インディアン戦争せんそう

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インディアン戦争せんそう

インディアンを追撃ついげきするアメリカ騎兵きへい想像そうぞう
とき1622ねん-1890ねん
場所ばしょアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカナダ
結果けっか アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとカナダの勝利しょうり。アメリカとカナダの主権しゅけんぜん国土こくどおよび、インディアンは保留ほりゅういやられた。
衝突しょうとつした勢力せいりょく
インディアン アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
カナダの旗 カナダ
被害ひがいしゃすう
すうひゃくまんにん以上いじょう 資料しりょうなし

インディアン戦争せんそう(インディアンせんそう、えい: Indian Wars)は、1622ねんから1890ねんあいだの、きたアメリカ白人はくじん入植にゅうしょくしゃ(インディアンがぶところのwhite man)とインディアンあいだきた戦争せんそう総称そうしょう初期しょきのころからインディアンと白人はくじん入植にゅうしょくしゃ小競こぜいがつづいていたが、白人はくじん入植にゅうしょくしゃ増加ぞうかとともに列強れっきょうによる植民しょくみん戦争せんそうともからみながら、だい規模きぼしていった北米ほくべい植民しょくみん戦争せんそうである。この戦争せんそうは、白人はくじんおもキリスト教徒きりすときょうとによっておこなわれた大量たいりょう虐殺ぎゃくさつ民族みんぞく浄化じょうか強制きょうせい移住いじゅうであった。これらの戦争せんそう影響えいきょうにより、インディアンは今日きょうでも貧困ひんこんアルコール依存いぞんしょうなどの問題もんだいくるしみつづけている。また、インディアンはブラックヒルズなど白人はくじんうばわれた土地とち返還へんかんもとめてたたかつづけているが、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政府せいふ政府せいふ支持しじする人々ひとびと現在げんざいでも土地とち返還へんかんする意向いこうしめしていない[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]

概要がいよう[編集へんしゅう]

そもそもの白人はくじんとインディアンとの戦争せんそうは、クリストファー・コロンブス上陸じょうりくはじまるものである。コロンブスは艦隊かんたいひきいて、中米ちゅうべいのインディアンしょ部族ぶぞくすうねんにわたり虐殺ぎゃくさつし、その人口じんこう激減げきげんさせた。インディアンたちを黄金おうごん採集さいしゅうのために奴隷どれいし、生活せいかつけんうばったためにインディアンたちは飢餓きがおちいり、疫病えきびょう蔓延まんえんし、そのかずをさらにらした。だが白人はくじんのもたらした疫病えきびょう中米ちゅうべいのインディアンをらしたのではなく、コロンブスによる大量たいりょう虐殺ぎゃくさつが、疫病えきびょうによるインディアンの激減げきげんまねいたのである[2]

戦争せんそう[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう以後いご、「ゆたかでやす土地とち」をもとめて白人はくじん入植にゅうしょくしゃ西進せいしんするようになると、当然とうぜんそこにむインディアンは邪魔じゃましゃとなり、これを排除はいじょしようとする合衆国がっしゅうこく政府せいふとインディアンの撲滅ぼくめつ戦争せんそうした。インディアンは領土りょうどわれ、連邦れんぽう政府せいふ信託しんたく保留ほりゅうする土地とち、いわゆる「保留ほりゅう (Reservation)」にめられることを強要きょうようされ、はげしく抵抗ていこうするようになる。

イギリスがアメリカへの入植にゅうしょくはじめた1610年代ねんだい1620年代ねんだい平穏へいおんぎたが、ピクォート戦争せんそうこった1637ねんころから、入植にゅうしょく安全あんぜんはかるためと、さらなる入植にゅうしょく拡大かくだいのために、植民しょくみん白人はくじんたちはインディアン部族ぶぞくあいだあらそいを利用りようし、代理だいり戦争せんそうおこなわせるようになった。この戦争せんそう17世紀せいきフィリップおう戦争せんそうウィリアムおう戦争せんそうおよび18世紀せいき初頭しょとうアン女王じょおう戦争せんそう)からウンデット・ニーの虐殺ぎゃくさつ1890ねんにアメリカの辺境へんきょうが「消滅しょうめつ」するまで、インディアンの土地とち白人はくじん入植にゅうしょくしゃのために没収ぼっしゅうし、インディアンを征服せいふくして白人はくじん同化どうかさせると同時どうじに、インディアン保留ほりゅう強制きょうせい移住いじゅうさせる、という結果けっかになっていった。

これら一連いちれん戦争せんそうでアメリカがわとインディアンがわけた損失そんしつについては様々さまざま統計とうけいしめされてきた。もっと信頼しんらい数字すうじはグレゴリー・ミクノなどによる交戦こうせん記録きろく厳密げんみつ照合しょうごうしたものであり、1850ねんから1890ねんあいだだけで、21,586にん市民しみん兵士へいし死亡しぼう負傷ふしょう、または捕虜ほりょになったとしている。[11]数字すうじとしては、ラッセル・ソーントンなどのやや大雑把おおざっぱ関係かんけいせいうす政府せいふ資料しりょうからそとしたもので、45,000にんのインディアンと19,000にん白人はくじんころされたとしている。この後者こうしゃ推定すいていなかには、辺境へんきょう虐殺ぎゃくさつによって戦闘せんとういんがしばしばころされたので、双方そうほう女性じょせい子供こども犠牲ぎせいしゃふくまれている。[12]そのにも様々さまざま著者ちょしゃが、すくないものでは5,000にんおおものでは50まんにんという数字すうじげている。ここでの議論ぎろんふくまれていないのは、双方そうほう残虐ざんぎゃくさである。インディアンはその残酷ざんこくたたかかたで、アメリカは破壊はかいてき作戦さくせん実行じっこうしめした残虐ざんぎゃくさは、毎年まいとしのように新聞しんぶん記録きろく保管ほかんしょ外交がいこう記録きろくおよびアメリカ独立どくりつ宣言せんげん(...(イギリスは)辺境へんきょう住人じゅうにんたたかかたっている残酷ざんこくなインディアンに、年齢ねんれい性別せいべつ状態じょうたいかかわらず見境みさかい破壊はかい奨励しょうれいしている)のなか指摘してきされてきた。

インディアン戦争せんそうちいさな戦争せんそう連続れんぞくであった。インディアンはそれぞれの歴史れきし様々さまざま集団しゅうだんであった。戦争せんそうあいだつうじて、インディアンは「白人はくじん」のようにいちくくりでべるような単一たんいつ民族みんぞくではかった。様々さまざまなやりかたきずかれた社会しゃかいみ、地域ちいきてきなレベルで戦争せんそう和平わへい決断けつだんくだした。ただし、イロコイ連邦れんぽうや、スーぞくシャイアンぞくアラパホーぞくさん部族ぶぞく同盟どうめい、またテカムセのような調停ちょうていしゃによって実現じつげんした一時いちじてき同盟どうめいのように、公式こうしき同盟どうめいんで共闘きょうとうすることが多数たすうられた。

時代じだい区分くぶん[編集へんしゅう]

インディアン戦争せんそうおおきくけて、つぎの4つの時代じだい区分くぶんけられる。

  1. 最初さいしょ時代じだい白人はくじんがアメリカにはいってきて手探てさぐりでインディアンとの共存きょうぞんさぐった時代じだいである。
  2. つぎ時代じだいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく誕生たんじょうしてそれにつづ期間きかんであり、インディアンからのはげしい抵抗ていこうがあったもののアメリカの文化ぶんか同化どうかしないインディアンが排除はいじょされて、ミシシッピがわからひがしにはほとんどインディアンの居住きょじゅうくなった時代じだいである。
  3. 3番目ばんめ時代じだいはミシシッピがわ西にし白人はくじん入植にゅうしょくすすみ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国力こくりょく充実じゅうじつしてきてアメリカ西部せいぶのインディアンが屈服くっぷくさせられていった時代じだいである。
  4. 4番目ばんめは、20世紀せいきはいってインディアン条約じょうやく合衆国がっしゅうこくがわから破棄はきされ、部族ぶぞくそのものが消滅しょうめつさせられはじめた時代じだいである。

現代げんだい[編集へんしゅう]

クレイジー・ホースらが参加さんかした、インディアンの連合れんごうぐんカスター中佐ちゅうさだい7騎兵隊きへいたい撃退げきたい全滅ぜんめつさせるなどの戦果せんかもあったが、ジェロニモ降伏ごうぶくウンデット・ニーの虐殺ぎゃくさつ以降いこう、インディアンによる軍事ぐんじてき反乱はんらんはなくなった。わって、20世紀せいきになってからの「レッド・パワー運動うんどう」に代表だいひょうされる、権利けんり回復かいふく要求ようきゅう運動うんどう現代げんだいのインディアン戦争せんそうとなった。黄金おうごんわってウラニウムや石炭せきたんみずといった保留ほりゅう地下ちか資源しげんが、合衆国がっしゅうこく収奪しゅうだつ対象たいしょうとなった。現代げんだいの「インディアン戦争せんそう」は、地下ちか資源しげん収奪しゅうだつ環境かんきょう汚染おせん、そして「西部せいぶげき映画えいが」や「インディアン・マスコット問題もんだい象徴しょうちょうされるメディアやスポーツにおける歪曲わいきょくされた民族みんぞくイメージの概念がいねん固定こていおおきな問題もんだいとなっている[13]

1973ねんスーぞく保留ほりゅううちの「ウンデット・ニー」で、オグララ・スーぞくと「アメリカインディアン運動うんどう (AIM)」が同地どうち占拠せんきょし、「オグララこく」の独立どくりつ宣言せんげんおこなった「ウンデッド・ニー占拠せんきょ抗議こうぎ英語えいごばん」(のちの連邦れんぽう裁判さいばん無罪むざい判決はんけつけた)では、全米ぜんべいからインディアンが応援おうえん参加さんかし、武装ぶそうのインディアンたちにたいして合衆国がっしゅうこくとサウスダコタしゅう戦車せんしゃ戦闘せんとうヘリを投入とうにゅうした武力ぶりょく鎮圧ちんあつとなった。

2003ねん、100ねんちかくにおよぶインディアンたちの要求ようきゅう運動うんどうによって、「リトルビッグホーンのたたか」の主戦しゅせんじょうが「カスター国立こくりつ記念きねん戦場せんじょう」から「リトルビッグホーン国立こくりつ記念きねん戦場せんじょう」に名称めいしょう変更へんこうされた。同時どうじに「インディアン戦争せんそう」をたたかったインディアンたちの「インディアン記念きねん」が建立こんりゅうされ、地図ちず解説かいせつかれた石壁いしかべ設置せっちされた。この石壁いしかべにはつぎのような文言もんごんまれている。

“The Indian Wars Are Not Over.”(インディアン戦争せんそうわっていない

戦争せんそう根本こんぽん要因よういん[編集へんしゅう]

コロンブスの上陸じょうりく以来いらい白人はくじんたちはインディアン部族ぶぞくが、アフリカの部族ぶぞく社会しゃかいのような「酋長しゅうちょう支配しはいする首長しゅちょうせい部族ぶぞく社会しゃかいである」と勘違かんちがいしていた。実際じっさいにはインディアンの社会しゃかい完全かんぜん合議ごうぎせい民主みんしゅてき社会しゃかいであり、「おう」や「首長しゅちょう」のような個人こじん権力けんりょくしゃ存在そんざいしない。「おおいなる神秘しんぴ」のもと、ひと動物どうぶつすら明確めいかく区分くぶんされず、平等びょうどう共有きょうゆうされるのがインディアンの社会しゃかいであり、まして大地だいちだれのものでもなかった。

土地とちかんする誤解ごかい[編集へんしゅう]

合衆国がっしゅうこく植民しょくみんすすめるにあたり、まずインディアンから領土りょうどを「購入こうにゅう」しようとし、「物品ぶっぴん」とえにこれをおこなった(つもりだった)。しかし、これは、インディアンの共同きょうどうたいかられば「白人はくじんおくものをして、ここにまわせてくれとってた」ということになる。白人はくじんは「ここからってくれ」とったつもりだが、インディアンはこれを理解りかいしていない。もとよりかれらに「土地とちいする」という文化ぶんか習慣しゅうかんいからである。

インディアンは和平わへいむすさい和平わへいの「ロングハウス」、「ティーピー」などで「会議かいぎ」をかこんで車座くるまざになり、「せいなるパイプ」で煙草たばこまわみし、「おおいなる神秘しんぴ」に和平わへいちかう。すべての存在そんざいが「おおいなる神秘しんぴ」のなかにあるとかんがえるインディアンにとって、「おおいなる神秘しんぴ」との盟約めいやくであるこの行為こういやぶることは絶対ぜったいにあってはいけないちかいである。

白人はくじんたちは上記じょうきにあるように「土地とちった」つもりでいるので、このちかいをやぶった。インディアンをそうとし、あまつさえかれらを武力ぶりょく虐殺ぎゃくさつしたのである。「インディアン戦争せんそう」はこるべくしてこったのだ。

部族ぶぞく制度せいどかんする誤解ごかい[編集へんしゅう]

インディアン戦争せんそうなかで、白人はくじんたちは酋長しゅうちょう部族ぶぞく代表だいひょう部族ぶぞくちょうだとかんがえていた。「部族ぶぞくみんたちが敬愛けいあいするだい戦士せんし」をだい酋長しゅうちょうだとおもんでかれらをそうんだ。白人はくじんにはだい戦士せんし酋長しゅうちょう見分みわけがつかなかった。酋長しゅうちょう(Chief) とは実際じっさいには、部族ぶぞく調停ちょうていしゃ世話せわやく、あるいは奉仕ほうししゃであって指導しどうしゃでも部族ぶぞくちょうでもない。インディアンの社会しゃかい指導しどうしゃ部族ぶぞくちょうもいない。個人こじん権力けんりょく上意下達じょういかたつのシステムをたないのである[14]

しかるに白人はくじんたちはインディアン戦争せんそうおこなうにあたって、酋長しゅうちょうあるいはだい戦士せんし部族ぶぞくちょうだとおもみ、和平わへい調停ちょうてい交渉こうしょう責任せきにんしゃとみなした。酋長しゅうちょう署名しょめいとして「×しるし」をかせ(インディアンは文字もじたない)、これを「部族ぶぞく総意そうい」と解釈かいしゃくしたのである。もちろんこれはまったくの誤解ごかいであって、合議ごうぎていない部族ぶぞく総意そういはありず、インディアンの戦士せんしたちはたたかいをやめなかった。

またインディアンの戦士せんしだん白人はくじんは「司令しれいかん統率とうそつする軍団ぐんだん」だと勘違かんちがいしていた。これもまたまったくのおもちがいで、インディアンのたたかいは自由じゆう参加さんかであって、かれらはぐんでもへいでもなく、だれひきいられるような集団しゅうだんでもない。合衆国がっしゅうこくはしばしば「インディアンが協定きょうていやぶって攻撃こうげきした」としているが、協定きょうていやぶっているのは白人はくじんがわだった。

インディアンの社会しゃかいこまかいバンド(集団しゅうだん)に細分さいぶんされており、それぞれが自治じちたも自分じぶんたちの判断はんだんうごいていた。すなわちインディアンの部族ぶぞく一枚岩いちまいいわではなかった。これをまとめてしたがわせようとする合衆国がっしゅうこくかんが自体じたい無理むりがあった。インディアンの部族ぶぞくで、最終さいしゅうてき判断はんだんめるのは長老ちょうろう酋長しゅうちょうたちのだい合議ごうぎだけである。これは現在げんざいのインディアン社会しゃかいでもわらない。

こうして「インディアン戦争せんそう」において合衆国がっしゅうこく本来ほんらい交渉こうしょうやくである酋長しゅうちょうを「戦争せんそう司令しれいかん」だと誤解ごかいし、かれらの殺害さつがいちからそそかれらをらえては死体したい散々さんざん凌辱りょうじょくした。根本こんぽんてき白人はくじんたちはインディアン文化ぶんか勘違かんちがいしたまま延々えんえんとインディアンの虐殺ぎゃくさつかえしたのである[15]

白人はくじん植民しょくみん[編集へんしゅう]

1620ねんピルグリム・ファーザーズアメリカ東海岸ひがしかいがんプリマス植民しょくみん到着とうちゃくしたころは、インディアンと白人はくじん友好ゆうこう関係かんけいがあった。きびしいふゆすために、むしろインディアンにたすけられて入植にゅうしょくしゃ定着ていちゃくできたというめんもあった。ただし、すべての地域ちいきでインディアンが友好ゆうこうてき白人はくじんむかえたわけではなく、インディアンに様々さまざま部族ぶぞくがあったように、白人はくじんむかえたインディアンの対応たいおう様々さまざまであり、16世紀せいき前半ぜんはんフロリダのように有無うむわせず退去たいきょさせられたれいもあった。17世紀せいき前半ぜんはんフランス場合ばあいは、敵対てきたいするインディアンの一方いっぽう荷担かたんして、まだ銃火じゅうかたないインディアンを圧倒あっとうするようなことがあった。

インディアンは、その狩猟しゅりょう生活せいかつ貴重きちょう道具どうぐとなったじゅう供給きょうきゅうしてくれ、かつ様々さまざま商品しょうひん交易こうえきしたりおくものとどけてくれる白人はくじんとは友好ゆうこうてき関係かんけいたもった。しかし、いちはやじゅうった部族ぶぞく部族ぶぞく圧倒あっとうするちからつようになった。17世紀せいき前半ぜんはんイロコイ連邦れんぽうがまさにこの典型てんけいてきれいであり、アメリカ北東ほくとうのかなりひろ範囲はんい勢力せいりょくおさめることになった。

ジェームズタウンとイギリスじん名付なづけた最初さいしょ植民しょくみんでは、植民しょくみん請負人うけおいにんジョン・スミスが、えた入植にゅうしょくしゃ食料しょくりょう確保かくほのために、各地かくちのインディアンのむらおそい、酋長しゅうちょう人質ひとじちにとり、物品ぶっぴん食料しょくりょう強奪ごうだつした。スミスはポウハタン酋長しゅうちょうを「ポウハタンぞく皇帝こうていである」とだいえい帝国ていこく出鱈目でたらめ報告ほうこくおこない、たいインディアン政策せいさく誤解ごかいしたすすめさせるきっかけをつくっている。

一方いっぽうで、白人はくじんんだ様々さまざま疫病えきびょうは、免疫めんえきたないインディアン部族ぶぞく激減げきげんさせ、そのちからいでいった。絶滅ぜつめつした部族ぶぞくおおく、縮小しゅくしょうした部族ぶぞくおおくがべつ部族ぶぞく傘下さんかはいり、北東ほくとうでの勢力せいりょく白人はくじんとの戦争せんそう疫病えきびょうによっておおきくえられていったのである。

最初さいしょこうそう[編集へんしゅう]

1610年代ねんだいから様々さまざま理由りゆうで、おおくの小競こぜいが入植にゅうしょくしゃとインディアンのあいだおこなわれた。最初さいしょこうそうがどの戦闘せんとうであるかは諸説しょせつあるが、ジェームズタウンの虐殺ぎゃくさつがよくられている。

1622ねん3月22にちアルゴンキンポウハタンぞくオプチャンカノフ英語えいごばんバージニア植民しょくみん攻撃こうげきし、ジェームズタウンで347にん死亡しぼうした。

インディアンと白人はくじんこうそう開始かいし[編集へんしゅう]

インディアンと白人はくじんあいだだい規模きぼこうそう発展はってんした最初さいしょのものは、1637ねんピクォート戦争せんそうげられる。この戦争せんそうは、イギリスじん交易こうえき業者ぎょうしゃの1たいころされたことにはしはっし、マサチューセッツわん植民しょくみんプリマス植民しょくみん白人はくじんが、ピクォートぞく敵対てきたいしていたモヘガンぞく利用りようしてピクォートぞく殲滅せんめつするという結果けっかになった。入植にゅうしょく初期しょきのピルグリム・ファーザーズは、インディアンから土地とち購入こうにゅうするというかたちっていたが、このころから清教徒せいきょうと大挙たいきょして入植にゅうしょくするようになり、入植にゅうしょくしゃ勝手かってにインディアンの土地とちはいむというような形態けいたいまれた。

1650年代ねんだいになると、イロコイぞくヌーベルフランス入植にゅうしょくしゃおそうようになった。これにたいしてフランスが軍隊ぐんたい組織そしきして反撃はんげきおこない、一時いちじてき休戦きゅうせん時期じきはあったものの、この敵対てきたい関係かんけいやくはん世紀せいきつづいた。この戦争せんそうビーバー戦争せんそうばれる。イロコイぞくのように一時いちじ敵対てきたいしていたものが一旦いったん和平わへいむすぶと、その同盟どうめい相手あいて白人はくじん戦争せんそうおこな場合ばあい強力きょうりょく戦力せんりょくとなった。

17世紀せいき中頃なかごろから後半こうはんにかけて、ニューイングランドなん疫病えきびょう流行りゅうこうなやまされ、免疫めんえきりょくいインディアンがおおきくそのかずらした。1670年代ねんだいのニューイングランド南部なんぶ人口じんこうは、白人はくじん35,000にんたいしてインディアン15,000にんおおきく逆転ぎゃくてんしていた。1675ねん、それまで白人はくじんたいして友好ゆうこうてき姿勢しせいのぞんできたワンパノアグぞくメタコメットたちが反旗はんきひるがえした。白人はくじんはメタコメットを「指導しどうしゃ」と勘違かんちがいして「フィリップおう」とんでいたので、この戦争せんそうフィリップおう戦争せんそうばれている。ワンパノアグぞく攻撃こうげきポートランドなどの入植にゅうしょく壊滅かいめつてき破壊はかいされたが、ニューイングランドをげての反撃はんげきのインディアン部族ぶぞく白人はくじん味方みかたしたことで、ワンパノアグぞく最後さいご大敗たいはいし、その人口じんこうは10ぶんの1以下いかになったとされている。

18世紀せいきはいって、それまで比較的ひかくてき平穏へいおんであったカロライナ植民しょくみんで、インディアンの反乱はんらんつづいた。1711ねんはじまったタスカローラ戦争せんそうと、その終結しゅうけつあいだ1715ねんヤマシー戦争せんそうである。タスカローラ戦争せんそうやぶれたタスカローラぞく残党ざんとうきたのがれてイロコイ連邦れんぽう合流ごうりゅうした。同様どうようにヤマシー戦争せんそうやぶれたクリークぞくみなみのがれ、一部いちぶスペインりょうフロリダはいってセミノールぞく連合れんごうみ、その抵抗ていこう19世紀せいきなかばまでつづいた。

インディアンをんだヨーロッパ列強れっきょう対立たいりつ[編集へんしゅう]

1688ねんはじまっただい同盟どうめい戦争せんそう以降いこう、ヨーロッパでの対立たいりつ構図こうずがそのままきたアメリカまれ、おもにイギリスのきたアメリカ植民しょくみんとフランスのヌーベルフランスとのあいだこうそうかえされた。すなわち1689ねんウィリアムおう戦争せんそう1702ねんアン女王じょおう戦争せんそう1722ねんラル神父しんぷ戦争せんそう1744ねんジョージおう戦争せんそう1749ねんル・ロウター神父しんぷ戦争せんそうおよび1756ねんフレンチ・インディアン戦争せんそうである。これらを総称そうしょうして北米ほくべい植民しょくみん戦争せんそうともばれる。フランスとイギリスは、かならずその同盟どうめいインディアンを戦争せんそう動員どういんしてたたかった。

アメリカ植民しょくみんやヌーベルフランスでは、フランスの同盟どうめい相手あいて五大ごだいみずうみ地方ちほうアルゴンキン語族ごぞくけいインディアン部族ぶぞくであったが、南部なんぶフランスりょうルイジアナではチョクトーぞく同盟どうめい相手あいてであった。これにたいしてイギリスはそれぞれフランスと同盟どうめいする部族ぶぞく敵対てきたいてき部族ぶぞくえらび、北部ほくぶではイロコイぞく南部なんぶではチカソーぞく同盟どうめいむすんだ。ミシシッピがわ通行つうこうからむフランス・チョクトーぞく同盟どうめいぐんとチカソーぞくたたかいは、チカソー戦争せんそう (1720-1760) とばれる。

この時期じき特徴とくちょうてきなことは、アメリカ東海岸ひがしかいがんにほとんどインディアンがいなくなったことである。んでいるとすれば、ほとんど植民しょくみんじん生活せいかつ習慣しゅうかんれ、社会しゃかいてきまた宗教しゅうきょうてきにも同化どうかしてきたインディアンであり、政府せいふのインディアン部局ぶきょく所属しょぞくして代理人だいりにんつとめたり、一部いちぶでは混血こんけつすすめられて農園のうえん所有しょゆうするものすらあらわれた。植民しょくみん社会しゃかい同化どうかできないインディアンは内陸ないりく後退こうたいし、植民しょくみんとの交易こうえきつづけて和平わへいたもつか、入植にゅうしょくしゃたいして敵対てきたいてき行動こうどうおこなって植民しょくみん白人はくじん反撃はんげきらい、また内陸ないりくむという悪循環あくじゅんかんかえした。

これらの戦争せんそう結果けっか最終さいしゅうてき1763ねんパリ条約じょうやくでフランスがきたアメリカの植民しょくみん放棄ほうきしたことで、情勢じょうせい一気いっきわった。カナダからメキシコわんまで広大こうだい植民しょくみん支配しはいすることになったイギリスと、それまでフランスやスペイン友好ゆうこうてき関係かんけいきずいてきたインディアン部族ぶぞくとのあいだ対立たいりつまれることになった。

イギリスたいインディアン[編集へんしゅう]

イギリスは1763ねんフランスりょうアメリカ獲得かくとくすると、1763ねん宣言せんげんはっしてアパラチア山脈さんみゃくより西にしへの白人はくじん入植にゅうしょくきんじた。これは白人はくじん入植にゅうしょくしゃとインディアンとのこうそうおそれたことがつよ動機どうきとなってはっせられたものであった。しかし、それまでフランスと同盟どうめいしていたインディアン部族ぶぞくポンティアック酋長しゅうちょうびかけにおうじて同盟どうめいむすび、ポンティアック戦争せんそうばれる反乱はんらんこした。この戦争せんそうくわわったのは五大ごだいみずうみオハイオ領土りょうどイリノイぐん広範こうはん地域ちいきおよおおくの部族ぶぞくだった。この戦争せんそうは、それまで部族ぶぞくそれぞれでうごくことのおおかったインディアンたちが、おおくの部族ぶぞく共同きょうどうして反抗はんこうする可能かのうせい実現じつげんしたひとつの事例じれいとなった。

1763ねん宣言せんげんは、実質じっしつてきにはポンティアック戦争せんそう開戦かいせんはっせられ、戦争せんそう終了しゅうりょうさせる条約じょうやくなかでも交渉こうしょう材料ざいりょうとして使つかわれた。しかし、植民しょくみん白人はくじん西方せいほう領土りょうど解放かいほう要求ようきゅうおさえることはできず、あらたなインディアンとのこうそう火種ひだねとなったうえに、植民しょくみん白人はくじん不満ふまん増幅ぞうふくさせ、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう原因げんいんひとつになった。そのようななか1773ねんダンモアの戦争せんそうこった。オハイオがわみなみまで侵入しんにゅうして入植にゅうしょくしゃショーニーぞくミンゴぞくインディアンがおそったことにはしはっし、バージニア知事ちじダンモアきょうぐんはっしてしずめるという結果けっかわったが、このたたかいをさかいに、イギリスたいインディアンというたたかいの構図こうずは、登場とうじょう人物じんぶつおなじだがアメリカの植民しょくみんじんたいインディアンという構図こうずわっていった。

ミシシッピがわひがし(1775ねん-1842ねん[編集へんしゅう]

この期間きかん戦争せんそうあたらしく建国けんこくされたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくたいするインディアンによるものであり、べいぼく戦争せんそう直前ちょくぜんまでをひとつの区切くぎりとしている。

インディアン戦争せんそうちゅうおもたたか
ミシシッピがわひがし

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう基本きほんてきに2ほん平行へいこうした戦線せんせんがあった。1つは東部とうぶのイギリス支配しはいたいするものであり、もう1つは西部せいぶのインディアン戦争せんそうであった。あたらしく出来できたばかりのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは、ミシシッピがわひがしにいるイギリスと同盟どうめいしたインディアンとたたかうことになった。西方せいほう入植にゅうしょくひろげたいという植民しょくみん関心かんしんは、イギリスがインディアンとのあいだ和平わへいたもつという政策せいさくったために独立どくりつ戦争せんそう原因げんいんひとつにもなった。イギリスがわいたインディアンは自分じぶんたち土地とち侵略しんりゃくしてくる入植にゅうしょくしゃなみめることを戦争せんそう期待きたいしていた。独立どくりつ戦争せんそう西部せいぶ戦線せんせんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく歴史れきしなかで「もっと広範こうはん破壊はかいてきな」インディアン戦争せんそうとなった。[16]

おおくのインディアン社会しゃかいでは、この戦争せんそうでどちらのがわくかでかれた。イロコイ連邦れんぽう独立どくりつ戦争せんそう内乱ないらん状態じょうたいになった。チェロキーぞく中立ちゅうりつ(あるいはアメリカ)とはんアメリカかれ、はんアメリカはツィユグンシニ(ドラァギング・カヌー)たちの戦士せんしだんチカマウガ戦争せんそうたたかった。おおくの部族ぶぞく社会しゃかい同様どうよう分裂ぶんれつした。

辺境へんきょうでの戦争せんそうとく残虐ざんぎゃくきわめた。おおくの残虐ざんぎゃく行為こういがどちらのがわにもあった。白人はくじん・インディアン双方そうほうともおおくのおんな子供こども犠牲ぎせいになり、軍隊ぐんたい遠征えんせいのために集落しゅうらく食料しょくりょう農場のうじょう倉庫そうこがしばしば破壊はかいされた。この遠征えんせいなかでも最大さいだいのものは1779ねんサリバン遠征えんせい部隊ぶたいによるものだった。このときは40以上いじょうのイロコイぞく集落しゅうらく破壊はかいしてニューヨークしゅう北部ほくぶのイロコイぞく全滅ぜんめつさせた。しかし、この遠征えんせい戦果せんか上々じょうじょうとはいかず、インディアンの反発はんぱつをよりつよめた。

インディアンたちは、1783ねんにイギリスがアメリカとパリ条約じょうやくむすんで停戦ていせんしたとき、インディアンにはなにらせないままにインディアンの広大こうだい領土りょうどをアメリカにわたしてしまったことをって驚愕きょうがくした。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく当初とうしょ、イギリスがわいてたたかったインディアンを、土地とちうしなった征服せいふくみんとしてあつかった。アメリカは、「インディアンはかみうえ戦争せんそうけたのであり、戦場せんじょうではなかった」というかんがかたをインディアンにしつけることが不可能ふかのうかったとき、その政策せいさく放棄ほうきした。使つかえる土地とちひろげたかった連邦れんぽう政府せいふつぎったは、インディアンとの条約じょうやく土地とち購入こうにゅうすることのみでひろげることだった。各州かくしゅう入植にゅうしょく白人はくじんはこの政策せいさく反発はんぱつし、さらに土地とちうばっての戦争せんそうつづくことになった。

チカマウガ戦争せんそう[編集へんしゅう]

チカマウガ戦争せんそうはアメリカ独立どくりつ戦争せんそうまれたチェロキーぞく入植にゅうしょく白人はくじんあいだ一連いちれん紛争ふんそうであり、1794ねんまでつづいた。チカマウガとは、最初さいしょはオーバーヒル集落しゅうらくから、のちにはローワー集落しゅうらく、バレー集落しゅうらくおよびミドル集落しゅうらくのチェロキーぞくくわわり、ドラァギング・カヌーたちの一団いちだんが、南西なんせいのチカマウガ地区ちく(テネシーしゅうチャタヌーガ)に、のちにはファイブ・ローワー集落しゅうらくんだものたちを、白人はくじんが「チカマウガ」とんだものである。

これらの集落しゅうらくでは、クリークぞく白人はくじんおう党派とうは逃亡とうぼう黒人こくじん奴隷どれい、およびチカソーぞくくわわり、のちにはチカマウガ・チェロキーぞく戦士せんしが100めい北方ほっぽう移動いどうしたのとわりにくわわった、100めい以上いじょうショーニーぞくおよび部族ぶぞく70めいがあった。当初とうしょ攻撃こうげき目標もくひょうは、ワトーガがわ、ホルストンがわおよびノリチャキーかわ沿い、さらにテネシー東部とうぶのカーター渓谷けいこく入植にゅうしょくとされ、1780ねんにはナッシュボロとりではじめとするカンバーランドかわ沿いの入植にゅうしょくケンタッキー、さらにのちにはバージニア、ノースカロライナサウスカロライナおよびジョージアまでにもひろがった。チカマウガ連合れんごうによる攻撃こうげき規模きぼは、一握ひとにぎりの戦士せんしによる急襲きゅうしゅうから400から500めいときには1,000めいえるだい部隊ぶたいによるものもあった。ドラァギング・カヌーにちか同盟どうめいしゃアレクサンダー・マギリブレー一派いっぱ同盟どうめい北部ほくぶムスコギーぞくクリークぞく)はしばしばチカマウガの行動こうどうくわわり、また単独たんどくでも行動こうどうした。

カンバーランドがわ入植にゅうしょくはチカソーぞく北方ほっぽうのショーニーぞくおよびデラウェアぞくからの攻撃こうげきけた。ドラァギング・カヌーやその後継こうけいしゃであるジョン・ワットの作戦さくせん行動こうどうは、北西ほくせい作戦さくせん行動こうどう連携れんけいしておこなわれることがあった。これにたいする植民しょくみん白人はくじんったは、平和へいわ地域ちいきのチェロキーぞく集落しゅうらく破壊はかいくすということであり、どちらのがわ人命じんめいかんしておおきな被害ひがいした。この戦争せんそう1794ねんのテリコ・ブロックハウスの条約じょうやく終結しゅうけつした。

北西ほくせいインディアン戦争せんそう[編集へんしゅう]

フォールン・ティンバーズのたたか

1787ねん北西ほくせい条例じょうれいによって、北西ほくせい領土りょうど白人はくじん入植にゅうしょくしゃのために公式こうしき組織そしきされ、白人はくじん入植にゅうしょくしゃ大挙たいきょしてこの地域ちいきはいるようになった。北西ほくせいのインディアンたちはこの「領土りょうど侵犯しんぱん」に対抗たいこうして抵抗ていこうせんうったえたが、ジョージ・ワシントン軍隊ぐんたい派遣はけんして鎮圧ちんあつさせようとした。しかし、北西ほくせいインディアン戦争せんそうで、ショーニーぞくのブルージャケットやマイアミぞくのリトルタートル、レナペぞくのバッコンガヘラおよびオッタワぞくのエグシャワらがかかわったひろし部族ぶぞく同盟どうめいが、ジョシア・ハーマー将軍しょうぐんアーサー・セントクレア将軍しょうぐんひきいられる合衆国がっしゅうこくぐん撃破げきはした。セントクレア将軍しょうぐん敗北はいぼくは、アメリカぐんがインディアンにきっしたものとしては最大さいだい損失そんしつとなった。

合衆国がっしゅうこく政府せいふ事態じたい交渉こうしょうおさめようとしたが、ブルージャケットやショーニーぞくらのインディアン同盟どうめい英語えいごばんぐん合衆国がっしゅうこくゆずれない境界きょうかいせん固執こしつしたために、あらたにアンソニー・ウェイン将軍しょうぐんひきいしん戦力せんりょく派遣はけんされた。ウェインぐん1794ねんフォールン・ティンバーズのたたかでインディアン同盟どうめいぐんやぶった。インディアンはイギリスの援助えんじょ期待きたいしたが、合衆国がっしゅうこくとの友好ゆうこう関係かんけい重視じゅうししたイギリスはこれを無視むし1795ねんグリーンヴィル条約じょうやく英語えいごばん調印ちょういんして和解わかいした。この条約じょうやくでインディアンはオハイオ全部ぜんぶインディアナ一部いちぶアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく割譲かつじょうさせられた。

テカムセ、クリーク戦争せんそうおよびべいえい戦争せんそう[編集へんしゅう]

テカムセ

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはグリーンビル条約じょうやくのち次々つぎつぎとインディアンの土地とち権利けんりうばっていったので、インディアン社会しゃかいではおおきな脅威きょういとなっていた。1800ねん、インディアナじゅんしゅう知事ちじおよびインディアン対策たいさくきょく長官ちょうかん就任しゅうにんしたウィリアム・ハリソンは、トーマス・ジェファーソン大統領だいとうりょう指示しじでインディアンの土地とち取得しゅとく加速かそくさせることとなり、1803にはウェインとりで条約じょうやく英語えいごばんヴィンセンス条約じょうやく英語えいごばん、1809ねんにはもう1けんウェインとりで条約じょうやく英語えいごばん締結ていけつするかたちで12,000平方へいほうキロメートル[注釈ちゅうしゃく 1]以上いじょうものあらたな土地とち領有りょうゆうけん主張しゅちょうした。これにたいし、ショーニーぞく兄弟きょうだいテカムセテンスクワタワ英語えいごばん合衆国がっしゅうこく拡張かくちょうたいする抵抗ていこうびかけた。テカムセの目的もくてきはインディアンたち土地とちることをめさせることだった。

テカムセが南部なんぶって、クリークぞく、チェロキーぞくおよびチョクトーぞくなか同盟どうめいしゃつのっているあいだに、ハリソンはインディアン同盟どうめいたたかいをいどみ、1811ねんティッペカヌーのたたかでテンスカタワたちをやぶった。合衆国がっしゅうこくはこの勝利しょうり武力ぶりょくによる抵抗ていこうおさまることを期待きたいしたが、テカムセたちはイギリスぐん同盟どうめいして、べいえい戦争せんそうなか合衆国がっしゅうこくたいするたたかいをはじめた。

セミノールさがすアメリカぐん
べいぐん要塞ようさい攻撃こうげきくわえるセミノール

独立どくりつ戦争せんそうとき同様どうように、べいえい戦争せんそうでは西部せいぶ戦線せんせんだい規模きぼなインディアン戦争せんそうとなった。テカムセに同調どうちょうしたクリークぞくは、当初とうしょクリークぞくない内戦ないせんからはじまったクリーク戦争せんそう合衆国がっしゅうこく拡張かくちょう政策せいさくはげしく抵抗ていこうすることになった。べいえい戦争せんそうにおけるイギリスとのたたかいは手詰てづまりの様相ようそうていしたが、合衆国がっしゅうこく西部せいぶ戦線せんせんではそこそこの成功せいこうおさめた。テカムセはテムズのたたかでハリソンぐんころされ、北西ほくせいでの抵抗ていこうわった。合衆国がっしゅうこく反攻はんこうしたクリークぞくやぶれた。1818ねんだいいちセミノール戦争せんそうはある意味いみでクリーク戦争せんそう延長えんちょうであったが、最終さいしゅうてきには1819ねん合衆国がっしゅうこくがフロリダを占領せんりょうすることになった。

アンドリュー・ジャクソン。「インディアンはほろぼされるべき劣等れっとう民族みんぞくである」と演説えんぜつし、クリーク戦争せんそうホースシュー・ベンドのたたかって、インディアン強制きょうせい移住いじゅう推進すいしんしゃになった。

独立どくりつ戦争せんそう北西ほくせいインディアン戦争せんそう同様どうようべいえい戦争せんそうのちも、イギリスはインディアンにたいする同盟どうめい放棄ほうきした。これはインディアン戦争せんそうにとってはおおきな転機てんきであり、インディアンはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくたいするたたかいで外国がいこくちからてにできなくなった。

強制きょうせい移住いじゅう時代じだい[編集へんしゅう]

これらの戦争せんそうひとつの結果けっかは、トーマス・ジェファーソン提唱ていしょうし、アンドリュー・ジャクソン大統領だいとうりょう1830ねん署名しょめいして成立せいりつした「インディアン移住いじゅうほう」であった。インディアン移住いじゅうほうそのものはインディアンの移住いじゅう強制きょうせいするものではなかったが、ルイジアナ買収ばいしゅう西部せいぶ土地とちえに東部とうぶにあるインディアンの土地とちわたすよう交渉こうしょうする権利けんり大統領だいとうりょうゆだねるものであった。歴史れきしのロバート・V・レミニによれば、ジャクソンは、イギリスやスペインがアメリカの国境こっきょうないでインディアンに武装ぶそうさせアメリカに戦争せんそういどませるように仕向しむけている事態じたいかんがみて、国内こくない安全あんぜん保障ほしょう優先ゆうせんするという政策せいさく促進そくしんさせた。[17]

「インディアン移住いじゅうほう」とは、「インディアンを白人はくじんのいない西部せいぶインディアンじゅんしゅうげんオクラホマしゅう)に強制きょうせい移住いじゅうさせ、連邦れんぽう政府せいふ信託しんたく保留ほりゅう (reserve) した土地とち (Reservation) にまわせ、そこで白人はくじん社会しゃかいシステムを構築こうちくし、白人はくじん社会しゃかい同化どうかさせる」という民族みんぞく浄化じょうか政策せいさくである。「これにしたがわない場合ばあい、そのインディアン部族ぶぞく絶滅ぜつめつさせる」とジャクソンは宣言せんげんした。

こうしておおくのインディアン移住いじゅう条約じょうやく武力ぶりょく背景はいけいむすばれた。インディアンの大半たいはん渋々しぶしぶながら移住いじゅう条約じょうやく条件じょうけんしたがったが、にがあきらめということでもあった(なみだみち)。しかしこれら条約じょうやく執行しっこう抵抗ていこうして戦闘せんとうはじめるものがいた。これらは、1832ねんブラック・ホーク戦争せんそう1836ねんクリーク戦争せんそう英語えいごばんおよびなが犠牲ぎせいおおきいだいセミノール戦争せんそう (1835-1842) であった。

アラスカ(1799ねん-1867ねん[編集へんしゅう]

18世紀せいきまつアラスカまで進出しんしゅつしたロシア帝国ていこくは、1802ねんにシトカとう基地きちトリンギットぞくインディアンにうばわれた。1804ねんアレクサンドル・バラノフ知事ちじ指揮しきするロシアぐんが、頑強がんきょう抵抗ていこうするトリンギットぞくしに成功せいこうシトカのたたか)し、ロシアりょうアラスカ入植にゅうしょくつづけた。このたたかいは白人はくじんとアラスカインディアンの最後さいごたたかいとわれる。そのもアラスカインディアンの抵抗ていこう散発さんぱつてきつづいてはいたが、ロシアはアラスカの植民しょくみん経営けいえいからおもうような成果せいかげられず、1867ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアラスカを売却ばいきゃくした。

ミシシッピがわ西にし(1823ねん-1890ねん[編集へんしゅう]

東部とうぶ同様どうよう西部せいぶだい平原へいげん山岳さんがくでも、鉱山こうざん牧場ぼくじょう経営けいえいしゃおよび入植にゅうしょくしゃによる合衆国がっしゅうこく植民しょくみん拡張かくちょうで、インディアンとの紛争ふんそう増大ぞうだいした。グレートベースンユテぞくなどのおおくの部族ぶぞくが、一度いちどならず白人はくじんたたかいをいどんだ。

大平おおひらげんでは、北部ほくぶスーぞくシャイアンぞくコマンチぞくカイオワぞくといった狩猟しゅりょう騎馬きば民族みんぞく、また南西なんせいでは山岳さんがく略奪りゃくだつみんアパッチぞくかれらの領土りょうど侵犯しんぱんたいしてもっとはげしい抵抗ていこうおこなった。スーぞくやコマンチぞくなど平原へいげん部族ぶぞくは、うま使つかった高速こうそく戦闘せんとう得意とくいであった。スーぞく元々もともと五大ごだいみずうみ地方ちほう定住ていじゅうがた農業のうぎょういとなんでいたものが、だい平原へいげんながれてきていた。スーぞくうまつかまえかたかたおぼえ、西部せいぶ移動いどうしてその流儀りゅうぎのインディアン部族ぶぞく圧倒あっとうし、おそれられる戦士せんし集団しゅうだんとなった。アパッチぞく部族ぶぞくおそってその経済けいざいりょくていた経緯けいいがあり、血縁けつえんしゃ報復ほうふくのためにたたかいをこしていた。アパッチぞくみなたたかかた精通せいつうしており、砂漠さばく峡谷きょうこくという環境かんきょうでゲリラせんたたかった。

大平おおひらげん[編集へんしゅう]

シッティング・ブル

南北戦争なんぼくせんそうあいだ白人はくじんとインディアンのこうそうつづいていた。1862ねんダコタ戦争せんそう実際じっさい暴動ぼうどう)は、アメリカとスーぞくあいだ最初さいしょだい規模きぼ衝突しょうとつであった。原因げんいんは、アメリカ政府せいふ怠慢たいまんにある。サンテ・スーぞく(ダコタぞく)は、当時とうじせま保留ほりゅう強制きょうせい移住いじゅうさせられ、11ねんわたって保留ほりゅう管理かんり事務所じむしょからの食糧しょくりょう配給はいきゅうとどこおったため、飢餓きが状態じょうたいになっていた。

あるとき、りからもど途中とちゅうの4にん戦士せんしが、いざこざで白人はくじん農場のうじょうぬし一家いっかころしてしまい、酋長しゅうちょう会議かいぎひらかれ、殺人さつじんしゃわたすか、全面ぜんめん戦争せんそうかの協議きょうぎがなされた。ここでタオヤデドゥタ(ちいさなカラス)酋長しゅうちょう当初とうしょ戦闘せんとう反対はんたいしたが、部族ぶぞく窮状きゅうじょう不満ふまんのたまっていたほか戦士せんしたちられて交戦こうせんとなり、ミネソタしゅう全土ぜんどおおう6週間しゅうかんたたかいとなった。500めい以上いじょうのアメリカぐん兵士へいし入植にゅうしょくしゃんだ。それ以外いがいにもちいさな襲撃しゅうげき捕虜ほりょとなったのちにさらにおおくのものんだとしんじられている。

この蜂起ほうきんだスーぞくかず文献ぶんけんにはのこされていないが、戦争せんそうに303めいのスーぞく殺人さつじん強姦ごうかん告訴こくそされ、アメリカぐん軍事ぐんじ法廷ほうてい死刑しけい宣告せんこくけた。死刑しけい判決はんけつだい部分ぶぶん減刑げんけいされたが、1862ねん12月26にちエイブラハム・リンカーン指示しじによって、ミネソタしゅうマンケイトで38めいのダコタ・スーぞく戦士せんし絞首刑こうしゅけいしょせられた。これはアメリカの歴史れきしなかでも最大さいだい同時どうじ執行しっこうであった。[18]飢餓きが状態じょうたいおちいった少数しょうすう民族みんぞく反乱はんらんこし、国家こっかによって武力ぶりょく鎮圧ちんあつされたこの事件じけんは、「ダコタ戦争せんそう」とばれてはいるものの、実質じっしつてきには「暴動ぼうどう」である。基本きほんてき保留ほりゅう政策せいさく欠陥けっかん原因げんいんがあるこの暴動ぼうどうも、リンカーン大統領だいとうりょう注意ちゅういはらわなかった。合衆国がっしゅうこく関心かんしんによって、インディアンはさらにえた。またリンカーンはミネソタしゅうからすべてのスーぞくいだすと宣言せんげん、スーぞく皆殺みなごろ政策せいさくをミネソタとともおこない、ミネソタのかれらの保留ほりゅう保留ほりゅう解消かいしょうして領土りょうど没収ぼっしゅうした。

1864ねんにはサンドクリークの虐殺ぎゃくさつばれる悪名あくめいたかいインディアン虐殺ぎゃくさつこった。コロラドしゅう南東なんとうシャイアンぞくアラパホぞくティーピーのキャンプを土地とち民兵みんぺいおそい、およそ150めい男女だんじょ子供こどもころし、男女だんじょ性器せいきあたまかわいだ。サンド・クリークにむインディアンは連邦れんぽう政府せいふによってそのときんでいる領土りょうどないでの安全あんぜん保証ほしょうされていたが、インディアンに反感はんかんいだ白人はくじん入植にゅうしょくしゃ暴走ぼうそうした。シャイアンぞくはティーピーに白旗しらはたかかげて不戦ふせん意思いしあらわしていたのに、それは無視むしされたのである。のち連邦れんぽう議会ぎかいによる調査ちょうさおこなわれ、インディアン虐殺ぎゃくさつしゃたいして短期間たんきかんではあるが大衆たいしゅう抗議こうぎつづいた。

ジョージ・アームストロング・カスター

1876ねん、ダコタ・ゴールドラッシュブラックヒルズこったときに、最後さいご重大じゅうだいスーぞく戦争せんそうこった。ブラックヒルズ一帯いったいは「ララミーとりで条約じょうやく」では、スーぞく不可侵ふかしん領土りょうどだったが、きむたあとはまったく無視むしされ、白人はくじんらし放題ほうだいだった。合衆国がっしゅうこくぐんはついに条約じょうやくみずかやぶり、スーぞく掃討そうとう作戦さくせんた。いくつかの小競こぜいののちで、カスター中佐ちゅうさスーぞくシャイアンぞくアラパホーぞく総計そうけい1500にん宗教しゅうきょう儀式ぎしきのためにリトル・ビッグ・ホーン河畔かはん野営やえいしているのをつけた。カスターはこうあせってこれを奇襲きしゅうし、リトルビッグホーンのたたかとなった。本隊ほんたいとははなれて行動こうどうしていたカスター将軍しょうぐん部隊ぶたいは、戦術せんじゅつてき利点りてんがありすうてきにも上回うわまわったインディアンに全滅ぜんめつさせられた。インディアン戦士せんしには、オグララ・ラコタぞく名高なだか戦士せんしクレイジー・ホース参加さんかしており、シッティング・ブルせんには参加さんかせず)の勝利しょうり予言よげんによって鼓舞こぶされていた。

その1890ねんサウスダコタしゅうウーンデッド・ニーに連行れんこうされたゴーストダンス信奉しんぽうのミネコンジュー・スーぞくの「シハ・タンカ・バンド」にたいし、べいぐん騎兵隊きへいたい武装ぶそう解除かいじょ強制きょうせいして銃撃じゅうげきせんとなり、兵士へいしたちはおよそ300めい武装ぶそう老若男女ろうにゃくなんにょのインディアンをころした(ウーンデッド・ニーの虐殺ぎゃくさつ)。死亡しぼうした29めい兵士へいしには、友軍ゆうぐん銃撃じゅうげきんだものもいる。

19世紀せいき後半こうはん、アメリカン・バイソンはおも職業しょくぎょうてきハンターによって絶滅ぜつめつ寸前すんぜんまでまれ、1880年代ねんだいなかばにはすうひゃくとうとなっていた。[19]

これらの凄惨せいさんなインディアン戦争せんそうとはべつに、グレートプレーンズのインディアン人口じんこう減少げんしょう背景はいけいにはバッファロー絶滅ぜつめつがあった。平原へいげんのインディアンたち衣食住いしょくじゅうはしらとして4000まんとうえるバッファローにたよっていたが、1870年代ねんだいから1880年代ねんだいにかけて生活せいかつかてもとめるべくおこなわれたMarket huntersばれた白人はくじんメティによる乱獲らんかくだい平原へいげんから絶滅ぜつめつ寸前すんぜん(750とう)までまれたため、グレートプレーンズでは生活せいかつりたなくなり移住いじゅうせざるをなくなったのである。

南西なんせい[編集へんしゅう]

南西なんせい広大こうだい地域ちいきでの紛争ふんそう1846ねんから1895ねんまでつづいた。この地域ちいきのあらゆるプエブロしょぞくみ、スペインけいメキシコじんとの紛争ふんそうつづいた。ナバホぞくとアパッチぞくとの紛争ふんそうられているが、それだけではかった。南西なんせい最後さいごだい規模きぼ作戦さくせん計画けいかくは5,000めい兵士へいし投入とうにゅうした。この作戦さくせんでアパッチぞくジェロニモと24めい戦士せんしおんな子供こども1886ねん降伏ごうぶくした。なお、ジェロニモは酋長しゅうちょうではない。

南西なんせい部族ぶぞく(プエブロぞくふくむ)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくメキシコからこの地域ちいき獲得かくとくするまえなに世紀せいきも、たがいにまたそとからはいってきた入植にゅうしょくしゃとの交易こうえきたたかいをかえしていた。

西部せいぶのインディアン戦争せんそう年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

最後さいごたたかい(1898ねん-1917ねん[編集へんしゅう]

  • 1898ねん10がつ5にち、ミネソタしゅうリーチみずうみでのシュガーポイントのたたかい。アメリカだい3歩兵ほへい連隊れんたい兵卒へいそつオスカー・バーカードにインディアン戦争せんそうでは最後さいご名誉めいよのメダルがおくられた。
  • 1917ねん、アリゾナしゅうノーゲールズのすぐ西にしでアメリカだい10騎兵隊きへいたいとヤキぞくインディアンが交戦こうせん

アメリカぐん[編集へんしゅう]

斥候せっこう[編集へんしゅう]

  • アパッチぞく斥候せっこう(ナバホぞくやモハーベぞくなど、アパッチぞく以外いがい部族ぶぞくもアパッチぞくあつかいされた)
  • クロウぞく斥候せっこう
  • アリカラぞく斥候せっこう
  • ポーニーぞく斥候せっこう(このさん部族ぶぞくはスーぞく歴史れきしてき敵対てきたいしており、スーぞく全滅ぜんめつ作戦さくせんよろこんでちからした)
  • ブラック・セミノール斥候せっこう

騎兵きへい[編集へんしゅう]

  • だい1騎兵きへい連隊れんたい - 1834ねん 1836ねん - 1892ねん
  • だい2騎兵きへい連隊れんたい - 1867ねんおよび1870ねん
  • だい3騎兵きへい連隊れんたい - 1869ねん
  • だい4騎兵きへい連隊れんたい - 1865ねん - 1886ねん
  • だい5騎兵きへい連隊れんたい - 1876ねん
  • だい6騎兵きへい連隊れんたい - 1867ねん - 1885ねんおよび1890ねん
  • だい7騎兵きへい連隊れんたい - 1871ねん - 1890ねん
  • だい8騎兵きへい連隊れんたい - 1867ねん - 1869ねんおよび1877ねん
  • だい9騎兵きへい連隊れんたい - 1868ねんおよび1875ねん - 1881ねん 別名べつめいバッファローへい
  • だい10騎兵きへい連隊れんたい - 1867ねん - 1868ねん、1875ねん、1879ねん - 1880ねん、1885ねん、1917ねん バッファローへい
  • だい113騎兵きへい連隊れんたい

歩兵ほへい[編集へんしゅう]

  • だい1歩兵ほへい連隊れんたい - 1791ねん、1832ねん、1839ねん-1842ねん、1870年代ねんだい-1890年代ねんだい
  • だい2歩兵ほへい連隊れんたい
  • だい3歩兵ほへい連隊れんたい - 1792ねん、1856ねん-1858ねん、1860ねん、1887ねん、1898ねん
  • だい4歩兵ほへい連隊れんたい - 1808ねん、1816ねん-1836ねん、1869-1879ねん
  • だい5歩兵ほへい連隊れんたい - 1877ねん
  • だい6歩兵ほへい連隊れんたい - 1823ねん-1879ねん
  • だい9歩兵ほへい連隊れんたい - 1876ねん
  • だい10歩兵ほへい連隊れんたい
  • だい11歩兵ほへい連隊れんたい - 1874ねん
  • だい12歩兵ほへい連隊れんたい - 1872ねん-1873ねん、1878ねん、1890-1891ねん
  • だい13歩兵ほへい連隊れんたい - 1867ねん-1871ねん
  • だい14歩兵ほへい連隊れんたい - 1876ねん
  • だい15歩兵ほへい連隊れんたい
  • だい16歩兵ほへい連隊れんたい
  • だい18歩兵ほへい連隊れんたい - 1866ねん-1890ねん
  • だい21歩兵ほへい連隊れんたい
  • だい22歩兵ほへい連隊れんたい - 1869ねん、1872ねん、1876ねん-1877ねん
  • だい23歩兵ほへい連隊れんたい - 1866ねん、1868ねん、1876ねん
  • だい24歩兵ほへい連隊れんたいRegiment
  • だい25歩兵ほへい連隊れんたい(バッファローへい) 1866ねん-1890年代ねんだい
  • ミシシッピーライフル狙撃そげき兵隊へいたい

砲兵ほうへい[編集へんしゅう]

歴史れきしがく[編集へんしゅう]

アメリカの歴史れきししょでは、インディアン戦争せんそうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく軍事ぐんじ比較的ひかくてきちいさな部分ぶぶんとしてしかあつかわれていない。20世紀せいき最後さいごすうじゅう年間ねんかんに、相当そうとうすう歴史れきしがこの戦争せんそうかんする著書ちょしょなかでインディアンの見解けんかい紹介しょうかいはじめ、インディアンとその文化ぶんかにおける戦争せんそう影響えいきょう強調きょうちょうするようになった。

られ影響えいきょうりょく著書ちょしょは1970ねんのディ・ブラウンの「ウーンデッドニーにわたししんめて」(Bury My Heart at Wounded Knee) である。学術がくじゅつてき歴史れきしでは、フランシス・ジェニングスの「アメリカの侵略しんりゃく:インディアン、植民しょくみん主義しゅぎ、および征服せいふく」(The Invasion of America: Indians, Colonialism, and the Cant of Conquest、ニューヨーク、ノートン、1975ねん)が、インディアンと白人はくじん関係かんけいについて伝統でんとうてき見方みかた逆転ぎゃくてんさせていることで著名ちょめいである。インディアンと兵士へいしについて両方りょうほう観点かんてんから最近さいきん重要じゅうよう著作ちょさく、ジェローム・A・グリーンの「インディアン戦争せんそう古参こさんへい軍隊ぐんたい生活せいかつ記憶きおく西部せいぶ実行じっこう作戦さくせん、1864ねん-1898ねん」(INDIAN WAR VETERANS: Memories of Army Life and Campaigns in the West, 1864-1898、ニューヨーク、2007ねん)が出版しゅっぱんされた。インディアンがわからの反論はんろんとして歴史れきしてきなものには、ヴァイン・デロリア・ジュニアスーぞく)による「インディアンの宣言せんげんしょ:カスターはそのつみゆえにんだ」(Custer Died For Your Sins: An Indian Manifesto、1969ねん)がある。

歴史れきしなかにはインディアン戦争せんそうをインディアンとアメリカ白人はくじんとのあいだ民族みんぞく戦争せんそうて、闘争とうそう複雑ふくざつ現実げんじつ単純たんじゅんするものがいる。インディアンと白人はくじんはしばしば共闘きょうとうした。インディアンはのインディアンとたたかうこともあった。たとえばホースシュー・ベンドのたたかはクリークぞくインディアンにたいするアメリカぐん勝利しょうりとされているが、勝者しょうしゃはアンドリュー・ジャクソンに協力きょうりょくしたチェロキーぞく、クリークぞくおよびテネシーしゅう民兵みんぺい共同きょうどうぐんであった。ひろ観点かんてんかられば、インディアン戦争せんそうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる先住民せんじゅうみんぞく征服せいふく戦争せんそうであるが、個々ここ戦闘せんとうこまかくるとそれほど単純たんじゅんすることはできない。

またそのような観点かんてんから、白人はくじん協力きょうりょくしたインディアンを「裏切うらぎもの」とみなす解釈かいしゃく存在そんざいする。たとえばパイン・リッジ作戦さくせんにおいては多数たすうのポーニーぞく正規せいきぐん参加さんかしてスーぞく戦闘せんとうおこなっており、現代げんだいでもスーぞく英雄えいゆうする一方いっぽうでポーニーぞく悪役あくやくあつかいされている(従来じゅうらい西部せいぶげきちがいインディアンへの差別さべついとされる映画えいがダンス・ウィズ・ウルブズ」においても、この見方みかた踏襲とうしゅうされている)。しかしインディアンをすべ同族どうぞくなすのは白人はくじんがわ勝手かって解釈かいしゃくであり、ポーニーぞくにとってみれば白人はくじんもスーぞく民族みんぞくである。当時とうじのポーニーぞくはスーぞく圧迫あっぱくされており、そのため白人はくじんむすんだのである。ウィリアムおう戦争せんそうで、アメリカに入植にゅうしょくしたイギリスじんとフランスじんという民族みんぞくたたかいを「おな民族みんぞくたたかった」とはわないのと同様どうようである。「インディアンたちが団結だんけつしていれば白人はくじん侵略しんりゃくふせげた」との論調ろんちょうは、典型てんけいてきステレオタイプである[21]

もっと苛烈かれつ西部せいぶにおけるインディアン戦争せんそうで、べいぐんたいしてぜんインディアン部族ぶぞく結束けっそくする、ということはついになかった。かれらはそれぞれが独立どくりつ国家こっかであり、この領土りょうど防衛ぼうえいせんたいするかんがかた部族ぶぞくそれぞれがまったくちがっていたからである。ネ・ペルセぞくやショーショーニーぞく白人はくじん友好ゆうこう最後さいごまでつづけ、入植にゅうしょく白人はくじん部族ぶぞくから保護ほごしてみせた。しかしそのむくいは、保留ほりゅう度重たびかさなる縮小しゅくしょう僻地へきちへの幽閉ゆうへいであった。しん意味いみでインディアン部族ぶぞく結束けっそくし、合衆国がっしゅうこくたたかいをいどむのは、1960年代ねんだい以降いこうの「レッドパワー運動うんどう」までたねばならなかった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 北海道ほっかいどうやく1.5ばい面積めんせき相当そうとう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ [1] Counting the Dead: Estimating the Loss of Life in the Indigenous Holocaust, 1492-Present David Michael Smith University of Houston-Downtown
  2. ^ a b 『American Holocaust』(David Stannard,Oxford University Press, 1992)
  3. ^ [2]
  4. ^ [3]
  5. ^ [4]
  6. ^ [5]
  7. ^ Frank, JW; Moore, RS; Ames, GM (2000). “Historical and cultural roots of drinking problems among American Indians”. Am J Public Health 90 (3): 344–51. doi:10.2105/ajph.90.3.344. PMC 1446168. PMID 10705850. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1446168/. 
  8. ^ Brown, Dee (1971). Bury My Heart at Wounded Knee. New York: Henry Holt 
  9. ^ Gilbert Quintero "Making the Indian: Colonial Knowledge, Alcohol, and Native Americans." American Indian Culture and Research Journal, 2001, Vol. 25, No. 4, pp. 57–71
  10. ^ Barbash, Fred; Elkind, Peter (1980ねん7がつ1にち). “Sioux Win $105 Million” (英語えいご). The Washington Post. ISSN 0190-8286. https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/07/01/sioux-win-105-million/a595cc88-36c6-49b9-be4f-6ea3c2a8fa06/ 2021ねん12月22にち閲覧えつらん 
  11. ^ Michno, “Encyclopedia of Indian Wars” Index.
  12. ^ Thornton, American Indian Holocaust, 48?49.
  13. ^ 『Sports Talk (A Longman Topics Reader) 』(Chapter 4:OF POLLS AND RACE PREJUDICE Sports Illustrated "Errant 'Indian Wars'",Longman 2008ねん
  14. ^ 『Lies Across America: What Our Historic Sites Get Wrong』(James W. Loewen Touchstone; Reprint edition 2000ねん
  15. ^ 『CRAZYHORSE』(Larry McMurtry、Penguin LIVES 2005ねん
  16. ^ Raphael, People's History, 244.
  17. ^ Remini, Jackson and his Indian Wars, 113.
  18. ^ Carley, Kenneth (1961). The Sioux Uprising of 1862. Minnesota Historical Society. pp. p. 65. "Most of the thirty-nine were baptized, including Tatemima (or Round Wind), who was reprieved at the last minute." 
  19. ^ Records, Laban (March 1995). Cherokee Outlet Cowboy: Recollectioons of Laban S. Records. Norman, Oklahoma: University of Oklahoma Press. ISBN 978-0-8061-2694-4 
  20. ^ "Named Campaigns — Indian Wars."
  21. ^ 『AMERICAN INDIANS: Stereotypes & Realities』(Devon A. Mihesuah Clarity Press,2009ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Named Campaigns — Indian Wars”. United States Army Center for Military History. 2008ねん6がつ1にち閲覧えつらん
  • Raphael, Ray. A People's History of the American Revolution: How Common People Shaped the Fight for Independence. New York: The New Press, 2001. ISBN 0-06-000440-1.
  • Remini, Robert V. Andrew Jackson and his Indian Wars. New York: Viking, 2001. ISBN 0-670-91025-2.
  • Richter, Daniel K. Facing East from Indian Country: A Native History of Early America. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press, 2001. ISBN 0-674-00638-0.
  • Thornton, Russell. American Indian Holocaust and Survival: A Population History Since 1492. Oklahoma City: University of Oklahoma Press, 1987. ISBN 0-8061-2220-X.
  • Utley, Robert M., and Wilcomb E. Washburn. 'Indian Wars. Boston: Houghton Mifflin, 1977, revised 1987. ISBN 0-8281-0202-3.
  • Yenne, Bill.Indian Wars: The Campaign for the American West. Yardley, PA: Westholme, 2005. ISBN 1-59416-016-3.
  • Jerome A. Greene, Indian War Veterans: Memories of Army Life and Campaigns in the West, 1864-1898 (Savas Beatie, New York, 2007).
  • Kip, Lawrence (1859). Army life on the Pacific : a journal of the expedition against the northern Indians, the tribes of the Cour d'Alenes, Spokans, and Pelouzes, in the summer of 1858. Redfield Available online through the Washington State Library's Classics in Washington History collection
  • John D. McDermott, A Guide to the Indian Wars of the West (University of Nebraska Press, 1998) ISBN 0-8032-8246-X

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]