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インディアン戦争 せんそう (インディアンせんそう、英 えい : Indian Wars )は、1622年 ねん から1890年 ねん の間 あいだ の、北 きた アメリカ で白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ (インディアンが呼 よ ぶところのwhite man)とインディアン の間 あいだ で起 お きた戦争 せんそう の総称 そうしょう 。初期 しょき のころからインディアンと白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ の小競 こぜ り合 あ いが続 つづ いていたが、白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ の増加 ぞうか とともに列強 れっきょう による植民 しょくみん 地 ち 戦争 せんそう とも絡 から みながら、大 だい 規模 きぼ 化 か していった北米 ほくべい 植民 しょくみん 地 ち 戦争 せんそう である。この戦争 せんそう は、白人 はくじん 、主 おも にキリスト教徒 きりすときょうと によって行 おこな われた大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ 、民族 みんぞく 浄化 じょうか 、強制 きょうせい 移住 いじゅう であった。これらの戦争 せんそう の影響 えいきょう により、インディアンは今日 きょう でも貧困 ひんこん やアルコール依存 いぞん 症 しょう などの問題 もんだい に苦 くる しみ続 つづ けている。また、インディアンはブラックヒルズ など白人 はくじん に奪 うば われた土地 とち の返還 へんかん を求 もと めて闘 たたか い続 つづ けているが、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 政府 せいふ や政府 せいふ を支持 しじ する人々 ひとびと は現在 げんざい でも土地 とち を返還 へんかん する意向 いこう を示 しめ していない[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 。
そもそもの白人 はくじん とインディアンとの戦争 せんそう は、クリストファー・コロンブス の上陸 じょうりく に始 はじ まるものである。コロンブスは艦隊 かんたい を率 ひき いて、中米 ちゅうべい のインディアン諸 しょ 部族 ぶぞく を数 すう 年 ねん にわたり虐殺 ぎゃくさつ し、その人口 じんこう を激減 げきげん させた。インディアンたちを黄金 おうごん の採集 さいしゅう のために奴隷 どれい 化 か し、生活 せいかつ 権 けん を奪 うば ったためにインディアンたちは飢餓 きが に陥 おちい り、疫病 えきびょう が蔓延 まんえん し、その数 かず をさらに減 へ らした。だが白人 はくじん のもたらした疫病 えきびょう が中米 ちゅうべい のインディアンを減 へ らしたのではなく、コロンブスによる大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ が、疫病 えきびょう によるインディアンの激減 げきげん を招 まね いたのである[2] 。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 以後 いご 、「豊 ゆた かで安 やす い土地 とち 」を求 もと めて白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ が西進 せいしん するようになると、当然 とうぜん そこに住 す むインディアンは邪魔 じゃま 者 しゃ となり、これを排除 はいじょ しようとする合衆国 がっしゅうこく 政府 せいふ とインディアンの撲滅 ぼくめつ 戦争 せんそう と化 か した。インディアンは領土 りょうど を追 お われ、連邦 れんぽう 政府 せいふ が信託 しんたく 保留 ほりゅう する土地 とち 、いわゆる「保留 ほりゅう 地 ち (Reservation)」に押 お し込 こ められることを強要 きょうよう され、激 はげ しく抵抗 ていこう するようになる。
イギリス がアメリカへの入植 にゅうしょく を始 はじ めた1610年代 ねんだい や1620年代 ねんだい は平穏 へいおん に過 す ぎたが、ピクォート戦争 せんそう の起 お こった1637年 ねん 頃 ころ から、入植 にゅうしょく 地 ち の安全 あんぜん を図 はか るためと、さらなる入植 にゅうしょく 地 ち の拡大 かくだい のために、植民 しょくみん 地 ち の白人 はくじん たちはインディアン部族 ぶぞく 間 あいだ の争 あらそ いを利用 りよう し、代理 だいり 戦争 せんそう を行 おこな わせるようになった。この戦争 せんそう は17世紀 せいき (フィリップ王 おう 戦争 せんそう 、ウィリアム王 おう 戦争 せんそう および18世紀 せいき 初頭 しょとう のアン女王 じょおう 戦争 せんそう )からウンデット・ニーの虐殺 ぎゃくさつ で1890年 ねん にアメリカの辺境 へんきょう が「消滅 しょうめつ 」するまで、インディアンの土地 とち を白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ のために没収 ぼっしゅう し、インディアンを征服 せいふく して白人 はくじん に同化 どうか させると同時 どうじ に、インディアン保留 ほりゅう 地 ち へ強制 きょうせい 移住 いじゅう させる、という結果 けっか になっていった。
これら一連 いちれん の戦争 せんそう でアメリカ側 がわ とインディアン側 がわ の受 う けた損失 そんしつ については様々 さまざま な統計 とうけい が示 しめ されてきた。最 もっと も信頼 しんらい に足 た る数字 すうじ はグレゴリー・ミクノなどによる交戦 こうせん 記録 きろく を厳密 げんみつ に照合 しょうごう したものであり、1850年 ねん から1890年 ねん の間 あいだ だけで、21,586人 にん の市民 しみん と兵士 へいし が死亡 しぼう 、負傷 ふしょう 、または捕虜 ほりょ になったとしている。[11] 他 た の数字 すうじ としては、ラッセル・ソーントンなどのやや大雑把 おおざっぱ で関係 かんけい 性 せい の薄 うす い政府 せいふ の資料 しりょう から外 そと 挿 さ したもので、45,000人 にん のインディアンと19,000人 にん の白人 はくじん が殺 ころ されたとしている。この後者 こうしゃ の推定 すいてい 値 ち の中 なか には、辺境 へんきょう の虐殺 ぎゃくさつ によって非 ひ 戦闘 せんとう 員 いん がしばしば殺 ころ されたので、双方 そうほう の女性 じょせい や子供 こども の犠牲 ぎせい 者 しゃ も含 ふく まれている。[12] その他 た にも様々 さまざま な著者 ちょしゃ が、少 すく ない者 もの では5,000人 にん 、多 おお い者 もの では50万 まん 人 にん という数字 すうじ を上 あ げている。ここでの議論 ぎろん に含 ふく まれていないのは、双方 そうほう の残虐 ざんぎゃく さである。インディアンはその残酷 ざんこく な戦 たたか い方 かた で、アメリカは破壊 はかい 的 てき な作戦 さくせん 実行 じっこう で示 しめ した残虐 ざんぎゃく さは、毎年 まいとし のように新聞 しんぶん 、記録 きろく 保管 ほかん 所 しょ 、外交 がいこう 記録 きろく およびアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん (...(イギリスは)辺境 へんきょう の住人 じゅうにん 、戦 たたか い方 かた を知 し っている残酷 ざんこく なインディアンに、年齢 ねんれい 、性別 せいべつ や状態 じょうたい に拘 かか わらず見境 みさかい 無 な い破壊 はかい を奨励 しょうれい している)の中 なか で指摘 してき されてきた。
インディアン戦争 せんそう は小 ちい さな戦争 せんそう の連続 れんぞく であった。インディアンはそれぞれの歴史 れきし を持 も つ様々 さまざま な集団 しゅうだん であった。戦争 せんそう の間 あいだ を通 つう じて、インディアンは「白人 はくじん 」のように一 いち 括 くく りで呼 よ べるような単一 たんいつ の民族 みんぞく では無 な かった。様々 さまざま なやり方 かた で築 きず かれた社会 しゃかい に住 す み、地域 ちいき 的 てき なレベルで戦争 せんそう と和平 わへい の決断 けつだん を下 くだ した。ただし、イロコイ連邦 れんぽう や、スー族 ぞく とシャイアン族 ぞく 、アラパホー族 ぞく の三 さん 部族 ぶぞく 同盟 どうめい 、またテカムセ のような調停 ちょうてい 者 しゃ によって実現 じつげん した一時 いちじ 的 てき な同盟 どうめい のように、公式 こうしき の同盟 どうめい を組 く んで共闘 きょうとう することが多数 たすう 見 み られた。
インディアン戦争 せんそう は大 おお きく分 わ けて、次 つぎ の4つの時代 じだい 区分 くぶん に分 わ けられる。
最初 さいしょ の時代 じだい は白人 はくじん がアメリカに入 はい ってきて手探 てさぐ りでインディアンとの共存 きょうぞん を探 さぐ った時代 じだい である。
次 つぎ の時代 じだい はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が誕生 たんじょう してそれに続 つづ く期間 きかん であり、インディアンからの激 はげ しい抵抗 ていこう があったもののアメリカの文化 ぶんか に同化 どうか しないインディアンが排除 はいじょ されて、ミシシッピ川 がわ から東 ひがし にはほとんどインディアンの居住 きょじゅう 地 ち が無 な くなった時代 じだい である。
3番目 ばんめ の時代 じだい はミシシッピ川 がわ の西 にし に白人 はくじん の入植 にゅうしょく が進 すす み、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の国力 こくりょく が充実 じゅうじつ してきてアメリカ西部 せいぶ のインディアンが屈服 くっぷく させられていった時代 じだい である。
4番目 ばんめ は、20世紀 せいき に入 はい ってインディアン条約 じょうやく が合衆国 がっしゅうこく 側 がわ から破棄 はき され、部族 ぶぞく そのものが消滅 しょうめつ させられ始 はじ めた時代 じだい である。
クレイジー・ホース らが参加 さんか した、インディアンの連合 れんごう 軍 ぐん がカスター中佐 ちゅうさ の第 だい 7騎兵隊 きへいたい を撃退 げきたい 全滅 ぜんめつ させるなどの戦果 せんか もあったが、ジェロニモ の降伏 ごうぶく やウンデット・ニーの虐殺 ぎゃくさつ 以降 いこう 、インディアンによる軍事 ぐんじ 的 てき な反乱 はんらん はなくなった。代 か わって、20世紀 せいき になってからの「レッド・パワー運動 うんどう 」に代表 だいひょう される、権利 けんり 回復 かいふく 要求 ようきゅう 運動 うんどう が現代 げんだい のインディアン戦争 せんそう となった。黄金 おうごん に代 か わってウラニウムや石炭 せきたん 、水 みず といった保留 ほりゅう 地 ち の地下 ちか 資源 しげん が、合衆国 がっしゅうこく の収奪 しゅうだつ 対象 たいしょう となった。現代 げんだい の「インディアン戦争 せんそう 」は、地下 ちか 資源 しげん の収奪 しゅうだつ と環境 かんきょう 汚染 おせん 、そして「西部 せいぶ 劇 げき 映画 えいが 」や「インディアン・マスコット 」問題 もんだい に象徴 しょうちょう されるメディアやスポーツにおける歪曲 わいきょく された民族 みんぞく イメージの概念 がいねん 固定 こてい 化 か が大 おお きな問題 もんだい となっている[13] 。
1973年 ねん にスー族 ぞく 保留 ほりゅう 地 ち 内 うち の「ウンデット・ニー 」で、オグララ・スー族 ぞく と「アメリカインディアン運動 うんどう (AIM)」が同地 どうち を占拠 せんきょ し、「オグララ国 こく 」の独立 どくりつ 宣言 せんげん を行 おこな った「ウンデッド・ニー占拠 せんきょ 抗議 こうぎ (英語 えいご 版 ばん ) 」(のちの連邦 れんぽう 裁判 さいばん で無罪 むざい 判決 はんけつ を受 う けた)では、全米 ぜんべい からインディアンが応援 おうえん 参加 さんか し、非 ひ 武装 ぶそう のインディアンたちに対 たい して合衆国 がっしゅうこく とサウスダコタ州 しゅう が戦車 せんしゃ や戦闘 せんとう ヘリを投入 とうにゅう した武力 ぶりょく 鎮圧 ちんあつ となった。
2003年 ねん 、100年 ねん 近 ちか くに及 およ ぶインディアンたちの要求 ようきゅう 運動 うんどう によって、「リトルビッグホーンの戦 たたか い 」の主戦 しゅせん 場 じょう が「カスター国立 こくりつ 記念 きねん 戦場 せんじょう 」から「リトルビッグホーン国立 こくりつ 記念 きねん 戦場 せんじょう 」に名称 めいしょう 変更 へんこう された。同時 どうじ に「インディアン戦争 せんそう 」を戦 たたか ったインディアンたちの「インディアン記念 きねん 碑 ひ 」が建立 こんりゅう され、地図 ちず と解説 かいせつ の書 か かれた石壁 いしかべ が設置 せっち された。この石壁 いしかべ には次 つぎ のような文言 もんごん が彫 ほ り込 こ まれている。
“The Indian Wars Are Not Over.”(インディアン戦争 せんそう は終 お わっていない )
戦争 せんそう の根本 こんぽん 要因 よういん [ 編集 へんしゅう ]
この節 ふし は中立 ちゅうりつ 的 てき な観点 かんてん に基 もと づく疑問 ぎもん が提出 ていしゅつ されているか、議論 ぎろん 中 ちゅう です 。
そのため、中立 ちゅうりつ 的 てき でない偏 かたよ った観点 かんてん から記事 きじ が構成 こうせい されているおそれがあり、場合 ばあい によっては記事 きじ の修正 しゅうせい が必要 ひつよう です。議論 ぎろん はノート を参照 さんしょう してください。 (2020年 ねん 3月 がつ )
コロンブスの上陸 じょうりく 以来 いらい 、白人 はくじん たちはインディアン 部族 ぶぞく が、アフリカの部族 ぶぞく 社会 しゃかい のような「酋長 しゅうちょう が支配 しはい する首長 しゅちょう 制 せい の部族 ぶぞく 社会 しゃかい である」と勘違 かんちが いしていた。実際 じっさい にはインディアンの社会 しゃかい は完全 かんぜん 合議 ごうぎ 制 せい の民主 みんしゅ 的 てき 社会 しゃかい であり、「王 おう 」や「首長 しゅちょう 」のような個人 こじん の権力 けんりょく 者 しゃ は存在 そんざい しない。「大 おお いなる神秘 しんぴ 」のもと、人 ひと と動物 どうぶつ すら明確 めいかく に区分 くぶん されず、平等 びょうどう に共有 きょうゆう されるのがインディアンの社会 しゃかい であり、まして大地 だいち は誰 だれ のものでもなかった。
土地 とち に関 かん する誤解 ごかい [ 編集 へんしゅう ]
合衆国 がっしゅうこく は植民 しょくみん 地 ち 化 か を進 すす めるにあたり、まずインディアンから領土 りょうど を「購入 こうにゅう 」しようとし、「物品 ぶっぴん 」と引 ひ き換 か えにこれを行 おこな った(つもりだった)。しかし、これは、インディアンの共同 きょうどう 体 たい から見 み れば「白人 はくじん が贈 おく り物 もの をして、ここに住 す まわせてくれと言 い って来 き た」ということになる。白人 はくじん は「ここから出 で て行 い ってくれ」と言 い ったつもりだが、インディアンはこれを理解 りかい していない。元 もと より彼 かれ らに「土地 とち を売 う り買 か いする」という文化 ぶんか 習慣 しゅうかん が無 な いからである。
インディアンは和平 わへい を結 むす ぶ際 さい 、和平 わへい の「ロングハウス」、「ティーピー 」などで「会議 かいぎ の火 ひ 」を囲 かこ んで車座 くるまざ になり、「聖 せい なるパイプ 」で煙草 たばこ を回 まわ し飲 の みし、「大 おお いなる神秘 しんぴ 」に和平 わへい を誓 ちか う。全 すべ ての存在 そんざい が「大 おお いなる神秘 しんぴ 」の中 なか にあると考 かんが えるインディアンにとって、「大 おお いなる神秘 しんぴ 」との盟約 めいやく であるこの行為 こうい を破 やぶ ることは絶対 ぜったい にあってはいけない誓 ちか いである。
白人 はくじん たちは上記 じょうき にあるように「土地 とち を買 か った」つもりでいるので、この誓 ちか いを破 やぶ った。インディアンを追 お い出 だ そうとし、あまつさえ彼 かれ らを武力 ぶりょく で虐殺 ぎゃくさつ したのである。「インディアン戦争 せんそう 」は起 お こるべくして起 お こったのだ。
部族 ぶぞく の制度 せいど に関 かん する誤解 ごかい [ 編集 へんしゅう ]
インディアン戦争 せんそう の中 なか で、白人 はくじん たちは酋長 しゅうちょう を部族 ぶぞく の代表 だいひょう 、部族 ぶぞく 長 ちょう だと考 かんが えていた。「部族 ぶぞく 民 みん たちが敬愛 けいあい する大 だい 戦士 せんし 」を大 だい 酋長 しゅうちょう だと思 おも い込 こ んで彼 かれ らをそう呼 よ んだ。白人 はくじん には大 だい 戦士 せんし も酋長 しゅうちょう も見分 みわ けがつかなかった。酋長 しゅうちょう (Chief) とは実際 じっさい には、部族 ぶぞく の調停 ちょうてい 者 しゃ 、世話 せわ 役 やく 、あるいは奉仕 ほうし 者 しゃ であって指導 しどう 者 しゃ でも部族 ぶぞく 長 ちょう でもない。インディアンの社会 しゃかい に指導 しどう 者 しゃ も部族 ぶぞく 長 ちょう もいない。個人 こじん が権力 けんりょく を持 も つ上意下達 じょういかたつ のシステムを持 も たないのである[14] 。
しかるに白人 はくじん たちはインディアン戦争 せんそう を行 おこな うにあたって、酋長 しゅうちょう あるいは大 だい 戦士 せんし を部族 ぶぞく 長 ちょう だと思 おも い込 こ み、和平 わへい の調停 ちょうてい や交渉 こうしょう の責任 せきにん 者 しゃ とみなした。酋長 しゅうちょう の署名 しょめい として「×印 しるし 」を書 か かせ(インディアンは文字 もじ を持 も たない)、これを「部族 ぶぞく の総意 そうい 」と解釈 かいしゃく したのである。もちろんこれは全 まった くの誤解 ごかい であって、合議 ごうぎ を経 へ ていない部族 ぶぞく の総意 そうい はあり得 え ず、インディアンの戦士 せんし たちは戦 たたか いをやめなかった。
またインディアンの戦士 せんし 団 だん を白人 はくじん は「司令 しれい 官 かん が統率 とうそつ する軍団 ぐんだん 」だと勘違 かんちが いしていた。これもまた全 まった くの思 おも い違 ちが いで、インディアンの戦 たたか いは自由 じゆう 参加 さんか であって、彼 かれ らは軍 ぐん でも兵 へい でもなく、誰 だれ に率 ひき いられるような集団 しゅうだん でもない。合衆国 がっしゅうこく はしばしば「インディアンが協定 きょうてい を破 やぶ って攻撃 こうげき した」としているが、協定 きょうてい を破 やぶ っているのは白人 はくじん 側 がわ だった。
インディアンの社会 しゃかい は細 こま かいバンド(集団 しゅうだん )に細分 さいぶん されており、それぞれが自治 じち を保 たも ち自分 じぶん たちの判断 はんだん で動 うご いていた。すなわちインディアンの部族 ぶぞく は一枚岩 いちまいいわ ではなかった。これをまとめて従 したが わせようとする合衆国 がっしゅうこく の考 かんが え自体 じたい に無理 むり があった。インディアンの部族 ぶぞく で、最終 さいしゅう 的 てき な判断 はんだん を決 き めるのは長老 ちょうろう と酋長 しゅうちょう たちの大 だい 合議 ごうぎ だけである。これは現在 げんざい のインディアン社会 しゃかい でも変 か わらない。
こうして「インディアン戦争 せんそう 」において合衆国 がっしゅうこく は本来 ほんらい は交渉 こうしょう 役 やく である酋長 しゅうちょう を「戦争 せんそう の司令 しれい 官 かん 」だと誤解 ごかい し、彼 かれ らの殺害 さつがい に力 ちから を注 そそ ぎ彼 かれ らを捕 と らえては死体 したい を散々 さんざん に凌辱 りょうじょく した。根本 こんぽん 的 てき に白人 はくじん たちはインディアン文化 ぶんか を勘違 かんちが いしたまま延々 えんえん とインディアンの虐殺 ぎゃくさつ を繰 く り返 かえ したのである[15] 。
白人 はくじん の植民 しょくみん 期 き [ 編集 へんしゅう ]
1620年 ねん にピルグリム・ファーザーズ がアメリカ東海岸 ひがしかいがん のプリマス植民 しょくみん 地 ち に到着 とうちゃく した頃 ころ は、インディアンと白人 はくじん の友好 ゆうこう 関係 かんけい があった。厳 きび しい冬 ふゆ を越 こ すために、むしろインディアンに助 たす けられて入植 にゅうしょく 者 しゃ が定着 ていちゃく できたという面 めん もあった。ただし、全 すべ ての地域 ちいき でインディアンが友好 ゆうこう 的 てき に白人 はくじん を迎 むか えたわけではなく、インディアンに様々 さまざま な部族 ぶぞく があったように、白人 はくじん を迎 むか えたインディアンの対応 たいおう は様々 さまざま であり、16世紀 せいき 前半 ぜんはん のフロリダ のように有無 うむ を言 い わせず退去 たいきょ させられた例 れい もあった。17世紀 せいき 前半 ぜんはん のフランス の場合 ばあい は、敵対 てきたい するインディアンの一方 いっぽう に荷担 かたん して、まだ銃火 じゅうか 器 き を持 も たないインディアンを圧倒 あっとう するようなことがあった。
インディアンは、その狩猟 しゅりょう 生活 せいかつ に貴重 きちょう な道具 どうぐ となった銃 じゅう を供給 きょうきゅう してくれ、かつ様々 さまざま な商品 しょうひん を交易 こうえき したり贈 おく り物 もの を届 とど けてくれる白人 はくじん とは友好 ゆうこう 的 てき な関係 かんけい を保 たも った。しかし、いち早 はや く銃 じゅう を持 も った部族 ぶぞく は他 た の部族 ぶぞく を圧倒 あっとう する力 ちから を持 も つようになった。17世紀 せいき 前半 ぜんはん のイロコイ連邦 れんぽう がまさにこの典型 てんけい 的 てき な例 れい であり、アメリカ北東 ほくとう 部 ぶ のかなり広 ひろ い範囲 はんい を勢力 せいりょく 下 か に収 おさ めることになった。
ジェームズタウン とイギリス人 じん が名付 なづ けた最初 さいしょ 期 き の植民 しょくみん 地 ち では、植民 しょくみん 請負人 うけおいにん ジョン・スミス が、飢 う えた入植 にゅうしょく 者 しゃ の食料 しょくりょう 確保 かくほ のために、各地 かくち のインディアンの村 むら を襲 おそ い、酋長 しゅうちょう を人質 ひとじち にとり、物品 ぶっぴん ・食料 しょくりょう を強奪 ごうだつ した。スミスはポウハタン酋長 しゅうちょう を「ポウハタン族 ぞく の皇帝 こうてい である」と大 だい 英 えい 帝国 ていこく に出鱈目 でたらめ な報告 ほうこく を行 おこな い、対 たい インディアン政策 せいさく を誤解 ごかい の下 した に進 すす めさせるきっかけを作 つく っている。
一方 いっぽう で、白人 はくじん の持 も ち込 こ んだ様々 さまざま な疫病 えきびょう は、免疫 めんえき を持 も たないインディアン部族 ぶぞく を激減 げきげん させ、その力 ちから を削 そ いでいった。絶滅 ぜつめつ した部族 ぶぞく も多 おお く、縮小 しゅくしょう した部族 ぶぞく の多 おお くが別 べつ 部族 ぶぞく の傘下 さんか に入 はい り、北東 ほくとう 部 ぶ での勢力 せいりょく 図 ず は白人 はくじん との戦争 せんそう と疫病 えきびょう によって大 おお きく変 か えられていったのである。
最初 さいしょ の抗 こう 争 そう [ 編集 へんしゅう ]
1610年代 ねんだい から様々 さまざま な理由 りゆう で、多 おお くの小競 こぜ り合 あ いが入植 にゅうしょく 者 しゃ とインディアンの間 あいだ で行 おこ なわれた。最初 さいしょ の抗 こう 争 そう がどの戦闘 せんとう であるかは諸説 しょせつ あるが、ジェームズタウンの虐殺 ぎゃくさつ がよく知 し られている。
1622年 ねん 3月22日 にち 、アルゴンキン のポウハタン族 ぞく のオプチャンカノフ (英語 えいご 版 ばん ) がバージニア植民 しょくみん 地 ち を攻撃 こうげき し、ジェームズタウン で347人 にん が死亡 しぼう した。
インディアンと白人 はくじん の抗 こう 争 そう の開始 かいし [ 編集 へんしゅう ]
インディアンと白人 はくじん の間 あいだ で大 だい 規模 きぼ な抗 こう 争 そう に発展 はってん した最初 さいしょ 期 き のものは、1637年 ねん のピクォート戦争 せんそう が挙 あ げられる。この戦争 せんそう は、イギリス人 じん 交易 こうえき 業者 ぎょうしゃ の1隊 たい が殺 ころ されたことに端 はし を発 はっ し、マサチューセッツ湾 わん 植民 しょくみん 地 ち とプリマス植民 しょくみん 地 ち の白人 はくじん が、ピクォート族 ぞく と敵対 てきたい していたモヘガン族 ぞく を利用 りよう してピクォート族 ぞく を殲滅 せんめつ するという結果 けっか になった。入植 にゅうしょく 初期 しょき のピルグリム・ファーザーズは、インディアンから土地 とち を購入 こうにゅう するという形 かたち を採 と っていたが、この頃 ころ から清教徒 せいきょうと が大挙 たいきょ して入植 にゅうしょく するようになり、入植 にゅうしょく 者 しゃ が勝手 かって にインディアンの土地 とち に入 はい り込 こ むというような形態 けいたい が生 う まれた。
1650年代 ねんだい になると、イロコイ族 ぞく がヌーベルフランス の入植 にゅうしょく 者 しゃ を襲 おそ うようになった。これに対 たい してフランスが軍隊 ぐんたい を組織 そしき して反撃 はんげき を行 おこな い、一時 いちじ 的 てき に休戦 きゅうせん 時期 じき はあったものの、この敵対 てきたい 関係 かんけい は約 やく 半 はん 世紀 せいき 続 つづ いた。この戦争 せんそう はビーバー戦争 せんそう と呼 よ ばれる。イロコイ族 ぞく のように一時 いちじ 敵対 てきたい していたものが一旦 いったん 和平 わへい を結 むす ぶと、その同盟 どうめい 相手 あいて が他 た の白人 はくじん と戦争 せんそう を行 おこな う場合 ばあい は強力 きょうりょく な戦力 せんりょく となった。
17世紀 せいき 中頃 なかごろ から後半 こうはん にかけて、ニューイングランド は何 なん 度 ど も疫病 えきびょう の流行 りゅうこう に悩 なや まされ、免疫 めんえき 力 りょく の無 な いインディアンが大 おお きくその数 かず を減 へ らした。1670年代 ねんだい のニューイングランド南部 なんぶ の人口 じんこう は、白人 はくじん 35,000人 にん に対 たい してインディアン15,000人 にん と大 おお きく逆転 ぎゃくてん していた。1675年 ねん 、それまで白人 はくじん に対 たい して友好 ゆうこう 的 てき な姿勢 しせい で臨 のぞ んできたワンパノアグ族 ぞく のメタコメット たちが反旗 はんき を翻 ひるがえ した。白人 はくじん はメタコメットを「指導 しどう 者 しゃ 」と勘違 かんちが いして「フィリップ王 おう 」と呼 よ んでいたので、この戦争 せんそう はフィリップ王 おう 戦争 せんそう と呼 よ ばれている。ワンパノアグ族 ぞく の攻撃 こうげき でポートランド などの入植 にゅうしょく 地 ち は壊滅 かいめつ 的 てき に破壊 はかい されたが、ニューイングランドを挙 あ げての反撃 はんげき と他 た のインディアン部族 ぶぞく も白人 はくじん に味方 みかた したことで、ワンパノアグ族 ぞく も最後 さいご は大敗 たいはい し、その人口 じんこう は10分 ぶん の1以下 いか になったとされている。
18世紀 せいき に入 はい って、それまで比較的 ひかくてき 平穏 へいおん であったカロライナ植民 しょくみん 地 ち で、インディアンの反乱 はんらん が続 つづ いた。1711年 ねん に始 はじ まったタスカローラ戦争 せんそう と、その終結 しゅうけつ 後 ご 、間 あいだ も無 な い1715年 ねん のヤマシー戦争 せんそう である。タスカローラ戦争 せんそう で敗 やぶ れたタスカローラ族 ぞく の残党 ざんとう は北 きた へ逃 のが れてイロコイ連邦 れんぽう に合流 ごうりゅう した。同様 どうよう にヤマシー戦争 せんそう で敗 やぶ れたクリーク族 ぞく は南 みなみ に逃 のが れ、一部 いちぶ はスペイン領 りょう フロリダ に入 はい ってセミノール族 ぞく と連合 れんごう を組 く み、その抵抗 ていこう は19世紀 せいき 半 なか ばまで続 つづ いた。
インディアンを巻 ま き込 こ んだヨーロッパ列強 れっきょう の対立 たいりつ [ 編集 へんしゅう ]
1688年 ねん に始 はじ まった大 だい 同盟 どうめい 戦争 せんそう 以降 いこう 、ヨーロッパでの対立 たいりつ 構図 こうず がそのまま北 きた アメリカ に持 も ち込 こ まれ、主 おも にイギリスの北 きた アメリカ植民 しょくみん 地 ち とフランスのヌーベルフランス との間 あいだ に抗 こう 争 そう が繰 く り返 かえ された。すなわち1689年 ねん のウィリアム王 おう 戦争 せんそう 、1702年 ねん のアン女王 じょおう 戦争 せんそう 、1722年 ねん のラル神父 しんぷ 戦争 せんそう 、1744年 ねん のジョージ王 おう 戦争 せんそう 、1749年 ねん のル・ロウター神父 しんぷ の戦争 せんそう および1756年 ねん のフレンチ・インディアン戦争 せんそう である。これらを総称 そうしょう して北米 ほくべい 植民 しょくみん 地 ち 戦争 せんそう とも呼 よ ばれる。フランスとイギリスは、必 かなら ずその同盟 どうめい インディアンを戦争 せんそう に動員 どういん して戦 たたか った。
アメリカ植民 しょくみん 地 ち やヌーベルフランスでは、フランスの同盟 どうめい 相手 あいて は五大 ごだい 湖 みずうみ 地方 ちほう のアルゴンキン語族 ごぞく 系 けい インディアン部族 ぶぞく であったが、南部 なんぶ フランス領 りょう ルイジアナ ではチョクトー族 ぞく が同盟 どうめい 相手 あいて であった。これに対 たい してイギリスはそれぞれフランスと同盟 どうめい する部族 ぶぞく と敵対 てきたい 的 てき な部族 ぶぞく を選 えら び、北部 ほくぶ ではイロコイ族 ぞく 、南部 なんぶ ではチカソー族 ぞく と同盟 どうめい を結 むす んだ。ミシシッピ川 がわ の通行 つうこう が絡 から むフランス・チョクトー族 ぞく 同盟 どうめい 軍 ぐん とチカソー族 ぞく の戦 たたか いは、チカソー戦争 せんそう (1720-1760) と呼 よ ばれる。
この時期 じき の特徴 とくちょう 的 てき なことは、アメリカ東海岸 ひがしかいがん にほとんどインディアンがいなくなったことである。住 す んでいるとすれば、ほとんど植民 しょくみん 地 ち 人 じん の生活 せいかつ 習慣 しゅうかん を受 う け入 い れ、社会 しゃかい 的 てき また宗教 しゅうきょう 的 てき にも同化 どうか してきたインディアンであり、政府 せいふ のインディアン部局 ぶきょく に所属 しょぞく して代理人 だいりにん を務 つと めたり、一部 いちぶ では混血 こんけつ も進 すす められて農園 のうえん を所有 しょゆう する者 もの すら現 あらわ れた。植民 しょくみん 地 ち 社会 しゃかい に同化 どうか できないインディアンは内陸 ないりく 部 ぶ に後退 こうたい し、植民 しょくみん 地 ち との交易 こうえき を続 つづ けて和平 わへい を保 たも つか、入植 にゅうしょく 者 しゃ に対 たい して敵対 てきたい 的 てき な行動 こうどう を行 おこな って植民 しょくみん 地 ち の白人 はくじん に反撃 はんげき を食 く らい、また内陸 ないりく に引 ひ っ込 こ むという悪循環 あくじゅんかん を繰 く り返 かえ した。
これらの戦争 せんそう の結果 けっか 、最終 さいしゅう 的 てき に1763年 ねん のパリ条約 じょうやく でフランスが北 きた アメリカの植民 しょくみん 地 ち を放棄 ほうき したことで、情勢 じょうせい が一気 いっき に変 か わった。カナダ からメキシコ湾 わん まで広大 こうだい な植民 しょくみん 地 ち を支配 しはい することになったイギリスと、それまでフランスやスペイン と友好 ゆうこう 的 てき な関係 かんけい を築 きず いてきたインディアン部族 ぶぞく との間 あいだ に対立 たいりつ が生 う まれることになった。
イギリス対 たい インディアン [ 編集 へんしゅう ]
イギリスは1763年 ねん にフランス領 りょう アメリカ を獲得 かくとく すると、1763年 ねん 宣言 せんげん を発 はっ してアパラチア山脈 さんみゃく より西 にし への白人 はくじん の入植 にゅうしょく を禁 きん じた。これは白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ とインディアンとの抗 こう 争 そう を恐 おそ れたことが強 つよ い動機 どうき となって発 はっ せられたものであった。しかし、それまでフランスと同盟 どうめい していたインディアン部族 ぶぞく がポンティアック酋長 しゅうちょう の呼 よ びかけに応 おう じて同盟 どうめい を結 むす び、ポンティアック戦争 せんそう と呼 よ ばれる反乱 はんらん を起 お こした。この戦争 せんそう に加 くわ わったのは五大 ごだい 湖 みずうみ 、オハイオ領土 りょうど 、イリノイ郡 ぐん と広範 こうはん な地域 ちいき に及 およ ぶ多 おお くの部族 ぶぞく だった。この戦争 せんそう は、それまで部族 ぶぞく それぞれで動 うご くことの多 おお かったインディアンたちが、多 おお くの部族 ぶぞく が共同 きょうどう して反抗 はんこう する可能 かのう 性 せい を実現 じつげん した一 ひと つの事例 じれい となった。
1763年 ねん 宣言 せんげん は、実質 じっしつ 的 てき にはポンティアック戦争 せんそう の開戦 かいせん 後 ご に発 はっ せられ、戦争 せんそう を終了 しゅうりょう させる条約 じょうやく の中 なか でも交渉 こうしょう 材料 ざいりょう として使 つか われた。しかし、植民 しょくみん 地 ち の白人 はくじん の西方 せいほう 領土 りょうど 解放 かいほう 要求 ようきゅう を抑 おさ えることはできず、新 あら たなインディアンとの抗 こう 争 そう の火種 ひだね となった上 うえ に、植民 しょくみん 地 ち の白人 はくじん の不満 ふまん も増幅 ぞうふく させ、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の原因 げんいん の一 ひと つになった。そのような中 なか で1773年 ねん のダンモアの戦争 せんそう が起 お こった。オハイオ川 がわ の南 みなみ まで侵入 しんにゅう して来 き た入植 にゅうしょく 者 しゃ をショーニー族 ぞく やミンゴ族 ぞく インディアンが襲 おそ ったことに端 はし を発 はっ し、バージニア 知事 ちじ のダンモア卿 きょう が軍 ぐん を発 はっ して鎮 しず めるという結果 けっか に終 お わったが、この戦 たたか いを境 さかい に、イギリス対 たい インディアンという戦 たたか いの構図 こうず は、登場 とうじょう 人物 じんぶつ は同 おな じだがアメリカの植民 しょくみん 地 ち 人 じん 対 たい インディアンという構図 こうず に変 か わっていった。
ミシシッピ川 がわ の東 ひがし (1775年 ねん -1842年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
この期間 きかん の戦争 せんそう は新 あたら しく建国 けんこく されたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に対 たい するインディアンによるものであり、米 べい 墨 ぼく 戦争 せんそう の直前 ちょくぜん までを一 ひと つの区切 くぎ りとしている。
インディアン戦争 せんそう 中 ちゅう の主 おも な戦 たたか い ミシシッピ川 がわ の東 ひがし
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう は基本 きほん 的 てき に2本 ほん の平行 へいこう した戦線 せんせん があった。1つは東部 とうぶ のイギリス支配 しはい に対 たい するものであり、もう1つは西部 せいぶ のインディアン戦争 せんそう であった。新 あたら しく出来 でき たばかりのアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は、ミシシッピ川 がわ の東 ひがし にいるイギリスと同盟 どうめい したインディアンと戦 たたか うことになった。西方 せいほう へ入植 にゅうしょく 地 ち を拡 ひろ げたいという植民 しょくみん 地 ち の関心 かんしん は、イギリスがインディアンとの間 あいだ に和平 わへい を保 たも つという政策 せいさく を採 と ったために独立 どくりつ 戦争 せんそう の原因 げんいん の一 ひと つにもなった。イギリス側 がわ に付 つ いたインディアンは自分 じぶん 達 たち の土地 とち を侵略 しんりゃく してくる入植 にゅうしょく 者 しゃ の波 なみ を止 と めることを戦争 せんそう に期待 きたい していた。独立 どくりつ 戦争 せんそう の西部 せいぶ 戦線 せんせん はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の歴史 れきし の中 なか で「最 もっと も広範 こうはん で破壊 はかい 的 てき な」インディアン戦争 せんそう となった。[16]
多 おお くのインディアン社会 しゃかい では、この戦争 せんそう でどちらの側 がわ に付 つ くかで分 わ かれた。イロコイ連邦 れんぽう は独立 どくりつ 戦争 せんそう で内乱 ないらん 状態 じょうたい になった。チェロキー族 ぞく は中立 ちゅうりつ 派 は (あるいはアメリカ派 は )と反 はん アメリカ派 は に分 わ かれ、反 はん アメリカ派 は はツィユグンシニ(ドラァギング・カヌー)たちの戦士 せんし 団 だん がチカマウガ戦争 せんそう を戦 たたか った。他 た の多 おお くの部族 ぶぞく 社会 しゃかい も同様 どうよう に分裂 ぶんれつ した。
辺境 へんきょう での戦争 せんそう は特 とく に残虐 ざんぎゃく を極 きわ めた。多 おお くの残虐 ざんぎゃく 行為 こうい がどちらの側 がわ にもあった。白人 はくじん ・インディアン双方 そうほう 共 とも に多 おお くの女 おんな 子供 こども が犠牲 ぎせい になり、軍隊 ぐんたい の遠征 えんせい のために集落 しゅうらく や食料 しょくりょう の農場 のうじょう と倉庫 そうこ がしばしば破壊 はかい された。この遠征 えんせい の中 なか でも最大 さいだい のものは1779年 ねん のサリバン遠征 えんせい 部隊 ぶたい によるものだった。この時 とき は40以上 いじょう のイロコイ族 ぞく 集落 しゅうらく を破壊 はかい してニューヨーク州 しゅう 北部 ほくぶ のイロコイ族 ぞく を全滅 ぜんめつ させた。しかし、この遠征 えんせい の戦果 せんか は上々 じょうじょう とはいかず、インディアンの反発 はんぱつ をより強 つよ めた。
インディアンたちは、1783年 ねん にイギリスがアメリカとパリ条約 じょうやく を結 むす んで停戦 ていせん したとき、インディアンには何 なに も知 し らせないままにインディアンの広大 こうだい な領土 りょうど をアメリカに渡 わた してしまったことを知 し って驚愕 きょうがく した。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は当初 とうしょ 、イギリス側 がわ に付 つ いて戦 たたか ったインディアンを、土地 とち を失 うしな った被 ひ 征服 せいふく 民 みん として扱 あつか った。アメリカは、「インディアンは紙 かみ の上 うえ で戦争 せんそう に負 ま けたのであり、戦場 せんじょう ではなかった」という考 かんが え方 かた をインディアンに押 お しつけることが不可能 ふかのう と分 わ かった時 とき 、その政策 せいさく を放棄 ほうき した。使 つか える土地 とち を拡 ひろ げたかった連邦 れんぽう 政府 せいふ が次 つぎ に打 う った手 て は、インディアンとの条約 じょうやく で土地 とち を購入 こうにゅう することのみで拡 ひろ げることだった。各州 かくしゅう や入植 にゅうしょく 白人 はくじん はこの政策 せいさく に反発 はんぱつ し、さらに土地 とち を奪 うば い合 あ っての戦争 せんそう が続 つづ くことになった。
チカマウガ戦争 せんそう はアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう に巻 ま き込 こ まれたチェロキー族 ぞく と入植 にゅうしょく 白人 はくじん の間 あいだ の一連 いちれん の紛争 ふんそう であり、1794年 ねん まで続 つづ いた。チカマウガとは、最初 さいしょ はオーバーヒル集落 しゅうらく から、後 のち にはローワー集落 しゅうらく 、バレー集落 しゅうらく およびミドル集落 しゅうらく のチェロキー族 ぞく が加 くわ わり、ドラァギング・カヌーたちの一団 いちだん が、南西 なんせい のチカマウガ地区 ちく (テネシー州 しゅう チャタヌーガ)に、後 のち にはファイブ・ローワー集落 しゅうらく に住 す んだ者 もの 達 たち を、白人 はくじん が「チカマウガ」と呼 よ んだものである。
これらの集落 しゅうらく では、クリーク族 ぞく 、白人 はくじん の王 おう 党派 とうは 、逃亡 とうぼう 黒人 こくじん 奴隷 どれい 、およびチカソー族 ぞく も加 くわ わり、後 のち にはチカマウガ・チェロキー族 ぞく 戦士 せんし が100名 めい 北方 ほっぽう に移動 いどう したのと入 い れ替 か わりに加 くわ わった、100名 めい 以上 いじょう のショーニー族 ぞく および他 た の部族 ぶぞく 70名 めい があった。当初 とうしょ の攻撃 こうげき 目標 もくひょう は、ワトーガ川 がわ 、ホルストン川 がわ およびノリチャキー川 かわ 沿 ぞ い、さらにテネシー 東部 とうぶ のカーター渓谷 けいこく の入植 にゅうしょく 地 ち とされ、1780年 ねん にはナッシュボロ砦 とりで を始 はじ めとするカンバーランド川 かわ 沿 ぞ いの入植 にゅうしょく 地 ち やケンタッキー 、さらに後 のち にはバージニア、ノースカロライナ 、サウスカロライナ およびジョージア までにも拡 ひろ がった。チカマウガ連合 れんごう による攻撃 こうげき の規模 きぼ は、一握 ひとにぎ りの戦士 せんし による急襲 きゅうしゅう から400から500名 めい 、時 とき には1,000名 めい を越 こ える大 だい 部隊 ぶたい によるものもあった。ドラァギング・カヌーに近 ちか い同盟 どうめい 者 しゃ アレクサンダー・マギリブレー一派 いっぱ の同盟 どうめい 下 か の北部 ほくぶ ムスコギー族 ぞく (クリーク族 ぞく )はしばしばチカマウガの行動 こうどう に加 くわ わり、また単独 たんどく でも行動 こうどう した。
カンバーランド川 がわ の入植 にゅうしょく 地 ち はチカソー族 ぞく 、北方 ほっぽう のショーニー族 ぞく およびデラウェア族 ぞく からの攻撃 こうげき を受 う けた。ドラァギング・カヌーやその後継 こうけい 者 しゃ であるジョン・ワットの作戦 さくせん 行動 こうどう は、北西 ほくせい 部 ぶ の作戦 さくせん 行動 こうどう と連携 れんけい して行 おこな われることがあった。これに対 たい する植民 しょくみん 地 ち 白人 はくじん が採 と った手 て は、平和 へいわ な地域 ちいき のチェロキー族 ぞく 集落 しゅうらく を破壊 はかい し尽 つ くすということであり、どちらの側 がわ も人命 じんめい に関 かん して大 おお きな被害 ひがい を出 だ した。この戦争 せんそう は1794年 ねん のテリコ・ブロックハウスの条約 じょうやく で終結 しゅうけつ した。
北西 ほくせい インディアン戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
フォールン・ティンバーズの戦 たたか い
1787年 ねん の北西 ほくせい 部 ぶ 条例 じょうれい によって、北西 ほくせい 部 ぶ 領土 りょうど は白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ のために公式 こうしき に組織 そしき 化 か され、白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ が大挙 たいきょ してこの地域 ちいき に入 はい るようになった。北西 ほくせい 部 ぶ のインディアンたちはこの「領土 りょうど 侵犯 しんぱん 」に対抗 たいこう して抵抗 ていこう 戦 せん に訴 うった えたが、ジョージ・ワシントン は軍隊 ぐんたい を派遣 はけん して鎮圧 ちんあつ させようとした。しかし、北西 ほくせい インディアン戦争 せんそう で、ショーニー族 ぞく のブルージャケットやマイアミ族 ぞく のリトルタートル、レナペ 族 ぞく のバッコンガヘラおよびオッタワ族 ぞく のエグシャワらが関 かか わった汎 ひろし 部族 ぶぞく 同盟 どうめい が、ジョシア・ハーマー将軍 しょうぐん やアーサー・セントクレア 将軍 しょうぐん に率 ひき いられる合衆国 がっしゅうこく 軍 ぐん を撃破 げきは した。セントクレア将軍 しょうぐん の敗北 はいぼく は、アメリカ軍 ぐん がインディアンに喫 きっ したものとしては最大 さいだい の損失 そんしつ となった。
合衆国 がっしゅうこく 政府 せいふ は事態 じたい を交渉 こうしょう で収 おさ めようとしたが、ブルージャケットやショーニー族 ぞく らのインディアン同盟 どうめい (英語 えいご 版 ばん ) 軍 ぐん は合衆国 がっしゅうこく が譲 ゆず れない境界 きょうかい 線 せん に固執 こしつ したために、新 あら たにアンソニー・ウェイン 将軍 しょうぐん 率 ひきい る新 しん 戦力 せんりょく が派遣 はけん された。ウェイン軍 ぐん は1794年 ねん のフォールン・ティンバーズの戦 たたか い でインディアン同盟 どうめい 軍 ぐん を破 やぶ った。インディアンはイギリスの援助 えんじょ を期待 きたい したが、合衆国 がっしゅうこく との友好 ゆうこう 関係 かんけい を重視 じゅうし したイギリスはこれを無視 むし 、1795年 ねん のグリーンヴィル条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) に調印 ちょういん して和解 わかい した。この条約 じょうやく でインディアンはオハイオ 全部 ぜんぶ とインディアナ の一部 いちぶ をアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に割譲 かつじょう させられた。
テカムセ、クリーク戦争 せんそう および米 べい 英 えい 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
テカムセ
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく はグリーンビル条約 じょうやく の後 のち も次々 つぎつぎ とインディアンの土地 とち の権利 けんり を奪 うば っていったので、インディアン社会 しゃかい では大 おお きな脅威 きょうい となっていた。1800年 ねん 、インディアナ準 じゅん 州 しゅう 知事 ちじ 及 およ びインディアン対策 たいさく 局 きょく 長官 ちょうかん に就任 しゅうにん したウィリアム・ハリソン は、トーマス・ジェファーソン 大統領 だいとうりょう の指示 しじ でインディアンの土地 とち 取得 しゅとく を加速 かそく させることとなり、1803にはウェイン砦 とりで の条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) 、ヴィンセンス条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) 、1809年 ねん にはもう1件 けん のウェイン砦 とりで の条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) を締結 ていけつ する形 かたち で12,000平方 へいほう キロメートル[注釈 ちゅうしゃく 1] 以上 いじょう もの新 あら たな土地 とち の領有 りょうゆう 権 けん を主張 しゅちょう した。これに対 たい し、ショーニー族 ぞく の兄弟 きょうだい テカムセ とテンスクワタワ (英語 えいご 版 ばん ) は合衆国 がっしゅうこく の拡張 かくちょう に対 たい する抵抗 ていこう を呼 よ びかけた。テカムセの目的 もくてき はインディアン達 たち が土地 とち を売 う ることを止 と めさせることだった。
テカムセが南部 なんぶ に行 い って、クリーク族 ぞく 、チェロキー族 ぞく およびチョクトー 族 ぞく の中 なか で同盟 どうめい 者 しゃ を募 つの っている間 あいだ に、ハリソンはインディアン同盟 どうめい に戦 たたか いを挑 いど み、1811年 ねん のティッペカヌーの戦 たたか い でテンスカタワたちを打 う ち破 やぶ った。合衆国 がっしゅうこく はこの勝利 しょうり で武力 ぶりょく による抵抗 ていこう が収 おさ まることを期待 きたい したが、テカムセたちはイギリス軍 ぐん と同盟 どうめい して、米 べい 英 えい 戦争 せんそう の中 なか で合衆国 がっしゅうこく に対 たい する戦 たたか いを始 はじ めた。
セミノール を探 さが すアメリカ軍 ぐん
米 べい 軍 ぐん の要塞 ようさい に攻撃 こうげき を加 くわ えるセミノール
独立 どくりつ 戦争 せんそう の時 とき と同様 どうよう に、米 べい 英 えい 戦争 せんそう では西部 せいぶ 戦線 せんせん で大 だい 規模 きぼ なインディアン戦争 せんそう となった。テカムセに同調 どうちょう したクリーク族 ぞく は、当初 とうしょ クリーク族 ぞく 内 ない の内戦 ないせん から始 はじ まったクリーク戦争 せんそう で合衆国 がっしゅうこく の拡張 かくちょう 政策 せいさく に激 はげ しく抵抗 ていこう することになった。米 べい 英 えい 戦争 せんそう におけるイギリスとの戦 たたか いは手詰 てづ まりの様相 ようそう を呈 てい したが、合衆国 がっしゅうこく は西部 せいぶ 戦線 せんせん ではそこそこの成功 せいこう を収 おさ めた。テカムセはテムズの戦 たたか い でハリソン軍 ぐん に殺 ころ され、北西 ほくせい 部 ぶ での抵抗 ていこう は終 お わった。合衆国 がっしゅうこく に反攻 はんこう したクリーク族 ぞく も敗 やぶ れた。1818年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ セミノール戦争 せんそう はある意味 いみ でクリーク戦争 せんそう の延長 えんちょう であったが、最終 さいしゅう 的 てき には1819年 ねん に合衆国 がっしゅうこく がフロリダを占領 せんりょう することになった。
アンドリュー・ジャクソン 。「インディアンは滅 ほろ ぼされるべき劣等 れっとう 民族 みんぞく である」と演説 えんぜつ し、クリーク戦争 せんそう のホースシュー・ベンドの戦 たたか い に勝 か って、インディアン強制 きょうせい 移住 いじゅう の推進 すいしん 者 しゃ になった。
独立 どくりつ 戦争 せんそう や北西 ほくせい インディアン戦争 せんそう と同様 どうよう に米 べい 英 えい 戦争 せんそう の後 のち も、イギリスはインディアンに対 たい する同盟 どうめい を放棄 ほうき した。これはインディアン戦争 せんそう にとっては大 おお きな転機 てんき であり、インディアンはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に対 たい する戦 たたか いで外国 がいこく の力 ちから を宛 あ てにできなくなった。
強制 きょうせい 移住 いじゅう の時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
これらの戦争 せんそう の一 ひと つの結果 けっか は、トーマス・ジェファーソン が提唱 ていしょう し、アンドリュー・ジャクソン 大統領 だいとうりょう が1830年 ねん に署名 しょめい して成立 せいりつ した「インディアン移住 いじゅう 法 ほう 」であった。インディアン移住 いじゅう 法 ほう そのものはインディアンの移住 いじゅう を強制 きょうせい するものではなかったが、ルイジアナ買収 ばいしゅう で得 え た西部 せいぶ の土地 とち と引 ひ き替 か えに東部 とうぶ にあるインディアンの土地 とち を明 あ け渡 わた すよう交渉 こうしょう する権利 けんり を大統領 だいとうりょう に委 ゆだ ねるものであった。歴史 れきし 家 か のロバート・V・レミニによれば、ジャクソンは、イギリスやスペインがアメリカの国境 こっきょう 内 ない でインディアンに武装 ぶそう させアメリカに戦争 せんそう を挑 いど ませるように仕向 しむ けている事態 じたい を鑑 かんが みて、国内 こくない の安全 あんぜん 保障 ほしょう を優先 ゆうせん するという政策 せいさく を促進 そくしん させた。[17]
「インディアン移住 いじゅう 法 ほう 」とは、「インディアンを白人 はくじん のいない西部 せいぶ のインディアン準 じゅん 州 しゅう (現 げん オクラホマ州 しゅう )に強制 きょうせい 移住 いじゅう させ、連邦 れんぽう 政府 せいふ が信託 しんたく 保留 ほりゅう (reserve) した土地 とち (Reservation) に住 す まわせ、そこで白人 はくじん の社会 しゃかい システムを構築 こうちく し、白人 はくじん 社会 しゃかい に同化 どうか させる」という民族 みんぞく 浄化 じょうか 政策 せいさく である。「これに従 したが わない場合 ばあい 、そのインディアン部族 ぶぞく は絶滅 ぜつめつ させる」とジャクソンは宣言 せんげん した。
こうして多 おお くのインディアン移住 いじゅう 条約 じょうやく が武力 ぶりょく を背景 はいけい に結 むす ばれた。インディアンの大半 たいはん は渋々 しぶしぶ ながら移住 いじゅう 条約 じょうやく の条件 じょうけん に従 したが ったが、苦 にが い諦 あきら めということでもあった(涙 なみだ の道 みち )。しかしこれら条約 じょうやく の執行 しっこう に抵抗 ていこう して戦闘 せんとう を始 はじ めるものがいた。これらは、1832年 ねん のブラック・ホーク戦争 せんそう と1836年 ねん のクリーク戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) および長 なが く犠牲 ぎせい も大 おお きい第 だい 二 に 次 じ セミノール戦争 せんそう (1835-1842) であった。
アラスカ(1799年 ねん -1867年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
18世紀 せいき 末 まつ にアラスカ まで進出 しんしゅつ したロシア帝国 ていこく は、1802年 ねん にシトカ島 とう の基地 きち をトリンギット 族 ぞく インディアンに奪 うば われた。1804年 ねん 、アレクサンドル・バラノフ 知事 ちじ の指揮 しき するロシア軍 ぐん が、頑強 がんきょう に抵抗 ていこう するトリンギット族 ぞく の追 お い出 だ しに成功 せいこう (シトカの戦 たたか い )し、ロシア領 りょう アラスカ の入植 にゅうしょく を続 つづ けた。この戦 たたか いは白人 はくじん とアラスカインディアンの最後 さいご の戦 たたか いと言 い われる。その後 ご もアラスカインディアンの抵抗 ていこう は散発 さんぱつ 的 てき に続 つづ いてはいたが、ロシアはアラスカの植民 しょくみん 地 ち 経営 けいえい から思 おも うような成果 せいか を上 あ げられず、1867年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく にアラスカを売却 ばいきゃく した。
ミシシッピ川 がわ の西 にし (1823年 ねん -1890年 ねん ) [ 編集 へんしゅう ]
東部 とうぶ と同様 どうよう に西部 せいぶ の大 だい 平原 へいげん や山岳 さんがく 地 ち でも、鉱山 こうざん 師 し 、牧場 ぼくじょう 経営 けいえい 者 しゃ および入植 にゅうしょく 者 しゃ による合衆国 がっしゅうこく 植民 しょくみん 地 ち の拡張 かくちょう で、インディアンとの紛争 ふんそう が増大 ぞうだい した。グレートベースン のユテ族 ぞく などの多 おお くの部族 ぶぞく が、一度 いちど ならず白人 はくじん に戦 たたか いを挑 いど んだ。
大平 おおひら 原 げん では、北部 ほくぶ のスー族 ぞく やシャイアン族 ぞく 、コマンチ族 ぞく 、カイオワ族 ぞく といった狩猟 しゅりょう 騎馬 きば 民族 みんぞく 、また南西 なんせい 部 ぶ では山岳 さんがく 略奪 りゃくだつ 民 みん のアパッチ族 ぞく が彼 かれ らの領土 りょうど 侵犯 しんぱん に対 たい して最 もっと も激 はげ しい抵抗 ていこう を行 おこな った。スー族 ぞく やコマンチ族 ぞく など平原 へいげん の部族 ぶぞく は、馬 うま を使 つか った高速 こうそく の戦闘 せんとう が得意 とくい であった。スー族 ぞく は元々 もともと 五大 ごだい 湖 みずうみ 地方 ちほう で定住 ていじゅう 型 がた の農業 のうぎょう を営 いとな んでいたものが、大 だい 平原 へいげん に流 なが れてきていた。スー族 ぞく は馬 うま の捕 つか まえ方 かた や乗 の り方 かた を覚 おぼ え、西部 せいぶ に移動 いどう してその流儀 りゅうぎ で他 た のインディアン部族 ぶぞく を圧倒 あっとう し、恐 おそ れられる戦士 せんし 集団 しゅうだん となった。アパッチ族 ぞく は他 た 部族 ぶぞく を襲 おそ ってその経済 けいざい 力 りょく を得 え ていた経緯 けいい があり、血縁 けつえん 者 しゃ の死 し の報復 ほうふく のために戦 たたか いを起 お こしていた。アパッチ族 ぞく は皆 みな 戦 たたか い方 かた に精通 せいつう しており、砂漠 さばく や峡谷 きょうこく という環境 かんきょう でゲリラ戦 せん を戦 たたか った。
シッティング・ブル
南北戦争 なんぼくせんそう の間 あいだ も白人 はくじん とインディアンの抗 こう 争 そう は続 つづ いていた。1862年 ねん のダコタ戦争 せんそう (実際 じっさい は暴動 ぼうどう )は、アメリカとスー族 ぞく の間 あいだ の最初 さいしょ の大 だい 規模 きぼ 衝突 しょうとつ であった。原因 げんいん は、アメリカ政府 せいふ の怠慢 たいまん にある。サンテ・スー族 ぞく (ダコタ族 ぞく )は、当時 とうじ 、狭 せま い保留 ほりゅう 地 ち に強制 きょうせい 移住 いじゅう させられ、11年 ねん に渡 わた って保留 ほりゅう 地 ち 管理 かんり 事務所 じむしょ からの食糧 しょくりょう 配給 はいきゅう が滞 とどこお ったため、飢餓 きが 状態 じょうたい になっていた。
あるとき、狩 か りから戻 もど る途中 とちゅう の4人 にん の戦士 せんし が、いざこざで白人 はくじん 農場 のうじょう 主 ぬし の一家 いっか を殺 ころ してしまい、酋長 しゅうちょう 会議 かいぎ が開 ひら かれ、殺人 さつじん 者 しゃ を引 ひ き渡 わた すか、全面 ぜんめん 戦争 せんそう かの協議 きょうぎ がなされた。ここでタオヤデドゥタ(小 ちい さなカラス)酋長 しゅうちょう は当初 とうしょ 戦闘 せんとう に反対 はんたい したが、部族 ぶぞく の窮状 きゅうじょう に不満 ふまん のたまっていた他 ほか の戦士 せんし 達 たち に押 お し切 き られて交戦 こうせん となり、ミネソタ州 しゅう 全土 ぜんど を覆 おお う6週間 しゅうかん の戦 たたか いとなった。500名 めい 以上 いじょう のアメリカ軍 ぐん 兵士 へいし と入植 にゅうしょく 者 しゃ が死 し んだ。それ以外 いがい にも小 ちい さな襲撃 しゅうげき や捕虜 ほりょ となった後 のち にさらに多 おお くの者 もの が死 し んだと信 しん じられている。
この蜂起 ほうき で死 し んだスー族 ぞく の数 かず は文献 ぶんけん には残 のこ されていないが、戦争 せんそう 後 ご に303名 めい のスー族 ぞく が殺人 さつじん と強姦 ごうかん で告訴 こくそ され、アメリカ軍 ぐん の軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい で死刑 しけい の宣告 せんこく を受 う けた。死刑 しけい 判決 はんけつ の大 だい 部分 ぶぶん は減刑 げんけい されたが、1862年 ねん 12月26日 にち 、エイブラハム・リンカーン の指示 しじ によって、ミネソタ州 しゅう マンケイト で38名 めい のダコタ・スー族 ぞく 戦士 せんし が絞首刑 こうしゅけい に処 しょ せられた。これはアメリカの歴史 れきし の中 なか でも最大 さいだい の同時 どうじ 執行 しっこう であった。[18] 飢餓 きが 状態 じょうたい に陥 おちい った少数 しょうすう 民族 みんぞく が反乱 はんらん を起 お こし、国家 こっか によって武力 ぶりょく 鎮圧 ちんあつ されたこの事件 じけん は、「ダコタ戦争 せんそう 」と呼 よ ばれてはいるものの、実質 じっしつ 的 てき には「暴動 ぼうどう 」である。基本 きほん 的 てき に保留 ほりゅう 地 ち 政策 せいさく の欠陥 けっかん に原因 げんいん があるこの暴動 ぼうどう も、リンカーン大統領 だいとうりょう は注意 ちゅうい を払 はら わなかった。合衆国 がっしゅうこく の無 む 関心 かんしん によって、インディアンはさらに飢 う えた。またリンカーンはミネソタ州 しゅう からすべてのスー族 ぞく を追 お いだすと宣言 せんげん 、スー族 ぞく 皆殺 みなごろ し政策 せいさく をミネソタと共 とも に行 おこな い、ミネソタの彼 かれ らの保留 ほりゅう 地 ち の保留 ほりゅう を解消 かいしょう して領土 りょうど を没収 ぼっしゅう した。
1864年 ねん にはサンドクリークの虐殺 ぎゃくさつ と呼 よ ばれる悪名 あくめい 高 たか いインディアン虐殺 ぎゃくさつ が起 お こった。コロラド州 しゅう 南東 なんとう 部 ぶ のシャイアン族 ぞく とアラパホ 族 ぞく のティーピー のキャンプを土地 とち の民兵 みんぺい が襲 おそ い、およそ150名 めい の男女 だんじょ 、子供 こども を殺 ころ し、男女 だんじょ の性器 せいき や頭 あたま の皮 かわ を剥 む いだ。サンド・クリークに住 す むインディアンは連邦 れんぽう 政府 せいふ によってその時 とき に住 す んでいる領土 りょうど 内 ない での安全 あんぜん を保証 ほしょう されていたが、インディアンに反感 はんかん を抱 いだ く白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ が暴走 ぼうそう した。シャイアン族 ぞく はティーピーに白旗 しらはた を掲 かか げて不戦 ふせん の意思 いし を表 あらわ していたのに、それは無視 むし されたのである。後 のち に連邦 れんぽう 議会 ぎかい による調査 ちょうさ が行 おこな われ、インディアン虐殺 ぎゃくさつ 者 しゃ に対 たい して短期間 たんきかん ではあるが大衆 たいしゅう の抗議 こうぎ が続 つづ いた。
ジョージ・アームストロング・カスター
1876年 ねん 、ダコタ・ゴールドラッシュ がブラックヒルズ に巻 ま き起 お こった時 とき に、最後 さいご の重大 じゅうだい なスー族 ぞく 戦争 せんそう が起 お こった。ブラックヒルズ一帯 いったい は「ララミー砦 とりで の条約 じょうやく 」では、スー族 ぞく の不可侵 ふかしん 領土 りょうど だったが、金 きむ が出 で たあとはまったく無視 むし され、白人 はくじん の荒 あ らし放題 ほうだい だった。合衆国 がっしゅうこく 軍 ぐん はついに条約 じょうやく を自 みずか ら破 やぶ り、スー族 ぞく の掃討 そうとう 作戦 さくせん に出 で た。幾 いく つかの小競 こぜ り合 あ いの後 のち で、カスター中佐 ちゅうさ はスー族 ぞく 、シャイアン族 ぞく 、アラパホー族 ぞく 総計 そうけい 1500人 にん が宗教 しゅうきょう 儀式 ぎしき のためにリトル・ビッグ・ホーン河畔 かはん に野営 やえい しているのを見 み つけた。カスターは功 こう を焦 あせ ってこれを奇襲 きしゅう し、リトルビッグホーンの戦 たたか い となった。本隊 ほんたい とは離 はな れて行動 こうどう していたカスター将軍 しょうぐん の部隊 ぶたい は、戦術 せんじゅつ 的 てき な利点 りてん があり数 すう 的 てき にも上回 うわまわ ったインディアンに全滅 ぜんめつ させられた。インディアン戦士 せんし には、オグララ・ラコタ族 ぞく の名高 なだか い戦士 せんし 、クレイジー・ホース も参加 さんか しており、シッティング・ブル (戦 せん には参加 さんか せず)の勝利 しょうり の予言 よげん によって鼓舞 こぶ されていた。
その後 ご の1890年 ねん 、サウスダコタ州 しゅう ウーンデッド・ニーに連行 れんこう されたゴーストダンス信奉 しんぽう 派 は のミネコンジュー・スー族 ぞく の「シハ・タンカ・バンド」に対 たい し、米 べい 軍 ぐん 騎兵隊 きへいたい は武装 ぶそう 解除 かいじょ を強制 きょうせい して銃撃 じゅうげき 戦 せん となり、兵士 へいし 達 たち はおよそ300名 めい の非 ひ 武装 ぶそう の老若男女 ろうにゃくなんにょ のインディアンを殺 ころ した(ウーンデッド・ニーの虐殺 ぎゃくさつ )。死亡 しぼう した29名 めい の兵士 へいし には、友軍 ゆうぐん の銃撃 じゅうげき で死 し んだ者 もの もいる。
19世紀 せいき 後半 こうはん 、アメリカン・バイソンは主 おも に職業 しょくぎょう 的 てき ハンターによって絶滅 ぜつめつ 寸前 すんぜん まで追 お い込 こ まれ、1880年代 ねんだい 半 なか ばには数 すう 百 ひゃく 頭 とう となっていた。[19]
これらの凄惨 せいさん なインディアン戦争 せんそう とは別 べつ に、グレートプレーンズ のインディアン人口 じんこう 減少 げんしょう の背景 はいけい にはバッファロー の絶滅 ぜつめつ があった。平原 へいげん のインディアン達 たち は衣食住 いしょくじゅう の柱 はしら として4000万 まん 頭 とう を超 こ えるバッファローに頼 たよ っていたが、1870年代 ねんだい から1880年代 ねんだい にかけて生活 せいかつ の糧 かて を求 もと めるべく行 おこ なわれたMarket hunters と呼 よ ばれた白人 はくじん とメティ による乱獲 らんかく で大 だい 平原 へいげん から絶滅 ぜつめつ 寸前 すんぜん (750頭 とう )まで追 お い込 こ まれたため、グレートプレーンズでは生活 せいかつ が成 な りたなくなり移住 いじゅう せざるを得 え なくなったのである。
南西 なんせい 部 ぶ の広大 こうだい な地域 ちいき での紛争 ふんそう は1846年 ねん から1895年 ねん まで続 つづ いた。この地域 ちいき のあらゆる非 ひ プエブロ 諸 しょ 族 ぞく を巻 ま き込 こ み、スペイン系 けい メキシコ人 じん との紛争 ふんそう に続 つづ いた。ナバホ族 ぞく とアパッチ族 ぞく との紛争 ふんそう が良 よ く知 し られているが、それだけでは無 な かった。南西 なんせい 部 ぶ で最後 さいご の大 だい 規模 きぼ な作戦 さくせん 計画 けいかく は5,000名 めい の兵士 へいし を投入 とうにゅう した。この作戦 さくせん でアパッチ族 ぞく のジェロニモ と24名 めい の戦士 せんし 、女 おんな 子供 こども が1886年 ねん に降伏 ごうぶく した。なお、ジェロニモは酋長 しゅうちょう ではない。
南西 なんせい 部 ぶ の部族 ぶぞく (プエブロ族 ぞく を含 ふく む)は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく がメキシコ からこの地域 ちいき を獲得 かくとく する前 まえ に何 なに 世紀 せいき も、互 たが いにまた外 そと から入 はい ってきた入植 にゅうしょく 者 しゃ との交易 こうえき と戦 たたか いを繰 く り返 かえ していた。
西部 せいぶ のインディアン戦争 せんそう 年譜 ねんぷ [ 編集 へんしゅう ]
最後 さいご の戦 たたか い(1898年 ねん -1917年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1898年 ねん 10月 がつ 5日 にち 、ミネソタ州 しゅう リーチ湖 みずうみ でのシュガーポイントの戦 たたか い。アメリカ第 だい 3歩兵 ほへい 連隊 れんたい の兵卒 へいそつ オスカー・バーカードにインディアン戦争 せんそう では最後 さいご の名誉 めいよ のメダルが贈 おく られた。
1917年 ねん 、アリゾナ州 しゅう ノーゲールズのすぐ西 にし でアメリカ第 だい 10騎兵隊 きへいたい とヤキ族 ぞく インディアンが交戦 こうせん
アパッチ族 ぞく 斥候 せっこう (ナバホ族 ぞく やモハーベ族 ぞく など、アパッチ族 ぞく 以外 いがい の部族 ぶぞく もアパッチ族 ぞく 扱 あつか いされた)
クロウ族 ぞく 斥候 せっこう
アリカラ族 ぞく 斥候 せっこう
ポーニー族 ぞく 斥候 せっこう (この三 さん 部族 ぶぞく はスー族 ぞく と歴史 れきし 的 てき に敵対 てきたい しており、スー族 ぞく 全滅 ぜんめつ 作戦 さくせん に喜 よろこ んで力 ちから を貸 か した)
ブラック・セミノール 斥候 せっこう
第 だい 1騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1834年 ねん 1836年 ねん - 1892年 ねん
第 だい 2騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1867年 ねん および1870年 ねん
第 だい 3騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1869年 ねん
第 だい 4騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1865年 ねん - 1886年 ねん
第 だい 5騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1876年 ねん
第 だい 6騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1867年 ねん - 1885年 ねん および1890年 ねん
第 だい 7騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1871年 ねん - 1890年 ねん
第 だい 8騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1867年 ねん - 1869年 ねん および1877年 ねん
第 だい 9騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1868年 ねん および1875年 ねん - 1881年 ねん 別名 べつめい バッファロー兵 へい
第 だい 10騎兵 きへい 連隊 れんたい - 1867年 ねん - 1868年 ねん 、1875年 ねん 、1879年 ねん - 1880年 ねん 、1885年 ねん 、1917年 ねん バッファロー兵 へい
第 だい 113騎兵 きへい 連隊 れんたい
第 だい 1歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1791年 ねん 、1832年 ねん 、1839年 ねん -1842年 ねん 、1870年代 ねんだい -1890年代 ねんだい
第 だい 2歩兵 ほへい 連隊 れんたい
第 だい 3歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1792年 ねん 、1856年 ねん -1858年 ねん 、1860年 ねん 、1887年 ねん 、1898年 ねん
第 だい 4歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1808年 ねん 、1816年 ねん -1836年 ねん 、1869-1879年 ねん
第 だい 5歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1877年 ねん
第 だい 6歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1823年 ねん -1879年 ねん
第 だい 9歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1876年 ねん
第 だい 10歩兵 ほへい 連隊 れんたい
第 だい 11歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1874年 ねん
第 だい 12歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1872年 ねん -1873年 ねん 、1878年 ねん 、1890-1891年 ねん
第 だい 13歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1867年 ねん -1871年 ねん
第 だい 14歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1876年 ねん
第 だい 15歩兵 ほへい 連隊 れんたい
第 だい 16歩兵 ほへい 連隊 れんたい
第 だい 18歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1866年 ねん -1890年 ねん
第 だい 21歩兵 ほへい 連隊 れんたい
第 だい 22歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1869年 ねん 、1872年 ねん 、1876年 ねん -1877年 ねん
第 だい 23歩兵 ほへい 連隊 れんたい - 1866年 ねん 、1868年 ねん 、1876年 ねん
第 だい 24歩兵 ほへい 連隊 れんたい Regiment
第 だい 25歩兵 ほへい 連隊 れんたい (バッファロー兵 へい ) 1866年 ねん -1890年代 ねんだい
ミシシッピーライフル狙撃 そげき 兵隊 へいたい
アメリカの歴史 れきし 書 しょ では、インディアン戦争 せんそう はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の軍事 ぐんじ 史 し の比較的 ひかくてき 小 ちい さな部分 ぶぶん としてしか取 と り扱 あつか われていない。20世紀 せいき の最後 さいご の数 すう 十 じゅう 年間 ねんかん に、相当 そうとう 数 すう の歴史 れきし 家 か がこの戦争 せんそう に関 かん する著書 ちょしょ の中 なか でインディアンの見解 けんかい を紹介 しょうかい し始 はじ め、インディアンとその文化 ぶんか における戦争 せんそう の影響 えいきょう を強調 きょうちょう するようになった。
良 よ く知 し られ影響 えいきょう 力 りょく 有 あ る著書 ちょしょ は1970年 ねん のディ・ブラウンの「ウーンデッドニーに私 わたし の心 しん を埋 う めて」(Bury My Heart at Wounded Knee) である。学術 がくじゅつ 的 てき 歴史 れきし では、フランシス・ジェニングスの「アメリカの侵略 しんりゃく :インディアン、植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 、および征服 せいふく 」(The Invasion of America: Indians, Colonialism, and the Cant of Conquest、ニューヨーク、ノートン、1975年 ねん )が、インディアンと白人 はくじん の関係 かんけい について伝統 でんとう 的 てき な見方 みかた を逆転 ぎゃくてん させていることで著名 ちょめい である。インディアンと兵士 へいし について両方 りょうほう の観点 かんてん から最近 さいきん 重要 じゅうよう な著作 ちょさく 、ジェローム・A・グリーンの「インディアン戦争 せんそう の古参 こさん 兵 へい :軍隊 ぐんたい 生活 せいかつ の記憶 きおく と西部 せいぶ の実行 じっこう 作戦 さくせん 、1864年 ねん -1898年 ねん 」(INDIAN WAR VETERANS: Memories of Army Life and Campaigns in the West, 1864-1898、ニューヨーク、2007年 ねん )が出版 しゅっぱん された。インディアン側 がわ からの反論 はんろん として歴史 れきし 的 てき なものには、ヴァイン・デロリア・ジュニア (スー族 ぞく )による「インディアンの宣言 せんげん 書 しょ :カスターはその罪 つみ ゆえに死 し んだ」(Custer Died For Your Sins: An Indian Manifesto 、1969年 ねん )がある。
歴史 れきし 家 か の中 なか にはインディアン戦争 せんそう をインディアンとアメリカ白人 はくじん との間 あいだ の民族 みんぞく 戦争 せんそう と見 み て、闘争 とうそう の複雑 ふくざつ な現実 げんじつ を単純 たんじゅん 化 か する者 もの がいる。インディアンと白人 はくじん はしばしば共闘 きょうとう した。インディアンは他 た のインディアンと戦 たたか うこともあった。例 たと えばホースシュー・ベンドの戦 たたか い はクリーク族 ぞく インディアンに対 たい するアメリカ軍 ぐん の勝利 しょうり とされているが、勝者 しょうしゃ はアンドリュー・ジャクソンに協力 きょうりょく したチェロキー族 ぞく 、クリーク族 ぞく およびテネシー州 しゅう 民兵 みんぺい の共同 きょうどう 軍 ぐん であった。広 ひろ い観点 かんてん から見 み れば、インディアン戦争 せんそう はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく による先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の征服 せいふく 戦争 せんそう であるが、個々 ここ の戦闘 せんとう を細 こま かく見 み るとそれほど単純 たんじゅん 化 か する事 こと はできない。
またそのような観点 かんてん から、白人 はくじん に協力 きょうりょく したインディアンを「裏切 うらぎ り者 もの 」とみなす解釈 かいしゃく も存在 そんざい する。例 たと えばパイン・リッジ作戦 さくせん においては多数 たすう のポーニー族 ぞく が正規 せいき 軍 ぐん に参加 さんか してスー族 ぞく と戦闘 せんとう を行 おこな っており、現代 げんだい でもスー族 ぞく を英雄 えいゆう 視 し する一方 いっぽう でポーニー族 ぞく が悪役 あくやく 扱 あつか いされている(従来 じゅうらい の西部 せいぶ 劇 げき と違 ちが いインディアンへの差別 さべつ が無 な いとされる映画 えいが 「ダンス・ウィズ・ウルブズ 」においても、この見方 みかた が踏襲 とうしゅう されている)。しかしインディアンを全 すべ て同族 どうぞく と見 み なすのは白人 はくじん の側 がわ の勝手 かって な解釈 かいしゃく であり、ポーニー族 ぞく にとってみれば白人 はくじん もスー族 ぞく も異 い 民族 みんぞく である。当時 とうじ のポーニー族 ぞく はスー族 ぞく に圧迫 あっぱく されており、そのため白人 はくじん と手 て を結 むす んだのである。ウィリアム王 おう 戦争 せんそう で、アメリカに入植 にゅうしょく したイギリス人 じん とフランス人 じん という異 い 民族 みんぞく の戦 たたか いを「同 おな じ民族 みんぞく で戦 たたか った」とは言 い わないのと同様 どうよう である。「インディアンたちが団結 だんけつ していれば白人 はくじん の侵略 しんりゃく を防 ふせ げた」との論調 ろんちょう は、典型 てんけい 的 てき なステレオタイプ である[21] 。
最 もっと も苛烈 かれつ な西部 せいぶ におけるインディアン戦争 せんそう で、米 べい 軍 ぐん に対 たい して全 ぜん インディアン部族 ぶぞく が結束 けっそく する、ということはついになかった。彼 かれ らはそれぞれが独立 どくりつ 国家 こっか であり、この領土 りょうど 防衛 ぼうえい 線 せん に対 たい する考 かんが え方 かた も部族 ぶぞく それぞれがまったく違 ちが っていたからである。ネ・ペルセ族 ぞく やショーショーニー族 ぞく は白人 はくじん と友好 ゆうこう を最後 さいご まで続 つづ け、入植 にゅうしょく 白人 はくじん を他 た 部族 ぶぞく から保護 ほご してみせた。しかしその報 むく いは、保留 ほりゅう 地 ち の度重 たびかさ なる縮小 しゅくしょう 、僻地 へきち への幽閉 ゆうへい であった。真 しん の意味 いみ でインディアン部族 ぶぞく が結束 けっそく し、合衆国 がっしゅうこく に戦 たたか いを挑 いど むのは、1960年代 ねんだい 以降 いこう の「レッドパワー運動 うんどう 」まで待 ま たねばならなかった。
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