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コンゴ動乱どうらん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンゴ動乱どうらん
冷戦れいせんなか
とき1960ねん7がつ5にち - 1965ねん11月25にち
場所ばしょコンゴ・レオポルドヴィル共和きょうわこく現在げんざいコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく
結果けっか コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくがわ勝利しょうり
こののち、32ねんおよモブツ・セセ・セコ独裁どくさいしたでの中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい強化きょうか
1960–63ねん:
コンゴ共和国(レオポルドヴィル)の旗 コンゴ共和きょうわこく
後援こうえん
国際連合の旗 国際こくさい連合れんごう
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
1960–63ねん:
カタンガ国の旗 カタンガこく
南カサイ国の旗 みなみカサイこく
後援こうえん
ベルギーの旗 ベルギー
1963–65ねん:
コンゴ共和国(レオポルドヴィル)の旗 コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく
後援こうえん
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ベルギーの旗 ベルギー
1963–65ねん:
シンバ反乱はんらんぐん
後援こうえん
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
 キューバ
指揮しきかん

ジョゼフ・カサブブ
パトリス・ルムンバ  
ダグ・ハマーショルド  
ウ・タント


ジョゼフ・カサブブ
ジョゼフ・モブツ
モイーズ・チョンベ

モイーズ・チョンベ
アルベール・カロンジ
ベルギーの旗 ガストン・エイスケンス
ベルギーの旗 テオ・ レフェーヴル


アントワーヌ・ギゼンガ


ピエール・ムレレ
クリストフ・グベニエ

コンゴ動乱どうらん(コンゴどうらん、フランス語ふらんすご: Crise congolaise1960ねん - 1965ねん)は、1960ねん6月30にちベルギーりょうコンゴコンゴ共和きょうわこく(コンゴ・レオポルドヴィル、現在げんざいコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく)として独立どくりつした直後ちょくご勃発ぼっぱつした反乱はんらんからはじまる混乱こんらんである。

1960ねん7がつ11にちに、きゅう宗主そうしゅこくベルギーから支援しえんされたモイーズ・チョンベは、この混乱こんらん拡大かくだいじょうじて南部なんぶカタンガしゅうカタンガこくとして分離ぶんり独立どくりつすることを宣言せんげんしたため、混乱こんらん収拾しゅうしゅうするためにアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくソビエト連邦れんぽう一致いっち[1]国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい決議けつぎ143採択さいたくされてコンゴ国連こくれんぐん投入とうにゅうされた。しかし、国際こくさい連合れんごうがカタンガへの介入かいにゅう消極しょうきょくてきであったことから、初代しょだい首相しゅしょうパトリス・ルムンバ支援しえんもとめてソ連それん急速きゅうそく接近せっきんし、これがアメリカりの初代しょだい大統領だいとうりょうジョゼフ・カサブブとの対立たいりつんだ。

他方たほうジョゼフ=デジレ・モブツは、1960ねん9がつ14にちに、政治せいじ状況じょうきょう打開だかい口実こうじつとして無血むけつクーデターこし、ルムンバは自宅じたく軟禁なんきんかれた。モブツによって、カタンガのチョンベのもとおくまれたルムンバは、1961ねん1がつ17にち処刑しょけいされた。また、1961ねん9月18にちには、カタンガがわとの仲介ちゅうかいこころみた国連こくれん事務じむ総長そうちょうダグ・ハマーショルドが、飛行機ひこうき墜落ついらく事故じこ死亡しぼうするという悲劇ひげき発生はっせいした。

ハマーショルド死後しご国連こくれんあたらしくえらばれた事務じむ総長そうちょうウ・タントした、カタンガに積極せっきょくてき介入かいにゅうする方針ほうしん転換てんかんし、べい双方そうほう支持しじけた(国際こくさい連合れんごう安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい決議けつぎ169)。1963ねん1がつ21にちに、コンゴ国連こくれんぐんがチョンベ最後さいご拠点きょてん制圧せいあつしたことで、カタンガの分離ぶんり活動かつどう沈静ちんせいかった。いで毛沢東もうたくとう主義しゅぎ感化かんかされて左傾さけいしたきゅうルムンバ一部いちぶが、シンバの反乱はんらん英語えいごばんこして、1964ねん7がつまつからコンゴ中部ちゅうぶおよ東部とうぶ急速きゅうそく勢力せいりょく拡大かくだいしたが、スタンリーヴィル監禁かんきんされた人質ひとじち救出きゅうしゅつする目的もくてきで、1964ねん11月24にちからアメリカとベルギーが合同ごうどう展開てんかいしたドラゴン・ルージュ作戦さくせんによって、シンバの反乱はんらんぐん勢力せいりょくだい打撃だげきけ、その直後ちょくご崩壊ほうかいした。

そのは、カサブブと、亡命ぼうめいさきから帰国きこくして暫定ざんてい首相しゅしょう就任しゅうにんしたチョンベとのあいだあらたな政治せいじてき対立たいりつまれたが、1965ねん11月25にちに、モブツが政治せいじ状況じょうきょう打開だかい口実こうじつとして度目どめ無血むけつクーデターをこして権力けんりょく掌握しょうあくし、独立どくりつ以来いらいつづいていた混乱こんらん事実じじつじょう終結しゅうけつした。このコンゴ動乱どうらんは、冷戦れいせん主導しゅどうしたアメリカとソ連それんによる代理だいり戦争せんそうでもあり、動乱どうらん期間きかんちゅうに、やく10まんにん殺害さつがいされたとられている[2]

背景はいけい

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ベルギーの植民しょくみん支配しはい

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レオポルド2せいが「コンゴ自由じゆうこく」を統治とうちしていた期間きかん片手かたてとされたコンゴの原住民げんじゅうみん
ベルギーりょうコンゴ現在げんざいコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく地図ちずじょう色付いろづけして表示ひょうじ

ベルギーによるコンゴの植民しょくみん英語えいごばんは19世紀せいき後半こうはんはじまった。国王こくおうレオポルド2せいはベルギーの国際こくさいてき地位ちい威信いしん欠如けつじょ不満ふまんかんじ、当時とうじはまだだい部分ぶぶん調査ちょうさのままであったコンゴ盆地ぼんち周辺しゅうへん植民しょくみん拡大かくだいさく支援しえんするようにベルギー政府せいふ説得せっとくしようとした。植民しょくみん拡大かくだい消極しょうきょくてきなベルギー政府せいふとのかんがえのズレは最終さいしゅうてきにレオポルド2せい自分じぶん自身じしん利益りえきのために植民しょくみん統治とうちする方向ほうこうへとみちびくことになった。1885ねん緩衝かんしょうこくになることを期待きたいした欧米おうべい諸国しょこくから支持しじけ、レオポルド2せいわたしりょうコンゴ自由じゆうこく」の成立せいりつ国際こくさいてきみとめられた[3]。しかしながら、自由じゆうこく政府せいふ当局とうきょくによるコンゴの先住民せんじゅうみんたいする暴力ぼうりょく冷酷れいこく搾取さくしゅ強烈きょうれつ外交がいこう圧力あつりょくむことになり、1908ねんにベルギー政府せいふ直轄ちょっかつ統治とうちするベルギーりょうコンゴ成立せいりつした[4]

ベルギー政府せいふによるコンゴの植民しょくみん支配しはい政府せいふキリスト教きりすときょう伝道でんどう活動かつどう民間みんかん企業きぎょうの「三位一体さんみいったい」を基準きじゅんとしていた[5]だい部分ぶぶん政府せいふ民間みんかん企業きぎょう利害りがい密接みっせつむすくことで、企業きぎょうストライキやぶりをしたり、その先住民せんじゅうみん支配しはいするための障壁しょうへきのぞくのを政府せいふ手助てだすけする状況じょうきょう形成けいせいした[5]徹底的てっていてき人種じんしゅ差別さべつおこなわれ、だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつしたのちには社会しゃかいてき地位ちいわず、多数たすう白人はくじん移民いみんがコンゴに移住いじゅうしたが、かれらはつね黒人こくじんよりすぐれた待遇たいぐうけることが出来でき[6]

1940年代ねんだいから1950年代ねんだいにかけて、コンゴはかつてないレベルの急速きゅうそく都市とし経験けいけんし、「理想りそうてき植民しょくみんづくりを目指めざして国際こくさいてき展開てんかいプログラムも実施じっしされるようになった[7]。1950年代ねんだいにはコンゴはのアフリカ植民しょくみん比較ひかくしてばい以上いじょう規模きぼ賃金ちんぎん労働ろうどうりょく保持ほじしていた[8]。コンゴのウランだい世界せかい大戦たいせんちゅうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく開発かいはつした核兵器かくへいき使用しようされたウランのおおくがコンゴさんだった)をふくめた豊富ほうふ天然てんねん資源しげん冷戦れいせん時代じだいはいり、だいちょう大国たいこくとなったアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくソビエト連邦れんぽう両国りょうこくがこの地域ちいきおおきな関心かんしんせる要因よういんにもなった[9]

政治せいじ活動かつどう活発かっぱつ

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ABAKO指導しどうしゃジョゼフ・カサブブ。コンゴ独立どくりつ国家こっか初代しょだい大統領だいとうりょう就任しゅうにんした

1950年代ねんだいはいり、ベルギーりょうコンゴにもパン・アフリカ主義しゅぎ普及ふきゅうした。独立どくりつ目指めざ運動うんどう民族みんぞくてき理由りゆう地理ちりてき理由りゆうからすうおおくの政党せいとう政治せいじグループが成立せいりつすることによって分断ぶんだんされ、たがいに対立たいりつった[10]最大さいだい政治せいじ団体だんたいであるコンゴ国民こくみん運動うんどう英語えいごばん(MNC)は様々さまざま政治せいじてき背景はいけい相違そういえて「妥当だとう時期じき」に独立どくりつ達成たっせいすることに専念せんねんする統一とういつ戦線せんせんんでいた[11]パトリス・ルムンバシリル・アドゥラジョゼフ・イレオ中心ちゅうしんになってとう綱領こうりょう作成さくせいしたが、ジョゼフ・カサブブ内容ないようがあまりにも穏健おんけんてきぎるとして非難ひなんし、署名しょめい拒否きょひした[12]とう実力じつりょくしゃとなったルムンバは1959ねんわりには58,000にんのメンバーをかかえていたと主張しゅちょうした[13]

MNCの最大さいだいのライバルとなったジョゼフ・カサブブひきいるアバコとう英語えいごばん(ABAKO)は即時そくじ独立どくりつ地域ちいきへのアイデンティティー促進そくしん根底こんていとして、MNCより急進きゅうしんてき思想しそう主張しゅちょうしていた[14]。ABAKOはMNCよりも民族みんぞく主義しゅぎてき立場たちばっていた。独立どくりつしたコンゴは植民しょくみん時代じだい以前いぜん存在そんざいしていたコンゴ王国おうこく後継こうけいとしてコンゴぞくによって統治とうちされるべきという主張しゅちょうであった[15]

モイーズ・チョンベひきいるコナカとう英語えいごばん(CONAKAT)はだいさん主要しゅよう政治せいじ団体だんたいであった。おもカタンガしゅう南部なんぶ利害りがい代表だいひょうし、連邦れんぽう主義しゅぎ提唱ていしょうしていた。このほかにもアフリカ連帯れんたいとう英語えいごばん(PSA)のような社会しゃかい主義しゅぎ民族みんぞく主義しゅぎ政党せいとうや、少数しょうすう民族みんぞく集団しゅうだん利害りがい代表だいひょうする派閥はばつなども結成けっせいされた[16]

MNCは当時とうじのアフリカで最大さいだい民族みんぞく主義しゅぎ政党せいとうであったが、おおくの問題もんだいことなる立場たちば様々さまざま派閥はばつかかえていた。このために穏健おんけん急進きゅうしん分化ぶんか進行しんこうした[17]。ジョゼフ・イレオとアルベール・カロンジ英語えいごばんひきいる党内とうない急進きゅうしん1959ねん7がつとうから分離ぶんりするが、MNC党員とういん大量たいりょう離党りとうさせて自分じぶんたち陣営じんえいれることが出来できなかった。だい多数たすうはMNC-ルムンバ(MNC-L)、これらのはん体制たいせい急進きゅうしんはMNC-カロンジ (MNC-K)というふうばれるようになった。ルムンバおもスタンリーヴィル地域ちいき北東ほくとう人気にんき保持ほじつづけた一方いっぽう、カロンジエリザベートヴィルよりみなみ都市とし中心ちゅうしんとして、ルバぞくあいだ最大さいだい人気にんき獲得かくとくした[18]

1959ねん1がつ4にち、コンゴの首都しゅとレオポルドヴィルおこなわれていた政治せいじてきデモ活動かつどう暴力ぼうりょくてきになり、暴動ぼうどう発展はってんした。国家こっか憲兵けんぺいコンゴ公安こうあんぐん暴徒ぼうとたいして武力ぶりょく使用しようした。すくなくとも49にん死亡しぼうし、そう死傷ししょうしゃすうが500にんえていた可能かのうせいもあるとられている[19]民族みんぞく主義しゅぎ政党せいとう影響えいきょうりょくがこのときはじめて主要しゅよう都市としそと波及はきゅうし、これ以降いこうの1年間ねんかん民族みんぞく主義しゅぎてきなデモや暴動ぼうどう頻発ひんぱつするようになり、それまで関与かんよしていなかっただい多数たすう黒人こくじん独立どくりつ運動うんどう参加さんかするようになった。おおくの黒人こくじん税金ぜいきん支払しはらいや軽微けいび植民しょくみん規制きせい遵守じゅんしゅ拒否きょひすることによって植民しょくみん体制たいせい限界げんかいためすようになった。ABAKOの指導しどうしゃおおくが逮捕たいほされ、MNCの影響えいきょうりょく以前いぜんよりもつよまった[20]

こうしたうごきを警戒けいかいして白人はくじん社会しゃかいあいだ過激かげき思想しそうひろまった。一部いちぶ白人はくじん黒人こくじん過半数かはんすうめる政権せいけん成立せいりつした場合ばあいには、クーデター実行じっこうすることを計画けいかくした[19]白人はくじん民間みんかんじんは「欧州おうしゅうボランティアたい」のられる民兵みんぺい組織そしき形成けいせいし、ほう秩序ちつじょ崩壊ほうかいはじめた。白人はくじん民兵みんぺい頻繁ひんぱん黒人こくじん襲撃しゅうげきした[21]

独立どくりつけて

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1960ねん1がつブリュッセル開催かいさいされた円卓えんたく会議かいぎ出席しゅっせきしたパトリス・ルムンバ。コンゴ独立どくりつ国家こっか初代しょだい首相しゅしょう就任しゅうにんした

レオポルドヴィルの暴動ぼうどう影響えいきょうとして、そのとし作成さくせいされたコンゴの将来しょうらいかんするベルギー議会ぎかい審議しんぎかい報告ほうこくしょなかでは「内部ないぶ自治じち」の需要じゅようたかまりが指摘してきされた[13]植民しょくみん大臣だいじんオーガスト・デ・スフライファー英語えいごばん1960ねん1がつにコンゴのすべての主要しゅよう政党せいとう指導しどうしゃをベルギーの首都しゅとブリュッセル一同いちどうあつめて円卓えんたく会議かいぎ英語えいごばん開催かいさいした[22]。スタンリーヴィルでこった暴動ぼうどうのち逮捕たいほされたパトリス・ルムンバは会議かいぎ出席しゅっせきするために釈放しゃくほうされ、MNC-Lの代表だいひょうだんひきいた[23]。ベルギー政府せいふがわ独立どくりつまですくなくとも30ねん準備じゅんび期間きかんくことを希望きぼうしていたが、コンゴがわ圧力あつりょくくっした結果けっか独立どくりつを1960ねん6月30にち設定せっていすることが急遽きゅうきょ決定けっていした[22]連邦れんぽうせいふく民族みんぞくてき帰属きぞく問題もんだいや、コンゴにたいするベルギーの今後こんご役割やくわりなどについては代表だいひょうだん合意ごういたっせず、解決かいけつのままのこされた[24]

おおくのベルギーじんが、独立どくりつしたコンゴがフランス共同きょうどうたいイギリス連邦れんぽうのような国家こっか連合れんごう一部いちぶとなることで、ベルギー本国ほんごくとの政治せいじてきにも経済けいざいてきにも緊密きんみつ関係かんけい継続けいぞくさせることを希望きぼうしていた[25]独立どくりつせまった1960ねん5がつにベルギー政府せいふベルギーりょうコンゴの国政こくせい選挙せんきょ英語えいごばん実施じっしした。選挙せんきょではMNCがだい多数たすう議席ぎせき獲得かくとくした[23]

1960ねん6がつ30にち予定よていどおりにコンゴ共和きょうわこく独立どくりつ植民しょくみん支配しはいわりが宣言せんげんされた。レオポルドヴィルで挙行きょこうされた独立どくりつ式典しきてんにおいて、ベルギー国王こくおうボードゥアンおこなった挨拶あいさつわたし領地りょうちとしてコンゴ自由じゆうこく創設そうせつして人道的じんどうてき暴虐ぼうぎゃく統治とうちおこない、非難ひなんされたかれ祖父そふ叔父おじたるレオポルド2せいを「天才てんさい」とび、コンゴの独立どくりつをベルギーによる「文明ぶんめい集大成しゅうたいせい」と表現ひょうげんしたうえ、「(ベルギーがのこしたしょ制度せいどの)性急せいきゅう変更へんこう将来しょうらいあやうくする」と忠告ちゅうこくまでした[26][27]つづいて演説えんぜつおこなったカサブブは独立どくりつ承認しょうにんしてくれたベルギーにたいしての感謝かんしゃ表明ひょうめいしたが、その演説えんぜつおこなったルムンバはベルギーによる植民しょくみん支配しはいを「屈辱くつじょくてき奴隷どれいせい」として徹底的てっていてき糾弾きゅうだんし、独立どくりつった自分じぶんたち闘争とうそう絶賛ぜっさんして観衆かんしゅうから喝采かっさいびた[26][28][29]。このルムンバの演説えんぜつ憤慨ふんがいしたボードゥアンは昼食ちゅうしょくかいには参加さんかしたものの、予定よてい変更へんこうして急遽きゅうきょ帰国きこくについた[26]マルコム・Xのようにルムンバの演説えんぜつ称賛しょうさんするものもいたが、すうにんのコンゴの政治せいじ演説えんぜつ必要ひつよう以上いじょう挑発ちょうはつてきであったとの見解けんかいしめし、国際こくさい問題もんだいこした[30]。そうした状況じょうきょうにもかかわらず、コンゴ全土ぜんど祝賀しゅくがムードにいた[31]

コンゴのしん政府せいふはん大統領だいとうりょうせい採用さいようし、大統領だいとうりょう首相しゅしょう行政ぎょうせいけん共有きょうゆうすることになった[32]初代しょだい大統領だいとうりょうにはジョゼフ・カサブブ、初代しょだい首相しゅしょうにはパトリス・ルムンバが就任しゅうにんした[33]。CONAKATなどの連邦れんぽう主義しゅぎ反対はんたいしたにもかかわらず、レオポルドヴィルの中央ちゅうおう政府せいふには強力きょうりょく権限けんげん付与ふよされ、しゅう政府せいふ権限けんげん比較的ひかくてきよわかった[34]。なお、1ヶ月かげつはん成立せいりつした西にし隣接りんせつする同名どうめいコンゴ共和きょうわこくコンゴ・ブラザヴィル)とはコンゴ・レオポルドヴィル首都しゅとめいしめすことで区別くべつした[35]

動乱どうらん勃発ぼっぱつ

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公安こうあんぐん反乱はんらんとベルギーぐん介入かいにゅう

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独立どくりつ宣言せんげんはしたものの、ベルギー政府せいふもコンゴ政府せいふ植民しょくみん時代じだい社会しゃかい秩序ちつじょぐに変更へんこうするつもりはかった。ベルギー政府せいふ白人はくじん永久えいきゅうにその地位ちい保持ほじつづけられるかもしれないと期待きたいした[34]。コンゴ共和きょうわこく植民しょくみん時代じだい制度せいど依存いぞんしていた。白人はくじん指揮しきかれた公安こうあんぐんや、白人はくじん技術ぎじゅつ専門せんもんわり適切てきせつ資格しかく取得しゅとくした黒人こくじん不在ふざい状況じょうきょうわらないままであった[34]だい多数たすうのコンゴじん独立どくりつ有形ゆうけいかつ即時そくじ社会しゃかい変化へんかをもたらすことを想定そうていしていたために、相変あいかわらず重要じゅうようたか地位ちいおおくが白人はくじんによって独占どくせんされている現状げんじょう憤慨ふんがいした[36]公安こうあんぐん最高さいこう司令しれいかんつとめる中将ちゅうじょうエミール・ジャンセン英語えいごばん独立どくりつ式典しきてん翌日よくじつにレオポルドヴィルに駐屯ちゅうとんする黒人こくじん下士官かしかん連中れんちゅうあつめて、自分じぶん指揮しきでは現在げんざい状態じょうたい今後こんご維持いじされるであろうとべて黒板こくばんに「独立どくりつまえ独立どくりつ」とむことで要点ようてんをまとめたが、これは独立どくりつ賃金ちんぎん大幅おおはば上昇じょうしょう期待きたいしていた黒人こくじん兵士へいしたちからは非常ひじょう不評ふひょうであった[36]7がつ5にちにはチスヴィル近郊きんこういくつかの部隊ぶたい白人はくじん指揮しきかんたいして反乱はんらん開始かいしした。これ以降いこう暴動ぼうどう全国ぜんこく駐屯ちゅうとん急速きゅうそく波及はきゅうしていった[37]

ルムンバは騒動そうどう鎮静ちんせいさせるためにジャンセンを解任かいにんし、コンゴ公安こうあんぐん名称めいしょうコンゴ国民こくみんぐん(ANC)に変更へんこうした。黒人こくじん兵士へいしたち全員ぜんいんすくなくとも1ランクは昇進しょうしんした[38]ビクター・ルンドラ英語えいごばん曹長そうちょうから少将しょうしょう昇進しょうしんし、ジャンセンにわるあらたな司令しれいかん就任しゅうにんした[37]同時どうじに、ジョゼフ=デジレ・モブツ参謀さんぼうちょう就任しゅうにんし、ルンドラの副官ふっかんかつルムンバの側近そっきんという役割やくわりになうことになった[39]。ルムンバとカサブブは反乱はんらんしゃ直接ちょくせつ交渉こうしょうして武器ぶきてるようかれらを説得せっとくしようとしたが、くにだい部分ぶぶん反乱はんらん激化げきかしていった。白人はくじん兵士へいし民間みんかんじん暴行ぼうこうけ、白人はくじん所有しょゆうする財産ざいさん略奪りゃくだつされ、白人はくじん女性じょせい陵辱りょうじょくされた[37]白人はくじん民間みんかんじん難民なんみんとして近隣きんりん諸国しょこく流出りゅうしゅつするようになると、ベルギー政府せいふ情勢じょうせいふか憂慮ゆうりょするようになった[40]

7がつ9にちにベルギーはコンゴ政府せいふ許可きょかずにカバロ空挺くうてい部隊ぶたい配備はいびし、まど白人はくじん民間みんかんじん保護ほごした[41]10日とおかにはベルギー政府せいふは10,000にん兵士へいしのコンゴへの投入とうにゅう決断けつだんし、輸送ゆそう開始かいしされた[42]許可きょかないこの武力ぶりょく介入かいにゅう国家こっか主権しゅけん侵害しんがいたる行為こういであった[35]。カサブブがベルギーぐん介入かいにゅうれたのと対照たいしょうてき[40]、ルムンバは介入かいにゅう非難ひなんして「我々われわれ共和きょうわこく脅威きょうい」をふせぐために団結だんけつするようにすべてのコンゴじんけた[41]。ルムンバの要請ようせいおうじて11にちベルギー海軍かいぐん港湾こうわん都市としマタディから白人はくじん民間みんかんじん避難ひなんさせた。ベルギーのふねはその市内しない砲撃ほうげきし、すくなくとも19にん民間みんかんじん死亡しぼうした。この行動こうどう全国ぜんこく白人はくじんたいするあらたな攻撃こうげきこす原因げんいんになり、都市としない町内ちょうない侵入しんにゅうしたベルギーぐんとコンゴぐんあいだでレオポルドヴィルもふくめて衝突しょうとつ発生はっせいした[40]

カタンガこくみなみカサイこく分離ぶんり独立どくりつ

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1960ねん7がつ11にち分離ぶんり独立どくりつしたカタンガこく国旗こっき
1960ねん8がつ8にち分離ぶんり独立どくりつしたみなみカサイ鉱山こうざんこく国旗こっき

1960ねん7がつ11にちには、CONAKATの指導しどうしゃモイーズ・チョンベは南部なんぶのカタンガしゅう首都しゅとをエリザベートヴィルにき、かれ自身じしん初代しょだい大統領だいとうりょう就任しゅうにんするカタンガこくとしてコンゴ共和きょうわこくから独立どくりつすることを宣言せんげんした[43]豊富ほうふ資源しげんゆうするカタンガ地域ちいき近接きんせつするどう世界せかいてき産地さんちきたローデシア現在げんざいザンビア)のカッパーベルト伝統でんとうてき緊密きんみつ経済けいざい関係かんけいにあった[43]。CONAKATはさらに、カタンガの人々ひとびとのコンゴじんとは民族みんぞくてきことなっていると主張しゅちょうした。しゅう採掘さいくつ作業さぎょうによってられた収益しゅうえきをコンゴのほか地域ちいき共有きょうゆうすることをけ、よりおお保有ほゆうするためのカタンガ住民じゅうみん分離ぶんり独立どくりつ欲求よっきゅうたかさが離脱りだつ動機どうきひとつであった[44]。もうひとつのおおきな要因よういんはコンゴの中部ちゅうぶおよび北東ほくとうにおける治安ちあん崩壊ほうかいである。カタンガの分離ぶんり独立どくりつ発表はっぴょうしたチョンベは「我々われわれ混沌こんとんから脱出だっしゅつしている」とべた[45]

カタンガの大手おおて鉱山こうざん会社かいしゃユニオン・ミニエール・デュ・オー・カタンガ(UMHK)はMNCが独立どくりつ会社かいしゃ資産しさん国有こくゆうするのではいかと警戒けいかいし、ベルギーによる植民しょくみん支配しはい終了しゅうりょうする以前いぜんからCONAKATにたいする支援しえん開始かいししていた。UMHKはベルギー政府せいふ密接みっせつ関係かんけいち、ブリュッセルに本社ほんしゃ有名ゆうめい持株もちかぶ会社かいしゃソシエテ・ジェネラル・デ・ベルギー英語えいごばんおも所有しょゆうしていた。UMHKに力付ちからづけられたベルギー政府せいふはカタンガこく軍事ぐんじてき支援しえん提供ていきょうし、この地域ちいきのこ文官ぶんかん任務にんむ継続けいぞくするようにめいじた[46]。チョンベもみなみアフリカ連邦れんぽうローデシアからもふくまれる、おも白人はくじんからなる傭兵ようへいあつめに着手ちゃくしゅし、カタンガ憲兵けんぺいたい組織そしきした[47]。ベルギーから支援しえんけていたが、分離ぶんり期間きかんとおしてどのくにからも正式せいしき外交がいこうじょう承認しょうにんけられなかった[48]

カタンガが分離ぶんりしてから1ヶ月かげつたない8がつ8にちに、カタンガからわずかにきた位置いちし、ムブジマイ首都しゅとみなみカサイ鉱山こうざんこくがコンゴ中央ちゅうおう政府せいふからの独立どくりつ宣言せんげんした[46]みなみカサイはカタンガよりはるかにちいさな領域りょういきであったが、カタンガと同様どうよう採掘さいくつ地域ちいきでもあった。ルバぞく住民じゅうみん多数たすうめる地域ちいきであり、みなみカサイ大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたアルベール・カロンジはコンゴのほか地域ちいきにおけるルバぞくたいする迫害はくがい分離ぶんり発端ほったんになったと主張しゅちょうした[46]みなみカサイのしん政府せいふ特権とっけんあたえることで、フォルミニエール英語えいごばんなどの鉱山こうざん会社かいしゃから経済けいざいてき支援しえんした[46]

他国たこく介入かいにゅう国連こくれんぐん介入かいにゅう

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1961ねん11月。カタンガに展開てんかいするコンゴ国連こくれんぐんのスウェーデンじん部隊ぶたい

ベルギーの支援しえん影響えいきょうされた分離ぶんり主義しゅぎたかまりにより、国際こくさい連合れんごう(UN、国連こくれん内部ないぶにコンゴからベルギーのすべての兵力へいりょく撤収てっしゅうさせようとするうごきがてきた。国連こくれん事務じむ総長そうちょうダグ・ハマーショルド国連こくれん指揮しきかれ、国籍こくせき構成こうせいされる国連こくれん平和へいわ維持いじぐんをコンゴへ派遣はけんするために主導しゅどうてき役割やくわりたした[49]。ルムンバからの要請ようせいけた国連こくれん安全あんぜん保障ほしょう理事りじかいは7がつ14にちに、ベルギーぐんのコンゴからの撤退てったい要求ようきゅうする国連こくれん安保理あんぽり決議けつぎだい143ごう採択さいたくした[50][51]

ルムンバとコンゴ中央ちゅうおう政府せいふ分離ぶんり主義しゅぎ活動かつどう抑制よくせいするのに役立やくだつかもしれないとかんがえ、コンゴ国連こくれんぐん(ONUC)の到着とうちゃく当初とうしょ歓迎かんげいした[52]。しかしながら、ONUCが最初さいしょまかされた活動かつどう平和へいわ維持いじのみであった。ハマーショルドは分離ぶんり主義しゅぎ活動かつどう国内こくない政治せいじ問題もんだい位置付いちづけており、これに反対はんたいするのは中立ちゅうりつせいうしなわれることになり、主権しゅけん侵害しんがい相当そうとうするとていた。そのために、かれ国連こくれん国連こくれん憲章けんしょうもとづいてコンゴぐん支援しえん可能かのうにする措置そちることを拒否きょひした。国連こくれん消極しょうきょくてきなカタンガ政策せいさく失望しつぼうしたルムンバはソ連それん武器ぶき物流ぶつりゅうおよ物質ぶっしつてき支援しえん提供ていきょうかんする合意ごうい成立せいりつさせた。やく1,000にんソ連それん軍事ぐんじ顧問こもんぐにコンゴに上陸じょうりくした[53]ソ連それん介入かいにゅう危険きけんするカサブブら政府せいふ関係かんけいしゃがルムンバから距離きょりはじめた。アメリカはアフリカ中部ちゅうぶ地域ちいきにおける共産きょうさん主義しゅぎだい拡張かくちょう土台どだいがコンゴに形成けいせいされることをおそれていた[53]

ソ連それん軍事ぐんじてき支援しえんやく2,000にん国民こくみんぐんみなみカサイにたいするだい攻勢こうせい開始かいしした[54]攻撃こうげきだい成果せいかたものの、その過程かていにおいて、国民こくみんぐんはルバぞくルルアぞく英語えいごばん民族みんぞくあいだ内紛ないふんまれてしまい、そのさいにルバぞく民間みんかんじん大量たいりょう虐殺ぎゃくさつしてしまった[54]やく3,000にん殺害さつがいされてしまった[55]戦火せんかからのがれるようになんせんにんものルバぞく民間みんかんじんがこの地域ちいきから脱出だっしゅつした[56]

ソ連それん関与かんよにアメリカは警戒けいかいした。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうドワイト・D・アイゼンハワーはベルギーの批判ひはんそくして、ルムンバが共産きょうさん主義しゅぎしゃであり、コンゴはソ連それんにとって戦略せんりゃくじょう重要じゅうよう従属じゅうぞくこくになるみちすすんでいるとかんがえていた。1960ねん8がつには、領域りょういきない潜伏せんぷくする中央ちゅうおう情報じょうほうきょく(CIA)のスパイもコンゴがキューバ革命かくめい経験けいけんしてソ連それんとのむすきを強化きょうかしているキューバおなじようなみち辿たどるかもしれないと警告けいこくした[57]

1960ねん7がつ22にちフランス・ソワール英語えいごばんかみのインタビューにおうじたルムンバは、かれ共産きょうさん主義しゅぎしゃであると批判ひはんけていることについて回答かいとうしている。「これはわたしけたプロパガンダもとづく策略さくりゃくだ。わたし共産きょうさん主義しゅぎしゃではない。わたし革命かくめいであり、わたしたち人間にんげん尊厳そんげん無視むしした植民しょくみん体制たいせい廃止はいしもとめてきたために、植民しょくみん主義しゅぎしゃ全国ぜんこくつうじてわたしたいする運動うんどう展開てんかいしてきた。わたし帝国ていこく主義しゅぎしゃによって買収ばいしゅうされることを拒否きょひしたことで、かれらはわたし共産きょうさん主義しゅぎしゃなしているのだろう」とべている[58]

政治せいじてき分裂ぶんれつ

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中央ちゅうおう政府せいふ分裂ぶんれつとモブツの最初さいしょのクーデター

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ルムンバがソ連それん支援しえん要請ようせいした結果けっか政府せいふない分裂ぶんれつしてしまい、西側にしがわ諸国しょこくかれ権力けんりょくからのぞくように圧力あつりょくつよめることにもつながった。くわえて、モイーズ・チョンベとアルベール・カロンジの両方りょうほうがカサブブがルムンバの中央ちゅうおう集権しゅうけん主義しゅぎ反対はんたいする穏健おんけん主義しゅぎしゃかつ連邦れんぽう主義しゅぎしゃであるとかんがえて、離脱りだつ問題もんだい解決かいけつするためにかれ対話たいわけた[59]。その一方いっぽうで、モブツは他国たこくからの援助えんじょ獲得かくとくし、特定とくてい部隊ぶたいいん将校しょうこう昇級しょうきゅうさせることでかれらからの忠誠ちゅうせい確保かくほして国民こくみんぐん支配しはいけん掌握しょうあくした[39]

アメリカにうながされるかたちでカサブブは1960ねん9がつ5にちみなみカサイにおける虐殺ぎゃくさつ口実こうじつとして、一方いっぽうてきにルムンバの首相しゅしょうしょく解任かいにん全国ぜんこくラジオをつうじて発表はっぴょうした[59]。ハマーショルドの側近そっきんでアメリカじんのONUC臨時りんじ代表だいひょうアンドリュー・コーディア英語えいごばん自分じぶんあたえられた権限けんげん活用かつようし、ニュースに反応はんのうしたMNC-Lが団結だんけつして行動こうどうこすことを阻止そしするためにラジオきょく封鎖ふうさ指揮しきした[60]りょう議院ぎいんはルムンバを支持しじし、カサブブを非難ひなんした。議会ぎかいから信任しんにんたルムンバは対抗たいこうしてカサブブを大統領だいとうりょうしょくから解任かいにんしようとしたが、憲政けんせいじょう危機きき英語えいごばん誘発ゆうはつすることになることになるこの行為こういについては反対はんたいされ、無効むこうとなった[59]。9月14にちにはジョゼフ=デジレ・モブツが混迷こんめいした政治せいじ状況じょうきょう打開だかい表向おもてむきの理由りゆうとして無血むけつクーデターを実行じっこうした。カサブブがルムンバの後任こうにんとして任命にんめいしたイレオの政府せいふとそれに対抗たいこうするルムンバの政府せいふ、このりょう政府せいふ無効むこう宣言せんげんし、そのわりにジャスティン・ボンボコひきいる大学だいがく卒業そつぎょうしゃ現役げんえき大学生だいがくせいからなる「委員いいんかい内閣ないかく」を設立せつりつして政治せいじ権力けんりょく掌握しょうあくした[61][62]ソ連それん軍事ぐんじ顧問こもん国外こくがい退去たいきょめいじられた[63]混乱こんらん収拾しゅうしゅうさい優先ゆうせんかんがえるカサブブはモブツとみ、官邸かんていうち軟禁なんきんされてONUCのガーナじん部隊ぶたいらによって警護けいごされる状態じょうたいとなったルムンバはモブツと委員いいんかい内閣ないかくはげしく糾弾きゅうだんして敵対てきたいした[64]1961ねん2がつにカサブブはモブツによって大統領だいとうりょうさい任命にんめいされた。クーデターをこして以降いこうのモブツはかげ実力じつりょくしゃとしてコンゴの政治せいじ多大ただい影響えいきょうりょくおよぼすことが出来できるようになった[63][65]

カサブブの復職ふくしょく以降いこう、コンゴのかく勢力せいりょくあいだ和解わかいけたうごきが進展しんてんした。チョンベはコンゴの国家こっか連合れんごう形成けいせいしてカタンガの分離ぶんり状態じょうたい終結しゅうけつさせるための交渉こうしょう開始かいしした。あゆりの合意ごういたっしたものの、カサブブとチョンベがおたがいに個人こじんてき敵意てきいいたために交渉こうしょう決裂けつれつし、この合意ごうい無効むこうになってしまった[66]。1961ねん7がつ和解わかい交渉こうしょう失敗しっぱいしたのち、ルムンバ支持しじしゃみなみカサイからもふくめて様々さまざま勢力せいりょく結集けっしゅうしたシリル・アドゥラを首班しゅはんとするしん政府せいふ形成けいせいされたが、カタンガこく政府せいふとの和解わかいはもたらさなかった[66]

スタンリーヴィルに逃亡とうぼうしたアントワーヌ・ギゼンガひきいるMNC-Lの反乱はんらんぐんメンバーは1960ねん11月にレオポルドヴィルの中央ちゅうおう政府せいふ対抗たいこうして反乱はんらんぐん政府せいふ形成けいせいした[66][67]。ギゼンガ政府せいふソ連それん中国ちゅうごくふくめていくつかの国々くにぐににコンゴの公式こうしき政府せいふとして承認しょうにんされ、中央ちゅうおう政府せいふの7,000にんたいしておよそ5,500にん兵士へいし動員どういんすることが出来でき[68]。その正当せいとうせい国連こくれんから拒否きょひされるという難局なんきょく直面ちょくめんしたギゼンガ政府せいふは1962ねん1がつ代表だいひょうしゃのギゼンガが逮捕たいほされたのち崩壊ほうかいした[69]

ルムンバの殺害さつがい

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1961ねん2がつユーゴスラビアマリボル発生はっせいしたルムンバの殺害さつがい非難ひなんする抗議こうぎ活動かつどう

ルムンバは軟禁なんきんから脱出だっしゅつして、自分じぶん支持しじする勢力せいりょく結集けっしゅう出来できるとしんじてひがしのスタンリーヴィルにけて逃亡とうぼうした。モブツに忠実ちゅうじつ部隊ぶたいによって追跡ついせきされたルムンバは1960ねん12月1にちポルフランキー逮捕たいほされ、なわしばげられた状態じょうたいでレオポルドヴィルにもどされた[70]国連こくれんはカサブブにほう適正てきせい手続てつづもとづいてルムンバをさばくようにもとめたが、ソ連それんはルムンバが逮捕たいほされた責任せきにん国連こくれんにあるとしてかれ釈放しゃくほう要求ようきゅうした。12月7にち国連こくれんがルムンバの即時そくじ解放かいほう国家こっかちょうへのルムンバの復職ふくしょく、そしてモブツのぐん武装ぶそう解除かいじょをカサブブ政府せいふ要求ようきゅうすべきとするソ連それん提案ていあんについて議論ぎろんするために、国連こくれん安全あんぜん保障ほしょう理事りじかい会合かいごう開催かいさいされた。ルムンバを支持しじするこの決議けつぎあんは12月14にち採決さいけつされたが、2-8で否決ひけつされた。監禁かんきん状態じょうたいつづくルムンバは拷問ごうもんけてティスヴィル輸送ゆそうされた。その、ルムンバの処遇しょぐうなやんだモブツはかれ身柄みがらをカタンガにおくみ、チョンベに忠実ちゅうじつ部隊ぶたいらせた[71]

パトリス・ルムンバは1961ねん1がつ17にちにエリザベートヴィル近郊きんこうでカタンガ憲兵けんぺいたいによって処刑しょけいされた[72]。4にんのベルギーの将校しょうこうほかにチョンベとカタンガこく政府せいふほか2人ふたり閣僚かくりょう現場げんばい、政府せいふ当局とうきょく指揮しき処刑しょけい実行じっこうされた。拷問ごうもんけたルムンバとかれ支持しじするしん政府せいふ2人ふたり閣僚かくりょう、モーリス・ムポロとジョセフ・オキトはけていちれつならべられ、一人ひとりずつ一発いっぱつ射殺しゃさつされた。後年こうねんあきらかになったベルギーの報告ほうこくしょによると、殺害さつがいはおそらく2140ふんから2143ふんごろあいだ実行じっこうされた[73]

ルムンバ殺害さつがいのニュースは2がつ13にち公表こうひょうされ、この人道的じんどうてき行為こういたいするいかりが世界せかい各地かくちこった[74]ユーゴスラビアベオグラード市内しないにあるベルギーの大使館たいしかん抗議こうぎしゃによって襲撃しゅうげきされ、ロンドンニューヨークでも暴力ぼうりょくてき抗議こうぎ活動かつどう発生はっせいした[75][76]

国連こくれんぐん攻勢こうせいとカタンガこく消滅しょうめつ

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1961ねんのコンゴの地図ちずあお地域ちいきがカサブブ政府せいふあか地域ちいきがギゼンガ政府せいふみどり地域ちいきがカタンガこく黄色おうしょく地域ちいきがカサイこく

1960ねん7がつ14にち採択さいたくされたコンゴ情勢じょうせいかんする最初さいしょ安保理あんぽり決議けつぎのち国連こくれんは7がつ22にち国連こくれん安保理あんぽり決議けつぎだい145ごう採択さいたくしてだい143ごう迅速じんそく履行りこうせまった[77]。8月9にち採択さいたくした国連こくれん安保理あんぽり決議けつぎだい146ごうではカタンガの存在そんざいについてはじめて言及げんきゅうしてだい143ごう履行りこうせまったが、同時どうじにONUCはいかなる紛争ふんそう解決かいけつにも介入かいにゅうしてはならないという項目こうもく追加ついかされた[78]。1961ねんには、ONUCは2まんにんちかくの兵士へいし編成へんせいされていた[79]かれらはカタンガ憲兵けんぺいたい協力きょうりょくする外国がいこくじん傭兵ようへい逮捕たいほ出来でき権限けんげんっていた。1961ねん9がつには武力ぶりょく行使こうしせずにカタンガの傭兵ようへい部隊ぶたい拘留こうりゅうするためのこころみ「モーソー作戦さくせん」が展開てんかいされたが失敗しっぱいし、銃撃じゅうげきせんになった[80]。ONUCが主張しゅちょうするどちらのがわにもかたよらないという公平こうへいせいは9がつ中旬ちゅうじゅんジャドヴィルにおいて、ONUCのアイルランドじん部隊ぶたいへいすうまさるカタンガ憲兵けんぺいたいと6日間にちかんおよジャドヴィルの包囲ほういせん英語えいごばんひろげたすえ敗北はいぼくしてらえられたことでそこなわれた。カタンガは国連こくれん活動かつどうとその支持しじしゃ屈辱くつじょくあたえる戦争せんそう捕虜ほりょとしてアイルランドへい拘留こうりゅうつづけた[81]

1961ねん9月18にちには、ハマーショルドはONUCとカタンガ憲兵けんぺいたいとの停戦ていせん協議きょうぎするためにコンゴとの国境こっきょうちかくにあるきたローデシアの都市としンドラんだ。しかし、かれ搭乗とうじょうしていた航空機こうくうきンドラ空港くうこう着陸ちゃくりくしようとする手前てまえなぞ墜落ついらく事故じここしてしまい、ハマーショルドをふくめて搭乗とうじょうしゃ全員ぜんいん死亡しぼうした(1961ねん国連こくれんチャーター墜落ついらく事故じこ)[82]事件じけん状況じょうきょうはまだあきらかになっていないが、最近さいきんになってカタンガへいによって飛行機ひこうき撃墜げきついされたという証言しょうげんや、イギリス撃墜げきつい関与かんよしていたことを示唆しさするいくつかの証拠しょうこ浮上ふじょうしている[83][84]

コンゴにたいして穏健おんけん政策せいさく追求ついきゅうしたハマーショルドとは対照たいしょうてきに、かれ後任こうにんウ・タントはコンゴの紛争ふんそう積極せっきょくてき介入かいにゅうする、より急進きゅうしんてき政策せいさく支持しじした[82]。カタンガはONUCがぐん撤退てったいさせることに同意どういした停戦ていせん協定きょうてい一環いっかんとして、10がつ中旬ちゅうじゅん捕虜ほりょとしていたアイルランドへい釈放しゃくほうした[81]国連こくれんのカタンガ政策せいさくたいするアメリカのジョン・F・ケネディしん政権せいけん全面ぜんめんてき支持しじ表明ひょうめいや1961ねん11月にギゼンガ政府せいふ支配しはいにあったポールタンパン発生はっせいしたONUCに参加さんかしたイタリア空軍くうぐんパイロット13にん殺害さつがいされたキンドゥの虐殺ぎゃくさつ英語えいごばんのち、コンゴの分離ぶんり活動かつどう解決かいけつかわせようとする国際こくさいてき需要じゅようたかまった[82]。「共産きょうさん主義しゅぎしゃ」となしていたルムンバの失脚しっきゃくやアメリカの庇護ひごした中央ちゅうおう政府せいふにシリル・アドゥラ政権せいけん樹立じゅりつされた結果けっか、「反共はんきょうとりで」を自認じにんするチョンベにたいしてアメリカが好意こういてきせっする必要ひつようせいうすれた[85][86]なにせんにんもの民間みんかんじん虐殺ぎゃくさつされた国民こくみんぐんによる4ヶ月かげつおよ軍事ぐんじ作戦さくせん結果けっか、1961ねん12月30にちにカロンジは逮捕たいほされ、みなみカサイこく消滅しょうめつした[87]

1961ねん2がつ21にち採択さいたくされた国連こくれん安保理あんぽり決議けつぎだい161ごう悪化あっかする人権じんけん状況じょうきょう対処たいしょして本格ほんかくてき内戦ないせん勃発ぼっぱつ防止ぼうしするために、ONUCの部隊ぶたい武力ぶりょく行使こうしふくむあらゆる措置そちこうじることをみとめたものであった[88]同年どうねん11がつ24にちにアメリカとソ連それん一致いっちして採択さいたくされた国連こくれん安保理あんぽり決議けつぎだい169ごうはカタンガが独立どくりつ国家こっかであるとのいいぶんを「完全かんぜん拒絶きょぜつ」して、「ほう秩序ちつじょ回復かいふく維持いじにおいてコンゴ中央ちゅうおう政府せいふ支援しえん」するために、ONUCの部隊ぶたいにあらゆる措置そちこうじることをみとめるという、よりんだ内容ないようになっている[89]。カタンガは挑発ちょうはつ行為こういをエスカレートさせ、ONUCはこれにたいしてカタンガ憲兵けんぺいたいきずいたバリケード解体かいたいし、戦略せんりゃくじょう重要じゅうようなエリザベートヴィル周辺しゅうへん地域ちいき奪取だっしゅすることを目的もくてきとした「ウノカト作戦さくせん」を開始かいしした。国際こくさいてき圧力あつりょく直面ちょくめんしたチョンベは1962ねん12月に中央ちゅうおう政府せいふ権威けんいれ、カタンガこく憲法けんぽう放棄ほうきとカタンガ地域ちいき分離ぶんり独立どくりつ要求ようきゅう放棄ほうきすることに原則げんそくてき同意どういするキトナ協定きょうてい署名しょめいした[90]。しかし、宣言せんげんのちにカタンガ憲兵けんぺいたいはONUCにたいするいやがらせをしつづけてチョンベとアドゥラのはないはまりにたっした。カタンガこくたいする支援しえん減少げんしょうし、最大さいだい支援しえんこくであったベルギーですら支援しえんをためらうようになっていき、この国家こっかさきがもうながくないことが予感よかんされた[82]

1962ねん12月24にちには、ONUCとカタンガ憲兵けんぺいたいがエリザベートヴィル近郊きんこう衝突しょうとつし、戦闘せんとう勃発ぼっぱつした。停戦ていせん交渉こうしょうおこなわれたが失敗しっぱいわり、ONUCはエリザベートヴィルを占領せんりょうした直後ちょくご停戦ていせん合意ごうい成立せいりつした。ONUCのインドじん部隊ぶたい命令めいれいそむ行動こうどうこしてジャドヴィルを占領せんりょうし、カタンガこく支持しじしゃさい編成へんせい未然みぜん阻止そしした[91]。ONUCはカタンガのほか地域ちいき徐々じょじょ制圧せいあつし、1963ねん1がつ21にちにチョンベが最後さいご拠点きょてんとしていたコルヴェジわたしたことでカタンガこく事実じじつじょう消滅しょうめつした[91]

政治せいじてき和解わかい失敗しっぱい

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カタンガの分離ぶんり状態じょうたい終結しゅうけつしたのち派閥はばつ政治せいじてききを模索もさくはじめた[32]。この交渉こうしょうおなじくしてコンゴ・ブラザヴィルにのがれたはん体制たいせいのルムンバ主義しゅぎしゃによる亡命ぼうめい政治せいじ団体だんたい、コンゴ解放かいほう委員いいんかい(CNL)が結成けっせいされた[92]起草きそうされた都市としルルアブールであったことからルルアブール憲法けんぽう英語えいごばんられるあらたな改正かいせい憲法けんぽうによって勢力せいりょく均衡きんこうこされ、妥協だきょう機運きうん最高潮さいこうちょうたっした[32]しん憲法けんぽう大統領だいとうりょう権限けんげん強化きょうかして大統領だいとうりょう首相しゅしょう共同きょうどう協議きょうぎ体制たいせい終了しゅうりょうさせ、自主じしゅせいたかめながらしゅうかずをそれまでの6から21までにやすことで連邦れんぽう主義しゅぎしゃなだめた[32][93]。また、しん憲法けんぽうによって国名こくめいはコンゴ共和きょうわこくからコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく改称かいしょうされた[32]。この憲法けんぽう1964ねん6月25にちから7がつ10日とおかあいだ実施じっしされた国民こくみん投票とうひょうによって可決かけつされ、8がつ1にち公布こうふされた[94]。カサブブは亡命ぼうめいカタンガじん勢力せいりょく指導しどうしゃであるチョンベを暫定ざんてい首相しゅしょう任命にんめいした[95]。チョンベは有能ゆうのう人物じんぶつられ、西側にしがわ諸国しょこくからは反共はんきょうとりでとして支持しじされていたものの、モロッコ国王こくおうハッサン2せいのアフリカ諸国しょこく指導しどうしゃからはカタンガの分離ぶんり独立どくりつさいかれ中心ちゅうしんてき役割やくわりたしたことで「帝国ていこく主義しゅぎ傀儡かいらい」と非難ひなんされた[96]

クウィルとシンバの反乱はんらん

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反乱はんらん勃発ぼっぱつ

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1964ねんのコンゴの地図ちずあお地域ちいきがカサブブ/モブト政府せいふあか地域ちいきがシンバの反乱はんらんぐん勢力せいりょく制圧せいあつした領土りょうど黄色おうしょく地域ちいきがクウィルの反乱はんらんぐん勢力せいりょく制圧せいあつした領土りょうど

なが政治せいじ危機ききによって中央ちゅうおう政府せいふたいする幻滅げんめつひろまった。首都しゅとでは政争せいそう蔓延はびこって不安定ふあんてい状況じょうきょうつづき、泥棒どろぼう政治せいじからの「だい独立どくりつ」の需要じゅようたかまった[97]。「だい独立どくりつ」のスローガンはかつてルムンバないかく教育きょういく大臣だいじんつとめたピエール・ムレレ英語えいごばん毛沢東もうたくとう思想しそうかかげるコンゴの革命かくめいによって提唱ていしょうされた。コンゴの政情せいじょう不安ふあん反乱はんらん拡大かくだい助長じょちょうしてしまった[98]

コンゴの農村のうそん混乱こんらんはムレレにひきいられたルムンバ支持しじしゃによって扇動せんどうされたキンブンドぞくペンデぞく英語えいごばんこした[97][99]。1963ねんまつにはコンゴの中部ちゅうぶ東部とうぶ地域ちいき混乱こんらん状態じょうたいとなった。1964ねん1がつ16にちにはクウィルしゅう都市としイディオファ英語えいごばんグング英語えいごばんにおいてクウィルの反乱はんらん勃発ぼっぱつした[100]暴動ぼうどう混乱こんらんキヴしゅうさらにはアルベールヴィルにまでひろがり、コンゴのほか地域ちいきにも暴動ぼうどうしてしまい、ついにはよりだい規模きぼシンバの反乱はんらん英語えいごばん勃発ぼっぱつした[100][101]はん政府せいふ勢力せいりょくは7がつから8がつにかけて保有ほゆうする領土りょうど拡大かくだいするために北方ほっぽうけて急激きゅうげきいきおいで進撃しんげきおこない、この期間きかんにポールタンパン、スタンリーヴィル、パウリスリサラ一挙いっきょ制圧せいあつした[100]

シンバ」(スワヒリライオン意味いみする)というられたはん政府せいふ勢力せいりょく大衆たいしゅうてきであるが、平等びょうどう優先ゆうせんして全体ぜんたいてき裕福ゆうふく社会しゃかい実現じつげん目指めざゆるやかな社会しゃかい主義しゅぎてき傾向けいこうもとづいた、漠然ばくぜんとしたイデオロギーっていた[102]活動かつどうしていた革命かくめいおおくが反乱はんらん政府せいふあたえてくれなかった好機こうき提供ていきょうしてくれると期待きたいしたわか男性だんせいであった[103]。シンバは新入しんにゅう隊員たいいん魔術まじゅつをかけたとおしえ、規範きはんしたがうことで弾丸だんがんけてもななくなるとしんじさせた[104]。シンバはん政府せいふ勢力せいりょく敵対てきたいしゃをこのからるために制圧せいあつした領土りょうどない多数たすう残虐ざんぎゃく殺害さつがいおかし、人々ひとびと恐怖きょうふおとしいれた[105]

シンバはん政府せいふ勢力せいりょくクリストフ・グベニエ英語えいごばん大統領だいとうりょうとしてスタンリーヴィルに首都しゅとしん国家こっか、コンゴ人民じんみん共和きょうわこく建国けんこくした。しん国家こっかソ連それん中国ちゅうごくから軍事ぐんじ援助えんじょけ、タンザニア筆頭ひっとうとする様々さまざまなアフリカ諸国しょこくからも支援しえんされた[106]。キューバも戦術せんじゅつ教義きょうぎについてシンバに助言じょげんする目的もくてきチェ・ゲバラひきいる100にん以上いじょう顧問こもんだん派遣はけんして支援しえんしていた[106]。シンバの反乱はんらん激化げきかしていくのとほぼどう時期じきトンキンわん事件じけん発生はっせいし、アメリカぐんベトナムへの本格ほんかくてき介入かいにゅうみちひらかれた[107]

ベルギーぐんとアメリカぐん介入かいにゅうによる鎮圧ちんあつ

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1964ねん11月24にちドラゴン・ルージュ作戦さくせん展開てんかいするためにスタンリーヴィル飛行場ひこうじょうったベルギーのパラシュート部隊ぶたい

1964ねん8がつまつからシンバはん政府せいふ勢力せいりょく後退こうたい開始かいしした。アルベールヴィルとリサラは8がつ下旬げじゅんと9がつ上旬じょうじゅん国民こくみんぐん奪還だっかんした[108]。モブツとんだチョンベはシンバをきらう、かつてはカタンガの分離ぶんり主義しゅぎ活動かつどう貢献こうけんしたもと傭兵ようへい連中れんちゅうもどした[109]マイク・ホアー通称つうしょうマッド・マイク)が指揮しきし、中部ちゅうぶアフリカ南部なんぶアフリカ出身しゅっしん白人はくじん編成へんせいされた傭兵ようへい部隊ぶたいだい5コマンドー部隊ぶたいられている[110]だい5コマンドー部隊ぶたい国民こくみんぐん陣頭じんとう指揮しき担当たんとうしたが、広範囲こうはんいおよ許可きょかされていない殺害さつがい拷問ごうもん略奪りゃくだつ行為こうい反乱はんらんぐんから奪還だっかんした地域ちいきにおける大量たいりょう強姦ごうかんおこなっていたことから悪名あくめいたかかった[111]。ホアーですら記者きしゃ会見かいけんなかで、部下ぶかについて「ゾッとするような凶悪きょうあくはん」と言及げんきゅうしたほどであった[112]。その傭兵ようへい部隊ぶたいにはボブ・ディナールひきいるだい6コマンドー部隊ぶたいジャン・シュラムひきいるだい10コマンドー部隊ぶたいなどがあった[113]。これらの傭兵ようへい部隊ぶたいはCIAからも物質ぶっしつてき援助えんじょけていた[114]

1964ねん11月には敗北はいぼくおそれたシンバはん政府せいふ勢力せいりょく支配しはい地域ちいき白人はくじん住民じゅうみんらえてスタンリーヴィルに連行れんこうした。国民こくみんぐんとの取引とりひき材料ざいりょうとしてスタンリーヴィルの中心ちゅうしんにあるヴィクトリアホテルに白人はくじん人質ひとじちあつめられた。人質ひとじち解放かいほうするためにベルギーのパラシュート部隊ぶたいとアメリカの輸送ゆそうのコンゴへの投入とうにゅう決定けっていした。11月24にちにはドラゴン・ルージュ作戦さくせん一環いっかんとして、ベルギーのパラシュート部隊ぶたいがスタンリーヴィルに上陸じょうりくし、人質ひとじち即座そくざ救出きゅうしゅつされた[115]わせてやく70にん人質ひとじちやく1,000にんのコンゴの民間みんかんじん殺害さつがいされたが、大半たいはん避難ひなん成功せいこうした[116]。ベルギーぐん人質ひとじち解放かいほうする命令めいれいのみをけていたが、シンバはん政府せいふ勢力せいりょくはこの作戦さくせんまえまちそと逃亡とうぼうしてしまい、東部とうぶ暴動ぼうどう一段落いちだんらくむかえた[115]。パラシュート部隊ぶたい民間みんかんじんはそのにベルギーに帰国きこくした。介入かいにゅう余波よはとして、しん植民しょくみん主義しゅぎもとづく行為こういであるとしてベルギーそのものが公的こうてき非難ひなんされた[117]

シンバ反乱はんらんぐん勢力せいりょく抵抗ていこうとく東部とうぶみなみキヴしゅうはげしく、ローラン=デジレ・カビラ毛沢東もうたくとう主義しゅぎかかげて1980年代ねんだいまでこの反乱はんらん主導しゅどうした[118]

モブツの度目どめのクーデター

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1965ねん3がつ実施じっしされたそう選挙せんきょ英語えいごばんではモイーズ・チョンベが全国ぜんこくてき政党せいとう発展はってんさせたコンゴ国民こくみん公会こうかい英語えいごばん(CONACO)とその同盟どうめい政党せいとう大勝たいしょうした[119][120]。シンバはん政府せいふ勢力せいりょく衰退すいたいによって傭兵ようへい軍事ぐんじりょく必要ひつようとしなくなり、次期じき大統領だいとうりょう選挙せんきょ最大さいだいのライバルとして危険きけんしたカサブブはチョンベを首相しゅしょうから解任かいにんした。いでカサブブははんチョンベの筆頭ひっとうであるエヴァリスト・キンバあらたな首相しゅしょう任命にんめいしたが、チョンベ支持しじ多数たすうめる議会ぎかい1965ねん11月14にちにキンバの任命にんめい批准ひじゅん拒否きょひした。カサブブもゆずらずにあらためてキンバがしん首相しゅしょうであることを宣言せんげんし、本格ほんかくてき政争せいそう発展はってんした[120]政府せいふ機能きのう麻痺まひ状態じょうたいになり、11月25にちにモブツはまたしても混迷こんめいした政治せいじ状況じょうきょう打開だかいすることを表向おもてむきな理由りゆうとして度目どめ無血むけつクーデターを実行じっこうし、完全かんぜん権力けんりょく掌握しょうあくした[120]

モブツは5年間ねんかん事実じじつじょう非常ひじょう事態じたい宣言せんげんしたでほぼ絶対ぜったいてき権力けんりょく行使こうしし、それからのちにはコンゴに民主みんしゅ主義しゅぎ回復かいふくされることになるという将来しょうらい構想こうそうかたった[121]経済けいざいてき安定あんてい政治せいじてき安定あんてい両方りょうほう約束やくそくしたモブツのクーデターはアメリカおよびその西側にしがわ諸国しょこくから支持しじされていた。最初さいしょのうちは、かれ統治とうち幅広はばひろそうからの人気にんき獲得かくとくした[121]かれ1966ねん首相しゅしょうしょく廃止はいししてよく1967ねんには議会ぎかい解散かいさんし、着実ちゃくじつにその権限けんげん奪取だっしゅした[121]

動乱どうらん終結しゅうけつのコンゴ

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モブツ独裁どくさい体制たいせい確立かくりつ

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1973ねん8がつ12にち。オランダのリッペ=ビーステルフェルトこうベルンハルトおうはいとザイール大統領だいとうりょうモブツ・セセ・セコ

独裁どくさいしゃとしての地位ちい確立かくりつしたモブツは1965ねん手始てはじめにしゅうかず削減さくげんしてその独立どくりつした立法りっぽうけんおおくを廃止はいしして地方ちほう自立じりつせいよわめ、中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい強化きょうかした[122]着実ちゃくじつ重要じゅうようたか役職やくしょくかれ支持しじしゃかためた[121]。1967ねんにモブツは自己じこ正当せいとうせいしめすために、かれ制定せいていしたしん憲法けんぽう1990ねんまで国家こっか唯一ゆいいつ合法ごうほう政党せいとうとして存在そんざいすることになる、革命かくめい人民じんみん運動うんどう(MPR)を結成けっせいした。1971ねんには国名こくめいザイール改称かいしょうして植民しょくみん時代じだい名残なごりを完全かんぜんのぞくための「ザイール政策せいさく英語えいごばん」を推進すいしんした。UMHKの後身こうしん企業きぎょうであるジェカミン英語えいごばんふくめて全国ぜんこく外資がいしけい経済けいざい資産しさん国有こくゆうした[123]。1980年代ねんだい以降いこうのモブツ政権せいけん失政しっせい腐敗ふはい代名詞だいめいしとなっていた[124][125]

コンゴ動乱どうらん終結しゅうけつすう年間ねんかんで、モブツはかれ独裁どくさいおびやかす可能かのうせいのあるおおくの反対はんたい勢力せいりょく主要しゅよう人物じんぶつ排除はいじょすることに成功せいこうした。反逆はんぎゃくざいわれたかつてのカタンガ分離ぶんり独立どくりつ運動うんどう指導しどうしゃモイーズ・チョンベは1965ねんだい亡命ぼうめい生活せいかつ開始かいしした[126]。1966ねんから1967ねんにかけてにわたり、モブツ政権せいけんでの待遇たいぐう不満ふまんかんじるやく800にんのカタンガ憲兵けんぺいたいやかつてチョンベにしたがっていたもと外人がいじん傭兵ようへい部隊ぶたい関与かんよしたキサンガニの反乱はんらん英語えいごばん勃発ぼっぱつした[127]反乱はんらん最終さいしゅうてき鎮圧ちんあつされた。1967ねんにチョンベは欠席けっせき裁判さいばん死刑しけい宣告せんこくされ、同年どうねん搭乗とうじょうしていた飛行機ひこうきハイジャックされ、アルジェリア監禁かんきんされた。1969ねんかれ自然しぜん原因げんいんによるものとされているが、そのにモブツ政権せいけん関与かんよしたという憶測おくそく国民こくみんあいだにもながれた[126]。かつてのシンバはん政府せいふ勢力せいりょく幹部かんぶピエール・ムレレはモブツから恩赦おんしゃ約束やくそくされ、亡命ぼうめい生活せいかつえてコンゴに帰国きこくしたが、この約束やくそく反故ほごにされ、拷問ごうもんされたのち殺害さつがいされた[128]

モブツの失脚しっきゃく以降いこう

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動乱どうらんあいだはんモブツの反乱はんらんひきいたローラン=デジレ・カビラは1997ねん5月16にちはん政府せいふ勢力せいりょく指導しどうしゃとしてモブツ独裁どくさい政権せいけん打倒だとう成功せいこうしたが[129]2001ねん1がつ16にちかれ護衛ごえいによって暗殺あんさつされた[130]かれ息子むすこジョゼフ・カビラ後継こうけいのコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく大統領だいとうりょう就任しゅうにん[131]2011ねん11月に再選さいせんされた[132]

統一とういつルムンバ主義しゅぎとう英語えいごばん(PALU)をひきいるきゅうルムンバのアントワーヌ・ギゼンガはそう選挙せんきょにジョゼフ・カビラの支持しじまわり、2006ねん11月から2008ねん9がつまで首相しゅしょうつとめた[133][134]

歴史れきし論争ろんそう

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コンゴ動乱どうらんにおいてはとりわけ、アメリカや西にしヨーロッパ諸国しょこく介入かいにゅうしたさいになった役割やくわりについて論争ろんそうがあり、学者がくしゃたち各国かっこく政府せいふゆがみを非難ひなんしている[135]。ベルギー政府せいふ実施じっしした2年間ねんかんおよぶパトリス・ルムンバの殺害さつがい真相しんそうかんする調査ちょうさにより、CIAに後援こうえんされるベルギーの将校しょうこうらが関与かんよせずに殺害さつがい実行じっこうするのはほぼ不可能ふかのうであったことが判明はんめいした。2002ねん2がつ5にちベルギーの外相がいしょう英語えいごばんルイス・ミシェル英語えいごばんは41ねんまえのルムンバの殺害さつがいかんしてベルギーの「道義どうぎてき責任せきにん」をみとめて公式こうしき謝罪しゃざいし、賠償金ばいしょうきんわりとしてルムンバ基金ききん設立せつりつすると発表はっぴょうした[136]。アメリカでは、国務省こくむしょう出版しゅっぱんした『アメリカ外交がいこう文書ぶんしょシリーズ』がコンゴ動乱どうらんやモブツの権力けんりょく掌握しょうあくへのアメリカの関与かんよについてわざと誤解ごかいまねくような内容ないようになっていると学者がくしゃたちによって批判ひはんされた[135]

国際こくさいてき重要じゅうようせい

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コンゴ動乱どうらん勃発ぼっぱつ以降いこうあらたに独立どくりつしたアフリカ諸国しょこくはかつての宗主そうしゅこくとの関係かんけい構築こうちくについて様々さまざま態度たいどしめした。穏健おんけんりのフランス語ふらんすごけんのアフリカ諸国しょこくはフランスとの関係かんけい維持いじするためにブラザビル・グループ英語えいごばん形成けいせいし、急進きゅうしんてきなアフリカ諸国しょこくパン・アフリカ主義しゅぎもとづいた連合れんごうもとめてカサブランカ・グループ英語えいごばん形成けいせいした[137]みなみローデシア少数しょうすう白人はくじん多数たすう黒人こくじん支配しはいする政治せいじ体制たいせい変更へんこうゆずらずに、イギリスとの交渉こうしょうなん決裂けつれつしたのち一方いっぽうてき独立どくりつ宣言せんげんした(ローデシアの一方いっぽうてき独立どくりつ宣言せんげん英語えいごばん[138]

1965ねんから1979ねんまでおこなわれたチャド内戦ないせん英語えいごばんでは、チャド民族みんぞく解放かいほう戦線せんせん英語えいごばん(FROLINAT)がフランソワ・トンバルバイ政権せいけんによる南部なんぶ優遇ゆうぐうさく明白めいはく拒否きょひして「チャドにはカタンガは存在そんざいしない」という公式こうしき声明せいめい発表はっぴょうした[139]。1967ねんから1970ねんまでおこなわれたビアフラ戦争せんそうではきた民族みんぞく集団しゅうだん利益りえき特権とっけんされていて自分じぶんたち差別さべつされていると主張しゅちょうするイボぞくナイジェリアから分離ぶんりして独立どくりつ国家こっか形成けいせいした。このビアフラ共和きょうわこくとカタンガこく分離ぶんり主義しゅぎ活動かつどう学術がくじゅつ論文ろんぶん頻繁ひんぱん比較ひかくされてきた[140]。ビアフラはカタンガとはことなり、かぎられた国々くにぐにから外交がいこうじょう承認しょうにんけることに成功せいこうし、地元じもと石油せきゆ企業きぎょう関与かんよしている西側にしがわ諸国しょこくからの支援しえん拒否きょひした。ビアフラ共和きょうわこくは1970ねん敗北はいぼくし、ナイジェリアにさい統合とうごうされた[141]

脚注きゃくちゅう

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関連かんれん項目こうもく

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