアメリカが影響 えいきょう 力 りょく を持 も つという、覇権 はけん の移譲 いじょう とも取 と れる流 なが れになっている。
戦後 せんご スペインは植民 しょくみん 地 ち 喪失 そうしつ のために国力 こくりょく が低下 ていか し、新興 しんこう 国 こく のアメリカにあっけなく敗北 はいぼく したこともあって、ヨーロッパでの国際 こくさい 的 てき 地位 ちい ・発言 はつげん 力 りょく を同時 どうじ に失 うしな った。ルネサンス から始 はじ まったポルトガル海上 かいじょう 帝国 ていこく ・スペイン帝国 ていこく の帝国 ていこく 主義 しゅぎ が破綻 はたん し、産業 さんぎょう 革命 かくめい に支 ささ えられた新 あら たな帝国 ていこく 主義 しゅぎ へ完全 かんぜん に移 うつ り変 か わった瞬間 しゅんかん とも取 と れる。
開戦 かいせん 前 まえ 、アメリカ連邦 れんぽう 議会 ぎかい はキューバの独立 どくりつ を支持 しじ し、これを討論 とうろん の後 のち に承認 しょうにん した。アメリカ軍 ぐん は1909年 ねん 1月 がつ 28日 にち までキューバを占領 せんりょう した。アメリカはスペイン植民 しょくみん 地 ち のプエルトリコ(#プエルトリコ )・フィリピン(#フィリピン ・#米 べい 比 ひ 戦争 せんそう )・グアム(#グアム島 とう )を併合 へいごう した。
南北 なんぼく 間 あいだ の和解 わかい [ 編集 へんしゅう ]
この短 みじか い戦争 せんそう には、もう一 ひと つ興味深 きょうみぶか いがほとんど注目 ちゅうもく されなかった影響 えいきょう があった。それはアメリカの北部 ほくぶ と南部 なんぶ の関係 かんけい を固 かた める役目 やくめ を果 は たしたということである。この戦争 せんそう は、1865年 ねん 5月の南北戦争 なんぼくせんそう の終了 しゅうりょう 以来 いらい 初 はじ めて両側 りょうがわ に共通 きょうつう の敵 てき を与 あた えたものだった。1890年代 ねんだい は北 きた 軍 ぐん 支持 しじ 者 しゃ と南部 なんぶ 連邦 れんぽう 支持 しじ 者 しゃ の間 あいだ の和解 わかい の期間 きかん で、北部 ほくぶ と南部 なんぶ の政治 せいじ 家 か の政治 せいじ 的 てき な調和 ちょうわ を増加 ぞうか させた。
人種 じんしゅ 差別 さべつ の再燃 さいねん [ 編集 へんしゅう ]
1890年代 ねんだい は北部 ほくぶ における人種 じんしゅ 差別 さべつ の再燃 さいねん とジム・クロウ法 ほう の可決 かけつ による白人 はくじん と黒人 こくじん の分離 ぶんり を増加 ぞうか させた時代 じだい でもあった。それは1896年 ねん 5月のプレッシー対 たい ファーガソン裁判 さいばん の最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ による判決 はんけつ で最高潮 さいこうちょう に達 たっ し、その「分離 ぶんり すれども平等 びょうどう 」主義 しゅぎ を法律 ほうりつ の中 なか へ成文 せいぶん 化 か した。
米 べい 比 ひ 戦争 せんそう 時 じ のニューヨークジャーナル の風刺 ふうし 画 が 。フィリピン人 じん を銃殺 じゅうさつ しようとするアメリカ兵 へい の背後 はいご には「10歳 さい 以上 いじょう の者 もの は皆殺 みなごろ し」と書 か かれている。
さらに、米 べい 西 にし 戦争 せんそう はイエロー・ジャーナリズム の影響 えいきょう が大 おお きかったことで有名 ゆうめい である。ウィリアム・ランドルフ・ハースト のニューヨーク・ジャーナル紙 し とジョーゼフ・ピューリツァー のニューヨーク・ワールド紙 し の2紙 し は発行 はっこう 部数 ぶすう 競争 きょうそう で熾烈 しれつ な争 あらそ いを繰 く り広 ひろ げ、無責任 むせきにん なニュースをでっち上 あ げたりもした。このような競争 きょうそう の結果 けっか 、ワールド紙 し が15,000部 ぶ 、ジャーナル紙 し が1,500部 ぶ 程度 ていど の発行 はっこう 数 すう だったのがマニラ湾 まにらわん の戦 たたか いの時 とき には160万 まん 部 ぶ まで伸 の びた。オーソン・ウェルズ は、映画 えいが 『市民 しみん ケーン 』の中 なか でこの様子 ようす を皮肉 ひにく った。
アメリカ反 はん 帝国 ていこく 主義 しゅぎ 連盟 れんめい [ 編集 へんしゅう ]
海外 かいがい に植民 しょくみん 地 ち を持 も った「アメリカ帝国 ていこく 」についての考 かんが えは、ウィリアム・マッキンリー 大統領 だいとうりょう と帝国 ていこく 主義 しゅぎ 賛同 さんどう 派 は の間 あいだ で国内 こくない で激 はげ しく討議 とうぎ された。アメリカの大衆 たいしゅう の大 だい 部分 ぶぶん は植民 しょくみん 地 ち の所有 しょゆう を支持 しじ した。しかしマーク・トウェイン のような、率直 そっちょく な批評 ひひょう 家 か も多 おお くいた。
1898年 ねん 8月 がつ に11,000人 にん の地上 ちじょう 部隊 ぶたい がフィリピンを占領 せんりょう するために送 おく られた。アメリカがスペインに代 か わって国 くに の統治 とうち を始 はじ めると同時 どうじ に、アメリカとフィリピンの戦争 せんそう が始 はじ まった(米 べい 比 ひ 戦争 せんそう )。戦争 せんそう はフィリピンの国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ の独立 どくりつ に対 たい する望 のぞ みを絶 た つために行 おこな われ、20万 まん 人 にん から150万 まん 人 にん と言 い われる犠牲 ぎせい 者 しゃ を生 う んだ。
アメリカ退役 たいえき 軍人 ぐんじん 協会 きょうかい からのデータによれば、1992年 ねん 9月 がつ 10日 とおか に退役 たいえき 軍人 ぐんじん の最後 さいご の生 い き残 のこ りであるネーサン・E・クック が106歳 さい で死去 しきょ した。
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