べい西にし戦争せんそう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
べい西にし戦争せんそう

ハバナ爆沈ばくちんしたUSS ACR-1 メイン
とき1898ねん4がつ21にち - 8がつ13にち
場所ばしょキューバおよびプエルトリコ(カリブ海かりぶかい
フィリピンおよびグアム(アジア太平洋たいへいよう
結果けっか アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく勝利しょうり
領土りょうど
変化へんか
スペインはキューバたいする主権しゅけん放棄ほうきプエルトリコグアムフィリピンをアメリカに譲渡じょうと
衝突しょうとつした勢力せいりょく

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく


 キューバ

フィリピンだいいち共和きょうわこく
スペインの旗 スペイン帝国ていこく
指揮しきかん

アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・マッキンリー
アメリカ合衆国の旗 ラッセル・A・アルジャー
アメリカ合衆国の旗 ジョン・デイヴィス・ロング
アメリカ合衆国の旗 ネルソン・A・マイルズ
アメリカ合衆国の旗 セオドア・ルーズベルト
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・シャフトラー
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・デューイ
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・サンプソン
アメリカ合衆国の旗 ウェズリー・メリット
アメリカ合衆国の旗 ジョセフ・ウィーラー
アメリカ合衆国の旗 チャールズ・ジグスビー


キューバの旗 マクシモ・ゴメス
キューバの旗 カリスト・ガルシア
エミリオ・アギナルド
アポリナリオ・マビニ
アントニオ・ルナ
スペインの旗 マリア・クリスティーナ
スペインの旗 パトリシオ・モントーホ
スペインの旗 パスクワル・セルベラ
スペインの旗 アルセニオ・リナレス
スペインの旗 マヌエル・マシアス
戦力せんりょく

キューバの旗 キューバぐん
民兵みんぺい:3まんにん[1]

アメリカ合衆国の旗 アメリカぐん
正規せいきへい民兵みんぺいやく30まんにん[1]
スペインの旗 スペインぐん
正規せいきへい民兵みんぺいやく34まんにん[1]
被害ひがいしゃすう
キューバの旗 キューバぐん
戦死せんししゃ:1まん665にん[1]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ陸軍りくぐん
戦死せんししゃ:345にん
負傷ふしょうしゃ:1577にん
病死びょうし:2,565にん[1]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍かいぐん
戦死せんししゃ:16にん
負傷ふしょうしゃ:68にん[1]
スペインの旗 スペイン陸軍りくぐん
戦傷せんしょうしゃ:3,000にん
捕虜ほりょ:6700にん[2]
病死びょうし:1まん3000にん[1]
スペインの旗 スペイン海軍かいぐん
戦死せんししゃ:560にん
負傷ふしょうしゃ:3~400にん[1]

べい西にし戦争せんそう(べいせいせんそう、英語えいご: Spanish–American Warスペイン: Guerra hispano-estadounidense)は、1898ねん4がつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくスペイン帝国ていこくあいだ発生はっせいした戦争せんそうである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1898ねん2がつきたアメリカ海軍かいぐんメインごう爆発ばくはつにアメリカ国内こくない世論せろん好戦こうせんムードはたかまる一方いっぽうだった。スペインは自国じこく傘下さんか海底かいていケーブルたなかったので、通信つうしんめん不利ふりたされた。この戦争せんそうでスペインは敗北はいぼくし、アメリカはカリブ海かりぶかいおよ太平洋たいへいようきゅうスペイン植民しょくみんたいする管理かんりけん獲得かくとくした。

20世紀せいきのキューバの歴史れきしは、1868ねん10月から独立どくりつ運動うんどうつづけてきたキューバ独立どくりつぐんとの関係かんけいから、この戦争せんそうをスペイン・アメリカ・キューバ戦争せんそうべい西にしキューバ戦争せんそう)とび、1946ねんにキューバ議会ぎかいはこの名称めいしょうをキューバにおけるこの戦争せんそう正式せいしき名称めいしょうとすることを決議けつぎした[3]

歴史れきし背景はいけい[編集へんしゅう]

前史ぜんし -スペイン帝国ていこく全盛期ぜんせいき衰退すいたい[編集へんしゅう]

1492ねん1がつ成立せいりつし、かつて「太陽たいようしずまないくに」とばれ、世界せかいてき強国きょうこくとして君臨くんりんしていたスペイン帝国ていこく地位ちいは、19世紀せいき後半こうはんまでのすう世紀せいきあいだ低下ていかしていった。それ以前いぜん中世ちゅうせい末期まっきだい航海こうかい時代じだいコロンブス現在げんざいのバハマ諸島しょとうひがしはし位置いちするサンサルバドルとう上陸じょうりくし、当初とうしょはそれを香料こうりょう諸島しょとうのインドと勘違かんちがいしてそこに原住民げんじゅうみんを「インディアン(インドの人々ひとびと)」とんだ。それ以降いこうスペインの軍人ぐんじんであるコルテスの「アステカ文明ぶんめい発見はっけん征服せいふく」を皮切かわきりに、南北なんぼくアメリカ大陸あめりかたいりくだい部分ぶぶんにまでおよんだきむ銀鉱ぎんこうやま盗掘とうくつ、そして現地げんち先住民せんじゅうみん奴隷どれいしてかれ自身じしんかねぎんらせるエンコミエンダせい実施じっしし、そのかねぎんふねんでスペインのセビリャみなとはこした。本国ほんごくではそのかねぎん貨幣かへい大量たいりょう鋳造ちゅうぞうし、それを海軍かいぐんりょく増強ぞうきょう植民しょくみん拡大かくだいのための戦費せんぴてた。こうして近代きんだい16~17世紀せいきのスペイン帝国ていこく繁栄はんえいした。

しかし、ヨーロッパでのオランダ独立どくりつ戦争せんそうにおいてオランダとイギリスの連合れんごうぐんドーバー海峡かいきょう敗北はいぼくし、オランダの独立どくりつゆるした。これ以来いらい香料こうりょう諸島しょとう植民しょくみん支配しはい主導しゅどうけんはオランダにうばわれ、ポトシ銀山ぎんざんはじめとするみなみアメリカ各地かくちかねぎん産出さんしゅつりょう減少げんしょうし、海軍かいぐんりょくすで世界一せかいいちからちるという具合ぐあいに、あきらかに衰退すいたいしていった。

植民しょくみん独立どくりつ運動うんどう[編集へんしゅう]

どき時代じだいは19世紀せいきまつから20世紀せいきにゅうろうとするころすでにスペインにかつてのだい帝国ていこく面影おもかげはほとんどなかった。東南とうなんアジアでは16世紀せいき当時とうじのスペイン帝国ていこく最大さいだい版図はんとほこったフェリペ2せい名前なまえをとって名付なづけられたフィリピンのこるのみで、太平洋たいへいようアフリカ西にしインド諸島しょとうにはほんの少数しょうすう散在さんざいした植民しょくみんしかのこらなかったうえに、そのおおくも独立どくりつ運動うんどうひろげていた。

フィリピンではアギナルドにより、キューバではアントニオ・マセオマクシモ・ゴメスホセ・マルティなどによりすですうじゅうねんわたゲリラ戦争せんそう展開てんかいされていたが、スペイン本国ほんごくはこれらの脅威きょうい対抗たいこうしうる予算よさんあるいは人的じんてき資源しげん十分じゅうぶんっておらず、すべてのめん不足ふそくしていた。

そこでキューバにおいてキャンプを構築こうちくし、住民じゅうみん独立どくりつぐん分離ぶんりさせて支援しえんめさせる作戦さくせん布告ふこくした。スペインはさらに反逆はんぎゃくしゃうたがわしい人々ひとびとおおくを処刑しょけいし、むら々に残酷ざんこく仕打しうちをおこなった。しかし1898ねんにはキューバとうやく半分はんぶんがマクシモ・ゴメス将軍しょうぐんひきいる独立どくりつぐん支配しはいされ、結局けっきょくスペインは立場たちば完全かんぜん回復かいふくすることができなかった(だいキューバ独立どくりつ戦争せんそう)。

ジャーナリズムの読者どくしゃすう獲得かくとく競争きょうそう捏造ねつぞう記事きじ[編集へんしゅう]

キューバでのこれらの出来事できごとは、アメリカの新聞しんぶん読者どくしゃすうばそうとしていた時期じききた。1897ねんの「アメリカ婦人ふじんはだかにするスペイン警察けいさつ」という新聞しんぶん記者きしゃによる捏造ねつぞう記事きじをきっかけに[4]各紙かくしはスペインのキューバじんたいする残虐ざんぎゃく行為こうい誇大こだい報道ほうどうし、アメリカ国民こくみん人道的じんどうてき感情かんじょう刺激しげきした。そしてキューバへの介入かいにゅうもとめる勢力せいりょく増大ぞうだいまねいた。

開戦かいせんへの圧力あつりょく[編集へんしゅう]

そのため開戦かいせんへのほか圧力あつりょく増大ぞうだいし、アメリカ海軍かいぐん開戦かいせんの1ねん以上いじょうまえにフィリピンでスペインぐん攻撃こうげきする計画けいかく作成さくせいしていた。西部せいぶへの拡張かくちょうおよびインディアンとのだい規模きぼ交戦こうせん終了しゅうりょうアメリカ陸軍りくぐん職務しょくむ減少げんしょうさせ、ぐん指導しどうじんあたらしい職務しょくむのぞんだ。

早期そうきから、アメリカじん多数たすうはキューバがかれらのものであるとかんがえており、マニフェスト・デスティニーかんする理論りろんはちょうどフロリダ沖合おきあいにある、非常ひじょう魅力みりょくてきえるしまによってつくられた。キューバの経済けいざいおおくはすでにアメリカのにあり、ほとんどの貿易ぼうえき(そのおおくはやみ市場いちばだった)はアメリカとのあいだのものであった。

何人なんにんかの財界ざいかいじん同様どうよう開戦かいせん要求ようきゅうした。ネブラスカしゅうのジョン・M・サーストン上院じょういん議員ぎいんは、「スペインとのたたかいは、すべてのアメリカの鉄道てつどうビジネスおよ所得しょとく増加ぞうかさせるだろう。それは、すべてのアメリカの工場こうじょう出力しゅつりょく増加ぞうかさせるだろう。それは、産業さんぎょう国内こくない通商つうしょうのすべての流通りゅうつう刺激しげきするだろう。」と明言めいげんした。太平洋たいへいようわたってマニラまでかうのに2ヶ月かげつはかかる時代じだいであったにもかかわらず、マニラ湾まにらわん海戦かいせん開戦かいせんからわずかやく週間しゅうかんの5がつ1にち勃発ぼっぱつした。

戦闘せんとう経過けいか[編集へんしゅう]

戦争せんそうはじまり[編集へんしゅう]

1898ねん2がつ15にちハバナわんで、アメリカ海軍かいぐん戦艦せんかんメインごうUSS Maine, ACR-1)が白人はくじん士官しかん上陸じょうりく爆発ばくはつ沈没ちんぼつし、266めい乗員じょういんうしな事故じこ発生はっせいした(このなかには8めい日本人にっぽんじんコックとボーイがふくまれていた)。爆発ばくはつ原因げんいんかんする証拠しょうことされたものは矛盾むじゅんおお決定的けっていてきなものがかったが、『ニューヨーク・ジャーナル』、『ニューヨーク・ワールド』の2はじめとした当時とうじのアメリカのメディアはスペインじんによる卑劣ひれつサボタージュ(破壊はかい活動かつどう原因げんいんであると主張しゅちょうした。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインをおもせ!くたばれスペイン!)」という好戦こうせんてき感情かんじょうてきスローガンともなったこの報道ほうどうは、一層いっそうアメリカ国民こくみん刺激しげきすることとなった。この愛国あいこくてき好戦こうせんてき風潮ふうちょうはスプレッド・イーグリズムあるいは主戦しゅせんろんとしてられている。

爆発ばくはつ原因げんいんかんする専門せんもん見解けんかい現在げんざいさだまっていないが燃料ねんりょうである石炭せきたん偶発ぐうはつてき爆発ばくはつによるものとするのが一般いっぱんてきであり、コンピューター・シミュレーションによって確認かくにんもされている。なおアメリカ海軍かいぐんは、調査ちょうさにより原因げんいんボイラー欠陥けっかん結論けつろんけている[5]一方いっぽう石炭せきたん自体じたいにその原因げんいんもとめるものやアメリカを戦争せんそうもうとするキューバじん革命かくめいによるサボタージュによるものとする異論いろん存在そんざいするが、スペインが戦争せんそう消極しょうきょくてきであったというてんでは一致いっちしている。

アメリカのウィリアム・マッキンリー大統領だいとうりょう開戦かいせん同意どういせず、世論せろんたいしてながあいだちこたえた。しかしメインごう爆発ばくはつは、戦争せんそうへの世論せろん非常ひじょう強力きょうりょく形成けいせいした。スペインのサガスタ首相しゅしょうはキューバから職員しょくいん撤退てったいさせてキューバじん自治じちあたえるなど、戦争せんそうふせためおおくの努力どりょくをした。しかしながらこれはキューバの完全かんぜん独立どくりつには不十分ふじゅうぶんなものでり、おおきく現状げんじょう変更へんこうするにはりなかった。

4がつ11にちにマッキンリー大統領だいとうりょう内戦ないせん終了しゅうりょう目的もくてきとしてキューバへアメリカぐん派遣はけんする権限けんげんもとめる議案ぎあん議会ぎかい提出ていしゅつした。4がつ19にち議会ぎかいはキューバの自由じゆう独立どくりつもとめる共同きょうどう宣言せんげん承認しょうにんし、大統領だいとうりょうはスペインの撤退てったい要求ようきゅうするため軍事ぐんじりょく行使こうしすることを承認しょうにんした。これをけてスペインはアメリカとの外交がいこう関係かんけい停止ていしし、4がつ25にち連邦れんぽう議会ぎかいはアメリカとスペインのあいだ戦争せんそう状態じょうたい4がつ21にち以来いらい存在そんざいすることを宣言せんげんした。なお議会ぎかいはその4がつ20日はつか戦争せんそう宣言せんげんさかのぼらせる議決ぎけつ承認しょうにんした。

太平洋たいへいよう[編集へんしゅう]

フィリピン[編集へんしゅう]

太平洋たいへいようでのたたか

フィリピンにおける最初さいしょ戦闘せんとうは、5月1にちマニラ湾まにらわん海戦かいせんである。香港ほんこん出港しゅっこうしたジョージ・デューイ提督ていとくひきいるアメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたいが、マニラ湾まにらわんパトリシオ・モントーホ提督ていとくひきいる7せきのスペイン艦隊かんたい攻撃こうげきした。6あいだほどでスペイン艦隊かんたい旗艦きかんふくむ3せき沈没ちんぼつし、4せき炎上えんじょうするなど壊滅かいめつ状態じょうたいおちいった一方いっぽう、アメリカ艦隊かんたい被害ひがい負傷ふしょうしゃ7めいのみとほぼ無傷むきずであった。

マニラ湾まにらわん海戦かいせん結果けっかフィリピンのスペイン海軍かいぐん壊滅かいめつしたが、マニラでは1まんにん以上いじょうのスペイン陸軍りくぐん駐留ちゅうりゅうしていた。海戦かいせんにデューイと会談かいだんし、勝利しょうりあかつき独立どくりつさせると約束やくそくされたフィリピン独立どくりつ運動うんどう指導しどうしゃエミリオ・アギナルドひきいるフィリピンの民族みんぞく主義しゅぎしゃは、アメリカぐん支援しえん相互そうご連携れんけいしてスペインぐん攻撃こうげきした。独立どくりつぐんは1まんにんえ、1898ねん6がつにはルソン島るそんとう中部ちゅうぶ制圧せいあつし、アギナルドはフィリピン共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんして暫定ざんてい政府せいふ組織そしきした。アメリカ本国ほんごくのマッキンリー政権せいけんはマニラ占領せんりょうするためウェズリー・E・メリット少将しょうしょう指揮しきだい規模きぼ派遣はけんぐん正規せいきぐん5せんにんふくむ2まんにん規模きぼ)を派遣はけんした。6月30にち派遣はけんぐん先発せんぱつ部隊ぶたい、7がつなかばにはメリット少将しょうしょう現地げんち到着とうちゃくし、8がつにはスペインぐん降伏ごうぶく勧告かんこくおこない、14にち休戦きゅうせん協定きょうてい決定けっていした。

フィリピンじんによる報復ほうふくおそれたスペインぐんは、マニラへフィリピンぐん入城にゅうじょうしないことを降伏ごうぶく条件じょうけんとしており、スペイン降伏ごうぶくのフィリピンの統治とうちはアメリカがにぎることとなった。これはフィリピンの独立どくりつ運動うんどうがわからすると不満ふまん結果けっかであり、独立どくりつ運動うんどう対象たいしょうはスペインからアメリカへうつり、べい戦争せんそうつながることとなった[6]

グアムとう[編集へんしゅう]

1898ねん6がつ20日はつかアメリカ海軍かいぐん巡洋艦じゅんようかんチャールストンおよ輸送ゆそうせん3せき艦隊かんたいが、当時とうじスペインの植民しょくみんだったグアムとうカノンほう砲撃ほうげきし、これを占領せんりょうしようとしたがスペインがわ司令しれいかん戦争せんそうはじまったことをらず、司令しれいかん自身じしんがチャールストンにあらわれて降伏ごうぶく意思いしつたえ、しまにいた54めいのスペインぐん兵士へいし捕虜ほりょとなり、グアムは占領せんりょうされた。

カリブ海かりぶかい[編集へんしゅう]

キューバ[編集へんしゅう]

5月19にち大西洋たいせいようがわのキューバではパスクワル・セルベラ提督ていとくひきいるスペイン大西洋たいせいよう艦隊かんたいがサンチャゴわん入港にゅうこうした。ウィリアム・サンプソン提督ていとくひきいるアメリカ大西洋たいせいよう艦隊かんたいはサンチャゴわん封鎖ふうさし、陸海りくかいぐん共同きょうどうでスペイン艦隊かんたい攻撃こうげきすることになる。6月2にちにアメリカぐんきゅうずみせんメリマック英語えいごばん」をサンチャゴわん湾口わんこう自沈じちんさせてスペイン艦隊かんたい出港しゅっこうふせ閉塞へいそく作戦さくせん実行じっこうしたが、失敗しっぱいした。なお、この状況じょうきょう日本にっぽん海軍かいぐん観戦かんせん武官ぶかんとして秋山あきやま真之まさゆき視察しさつしており、のちにち戦争せんそうにおける旅順りょじゅんこう閉塞へいそく作戦さくせん参考さんこうとされた。

セオドア・ルーズベルトひきいるラフ・ライダーズ

キューバに駐屯ちゅうとんしていたスペインぐんやく10まんかぞえたが、サンチャゴわん付近ふきんには1まん4000にんほどしか配置はいちされていなかった。アメリカの陸上りくじょう兵力へいりょく義勇ぎゆう騎兵隊きへいたいであるラフ・ライダーズ(荒馬あらうまたい連隊れんたいふくやく17,000にんである。陸上りくじょうでのおおきなたたかいは7がつ1にちエルカネーのたたか英語えいごばんサンフアン高地こうちたたか英語えいごばん(サン・フアン・ヒルのたたかい)だけだったが、要所ようしょであるサンフアン高地こうち陥落かんらくするなどいちにち決着けっちゃくがついた。このときラフ・ライダーズ連隊れんたい中佐ちゅうさとしてサン・フアン高地こうちたたかいを指揮しきし、戦争せんそう英雄えいゆうとなったのがセオドア・ルーズベルトである。アメリカぐんガルシア将軍しょうぐんによってひきいられた独立どくりつ支持しじしゃによってキューバで援助えんじょされた。

7がつ3にちにスペイン艦隊かんたいわんがい脱出だっしゅつしたところ、アメリカ海軍かいぐん捕捉ほそくされて攻撃こうげきけ、沈没ちんぼつ座礁ざしょう降伏ごうぶくなどで全滅ぜんめつした。アメリカぐんはスペイン艦隊かんたい撃破げきはしてキューバ周辺しゅうへんのスペインに管理かんりされた水路すいろやぶった。これはスペインぐんさい補給ほきゅう妨害ぼうがいし、アメリカぐん相当そうとう兵力へいりょく安全あんぜん上陸じょうりくさせることを可能かのうにした。

その、サンチャゴ要塞ようさい籠城ろうじょうしたスペインぐんとのあいだでサンチャゴ攻囲こういせんつづいた。地上ちじょうせんはスペインぐんたいするよりもあつおよ疾病しっぺいへの対処たいしょほう問題もんだいであった。7月17にちにサンチャゴ要塞ようさい降伏ごうぶくした。7月21にちには小規模しょうきぼニペわん海戦かいせん発生はっせいし、アメリカ艦隊かんたいがスペインかん撃破げきはした。アメリカぐんは8がつ7にちにはキューバからの撤収てっしゅう開始かいしした。

秋山あきやま真之まさゆき報告ほうこくしょ「サンチャゴ・デ・クーバのやく」(極秘ごくひ諜報ちょうほうだいひゃくじゅうはちごう)において、アメリカぐん前線ぜんせん部隊ぶたいがハイチとう経由けいゆ海底かいてい電線でんせん端末たんまつもちいてアメリカ本国ほんごく通信つうしんわしていたこと・かり根拠地こんきょちつくぐん需品じゅひん供給きょうきゅうのスピードをたかめていたこと・キューバ独立どくりつぐん兵器へいき食料しょくりょうあたえることにより、アメリカぐん独立どくりつぐん支援しえんけていたことなど、兵站へいたん後方こうほう支援しえんるべきものがあったと強調きょうちょうしている。

プエルトリコ[編集へんしゅう]

7がつ25にちにアメリカぐんプエルトリコ上陸じょうりくした。

影響えいきょう[編集へんしゅう]

アメリカぐん管理かんりのキューバの独立どくりつ[編集へんしゅう]

スペインは太平洋艦隊たいへいようかんたい大西洋たいせいよう艦隊かんたいつぎせん能力のうりょくうしなった。交戦こうせん状態じょうたい8がつ12にち停止ていしされ、形式けいしきじょう平和へいわ条約じょうやく12月10にちパリ調印ちょういんされた1898ねんパリ条約じょうやくで、1899ねん2がつ6にちにアメリカ上院じょういんによって批准ひじゅんされた。

どう戦争せんそう勝利しょうりしたアメリカはフィリピン・グアム・プエルトリコをふくきゅうスペイン植民しょくみんのほとんどすべてを獲得かくとくし、キューバを保護ほごこくとして事実じじつじょう支配しはいいた。以後いごアメリカの国力こくりょく飛躍ひやくてき拡大かくだいしていき、南北なんぼくアメリカ大陸あめりかたいりく太平洋たいへいようにおいてスペインの影響えいきょうりょく一掃いっそうされ、わりにアメリカが影響えいきょうりょくつという、覇権はけん移譲いじょうともれるながれになっている。

戦後せんごスペインは植民しょくみん喪失そうしつのために国力こくりょく低下ていかし、新興しんこうこくのアメリカにあっけなく敗北はいぼくしたこともあって、ヨーロッパでの国際こくさいてき地位ちい発言はつげんりょく同時どうじうしなった。ルネサンスからはじまったポルトガル海上かいじょう帝国ていこくスペイン帝国ていこく帝国ていこく主義しゅぎ破綻はたんし、産業さんぎょう革命かくめいささえられたあらたな帝国ていこく主義しゅぎ完全かんぜんうつわった瞬間しゅんかんともれる。

開戦かいせんまえ、アメリカ連邦れんぽう議会ぎかいはキューバの独立どくりつ支持しじし、これを討論とうろんのち承認しょうにんした。アメリカぐん1909ねん1がつ28にちまでキューバを占領せんりょうした。アメリカはスペイン植民しょくみんのプエルトリコ(#プエルトリコ)・フィリピン(#フィリピン#べい戦争せんそう)・グアム(#グアムとう)を併合へいごうした。

南北なんぼくあいだ和解わかい[編集へんしゅう]

このみじか戦争せんそうには、もうひと興味深きょうみぶかいがほとんど注目ちゅうもくされなかった影響えいきょうがあった。それはアメリカの北部ほくぶ南部なんぶ関係かんけいかためる役目やくめたしたということである。この戦争せんそうは、1865ねん5月の南北戦争なんぼくせんそう終了しゅうりょう以来いらいはじめて両側りょうがわ共通きょうつうてきあたえたものだった。1890年代ねんだいきたぐん支持しじしゃ南部なんぶ連邦れんぽう支持しじしゃあいだ和解わかい期間きかんで、北部ほくぶ南部なんぶ政治せいじ政治せいじてき調和ちょうわ増加ぞうかさせた。

人種じんしゅ差別さべつ再燃さいねん[編集へんしゅう]

1890年代ねんだい北部ほくぶにおける人種じんしゅ差別さべつ再燃さいねんジム・クロウほう可決かけつによる白人はくじん黒人こくじん分離ぶんり増加ぞうかさせた時代じだいでもあった。それは1896ねん5月のプレッシーたいファーガソン裁判さいばん最高さいこう裁判所さいばんしょによる判決はんけつ最高潮さいこうちょうたっし、その「分離ぶんりすれども平等びょうどう主義しゅぎ法律ほうりつなか成文せいぶんした。

イエロー・ジャーナリズム[編集へんしゅう]

べい戦争せんそうニューヨークジャーナル風刺ふうし。フィリピンじん銃殺じゅうさつしようとするアメリカへい背後はいごには「10さい以上いじょうもの皆殺みなごろし」とかれている。

さらに、べい西にし戦争せんそうイエロー・ジャーナリズム影響えいきょうおおきかったことで有名ゆうめいである。ウィリアム・ランドルフ・ハーストのニューヨーク・ジャーナルジョーゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールドの2発行はっこう部数ぶすう競争きょうそう熾烈しれつあらそいをひろげ、無責任むせきにんなニュースをでっちげたりもした。このような競争きょうそう結果けっか、ワールドが15,000、ジャーナルが1,500程度ていど発行はっこうすうだったのがマニラ湾まにらわんたたかいのときには160まんまでびた。オーソン・ウェルズは、映画えいが市民しみんケーン』のなかでこの様子ようす皮肉ひにくった。

アメリカはん帝国ていこく主義しゅぎ連盟れんめい[編集へんしゅう]

海外かいがい植民しょくみんった「アメリカ帝国ていこく」についてのかんがえは、ウィリアム・マッキンリー大統領だいとうりょう帝国ていこく主義しゅぎ賛同さんどうあいだ国内こくないはげしく討議とうぎされた。アメリカの大衆たいしゅうだい部分ぶぶん植民しょくみん所有しょゆう支持しじした。しかしマーク・トウェインのような、率直そっちょく批評ひひょうおおくいた。

べい戦争せんそう[編集へんしゅう]

1898ねん8がつに11,000にん地上ちじょう部隊ぶたいがフィリピンを占領せんりょうするためにおくられた。アメリカがスペインにわってくに統治とうちはじめると同時どうじに、アメリカとフィリピンの戦争せんそうはじまった(べい戦争せんそう)。戦争せんそうはフィリピンの国家こっか主義しゅぎしゃ独立どくりつたいするのぞみをつためにおこなわれ、20まんにんから150まんにんわれる犠牲ぎせいしゃんだ。

エピソード[編集へんしゅう]

アメリカ退役たいえき軍人ぐんじん協会きょうかいからのデータによれば、1992ねん9がつ10日とおか退役たいえき軍人ぐんじん最後さいごのこりであるネーサン・E・クックが106さい死去しきょした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h Dyal, Carpenter & Thomas 1996
  2. ^ Trask, p.371
  3. ^ 加茂かも雄三ゆうぞう世界せかい歴史れきし だい23かん ラテンアメリカの独立どくりつ』p.304
  4. ^ 「バラのつぼみ『市民しみんケーン』と新聞しんぶんおうハースト」マジソンズ
  5. ^ メインごう沈没ちんぼつ事件じけん英和えいわ学習がくしゅう基本きほん用語ようご辞典じてんアメリカ
  6. ^ はやし義勝よしかつ「スペイン・アメリカ・キューバ・フィリピン戦争せんそう--海外かいがい植民しょくみん領有りょうゆうのレトリックと統治とうち実態じったい」2001ねん3がつ(『駿台すんだい史学しがく112』)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]