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ミシシッピ・デルタ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミシシッピ・デルタの地図ちずアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおける位置いちみぎ下図したず

ミシシッピ・デルタえい: Mississippi Delta)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくミシシッピしゅう北西ほくせいミシシッピがわとヤズーがわはさまれた領域りょういきである。この地域ちいきは「地球ちきゅうじょうもっと南部なんぶてき場所ばしょ」ともわれる[1](「南部なんぶ」はアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく南部なんぶす)。これはそこに特徴とくちょうある人種じんしゅてき文化ぶんかてき、および経済けいざいてき歴史れきしがあるからである。おおきさでは、南北なんぼくながさ200マイル (320 km)、東西とうざい最大さいだいはば70マイル (112 km)、面積めんせきやく4,415,000エーカー (17,870 km2)、7,000平方へいほうマイルほどの沖積ちゅうせき平野へいやである[2]当初とうしょ低地ていち全体ぜんたいかたもりおおわれていたこの地域ちいきは、南北戦争なんぼくせんそう1861ねん-1865ねんまえ時代じだい国内こくないでも最大さいだいきゅう肥沃ひよく綿花めんか栽培さいばい地域ちいきとして開発かいはつされた。おおくの投機とうききつけられ、綿花めんかプランテーションのためにかわ沿いの土地とち開発かいはつした。かれらは黒人こくじん奴隷どれい労働ろうどうりょくたよ裕福ゆうふく農園のうえんぬしとなり、南北戦争なんぼくせんそうよりもかなりまえ黒人こくじん人口じんこう過半かはんめることとなり、白人はくじんの2ばいになるところもおおかった。

まずかわ沿いの地域ちいき開発かいはつされ、鉄道てつどう建設けんせつゆるりとしたものであり、南北戦争なんぼくせんそうとなってもミシシッピ・デルタの低地ていち大半たいはん未開みかいのままだった。黒人こくじん白人はくじん地域ちいき移住いじゅうしてて、土地とちうためにその労働ろうどうりょく使つかって土地とちひら木材もくざいった。19世紀せいきわるまでに黒人こくじん農夫のうふはミシシッピ・デルタ地域ちいき独立どくりつ農夫のうふの3ぶんの2をめていた[3]。1890ねん白人はくじん支配しはいするしゅう議会ぎかいあたらしい憲法けんぽう成立せいりつさせて、事実じじつじょうしゅうない黒人こくじん大半たいはんから選挙せんきょけんげた。そのの30年間ねんかん大半たいはん黒人こくじん借金しゃっきん返済へんさいきゅうし、政治せいじてきにもちからうばわれたので、土地とちまでうしなうことになった[3]アフリカけいアメリカじんのこるために小作こさくじんとすしかなくなった。政治せいじてき排除はいじょされた状態じょうたいは、1960年代ねんだい公民こうみんけんほう成立せいりつしたのちまでつづいた。

アフリカけいアメリカじんブルースジャズというかたち音楽おんがく発展はってんさせた。デルタ地域ちいき郡部ぐんぶ住人じゅうにん大半たいはん黒人こくじんだったが、20世紀せいき前半ぜんはんきただい移住いじゅう時代じだいに40まんにん以上いじょうのアフリカけいアメリカじんが、北部ほくぶ中西部ちゅうせいぶ西部せいぶ工業こうぎょう都市とし移転いてんしてった。

農業のうぎょう依存いぞん経済けいざいでは就職しゅうしょく機会きかい事業じぎょう機会きかいおおくなく、地域ちいき経済けいざい多様たようさせるために懸命けんめい努力どりょくする必要ひつようがあった。製材せいざいぎょう重要じゅうようであり、大型おおがた機械きかい農園のうえんぬしによって大豆だいずなどあたらしい農産物のうさんぶつ地域ちいき導入どうにゅうされた。

ミシシッピ・デルタは度々たびたびおおきな洪水こうずい見舞みまわれてきた。1927ねんミシシッピだい洪水こうずいや2011ねん洪水こうずい有名ゆうめいである。

地理ちり

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ミシシッピ・デルタは実際じっさいのところかわのデルタ(三角さんかくしゅう)ではなく、すうせんねんあいだかえされたミシシッピがわとヤズーがわ氾濫はんらんによって形成けいせいされた沖積ちゅうせき平野へいや一部いちぶである。がいして平坦へいたんであり、世界せかいでも最大さいだいきゅう肥沃ひよく土壌どじょうがあるとわれている。おおきさでは、南北なんぼくながさ200マイル (320 km)、東西とうざい最大さいだいはば70マイル (112 km)、面積めんせきやく4,415,000エーカー (17,870 km2)、7,000平方へいほうマイルほどの沖積ちゅうせき平野へいやである[2]。その東側ひがしがわはヤズーがわこうがわひろがるがけ境界きょうかいになっている[2]

デルタのなかには、ワシントンぐんハンフリーズぐんキャロルぐんイサケナぐんクイットマンぐんボリバーぐんコアホマぐんレフロアぐんサンフラワーぐんシャーキーぐんテイトぐんトゥニカぐんタラハチーぐんウォーレンぐんふくまれ、デソトぐんパノラぐんホームズぐんヤズーぐんグレナダぐんはその西部せいぶはいっている。

一方いっぽう、ミシシッピがわメキシコわんそそ場所ばしょ形成けいせいされ歴史れきしてきにいつもかたちえているデルタ(とり趾状三角州さんかくす)は、このミシシッピ・デルタよりやく300マイル (480 km) みなみにあり、通常つうじょうミシシッピがわデルタ英語えいごばんばれる。メディアや通常つうじょう会話かいわにおいて、この2つはしばしば混同こんどうされている。

ヤズーがわとミシシッピがわ形成けいせいされた氾濫はんらんばら

音楽おんがく

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ミシシッピ・デルタは、デルタ・ブルースロックンロールなど、いくつかポピュラー音楽おんがくのジャンルがはじまった場所ばしょつよ関連かんれんしている。大半たいはん黒人こくじん小作こさくじんが、貧困ひんこん苦難くなん特徴とくちょうづけられる生活せいかつおくっていたが、都市としや1つのくにのビート、リズム、うたとなる音楽おんがくなかでその苦闘くとう表現ひょうげんした[4][5][6]

ガッソーは、1920ねんから1942ねんあいだにこの地域ちいきでブルースの音楽家おんがくか黒人こくじん牧師ぼくしあいだきた紛争ふんそう検証けんしょうしている。牧師ぼくしたちはブルースを「悪魔あくま音楽おんがく」だと非難ひなんした。これにこたえてブルースの音楽家おんがくかたちはその音楽おんがくなか説教せっきょうたち皮肉ひにくった。たとえばブルースグループのミシシッピ・シークスの『かれはあれを宗教しゅうきょうぶ』(He Calls That Religion)といううたがある。その歌詞かしでは黒人こくじん牧師ぼくしつみある振舞ふるまいかかわりあおっていると非難ひなんした。黒人こくじん住民じゅうみんまずしく、音楽家おんがくか牧師ぼくしはそのかねきそってうばった。だいいち世界せかい大戦たいせんまえはじまったアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく北部ほくぶ都市としへのだい移動いどうによって、黒人こくじん社会しゃかい教会きょうかいいちじるしく弱体じゃくたいさせたが、音楽家おんがくかたち工業こうぎょう都市としであるシカゴセントルイスのブルースとかたちたがいにしのぎをけずった。

農業のうぎょうとデルタの経済けいざい

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プランテーション

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2世紀せいき以上いじょうにわたって農業のうぎょうがデルタ経済けいざい根幹こんかんにあった。18世紀せいきに、ヨーロッパじん開拓かいたくしゃによって、サトウキビべいカリブ海かりぶかいからこの地域ちいき導入どうにゅうされた。砂糖さとうべい生産せいさんルイジアナしゅう南部なんぶのちにはアーカンソー・デルタを中心ちゅうしんおこなわれた。

初期しょき農業のうぎょうにはナチェズ地域ちいきでのかぎられたりょうタバコ栽培さいばいや、ミシシッピがわ下流したるでのインディゴ生産せいさんふくまれていた。だい家族かぞくささえられたヨーマン自営じえい農民のうみんフランスじん農民のうみんほねれる土地とち開墾かいこんはじめた。開拓かいたくしゃアメリカ・インディアン奴隷どれいしようとしたが、インディアンは逃亡とうぼうした。18世紀せいき、フランスじんスペインじんイングランドじんはインディアンの奴隷どれい制度せいどわらせ、そのわりに奴隷どれいにしたアフリカじん輸入ゆにゅうはじめた。その初期しょき時代じだいに、アフリカじん労働ろうどうしゃこめとインディゴの栽培さいばいほう加工かこうほうかんする重要じゅうよう知識ちしき技能ぎのうをもたらした。西にしアフリカすうじゅうまんにんのアフリカじんつかまえられ、奴隷どれいとしてられてきたアメリカにはこばれた。

18世紀せいき後半こうはんコットン・ジン発明はつめいされ、たん繊維せんい綿花めんか栽培さいばい利益りえきるものにした。このたん繊維せんい綿花めんかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく南部なんぶアップランドサウス地域ちいき栽培さいばいされ、ディープサウスばれるようになる地域ちいき全体ぜんたいで、急速きゅうそくなキング・コットンの発展はってんつながった。労働ろうどうりょくたいする需要じゅようたかいために国内こくないでの奴隷どれい売買ばいばいすすみ、100まんにん以上いじょうのアフリカけいアメリカじん奴隷どれい南部なんぶ売買ばいばいされ、アッパーサウスの家庭かていから移住いじゅういられた。この地域ちいきにヨーロッパけいアメリカじん入植にゅうしょくつづいたのちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかいは1830ねんインディアン移住いじゅうほう成立せいりつさせ、インディアンの土地とち所有しょゆうけん消失しょうしつさせた。文明ぶんめい部族ぶぞくなどおおくのインディアン部族ぶぞくがミシシッピがわ西にし移動いどうさせられ、ヨーロッパけいアメリカじん開拓かいたくは、ジョージアしゅうアラバマしゅう、ミシシッピしゅう、ルイジアナしゅうテキサスしゅう急速きゅうそくひろがった。綿花めんか大々的だいだいてき栽培さいばいされる地域ちいきで、白人はくじん人口じんこう奴隷どれい人口じんこうおおきく上回うわまわることになった。

おおくの奴隷どれいニューオーリンズ奴隷どれい市場いちばから川船かわぶねでデルタのまちおくられてきた。ニューオーリンズは1840ねんまでに国内こくないだい4都市としになっていた。きたテネシーしゅうメンフィスケンタッキーしゅうルイビルからかわくだっておくられてきた奴隷どれいがおれば、海岸かいがん地域ちいきでの奴隷どれい売買ばいばいによってうみからおくられてくる奴隷どれいた。この時代じだいまでに、奴隷どれい制度せいど人種じんしゅてき階級かいきゅう制度せいどとして確立かくりつされていた。アフリカけいアメリカじんなに世代せだいにもわたって農産物のうさんぶつプランテーションのためにはたらき、それをいちじるしく利益りえきるものにした。ジェファーソン・デイヴィスなどのちにミシシッピしゅうむようになったものたち意見いけんでは、奴隷どれいになったアフリカじんかみ意思いし反映はんえいしたものであり、キリスト教化きょうかされ、アフリカにとどまっていたらなっていたであろうものと比較ひかくして、その生活せいかつ状態じょうたい改善かいぜんすることにつながったというものだった[7]。デイヴィスにれば、アフリカじんは「いくらかも利益りえきない野蛮やばん状態じょうたいから、数多かずおお効率こうりつてきキリスト教徒きりすときょうと労働ろうどうしゃ昇華しょうかした」ものということになった[8]

19世紀せいき初期しょきまでに、世界せかいてきなにおおきな需要じゅようのある綿花めんかはデルタの主要しゅよう作物さくもつとなっていた。ニューイングランドニューヨーク工場こうじょうもその加工かこうのために綿花めんか必要ひつようとし、ニューヨーク綿花めんか貿易ぼうえき密接みっせつむすびついていた。おおくの南部なんぶ農園のうえんぬし事業じぎょうのためにしばしばニューヨークたびし、そこにおりのホテルがあった。1822ねんから綿花めんかかんする輸出ゆしゅつがくは、ニューヨークみなとから輸出ゆしゅつされるがく半分はんぶんめていた[9]。1861ねん民主党みんしゅとういんニューヨーク市長しちょうフェルナンド・ウッドは、南部なんぶとの事業じぎょうじょうむすびつきがつよかったので、ニューヨークアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくからの分離ぶんり要求ようきゅうした[10]。ニューヨーク最終さいしゅうてき戦争せんそう支持しじするしゅう合流ごうりゅうしたが、金持かねもちがかね兵役へいえきのがれることができるときに、たたかわねばならない移民いみん不満ふまんいた[10]

当時とうじ綿花めんか傑出けっしゅつした重要じゅうようせい今日きょう石油せきゆ重要じゅうようさとを比較ひかくすると、歴史れきしのスベン・ベッカートはデルタを「あるしゅ10世紀せいき初期しょきサウジアラビア」だとっている[11]

綿花めんかたいする需要じゅよう南北戦争なんぼくせんそうのちになって、綿花めんか価格かかく下降かこうする時代じだいはいっても、依然いぜんとしてたかいままだった。綿花めんか農園のうえんぬしはこの地域ちいき沖積ちゅうせき土壌どじょうつね更新こうしんされているとかんがえていたので、1830年代ねんだいから1850年代ねんだい後半こうはんまでつづいた農業のうぎょうブームが広範こうはん土壌どじょうしつ退化たいか浸食しんしょくんだ。農業のうぎょうかんする知識ちしきもないままに、戦後せんごどうじやりかたで綿花めんか栽培さいばいつづけていた。

戦前せんぜんのプランテーションはがいしてかわちか尾根おねうえ開発かいはつされ、かわ使つかって市場いちばまで製品せいひんはこんだ。ミシシッピしゅう土地とち大半たいはん依然いぜん荒野あらのなされ、その開発かいはつにはさらにあたらしい人口じんこう労働ろうどうりょく必要ひつようとしていた。これらの地域ちいきふかもり叢林そうりんやぶおおわれていた[3]

南北戦争なんぼくせんそう終戦しゅうせん、ミシシッピしゅう低地ていちの90%は未開みかい状況じょうきょうだった。しゅうはそのフロンティアに数多かずおお移民いみん誘致ゆうちした[3]かれらは土地とちひら労働ろうどうりょくえに、材木ざいもくって土地とち購入こうにゅうできた。黒人こくじん白人はくじんなんまんにんもの開拓かいたくしゃがこの地域ちいききつけられた。19世紀せいきわるまでに、ミシシッピ・デルタの独立どくりつ農夫のうふの3ぶんの2は黒人こくじんだった。しかし、綿花めんか価格かかくひく状態じょうたいつづき、おおくのものおおきな負債ふさいかかえるようになり、白人はくじん農夫のうふよりも信用しんようるためにむずかしい時代じだいだったので、その土地とち次第しだいりしなければならなかった。1910ねんから1920ねん奴隷どれい解放かいほうのアフリカけいアメリカじんだい1およびだい2世代せだいが、その所有しょゆうする土地とちうしなっていた。かれらはのこるために小作こさくじんになった[3]

小作農こさくのうが、奴隷どれい依存いぞんしていたプランテーションの体系たいけいわった。アフリカけいアメリカじん家庭かていは、労働ろうどうしゃ集団しゅうだんはたらくよりも、幾分いくぶん自立じりつつづけることをえらんでいた。そのおおくは文盲もんもうだったので、農園のうえんぬし計算けいさんにはうまく利用りようされることがおおかった。地域ちいき黒人こくじんがリンチにかず計算けいさん結果けっかときえており、研究けんきゅうしゃ地域ちいき経済けいざいがうまくっていなかった時代じだいとリンチの関係かんけいがあることもつけた。

小作こさくせいでは、かく家庭かてい独自どくじ決断けつだんをすることとなり、地域ちいき農業のうぎょう進歩しんぽてき技術ぎじゅつ使つかうことには障害しょうがいとなった。19世紀せいき後半こうはんとくアーカンソーしゅうミズーリしゅうブートヒールにある湿地しっち開拓かいたく排水はいすいによって、小作こさく利用りようする土地とちえた。

農園のうえんぬし労働ろうどうしゃ必要ひつようとし、19世紀せいきにはイタリアじんを、20世紀せいきには中国人ちゅうごくじん採用さいようしてその需要じゅようたした。中国人ちゅうごくじんおおくは1900ねんから1930ねんあいだにミシシッピしゅうはいった。かれらははたけ労働ろうどうしゃからぐに脱出だっしゅつし、ちいさな田舎町いなかまちではとく商人しょうにんとして自立じりつするために地域ちいき社会しゃかいとしてかねめた。

機械きかい移民いみん

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1920年代ねんだいと1930年代ねんだい、デルタ地帯ちたい農園のうえん機械きかいすすみ、労働ろうどうりょくたいする需要じゅよう減少げんしょうすると、しょくにあぶれた白人はくじんやアフリカけいアメリカじん土地とちはなれ、まち都市としうつった。なにまんにんもの黒人こくじん労働ろうどうしゃが、ジム・クロウほう南部なんぶはなれ、アフリカけいアメリカじんだい移動いどうばれたうごきのなか北部ほくぶ中西部ちゅうせいぶでより生活せいかつ機会きかいもとめた。おおくのもの鉄道てつどう使つかってきたき、セントルイスやシカゴにはいった。地域ちいきだい規模きぼ農業のうぎょう機械きかいすすんだのは、1930年代ねんだい世界せかい恐慌きょうこうやその時代じだいになってからだった。農業のうぎょう機械きかいとデルタのそと国内こくない仕事しごとがあるようになったことで、デルタ住民じゅうみん地域ちいきへの流出りゅうしゅつ加速かそくさせた。農業のうぎょう利用りよう可能かのう労働ろうどうりょく吸収きゅうしゅうできず、家族かぞく全員ぜんいんき、おおくは鉄道てつどうきたのシカゴにかった。おなまち出身しゅっしんしゃたがいに近所きんじょむことがおおかった。

1930年代ねんだいから1950年代ねんだい、デルタは農業のうぎょうブームになった。戦時せんじ需要じゅようのちには、ヨーロッパの再建さいけんのための需要じゅようがあり、デルタ地域ちいき農産物のうさんぶつたいする需要じゅようひろがった。農業のうぎょう機械きかいつづき、女性じょせいはたけ仕事しごとからサービス産業さんぎょううつり、男性だんせい農園のうえんでトラクターを運転うんてんした。1960年代ねんだいから1990年代ねんだい、デルタ地域ちいき数多かずおおしょう農園のうえん住居じゅうきょおおきな農業のうぎょう法人ほうじん吸収きゅうしゅうされ、デルタのちいさなまち成長せいちょうまった[12]

20世紀せいき後半こうはんから、デルタ下流かりゅう農業のうぎょう次第しだいに、おおきな土地とち保有ほゆうする家族かぞく住民じゅうみん法人ほうじん組織そしきによって支配しはいされるようになった。その農作業のうさぎょうはほとんど機械きかいされ労働ろうどうコストを最小さいしょうにした。そのような農業のうぎょう法人ほうじん資本しほん集中しゅうちゅうがたであり、すうひゃくすうせんエーカーの土地とちが、綿花めんか砂糖さとうべい大豆だいずなど換金かんきん作物さくもつ栽培さいばい使つかわれた[12]

政治せいじてき環境かんきょう

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白人はくじん民主みんしゅ党員とういんは19世紀せいき後半こうはんしゅう議会ぎかい支配しはいもどすために、不正ふせい行為こうい暴力ぼうりょくおどしを使つかった。ミシシッピしゅうのレッド・シャーツのようなじゅん軍事ぐんじ組織そしきが、共和党きょうわとういん黒人こくじんたいしてしゅう議会ぎかい候補者こうほしゃへの投票とうひょうおさえるよう活動かつどうした。しかし、おおくの黒人こくじん地方ちほう役人やくにんえらばれつづけ、共和党きょうわとうとポピュリストのあいだ人種じんしゅあいだ連衡れんこうができ、1880年代ねんだい後半こうはんには短期間たんきかんだがしゅう議会ぎかいでの勢力せいりょくもどした。

1890ねん、ミシシッピしゅう議会ぎかいは、共和党きょうわとう勢力せいりょく支配しはいけんかえされるのをふせぎ、選挙せんきょから暴力ぼうりょくめさせるために、あたらしい憲法けんぽう成立せいりつさせてこれら政治せいじてき課題かだい解決かいけつさせた。それは、人頭じんとうぜい識字しきじ能力のうりょく試験しけん祖父そふ条項じょうこうなどの手段しゅだん使つかって、事実じじつじょう大半たいはん黒人こくじんから選挙せんきょけんげており、裁判所さいばんしょへの訴訟そしょう対抗たいこうできるものとした。1つの手段しゅだん裁判所さいばんしょによってされたとしても、しゅうべつ手段しゅだん使つかって政治せいじ体系たいけいから黒人こくじん除外じょがいつづけられるようにしていた。黒人こくじん選挙せんきょ投票とうひょうできず、陪審ばいしんだんにも参加さんかできなかった。白人はくじんはジム・クロウほうばれる人種じんしゅ差別さべつ強制きょうせいするほう成立せいりつさせていった。

この白人はくじん至上しじょう体系たいけい暴力ぼうりょく経済けいざいてき牽制けんせいによって維持いじされていたが、黒人こくじん市民しみんとして憲法けんぽう保証ほしょうされる権利けんりもどそうとうごいた公民こうみんけん運動うんどう活発かっぱつになる時代じだいはいって、事情じじょう変化へんかした。デルタのかくぐんはその変化へんか白人はくじんはげしく抵抗ていこうした場所ばしょであり、黒人こくじん有権者ゆうけんしゃ登録とうろくをしたり、公共こうきょう施設しせつ使つかおうとしたときに殺害さつがいされた。公民こうみんけん運動うんどう成功せいこうし、1965ねん投票とうひょうけんほう成立せいりつしたのちまでも、アフリカけいアメリカじん憲法けんぽう保証ほしょうされる権利けんり行使こうしできない状態じょうたいつづいた。

多様たよう

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この地域ちいき農業のうぎょうさかえた歴史れきし名残なごりは、デルタ下流かりゅうこう規格きかく道路どうろがわどうはた散開さんかいしている。おおきなまちは、教育きょういく政治せいじ医療いりょう分野ぶんや経済けいざい発展はってんおこなってのこった。ナマズ養殖ようしょく養鶏ようけいべい、トウモロコシ、大豆だいずなどの栽培さいばい農業のうぎょう重要じゅうようなものとなされてきた。今日きょう、これら産品さんぴん商品しょうひん価値かちはデルタ下流かりゅうにおける綿花めんか生産せいさん匹敵ひってきするものとなっている。かわ鉄道てつどうへの主要しゅよう輸送ゆそう交易こうえきのルートであった時代じだいから、より重要じゅうようなことに、こう規格きかく道路どうろあたらしい役割やくわり事業じぎょう機会きかいもとめて苦闘くとうするかわ都市としりにした。

近年きんねん南部なんぶにおける自動車じどうしゃ産業さんぎょう成長せいちょうによって、デルタでもおおくの部品ぶひんメーカーが生産せいさん施設しせつひらいた。これはミシシッピがわのアーカンソー・デルタがわや、貧窮ひんきゅうたかほか地域ちいきでもおなじだった。1990年代ねんだい、ミシシッピしゅうのカジノ賭博とばく合法ごうほうされ、とくトゥニカヴィックスバーグ地域ちいきでデルタの経済けいざい刺激しげきあたえた。

この地域ちいきおおきな文化ぶんかてき影響えいきょうりょく狩猟しゅりょう漁労ぎょろう歴史れきしである。デルタにおける狩猟しゅりょうは、オジロジカ、野生やせい七面鳥しちめんちょう水禽すいきんるいなど大型おおがた獲物えものや、リス、ウサギ、ハト、ウズラ、アライグマなどおおくの小型こがた獲物えもの対象たいしょうにしている。長年ながねん狩猟しゅりょう漁労ぎょろう地域ちいき観光かんこう資源しげんとして観光かんこうきゃくきつけてきた。ミシシッピ・デルタは、アメリカ大陸あめりかたいりくわたどりのコースのなかでも最大さいだいであるミシシッピ・フライウェイの中央ちゅうおうにあることで、世界せかいでも最大さいだいきゅう水禽すいきんるいあつまる場所ばしょとなっている。

デルタの都市としまち

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まつり

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以下いかのリストはデルタ地域ちいき毎月まいつきのようにおこなわれる様々さまざままつりである。

政府せいふとインフラ

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ミシシッピ州立しゅうりつ刑務所けいむしょ

ミシシッピしゅう矯正きょうせいしょうがサンフラワーぐん編入へんにゅう領域りょういきにあるミシシッピ州立しゅうりつ刑務所けいむしょ運営うんえいしている[14][15]雑誌ざっし「ガバニング」のジョン・バンティンは、ミシシッピ州立しゅうりつ刑務所けいむしょが「わたし故郷こきょうであるグリーンビルをふくめ、ミシシッピ・デルタにながあいだそのかげげかけてきた」とかたっていた[16]

人口じんこう動態どうたい

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1900ねんから1930ねん農園のうえんぬしはたけ労働ろうどうりょくとして中国人ちゅうごくじん移民いみん採用さいようしたが、もっと初期しょき中国人ちゅうごくじんは1870ねんにボリバーぐん記録きろくされていた。中国人ちゅうごくじん移民いみん大半たいはんはそのはたけはなれて、ちいさな田舎町いなかまち商人しょうにんになった。これらのまち斜陽しゃようになると、のデルタの住人じゅうにん同様どうように、都市とししゅううつってった[17]。その子孫しそんは、国勢調査こくせいちょうさのこされたアジアけい住民じゅうみん大半たいはんとなっている。おおくの中国人ちゅうごくじんがデルタをはなれた一方いっぽうで、その人口じんこうしゅうない増加ぞうかしてきた[18][19][20]

しゅうないのアフリカけいアメリカじん人口じんこうなかで、21世紀せいきには34%がデルタにんでおり、黒人こくじん構成こうせい比率ひりつ最大さいだいとなるしゅう議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょおお[21]。デルタのおおくは連邦れんぽう議会ぎかい下院かいんミシシッピしゅうだい2選挙せんきょふくまれ、2016ねん時点じてんでは民主みんしゅ党員とういんのベニー・トンプソン(アフリカけいアメリカじん)が議員ぎいんとなっている。

教育きょういく

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大学だいがく

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  • デルタ州立しゅうりつ大学だいがく
  • ミシシッピ・バレー州立しゅうりつ大学だいがく[21]

コミュニティカレッジ

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  • コアホマ・コミュニティカレッジ
  • ミシシッピ・デルタ・コミュニティカレッジ

初等しょとう中等ちゅうとう教育きょういく

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人種じんしゅ差別さべつがあった時代じだいに、公共こうきょう教育きょういく体系たいけいでは少数しょうすう民族みんぞくである中国人ちゅうごくじん子弟していをどのように分類ぶんるいすべきかからず、当初とうしょ黒人こくじんかよっている学校がっこう入学にゅうがくすることをもとめた。その社会しゃかい経済けいざいてきステータスが分類ぶんるいにも影響えいきょうし、かれらの両親りょうしん商人しょうにんになると法廷ほうていうったえて、特定とくてい地域ちいきでは子供こどもたちを白人はくじん学校がっこう入学にゅうがくさせることができた。そのの1960年代ねんだい後半こうはんには学校がっこう人種じんしゅ統合とうごうはじまった[17]

2005ねん時点じてんで、ミシシッピ・デルタにある公立こうりつ学校がっこう生徒せいと大半たいはん黒人こくじんであり、私立しりつ学校がっこう生徒せいと大半たいはん白人はくじんである。この「事実じじつじょう人種じんしゅ分離ぶんりは、まずしい地域ちいきむアフリカけいアメリカじんおやはその子供こどもたちを私立しりつ学校がっこうれるだけの入学にゅうがくきん授業じゅぎょうりょうはらえないという経済けいざいてき理由りゆう一部いちぶっている。雑誌ざっし「ジャーナル・オブ・ニグロ・エデュケーション」のスザンヌ・エックスは「国内こくない全体ぜんたい学校がっこうにおける『事実じじつじょう人種じんしゅ分離ぶんり存在そんざいするが、ミシシッピ・デルタに存在そんざいする『事実じじつじょう人種じんしゅ分離ぶんりは、いくらか特異とくいなものである」といている[22]

メディア

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デルタ北部ほくぶではテネシーしゅうメンフィスを本拠ほんきょとする新聞しんぶんの「コマーシャル・アピール」と「デイリー・ニューズ」が購読こうどくされ、またテレビやラジオもメンフィスのものが視聴しちょうされている。

交通こうつう

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アメリカ国道こくどう49号線ごうせんがミシシッピ・デルタを南北なんぼくつらぬいている

航空こうくう

  • トゥニカ市民しみん空港くうこう(トゥニカ)[23]
  • ミッドデルタ地域ちいき空港くうこう(グリーンビル)
  • グリーンウッド・レフロア空港くうこう(グリーンウッド)
  • クリーブランド市民しみん空港くうこう(クリーブランド)
  • インディアノーラ市民しみん空港くうこう(インディアノーラ)
  • ヤズーぐん空港くうこう(ヤズーシティ)
  • フレッチャー・フィールド空港くうこう(クラークスデール)
  • ルールビル・ドルー空港くうこう(ドルーとルールビル)

こう規格きかく道路どうろ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ James C. Cobb, The Most Southern Place on Earth: The Mississippi Delta and the Roots of Regional Identity (1992)
  2. ^ a b c [1]
  3. ^ a b c d e John C. Willis, Forgotten Time: The Yazoo-Mississippi Delta after the Civil War, Charlottesville: University of Virginia Press, 2000
  4. ^ Vintage / Anchor « Knopf Doubleday - Vintage / Anchor”. Randomhouse.com. 2012ねん7がつ7にち閲覧えつらん
  5. ^ Mississippi Delta's Economy, Way of Life Fading”. NPR. 2012ねん7がつ7にち閲覧えつらん
  6. ^ Preface”. Usccr.gov. 2012ねん7がつ7にち閲覧えつらん
  7. ^ Davis, Rise and Fall of the Confederate Government (1881), pp. 517-518
  8. ^ Davis (1881), Rise and Fall of the Confederate Government, pp. 160-161.
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん図書としょ

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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