メイン (USS Maine, ACR-1 )は、アメリカ海軍 かいぐん の戦艦 せんかん 。当初 とうしょ は装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん として分類 ぶんるい された。本 ほん 級 きゅう はアメリカ海軍 かいぐん が自国 じこく の沿岸 えんがん 防衛 ぼうえい のために建造 けんぞう した砲塔 ほうとう 装甲 そうこう 艦 かん である。本 ほん 艦 かん の特徴 とくちょう として沿岸 えんがん 航行 こうこう が主体 しゅたい のモニター艦 かん が主力 しゅりょく のアメリカ海軍 かいぐん で初 はつ の外洋 がいよう 行動 こうどう を行 おこな える主力 しゅりょく 艦 かん として建造 けんぞう された。
本 ほん 艦 かん の内部 ないぶ 構造 こうぞう と爆発 ばくはつ のあった箇所 かしょ を示 しめ した図 ず 。
本 ほん 艦 かん の基本 きほん 構造 こうぞう は艦 かん 首 くび 水面 すいめん 下 か に衝角 を持 も ち、平 ひら 甲板 かんぱん 型 がた 船体 せんたい の前後 ぜんご 甲板 かんぱん 上 じょう にミリタリーマスト を1本 ほん ずつ配置 はいち し、中央 ちゅうおう 部 ぶ に箱 はこ 型 がた の操舵 そうだ 艦橋 かんきょう と2本 ほん 煙突 えんとつ を配置 はいち した。
主 しゅ 武装 ぶそう は本 ほん 艦 かん の船体 せんたい 中央 ちゅうおう 部 ぶ に2基 き の連装 れんそう 式 しき 主砲 しゅほう 塔 とう を斜 なな めに配置 はいち しており、1基 き の主砲 しゅほう が艦 かん 首 くび から艦 かん 尾 お まで片 かた 舷 ふなばた 180度 ど +反対 はんたい 舷側 げんそく の限定 げんてい された範囲 はんい に発射 はっしゃ できる。この配置 はいち は前方 ぜんぽう および後方 こうほう には全 ぜん 主砲 しゅほう を向 む ける事 こと ができるが、片 かた 舷 ふなばた 方向 ほうこう には極 きわ めて限定 げんてい された範囲 はんい しか向 む ける事 こと ができなかった。
近代 きんだい 戦艦 せんかん の基本形 きほんけい が完成 かんせい するまでイギリス海軍 かいぐん の「コロッサス級 きゅう 」やイタリア海軍 かいぐん 「カイオ・ドゥイリオ級 きゅう 」など各国 かっこく の主力 しゅりょく 艦 かん でかなり採用 さいよう されたものの、後 のち に艦隊 かんたい が単 たん 縦陣 じゅうじん を組 く むようになると、前後 ぜんご 方向 ほうこう より舷側 げんそく 方向 ほうこう に対 たい して全 ぜん 主砲 しゅほう を向 む けたほうが都合 つごう が良 よ いと判明 はんめい し、その後 ご は用 もち いられなくなった。
本 ほん 艦 かん の主 しゅ 機関 きかん は2基 き の主砲 しゅほう 塔 とう の弾薬 だんやく 庫 こ に挟 はさ まれる形 かたち で船体 せんたい 中央 ちゅうおう 部 ぶ の主要 しゅよう 防御 ぼうぎょ 区画 くかく (ボックス・シタデル)内部 ないぶ に配置 はいち されており、石炭 せきたん 専 せん 焼 しょう 円筒 えんとう 缶 かん を片 かた 舷 ふなばた 4基 き ずつ並列 へいれつ に配置 はいち し計 けい 8基 き を備 そな え、さらに3段 だん 膨張 ぼうちょう 式 しき レシプロ機関 きかん を左右 さゆう 1基 き ずつ、計 けい 2基 き を組 く み合 あ わせた2軸 じく 推進 すいしん である。最大 さいだい 出力 しゅつりょく は9,293馬力 ばりき を発生 はっせい ・速力 そくりょく 16.45ノットを発揮 はっき できた。石炭 せきたん を896トン搭載 とうさい できた。
1898年 ねん に撮影 さつえい された本 ほん 艦 かん 。本 ほん 艦 かん の主砲 しゅほう 塔 とう のバーベットの一部 いちぶ が舷側 げんそく 方向 ほうこう に張 は り出 だ しているために下部 かぶ に影 かげ が出来 でき ている。
主砲 しゅほう は「1895年 ねん 型 がた Mark 2 25.4 cm(30口径 こうけい )後 ご 装填 そうてん 砲 ほう 」を採用 さいよう した。その性能 せいのう は231.3kgの砲弾 ほうだん を、最大 さいだい 仰角 ぎょうかく 15度 ど で18,290mまで届 とど かせられ、8,230mで舷側 げんそく 装甲 そうこう 147mmを貫通 かんつう できた。この砲 ほう を新 しん 設計 せっけい の連装 れんそう 砲塔 ほうとう に収 おさ めた。俯仰 ふぎょう 能力 のうりょく は仰角 ぎょうかく 15度 ど ・俯角 ふかく 3度 ど である。旋回 せんかい 角度 かくど は舷側 げんそく 方向 ほうこう を0度 ど として左右 さゆう 150度 ど の旋回 せんかい 角度 かくど を持 も つ、主 しゅ 砲身 ほうしん の俯仰 ふぎょう と砲弾 ほうだん の揚 あげ 弾 だん ・装填 そうてん は主 おも に水圧 すいあつ で行 おこな われ、砲塔 ほうとう の旋回 せんかい は蒸気 じょうき 機関 きかん を使用 しよう 、補助 ほじょ に人力 じんりき を必要 ひつよう とした。砲弾 ほうだん の装填 そうてん 形式 けいしき は固定 こてい 角 かく 装填 そうてん で角度 かくど は仰角 ぎょうかく 10度 ど で固定 こてい されていた。発射 はっしゃ 速度 そくど は2 - 3分間 ふんかん に1発 はつ が発射 はっしゃ できた。なお、本 ほん 艦 かん は小型 こがた の船体 せんたい に連装 れんそう 砲塔 ほうとう を2基 き も搭載 とうさい したために主砲 しゅほう を舷側 げんそく に向 む けて旋回 せんかい させると船体 せんたい がその方向 ほうこう に傾 かたむ くと言 い う悪癖 あくへき があり、時 とき として仰角 ぎょうかく が不足 ふそく する運用 うんよう 上 じょう の問題 もんだい があった。
副 ふく 砲 ほう は当時 とうじ の備砲 びほう としてやや時代遅 じだいおく れの感 かん があるが、速射 そくしゃ 性 せい を重視 じゅうし して「1885年 ねん 型 がた Mark 26 インチ:15.2 cm(30口径 こうけい )砲 ほう 」を採用 さいよう し、これを単 たん 装 そう 砲 ほう 架 か で6基 き を配置 はいち した。その他 た に対 たい 水雷 すいらい 艇 てい 用 よう に「1880年 ねん 型 がた Marks 15.7 cm(40口径 こうけい )砲 ほう 」を単 たん 装 そう 砲 ほう 架 か で7基 き 、「1886年 ねん 型 がた Marks 13.7 cm機 き 砲 ほう 」を単 たん 装 そう 砲 ほう 架 か で8基 き 装備 そうび した。対 たい 艦 かん 攻撃 こうげき 用 よう として35.6 cm水上 すいじょう 魚雷 ぎょらい 発射 はっしゃ 管 かん を単 たん 装 そう で4基 き を装備 そうび した。
現代 げんだい にも記念 きねん 碑 ひ として残 のこ る本 ほん 艦 かん のマスト。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 下院 かいん は1886年 ねん 8月 がつ 3日 にち にメインの建造 けんぞう を認可 にんか した。1888年 ねん 10月17日 にち にニューヨーク海軍 かいぐん 工廠 こうしょう で起工 きこう し、1889年 ねん 11月18日 にち に海軍 かいぐん 長官 ちょうかん ベンジャミン・F・トレーシー の孫娘 まごむすめ アリス・トレーシー・ウィルマーディングによって進水 しんすい し、初代 しょだい 艦長 かんちょう アレント・S・クラウニンシールド 大佐 たいさ の指揮 しき 下 か 1895年 ねん 9月17日 にち に就役 しゅうえき した。
艦 かん の主 おも な活動 かつどう は東海岸 ひがしかいがん とカリブ海 かりぶかい で費 つい やされた。1898年 ねん 1月 がつ にメインはキューバ のハバナ で起 お きた暴動 ぼうどう に対 たい してアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の権益 けんえき を保護 ほご するため派遣 はけん された。
三 さん 週間 しゅうかん 後 ご の2月 がつ 15日 にち 、21時 じ 40分 ふん にメインはハバナ湾 わん (英語 えいご 版 ばん ) において爆発 ばくはつ を起 お こす。後 ご の調査 ちょうさ で5トンにも及 およ ぶ砲 ほう の装 そう 薬 やく が艦 かん の前方 ぜんぽう を吹 ふ き飛 と ばし、残骸 ざんがい は湾 わん の底 そこ に沈 しず んだことが判明 はんめい した。メインの乗員 じょういん の多 おお くは艦 かん の前方 ぜんぽう で就寝 しゅうしん もしくは休憩 きゅうけい 中 ちゅう で、260名 めい が爆発 ばくはつ と同時 どうじ に死亡 しぼう し、6名 めい が負傷 ふしょう が原因 げんいん で死亡 しぼう した[1] 。ジーグビー艦長 かんちょう を始 はじ めとする士官 しかん 居室 きょしつ は艦 かん の後部 こうぶ に位置 いち していたため難 なん を逃 のが れた。
メインにはボーイ 、コック として日本人 にっぽんじん が8名 めい 乗艦 じょうかん していた。
石田 いしだ 音次郎 おとじろう (横浜 よこはま 出身 しゅっしん 、死亡 しぼう )
鎮寺助右衛門 すけえもん (鹿児島 かごしま 出身 しゅっしん 、死亡 しぼう )
北方 きたがた 勇吉 ゆうきち (神戸 こうべ 出身 しゅっしん 、死亡 しぼう )
大江 おおえ 政吉 まさきち (和歌山 わかやま 出身 しゅっしん 、死亡 しぼう )
杉崎 すぎさき 伊三郎 いさぶろう (小田原 おだわら 出身 しゅっしん 、死亡 しぼう )
鈴木 すずき 甲子太郎 きねたろう (八王子 はちおうじ 出身 しゅっしん 、死亡 しぼう )
串田 くしだ 勝三郎 かつさぶろう (広島 ひろしま 出身 しゅっしん 、生存 せいぞん )
粟生 あおう 房 ぼう 之 の 院 いん (三河 みかわ 出身 しゅっしん 、生存 せいぞん )
死亡 しぼう 者 しゃ のうち鈴木 すずき 甲子太郎 きねたろう はキーウェスト に埋葬 まいそう された。他 た の5名 めい の埋葬 まいそう 地 ち は不明 ふめい 。
メイン号 ごう 爆発 ばくはつ 事件 じけん は、1898年 ねん 4月 がつ に始 はじ まった米 べい 西 にし 戦争 せんそう の原因 げんいん となった。事件 じけん は当時 とうじ スペイン との開戦 かいせん を要求 ようきゅう するアメリカ国内 こくない の強硬 きょうこう 派 は によって開戦 かいせん の口実 こうじつ に使用 しよう された。
1910年 ねん 8月 がつ 5日 にち に議会 ぎかい はメインの引 ひ き揚 あ げを認可 にんか した。1912年 ねん 2月 がつ 2日 にち にメインは陸軍 りくぐん 工兵 こうへい 隊 たい によって浮上 ふじょう され、1912年 ねん 3月16日 にち に栄誉 えいよ 式 しき と受章 じゅしょう が行 おこな われた後 のち メキシコ湾 わん に沈 しず められた。
アーリントン国立 こくりつ 墓地 ぼち に犠牲 ぎせい 者 しゃ の記念 きねん 碑 ひ がある。
原因 げんいん は今日 きょう に至 いた るまで特定 とくてい されておらず、諸説 しょせつ がある。何 いず れも弾薬 だんやく 庫 こ の爆発 ばくはつ を沈没 ちんぼつ 原因 げんいん とする点 てん は同 おな じだが、その誘因 ゆういん として機雷 きらい 説 せつ 、積載 せきさい 燃料 ねんりょう (石炭 せきたん )の自然 しぜん 発火 はっか による引火 いんか 説 せつ 、対 たい スペイン開戦 かいせん を狙 ねら った米国 べいこく による自作 じさく 自演 じえん 説 せつ 、の主 おも に三 みっ つの説 せつ が唱 とな えられている。米国 べいこく にとっては米 べい 西 にし 戦争 せんそう の評価 ひょうか とも関連 かんれん する大 だい 問題 もんだい であるためか、以来 いらい 何 なん 度 ど も大 だい 規模 きぼ な調査 ちょうさ と論争 ろんそう が繰 く り返 かえ されている。
事件 じけん 直後 ちょくご にスペイン政府 せいふ により実施 じっし された調査 ちょうさ では、石炭 せきたん の自然 しぜん 発火 はっか 説 せつ が支持 しじ されたが、これは米国 べいこく のメディアでは広 ひろ く報道 ほうどう されなかった。
1898年 ねん 3月28日 にち にアメリカ海事 かいじ 審判 しんぱん 所 しょ は機雷 きらい が爆発 ばくはつ の原因 げんいん と断定 だんてい した。この機雷 きらい をスペインのものとする証拠 しょうこ があった訳 わけ では無 な いが、これは米 べい 西 にし 戦争 せんそう を正当 せいとう 化 か する根拠 こんきょ の一 ひと つとして政治 せいじ 的 てき に利用 りよう された。
1911年 ねん 、ハバナ湾 わん 底 そこ に放置 ほうち されたままのメイン号 ごう の残骸 ざんがい が船舶 せんぱく の障害 しょうがい となることが懸念 けねん され、引 ひ き揚 あ げて別 べつ 海域 かいいき に再 さい 投棄 とうき することになった。この際 さい 、引 ひ き揚 あ げられた残骸 ざんがい についてアメリカ海事 かいじ 審判 しんぱん 所 しょ により爆発 ばくはつ 原因 げんいん の再 さい 調査 ちょうさ が実施 じっし された。結論 けつろん は1898年 ねん のものをおおむね踏襲 とうしゅう したが、細部 さいぶ の分析 ぶんせき 結果 けっか には不一致 ふいっち 点 てん がある。
1976年 ねん 、米国 べいこく 海軍 かいぐん のハイマン・リッコーヴァー 提督 ていとく が再 さい 調査 ちょうさ を指揮 しき し、結論 けつろん として機雷 きらい 説 せつ は退 しりぞ けて艦内 かんない に原因 げんいん があったとした。艦内 かんない で何 なに が起 お きたのかは特定 とくてい に至 いた らなかったが、リッコーヴァー個人 こじん としては石炭 せきたん の自然 しぜん 発火 はっか 説 せつ を有力 ゆうりょく と考 かんが える旨 むね を表明 ひょうめい した[2] 。
1999年 ねん 、ナショナル・ジオグラフィック 誌 し が海洋 かいよう 開発 かいはつ ・調査 ちょうさ 会社 かいしゃ であるAdvanced Marine Enterprises (AME) に調査 ちょうさ を委託 いたく し、コンピュータモデリング等 とう 新 あら たな技法 ぎほう を用 もち いた調査 ちょうさ が行 おこな われた。ここでも石炭 せきたん の発火 はっか 説 せつ が支持 しじ されたが、一部 いちぶ で機雷 きらい 説 せつ を支持 しじ する所見 しょけん も得 え られたと発表 はっぴょう した。これに対 たい して旧 きゅう リッコーヴァー調査 ちょうさ に従事 じゅうじ した専門 せんもん 家 か や AME 自身 じしん の一部 いちぶ メンバーからも異論 いろん が出 で 、以後 いご 論争 ろんそう となった。
^ 松岡 まつおか 正 ただし 剛 つよし . “反米 はんべい 大陸 たいりく ”. 松岡 まつおか 正 ただし 剛 つよし の千 せん 夜 や 一夜 いちや ・遊蕩 ゆうとう 篇 へん . 2012年 ねん 4月 がつ 7日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Rickover, Hyman George. How the Battleship Maine was Destroyed. 2nd revised edition. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press, 1995.ISBN 1557507171
「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
「世界 せかい の艦船 かんせん 増刊 ぞうかん 第 だい 28集 しゅう アメリカ戦艦 せんかん 史 し 」(海人 あま 社 しゃ )