ショーニーぞく

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ショーニーぞく

ショーニーShawnee)、またはシャワノ(Shawano)とは、北米ほくべいインディアン部族ぶぞくである。かれらはもともとオハイオしゅうウエストバージニアしゅうケンタッキーしゅうペンシルベニアしゅうおよびメリーランドしゅう西部せいぶ地域ちいき居住きょじゅうしていた。

アルゴンキン語族ごぞくショーニー英語えいごばんはなす。

歴史れきし[編集へんしゅう]

1750年代ねんだい以前いぜん[編集へんしゅう]

歴史れきし時代じだい以前いぜん先史せんし時代じだい)のショーニーの起源きげんきわめてしょうである。のアルゴンキン語族ごぞく部族ぶぞくはショーニーをかれらの最南端さいなんたん支族しぞくなし、のアルゴンキン語族ごぞくには「みなみ」を意味いみする「shawano」というよく単語たんごがある。しかし、ショーニーの「shawan」という語幹ごかんは「みなみ」ではなく、「(天気てんきが)おだやかな、あたたかな」という意味いみつ。あるショーニーの神話しんわなかには、「Shawaki」がみなみかみあらわしている。ある学者がくしゃは、ショーニーはオハイオ・カントリー有史ゆうし以前いぜんフォート・エンシェント文化ぶんか人々ひとびと末裔まつえい推測すいそくしているが、学者がくしゃ異議いぎとなえており、決定的けっていてき証拠しょうこはひとつも発見はっけんされていない[1]

1670ねん以前いぜんのあるとき、 ショーニーの集団しゅうだんサヴァンナがわ地域ちいき移住いじゅうしていた。チャールズタウン本拠地ほんきょちとしたカロライナ植民しょくみんのイギリスじんは、1674ねんころにこれらのショーニーと最初さいしょ接触せっしょくした。そのなが同盟どうめい関係かんけい形作かたちづくられた。当初とうしょサヴァンナがわのショーニーは、カロライナのイギリスじんに「サヴァンナ・インディアン」としてられていた。ときおなじくして、のショーニーの集団しゅうだんもオハイオ・カントリーのみなみひがしフロリダメリーランドペンシルベニア、および地域ちいきへと移住いじゅうした。歴史れきしのアラン・ギャレイは、17世紀せいき中庸ちゅうようから後半こうはんのこのショーニーの移住いじゅうしゃたちは、1640年代ねんだいはじまったビーバー戦争せんそうによっておそらくいやられたと推論すいろんする。ショーニーはかれらの広範囲こうはんいにわたる入植にゅうしょく移住いじゅうかれらの頻繁ひんぱんなが距離きょりほかのインディアンの集団しゅうだんへの訪問ほうもんられるようになった。かれらの言語げんご数々かずかず部族ぶぞくあいだ共通きょうつう言語げんごとなり、そのことはショーニーが経験けいけんしたこととともに、ヨーロッパじんとヨーロッパけいアメリカじん拡大かくだいたいする、部族ぶぞくにわたるインディアンの抵抗ていこう持続じぞくさせるときの指導しどうしゃになることをたすけた[2]

1752ねんよりまえに、かれらはバージニアしゅうウィンチェスターちかくのショーニースプリングスを拠点きょてんにして、酋長しゅうちょうコーンストークの父親ちちおやがそこに王宮おうきゅうった。ある時点じてんで、かれらは現在げんざいウェストバージニアしゅう、オハイオしゅう南部なんぶ、ケンタッキーしゅう北部ほくぶとなっているオハイオ・カントリー居住きょじゅうした。

イロコイのち征服せいふくによって権限けんげんでオハイオ・カントリーの領有りょうゆう主張しゅちょうし、ショーニーとデラウェア従属じゅうぞくした部族ぶぞくとしてそこに再度さいどいた人々ひとびとなした。おおくのイロコイは当時とうじ西にしにも移住いじゅうし、かれらはミンゴ(w:Mingo)としてられるようになった。ショーニー、デラウェア、ミンゴのこれら3つの部族ぶぞくは、オハイオ・カントリーで密接みっせつかかわるようになった。

ろくじゅうねん戦争せんそう(1754ねん-1814ねん[編集へんしゅう]

テカムセ

1755ねんモノンガヘラのたたかのちおおくのショーニーは、1758ねんのイーストン条約じょうやく署名しょめいするまで、フレンチ・インディアン戦争せんそう初期しょきにフランスとともたたかった。フランスが1763ねんやぶれたのちは、おおくのショーニーたちはイギリスにたいするポンティアック戦争せんそう参加さんかし、翌年よくねんにはやぶれた。

ポンティアック戦争せんそうあいだはっせられた1763ねん宣言せんげんは、東部とうぶのイギリス領地りょうちアパラチア山脈さんみゃく西にしにあるオハイオ・カントリーのあいだ境界きょうかいせんいた。しかし、1768ねんスタンウィックスとりで条約じょうやくはこの境界きょうかいせん西にし拡張かくちょうし、イギリスは現在げんざいのウエストバージニアとケンタッキーの領有りょうゆう主張しゅちょうした。ショーニーはこの条約じょうやくには合意ごういしなかった。というのもこの条約じょうやくはイギリス当局とうきょくとイロコイ連邦れんぽうあいだ交渉こうしょうされたもので、イロコイはショーニーとのインディアンがその土地とち狩猟しゅりょうをしていたにもかかわらず領有りょうゆうけん主張しゅちょうしていた。

スタンウィックスとりで条約じょうやくのち、アングロけいアメリカじんたちはオハイオがわ流域りゅういきへと殺到さっとうはじめた。入植にゅうしょくしゃとインディアンのあいだ暴力ぼうりょく事件じけんはげしさをして、1774ねんダンモアの戦争せんそうへと突入とつにゅうした。イギリスの外交がいこうかんはこの紛争ふんそうあいだになんとかショーニーを孤立こりつさせた。イロコイとデラウェアは中立ちゅうりつたもち、一方いっぽうでショーニーはわずかなミンゴの同盟どうめいとともにイギリスりょうバージニア植民しょくみん対峙たいじした。バージニア総督そうとくダンモアきょうは、オハイオ・カントリーへのめん攻撃こうげきによる侵攻しんこう開始かいしした。ショーニーぞく酋長しゅうちょうコーンストーク一方いっぽうぐん攻撃こうげきしたが、唯一ゆいいつ主要しゅよう戦闘せんとうであったポイントプレザントのたたかいでやぶれた。キャンプシャーロット条約じょうやくでコーンストークとショーニーたちは1768ねんのスタンウィックスとりで条約じょうやく設定せっていされたオハイオがわ境界きょうかい承認しょうにんすることをいられた。

おおくのほかのショーニーの指導しどうしゃたちは、この境界きょうかい承認しょうにん拒否きょひしたが、1775ねんアメリカ独立どくりつ戦争せんそうこったとき数々かずかずのショーニーたちはイギリスがわについて戦争せんそう参加さんかし、アパラチア山脈さんみゃくこうに入植にゅうしょくしゃ追放ついほうすることを目指めざしてイギリスを支援しえんした。ショーニーたちは分裂ぶんれつした。コーンストークは中立ちゅうりつのままのこ集団しゅうだんひきいて、一方いっぽう酋長しゅうちょうブラックフィッシュブルー・ジャケットのような指揮しきかんたちはイギリスの同盟どうめいとしてたたかった。

合衆国がっしゅうこくとインディアン部族ぶぞく同盟どうめいあいだ北西ほくせいインディアン戦争せんそうで、ショーニーぞくマイアミぞくんで非常ひじょうおおきな軍団ぐんだんとなった。1794ねんフォールン・ティンバーズのたたかのち、 ほとんどのショーニーのだんは1ねんのグリーンヴィル条約じょうやく合意ごういし、かれらの故郷こきょうだい部分ぶぶん合衆国がっしゅうこくへと帰属きぞくした。

のこりのショーニーの集団しゅうだんはこの条約じょうやく拒否きょひして、ミズーリにいたかれらの兄弟きょうだい姉妹しまいくわわりケープジラードちかくに定住ていじゅうした。1800ねんまでに、Hathawekela、Kispokotha、Piquaの部族ぶぞくがミズーリへと移住いじゅうした一方いっぽうで、ChillicotheとMequachakeの部族ぶぞくだけがオハイオにのこった。

1805ねんから、ショーニーぞく少数しょうすうテカムセかれ兄弟きょうだいテンスクワタワひろし部族ぶぞく運動うんどうくわわり、テカムセの戦争せんそう1813ねん10月5にちテムズのたたかでのテカムセのこした。これはアメリカの拡大かくだいからオハイオ・カントリーのまもるショーニー・ネーションの最後さいご抵抗ていこうであった。

戦争せんそうのち[編集へんしゅう]

すうひゃくめいのミズーリ・ショーニーは一部いちぶのデラウェアぞく人々ひとびととも1815ねん合衆国がっしゅうこくって当時とうじスペインの支配しはいにあったテキサスに定住ていじゅうした。この部族ぶぞくアブゼンティー(欠席けっせきしゃ)・ショーニーとしてられるようになった。テキサスが独立どくりつした3ねん1839ねんかれらはふたた追放ついほうされた。これらの人々ひとびと現在げんざいショーニーちかいオクラホマに定住ていじゅうし、1845ねんには、かれらの伝統でんとうてき世界せかいかん信仰しんこう共有きょうゆうするカンザスからたショーニーがこれにくわわった。

1817ねん、オハイオ・ショーニーはメグズとりで条約じょうやく調印ちょういんし、Wapaughkonetta、ホッグクリーク(アダ近郊きんこう)、そしてルイスタウン(セネカぞくともに)の3つの居留きょりゅうえにかれらののこっている土地とち割譲かつじょうした。

ミズーリは1821ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくしゅうとして昇格しょうかくし、1825ねんのセントルイス条約じょうやくのち、1,400めいのミズーリ・ショーニーたちはケープジラードからカンザス南東なんとうのネオショかわちかくへ強制きょうせいてき移住いじゅうさせられた。

1833ねんあいだは、ブラック・ボブのショーニーのだんのみが抵抗ていこうした。かれらはオラースちかくのカンザス北東ほくとうとガムスプリングスちかくのモンティチェロにあるカンザスがわ(カウがわ沿いにいた。

1826ねん、およそ200めいのオハイオ・ショーニーはテンスクワタワ預言よげんしゃのちい、かれらのカンザスの兄弟きょうだい姉妹しまいくわわったが、本体ほんたいブラック・フーフにつきしたがい、フーフはオハイオの故国ここくあきらめるまえのあらゆるたたかいをした。1831ねん、ルイスタウンのセネカ=ショーニーの集団しゅうだんインディアンじゅんしゅう (現在げんざいのオクラホマ)へった。ブラック・フーフの死後しご、Wapaughkonettaとホッグクリークののこりの400めいのオハイオ・ショーニーはかれらの土地とち放棄ほうきし、カンザスのショーニー居留きょりゅうへと移動いどうした。

南北戦争なんぼくせんそうあいだ、ブラック・ボブの一団いちだんはカンザスから逃亡とうぼうし、戦争せんそうからのがれるためにオクラホマのアブセンティ・ショーニーにくわわった。南北戦争なんぼくせんそう、カンザスのショーニーぞくふたたはらわれて、オクラホマへ移動いどうした。そこでは、かつてのルイスタウンの集団しゅうだん一部いちぶのショーニーたちは東部とうぶショーニーとしてられるようになり、かつてのミズーリ・ショーニーたちは、ロイヤル(忠誠ちゅうせい)・ショーニーかれらの戦争せんそうちゅう連邦れんぽうへの忠誠ちゅうせいのため)としてられるようになった。後者こうしゃ集団しゅうだん合衆国がっしゅうこくにチェロキー・ネーションの一部いちぶなされたために、 チェロキー・ショーニーとしてもられる。

今日きょう、ショーニーネーションのだい部分ぶぶんはまだオクラホマに居住きょじゅうしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ O'Donnell, James H. Ohio's First Peoples, p. 31. Athens, Ohio: Ohio University Press, 2004. ISBN 0-8214-1525-5 (paperback), ISBN 0-8214-1524-7 (hardcover), also: Howard, James H. Shawnee!: The Ceremonialism of a Native Indian Tribe and its Cultural Background, p. 1. Athens, Ohio: Ohio University Press, 1981. ISBN 0-8214-0417-2; ISBN 0-8214-0614-0 (pbk.), and the unpublished dissertation Schutz, Noel W. Jr.: The Study of Shawnee Myth in an Ethnographic and Ethnohistorical Perspective, Ph.D. Dissertation, Department of Anthropology, Indiana University, 1975.
  2. ^ Gallay, Alan. The Indian Slave Trade: The Rise of the English Empire in the American South, 1670-1717, p. 55. New Haven: Yale University Press, 2002. ISBN 0-300-10193-7

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Callender, Charles. "Shawnee" in Northeast: Handbook of North American Indians, vol. 15, ed. Bruce Trigger. Washington, D.C.: Smithsonian Institution, 1978. ISBN 0-16-072300-0
  • Clifton, James A. Star Woman and Other Shawnee Tales. Lanham, MD: University Press of America, 1984. ISBN 0-8191-3712-X; ISBN 0-8191-3713-8 (pbk.)
  • Edmunds, R. David. The Shawnee Prophet. Lincoln, Nebraska: University of Nebraska Press, 1983. ISBN 0-8032-1850-8.
  • Edmunds, R. David. Tecumseh and the Quest for Indian Leadership. Originally published 1984. 2nd edition, New York: Pearson Longman, 2006. ISBN 0-321-04371-5
  • Edmunds, R. David. "Forgotten Allies: The Loyal Shawnees and the War of 1812" in David Curtis Skaggs and Larry L. Nelson, eds., The Sixty Years' War for the Great Lakes, 1754–1814, pp. 337-51. East Lansing: Michigan State University Press, 2001. ISBN 0-87013-569-4.
  • Howard, James H. Shawnee!: The Ceremonialism of a Native Indian Tribe and its Cultural Background. Athens, Ohio: Ohio University Press, 1981. ISBN 0-8214-0417-2; ISBN 0-8214-0614-0 (pbk.)
  • O'Donnell, James H. Ohio's First Peoples. Athens, Ohio: Ohio University Press, 2004. ISBN 0-8214-1525-5 (paperback), ISBN 0-8214-1524-7 (hardcover).
  • Sugden, John. Tecumseh: A Life. New York: Holt, 1997. ISBN 0-8050-4138-9 (hardcover); ISBN 0-8050-6121-5 (1999 paperback).
  • Sugden, John. Blue Jacket: Warrior of the Shawnees. Lincoln and London: University of Nebraska Press, 2000. ISBN 0-8032-4288-3.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]