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ミシシッピがわ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミシシッピがわ
アイオワしゅうハーパーズフェリー付近ふきんのミシシッピがわ
名前なまえ由来ゆらい: オジブワぞく言葉ことばで「偉大いだいかわ」を意味いみするmisi-ziibiまたは「おおきなかわ」を意味いみするgichi-ziibiからの転訛てんか
くに アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
しゅう ミネソタしゅう, ウィスコンシンしゅう, アイオワしゅう, イリノイしゅう, ミズーリしゅう, ケンタッキーしゅう, テネシーしゅう, アーカンソーしゅう, ミシシッピしゅう, ルイジアナしゅう
支流しりゅう
 - ひだり支流しりゅう セントクロアがわ英語えいごばん, ウィスコンシンがわ英語えいごばん, ロックがわ, イリノイがわ, カスカスキアがわ英語えいごばん, オハイオがわ
 - みぎ支流しりゅう ミネソタがわ, デモインがわ, ミズーリがわ, ホワイトかわ英語えいごばん, アーカンザスがわ, レッドかわ
ミネアポリス, セントポール, ラクロス, ダベンポート, セントルイス, メンフィス, バトンルージュ, ニューオーリンズ
源流げんりゅう イタスカ
 - 所在地しょざいち イタスカ州立しゅうりつ公園こうえん英語えいごばん, クリアウォーターぐん, ミネソタしゅう
 - 標高ひょうこう 1,475ft (450m)
 - 座標ざひょう 北緯ほくい4714ふん23びょう 西経せいけい9512ふん27びょう / 北緯ほくい47.23972 西経せいけい95.20750 / 47.23972; -95.20750
合流ごうりゅう メキシコわん
 - 所在地しょざいち パイロットタウン, プラークミンズぐん, ルイジアナしゅう
 - 標高ひょうこう 0ft (0m)
 - 座標ざひょう 北緯ほくい2909ふん04びょう 西経せいけい8915ふん12びょう / 北緯ほくい29.15111 西経せいけい89.25333 / 29.15111; -89.25333座標ざひょう: 北緯ほくい2909ふん04びょう 西経せいけい8915ふん12びょう / 北緯ほくい29.15111 西経せいけい89.25333 / 29.15111; -89.25333
なが 2,320mi (3,734km)
流域りゅういき 1,151,000 sq mi (2,981,076 km²)
流量りゅうりょう for バトンルージュでの水量すいりょう
 - 平均へいきん 593,000 cu ft/s (16,792 m3/s) [1]
 - 最大さいだい 3,065,000 cu ft/s (86,791 m3/s)
 - 最小さいしょう 159,000 cu ft/s (4,502 m3/s)
ミシシッピがわ流域りゅういき

ミシシッピがわ(ミシシッピがわ、Mississippi River)は、きたアメリカ大陸あめりかたいりくながれる河川かせんの1つである。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくミネソタしゅう源流げんりゅうとし、メキシコわんへとそそいでいる。全長ぜんちょうは3779kmで、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくで2番目ばんめながかわである[注釈ちゅうしゃく 1]

高低こうていすくなくながれがゆるやかなため大型おおがた船舶せんぱく通行つうこう水運すいうんてきし、開拓かいたく時代じだいから重要じゅうよう交通こうつうであり、現代げんだいにおいてもアメリカ中央ちゅうおうにおける輸送ゆそうだい幹線かんせんとなっている。

また、アメリカの東部とうぶ西部せいぶ境界きょうかいせんでもある。

概略がいりゃく

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おも支流しりゅうにはモンタナしゅう源流げんりゅうとするミズーリがわアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく最長さいちょう)やペンシルベニアしゅう源流げんりゅうとするオハイオがわなどがある。ミズーリがわ源流げんりゅうからミシシッピがわ河口かわくちまでのながさは5,971kmで、きたアメリカ最大さいだい水系すいけいをなす。ミズーリがわ治水ちすいのためにおおくのダムが建設けんせつされてダムによりおおくの蛇行だこうがなくなり、500km以上いじょうかわながさはみじかくなっている。そのぶんミシシッピがわ全体ぜんたいながさもみじかくなった。本流ほんりゅうぜんりゅう構造こうぞう平野へいやであるアメリカの中央ちゅうおう平原へいげんながれており、そのためながれ勾配こうばいゆるい。水源すいげんのイタスカったあめ河口かこうたっするまでやく90にちようする。

「ミシシッピ」のは、オジブワぞくインディアン言語げんごで「偉大いだいかわ」を意味いみするmisi-ziibiまたは「おおきなかわ」を意味いみするgichi-ziibiからの転訛てんかである。オハイオがわとの合流ごうりゅう地点ちてんよりきたうえミシシッピ、それよりみなみ河口かこうまでをしたミシシッピとしょうしている。かつてはかわ沿った地域ちいきはフランスりょうであったため、セントポールからニューオーリンズまでフランスじんきずいたまちおお存在そんざいする。

周辺しゅうへん気候きこうは、ミズーリしゅう中央ちゅうおう以北いほくひやたい湿潤しつじゅん気候きこう、それ以南いなん温暖おんだん湿潤しつじゅん気候きこうとなっている[2]

ながれ

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ミシシッピがわ水源すいげんであるイタスカ
ニューオーリンズ付近ふきんながれるミシシッピがわ
世界せかい主要しゅよう河川かせん比較ひかく
アマゾン川あまぞんがわ ナイルがわ ミシシッピがわ 長江ながえ ヴォルガがわ コンゴがわ
なが(km) 6,516 6,650 3,779 6,300 3,700 4,700
流域りゅういき面積めんせき
(100まんkm2)
7.05 2.9 3.2 1.8 1.3 3.7
平均へいきん流量りゅうりょう
(1000m3/s.)
297 2-3 18 21 8 39

ミネソタしゅう北部ほくぶのイタスカ州立しゅうりつ公園こうえんないにあるイタスカみなもとはっする。イタスカ標高ひょうこうは450mにすぎず[3]、ミシシッピ本流ほんりゅう3779kmのながさでそれだけしか高低こうていがないため、かなりの部分ぶぶんにおいて船舶せんぱく航行こうこう可能かのうである。ミシシッピがわはほぼ南北なんぼくにまっすぐながれる。ミシシッピがわもっと上流じょうりゅう存在そんざいする大都市だいとしミネアポリスであるが、この都市としはミシシッピがわ本流ほんりゅう唯一ゆいいつたきであるセント・アンソニーたき英語えいごばんのほとりに位置いちし、セント・アンソニーたき動力どうりょくとした製粉せいふんごうからスタートして大都市だいとしへと成長せいちょうした都市としである。やがてたき利用りよう直接ちょくせつ動力どうりょく利用りようから発電はつでんへと移行いこうし、現代げんだいでもセント・アンソニーたき発電はつでん継続けいぞくしている。セント・アンソニーたきには現在げんざいでは水路すいろひらかれ、ミネアポリスまで船舶せんぱく遡行そこう可能かのうであるが、この水路すいろができるまではミシシッピがわ最上もがみりゅう遡行そこう地点ちてんは、たきの22km下流かりゅうにあるセントポールまちであった。この2都市とし双子ふたご都市としであり、ひとつの大都市だいとしけん形成けいせいしている。一帯いったいぎると、ミネソタしゅうワバシャ英語えいごばんウィスコンシンしゅうチッペワがわ英語えいごばん河口かこうアイオワしゅうプリンストン英語えいごばんイリノイしゅうコルドバ英語えいごばんとのあいだのミシシッピがわル貝るがいLampsilis higginsii英語えいごばんオオホシハジロコハクチョウなどの米国べいこく中部ちゅうぶ魚類ぎょるい野生やせい生物せいぶつ重要じゅうよう生息せいそくであり、ミシシッピがわ上流じょうりゅう野生やせい生物せいぶつ魚類ぎょるい保護ほご英語えいごばんトレンピーロー国立こくりつ野生やせい生物せいぶつ保護ほご英語えいごばん指定していされており、2010ねんラムサール条約じょうやく登録とうろくとなった[4]

セントルイスはミシシッピがわとミズーリがわ合流ごうりゅう地点ちてんにあり、さらにそのすこ上流じょうりゅうイリノイがわわせることから、水運すいうん鉄道てつどうだい結節けっせつてんとして発展はってんしてきた。イリノイがわからはイリノイ・ミシガン運河うんがとおってだいみずうみ地方ちほうとも連絡れんらくしている。さらに下流かりゅうイリノイしゅうカイロで、ひがしからながれてきたオハイオがわわせる。オハイオがわ水量すいりょうは、ミズーリがわわせたのちのミシシッピ本流ほんりゅうより30%ほどおおく、このためここからミシシッピがわ水量すいりょうおおきくす。標高ひょうこうすくなく水量すいりょうおおいため、ミシシッピがわりゅう変遷へんせんかえし、非常ひじょう蛇行だこうおおいものとなっていた。こうした蛇行だこうは19世紀せいきまつ以降いこう河川かせん改修かいしゅうによって徐々じょじょ姿すがたしていき、現代げんだいではながれはかなり直線ちょくせんちかかたちへと改修かいしゅうされているところがおおい。また、このためにミシシッピがわ沿岸えんがんにはきゅうかわどうみずがたまってできた三日月みかづきおお存在そんざいする。メンフィス通過つうかしたのち、ミシシッピがわアーカンソーしゅうアーカンザスがわわせる。バトンルージュを通過つうかしたのち、ミシシッピがわはルイジアナしゅう最大さいだい都市としであるニューオーリンズとおり、そこからやく160km南東なんとうミシシッピがわデルタ英語えいごばんミシシッピしゅう北西ほくせい内陸ないりく沖積ちゅうせき平野へいやミシシッピ・デルタとはことなる)にあるプラークミンズぐんパイロットタウン英語えいごばんからメキシコわんそそぐ。ミシシッピ・デルタは南東なんとうけてメキシコわんおおきく突出とっしゅつしており、とり趾状三角州さんかくすという独特どくとく三角州さんかくすとなっていることでられている[5]。ミシシッピがわデルタは都市としからの地下水ちかすい取水しゅすいやデルタそれ自体じたいおもみによって沈降ちんこうつづけており、さらにメキシコわん潮流ちょうりゅうによる浸食しんしょくや、上流じょうりゅう各地かくち建設けんせつされたダムなどによる土砂どしゃ流入りゅうにゅう減少げんしょうによって縮小しゅくしょうつづけており、デルタじょう位置いちするニューオーリンズもそれによって地盤じばん沈下ちんかつづけている。この地盤じばん沈下ちんかは、2005ねん8がつハリケーン・カトリーナがニューオーリンズに来襲らいしゅうしたさい多大ただい被害ひがいをもたらす原因げんいんとなった[6]

歴史れきし

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ヨーロッパじん到来とうらい以前いぜん

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カホキア遺跡いせきのマウンド

西暦せいれき800ねんごろから、ミシシッピ河谷こうだににおいてミシシッピ文化ぶんかばれるインディアン文化ぶんかひろまった。この文化ぶんかはマウンド(墳丘ふんきゅう)をきずくことを特徴とくちょうとし、トウモロコシの農耕のうこう基盤きばんとする文化ぶんかで、首長しゅちょうせい国家こっか各地かくちきずいていた。この文化ぶんかのもっとも著名ちょめい遺跡いせきはセントルイス近郊きんこうにあるカホキアで、12世紀せいきから13世紀せいきにかけてさかえ、最盛さいせい人口じんこう推定すいていで1まんにんほどにたっしていた。カホキアは1450ねんごろに崩壊ほうかいするが、ミシシッピ文化ぶんか自体じたい変化へんかしながらヨーロッパじん到達とうたつまで継続けいぞくしていた。

ヨーロッパじんによる探検たんけん植民しょくみん

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ミシシッピがわ到達とうたつした記録きろくのこっている最初さいしょのヨーロッパじんスペインじんコンキスタドールであるエルナンド・デ・ソトである。かれ1541ねん5月8にちに、アメリカ南部なんぶ征服せいふくぎょうちゅうにミシシッピがわ到達とうたつした。かれ探検たんけんたいはミシシッピ川下かわしも流域りゅういき探検たんけんしたが、1542ねん5月21にちにミシシッピ河畔かはんでソトは死亡しぼうした。死去しきょした場所ばしょは、現在げんざいのミシシッピしゅうデソトぐんなどいくつかのせつがある。のこりの隊員たいいんたちはミシシッピがわくだってメキシコわん、スペインりょうにたどりいた。この探検たんけんたいはいくつかのミシシッピ文化ぶんか国家こっか崩壊ほうかいさせたが、それよりミシシッピ文化ぶんか致命ちめいてき影響えいきょうあたえたのはかれらのんだ伝染でんせんびょうであり、これによってミシシッピ文化ぶんかおおくの首長しゅちょうせい国家こっか崩壊ほうかいし、人口じんこうおおきく減少げんしょうした。

デ・ソト探検たんけんたいののち、100ねん以上いじょうあいだミシシッピがわ流域りゅういきにはほとんどヨーロッパじんはやってこなかった。つぎにミシシッピ流域りゅういきへとやってきたのは、きた五大ごだいみずうみ水系すいけいせいしたフランスじんだった。1670年代ねんだいにはフランスじん五大ごだいみずうみ沿岸えんがん探検たんけんをほぼえ、その過程かていでミシガン湖畔こはんにおいてうみにまでながれる巨大きょだいかわはなしきつけた。1673ねんにはルイ・ジョリエだいみずうみからミシシッピがわ到達とうたつし、ミシシッピがわとアーカンザスがわ合流ごうりゅう地点ちてんにまで到達とうたつしてかえした[7]いで1682ねん4がつ9にちにはロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがミシシッピをくだってメキシコわんにまで到達とうたつ[8]、これによりきたアメリカ大陸あめりかたいりく中央ちゅうおう南北なんぼくつらぬ幹線かんせん水路すいろ開通かいつうした。ラ・サールは1684ねんに、今度こんどはメキシコわんからミシシッピがわをさかのぼろうとして上陸じょうりく地点ちてんあやまり、テキサス上陸じょうりくしてミシシッピがわにたどり途中とちゅう仲間割なかまわれでころされたが、のこりはなんとかイリノイからケベックへとたどりいた。こうしてだい湖水こすいけいとミシシッピがわ水系すいけいはつながり、この水系すいけい拠点きょてんとしてフランスは広大こうだいヌーベルフランス植民しょくみん建設けんせつした。ミシシッピがわ水系すいけいはヌーベルフランスないフランスりょうルイジアナ植民しょくみんとなったが、しかし、フランスりょうルイジアナはめんてきにはひろ地域ちいきだったものの人口じんこう非常ひじょうすくなく、ミシシッピがわ沿いには交易こうえきしょとりで点在てんざいするにとどまっていた。それでも、1718ねんには河口かこうにヌーヴェル・オルレアン(ニューオーリンズ)のまち建設けんせつされ、1722ねんにはフランスりょうルイジアナの首都しゅととなり、ミシシッピがわ交易こうえきとメキシコわん海運かいうん結節けっせつてんとしてさかえるようになった。このほか、セントルイスなど、このフランスりょう時代じだい建設けんせつされた拠点きょてん現在げんざい都市としとして存続そんぞくしている場所ばしょはミシシッピがわ点在てんざいしている。

フランスはミズーリがわやオハイオがわなどをふくめたミシシッピがわ水系すいけい全域ぜんいき領有りょうゆうけん主張しゅちょうしており、五大ごだい湖水こすいけいとつながることで、きたアメリカ大陸あめりかたいりく東岸とうがんのイギリス植民しょくみん発展はってん方向ほうこうをふさぐかたちとなっていた。このため両国りょうこくあいだには小競こぜいがえず、北米ほくべい植民しょくみん戦争せんそうばれる戦争せんそう断続だんぞくてきに100ねん以上いじょうつづけたが、結局けっきょく最後さいご北米ほくべい植民しょくみん戦争せんそうであるフレンチ・インディアン戦争せんそうにおいてフランスは大敗たいはいし、1763ねんパリ条約じょうやくでフランスはミシシッピがわ東側ひがしがわとカナダをイギリスに割譲かつじょう、ミシシッピがわ西側にしがわをスペインに割譲かつじょうし、北米ほくべい大陸たいりく領土りょうど完全かんぜん喪失そうしつした。こうしてミシシッピがわはイギリス植民しょくみんとスペイン植民しょくみん境界きょうかいとなったが、1775ねんはじまったアメリカ独立どくりつ戦争せんそうにおいてイギリスは敗北はいぼくし、1783ねん9月3にちパリ条約じょうやくによってミシシッピがわ東岸とうがん独立どくりつしたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくへと譲渡じょうとされることとなった。

アメリカりょう時代じだい

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1792ねんには、バージニアしゅうのアパラチア山脈さんみゃく以西いせいケンタッキーしゅうとして分離ぶんりし、アメリカだい15番目ばんめしゅうとなった。これはミシシッピがわ流域りゅういきにおけるはじめてのしゅう新設しんせつであり、ついで1796ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふぞくする南西なんせい領土りょうどしゅう昇格しょうかくしてテネシーしゅうとなった。

一方いっぽう、ミシシッピがわ西岸せいがん1800ねんにスペインからフランスにふたた割譲かつじょうされ、フランスりょうルイジアナが復活ふっかつした。しかし1803ねん、アメリカはフランスからルイジアナを1500まんドルで購入こうにゅうし、ミシシッピがわりょうきしアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく領土りょうどとなった。このルイジアナ買収ばいしゅうによってアメリカの領土りょうどは2ばいとなり、また西方せいほうへのみちけたことでアメリカの西部せいぶ開拓かいたく一層いっそう拍車はくしゃがかかることとなった。ルイジアナを購入こうにゅうしたとはいえ、ミシシッピがわ西方せいほう状況じょうきょうについてはアメリカ東海岸ひがしかいがんではほとんどられておらず、このためルイジアナ買収ばいしゅうおこなっただいさんだい大統領だいとうりょうトーマス・ジェファーソン1804ねんメリウェザー・ルイスウィリアム・クラークひきいられた探検たんけんたいをミシシッピ西方せいほうへと派遣はけんした。このルイス・クラーク探検たんけんたいはミシシッピがわとミズーリがわ合流ごうりゅうてんにあり、セントルイスの対岸たいがん位置いちするウッド・リヴァー基地きちから出発しゅっぱつして支流しりゅうのミズーリがわ沿いに西にしへとすす[9]太平洋たいへいようにまで到達とうたつした。この探検たんけんによりアメリカはミシシッピ西方せいほう詳細しょうさい情報じょうほう入手にゅうしゅし、以後いご西部せいぶ開拓かいたくおおきなたすけとなった。それ以降いこう流域りゅういき探検たんけん積極せっきょくてきすすめられ、1820ねんにはミシガンじゅんしゅう知事ちじルイス・カスミシガンじゅんしゅう北部ほくぶ現在げんざいのミネソタしゅういき)に探検たんけんたい派遣はけんしてミシシッピがわ源流げんりゅう探検たんけんさせ、現在げんざいのミネソタしゅう中北なかきた位置いちするカスみずうみがミシシッピがわ源流げんりゅうであるとした。その1832ねんにはヘンリー・スクールクラフトによってさい探検たんけんおこなわれ、カス近傍きんぼうにあるイタスカみずうみがミシシッピがわ源流げんりゅうであるとめられた。

ミシシッピがわりょうきしアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくりょうとなると、沿岸えんがんにはアメリカ東部とうぶから次々つぎつぎ開拓かいたくしゃせ、一定いってい開拓かいたくすすんだ土地とち続々ぞくぞくしゅう昇格しょうかくしていった。1812ねんきゅうフランスりょうルイジアナの南端なんたんにあたるオーリンズじゅんしゅう大半たいはんルイジアナしゅうとして連邦れんぽう加盟かめいしたのを皮切かわきりに、ミシシッピしゅう(1817ねん)、イリノイしゅう(1818ねん)、ミズーリしゅう(1821ねん)、アーカンソーしゅう(1836ねん)、アイオワしゅう(1846ねん)、ウィスコンシンしゅう(1848ねん)が成立せいりつしていき、1858ねんミネソタしゅう加盟かめいをもってミシシッピがわ本流ほんりゅう沿いはすべてアメリカのしゅうぞくすることとなった。

ニューオーリンズのミシシッピがわはし蒸気じょうきせんナチェズごう

ミシシッピがわ植民しょくみん初期しょきから輸送ゆそうとして活用かつようされてきたが、ミシシッピがわながれがつよく、沿岸えんがん曳舟どう整備せいびされていなかったためにふね上流じょうりゅうげることは困難こんなんだったため、フラットボート平底ひらぞこせん)などの簡易かんいふね上流じょうりゅうつくり、下流かりゅうまで荷物にもつ運搬うんぱんしたのち荷物にもつ売却ばいきゃくし、ふね材木ざいもくとして下流かりゅう分解ぶんかい売却ばいきゃくするといった片道かたみち利用りよう主流しゅりゅうだった。ミシシッピがわ利用りよう格段かくだん拡大かくだいしたのは蒸気じょうきせん開発かいはつ以降いこうのことである。外輪がいりん蒸気じょうきせん航行こうこうする姿すがたは、アメリカ発展はってんにおける象徴しょうちょうてき存在そんざいで、1811ねんにはミシシッピがわはつ蒸気じょうきせんであるニューオーリンズごうがオハイオがわからミシシッピがわへと就航しゅうこう[10]以後いご急速きゅうそく蒸気じょうきせん利用りようすすんだ。動力どうりょくきのふねである蒸気じょうきせんによって、船舶せんぱく遡行そこうできないという難点なんてん解消かいしょうされたためである。初期しょき蒸気じょうきせん外輪船がいりんせんであり、なみ影響えいきょうけないミシシッピがわでは外洋がいようちがって外輪船がいりんせん効果こうか発揮はっきしやすいこともこの急速きゅうそく普及ふきゅう理由りゆうひとつだった。一方いっぽう簡単かんたん作成さくせいして船舶せんぱくごと売却ばいきゃくできる平底ひらぞこせんも、とくに木材もくざい簡単かんたん入手にゅうしゅできる開拓かいたくなどでは人気にんきがあり、1840年代ねんだいまでさかんに利用りようされつづけていた。1831ねんにはエイブラハム・リンカーン平底ひらぞこせん船員せんいんとしてイリノイしゅうニューセイラムからニューオーリンズまでたびし、ここで奴隷どれい市場いちば目撃もくげきしている。

ミシシッピがわ水路すいろ利用りよう容易よういになると、ミシシッピがわ交易こうえき本格ほんかくした。開拓かいたく急速きゅうそくすすフロンティア前進ぜんしんしつつある西部せいぶ生産せいさんされた農作物のうさくもつはミシシッピがわつうじてアメリカ南部なんぶへとはこばれ、南部なんぶからは砂糖さとうなどがかわをさかのぼって西部せいぶへとはこばれた。開拓かいたく初期しょきはやくから開拓かいたくすすんだオハイオがわ流域りゅういきとニューオーリンズをむすぶルートが主要しゅようルートだったが、開拓かいたくすすむにつれて肥沃ひよくだい平原へいげんつミシシッピがわ本流ほんりゅう地域ちいき交易こうえきさかんとなった。南部なんぶ西部せいぶとの直接ちょくせつ交易こうえきのほか、ミシシッピがわはアメリカ全体ぜんたい交易こうえきルートの一部いちぶともなっていた。すなわち、西部せいぶ南部なんぶ農作物のうさくもつった利益りえきアメリカ東部とうぶから工業こうぎょう製品せいひん購入こうにゅうし、東部とうぶ南部なんぶから綿花めんかタバコなどを購入こうにゅう。そして南部なんぶ西部せいぶから農作物のうさくもつ購入こうにゅうするというサイクルが出来上できあがり[11]、アメリカ国内こくない経済けいざい統一とういつにミシシッピがわおおきな役割やくわりたした。ミシシッピがわ交易こうえき本格ほんかくした1820年代ねんだいから1840年代ねんだいにいたるまで、西部せいぶ農作物のうさくもつ主要しゅよう購入こうにゅうしゃ南部なんぶでありつづけ、この輸送ゆそうになうミシシッピがわ国内こくない交通こうつうはしらとなっていた。ナチェズなどはこの時期じきさかえた河港かこう都市としである。1848ねんには五大ごだいみずうみとミシシッピがわむすぶイリノイ・ミシガン運河うんが完成かんせいし、ミシシッピがわ拠点きょてんとなるセントルイスはさらに重要じゅうようせいした。

1840年代ねんだいはいると、それまで河川かせん運河うんが主力しゅりょくだった地域ちいき交通こうつうが、鉄道てつどう延伸えんしんによって変化へんかはじめた。ミシシッピがわすうしょはしけられて鉄道てつどうはしるようになり、ミネアポリスやセントルイス、メンフィスといった河港かこう都市としはそのまま渡河とか地点ちてん鉄道てつどう水運すいうんとの連絡れんらく地点ちてんとしてさらに繁栄はんえいした。

ミシシッピがわ流域りゅういき開発かいはつされていくにともない、アメリカの南北なんぼく対立たいりつがこの流域りゅういきにもまれるようになっていった。奴隷どれいせい反対はんたいする北部ほくぶとそれを維持いじする南部なんぶ政治せいじ対立たいりつは、1820ねんミズーリ妥協だきょうによって北緯ほくい3630ぶん緯線いせんよりきた自由じゆうしゅうみなみ奴隷どれいしゅうとすることでりょう地域ちいきのバランスがはかられた。ただしミズーリしゅうはこのラインよりもきた位置いちするものの、奴隷どれい制度せいどみとめられることとなった。これによりミシシッピがわ流域りゅういき北部ほくぶもろしゅう自由じゆうしゅう南部なんぶもろしゅう奴隷どれいしゅうとなっていったが、しかしそのもこの問題もんだいはくすぶりつづけ、ついに1860ねん11月の大統領だいとうりょう選挙せんきょ共和党きょうわとうエイブラハム・リンカーン当選とうせんしたことによって、1861ねん1がつ9にちにミシシッピしゅう連邦れんぽう脱退だったいし、ついでルイジアナしゅうもそれにつづき、1861ねん2がつ4にちにはこれらのしゅうアメリカ連合れんごうこく南部なんぶ連合れんごう)へと加入かにゅうした。さらに1861ねん4がつ12にちみなみぐん連邦れんぽうサムター要塞ようさい砲撃ほうげきして戦端せんたんひらかれるとアーカンソーしゅう、テネシーしゅう連合れんごうこく参加さんかし、ミシシッピがわきた合衆国がっしゅうこくみなみ連合れんごうこくあいだ戦場せんじょうとなった。(ミシシッピがわ流域りゅういき戦線せんせん

南北戦争なんぼくせんそうきたぐん勝利しょうりわると、流域りゅういきふたた全域ぜんいきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくりょうにもどった。蒸気じょうきせんふたたびミシシッピがわきかうようになり、20世紀せいきはいるとエンジンせん動力どうりょくわったものの、21世紀せいきにいたるまでミシシッピがわ河川かせん輸送ゆそう重要じゅうよう地位ちいたもつづけている。

経済けいざい

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トウボートにされてミシシッピがわのぼはしけセントルイスゲートウェイ・アーチうえから撮影さつえい
下流かりゅうエリア

ミシシッピがわ現在げんざいでもアメリカ内陸ないりく基幹きかん輸送ゆそうルートである。ミシシッピ本流ほんりゅうミネアポリスまで大型おおがたせん遡行そこうできる。支流しりゅうであるミズーリがわ、オハイオがわ、テネシーがわ、アーカンザスがわ、カンバーランドがわなどもひろく船舶せんぱく遡行そこう可能かのうである。また、イリノイがわからイリノイ水路すいろつうじてシカゴへと水路すいろがつながっており、五大ごだい湖水こすいとの連絡れんらくもある。

ミシシッピがわ本流ほんりゅう北部ほくぶ沿岸えんがんはコーンベルトとばれるだい穀物こくもつ生産せいさん地帯ちたいであり、中西部ちゅうせいぶ穀物こくもつ河口かこう附近ふきん輸出ゆしゅつみなとまではしけ大量たいりょう輸送ゆそうするだい幹線かんせんとなっている。ミシシッピがわ利用りようする貨物かもつには沿岸えんがん生産せいさんされるコムギトウモロコシダイズなどがおお[12]船舶せんぱく輸送ゆそうはトラック・鉄道てつどうより圧倒的あっとうてき大量たいりょうていコストで輸送ゆそうできるため、穀物こくもつ輸送ゆそう主力しゅりょく輸送ゆそう手段しゅだんとなっている。中西部ちゅうせいぶ集荷しゅうかされた穀物こくもつは、大型おおがたはしけ(バージ)にせられ、タグボートみちびかれてかわくだり、河口かこうのニューオーリンズまではこばれ、ここからぜん世界せかいへと出荷しゅっかされる。このため、ニューオーリンズは現代げんだいでも河川かせん水運すいうん海運かいうんとの結節けっせつてんとして、また穀物こくもつ輸出ゆしゅつこうとして重要じゅうようである。アメリカの穀物こくもつ輸出ゆしゅつの6わりはメキシコわんより輸出ゆしゅつされるが、その輸出ゆしゅつ大半たいはんはミシシッピ水系すいけい河川かせん輸送ゆそうっている[13]

ミシシッピがわ水路すいろ保守ほしゅは、アメリカ国内こくないほか河川かせんおなじくアメリカ陸軍りくぐん工兵こうへいたいによっておこなわれている[14]。これは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽうだい1じょう8せつ3こうによってしゅうぎわ通商つうしょう連邦れんぽう政府せいふ管轄かんかつとなっている[15] ことによるもので、1899ねん河川かせん港湾こうわんほうだい10じょうよって河川かせんおなじくミシシッピがわ保守ほしゅもまたアメリカ陸軍りくぐん工兵こうへいたい担当たんとうすることとなった。

沿岸えんがん都市とし

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都市としけん 人口じんこう
ミネアポリス・セントポール都市としけん 3,615,901
セントルイス大都市だいとしけん 2,900,605
メンフィス大都市だいとしけん 1,316,100
ニューオーリンズ都市としけん 1,214,932
バトンルージュ都市としけん 802,484
ダベンポート・モリーン・ロックアイランド都市としけん(クァッド・シティーズ) 382,630
セントクラウド都市としけん 189,148
ラクロス都市としけん 133,365
ケープジラード都市としけん 96,275
ダビュークぐん都市としけん 93,653

ミシシッピがわ沿岸えんがんにはおおくの都市とし存在そんざいし、アメリカ中央ちゅうおう南北なんぼくつらぬくひとつの都市としじく形成けいせいしている。これらの都市としのほとんどは河港かこうをもち、ミシシッピがわ水運すいうん起点きてんとして発展はってんげた。ミシシッピがわ沿岸えんがん最大さいだい都市としけんは、上流じょうりゅう位置いちしミシシッピがわさいきた大都市だいとしであるミネアポリスとセントポールである。たき基盤きばんとする工業こうぎょう都市としであるミネアポリスと河港かこう基盤きばんとする港湾こうわん都市としであるセントポールは近接きんせつしており、双子ふたご都市とし典型てんけいひとつとされ、ミネアポリス・セントポール都市としけんとしてひとつの大都市だいとしけん形成けいせいしている。ミネアポリスはまた、ミシシッピがわ渡河とか地点ちてんとしても重要じゅうようであった。また、ミネアポリスは周辺しゅうへん農作物のうさくもつ集散しゅうさんともなっている。それにたいし、ミネソタしゅう州都しゅうとのあるセントポールは行政ぎょうせい都市としとしての性格せいかくつよい。これに大都市だいとしけんながれのほぼ中央ちゅうおうにあるセントルイスであるが、ここは西にしのミズーリがわきたのミシシッピがわ北東ほくとうのイリノイがわおよびだいみずうみ、さらにはひがしのオハイオがわ合流ごうりゅうてんからもとおくなく、水運すいうん一大いちだい結節けっせつてんとなっていた。1840年代ねんだい以降いこう、セントルイスを拠点きょてんとして鉄道てつどうぜん方位ほうい四通八達しつうはったつするようになり、鉄道てつどうのミシシッピがわ渡河とか地点ちてんとしても、さらに鉄道てつどうなどの陸路りくろ水路すいろ結節けっせつてんとして成長せいちょうしてきた。メンフィスは周辺しゅうへん綿花めんか集散しゅうさん、そして鉄道てつどう水路すいろ要衝ようしょうとしてさかえたまちである。そして、これらの水路すいろ海路かいろ結節けっせつてんとなっているのが、河口かこう位置いち海港かいこうつニューオーリンズである。人口じんこう100まんにんえる大都市だいとしけんはこの4つであるが、これにぐものとしておおきな河港かこうをもち、また周辺しゅうへん石油せきゆ開発かいはつ基地きちやルイジアナしゅう州都しゅうととして行政ぎょうせい都市としめんバトンルージュがある。

災害さいがい

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メンフィスにおけるミシシッピがわ水位すいい
  だい洪水こうずいレベル
  ちゅう洪水こうずいレベル
  洪水こうずいレベル
  警戒けいかいレベル
  水位すいい
  最低さいてい水運すいうんレベル

ミシシッピがわ沿岸えんがん、とりわけうえちゅう流域りゅういきにおいては洪水こうずいおお発生はっせいしている[16]とく被害ひがいおおきかった洪水こうずいは、アーカンソーしゅう甚大じんだい被害ひがいをもたらした1927ねんミシシッピだい洪水こうずいや、アイオワしゅうとミズーリしゅうおそった1993ねんアメリカ中西部ちゅうせいぶだい洪水こうずいがある。アメリカ中西部ちゅうせいぶだい洪水こうずいにおいては被害ひがい総額そうがくは100おくドル以上いじょうにものぼった[16]一方いっぽう南部なんぶではハリケーン来襲らいしゅうけやすく、2005ねん8がつハリケーン・カトリーナはミシシッピ・デルタ地帯ちたい直撃ちょくげきし、ニューオーリンズ甚大じんだい被害ひがいをもたらした。

ヴィックスバーグにおけるミシシッピがわ流量りゅうりょう(m3/s)
(1965ねんから1983ねん平均へいきんデータ)[17].

文化ぶんか

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ミシシッピがわはアメリカ文化ぶんかにもおおきな影響えいきょうあたえている。アメリカ最大さいだい作家さっかのひとりであるマーク・トウェインはミシシッピがわ沿いのミズーリしゅうハンニバル少年しょうねんごし、『トム・ソーヤーの冒険ぼうけん』や『ハックルベリー・フィンの冒険ぼうけん』といったかれ代表だいひょうさくはこの少年しょうねん経験けいけんをもとにしてえがかれている。マーク・トウェインとのペンネーム自体じたい、ミシシッピがわ蒸気じょうきせん水先みずさきじんへの合図あいず「by the mark, twain」(水深すいしんひろ)からとられている。

音楽おんがくにおいても、ミシシッピがわ沿岸えんがん地方ちほうおおきな役割やくわりたしてきた。とく南部なんぶにおいて、黒人こくじんっていた音楽おんがく文化ぶんか白人はくじん音楽おんがく文化ぶんか融合ゆうごうし、都市としという花開はなひらいたのである。ブルースはメンフィスやセントルイスが本場ほんばであり、またジャズもニューオーリンズが発祥はっしょうであり、ここから世界中せかいじゅうひろまっていった。

流域りゅういきしゅう

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五大ごだいみずうみ周辺しゅうへん河川かせんのぞくと、ミシシッピがわにはロッキー山脈さんみゃくアパラチア山脈さんみゃくあいだのほとんどの河川かせんながんでいる。ミシシッピがわ本流ほんりゅうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく中央ちゅうおう以下いかの10しゅうながれている。

支流しりゅう

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下流かりゅうより記載きさい

ミシシッピがわ舞台ぶたいとした作品さくひん

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 自伝じでんてき作品さくひん『ミシシッピの生活せいかつ』"Life on the Mississippi", 1874ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 最長さいちょうはミシシッピがわ支流しりゅうの、4130kmのミズーリがわ

出典しゅってん

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  1. ^ Kammerer, J.C. (1990ねん5がつ). “Largest Rivers in the United States”. U.S. Geological Survey. 2011ねん2がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ 世界せかい地誌ちしシリーズ4 アメリカ」p15 さきてんたかしへん 2011ねん4がつ25にち初版しょはんだい1さつ 朝倉書店あさくらしょてん
  3. ^ 「アメリカ」(世界せかい地誌ちしシリーズ4)p26 ヶ﨑典たかしへん 朝倉書店あさくらしょてん 2011ねん4がつ25にち初版しょはんだい1さつ
  4. ^ Upper Mississippi River Floodplain Wetlands | Ramsar Sites Information Service”. rsis.ramsar.org (2010ねん5がつ1にち). 2023ねん4がつ13にち閲覧えつらん
  5. ^ 「アメリカ」(世界せかい地誌ちしシリーズ4)p11 ヶ﨑典たかしへん 朝倉書店あさくらしょてん 2011ねん4がつ25にち初版しょはんだい1さつ
  6. ^ 海洋かいようがく 原著げんちょだい4はん」p418 ポール・R・ピネちょ 東京大学とうきょうだいがく海洋かいよう研究所けんきゅうじょ監訳かんやく 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 2010ねん3がつ31にちだい1さつだい1はん発行はっこう
  7. ^ 世界せかい探検たんけんぜん 下巻げかん みち発見はっけんしゃたち」p112 フェリペ・フェルナンデス-アルメストちょ 関口せきぐちあつしやく 青土おうづちしゃ 2009ねん10がつ15にちだい1さつ発行はっこう
  8. ^ 「アリステア・クックのアメリカうえ)」p77 アリステア・クックちょ 鈴木すずき健次けんじ櫻井さくらい元雄もとおやく NHKブックス 1994ねん12月25にちだい1さつ発行はっこう
  9. ^ 「ルイス=クラーク探検たんけん アメリカ西部せいぶ開拓かいたく原初げんしょてき物語ものがたり」p9 明石あかし紀雄としお 世界せかい思想しそうしゃ 2004ねん12月25にちだい1さつ
  10. ^ 商業しょうぎょう」p197 石坂いしざか昭雄あきおことぶきえい欣三郎きんざぶろう諸田もろたみのる山下やました幸夫ゆきおちょ 有斐閣ゆうひかく 1980ねん11月20にち初版しょはんだい1さつ
  11. ^ 商業しょうぎょう」p200 石坂いしざか昭雄あきおことぶきえい欣三郎きんざぶろう諸田もろたみのる山下やました幸夫ゆきおちょ 有斐閣ゆうひかく 1980ねん11月20にち初版しょはんだい1さつ
  12. ^ 「ベラン世界せかい地理ちり体系たいけい17 アメリカ」p174 田辺たなべひろし竹内たけうち信夫しのぶ監訳かんやく 朝倉書店あさくらしょてん 2008ねん6がつ30にち初版しょはんだい1さつ
  13. ^ 地球ちきゅうたびする地理ちりほん 6 きたアメリカ・オーストラリア」p90 大月書店おおつきしょてん 1993ねん11月29にちだい1さつ発行はっこう
  14. ^ 舟運しゅううん都市とし 水辺みずべからの都市とし再生さいせい」p25 三浦みうら裕二ゆうじ陣内じんない秀信ひでのぶ吉川よしかわ勝秀かつひで編著へんちょ 鹿島かしま出版しゅっぱんかい 2008ねん2がつ20日はつか発行はっこう
  15. ^ https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95#.E7.AC.AC1.E6.9D.A1 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう ウィキソース 2015ねん5がつ2にち閲覧えつらん
  16. ^ a b 世界せかい地誌ちしシリーズ4 アメリカ」p24 さきてんたかしへん 2011ねん4がつ25にち初版しょはんだい1さつ 朝倉書店あさくらしょてん
  17. ^ GRDC - Mississippi Basin

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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