きんぴか時代じだい

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1895ねん完成かんせいしたビルトモアハウスノースカロライナしゅう)はヴァンダービルト一族いちぞくのみならず、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとみ象徴しょうちょうである。

きんぴか時代じだい(きんぴかじだい)、ないし、きんメッキ時代じだい(きんメッキじだい、えい: Gilded Age, Gilded Era)は、1865ねん南北戦争なんぼくせんそう終結しゅうけつから1893ねん恐慌きょうこうまでの28年間ねんかん、あるいはとく1870年代ねんだい1880年代ねんだいをさし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおいて資本しほん主義しゅぎ急速きゅうそく発展はってんをとげた時代じだいである[1]。いわゆる「西部せいぶ開拓かいたく時代じだい」とほぼ重複じゅうふくする。

はいきむ主義しゅぎまったしげるきむ趣味しゅみ時代じだいとしてあつかわれることがおおく、政治せいじ腐敗ふはい資本しほん台頭たいとう経済けいざい格差かくさ拡大かくだい皮肉ひにくった文学ぶんがくしゃマーク・トウェインらによる同名どうめい共著きょうちょ小説しょうせつ由来ゆらいする[1]

経済けいざい成長せいちょう金権きんけん政治せいじ時代じだい[編集へんしゅう]

プロモントリー(ユタじゅんしゅう)での大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどう開通かいつう記念きねん式典しきてん1869ねん5がつ10日とおか
ホレイショ・アルジャー

日本語にほんごで「きんぴか時代じだい」ともやくされている「Gilded Age」の「gilded」とは、金箔きんぱくきんメッキ、なにかを金色きんいろること、そして富裕ふゆうそう成金なりきん意味いみする。つまりしんまでかね素材そざいなのではなく、金色きんいろ粉飾ふんしょくする、という意味いみである。

南北戦争なんぼくせんそうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく北部ほくぶ中心ちゅうしんとするひとつのおおきな国民こくみん経済けいざいのまとまりが確保かくほされた[2]1869ねんオマハサクラメントむす最初さいしょ大陸たいりく横断おうだん鉄道てつどう開通かいつうし、ヨーロッパからさらに多数たすう移民いみんをひきつけた[2]。こうした資本しほん主義しゅぎ急速きゅうそく成長せいちょうした鉄鋼てっこうおうアンドリュー・カーネギースコットランド出身しゅっしん)、石油せきゆおうジョン・ロックフェラー銀行ぎんこうジョン・モルガン鉱山こうざんおうグッゲンハイムちちマイアー・グッゲンハイムスイス出身しゅっしんユダヤけいドイツじん)など名立なだちたる富豪ふごう輩出はいしゅつした[2]海運かいうんぎょうから鉄道てつどうてんじたコーネリアス・ヴァンダービルト(オランダけい)、セントラル・パシフィック鉄道てつどう創業そうぎょうしゃのひとりコリス・ポッター・ハンティントン英語えいごばんカリフォルニアしゅうスタンフォード大学だいがく創立そうりつしたリーランド・スタンフォードみなみ満州まんしゅう鉄道てつどう日米にちべい共同きょうどう経営けいえい提案ていあんしたエドワード・ヘンリー・ハリマン悪徳あくとく資本しほん典型てんけいとみなされ、「泥棒どろぼう男爵だんしゃく」とばれたジェイ・グールドなどは、いずれも「鉄道てつどうおう」とばれた実業じつぎょうである[2][3]鉄道てつどうは、アメリカで最初さいしょあらわれただい企業きぎょうであり、19世紀せいきまつにはアメリカ1こく鉄道てつどうもうぜんヨーロッパのそれを凌駕りょうがした[3]。また、「鉄道てつどうおう」たちは豪奢ごうしゃをきわめた別荘べっそう各地かくち建設けんせつした[3]。しかし、政治せいじ腐敗ふはいし、国家こっか庇護ひごけた資本しほんはさらにとみたくわえ、下層かそう人々ひとびと貧困ひんこんあえいだ[2][3]

きんぴか時代じだい」とは、浮いたこうきょう拝金はいきん主義しゅぎ皮肉ひにくり、こうした経済けいざいきゅう成長せいちょうともあらわれた政治せいじ経済けいざい腐敗ふはい不正ふせい批判ひはんして、皮肉ひにく得意とくい小説しょうせつマーク・トウェイン命名めいめいした時代じだい名称めいしょうである[1][3]。トウェインとチャールズ・ダドリー・ウォーナー英語えいごばん共著きょうちょきんぴか時代じだいきんメッキ時代じだい)』では、議員ぎいんやロビイストたちがいかに簡単かんたんにカネで買収ばいしゅうされるかが、露骨ろこつえがかれている[3]反面はんめんおおくのひとびとが高度こうど成長せいちょう成功せいこうゆめ自身じしん運命うんめいたくした時代じだいであり、一代いちだい巨富きょふきずく「アメリカンドリーム」としょうされる成功せいこう物語ものがたり立身出世りっしんしゅっせ物語ものがたりがもてはやされた[2]ちぶれた少年しょうねんであっても、努力どりょく勇気ゆうき決断けつだんなどをつうじてとみ成功せいこう実現じつげんさせることができるというモチーフで小説しょうせつあらわしたホレイショ・アルジャー作品さくひんぐんはその代表だいひょうれいである。また、チャールズ・ダーウィンによる生物せいぶつがく進化しんかろん人間にんげん社会しゃかいにも適用てきようして、自由じゆう競争きょうそう自然しぜん淘汰とうた適者生存てきしゃせいぞん社会しゃかい進化しんかろん流行りゅうこうし、一世いっせい風靡ふうびした時期じきでもあった[2][3][注釈ちゅうしゃく 1]。なお、作家さっか思想家しそうかヘンリー・アダムスは、この時代じだいを「市場いちば宗教しゅうきょうってわった時代じだい」とひょうした。

きんぴか時代じだい」は、軽佻けいちょう浮薄ふはく時期じきとしてあつかわれる一方いっぽうで、かつてのような西欧せいおう社会しゃかい辺境へんきょう位置いちする農業のうぎょうてき社会しゃかいから工業こうぎょう都市とし特徴とくちょうとする社会しゃかいへとおおきく変貌へんぼうし、また、世界せかいおもて舞台ぶたいへとおど時期じきでもあった[1]。その変化へんかはあまりにもきょだいかつ急激きゅうげきなものであったため、アメリカ社会しゃかいそのものをおおきくさぶり、従来じゅうらいからの価値かちかん生産せいさん様式ようしきとう固執こしつするひとびとは、こうした大変たいへんとそれにともなうあたらしい現象げんしょう反発はんぱつ違和感いわかん疎外そがいかんをいだき、さまざまなかたちで抵抗ていこうした[1]

政治せいじ腐敗ふはい混迷こんめい[編集へんしゅう]

アンドリュー・ジョンソン
ユリシーズ・グラント
ラザフォード・ヘイズ
ジェームズ・ガーフィールド
グロバー・クリーブランド

きんぴか時代じだいにあっては三権さんけんのうち、もっとも強大きょうだいちからをふるったのは司法しほうけんであり、独占どくせん規制きせいほうあみひろげてだい資本しほん擁護ようごし、しばしばストライキめて、南部なんぶ黒人こくじん差別さべつ黙認もくにんした[4]。それにいでちからのあったのは立法りっぽうけんであり、連邦れんぽう議会ぎかい委員いいんかい活動かつどうなどをとおしてしばしば行政ぎょうせいてき機能きのうさえゆうした[4]行政ぎょうせいけんちょうであるはずの大統領だいとうりょうはもっとも権限けんげんとぼしく、ほとんど官職かんしょく分配ぶんぱいやくにとどまっていた[4]

ジョンソン時代ときよ[編集へんしゅう]

リンカーン大統領だいとうりょう暗殺あんさつふく大統領だいとうりょうから昇格しょうかくした南部なんぶじんアンドリュー・ジョンソン大統領だいとうりょう共和党きょうわとう選出せんしゅつではあったものの元来がんらい民主党みんしゅとう出身しゅっしんだったため[注釈ちゅうしゃく 2]南部なんぶ白人はくじん特赦とくしゃあたえるなど南部なんぶたい好意こういてきかつ寛大かんだいにふるまった[5]南部なんぶきゅう指導しどうしゃらは政治せいじ活動かつどう再開さいかいし、かつての「奴隷どれい取締とりしまほう」にわって「黒人こくじん取締とりしまほう」を制定せいていするなど、従来じゅうらい支配しはい体制たいせい維持いじされた[5]。これにたいして「なにのための南北戦争なんぼくせんそうだったのか」と北部ほくぶ世論せろん激昂げっこう、とくに共和党きょうわとう急進きゅうしんとはウマがわず対立たいりつした[5]。ついには大統領だいとうりょう弾劾だんがい裁判さいばんおこなわれ、ジョンソンは1ひょう無罪むざいとなったものの、その影響えいきょうりょく完全かんぜんうしなった[5]

グラント時代じだい[編集へんしゅう]

グラント南北戦争なんぼくせんそうきたぐん名将めいしょうとしてられ、1868ねん5月のシカゴでの共和党きょうわとう全国ぜんこく大会たいかい満場一致まんじょういっち大統領だいとうりょう候補こうほえらばれ、大統領だいとうりょうせんでも大勝たいしょうした。しかし、大統領だいとうりょうとしてのかれは、汚職おしょくとスキャンダル英語えいごばんつねなやまされた。とく連邦れんぽう政府せいふ税金ぜいきんから300まんドル以上いじょう不正ふせい収得しゅうとくしたとされるウイスキー汚職おしょく事件じけん有名ゆうめいである。個人こじん補佐ほさかんオービル・E・バブコックは不正ふせい行為こうい関与かんよしたとして起訴きそされ、大統領だいとうりょう恩赦おんしゃによって有罪ゆうざい判決はんけつ回避かいひした。この事件じけんののち陸軍りくぐんしょう長官ちょうかんウィリアム・E・ベルナップがアメリカインディアンとの販売はんばい取引とりひきポストと交換こうかん賄賂わいろけとったことが調査ちょうさ結果けっかあきらかとなった。グラント自身じしん部下ぶか不正ふせい行為こういから利益りえき証拠しょうこはないが、かれ犯罪はんざいしゃたいするきびしい姿勢しせいをとらず、かれらの有罪ゆうざい確定かくていしたのちさえ、つよ反応はんのうしなかった。かれ周辺しゅうへん汚職おしょくにまみれ、いまではしばしば「史上しじょう最低さいてい大統領だいとうりょう」と評価ひょうかされるほどである[3]

腐敗ふはいしたグラント政権せいけんあいだ共和党きょうわとう人気にんきち、共和党きょうわとう民主党みんしゅとう妥協だきょう南部なんぶじん閣僚かくりょうり、南部なんぶ鉄道てつどう北部ほくぶ資本しほん導入どうにゅう)するまでにいたった。南部なんぶ民主党みんしゅとうあたらしい指導しどうしゃらは戦前せんぜんとはちがって北部ほくぶ共和党きょうわとうちかかんがかたをもち、結局けっきょく北部ほくぶ南部なんぶ白人はくじん黒人こくじん犠牲ぎせいにおいて和解わかいすることになった。人種じんしゅ問題もんだいかんしては、政府せいふ関知かんちせずという自由じゆう放任ほうにん方針ほうしんがとられた[3]解放かいほう黒人こくじんには土地とちラバあたえられるという期待きたいひろまっていたが、無一文むいちもんほうされた多数たすうもと奴隷どれいらはプランテーションって放浪ほうろうするか、南部なんぶにとどまってプランテーションの農業のうぎょう労働ろうどうしゃ小作こさくじんになるよりほかにみちがなかった。

大統領だいとうりょう選挙せんきょ闇取引やみとりひき[編集へんしゅう]

共和党きょうわとうのグラント政権せいけんがあまりに無能むのうだったため、建国けんこく100ねんにあたる1876ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、共和党きょうわとう候補こうほラザフォード・ヘイズよりも民主党みんしゅとう候補こうほサミュエル・ティルデン人気にんきほう上回うわまわり、事実じじつ、ティルデン候補こうほほう勝利しょうりしたかにみえた[3]サウスカロライナしゅうフロリダしゅうルイジアナしゅう南部なんぶ3しゅうおよび西海岸にしかいがんオレゴンしゅうのぞけば、選挙せんきょじん獲得かくとくすうはヘイズ165ひょう、ティルデン184ひょうひらいていたからである[3]。このときの過半数かはんすうは185ひょうであった[3]。このとき南部なんぶ3しゅうからは共和党きょうわとう民主党みんしゅとうの2くみ選挙せんきょじんだんおくられるという異常いじょう事態じたいであった。オレゴンをふくむ4しゅう開票かいひょううたがわしいてんがあるとされ、13にんからなる選挙せんきょ委員いいんかい英語えいごばんもうけられたものの、これは形式けいしきだけのことであって、実際じっさいには闇取引やみとりひきがおこなわれていた[3]結局けっきょく、4しゅう合計ごうけい20ひょうはすべてヘイズひょうとなり、ヘイズが当選とうせんしてだい19だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう就任しゅうにんした[3]交換こうかん条件じょうけんとして、共和党きょうわとう南部なんぶ進駐軍しんちゅうぐんをすべて北部ほくぶ撤退てったいすること、解放かいほうされた黒人こくじんたちに公民こうみんけん保障ほしょうした憲法けんぽう修正しゅうせいだい14じょう不履行ふりこう黙認もくにんすることを密約みつやくした[3]共和きょうわ民主みんしゅりょうとうあいだのこの取引とりひきは「1877ねん妥協だきょう」とばれ、以後いご民主党みんしゅとうきゅう連合れんごうこくもろしゅう管理かんりき、この地域ちいきは「ソリッド・サウス英語えいごばん」とばれて、事実じじつじょう民主党みんしゅとういちとう支配しはい貫徹かんてつする地域ちいきとなった。

だい政党せいとう[編集へんしゅう]

共和党きょうわとうは、南北戦争なんぼくせんそう自由じゆう労働ろうどうイデオロギーに連合れんごう政党せいとうから実業じつぎょうじんがリードするブルジョア政党せいとうへと、その性質せいしつ徐々じょじょえていったが、1870年代ねんだい後半こうはん以降いこう政界せいかい腐敗ふはいへの対応たいおうをめぐって深刻しんこく分裂ぶんれつ危機ききにさらされた[4]

ロスコー・コンクリング英語えいごばん上院じょういん議員ぎいんひきいる共和党きょうわとうあい党派とうは英語えいごばんは、猟官りょうかんせいや「マシーン」とばれたしゅうひょう組織そしき擁護ようごしたのにたいし、メインしゅう選出せんしゅつジェイムズ・G・ブレイン上院じょういん議員ぎいんらは資格しかく任用にんようせいもとづく官庁かんちょう改革かいかくとなえて対立たいりつし、あい党派とうはからは「混血こんけつ英語えいごばん」との罵声ばせいびた。これは「半分はんぶんしか共和党きょうわとういんでない」という意味いみであった。1880ねん共和党きょうわとう全国ぜんこく大会たいかいでは、あい党派とうはのグラントが前例ぜんれいのない大統領だいとうりょうさんせん目指めざしたのにたいし、改革かいかくからはブレインやジョン・シャーマンらが立候補りっこうほし、だれもが過半数かはんすう獲得かくとくできないまま投票とうひょうかえされた。ようやく36かい投票とうひょうで、ブレインとシャーマンは、一部いちぶひょうあつめていたジェームズ・ガーフィールド支持しじまわり、最終さいしゅうてきにガーフィールドが候補こうほ指名しめいけ、ほん選挙せんきょ当選とうせんたした。しかし、その6かげつガーフィールド大統領だいとうりょう暗殺あんさつ事件じけんこってしまう。後任こうにん大統領だいとうりょうとしてあい党派とうはふく大統領だいとうりょうチェスター・A・アーサー就任しゅうにんしたが、アーサーはあい党派とうは期待きたいをよそに官庁かんちょう改革かいかく実施じっしし、ペンドルトン公務員こうむいん改革かいかくほう英語えいごばん成立せいりつさせて、資格しかく任用にんようせいもとづく公務員こうむいん任用にんようあらためた。

一方いっぽう民主党みんしゅとう1870年代ねんだい後半こうはん以降いこう南北戦争なんぼくせんそう痛手いたでから完全かんぜん回復かいふくした[4]民主党みんしゅとうグロバー・クリーブランド1884ねんからの4ねんと、1892ねんからの4ねん連続れんぞくでない2にわたって大統領だいとうりょうしょくつとめたる[4]1884ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ予備よびせんでは、ジェイムズ・ブレインが現職げんしょく大統領だいとうりょうのアーサーをやぶって共和党きょうわとう候補こうほとなったが、このときブレインがわ汚職おしょくスキャンダルが発覚はっかくし、これを批判ひはんした党内とうない改革かいかく一部いちぶ離党りとうしてクリーブランド支持しじまわり、南北戦争なんぼくせんそうはじめて民主党みんしゅとう政権せいけん誕生たんじょうした。クリーブランドは、財界ざいかい贔屓ひいきブルボン民主党みんしゅとう英語えいごばん一員いちいんであり、古典こてんてき自由じゆう主義しゅぎ信奉しんぽうし、財政ざいせい保守ほしゅ主義しゅぎ腐敗ふはい政治せいじ打破だはかかげた。

1888ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、共和党きょうわとう積極せっきょくてき選挙せんきょ運動うんどうこうそうし、ベンジャミン・ハリソンがクリーブランドをやぶって当選とうせんした。内戦ないせん北部ほくぶ経済けいざい産業さんぎょう鉄道てつどう鉱山こうざんおよび農業のうぎょうさかえ、都市とし発展はってんもめざましかった。共和党きょうわとう高度こうど成長せいちょう持続じぞくさせる政策せいさく展開てんかいし、だい規模きぼ政府せいふ支出ししゅつおこなってだい企業きぎょう全般ぜんぱん支援しえんし、金本位きんほんいせいへの移行いこうこう関税かんぜい政策せいさく支持しじし、北部ほくぶ退役たいえき軍人ぐんじんにも多額たがく年金ねんきん約束やくそくした。しかし、1890ねん、ハリソン政権せいけん成立せいりつさせたマッキンリー関税かんぜい英語えいごばん極度きょくどこう税率ぜいりつだったため、きわめて不評ふひょうであった。一方いっぽうで、中小ちゅうしょう企業きぎょう要請ようせいこたえてはんトラストのシャーマンほう制定せいていしたが、こちらは議会ぎかいにより骨抜ほねぬきにされてしまった。マッキンリー関税かんぜい影響えいきょう甚大じんだいで、1890ねんなかあいだ選挙せんきょでは共和党きょうわとう大敗たいはいウィリアム・マッキンリー自身じしん下院かいん議員ぎいんしょくうしなった。

このいきおいにって1892ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょではクリーブランドがかえきをたした。民主党みんしゅとう影響えいきょうつよまるなか、1880年代ねんだい以降いこう19世紀せいきまつまで、南部なんぶでは黒人こくじん公民こうみんけん剥奪はくだつ英語えいごばんおこなわれ、有色ゆうしょく人種じんしゅ隔離かくりするほう成立せいりつした。クリーブランドの21893ねん恐慌きょうこう同時どうじはじまったが、かれはこれをなおすことができなかった。

共和きょうわ民主みんしゅだい政党せいとうによる競争きょうそう熾烈しれつをきわめ、勢力せいりょく拮抗きっこうした[4]。1876ねんから1892ねん大統領だいとうりょう当選とうせんしゃのうち、一般いっぱん投票とうひょうりつが50パーセントをえたものだれもいなかったほどである[4]国民こくみんはきわめて活発かっぱつ政治せいじ参加さんかし、大統領だいとうりょう選挙せんきょはじめ各種かくしゅ選挙せんきょ投票とうひょうりつつねに80パーセント前後ぜんこう記録きろくした[4]ひとびとの政党せいとうへの帰属きぞく感情かんじょうつよく、選挙せんきょではりょうとうかれてだい規模きぼパレード参加さんかするなど、それはあたかも祝祭しゅくさい様相ようそうていした[4]。こうした熾烈しれつ競争きょうそうにもかかわらずだい政党せいとうには重要じゅうよう争点そうてんがなかったともしばしばひょうされるが、じつ選挙せんきょみんにとっては身近みぢかで、それゆえ切実せつじつでもある争点そうてん存在そんざいしていた[4]

共和党きょうわとうは、みずからを南北戦争なんぼくせんそう勝利しょうりした愛国あいこくしゃとう進歩しんぽとうとして位置いちづけ、民主党みんしゅとうを「反逆はんぎゃくしゃとう」とんで糾弾きゅうだんした[4]禁酒きんしゅ安息日あんそくび遵守じゅんしゅカトリックなどによる教区きょうく学校がっこう規制きせい外国がいこくじん排除はいじょなどのような「民族みんぞく文化ぶんかてき争点そうてん」においては、共和党きょうわとうプロテスタントてき立場たちば鮮明せんめいにしてきびしいまりを主張しゅちょうした[4]一方いっぽう民主党みんしゅとうは、みずからを「たん中央ちゅうおう集権しゅうけん」のとうとする立場たちばから、みぎのような問題もんだい各人かくじん内面ないめん問題もんだいとしてまりに反対はんたいし、「個人こじん自由じゆう」を主張しゅちょうした[4]南部なんぶではまた、「うしなわれた大義たいぎ」を体現たいげんするとうとして白人はくじん忠誠ちゅうせいしんをつかんでいた[4]唯一ゆいいつ経済けいざいてき争点そうてんともいえる関税かんぜい問題もんだいでは、共和党きょうわとう保護ほご関税かんぜい主導しゅどうし、民主党みんしゅとう自由じゆう貿易ぼうえきてい関税かんぜい主張しゅちょうした[4]民主党みんしゅとうはまた、アメリカの海外かいがい進出しんしゅつにも反対はんたいし、のちのハワイ併合へいごうでもこれに反対はんたいしている。

くさ民主みんしゅ主義しゅぎから発展はってんしてアメリカでは南北戦争なんぼくせんそう職業しょくぎょうとしての政治せいじ」が確立かくりつし、各地かくちでいわゆる「ボス政治せいじ」がまれたが、このような状態じょうたいは、政治せいじを「ノブレス・オブリージュ」とみなす貴族きぞく主義しゅぎてきエリートからはつよ反感はんかんけた[4]

西部せいぶ開発かいはつ[編集へんしゅう]

ホームステッドほう(1862ねん)によってあたえられたネブラスカしゅうでの自営じえい農地のうち証明しょうめい

南北戦争なんぼくせんそう以降いこうミシシッピがわ以西いせい地域ちいき開発かいはつ急速きゅうそくすすんだ[6]。この開発かいはつ先陣せんじんったのは鉱山こうざん開発かいはつであり、ロッキー山脈さんみゃくカリフォルニアしゅうきむぎんなどの貴金属ききんぞくだけでなく、どう鉄鉱てっこうせき石炭せきたんなど重要じゅうよう鉱産こうさん資源しげん採掘さいくつがはじまった[6]各地かくち鉱山こうざんキャンプ出現しゅつげんし、やがて鉱山こうざんまちへと発展はってんしていった[6]つぎ進出しんしゅつしてきたのは牧畜ぼくちく業者ぎょうしゃであり、グレートプレーンズ西側にしがわ乾燥かんそう地帯ちたいでの公有こうゆう利用りようしたうし放牧ほうぼくがはじまった[6]1870年代ねんだい以降いこうは、この乾燥かんそう地帯ちたいにも農業のうぎょう開発かいはつがおよんだ。農機具のうきぐ改善かいぜん乾燥かんそう農法のうほうたいいぬい品種ひんしゅ導入どうにゅう鉄条てつじょうもう普及ふきゅうなどによって耕地こうち家畜かちく管理かんり容易よういになったためであった[6]

1862ねんホームステッドほう自営じえい農地のうちほう)によって、公有こうゆうをみずから耕作こうさくしようとするものには160エーカー(やく64.6ヘクタール)の土地とち無償むしょうあたえられることとなり、西部せいぶ農民のうみん年来ねんらい念願ねんがんたされた[2]事実じじつにおいては、このほうよりも土地とち会社かいしゃなどから土地とち購入こうにゅうして西部せいぶうつんだものほうおおかったとはいえ、これは「機会きかい均等きんとう」というアメリカン・ドリームを裏打うらうちする制度せいどとしておおきな意味いみをもっていた[2]。そして、西部せいぶ発展はってんし、人口じんこう増加ぞうかし、のうまきぎょう振興しんこうされることは、アメリカの工業こうぎょう生産せいさんにとっても市場いちば拡大かくだい意味いみし、工業こうぎょう農業のうぎょう相互そうご補完ほかんてき発展はってん可能かのうとなった[6].アメリカの工業こうぎょうだつ農業のうぎょうをともなわなかったのであり、外国がいこく市場いちば依存いぞんしない自立じりつてき国民こくみん経済けいざい形成けいせいすすんだのである[6]。この時期じき爆発ばくはつてき工業こうぎょう都市としはまた、原料げんりょう動力どうりょくげん食糧しょくりょう需要じゅよう飛躍ひやくてき拡大かくだいをもたらした[6]。そして、農業のうぎょうてき鉱業こうぎょうてき西部せいぶ興行こうぎょうてき都市としてき東部とうぶおよび五大ごだいみずうみ沿岸えんがん地域ちいきとは鉄道てつどうもうむすばれたのである[6]

公有こうゆう開放かいほう鉄道てつどう敷設ふせつたいする支援しえんなどの場面ばめん連邦れんぽう政府せいふたした役割やくわりおおきかった[6]西部せいぶ開発かいはつは、国家こっかによって支援しえんされたアメリカ資本しほん主義しゅぎ発展はってん不可分ふかぶん関係かんけいにあったといってよい[6]。その一方いっぽうで、先住せんじゅうアメリカじんネイティブ・アメリカン)は野蛮やばんないし未開みかいされ、苛酷かこくあつかわれた。白人はくじん改革かいかく運動うんどうからこのようなあつかいが批判ひはんびたこともあって、1887ねん連邦れんぽう政府せいふによってドーズほう制定せいていされ、たい先住民せんじゅうみん政策せいさく転換てんかんはかられたが、それは先住民せんじゅうみんの「文明ぶんめい」を本質ほんしつとするものであった[6]

フロンティアの消滅しょうめつ[編集へんしゅう]

1890ねん国勢調査こくせいちょうさ報告ほうこくしょフロンティア消滅しょうめつ宣言せんげんされた。きんぴか時代じだい解放かいほうされたエネルギーとそこに出現しゅつげんした社会しゃかい問題もんだいが、こののち帝国ていこく主義しゅぎ進歩しんぽ主義しゅぎ時代じだい導入どうにゅうすることとなる。あい前後ぜんごしてアメリカは海外かいがいへの進出しんしゅつはじめるのである。

独占どくせん資本しほん時代じだい[編集へんしゅう]

きゅう成長せいちょうをとげたアメリカ資本しほん主義しゅぎは、1880年代ねんだい独占どくせん資本しほん形成けいせいすすみ、工業こうぎょう生産せいさん1894ねんには世界一せかいいちとなるまでに発展はってんした[2]。そのうらでは、各種かくしゅ企業きぎょう合同ごうどうとくトラスト成立せいりつし、だい資本しほん政府せいふむすび、汚職おしょく政治せいじへの介入かいにゅうつづくなど独占どくせん資本しほん弊害へいがいがあらわになってきた[2]1882ねんにスタンダード石油せきゆトラストを形成けいせいし、巨大きょだい利益りえき消費しょうひしゃ還元かんげんせずこう価格かかく販売はんばいつづけたロックフェラーのスタンダード・オイルのビジネス手法しゅほうひろきびしく批評ひひょうされた。当時とうじ風刺ふうしには、はらに「鉄鋼てっこうトラスト」「どうトラスト」「石油せきゆトラスト」「砂糖さとうトラスト」とかれた金満きんまん巨体きょたいがならぶ傍聴ぼうちょうせきよこちいさくなった議員ぎいんたちをえがいた、「自由じゆう女神めがみぞう」の姿すがたをして、右手みぎて地球ちきゅう左手ひだりて石油せきゆランプをかかげて「独占どくせん」のたるうえにまたがったロックフェラーのなどがある。当時とうじだい資本しほんは、泥棒どろぼう男爵だんしゃく(Robber baron)という言葉ことば表現ひょうげんされた。急激きゅうげき工業こうぎょうは、企業きぎょう合同ごうどう資本しほん集中しゅうちゅうによってもたらされたものであった[2]

ニューヨーク・シカゴの発展はってん[編集へんしゅう]

マンハッタンからみたブルックリンきょう

1869ねんから14ねん歳月さいげつをかけてマンハッタン対岸たいがんブルックリンむす当時とうじ世界せかい最長さいちょうニューヨーク・ブルックリンきょうが1883ねん完成かんせいし、アメリカのとみ産業さんぎょう実力じつりょく世界せかい誇示こじし、ニューヨーク世界せかいてき都市としとして印象いんしょうづけた。ブルックリンきょうは、アメリカでもっとふるばしひとつであり、同時どうじ鋼鉄こうてつのワイヤーを使つかった世界せかいはつ吊橋つりばしでもあった。急速きゅうそく経済けいざい発展はってんにともなって、アメリカじん道徳どうとくかんおおきくわり、強烈きょうれつ事業じぎょうよく物欲ぶつよく正当せいとうされることとなった。文化ぶんかおよび社会しゃかいてきリーダーの中心ちゅうしんも、ボストン知識ちしきじんまち)から、ニューヨーク(事業じぎょうまち)へとうつった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ アンドリュー・カーネギーは、社会しゃかい進化しんかろん信奉しんぽうしゃであった。斎藤さいとう(1976)pp.30-31
  2. ^ ジョンソンは南部なんぶ出身しゅっしんであったが南北戦争なんぼくせんそうにおける南部なんぶ合衆国がっしゅうこく離脱りだつには反対はんたいで、そのてんられて共和党きょうわとう大統領だいとうりょうのリンカーンに指名しめいされたため共和党きょうわとうからの選出せんしゅつとなった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 齋藤さいとうしん『アメリカ現代げんだい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかい現代げんだい32〉、1976ねん12月。 
  • 猿谷さるやかなめ物語ものがたり アメリカの歴史れきし中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1991ねん10がつISBN 4-12-101042-6 
  • たけ中興ちゅうこう ちょ黒人こくじん奴隷どれい制度せいど南北戦争なんぼくせんそう南部なんぶ再建さいけん」、野村のむら達朗たつろう へんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく歴史れきしミネルみねるァ書房ぁしょぼう、1998ねん4がつISBN 4-623-02870-4 
  • 広瀬ひろせたかし『アメリカの経済けいざい支配しはいしゃたち』集英社しゅうえいしゃ、1999ねん12月。ISBN 9784087200072 
  • 横山よこやまりょう ちょきんぴか時代じだいと19世紀せいきまつのアメリカ」、野村のむら達朗たつろう へんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく歴史れきしミネルみねるァ書房ぁしょぼう、1998ねん4がつISBN 4-623-02870-4 

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]