コンゴ動乱 どうらん (コンゴどうらん、フランス語 ふらんすご : Crise congolaise 、1960年 ねん - 1965年 ねん )は、1960年 ねん 6月30日 にち にベルギー領 りょう コンゴ がコンゴ共和 きょうわ 国 こく (コンゴ・レオポルドヴィル、現在 げんざい のコンゴ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく )として独立 どくりつ した直後 ちょくご に勃発 ぼっぱつ した反乱 はんらん から始 はじ まる混乱 こんらん である。
1960年 ねん 7月 がつ 11日 にち に、旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく のベルギー から支援 しえん されたモイーズ・チョンベ は、この混乱 こんらん の拡大 かくだい に乗 じょう じて南部 なんぶ カタンガ州 しゅう がカタンガ国 こく として分離 ぶんり 独立 どくりつ することを宣言 せんげん したため、混乱 こんらん を収拾 しゅうしゅう するためにアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とソビエト連邦 れんぽう の一致 いっち [ 1] で国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい 決議 けつぎ 143 が採択 さいたく されてコンゴ国連 こくれん 軍 ぐん が投入 とうにゅう された。しかし、国際 こくさい 連合 れんごう がカタンガへの介入 かいにゅう に消極 しょうきょく 的 てき であったことから、初代 しょだい 首相 しゅしょう パトリス・ルムンバ は支援 しえん を求 もと めてソ連 それん に急速 きゅうそく に接近 せっきん し、これがアメリカ寄 よ りの初代 しょだい 大統領 だいとうりょう ジョゼフ・カサブブ との対立 たいりつ を生 う んだ。
他方 たほう 、ジョゼフ=デジレ・モブツ は、1960年 ねん 9月 がつ 14日 にち に、政治 せいじ 状況 じょうきょう の打開 だかい を口実 こうじつ として無血 むけつ クーデター を起 お こし、ルムンバは自宅 じたく 軟禁 なんきん 下 か に置 お かれた。モブツによって、カタンガのチョンベの元 もと に送 おく り込 こ まれたルムンバは、1961年 ねん 1月 がつ 17日 にち に処刑 しょけい された。また、1961年 ねん 9月18日 にち には、カタンガ側 がわ との仲介 ちゅうかい を試 こころ みた国連 こくれん 事務 じむ 総長 そうちょう ダグ・ハマーショルド が、飛行機 ひこうき 墜落 ついらく 事故 じこ で死亡 しぼう するという悲劇 ひげき も発生 はっせい した。
ハマーショルド死後 しご の国連 こくれん は新 あたら しく選 えら ばれた事務 じむ 総長 そうちょう ウ・タント の下 した 、カタンガに積極 せっきょく 的 てき に介入 かいにゅう する方針 ほうしん に転換 てんかん し、米 べい ソ双方 そうほう の支持 しじ を取 と り付 つ けた(国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい 決議 けつぎ 169 )。1963年 ねん 1月 がつ 21日 にち に、コンゴ国連 こくれん 軍 ぐん がチョンベ派 は の最後 さいご の拠点 きょてん を制圧 せいあつ したことで、カタンガの分離 ぶんり 活動 かつどう は沈静 ちんせい 化 か に向 む かった。次 つ いで毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ に感化 かんか されて左傾 さけい 化 か した旧 きゅう ルムンバ派 は の一部 いちぶ が、シンバの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) を引 ひ き起 お こして、1964年 ねん 7月 がつ 末 まつ からコンゴ中部 ちゅうぶ 及 およ び東部 とうぶ で急速 きゅうそく に勢力 せいりょく を拡大 かくだい したが、スタンリーヴィル に監禁 かんきん された人質 ひとじち を救出 きゅうしゅつ する目的 もくてき で、1964年 ねん 11月24日 にち からアメリカとベルギーが合同 ごうどう で展開 てんかい したドラゴン・ルージュ作戦 さくせん によって、シンバの反乱 はんらん 軍 ぐん 勢力 せいりょく は大 だい 打撃 だげき を受 う け、その直後 ちょくご に崩壊 ほうかい した。
その後 ご は、カサブブと、亡命 ぼうめい 先 さき から帰国 きこく して暫定 ざんてい 首相 しゅしょう に就任 しゅうにん したチョンベとの間 あいだ で新 あら たな政治 せいじ 的 てき 対立 たいりつ が生 う まれたが、1965年 ねん 11月25日 にち に、モブツが政治 せいじ 状況 じょうきょう の打開 だかい を口実 こうじつ として二 に 度目 どめ の無血 むけつ クーデターを起 お こして権力 けんりょく を掌握 しょうあく し、独立 どくりつ 以来 いらい 続 つづ いていた混乱 こんらん は事実 じじつ 上 じょう 終結 しゅうけつ した。このコンゴ動乱 どうらん は、冷戦 れいせん を主導 しゅどう したアメリカとソ連 それん による代理 だいり 戦争 せんそう でもあり、動乱 どうらん の期間 きかん 中 ちゅう に、約 やく 10万 まん 人 にん が殺害 さつがい されたと見 み られている[ 2] 。
レオポルド2世 せい が「コンゴ自由 じゆう 国 こく 」を統治 とうち していた期間 きかん に片手 かたて を切 き り落 お とされたコンゴの原住民 げんじゅうみん
ベルギー領 りょう コンゴ 、現在 げんざい のコンゴ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく を地図 ちず 上 じょう で色付 いろづ けして表示 ひょうじ
ベルギーによるコンゴの植民 しょくみん 地 ち 化 か (英語 えいご 版 ばん ) は19世紀 せいき 後半 こうはん に始 はじ まった。国王 こくおう レオポルド2世 せい はベルギーの国際 こくさい 的 てき な地位 ちい と威信 いしん の欠如 けつじょ に不満 ふまん を感 かん じ、当時 とうじ はまだ大 だい 部分 ぶぶん が未 み 調査 ちょうさ のままであったコンゴ盆地 ぼんち 周辺 しゅうへん の植民 しょくみん 地 ち 拡大 かくだい 策 さく を支援 しえん するようにベルギー政府 せいふ を説得 せっとく しようとした。植民 しょくみん 地 ち 拡大 かくだい に消極 しょうきょく 的 てき なベルギー政府 せいふ との考 かんが えのズレは最終 さいしゅう 的 てき にレオポルド2世 せい が自分 じぶん 自身 じしん の利益 りえき のために植民 しょくみん 地 ち を統治 とうち する方向 ほうこう へと導 みちび くことになった。1885年 ねん に緩衝 かんしょう 国 こく になることを期待 きたい した欧米 おうべい 諸国 しょこく から支持 しじ を受 う け、レオポルド2世 せい の私 わたし 領 りょう 「コンゴ自由 じゆう 国 こく 」の成立 せいりつ が国際 こくさい 的 てき に認 みと められた[ 3] 。しかしながら、自由 じゆう 国 こく 政府 せいふ 当局 とうきょく によるコンゴの先住民 せんじゅうみん に対 たい する暴力 ぼうりょく や冷酷 れいこく な搾取 さくしゅ は強烈 きょうれつ な外交 がいこう 圧力 あつりょく を生 う むことになり、1908年 ねん にベルギー政府 せいふ が直轄 ちょっかつ で統治 とうち するベルギー領 りょう コンゴ が成立 せいりつ した[ 4] 。
ベルギー政府 せいふ によるコンゴの植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい は政府 せいふ ・キリスト教 きりすときょう の伝道 でんどう 活動 かつどう ・民間 みんかん 企業 きぎょう の「三位一体 さんみいったい 」を基準 きじゅん としていた[ 5] 。大 だい 部分 ぶぶん で政府 せいふ と民間 みんかん 企業 きぎょう の利害 りがい が密接 みっせつ に結 むす び付 つ くことで、企業 きぎょう がストライキ 破 やぶ りをしたり、その他 た の先住民 せんじゅうみん を支配 しはい するための障壁 しょうへき を取 と り除 のぞ くのを政府 せいふ が手助 てだす けする状況 じょうきょう を形成 けいせい した[ 5] 。徹底的 てっていてき な人種 じんしゅ 差別 さべつ が行 おこな われ、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終結 しゅうけつ した後 のち には社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい を問 と わず、多数 たすう の白人 はくじん の移民 いみん がコンゴに移住 いじゅう したが、彼 かれ らは常 つね に黒人 こくじん より優 すぐ れた待遇 たいぐう を受 う けることが出来 でき た[ 6] 。
1940年代 ねんだい から1950年代 ねんだい にかけて、コンゴはかつてないレベルの急速 きゅうそく な都市 とし 化 か を経験 けいけん し、「理想 りそう 的 てき な植民 しょくみん 地 ち 」作 づく りを目指 めざ して国際 こくさい 的 てき 展開 てんかい プログラムも実施 じっし されるようになった[ 7] 。1950年代 ねんだい にはコンゴは他 た のアフリカ植民 しょくみん 地 ち と比較 ひかく して倍 ばい 以上 いじょう の規模 きぼ の賃金 ちんぎん 労働 ろうどう 力 りょく を保持 ほじ していた[ 8] 。コンゴのウラン (第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が開発 かいはつ した核兵器 かくへいき に使用 しよう されたウランの多 おお くがコンゴ産 さん だった)を含 ふく めた豊富 ほうふ な天然 てんねん 資源 しげん は冷戦 れいせん 時代 じだい に入 はい り、二 に 大 だい 超 ちょう 大国 たいこく となったアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とソビエト連邦 れんぽう の両国 りょうこく がこの地域 ちいき に大 おお きな関心 かんしん を寄 よ せる要因 よういん にもなった[ 9] 。
ABAKO指導 しどう 者 しゃ ジョゼフ・カサブブ 。コンゴ独立 どくりつ 国家 こっか の初代 しょだい 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した
1950年代 ねんだい に入 はい り、ベルギー領 りょう コンゴにもパン・アフリカ主義 しゅぎ が普及 ふきゅう した。独立 どくりつ を目指 めざ す運動 うんどう は民族 みんぞく 的 てき な理由 りゆう や地理 ちり 的 てき な理由 りゆう から数 すう 多 おお くの政党 せいとう や政治 せいじ グループが成立 せいりつ することによって分断 ぶんだん され、互 たが いに対立 たいりつ し合 あ った[ 10] 。最大 さいだい の政治 せいじ 団体 だんたい であるコンゴ国民 こくみん 運動 うんどう (英語 えいご 版 ばん ) (MNC)は様々 さまざま な政治 せいじ 的 てき 背景 はいけい の相違 そうい を乗 の り越 こ えて「妥当 だとう な時期 じき 」に独立 どくりつ を達成 たっせい することに専念 せんねん する統一 とういつ 戦線 せんせん を組 く んでいた[ 11] 。パトリス・ルムンバ 、シリル・アドゥラ 、ジョゼフ・イレオ が中心 ちゅうしん になって党 とう の綱領 こうりょう を作成 さくせい したが、ジョゼフ・カサブブ は内容 ないよう があまりにも穏健 おんけん 的 てき 過 す ぎるとして非難 ひなん し、署名 しょめい を拒否 きょひ した[ 12] 。党 とう の実力 じつりょく 者 しゃ となったルムンバは1959年 ねん 終 お わりには58,000人 にん のメンバーを抱 かか えていたと主張 しゅちょう した[ 13] 。
MNCの最大 さいだい のライバルとなったジョゼフ・カサブブ率 ひき いるアバコ党 とう (英語 えいご 版 ばん ) (ABAKO)は即時 そくじ 独立 どくりつ と地域 ちいき へのアイデンティティー の促進 そくしん を根底 こんてい として、MNCより急進 きゅうしん 的 てき な思想 しそう を主張 しゅちょう していた[ 14] 。ABAKOはMNCよりも民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき な立場 たちば を取 と っていた。独立 どくりつ したコンゴは植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい 以前 いぜん に存在 そんざい していたコンゴ王国 おうこく の後継 こうけい としてコンゴ族 ぞく によって統治 とうち されるべきという主張 しゅちょう であった[ 15] 。
モイーズ・チョンベ 率 ひき いるコナカ党 とう (英語 えいご 版 ばん ) (CONAKAT)は第 だい 三 さん の主要 しゅよう 政治 せいじ 団体 だんたい であった。主 おも にカタンガ州 しゅう 南部 なんぶ の利害 りがい を代表 だいひょう し、連邦 れんぽう 主義 しゅぎ を提唱 ていしょう していた。この他 ほか にもアフリカ連帯 れんたい 党 とう (英語 えいご 版 ばん ) (PSA)のような社会 しゃかい 主義 しゅぎ の民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政党 せいとう や、少数 しょうすう 派 は 民族 みんぞく 集団 しゅうだん の利害 りがい を代表 だいひょう する派閥 はばつ なども結成 けっせい された[ 16] 。
MNCは当時 とうじ のアフリカで最大 さいだい の民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政党 せいとう であったが、多 おお くの問題 もんだい で異 こと なる立場 たちば を取 と る様々 さまざま な派閥 はばつ を抱 かか えていた。このために穏健 おんけん 派 は と急進 きゅうしん 派 は の二 に 分化 ぶんか が進行 しんこう した[ 17] 。ジョゼフ・イレオとアルベール・カロンジ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる党内 とうない の急進 きゅうしん 派 は は1959年 ねん 7月 がつ に党 とう から分離 ぶんり するが、MNC党員 とういん を大量 たいりょう に離党 りとう させて自分 じぶん 達 たち の陣営 じんえい に引 ひ き入 い れることが出来 でき なかった。大 だい 多数 たすう 派 は はMNC-ルムンバ派 は (MNC-L)、これらの反 はん 体制 たいせい の急進 きゅうしん 派 は はMNC-カロンジ派 は (MNC-K)という風 ふう に呼 よ ばれるようになった。ルムンバ派 は は主 おも にスタンリーヴィル 地域 ちいき の北東 ほくとう 部 ぶ で人気 にんき を保持 ほじ し続 つづ けた一方 いっぽう 、カロンジ派 は はエリザベートヴィル より南 みなみ の都市 とし を中心 ちゅうしん として、ルバ族 ぞく の間 あいだ で最大 さいだい の人気 にんき を獲得 かくとく した[ 18] 。
1959年 ねん 1月 がつ 4日 にち 、コンゴの首都 しゅと レオポルドヴィル で行 おこな われていた政治 せいじ 的 てき なデモ活動 かつどう が暴力 ぼうりょく 的 てき になり、暴動 ぼうどう に発展 はってん した。国家 こっか 憲兵 けんぺい のコンゴ公安 こうあん 軍 ぐん は暴徒 ぼうと に対 たい して武力 ぶりょく を使用 しよう した。少 すく なくとも49人 にん が死亡 しぼう し、総 そう 死傷 ししょう 者 しゃ 数 すう が500人 にん を超 こ えていた可能 かのう 性 せい もあると見 み られている[ 19] 。民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政党 せいとう の影響 えいきょう 力 りょく がこの時 とき に初 はじ めて主要 しゅよう 都市 とし の外 そと に波及 はきゅう し、これ以降 いこう の1年間 ねんかん は民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき なデモや暴動 ぼうどう が頻発 ひんぱつ するようになり、それまで関与 かんよ していなかった大 だい 多数 たすう の黒人 こくじん も独立 どくりつ 運動 うんどう に参加 さんか するようになった。多 おお くの黒人 こくじん は税金 ぜいきん の支払 しはら いや軽微 けいび な植民 しょくみん 地 ち の規制 きせい の遵守 じゅんしゅ を拒否 きょひ することによって植民 しょくみん 地 ち 体制 たいせい の限界 げんかい を試 ため すようになった。ABAKOの指導 しどう 者 しゃ の多 おお くが逮捕 たいほ され、MNCの影響 えいきょう 力 りょく が以前 いぜん よりも強 つよ まった[ 20] 。
こうした動 うご きを警戒 けいかい して白人 はくじん 社会 しゃかい の間 あいだ に過激 かげき 思想 しそう が広 ひろ まった。一部 いちぶ の白人 はくじん は黒人 こくじん が過半数 かはんすう を占 し める政権 せいけん が成立 せいりつ した場合 ばあい には、クーデター を実行 じっこう することを計画 けいかく した[ 19] 。白人 はくじん の民間 みんかん 人 じん は「欧州 おうしゅう ボランティア隊 たい 」の呼 よ び名 な で知 し られる民兵 みんぺい 組織 そしき を形成 けいせい し、法 ほう と秩序 ちつじょ が崩壊 ほうかい し始 はじ めた。白人 はくじん の民兵 みんぺい は頻繁 ひんぱん に黒人 こくじん を襲撃 しゅうげき した[ 21] 。
1960年 ねん 1月 がつ にブリュッセル で開催 かいさい された円卓 えんたく 会議 かいぎ に出席 しゅっせき したパトリス・ルムンバ 。コンゴ独立 どくりつ 国家 こっか の初代 しょだい 首相 しゅしょう に就任 しゅうにん した
レオポルドヴィルの暴動 ぼうどう の影響 えいきょう として、その年 とし に作成 さくせい されたコンゴの将来 しょうらい に関 かん するベルギー議会 ぎかい の審議 しんぎ 会 かい の報告 ほうこく 書 しょ の中 なか では「内部 ないぶ の自治 じち 」の需要 じゅよう の高 たか まりが指摘 してき された[ 13] 。植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん オーガスト・デ・スフライファー (英語 えいご 版 ばん ) は1960年 ねん 1月 がつ にコンゴのすべての主要 しゅよう 政党 せいとう の指導 しどう 者 しゃ をベルギーの首都 しゅと ブリュッセル に一同 いちどう に集 あつ めて円卓 えんたく 会議 かいぎ (英語 えいご 版 ばん ) を開催 かいさい した[ 22] 。スタンリーヴィルで起 お こった暴動 ぼうどう の後 のち に逮捕 たいほ されたパトリス・ルムンバは会議 かいぎ に出席 しゅっせき するために釈放 しゃくほう され、MNC-Lの代表 だいひょう 団 だん を率 ひき いた[ 23] 。ベルギー政府 せいふ 側 がわ は独立 どくりつ まで少 すく なくとも30年 ねん の準備 じゅんび 期間 きかん を置 お くことを希望 きぼう していたが、コンゴ側 がわ の圧力 あつりょく に屈 くっ した結果 けっか 、独立 どくりつ の日 ひ を1960年 ねん 6月30日 にち に設定 せってい することが急遽 きゅうきょ 決定 けってい した[ 22] 。連邦 れんぽう 制 せい を含 ふく む民族 みんぞく 的 てき 帰属 きぞく の問題 もんだい や、コンゴに対 たい するベルギーの今後 こんご の役割 やくわり などについては代表 だいひょう 団 だん が合意 ごうい に達 たっ せず、未 み 解決 かいけつ のまま残 のこ された[ 24] 。
多 おお くのベルギー人 じん が、独立 どくりつ したコンゴがフランス共同 きょうどう 体 たい やイギリス連邦 れんぽう のような国家 こっか 連合 れんごう の一部 いちぶ となることで、ベルギー本国 ほんごく との政治 せいじ 的 てき にも経済 けいざい 的 てき にも緊密 きんみつ な関係 かんけい が継続 けいぞく させることを希望 きぼう していた[ 25] 。独立 どくりつ の日 ひ が迫 せま った1960年 ねん 5月 がつ にベルギー政府 せいふ はベルギー領 りょう コンゴの国政 こくせい 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) を実施 じっし した。選挙 せんきょ ではMNCが大 だい 多数 たすう の議席 ぎせき を獲得 かくとく した[ 23] 。
1960年 ねん 6月 がつ 30日 にち 、予定 よてい 通 どお りにコンゴ共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ と植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の終 お わりが宣言 せんげん された。レオポルドヴィルで挙行 きょこう された独立 どくりつ 式典 しきてん において、ベルギー国王 こくおう ボードゥアン が行 おこな った挨拶 あいさつ は私 わたし 領地 りょうち としてコンゴ自由 じゆう 国 こく を創設 そうせつ して非 ひ 人道的 じんどうてき な暴虐 ぼうぎゃく な統治 とうち を行 おこな い、非難 ひなん された彼 かれ の祖父 そふ の叔父 おじ に当 あ たるレオポルド2世 せい を「天才 てんさい 」と呼 よ び、コンゴの独立 どくりつ をベルギーによる「文明 ぶんめい 化 か の集大成 しゅうたいせい 」と表現 ひょうげん した上 うえ 、「(ベルギーが残 のこ した諸 しょ 制度 せいど の)性急 せいきゅう な変更 へんこう は将来 しょうらい を危 あや うくする」と忠告 ちゅうこく までした[ 26] [ 27] 。続 つづ いて演説 えんぜつ を行 おこな ったカサブブは独立 どくりつ を承認 しょうにん してくれたベルギーに対 たい しての感謝 かんしゃ の意 い を表明 ひょうめい したが、その後 ご に演説 えんぜつ を行 おこな ったルムンバはベルギーによる植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい を「屈辱 くつじょく 的 てき な奴隷 どれい 制 せい 」として徹底的 てっていてき に糾弾 きゅうだん し、独立 どくりつ を勝 か ち取 と った自分 じぶん 達 たち の闘争 とうそう を絶賛 ぜっさん して観衆 かんしゅう から喝采 かっさい を浴 あ びた[ 26] [ 28] [ 29] 。このルムンバの演説 えんぜつ に憤慨 ふんがい したボードゥアンは昼食 ちゅうしょく 会 かい には参加 さんか したものの、予定 よてい を変更 へんこう して急遽 きゅうきょ 帰国 きこく の途 と についた[ 26] 。マルコム・X のようにルムンバの演説 えんぜつ を称賛 しょうさん する者 もの もいたが、数 すう 人 にん のコンゴの政治 せいじ 家 か は演説 えんぜつ が必要 ひつよう 以上 いじょう に挑発 ちょうはつ 的 てき であったとの見解 けんかい を示 しめ し、国際 こくさい 問題 もんだい も引 ひ き起 お こした[ 30] 。そうした状況 じょうきょう にもかかわらず、コンゴ全土 ぜんど は祝賀 しゅくが ムードに沸 わ いた[ 31] 。
コンゴの新 しん 政府 せいふ は半 はん 大統領 だいとうりょう 制 せい を採用 さいよう し、大統領 だいとうりょう と首相 しゅしょう が行政 ぎょうせい 権 けん を共有 きょうゆう することになった[ 32] 。初代 しょだい 大統領 だいとうりょう にはジョゼフ・カサブブ、初代 しょだい 首相 しゅしょう にはパトリス・ルムンバが就任 しゅうにん した[ 33] 。CONAKATなどの連邦 れんぽう 主義 しゅぎ 派 は が反対 はんたい したにもかかわらず、レオポルドヴィルの中央 ちゅうおう 政府 せいふ には強力 きょうりょく な権限 けんげん が付与 ふよ され、州 しゅう 政府 せいふ の権限 けんげん は比較的 ひかくてき 弱 よわ かった[ 34] 。なお、1ヶ月 かげつ 半 はん 後 ご に成立 せいりつ した西 にし に隣接 りんせつ する同名 どうめい のコンゴ共和 きょうわ 国 こく (コンゴ・ブラザヴィル )とはコンゴ・レオポルドヴィル と首都 しゅと 名 めい を示 しめ すことで区別 くべつ した[ 35] 。
公安 こうあん 軍 ぐん の反乱 はんらん とベルギー軍 ぐん の介入 かいにゅう [ 編集 へんしゅう ]
独立 どくりつ 宣言 せんげん はしたものの、ベルギー政府 せいふ もコンゴ政府 せいふ も植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい の社会 しゃかい 秩序 ちつじょ を直 す ぐに変更 へんこう するつもりは無 な かった。ベルギー政府 せいふ は白人 はくじん が永久 えいきゅう にその地位 ちい を保持 ほじ し続 つづ けられるかもしれないと期待 きたい した[ 34] 。コンゴ共和 きょうわ 国 こく は植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい の制度 せいど に依存 いぞん していた。白人 はくじん の指揮 しき 下 か に置 お かれた公安 こうあん 軍 ぐん や、白人 はくじん の技術 ぎじゅつ 専門 せんもん 家 か に変 か わり得 え る適切 てきせつ な資格 しかく を取得 しゅとく した黒人 こくじん が不在 ふざい の状況 じょうきょう は変 か わらないままであった[ 34] 。大 だい 多数 たすう のコンゴ人 じん が独立 どくりつ が有形 ゆうけい かつ即時 そくじ の社会 しゃかい 変化 へんか をもたらすことを想定 そうてい していたために、相変 あいか わらず重要 じゅうよう 度 ど の高 たか い地位 ちい の多 おお くが白人 はくじん によって独占 どくせん されている現状 げんじょう に憤慨 ふんがい した[ 36] 。公安 こうあん 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん を務 つと める中将 ちゅうじょう 、エミール・ジャンセン (英語 えいご 版 ばん ) は独立 どくりつ 式典 しきてん の翌日 よくじつ にレオポルドヴィルに駐屯 ちゅうとん する黒人 こくじん の下士官 かしかん 連中 れんちゅう を集 あつ めて、自分 じぶん の指揮 しき 下 か では現在 げんざい の状態 じょうたい が今後 こんご も維持 いじ されるであろうと述 の べて黒板 こくばん に「独立 どくりつ 前 まえ =独立 どくりつ 後 ご 」と書 か き込 こ むことで要点 ようてん をまとめたが、これは独立 どくりつ 後 ご に賃金 ちんぎん の大幅 おおはば な上昇 じょうしょう を期待 きたい していた黒人 こくじん 兵士 へいし 達 たち からは非常 ひじょう に不評 ふひょう であった[ 36] 。7月 がつ 5日 にち にはチスヴィル 近郊 きんこう で幾 いく つかの部隊 ぶたい が白人 はくじん 指揮 しき 官 かん に対 たい して反乱 はんらん を開始 かいし した。これ以降 いこう 、暴動 ぼうどう は全国 ぜんこく の駐屯 ちゅうとん 地 ち に急速 きゅうそく に波及 はきゅう していった[ 37] 。
ルムンバは騒動 そうどう を鎮静 ちんせい 化 か させるためにジャンセンを解任 かいにん し、コンゴ公安 こうあん 軍 ぐん の名称 めいしょう をコンゴ国民 こくみん 軍 ぐん (ANC)に変更 へんこう した。黒人 こくじん 兵士 へいし 達 たち は全員 ぜんいん 、少 すく なくとも1ランクは昇進 しょうしん した[ 38] 。ビクター・ルンドラ (英語 えいご 版 ばん ) は曹長 そうちょう から少将 しょうしょう に昇進 しょうしん し、ジャンセンに代 か わる新 あら たな司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん した[ 37] 。同時 どうじ に、ジョゼフ=デジレ・モブツ は参謀 さんぼう 長 ちょう に就任 しゅうにん し、ルンドラの副官 ふっかん かつルムンバの側近 そっきん という役割 やくわり を担 にな うことになった[ 39] 。ルムンバとカサブブは反乱 はんらん 者 しゃ と直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう して武器 ぶき を捨 す てるよう彼 かれ らを説得 せっとく しようとしたが、国 くに の大 だい 部分 ぶぶん で反乱 はんらん が激化 げきか していった。白人 はくじん の兵士 へいし や民間 みんかん 人 じん は暴行 ぼうこう を受 う け、白人 はくじん が所有 しょゆう する財産 ざいさん は略奪 りゃくだつ され、白人 はくじん 女性 じょせい は陵辱 りょうじょく された[ 37] 。白人 はくじん の民間 みんかん 人 じん が難民 なんみん として近隣 きんりん 諸国 しょこく へ流出 りゅうしゅつ するようになると、ベルギー政府 せいふ は情勢 じょうせい を深 ふか く憂慮 ゆうりょ するようになった[ 40] 。
7月 がつ 9日 にち にベルギーはコンゴ政府 せいふ の許可 きょか を得 え ずにカバロ に空挺 くうてい 部隊 ぶたい を配備 はいび し、逃 に げ惑 まど う白人 はくじん の民間 みんかん 人 じん を保護 ほご した[ 41] 。10日 とおか にはベルギー政府 せいふ は10,000人 にん の兵士 へいし のコンゴへの投入 とうにゅう を決断 けつだん し、輸送 ゆそう が開始 かいし された[ 42] 。許可 きょか を得 え ないこの武力 ぶりょく 介入 かいにゅう は国家 こっか 主権 しゅけん の侵害 しんがい に当 あ たる行為 こうい であった[ 35] 。カサブブがベルギー軍 ぐん の介入 かいにゅう を受 う け入 い れたのと対照 たいしょう 的 てき に[ 40] 、ルムンバは介入 かいにゅう を非難 ひなん して「我々 われわれ の共和 きょうわ 国 こく の脅威 きょうい 」を防 ふせ ぐために団結 だんけつ するようにすべてのコンゴ人 じん に呼 よ び掛 か けた[ 41] 。ルムンバの要請 ようせい に応 おう じて11日 にち にベルギー海軍 かいぐん は港湾 こうわん 都市 とし のマタディ から白人 はくじん の民間 みんかん 人 じん を避難 ひなん させた。ベルギーの船 ふね はその後 ご に市内 しない を砲撃 ほうげき し、少 すく なくとも19人 にん の民間 みんかん 人 じん が死亡 しぼう した。この行動 こうどう が全国 ぜんこく の白人 はくじん に対 たい する新 あら たな攻撃 こうげき を呼 よ び起 お こす原因 げんいん になり、他 た の都市 とし 内 ない や町内 ちょうない に侵入 しんにゅう したベルギー軍 ぐん とコンゴ軍 ぐん の間 あいだ でレオポルドヴィルも含 ふく めて衝突 しょうとつ が発生 はっせい した[ 40] 。
カタンガ国 こく と南 みなみ カサイ国 こく の分離 ぶんり 独立 どくりつ [ 編集 へんしゅう ]
1960年 ねん 7月 がつ 11日 にち に分離 ぶんり 独立 どくりつ したカタンガ国 こく の国旗 こっき
1960年 ねん 8月 がつ 8日 にち に分離 ぶんり 独立 どくりつ した南 みなみ カサイ鉱山 こうざん 国 こく の国旗 こっき
1960年 ねん 7月 がつ 11日 にち には、CONAKATの指導 しどう 者 しゃ モイーズ・チョンベは南部 なんぶ のカタンガ州 しゅう が首都 しゅと をエリザベートヴィルに置 お き、彼 かれ 自身 じしん が初代 しょだい 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん するカタンガ国 こく としてコンゴ共和 きょうわ 国 こく から独立 どくりつ することを宣言 せんげん した[ 43] 。豊富 ほうふ な資源 しげん を有 ゆう するカタンガ地域 ちいき は近接 きんせつ する銅 どう の世界 せかい 的 てき 産地 さんち 、北 きた ローデシア (現在 げんざい のザンビア )のカッパーベルト と伝統 でんとう 的 てき に緊密 きんみつ な経済 けいざい 関係 かんけい にあった[ 43] 。CONAKATはさらに、カタンガの人々 ひとびと は他 た のコンゴ人 じん とは民族 みんぞく 的 てき に異 こと なっていると主張 しゅちょう した。州 しゅう の採掘 さいくつ 作業 さぎょう によって得 え られた収益 しゅうえき をコンゴの他 ほか の地域 ちいき と共有 きょうゆう することを避 さ け、より多 おお く保有 ほゆう するためのカタンガ住民 じゅうみん の分離 ぶんり 独立 どくりつ 欲求 よっきゅう の高 たか さが離脱 りだつ の動機 どうき の一 ひと つであった[ 44] 。もう一 ひと つの大 おお きな要因 よういん はコンゴの中部 ちゅうぶ および北東 ほくとう 部 ぶ における治安 ちあん の崩壊 ほうかい である。カタンガの分離 ぶんり 独立 どくりつ を発表 はっぴょう したチョンベは「我々 われわれ は混沌 こんとん から脱出 だっしゅつ している」と述 の べた[ 45] 。
カタンガの大手 おおて 鉱山 こうざん 会社 かいしゃ ユニオン・ミニエール・デュ・オー・カタンガ (UMHK)はMNCが独立 どくりつ 後 ご に会社 かいしゃ の資産 しさん を国有 こくゆう 化 か するのでは無 な いかと警戒 けいかい し、ベルギーによる植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい が終了 しゅうりょう する以前 いぜん からCONAKATに対 たい する支援 しえん を開始 かいし していた。UMHKはベルギー政府 せいふ と密接 みっせつ な関係 かんけい を持 も ち、ブリュッセルに本社 ほんしゃ を置 お く有名 ゆうめい な持株 もちかぶ 会社 かいしゃ ソシエテ・ジェネラル・デ・ベルギー (英語 えいご 版 ばん ) が主 おも に所有 しょゆう していた。UMHKに力付 ちからづ けられたベルギー政府 せいふ はカタンガ国 こく に軍事 ぐんじ 的 てき 支援 しえん を提供 ていきょう し、この地域 ちいき に残 のこ る文官 ぶんかん に任務 にんむ を継続 けいぞく するように命 めい じた[ 46] 。チョンベも南 みなみ アフリカ連邦 れんぽう やローデシア からも含 ふく まれる、主 おも に白人 はくじん からなる傭兵 ようへい 集 あつ めに着手 ちゃくしゅ し、カタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい を組織 そしき した[ 47] 。ベルギーから支援 しえん を受 う けていたが、分離 ぶんり 期間 きかん を通 とお してどの国 くに からも正式 せいしき に外交 がいこう 上 じょう の承認 しょうにん を受 う けられなかった[ 48] 。
カタンガが分離 ぶんり してから1ヶ月 かげつ に満 み たない8月 がつ 8日 にち に、カタンガからわずかに北 きた に位置 いち し、ムブジマイ に首都 しゅと を置 お く南 みなみ カサイ鉱山 こうざん 国 こく がコンゴ中央 ちゅうおう 政府 せいふ からの独立 どくりつ を宣言 せんげん した[ 46] 。南 みなみ カサイはカタンガよりはるかに小 ちい さな領域 りょういき であったが、カタンガと同様 どうよう に採掘 さいくつ 地域 ちいき でもあった。ルバ族 ぞく が住民 じゅうみん の多数 たすう 派 は を占 し める地域 ちいき であり、南 みなみ カサイ大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したアルベール・カロンジはコンゴの他 ほか の地域 ちいき におけるルバ族 ぞく に対 たい する迫害 はくがい が分離 ぶんり の発端 ほったん になったと主張 しゅちょう した[ 46] 。南 みなみ カサイの新 しん 政府 せいふ は特権 とっけん を与 あた えることで、フォルミニエール (英語 えいご 版 ばん ) などの鉱山 こうざん 会社 かいしゃ から経済 けいざい 的 てき 支援 しえん を引 ひ き出 だ した[ 46] 。
他国 たこく の介入 かいにゅう と国連 こくれん 軍 ぐん の介入 かいにゅう [ 編集 へんしゅう ]
1961年 ねん 11月。カタンガに展開 てんかい するコンゴ国連 こくれん 軍 ぐん のスウェーデン人 じん 部隊 ぶたい
ベルギーの支援 しえん に影響 えいきょう された分離 ぶんり 主義 しゅぎ の高 たか まりにより、国際 こくさい 連合 れんごう (UN、国連 こくれん )内部 ないぶ にコンゴからベルギーのすべての兵力 へいりょく を撤収 てっしゅう させようとする動 うご きが出 で てきた。国連 こくれん 事務 じむ 総長 そうちょう ダグ・ハマーショルド は国連 こくれん の指揮 しき 下 か に置 お かれ、多 た 国籍 こくせき で構成 こうせい される国連 こくれん 平和 へいわ 維持 いじ 軍 ぐん をコンゴへ派遣 はけん するために主導 しゅどう 的 てき な役割 やくわり を果 は たした[ 49] 。ルムンバからの要請 ようせい を受 う けた国連 こくれん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい は7月 がつ 14日 にち に、ベルギー軍 ぐん のコンゴからの撤退 てったい を要求 ようきゅう する国連 こくれん 安保理 あんぽり 決議 けつぎ 第 だい 143号 ごう を採択 さいたく した[ 50] [ 51] 。
ルムンバとコンゴ中央 ちゅうおう 政府 せいふ は分離 ぶんり 主義 しゅぎ 活動 かつどう を抑制 よくせい するのに役立 やくだ つかもしれないと考 かんが え、コンゴ国連 こくれん 軍 ぐん (ONUC)の到着 とうちゃく を当初 とうしょ は歓迎 かんげい した[ 52] 。しかしながら、ONUCが最初 さいしょ に任 まか された活動 かつどう は平和 へいわ 維持 いじ のみであった。ハマーショルドは分離 ぶんり 主義 しゅぎ 活動 かつどう を国内 こくない の政治 せいじ 問題 もんだい と位置付 いちづ けており、これに反対 はんたい するのは中立 ちゅうりつ 性 せい が失 うしな われることになり、主権 しゅけん の侵害 しんがい に相当 そうとう すると見 み ていた。そのために、彼 かれ は国連 こくれん が国連 こくれん 憲章 けんしょう に基 もと づいてコンゴ軍 ぐん の支援 しえん を可能 かのう にする措置 そち を取 と ることを拒否 きょひ した。国連 こくれん の消極 しょうきょく 的 てき なカタンガ政策 せいさく に失望 しつぼう したルムンバはソ連 それん と武器 ぶき や物流 ぶつりゅう 及 およ び物質 ぶっしつ 的 てき な支援 しえん の提供 ていきょう に関 かん する合意 ごうい を成立 せいりつ させた。約 やく 1,000人 にん のソ連 それん の軍事 ぐんじ 顧問 こもん は直 す ぐにコンゴに上陸 じょうりく した[ 53] 。ソ連 それん の介入 かいにゅう を危険 きけん 視 し するカサブブら政府 せいふ 関係 かんけい 者 しゃ がルムンバから距離 きょり を置 お き始 はじ めた。アメリカはアフリカ中部 ちゅうぶ 地域 ちいき における共産 きょうさん 主義 しゅぎ の大 だい 拡張 かくちょう の土台 どだい がコンゴに形成 けいせい されることを恐 おそ れていた[ 53] 。
ソ連 それん の軍事 ぐんじ 的 てき 支援 しえん を得 え た約 やく 2,000人 にん の国民 こくみん 軍 ぐん は南 みなみ カサイに対 たい する大 だい 攻勢 こうせい を開始 かいし した[ 54] 。攻撃 こうげき で大 だい 成果 せいか を得 え たものの、その過程 かてい において、国民 こくみん 軍 ぐん はルバ族 ぞく とルルア族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) の民族 みんぞく 間 あいだ の内紛 ないふん に巻 ま き込 こ まれてしまい、その際 さい にルバ族 ぞく の民間 みんかん 人 じん を大量 たいりょう に虐殺 ぎゃくさつ してしまった[ 54] 。約 やく 3,000人 にん が殺害 さつがい されてしまった[ 55] 。戦火 せんか から逃 のが れるように何 なん 千 せん 人 にん ものルバ族 ぞく の民間 みんかん 人 じん がこの地域 ちいき から脱出 だっしゅつ した[ 56] 。
ソ連 それん の関与 かんよ にアメリカは警戒 けいかい した。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 大統領 だいとうりょう ドワイト・D・アイゼンハワー はベルギーの批判 ひはん に則 そく して、ルムンバが共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ であり、コンゴはソ連 それん にとって戦略 せんりゃく 上 じょう 重要 じゅうよう な従属 じゅうぞく 国 こく になる道 みち を突 つ き進 すす んでいると考 かんが えていた。1960年 ねん 8月 がつ には、領域 りょういき 内 ない に潜伏 せんぷく する中央 ちゅうおう 情報 じょうほう 局 きょく (CIA)のスパイ もコンゴがキューバ革命 かくめい を経験 けいけん してソ連 それん との結 むす び付 つ きを強化 きょうか しているキューバ と同 おな じような道 みち を辿 たど るかもしれないと警告 けいこく した[ 57] 。
1960年 ねん 7月 がつ 22日 にち にフランス・ソワール (英語 えいご 版 ばん ) 紙 かみ のインタビューに応 おう じたルムンバは、彼 かれ が共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ であると批判 ひはん を受 う けていることについて回答 かいとう している。「これは私 わたし に向 む けたプロパガンダ に基 もと づく策略 さくりゃく だ。私 わたし は共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ ではない。私 わたし が革命 かくめい 家 か であり、私 わたし 達 たち 人間 にんげん の尊厳 そんげん を無視 むし した植民 しょくみん 地 ち 体制 たいせい の廃止 はいし を求 もと めてきたために、植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 者 しゃ は全国 ぜんこく を通 つう じて私 わたし に対 たい する運動 うんどう を展開 てんかい してきた。私 わたし が帝国 ていこく 主義 しゅぎ 者 しゃ によって買収 ばいしゅう されることを拒否 きょひ したことで、彼 かれ らは私 わたし を共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ と見 み なしているのだろう」と述 の べている[ 58] 。
中央 ちゅうおう 政府 せいふ の分裂 ぶんれつ とモブツの最初 さいしょ のクーデター[ 編集 へんしゅう ]
ルムンバがソ連 それん に支援 しえん を要請 ようせい した結果 けっか 、政府 せいふ 内 ない は分裂 ぶんれつ してしまい、西側 にしがわ 諸国 しょこく が彼 かれ を権力 けんりょく から取 と り除 のぞ くように圧力 あつりょく を強 つよ めることにも繋 つな がった。加 くわ えて、モイーズ・チョンベとアルベール・カロンジの両方 りょうほう がカサブブがルムンバの中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 主義 しゅぎ に反対 はんたい する穏健 おんけん 主義 しゅぎ 者 しゃ かつ連邦 れんぽう 主義 しゅぎ 者 しゃ であると考 かんが えて、離脱 りだつ 問題 もんだい を解決 かいけつ するために彼 かれ に対話 たいわ を呼 よ び掛 か けた[ 59] 。その一方 いっぽう で、モブツは他国 たこく からの援助 えんじょ を獲得 かくとく し、特定 とくてい の部隊 ぶたい 員 いん や将校 しょうこう を昇級 しょうきゅう させることで彼 かれ らからの忠誠 ちゅうせい を確保 かくほ して国民 こくみん 軍 ぐん の支配 しはい 権 けん を掌握 しょうあく した[ 39] 。
アメリカに促 うなが される形 かたち でカサブブは1960年 ねん 9月 がつ 5日 にち に南 みなみ カサイにおける虐殺 ぎゃくさつ を口実 こうじつ として、一方 いっぽう 的 てき にルムンバの首相 しゅしょう 職 しょく 解任 かいにん を全国 ぜんこく ラジオを通 つう じて発表 はっぴょう した[ 59] 。ハマーショルドの側近 そっきん でアメリカ人 じん のONUC臨時 りんじ 代表 だいひょう アンドリュー・コーディア (英語 えいご 版 ばん ) は自分 じぶん に与 あた えられた権限 けんげん を活用 かつよう し、ニュースに反応 はんのう したMNC-Lが団結 だんけつ して行動 こうどう を起 お こすことを阻止 そし するためにラジオ局 きょく の封鎖 ふうさ を指揮 しき した[ 60] 。両 りょう 議院 ぎいん はルムンバを支持 しじ し、カサブブを非難 ひなん した。議会 ぎかい から信任 しんにん を得 え たルムンバは対抗 たいこう してカサブブを大統領 だいとうりょう 職 しょく から解任 かいにん しようとしたが、憲政 けんせい 上 じょう の危機 きき (英語 えいご 版 ばん ) を誘発 ゆうはつ することになることになるこの行為 こうい については反対 はんたい され、無効 むこう となった[ 59] 。9月14日 にち にはジョゼフ=デジレ・モブツが混迷 こんめい した政治 せいじ 状況 じょうきょう の打開 だかい を表向 おもてむ きの理由 りゆう として無血 むけつ クーデターを実行 じっこう した。カサブブがルムンバの後任 こうにん として任命 にんめい したイレオの政府 せいふ とそれに対抗 たいこう するルムンバの政府 せいふ 、この両 りょう 政府 せいふ の無効 むこう 化 か を宣言 せんげん し、その代 か わりにジャスティン・ボンボコ 率 ひき いる大学 だいがく 卒業 そつぎょう 者 しゃ と現役 げんえき 大学生 だいがくせい からなる「委員 いいん 会 かい 内閣 ないかく 」を設立 せつりつ して政治 せいじ 権力 けんりょく も掌握 しょうあく した[ 61] [ 62] 。ソ連 それん の軍事 ぐんじ 顧問 こもん は国外 こくがい 退去 たいきょ を命 めい じられた[ 63] 。混乱 こんらん の収拾 しゅうしゅう を最 さい 優先 ゆうせん に考 かんが えるカサブブはモブツと手 て を組 く み、官邸 かんてい 内 うち に軟禁 なんきん されてONUCのガーナ人 じん 部隊 ぶたい らによって警護 けいご される状態 じょうたい となったルムンバはモブツと委員 いいん 会 かい 内閣 ないかく を激 はげ しく糾弾 きゅうだん して敵対 てきたい した[ 64] 。1961年 ねん 2月 がつ にカサブブはモブツによって大統領 だいとうりょう に再 さい 任命 にんめい された。クーデターを起 お こして以降 いこう のモブツは影 かげ の実力 じつりょく 者 しゃ としてコンゴの政治 せいじ に多大 ただい の影響 えいきょう 力 りょく を及 およ ぼすことが出来 でき るようになった[ 63] [ 65] 。
カサブブの復職 ふくしょく 以降 いこう 、コンゴの各 かく 勢力 せいりょく 間 あいだ で和解 わかい に向 む けた動 うご きが進展 しんてん した。チョンベはコンゴの国家 こっか 連合 れんごう を形成 けいせい してカタンガの分離 ぶんり 状態 じょうたい を終結 しゅうけつ させるための交渉 こうしょう を開始 かいし した。歩 あゆ み寄 よ りの合意 ごうい に達 たっ したものの、カサブブとチョンベがお互 たが いに個人 こじん 的 てき な敵意 てきい を抱 だ いたために交渉 こうしょう が決裂 けつれつ し、この合意 ごうい が無効 むこう になってしまった[ 66] 。1961年 ねん 7月 がつ の和解 わかい 交渉 こうしょう が失敗 しっぱい した後 のち 、ルムンバ支持 しじ 者 しゃ や南 みなみ カサイからも含 ふく めて様々 さまざま な勢力 せいりょく を結集 けっしゅう したシリル・アドゥラを首班 しゅはん とする新 しん 政府 せいふ が形成 けいせい されたが、カタンガ国 こく 政府 せいふ との和解 わかい はもたらさなかった[ 66] 。
スタンリーヴィルに逃亡 とうぼう したアントワーヌ・ギゼンガ 率 ひき いるMNC-Lの反乱 はんらん 軍 ぐん メンバーは1960年 ねん 11月にレオポルドヴィルの中央 ちゅうおう 政府 せいふ に対抗 たいこう して反乱 はんらん 軍 ぐん 政府 せいふ を形成 けいせい した[ 66] [ 67] 。ギゼンガ政府 せいふ はソ連 それん や中国 ちゅうごく を含 ふく めていくつかの国々 くにぐに にコンゴの公式 こうしき な政府 せいふ として承認 しょうにん され、中央 ちゅうおう 政府 せいふ の7,000人 にん に対 たい しておよそ5,500人 にん の兵士 へいし を動員 どういん することが出来 でき た[ 68] 。その正当 せいとう 性 せい を国連 こくれん から拒否 きょひ されるという難局 なんきょく に直面 ちょくめん したギゼンガ政府 せいふ は1962年 ねん 1月 がつ 、代表 だいひょう 者 しゃ のギゼンガが逮捕 たいほ された後 のち に崩壊 ほうかい した[ 69] 。
1961年 ねん 2月 がつ にユーゴスラビア のマリボル で発生 はっせい したルムンバの殺害 さつがい を非難 ひなん する抗議 こうぎ 活動 かつどう
ルムンバは軟禁 なんきん から脱出 だっしゅつ して、自分 じぶん を支持 しじ する勢力 せいりょく を結集 けっしゅう 出来 でき ると信 しん じて東 ひがし のスタンリーヴィルに向 む けて逃亡 とうぼう した。モブツに忠実 ちゅうじつ な部隊 ぶたい によって追跡 ついせき されたルムンバは1960年 ねん 12月1日 にち にポルフランキー で逮捕 たいほ され、手 て を縄 なわ で縛 しば り上 あ げられた状態 じょうたい でレオポルドヴィルに連 つ れ戻 もど された[ 70] 。国連 こくれん はカサブブに法 ほう の適正 てきせい 手続 てつづ き に基 もと づいてルムンバを裁 さば くように求 もと めたが、ソ連 それん はルムンバが逮捕 たいほ された責任 せきにん は国連 こくれん にあるとして彼 かれ の釈放 しゃくほう を要求 ようきゅう した。12月7日 にち に国連 こくれん がルムンバの即時 そくじ 解放 かいほう と国家 こっか の長 ちょう へのルムンバの復職 ふくしょく 、そしてモブツの軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ をカサブブ政府 せいふ に要求 ようきゅう すべきとするソ連 それん の提案 ていあん について議論 ぎろん するために、国連 こくれん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい の会合 かいごう が開催 かいさい された。ルムンバを支持 しじ するこの決議 けつぎ 案 あん は12月14日 にち に採決 さいけつ に付 ふ されたが、2-8で否決 ひけつ された。監禁 かんきん 状態 じょうたい が続 つづ くルムンバは拷問 ごうもん を受 う けてティスヴィル に輸送 ゆそう された。その後 ご 、ルムンバの処遇 しょぐう に悩 なや んだモブツは彼 かれ の身柄 みがら をカタンガに送 おく り込 こ み、チョンベに忠実 ちゅうじつ な部隊 ぶたい に引 ひ き取 と らせた[ 71] 。
パトリス・ルムンバは1961年 ねん 1月 がつ 17日 にち にエリザベートヴィル近郊 きんこう でカタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい によって処刑 しょけい された[ 72] 。4人 にん のベルギーの将校 しょうこう の他 ほか にチョンベとカタンガ国 こく 政府 せいふ の他 ほか の2人 ふたり の閣僚 かくりょう が現場 げんば に立 た ち会 あ い、政府 せいふ 当局 とうきょく の指揮 しき 下 か で処刑 しょけい は実行 じっこう された。拷問 ごうもん を受 う けたルムンバと彼 かれ を支持 しじ する新 しん 政府 せいふ の2人 ふたり の閣僚 かくりょう 、モーリス・ムポロとジョセフ・オキトは木 き に背 せ を向 む けて一 いち 列 れつ に並 なら べられ、一人 ひとり ずつ一発 いっぱつ で射殺 しゃさつ された。後年 こうねん に明 あき らかになったベルギーの報告 ほうこく 書 しょ によると、殺害 さつがい はおそらく21時 じ 40分 ふん から21時 じ 43分 ふん 頃 ごろ の間 あいだ に実行 じっこう された[ 73] 。
ルムンバ殺害 さつがい のニュースは2月 がつ 13日 にち に公表 こうひょう され、この非 ひ 人道的 じんどうてき 行為 こうい に対 たい する怒 いか りが世界 せかい 各地 かくち で巻 ま き起 お こった[ 74] 。ユーゴスラビア のベオグラード 市内 しない にあるベルギーの大使館 たいしかん は抗議 こうぎ 者 しゃ によって襲撃 しゅうげき され、ロンドン やニューヨーク でも暴力 ぼうりょく 的 てき 抗議 こうぎ 活動 かつどう が発生 はっせい した[ 75] [ 76] 。
国連 こくれん 軍 ぐん の攻勢 こうせい とカタンガ国 こく の消滅 しょうめつ [ 編集 へんしゅう ]
1961年 ねん のコンゴの地図 ちず 。青 あお の地域 ちいき がカサブブ政府 せいふ 、赤 あか の地域 ちいき がギゼンガ政府 せいふ 、緑 みどり の地域 ちいき がカタンガ国 こく 、黄色 おうしょく の地域 ちいき がカサイ国 こく
1960年 ねん 7月 がつ 14日 にち に採択 さいたく されたコンゴ情勢 じょうせい に関 かん する最初 さいしょ の安保理 あんぽり 決議 けつぎ の後 のち 、国連 こくれん は7月 がつ 22日 にち に国連 こくれん 安保理 あんぽり 決議 けつぎ 第 だい 145号 ごう を採択 さいたく して第 だい 143号 ごう の迅速 じんそく な履行 りこう を迫 せま った[ 77] 。8月9日 にち に採択 さいたく した国連 こくれん 安保理 あんぽり 決議 けつぎ 第 だい 146号 ごう ではカタンガの存在 そんざい について初 はじ めて言及 げんきゅう して第 だい 143号 ごう の履行 りこう も迫 せま ったが、同時 どうじ にONUCはいかなる紛争 ふんそう の解決 かいけつ にも介入 かいにゅう してはならないという項目 こうもく も追加 ついか された[ 78] 。1961年 ねん には、ONUCは2万 まん 人 にん 近 ちか くの兵士 へいし で編成 へんせい されていた[ 79] 。彼 かれ らはカタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい に協力 きょうりょく する外国 がいこく 人 じん 傭兵 ようへい を逮捕 たいほ 出来 でき る権限 けんげん を持 も っていた。1961年 ねん 9月 がつ には武力 ぶりょく を行使 こうし せずにカタンガの傭兵 ようへい 部隊 ぶたい を拘留 こうりゅう するための試 こころ み「モーソー作戦 さくせん 」が展開 てんかい されたが失敗 しっぱい し、銃撃 じゅうげき 戦 せん になった[ 80] 。ONUCが主張 しゅちょう するどちらの側 がわ にも偏 かたよ らないという公平 こうへい 性 せい は9月 がつ 中旬 ちゅうじゅん にジャドヴィル において、ONUCのアイルランド人 じん 部隊 ぶたい が兵 へい 数 すう に勝 まさ るカタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい と6日間 にちかん に及 およ ぶジャドヴィルの包囲 ほうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) を繰 く り広 ひろ げた末 すえ に敗北 はいぼく して捕 と らえられたことで損 そこ なわれた。カタンガは国連 こくれん の活動 かつどう とその支持 しじ 者 しゃ に屈辱 くつじょく を与 あた える戦争 せんそう 捕虜 ほりょ としてアイルランド兵 へい の拘留 こうりゅう を続 つづ けた[ 81] 。
1961年 ねん 9月18日 にち には、ハマーショルドはONUCとカタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい との停戦 ていせん を協議 きょうぎ するためにコンゴとの国境 こっきょう 近 ちか くにある北 きた ローデシアの都市 とし 、ンドラ に飛 と んだ。しかし、彼 かれ の搭乗 とうじょう していた航空機 こうくうき はンドラ空港 くうこう に着陸 ちゃくりく しようとする手前 てまえ で謎 なぞ の墜落 ついらく 事故 じこ を起 お こしてしまい、ハマーショルドを含 ふく めて搭乗 とうじょう 者 しゃ 全員 ぜんいん が死亡 しぼう した(1961年 ねん 国連 こくれん チャーター機 き 墜落 ついらく 事故 じこ )[ 82] 。事件 じけん の状況 じょうきょう はまだ明 あき らかになっていないが、最近 さいきん になってカタンガ兵 へい によって飛行機 ひこうき が撃墜 げきつい されたという証言 しょうげん や、イギリス が撃墜 げきつい に関与 かんよ していたことを示唆 しさ するいくつかの証拠 しょうこ も浮上 ふじょう している[ 83] [ 84] 。
コンゴに対 たい して穏健 おんけん な政策 せいさく を追求 ついきゅう したハマーショルドとは対照 たいしょう 的 てき に、彼 かれ の後任 こうにん のウ・タント はコンゴの紛争 ふんそう に積極 せっきょく 的 てき に介入 かいにゅう する、より急進 きゅうしん 的 てき な政策 せいさく を支持 しじ した[ 82] 。カタンガはONUCが軍 ぐん を撤退 てったい させることに同意 どうい した停戦 ていせん 協定 きょうてい の一環 いっかん として、10月 がつ 中旬 ちゅうじゅん に捕虜 ほりょ としていたアイルランド兵 へい を釈放 しゃくほう した[ 81] 。国連 こくれん のカタンガ政策 せいさく に対 たい するアメリカのジョン・F・ケネディ 新 しん 政権 せいけん の全面 ぜんめん 的 てき 支持 しじ の表明 ひょうめい や1961年 ねん 11月にギゼンガ政府 せいふ の支配 しはい 下 か にあったポールタンパン で発生 はっせい したONUCに参加 さんか したイタリア空軍 くうぐん パイロット13人 にん が殺害 さつがい されたキンドゥの虐殺 ぎゃくさつ (英語 えいご 版 ばん ) の後 のち 、コンゴの分離 ぶんり 活動 かつどう を解決 かいけつ に向 む かわせようとする国際 こくさい 的 てき な需要 じゅよう が高 たか まった[ 82] 。「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ 」と見 み なしていたルムンバの失脚 しっきゃく やアメリカの庇護 ひご の下 した で中央 ちゅうおう 政府 せいふ にシリル・アドゥラ政権 せいけん が樹立 じゅりつ された結果 けっか 、「反共 はんきょう の砦 とりで 」を自認 じにん するチョンベに対 たい してアメリカが好意 こうい 的 てき に接 せっ する必要 ひつよう 性 せい が薄 うす れた[ 85] [ 86] 。何 なに 千 せん 人 にん もの民間 みんかん 人 じん が虐殺 ぎゃくさつ された国民 こくみん 軍 ぐん による4ヶ月 かげつ に及 およ ぶ軍事 ぐんじ 作戦 さくせん の結果 けっか 、1961年 ねん 12月30日 にち にカロンジは逮捕 たいほ され、南 みなみ カサイ国 こく は消滅 しょうめつ した[ 87] 。
1961年 ねん 2月 がつ 21日 にち に採択 さいたく された国連 こくれん 安保理 あんぽり 決議 けつぎ 第 だい 161号 ごう は悪化 あっか する人権 じんけん 状況 じょうきょう に対処 たいしょ して本格 ほんかく 的 てき な内戦 ないせん の勃発 ぼっぱつ を防止 ぼうし するために、ONUCの部隊 ぶたい に武力 ぶりょく 行使 こうし を含 ふく むあらゆる措置 そち を講 こう じることを認 みと めたものであった[ 88] 。同年 どうねん 11月 がつ 24日 にち にアメリカとソ連 それん が一致 いっち して採択 さいたく された国連 こくれん 安保理 あんぽり 決議 けつぎ 第 だい 169号 ごう はカタンガが独立 どくりつ 国家 こっか であるとのい分 いぶん を「完全 かんぜん に拒絶 きょぜつ 」して、「法 ほう と秩序 ちつじょ の回復 かいふく と維持 いじ においてコンゴ中央 ちゅうおう 政府 せいふ を支援 しえん 」するために、ONUCの部隊 ぶたい にあらゆる措置 そち を講 こう じることを認 みと めるという、より踏 ふ み込 こ んだ内容 ないよう になっている[ 89] 。カタンガは挑発 ちょうはつ 行為 こうい をエスカレートさせ、ONUCはこれに対 たい してカタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい が築 きず いたバリケード を解体 かいたい し、戦略 せんりゃく 上 じょう 重要 じゅうよう なエリザベートヴィル周辺 しゅうへん 地域 ちいき を奪取 だっしゅ することを目的 もくてき とした「ウノカト作戦 さくせん 」を開始 かいし した。国際 こくさい 的 てき な圧力 あつりょく に直面 ちょくめん したチョンベは1962年 ねん 12月に中央 ちゅうおう 政府 せいふ の権威 けんい を受 う け入 い れ、カタンガ国 こく 憲法 けんぽう の放棄 ほうき とカタンガ地域 ちいき の分離 ぶんり 独立 どくりつ 要求 ようきゅう を放棄 ほうき することに原則 げんそく 的 てき に同意 どうい するキトナ協定 きょうてい に署名 しょめい した[ 90] 。しかし、宣言 せんげん の後 のち にカタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい はONUCに対 たい する嫌 いや がらせをし続 つづ けてチョンベとアドゥラの話 はな し合 あ いは行 い き詰 づ まりに達 たっ した。カタンガ国 こく に対 たい する支援 しえん が減少 げんしょう し、最大 さいだい の支援 しえん 国 こく であったベルギーですら支援 しえん をためらうようになっていき、この国家 こっか の先 さき がもう長 なが くないことが予感 よかん された[ 82] 。
1962年 ねん 12月24日 にち には、ONUCとカタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい がエリザベートヴィル近郊 きんこう で衝突 しょうとつ し、戦闘 せんとう が勃発 ぼっぱつ した。停戦 ていせん 交渉 こうしょう が行 おこな われたが失敗 しっぱい に終 お わり、ONUCはエリザベートヴィルを占領 せんりょう した直後 ちょくご に停戦 ていせん 合意 ごうい が成立 せいりつ した。ONUCのインド人 じん 部隊 ぶたい は命令 めいれい に背 そむ く行動 こうどう を起 お こしてジャドヴィルを占領 せんりょう し、カタンガ国 こく 支持 しじ 者 しゃ の再 さい 編成 へんせい を未然 みぜん に阻止 そし した[ 91] 。ONUCはカタンガの他 ほか の地域 ちいき を徐々 じょじょ に制圧 せいあつ し、1963年 ねん 1月 がつ 21日 にち にチョンベが最後 さいご の拠点 きょてん としていたコルヴェジ を明 あ け渡 わた したことでカタンガ国 こく は事実 じじつ 上 じょう 消滅 しょうめつ した[ 91] 。
カタンガの分離 ぶんり 状態 じょうたい が終結 しゅうけつ した後 のち に派閥 はばつ は政治 せいじ 的 てき 駆 か け引 ひ きを模索 もさく し始 はじ めた[ 32] 。この交渉 こうしょう と時 じ を同 おな じくしてコンゴ・ブラザヴィルに逃 のが れた反 はん 体制 たいせい 派 は のルムンバ主義 しゅぎ 者 しゃ による亡命 ぼうめい 政治 せいじ 団体 だんたい 、コンゴ解放 かいほう 委員 いいん 会 かい (CNL)が結成 けっせい された[ 92] 。起草 きそう された都市 とし がルルアブール であったことから『ルルアブール憲法 けんぽう (英語 えいご 版 ばん ) 』 の名 な で知 し られる新 あら たな改正 かいせい 憲法 けんぽう によって勢力 せいりょく 均衡 きんこう が引 ひ き起 お こされ、妥協 だきょう の機運 きうん は最高潮 さいこうちょう に達 たっ した[ 32] 。新 しん 憲法 けんぽう は大統領 だいとうりょう 権限 けんげん を強化 きょうか して大統領 だいとうりょう と首相 しゅしょう の共同 きょうどう 協議 きょうぎ 体制 たいせい を終了 しゅうりょう させ、自主 じしゅ 性 せい を高 たか めながら州 しゅう の数 かず をそれまでの6から21までに増 ふ やすことで連邦 れんぽう 主義 しゅぎ 者 しゃ を宥 なだ めた[ 32] [ 93] 。また、新 しん 憲法 けんぽう によって国名 こくめい はコンゴ共和 きょうわ 国 こく からコンゴ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく に改称 かいしょう された[ 32] 。この憲法 けんぽう は1964年 ねん 6月25日 にち から7月 がつ 10日 とおか の間 あいだ に実施 じっし された国民 こくみん 投票 とうひょう によって可決 かけつ され、8月 がつ 1日 にち に公布 こうふ された[ 94] 。カサブブは亡命 ぼうめい カタンガ人 じん 勢力 せいりょく の指導 しどう 者 しゃ であるチョンベを暫定 ざんてい 首相 しゅしょう に任命 にんめい した[ 95] 。チョンベは有能 ゆうのう な人物 じんぶつ と見 み られ、西側 にしがわ 諸国 しょこく からは反共 はんきょう の砦 とりで として支持 しじ されていたものの、モロッコ国王 こくおう ハッサン2世 せい ら他 た のアフリカ諸国 しょこく の指導 しどう 者 しゃ からはカタンガの分離 ぶんり 独立 どくりつ の際 さい に彼 かれ が中心 ちゅうしん 的 てき な役割 やくわり を果 は たしたことで「帝国 ていこく 主義 しゅぎ の傀儡 かいらい 」と非難 ひなん された[ 96] 。
1964年 ねん のコンゴの地図 ちず 。青 あお の地域 ちいき がカサブブ/モブト政府 せいふ 、赤 あか の地域 ちいき がシンバの反乱 はんらん 軍 ぐん 勢力 せいりょく が制圧 せいあつ した領土 りょうど 、黄色 おうしょく の地域 ちいき がクウィルの反乱 はんらん 軍 ぐん 勢力 せいりょく が制圧 せいあつ した領土 りょうど
長 なが い政治 せいじ 危機 きき によって中央 ちゅうおう 政府 せいふ に対 たい する幻滅 げんめつ が広 ひろ まった。首都 しゅと では政争 せいそう が蔓延 はびこ って不安定 ふあんてい な状況 じょうきょう が続 つづ き、泥棒 どろぼう 政治 せいじ からの「第 だい 二 に の独立 どくりつ 」の需要 じゅよう が高 たか まった[ 97] 。「第 だい 二 に の独立 どくりつ 」のスローガン はかつてルムンバ内 ない 閣 かく で教育 きょういく 大臣 だいじん を務 つと めたピエール・ムレレ (英語 えいご 版 ばん ) ら毛沢東 もうたくとう 思想 しそう を掲 かか げるコンゴの革命 かくめい 家 か によって提唱 ていしょう された。コンゴの政情 せいじょう 不安 ふあん は反乱 はんらん の拡大 かくだい を助長 じょちょう してしまった[ 98] 。
コンゴの農村 のうそん の混乱 こんらん はムレレに率 ひき いられたルムンバ支持 しじ 者 しゃ によって扇動 せんどう されたキンブンド族 ぞく やペンデ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) が引 ひ き起 お こした[ 97] [ 99] 。1963年 ねん 末 まつ にはコンゴの中部 ちゅうぶ ・東部 とうぶ 地域 ちいき は混乱 こんらん 状態 じょうたい となった。1964年 ねん 1月 がつ 16日 にち にはクウィル州 しゅう の都市 とし 、イディオファ (英語 えいご 版 ばん ) とグング (英語 えいご 版 ばん ) においてクウィルの反乱 はんらん も勃発 ぼっぱつ した[ 100] 。暴動 ぼうどう と混乱 こんらん はキヴ州 しゅう 、更 さら にはアルベールヴィル にまで広 ひろ がり、コンゴの他 ほか の地域 ちいき にも暴動 ぼうどう が飛 と び火 ひ してしまい、ついにはより大 だい 規模 きぼ なシンバの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) が勃発 ぼっぱつ した[ 100] [ 101] 。反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく は7月 がつ から8月 がつ にかけて保有 ほゆう する領土 りょうど を拡大 かくだい するために北方 ほっぽう へ向 む けて急激 きゅうげき な勢 いきお いで進撃 しんげき を行 おこな い、この期間 きかん にポールタンパン、スタンリーヴィル、パウリス 、リサラ を一挙 いっきょ に制圧 せいあつ した[ 100] 。
「シンバ 」(スワヒリ語 ご でライオン を意味 いみ する)という名 な で知 し られた反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく は大衆 たいしゅう 的 てき であるが、平等 びょうどう を優先 ゆうせん して全体 ぜんたい 的 てき に裕福 ゆうふく な社会 しゃかい の実現 じつげん を目指 めざ す緩 ゆる やかな社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 傾向 けいこう に基 もと づいた、漠然 ばくぜん としたイデオロギー を持 も っていた[ 102] 。活動 かつどう していた革命 かくめい 家 か の多 おお くが反乱 はんらん は政府 せいふ が与 あた えてくれなかった好機 こうき を提供 ていきょう してくれると期待 きたい した若 わか い男性 だんせい であった[ 103] 。シンバは新入 しんにゅう 隊員 たいいん に魔術 まじゅつ をかけたと教 おし え、規範 きはん に従 したが うことで弾丸 だんがん を受 う けても死 し ななくなると信 しん じさせた[ 104] 。シンバ反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく は敵対 てきたい 者 しゃ をこの世 よ から消 け し去 さ るために制圧 せいあつ した領土 りょうど 内 ない で多数 たすう の残虐 ざんぎゃく な殺害 さつがい を犯 おか し、人々 ひとびと を恐怖 きょうふ に陥 おとしい れた[ 105] 。
シンバ反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく はクリストフ・グベニエ (英語 えいご 版 ばん ) を大統領 だいとうりょう としてスタンリーヴィルに首都 しゅと を置 お く新 しん 国家 こっか 、コンゴ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく を建国 けんこく した。新 しん 国家 こっか はソ連 それん や中国 ちゅうごく から軍事 ぐんじ 援助 えんじょ を受 う け、タンザニア を筆頭 ひっとう とする様々 さまざま なアフリカ諸国 しょこく からも支援 しえん された[ 106] 。キューバも戦術 せんじゅつ や教義 きょうぎ についてシンバに助言 じょげん する目的 もくてき でチェ・ゲバラ が率 ひき いる100人 にん 以上 いじょう の顧問 こもん 団 だん を派遣 はけん して支援 しえん していた[ 106] 。シンバの反乱 はんらん が激化 げきか していくのとほぼ同 どう 時期 じき にトンキン湾 わん 事件 じけん が発生 はっせい し、アメリカ軍 ぐん のベトナム への本格 ほんかく 的 てき 介入 かいにゅう の道 みち が開 ひら かれた[ 107] 。
ベルギー軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん の介入 かいにゅう による鎮圧 ちんあつ [ 編集 へんしゅう ]
1964年 ねん 11月24日 にち 。ドラゴン・ルージュ作戦 さくせん を展開 てんかい するためにスタンリーヴィル の飛行場 ひこうじょう に降 お り立 た ったベルギーのパラシュート部隊 ぶたい
1964年 ねん 8月 がつ 末 まつ からシンバ反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく は後退 こうたい を開始 かいし した。アルベールヴィルとリサラは8月 がつ 下旬 げじゅん と9月 がつ 上旬 じょうじゅん に国民 こくみん 軍 ぐん が奪還 だっかん した[ 108] 。モブツと手 て を組 く んだチョンベはシンバを嫌 きら う、かつてはカタンガの分離 ぶんり 主義 しゅぎ 活動 かつどう に貢献 こうけん した元 もと 傭兵 ようへい 連中 れんちゅう を呼 よ び戻 もど した[ 109] 。マイク・ホアー (通称 つうしょう マッド・マイク)が指揮 しき し、中部 ちゅうぶ アフリカ や南部 なんぶ アフリカ出身 しゅっしん の白人 はくじん で編成 へんせい された傭兵 ようへい 部隊 ぶたい は第 だい 5コマンドー部隊 ぶたい の名 な で知 し られている[ 110] 。第 だい 5コマンドー部隊 ぶたい は国民 こくみん 軍 ぐん の陣頭 じんとう 指揮 しき を担当 たんとう したが、広範囲 こうはんい に及 およ ぶ許可 きょか されていない殺害 さつがい に拷問 ごうもん 、略奪 りゃくだつ 行為 こうい 、反乱 はんらん 軍 ぐん から奪還 だっかん した地域 ちいき における大量 たいりょう 強姦 ごうかん を行 おこな っていたことから悪名 あくめい 高 たか かった[ 111] 。ホアーですら記者 きしゃ 会見 かいけん の中 なか で、部下 ぶか について「ゾッとするような凶悪 きょうあく 犯 はん 」と言及 げんきゅう したほどであった[ 112] 。その他 た 、傭兵 ようへい 部隊 ぶたい にはボブ・ディナール が率 ひき いる第 だい 6コマンドー部隊 ぶたい 、ジャン・シュラム が率 ひき いる第 だい 10コマンドー部隊 ぶたい などがあった[ 113] 。これらの傭兵 ようへい 部隊 ぶたい はCIAからも物質 ぶっしつ 的 てき 援助 えんじょ を受 う けていた[ 114] 。
1964年 ねん 11月には敗北 はいぼく を恐 おそ れたシンバ反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく が支配 しはい 地域 ちいき の白人 はくじん 住民 じゅうみん を捕 と らえてスタンリーヴィルに連行 れんこう した。国民 こくみん 軍 ぐん との取引 とりひき 材料 ざいりょう としてスタンリーヴィルの中心 ちゅうしん 部 ぶ にあるヴィクトリアホテルに白人 はくじん の人質 ひとじち が集 あつ められた。人質 ひとじち を解放 かいほう するためにベルギーのパラシュート部隊 ぶたい とアメリカの輸送 ゆそう 機 き のコンゴへの投入 とうにゅう が決定 けってい した。11月24日 にち にはドラゴン・ルージュ作戦 さくせん の一環 いっかん として、ベルギーのパラシュート部隊 ぶたい がスタンリーヴィルに上陸 じょうりく し、人質 ひとじち は即座 そくざ に救出 きゅうしゅつ された[ 115] 。合 あ わせて約 やく 70人 にん の人質 ひとじち と約 やく 1,000人 にん のコンゴの民間 みんかん 人 じん が殺害 さつがい されたが、大半 たいはん は避難 ひなん に成功 せいこう した[ 116] 。ベルギー軍 ぐん は人質 ひとじち を解放 かいほう する命令 めいれい のみを受 う けていたが、シンバ反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく はこの作戦 さくせん の前 まえ に町 まち の外 そと に逃亡 とうぼう してしまい、東部 とうぶ の暴動 ぼうどう は一段落 いちだんらく を迎 むか えた[ 115] 。パラシュート部隊 ぶたい と民間 みんかん 人 じん はその後 ご にベルギーに帰国 きこく した。介入 かいにゅう の余波 よは として、新 しん 植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ に基 もと づく行為 こうい であるとしてベルギーそのものが公的 こうてき に非難 ひなん された[ 117] 。
シンバ反乱 はんらん 軍 ぐん 勢力 せいりょく の抵抗 ていこう は特 とく に東部 とうぶ の南 みなみ キヴ州 しゅう で激 はげ しく、ローラン=デジレ・カビラ が毛沢東 もうたくとう 主義 しゅぎ を掲 かか げて1980年代 ねんだい までこの地 ち の反乱 はんらん を主導 しゅどう した[ 118] 。
1965年 ねん 3月 がつ に実施 じっし された総 そう 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) ではモイーズ・チョンベが全国 ぜんこく 的 てき 政党 せいとう に発展 はってん させたコンゴ国民 こくみん 公会 こうかい (英語 えいご 版 ばん ) (CONACO)とその同盟 どうめい 政党 せいとう が大勝 たいしょう した[ 119] [ 120] 。シンバ反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく の衰退 すいたい によって傭兵 ようへい の軍事 ぐんじ 力 りょく を必要 ひつよう としなくなり、次期 じき 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ の最大 さいだい のライバルとして危険 きけん 視 し したカサブブはチョンベを首相 しゅしょう から解任 かいにん した。次 つ いでカサブブは反 はん チョンベの筆頭 ひっとう であるエヴァリスト・キンバ を新 あら たな首相 しゅしょう に任命 にんめい したが、チョンベ支持 しじ 派 は が多数 たすう を占 し める議会 ぎかい は1965年 ねん 11月14日 にち にキンバの任命 にんめい の批准 ひじゅん を拒否 きょひ した。カサブブも譲 ゆず らずに改 あらた めてキンバが新 しん 首相 しゅしょう であることを宣言 せんげん し、本格 ほんかく 的 てき な政争 せいそう に発展 はってん した[ 120] 。政府 せいふ 機能 きのう が麻痺 まひ 状態 じょうたい になり、11月25日 にち にモブツはまたしても混迷 こんめい した政治 せいじ 状況 じょうきょう を打開 だかい することを表向 おもてむ きな理由 りゆう として二 に 度目 どめ の無血 むけつ クーデターを実行 じっこう し、完全 かんぜん に権力 けんりょく を掌握 しょうあく した[ 120] 。
モブツは5年間 ねんかん 、事実 じじつ 上 じょう の非常 ひじょう 事態 じたい 宣言 せんげん 下 した でほぼ絶対 ぜったい 的 てき な権力 けんりょく を行使 こうし し、それから後 のち にはコンゴに民主 みんしゅ 主義 しゅぎ が回復 かいふく されることになるという将来 しょうらい 構想 こうそう を語 かた った[ 121] 。経済 けいざい 的 てき 安定 あんてい と政治 せいじ 的 てき 安定 あんてい の両方 りょうほう を約束 やくそく したモブツのクーデターはアメリカ及 およ びその他 た の西側 にしがわ 諸国 しょこく から支持 しじ されていた。最初 さいしょ のうちは、彼 かれ の統治 とうち は幅広 はばひろ い層 そう からの人気 にんき を獲得 かくとく した[ 121] 。彼 かれ は1966年 ねん に首相 しゅしょう 職 しょく を廃止 はいし して翌 よく 1967年 ねん には議会 ぎかい を解散 かいさん し、着実 ちゃくじつ にその他 た の権限 けんげん を奪取 だっしゅ した[ 121] 。
1973年 ねん 8月 がつ 12日 にち 。オランダのリッペ=ビーステルフェルト公 こう ベルンハルト王 おう 配 はい とザイール大統領 だいとうりょう モブツ・セセ・セコ
独裁 どくさい 者 しゃ としての地位 ちい を確立 かくりつ したモブツは1965年 ねん に手始 てはじ めに州 しゅう の数 かず を削減 さくげん してその独立 どくりつ した立法 りっぽう 権 けん の多 おお くを廃止 はいし して地方 ちほう の自立 じりつ 性 せい を弱 よわ め、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい を強化 きょうか した[ 122] 。着実 ちゃくじつ に重要 じゅうよう 度 ど の高 たか い役職 やくしょく を彼 かれ の支持 しじ 者 しゃ で固 かた めた[ 121] 。1967年 ねん にモブツは自己 じこ の正当 せいとう 性 せい を示 しめ すために、彼 かれ が制定 せいてい した新 しん 憲法 けんぽう 下 か で1990年 ねん まで国家 こっか の唯一 ゆいいつ の合法 ごうほう 政党 せいとう として存在 そんざい することになる、革命 かくめい 人民 じんみん 運動 うんどう (MPR)を結成 けっせい した。1971年 ねん には国名 こくめい をザイール と改称 かいしょう して植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい の名残 なご りを完全 かんぜん に取 と り除 のぞ くための「ザイール化 か 政策 せいさく (英語 えいご 版 ばん ) 」を推進 すいしん した。UMHKの後身 こうしん 企業 きぎょう であるジェカミン (英語 えいご 版 ばん ) も含 ふく めて全国 ぜんこく の外資 がいし 系 けい 経済 けいざい 資産 しさん を国有 こくゆう 化 か した[ 123] 。1980年代 ねんだい 以降 いこう のモブツ政権 せいけん は失政 しっせい と腐敗 ふはい の代名詞 だいめいし となっていた[ 124] [ 125] 。
コンゴ動乱 どうらん 終結 しゅうけつ 後 ご の数 すう 年間 ねんかん で、モブツは彼 かれ の独裁 どくさい を脅 おびや かす可能 かのう 性 せい のある多 おお くの反対 はんたい 勢力 せいりょく の主要 しゅよう 人物 じんぶつ を排除 はいじょ することに成功 せいこう した。反逆 はんぎゃく 罪 ざい に問 と われたかつてのカタンガ分離 ぶんり 独立 どくりつ 運動 うんどう 指導 しどう 者 しゃ モイーズ・チョンベは1965年 ねん に第 だい 二 に の亡命 ぼうめい 生活 せいかつ を開始 かいし した[ 126] 。1966年 ねん から1967年 ねん にかけて二 に 度 ど にわたり、モブツ政権 せいけん 下 か での待遇 たいぐう に不満 ふまん を感 かん じる約 やく 800人 にん のカタンガ憲兵 けんぺい 隊 たい やかつてチョンベに従 したが っていた元 もと 外人 がいじん 傭兵 ようへい 部隊 ぶたい も関与 かんよ したキサンガニの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) が勃発 ぼっぱつ した[ 127] 。反乱 はんらん は最終 さいしゅう 的 てき に鎮圧 ちんあつ された。1967年 ねん にチョンベは欠席 けっせき 裁判 さいばん で死刑 しけい を宣告 せんこく され、同年 どうねん に搭乗 とうじょう していた飛行機 ひこうき がハイジャック され、アルジェリア で監禁 かんきん された。1969年 ねん の彼 かれ の死 し は自然 しぜん な原因 げんいん によるものとされているが、その死 し にモブツ政権 せいけん が関与 かんよ したという憶測 おくそく が国民 こくみん の間 あいだ にも流 なが れた[ 126] 。かつてのシンバ反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく 幹部 かんぶ ピエール・ムレレはモブツから恩赦 おんしゃ を約束 やくそく され、亡命 ぼうめい 生活 せいかつ を終 お えてコンゴに帰国 きこく したが、この約束 やくそく は反故 ほご にされ、拷問 ごうもん された後 のち に殺害 さつがい された[ 128] 。
動乱 どうらん の間 あいだ に反 はん モブツの反乱 はんらん を率 ひき いたローラン=デジレ・カビラは1997年 ねん 5月16日 にち に反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく 指導 しどう 者 しゃ としてモブツ独裁 どくさい 政権 せいけん の打倒 だとう に成功 せいこう したが[ 129] 、2001年 ねん 1月 がつ 16日 にち に彼 かれ の護衛 ごえい によって暗殺 あんさつ された[ 130] 。彼 かれ の息子 むすこ のジョゼフ・カビラ が後継 こうけい のコンゴ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん し[ 131] 、2011年 ねん 11月に再選 さいせん された[ 132] 。
統一 とういつ ルムンバ主義 しゅぎ 党 とう (英語 えいご 版 ばん ) (PALU)を率 ひき いる旧 きゅう ルムンバ派 は のアントワーヌ・ギゼンガは総 そう 選挙 せんきょ 時 じ にジョゼフ・カビラの支持 しじ に回 まわ り、2006年 ねん 11月から2008年 ねん 9月 がつ まで首相 しゅしょう を務 つと めた[ 133] [ 134] 。
コンゴ動乱 どうらん においてはとりわけ、アメリカや西 にし ヨーロッパ諸国 しょこく が介入 かいにゅう した際 さい に担 にな った役割 やくわり について論争 ろんそう があり、学者 がくしゃ 達 たち は各国 かっこく 政府 せいふ の歪 ゆが みを非難 ひなん している[ 135] 。ベルギー政府 せいふ が実施 じっし した2年間 ねんかん に及 およ ぶパトリス・ルムンバの殺害 さつがい の真相 しんそう に関 かん する調査 ちょうさ により、CIAに後援 こうえん されるベルギーの将校 しょうこう らが関与 かんよ せずに殺害 さつがい を実行 じっこう するのはほぼ不可能 ふかのう であったことが判明 はんめい した。2002年 ねん 2月 がつ 5日 にち 、ベルギーの外相 がいしょう (英語 えいご 版 ばん ) ルイス・ミシェル (英語 えいご 版 ばん ) は41年 ねん 前 まえ のルムンバの殺害 さつがい に関 かん してベルギーの「道義 どうぎ 的 てき な責任 せきにん 」を認 みと めて公式 こうしき に謝罪 しゃざい し、賠償金 ばいしょうきん 代 か わりとしてルムンバ基金 ききん を設立 せつりつ すると発表 はっぴょう した[ 136] 。アメリカでは、国務省 こくむしょう が出版 しゅっぱん した『アメリカ外交 がいこう 文書 ぶんしょ シリーズ 』がコンゴ動乱 どうらん やモブツの権力 けんりょく 掌握 しょうあく へのアメリカの関与 かんよ についてわざと誤解 ごかい を招 まね くような内容 ないよう になっていると学者 がくしゃ 達 たち によって批判 ひはん された[ 135] 。
コンゴ動乱 どうらん の勃発 ぼっぱつ 以降 いこう 、新 あら たに独立 どくりつ したアフリカ諸国 しょこく はかつての宗主 そうしゅ 国 こく との関係 かんけい 構築 こうちく について様々 さまざま な態度 たいど を示 しめ した。穏健 おんけん 派 は 寄 よ りのフランス語 ふらんすご 圏 けん のアフリカ諸国 しょこく はフランスとの関係 かんけい を維持 いじ するためにブラザビル・グループ (英語 えいご 版 ばん ) を形成 けいせい し、急進 きゅうしん 的 てき なアフリカ諸国 しょこく はパン・アフリカ主義 しゅぎ に基 もと づいた連合 れんごう を求 もと めてカサブランカ・グループ (英語 えいご 版 ばん ) を形成 けいせい した[ 137] 。南 みなみ ローデシア は少数 しょうすう 派 は の白人 はくじん が多数 たすう 派 は の黒人 こくじん を支配 しはい する政治 せいじ 体制 たいせい の変更 へんこう を譲 ゆず らずに、イギリスとの交渉 こうしょう が何 なん 度 ど も決裂 けつれつ した後 のち 、一方 いっぽう 的 てき に独立 どくりつ を宣言 せんげん した(ローデシアの一方 いっぽう 的 てき 独立 どくりつ 宣言 せんげん (英語 えいご 版 ばん ) )[ 138] 。
1965年 ねん から1979年 ねん まで行 おこな われたチャド内戦 ないせん (英語 えいご 版 ばん ) では、チャド民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん (英語 えいご 版 ばん ) (FROLINAT)がフランソワ・トンバルバイ 政権 せいけん による南部 なんぶ 優遇 ゆうぐう 策 さく を明白 めいはく に拒否 きょひ して「チャド にはカタンガは存在 そんざい しない」という公式 こうしき 声明 せいめい を発表 はっぴょう した[ 139] 。1967年 ねん から1970年 ねん まで行 おこな われたビアフラ戦争 せんそう では北 きた の民族 みんぞく 集団 しゅうだん の利益 りえき が特権 とっけん 化 か されていて自分 じぶん 達 たち が差別 さべつ されていると主張 しゅちょう するイボ族 ぞく がナイジェリア から分離 ぶんり して独立 どくりつ 国家 こっか を形成 けいせい した。このビアフラ共和 きょうわ 国 こく とカタンガ国 こく の分離 ぶんり 主義 しゅぎ 活動 かつどう は学術 がくじゅつ 論文 ろんぶん で頻繁 ひんぱん に比較 ひかく されてきた[ 140] 。ビアフラはカタンガとは異 こと なり、限 かぎ られた国々 くにぐに から外交 がいこう 上 じょう の承認 しょうにん を受 う けることに成功 せいこう し、地元 じもと の石油 せきゆ 企業 きぎょう に関与 かんよ している西側 にしがわ 諸国 しょこく からの支援 しえん を拒否 きょひ した。ビアフラ共和 きょうわ 国 こく は1970年 ねん に敗北 はいぼく し、ナイジェリアに再 さい 統合 とうごう された[ 141] 。
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