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北西ほくせいインディアン戦争せんそう

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北西ほくせいインディアン戦争せんそう

グリーンヴィル条約じょうやく英語えいごばん交渉こうしょう想像そうぞう
戦争せんそうインディアン戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1785ねん - 1795ねん
場所ばしょアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく北西ほくせい領土りょうど
結果けっかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくぐん勝利しょうりグリーンヴィル条約じょうやく英語えいごばん
交戦こうせん勢力せいりょく
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくぐん インディアン同盟どうめい英語えいごばん
指導しどうしゃ指揮しきかん
ジョシア・ハーマー
アーサー・セントクレア
アンソニー・ウェイン
いない

北西ほくせいインディアン戦争せんそう(ほくせいインディアンせんそう、えい:Northwest Indian War、1785ねん - 1795ねん)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる北西ほくせい領土りょうど支配しはい抵抗ていこうして、この領土りょうどとするインディアンだい同盟どうめいたたかいをいどんだ、「インディアン戦争せんそう」のひとつ。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1794ねんに、オハイオのインディアンたちは「フォールン・ティンバーズのたたか」で合衆国がっしゅうこくやぶれ、かれらの領土りょうど1795ねんの「グリーンヴィル条約じょうやく英語えいごばん」で合衆国がっしゅうこくうばわれた。今日きょうオハイオしゅうだい部分ぶぶんふく領土りょうど合衆国がっしゅうこく支配しはいとなった。

ビーバー戦争せんそう[編集へんしゅう]

ミシシッピがわひがし五大ごだいみずうみみなみ地域ちいきでは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくかかわるまえも1世紀せいき以上いじょうにもわたってたたかいがつづけられていた。フランス探検たんけんサミュエル・ド・シャンプラン1608ねんに、セントローレンスがわ沿いにワイアンドットぞく(ヒューロンぞくとも、Huron)インディアンのがわいて、ニューヨーク植民しょくみん北部ほくぶイロコイぞく対抗たいこうした。その結果けっか、イロコイぞくはフランスをはげしくにくむようになり、1626ねんころハドソンがわさかのぼってオランダひと交易こうえき業者ぎょうしゃむことになった。オランダじんはイロコイぞく毛皮けがわ銃火じゅうかおの、ナイフと交換こうかんし、イロコイぞくはその武器ぶきもちいて1650年代ねんだいはじまるビーバー戦争せんそうで、ヒューロンぞく北西ほくせい領土りょうど(オハイオぐん西部せいぶのインディアン部族ぶぞくをほぼすことに成功せいこうした。

イロコイ連邦れんぽう合議ごうぎせい社会しゃかいシステムは合衆国がっしゅうこく建国けんこくにも様々さまざま影響えいきょうあたえたが、「安保あんぽ条約じょうやく」もそのひとつである。イロコイぞく同盟どうめいんだ相手あいててき戦力せんりょくし、ともたたか文化ぶんかっていた。

この戦争せんそうは、ヨーロッパからまれた疫病えきびょうよわらされ、あたらしい武器ぶき武装ぶそうしたはげしいてきかいうことになったインディアン部族ぶぞくにとって、相当そうとう残酷ざんこく様相ようそうていし、つね生臭なまぐさアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく歴史れきしなかでも、とくに血腥ちなまぐさいものとなった。強大きょうだいになったイロコイぞくはアメリカ北東ほくとう勢力せいりょく地図ちずえ、ワイアンドットぞく(ヒューロンぞく)やニュートラルぞくエリーぞくサスケハンノックぞくなどいくつかのおおきな部族ぶぞくあいだ同盟どうめい破壊はかいし、東部とうぶ部族ぶぞくをミシシッピがわえて西にしいやった。インディアンの避難ひなんみんはイロコイぞく戦士せんしからのがれて西にし移動いどうし、イロコイぞく北東ほくとうかえったので、ケンタッキーやオハイオ領土りょうど事実じじつ上空じょうくう白地しろじたいとなった。その1655ねんころ、イロコイぞくはオランダのニューネーデルラント領地りょうち占領せんりょうしたイギリス交易こうえきおこなうようになった。1700ねんころからインディアン部族ぶぞく北西ほくせい領土りょうどにばらばらにもどっていったが、収束しゅうそく発散はっさんかえしていた。

フランスとイギリスの占領せんりょう[編集へんしゅう]

17世紀せいき18世紀せいきつうじて、イギリスとフランス双方そうほうがイロコイ連邦れんぽうともオハイオ領土りょうど領有りょうゆう主張しゅちょうした。1700年代ねんだい中頃なかごろ両国りょうこくとも商人しょうにん毛皮けがわ交易こうえきものをこの地域ちいきおく土地とちインディアン交易こうえきさせたが、暴力ぼうりょく沙汰ざた頻発ひんぱつした。これはフレンチ・インディアン戦争せんそう結果けっか1763ねんパリ条約じょうやくでフランスがこの地域ちいき放棄ほうきしたかたち決着けっちゃくした。

イギリスは、五大ごだいみずうみ地方ちほうイリノイぐん東部とうぶ、オハイオ領土りょうどふくおおくのインディアン部族ぶぞく直面ちょくめんすることになった。これらの部族ぶぞく自分じぶんたち土地とちはいってくるイギリスの入植にゅうしょくしゃこころよおもってはいなかった。このことがポンティアック戦争せんそう (1763-66)につながり、いくつかのとりでき、入植にゅうしょくしゃころし、北西ほくせい領土りょうどからすことになった。イギリスはピットとりで増強ぞうきょうするために軍隊ぐんたいおくり、ブッシーランの小規模しょうきぼたたかいでインディアンをやぶった。この戦争せんそう結果けっかはほとんどなに解決かいけつされないままにわった。

イギリスは1763ねん宣言せんげん北西ほくせい領土りょうどへの白人はくじん入植にゅうしょく公式こうしききんじた。このことでイギリスじん一部いちぶショーニーぞくやその部族ぶぞくとの友好ゆうこうてき関係かんけいのぞんだ。1774ねん6月22にちイギリスの議会ぎかいはケベックほう通過つうかさせ、この地域ちいきケベック植民しょくみん付属ふぞくさせるものとした。このほう白人はくじんからはアメリカ独立どくりつ戦争せんそうみちびがた諸法しょほうひとつにかぞえられた。

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう[編集へんしゅう]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそうあいだ、イロコイ連邦れんぽうなかの4つの部族ぶぞくがイギリスがわいて、サラトガ方面ほうめん作戦さくせんではオリスカニーのたたかいでイギリスぐんたすけ、ペンシルベニアではワイオミング・バレーの虐殺ぎゃくさつ、ニューヨークではチェリー・バレーの虐殺ぎゃくさつなど、この地域ちいきらしまわった。イギリスがアメリカ南部なんぶ攻撃こうげき目標もくひょういた 1779ねんジョージ・ワシントン将軍しょうぐんはイロコイぞくうごきに対処たいしょする機会きかいだととらえた。

ジョージ・ワシントンはジョン・サリバンやく5,000めい兵士へいしけて、ニューヨーク植民しょくみん北部ほくぶのイロコイぞく集落しゅうらくおそわせた。このさい、ワシントンは「インディアンのむらをただ制圧せいあつするだけでなく、皆殺みなごろしにするように。」と指令しれいした。

1779ねんあき、サリバンはニュータウンのたたかでイロコイぞくやぶり、焦土しょうど作戦さくせんおこなって40以上いじょう集落しゅうらくとその作物さくもつ破壊はかいした。サリバンの遠征えんせいたいとはべつに、ダニエル・ブロードヘッド大佐たいさ指揮しきする部隊ぶたいがペンシルベニア西部せいぶのイロコイぞく集落しゅうらくおそい、10以上いじょう集落しゅうらく破壊はかいした。イロコイぞくだい部分ぶぶんカナダんだが、そのふゆさむさとえにくるしむことになった。こののちイロコイぞくちから合衆国がっしゅうこくなかでは制限せいげんされ、北西ほくせい領土りょうどたいする領有りょうゆう主張しゅちょうえた。

イロコイぞくはワシントンの軍隊ぐんたいによって徹底的てっていてき虐殺ぎゃくさつされた。ワシントンの軍隊ぐんたいはイロコイぞくしりかわいでブーツトップやレギンスをつくった。イロコイ連邦れんぽうのセネカぞく集落しゅうらくはワシントンによる焦土しょうど作戦さくせんによって、30あった集落しゅうらくのうち28を徹底てってい破壊はかいされた。インディアンたちはワシントンを「まち破壊はかいしゃ」とよんで恐怖きょうふした。

これよりまえ1778ねんジョージ・ロジャース・クラーク将軍しょうぐんが178めい兵士へいしともオハイオがわにあるイギリスぐんとりで占領せんりょうし、オハイオがわ支配しはいき、オハイオがわからきた土地とち領有りょうゆうけん宣言せんげんした。

1782ねん8がつ、ケンタッキーでおこなわれたブルーリックスのたたかはアメリカ独立どくりつ戦争せんそう最後さいごたたかいとなった。今日きょうのケンタッキーしゅうロバートソンぐんにあるリッキングかわ沿いのおかやく50めいのイギリスぐんレンジャーズと300めいのインディアン戦士せんしがケンタッキー民兵みんぺい182めいせし崩壊ほうかいさせた。

1783ねんパリ条約じょうやくは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく独立どくりつ北西ほくせい領土りょうど領有りょうゆうを、かみうえみとめた。この領土りょうど合衆国がっしゅうこくマサチューセッツしゅうコネチカットしゅう、ニューヨークしゅうおよびバージニアしゅうがそれぞれ領有りょうゆう主張しゅちょうする複雑ふくざつ様相ようそうていした。イギリスぐん1781ねんヨークタウンのたたか決定的けっていてき敗北はいぼくきっしていたが、北西ほくせい領土りょうどのアメリカ・インディアンはけたわけではなかった。しかし、インディアンたちはパリ条約じょうやく調印ちょういん参加さんかすることでもなく、ミシキナクワ(リトルタートル)やウェヤピアセンワー(ブルージャケット)といったインディアンの有力ゆうりょくしゃたちはこの地域ちいきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによる支配しはいこばんだ。オハイオがわとりでうしなったのちも、イギリスぐん五大ごだいみずうみ地方ちほうとりで維持いじし、同盟どうめいインディアンと武器ぶき毛皮けがわ交易こうえきつづけることでインディアンを支援しえんしていた。このイギリスぐん駐留ちゅうりゅうべいえい戦争せんそう終結しゅうけつまでつづくことになった。

合衆国がっしゅうこく大陸たいりく会議かいぎ通貨つうか安定あんてい独立どくりつ戦争せんそうった負債ふさい償還しょうかんのために西部せいぶ土地とち売却ばいきゃくしたかねおぎなおうとかんがえた。1785ねん公有こうゆう条例じょうれいはインディアンの土地とち所有しょゆうけんっていようといまいとにかかわらず)をようとする土地とち投機とうき測量そくりょう、および入植にゅうしょくしゃ動機どうきあたえた。大陸たいりく会議かいぎは1785ねんいくつかのインディアン部族ぶぞく交渉こうしょうしてマッキントッシュとりで条約じょうやくむすび、オハイオ領土りょうど東部とうぶ土地とちれた。しかし、コネチカットの入植にゅうしょく白人はくじんすで西部せいぶ保有ほゆうながんでおり、いくつかの部族ぶぞくってかれた保有ほゆう一部いちぶまでひろがっていた。

1787ねん連合れんごう会議かいぎ採択さいたくされた北西ほくせい条例じょうれいによって、合衆国がっしゅうこく法律ほうりつでインディアンの領土りょうど保証ほしょうされたが、オハイオがわきた入植にゅうしょくしゃ流入りゅうにゅうつづくことになった。これらの入植にゅうしょくしゃとインディアンとの紛争ふんそうこりはげしさをした。両者りょうしゃ不満ふまんおさえようとした1789ねんのハーマーとりで条約じょうやく失敗しっぱいし、問題もんだいをこじらせてしまった。

「すべてを共有きょうゆうする」というインディアンの文化ぶんかでは、土地とちだれのものでもなく、みんなのものだった。白人はくじんがやってきて勝手かって農地のうちひらいても、インディアンは大目おおめていた。しかしそのかずえ、かれらにたいして白人はくじんがここからてどこかよその土地とちけといだすと、インディアンたちは当然とうぜんおこった。インディアンにとって土地とちだれかが占有せんゆうするものでも、他者たしゃ排除はいじょするものでもなかった。

同盟どうめい結成けっせい[編集へんしゅう]

インディアン部族ぶぞく協同きょうどううなが西部せいぶ同盟どうめいはフランスの植民しょくみん時代じだいさかのぼるが、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうあいだ再度さいど同盟どうめい成立せいりつしていた。1785ねんあき、デトロイトとりであらたな同盟どうめいやくされ、個別こべつ部族ぶぞくによらず結束けっそくして合衆国がっしゅうこく対抗たいこうすることを宣言せんげんした。このごとはさらに1786ねんにワイアンドットぞくむら更新こうしんされ、オハイオがわをインディアンとアメリカの入植にゅうしょくしゃとの境界きょうかいとするよう主張しゅちょうした。ワイアンドットぞく同盟どうめい部族ぶぞく名目めいもくじょうの「父親ちちおや」であり、ショーニーぞくマイアミぞく強力きょうりょく戦士せんしだんとなった。

同盟どうめい参加さんかした部族ぶぞく

おおくの場合ばあいぜん部族ぶぞくあるいは民族みんぞく戦争せんそうかかわったわけではない。インディアンの社会しゃかい中央ちゅうおう集権しゅうけんシステムではなく、それぞれの支族しぞく独立どくりつした合議ごうぎせい社会しゃかい形作かたちづくっていた。たたかいへの関与かんよ合議ごうぎによって、むら単位たんい場合ばあいによっては個人こじん単位たんいめられた。

白人はくじんからは「チカマウガ」とばれたチェロキーぞく集団しゅうだんの2つの集団しゅうだんからやく200めい戦士せんし独立どくりつ戦争せんそう時代じだいから同盟どうめい時期じきつうじて、ショーニーぞく共生きょうせいたたかった。また、ある場合ばあいにはチェロキーぞく戦士せんしチユグンシニ(ドラァギング・カヌー)がその兄弟きょうだいのバジャーとともに1つの戦士せんしだん特定とくてい攻撃こうげきかわせることがあった。北西ほくせいインディアンと伝統でんとうてきなかわるかった南部なんぶ部族ぶぞくチョクトーぞくチカソーぞく合衆国がっしゅうこくがわ斥候せっこうつとめた。

戦争せんそう経過けいか[編集へんしゅう]

この地域ちいきのイギリスじんなかには独立どくりつ戦争せんそう敗戦はいせんいたみをわすれず、インディアンに武器ぶき弾薬だんやくって白人はくじん入植にゅうしょくしゃおそわせるものがいた。1780年代ねんだい中頃なかごろは、インディアン戦士せんし部隊ぶたいちいさな襲撃しゅうげきかえし、流血りゅうけつ不信ふしんかんつのらせることになった。1786ねんあき、ベンジャミン・ローガン将軍しょうぐん連邦れんぽうぐん兵士へいしとケンタッキーの騎馬きば民兵みんぺいひきいてマッドかわ沿いのショーニーぞく集落しゅうらくおそった。その集落しゅうらく戦士せんしたちがケンタッキーのとりでおそうために留守るすであり、おも戦闘せんとういんまもっていた。ローガンは集落しゅうらく食料しょくりょうおおくの住民じゅうみんころすか捕虜ほりょにした。そのなかにはインディアンの酋長しゅうちょうもいたが、兵士へいし一人ひとりころされた。ローガンの襲撃しゅうげき酋長しゅうちょう殺害さつがいはショーニーぞくおこらせ、白人はくじんへの攻撃こうげき激化げきかさせることによって報復ほうふくした。

オハイオがわりょうきしにおけるインディアンの襲撃しゅうげきはさらに危険きけんなものになっていった。1780年代ねんだい中盤ちゅうばんから後半こうはんにかけて、ケンタッキーのオハイオがわ南岸なんがん白人はくじん入植にゅうしょくしゃやオハイオがわきたたびするひと被害ひがいはおよそ1,500めいにもなり、そのあいだ白人はくじんほうからインディアンに報復ほうふくすることもあった。1790ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうとなったジョージ・ワシントンと陸軍りくぐん長官ちょうかんヘンリー・ノックスは、ジョサイア・ハーマーじゅんしょうめいじてショーニーぞくとマイアミぞく居住きょじゅう西部せいぶ方面ほうめんぐんかわせた。1790ねん10がつ、ハーマー指揮しきの1,453めい部隊ぶたい今日きょうインディアナしゅうフォートウェインちかくに集結しゅうけつした。ハーマーはジョン・ハーデイン大佐たいさに400めいだけの部隊ぶたいあづけてインディアンの部隊ぶたいかわせたが、インディアン戦士せんしは1,100めいあつまっており、ハーディンたいひどくやぶり、すくなくとも129めい兵士へいし戦死せんしさせた。

ミシキナクワ(英名えいめいリトルタートル)

ワシントンはつづけて1791ねんなつに、北西ほくせい領土りょうど知事ちじをしていたアーサー・セントクレア少将しょうしょうにさらに積極せっきょくてき作戦さくせんらせた。セントクレアは兵士へいし物資ぶっし確保かくほ難渋なんじゅうしたのちやっと準備じゅんびができた。1791ねん11月4にち夜明よあけ、セントクレアの未熟みじゅく部隊ぶたいは、200めい戦闘せんとう従軍じゅうぐんしゃとも今日きょうのオハイオしゅうフォートリカバリーのちかくで宿営しゅくえいしていたが、宿営しゅくえいまもりがおろかだった。リトルタートル、ブルージャケットおよびテカムセらが参加さんかしたおよそ2,000めいのインディアン戦士せんし急襲きゅうしゅうしてべいぐんおどろかせ、またたにその準備じゅんびりない警戒けいかいせん内側うちがわはいってた。未熟みじゅく新兵しんぺいたちあわてふためき、なんらかの命令めいれいはっして崩壊ほうかいめようとしたおおくの士官しかん共々ともどもころされた。べいぐん損害そんがいは920めい将兵しょうへいのうち632めいたっし、264めい負傷ふしょうしゃた。200めい戦闘せんとう従軍じゅうぐんしゃのほとんど全員ぜんいんころされた。合衆国がっしゅうこくインディアン戦争せんそうではもっとひどい敗戦はいせんとなった。1792ねんには、ワシントンがおくった和平わへい使者ししゃジョン・ハーディン大佐たいさとアレクサンダー・トルーマン少佐しょうさころされる事件じけん発生はっせいした。

セントクレアの大敗たいはい、ワシントンはマッド(狂人きょうじん)と渾名あだなのついたアンソニー・ウェイン少将しょうしょうあたらしく訓練くんれんほどこされた部隊ぶたいつくるようめいじた。ウェインは1793ねんおそくにあたらしい合衆国がっしゅうこくぐん指揮しきいた。徹底てってい訓練くんれんのちに、ウェインの部隊ぶたいはインディアンの保留ほりゅう進軍しんぐんし、セントクレアがやぶれた場所ばしょにリカバリーとりできずいた。1794ねん6がつ、リトルタートルたちはふたたび、べいぐんとりでめたが今回こんかい成功せいこうしなかった。ウェインの訓練くんれんまれた部隊ぶたいさら奥深おくふか侵攻しんこうしワバシュ連邦れんぽう領地りょうちはいった。リトルタートルにわってブルージャケットたちがめたが、1794ねん8がつフォールン・ティンバーズのたたかやぶれた。

ブルージャケットたちは敗走はいそうしてイギリスぐんのマイアミとりで体制たいせいなおそうとはかったが、イギリスぐんとりではいることをこばんだ。当時とうじイギリスとアメリカはフランス革命かくめいのちジャコバン支配しはいするフランスに対抗たいこうするため密接みっせつ親交しんこう関係かんけいきずこうとしていた。

1795ねんむすばれた2つの条約じょうやくによって、インディアンは合衆国がっしゅうこくから領土りょうど略奪りゃくだつされることになった。「グリーンヴィル条約じょうやく英語えいごばん」により、インディアン部族ぶぞくはオハイオのだい部分ぶぶんインディアナ一部いちぶ合衆国がっしゅうこくうばわれ、また、イギリスではなく合衆国がっしゅうこく北西ほくせい領土りょうど支配しはいすることをみとめさせ、白人はくじん捕虜ほりょがすべて帰還きかんできるまで10にん酋長しゅうちょう人質ひとじちとしてすこととした。一方いっぽうアメリカとイギリスのあいだすで調印ちょういんされていたジェイ条約じょうやくでは西部せいぶとりでからイギリスぐん撤退てったいすることをめた。

白人はくじん酋長しゅうちょうを「指導しどうしゃ」と誤解ごかいしているから、かれらを人質ひとじちにとっておどしをかけたのである。

おも関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく[編集へんしゅう]

  • ジョージ・ワシントン アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう
  • ヘンリー・ノックス 陸軍りくぐん長官ちょうかん
  • ジョシア・ハーマー 将軍しょうぐん
  • アーサー・セントクレア 北西ほくせい領土りょうど知事ちじ少将しょうしょう
  • アンソニー・ウェイン 少将しょうしょう
  • ティモシー・ピカリング 外交がいこうかん陸軍りくぐん長官ちょうかん国務こくむ長官ちょうかん
  • ジョン・ハーディン 大佐たいさ現在げんざいのオハイオしゅうシェルビーぐんハーディンで休戦きゅうせん使者ししゃったときころされた。
  • アレクサンダー・トルーマン 少佐しょうさ現在げんざいのオハイオしゅうオタワで休戦きゅうせん使者ししゃったときころされた。

インディアン同盟どうめい[編集へんしゅう]

  • ミシキナクワ(リトルタートル)、 (マイアミぞく)
  • ウェヤピアセンワー(ブルージャケット)、 (ショーニーぞく)
  • バッコンガヘラス (デラウェアぞく)
  • ステイエゲッタ(ラウンドヘッド) (ワイアンドットぞく)
  • エグシャワ (オタワぞく)

この5めい白人はくじんからは「軍事ぐんじ指導しどうしゃ」にえているが、インディアンにそのようなものはいない。かれらは同盟どうめいなか傑出けっしゅつした戦士せんしだったということである。

遺産いさん[編集へんしゅう]

この戦争せんそうにはひろみとめられた名前なまえい。には「オールド北西ほくせいインディアン戦争せんそう」、「オハイオ戦争せんそう」、「オハイオ・インディアン戦争せんそう」、「オハイオがわ境界きょうかい戦争せんそう」がある。アメリカ陸軍りくぐん記録きろくには「マイアミ方面ほうめん作戦さくせん」となっている。ある歴史れきし最近さいきん「マイアミ連邦れんぽう戦争せんそう」を提案ていあんしたが、学者がくしゃはマイアミ(あるいはかって使つかわれたリトルタートル)という名前なまえけることに反対はんたいし、これでは戦争せんそうにおけるブルージャケットの重要じゅうようせいとオハイオぐんインディアンを見過みすごすとしている。おおくの書籍しょせき戦争せんそうなんぶかと問題もんだいけ、名前なまえをつけないか無視むしするかしている。同様どうよう戦闘せんとう遠征えんせいにも「標準ひょうじゅんてきな」名前なまえく、唯一ゆいいつ例外れいがいはフォールン・ティンバーズのたたかいである。

インディアンは合議ごうぎせい民主みんしゅ主義しゅぎ社会しゃかいであり、すべての決定けってい合議ごうぎのもとにおこなわれる。インディアンの戦士せんし個人こじん個人こじん自由じゆう意思いしたたかうものであり、「軍事ぐんじ指導しどうしゃ」というようなものはインディアン社会しゃかいには存在そんざいしない。また酋長しゅうちょう(チーフ)は「調停ちょうていしゃ」、「ピースメーカー」であって、これも「首長しゅちょう」や「部族ぶぞくちょう」、「軍事ぐんじ指導しどうしゃ」ではない。白人はくじんにはこのインディアン社会しゃかいのシステムが理解りかいできず、有力ゆうりょく戦士せんし酋長しゅうちょうを「戦争せんそう司令しれいかん」と誤解ごかいし、「リトルタートルの戦争せんそう」などといった名称めいしょうを「インディアン戦争せんそう」の数々かずかず名付なづけた。しかしインディアンにとってはこれはマイアミぞく同盟どうめい部族ぶぞく戦争せんそうであって、リトルタートルのたたかいではない。

この戦争せんそう独立どくりつ戦争せんそう合衆国がっしゅうこくにとってはじめてのおおきな軍事ぐんじ行動こうどうとなり、ジョージ・ワシントン大統領だいとうりょう治世ちせいでもおおきな危機ききとなったが、あまりられてはおらず、合衆国がっしゅうこく歴史れきし関連かんれん図書としょでも見過みすごされている。同様どうよう西部せいぶ入植にゅうしょく時代じだいインディアン戦争せんそうはアメリカの大衆たいしゅう文化ぶんか有名ゆうめいになったが、北西ほくせいインディアン戦争せんそうべいぐんこうむった損失そんしつは、19世紀せいきセミノールぞくスーぞくアパッチぞくたいする民族みんぞく浄化じょうかでの戦争せんそう被害ひがいわせたよりもおおかった。ワバシュのたたかいでセントクレアぐんこうむった損失そんしつはアメリカ・インディアンが合衆国がっしゅうこくぐんあたえた最大さいだいのものである。

北西ほくせいインディアン戦争せんそうはアメリカの歴史れきし初期しょきこった自己じこ完結かんけつがたのインディアン戦争せんそうひとつとかんがえられがちであるが、フレンチ・インディアン戦争せんそう (1754-1763)、ポンティアック戦争せんそう (1763-1764)、ダンモアの戦争せんそう (1774)およびアメリカ独立どくりつ戦争せんそう (1775-1783)とながつづいたオハイオぐんでの闘争とうそう一部いちぶであった。実際じっさいおおくのインディアン社会しゃかいにとっては、かず世代せだいまたがひとつの戦争せんそう一部いちぶであった。たとえば、歴史れきしのフランシス・ジェニングスは、北西ほくせいインディアン戦争せんそうがデラウェアぞくにとって1755ねんブラドック遠征えんせいたい直後ちょくごはじまった「40ねん戦争せんそう」のおわりであったと示唆しさした。オハイオのアメリカ・インディアン部族ぶぞくにとっては、紛争ふんそうは1世代せだいテカムセの戦争せんそうべいえい戦争せんそうまでつづき60ねん戦争せんそうにもなる。

どちらにしろ、その結果けっかは「インディアン部族ぶぞく強制きょうせい移住いじゅう」と合衆国がっしゅうこくによる領土りょうど強奪ごうだつという民族みんぞく浄化じょうかであった。「インディアン戦争せんそう自体じたいかたちえ、21世紀せいき現在げんざいつづいている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Dowd, Gregory Evans. A Spirited Resistance: The North American Indian Struggle for Unity, 1745-1815. Baltimore and London: Johns Hopkins University, 1992.
  • Jennings, Francis. The Founders of America. New York: Norton, 1993.
  • Skaggs, David Curtis and Larry L. Nelson, eds. The Sixty Years' War for the Great Lakes, 1754-1814. East Lansing: Michigan State University Press, 2001. ISBN 0-87013-569-4.
  • Sugden, John. Blue Jacket: Warrior of the Shawnees. Lincoln and London: University of Nebraska Press, 2000.
  • Sword, Wiley. President Washington's Indian War: The Struggle for the Old Northwest, 1790-1795. Norman and London: University of Oklahoma Press, 1985.
  • White, Richard. The Middle Ground: Indians, Empires, and Republics in the Great Lakes Region, 1650-1815. Cambridge University Press, 1991.