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メイン (ACR-1)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
砲塔装甲艦「メイン(USS Maine)」
かんれき
認可にんか 1886ねん8がつ3にち
起工きこう 1888ねん10月17にちニューヨーク海軍かいぐん造船ぞうせんしょ起工きこう
進水しんすい 1889ねん11月18にち
就役しゅうえき 1895ねん9月17にち
その 1898ねん2がつ15にち爆発ばくはつ沈没ちんぼつ
性能せいのうしょもと
排水はいすいりょう 常備じょうび:6,682トン
満載まんさい:7,180トン
全長ぜんちょう 319 ft (97.23 m
-m(水線すいせんちょう
全幅ぜんぷく 57 ft (17.37 m)
吃水きっすい 22 ft (6.71 m)
機関きかん 形式けいしき不明ふめい石炭せきたんせんしょうえんかん8
+さんだん膨張ぼうちょうしきレシプロ機関きかん22じく推進すいしん
最大さいだい出力しゅつりょく 9,293hp
最大さいだい速力そくりょく 16.45 ノット (31 km/h)
航続こうぞく距離きょり -ノット/-うみさと
石炭せきたん:896トン)
乗員じょういん 374めい士官しかん兵員へいいん
へいそう 1895ねんがた Mark 2 10インチ:25.4 cm(30口径こうけいこう装填そうてんしき連装れんそうほう24もん
1885ねんがた Mark 2 6インチ:15.2 cm(30口径こうけいたんそうほう66もん
1880ねんがた Marks 1 6ポンド :5.7 cm(40口径こうけいたんそうほう77もん
1886ねんがた Marks 11ポンド:3.7 cmたんそうほう88もん
14インチ:35.6 cm水上すいじょう魚雷ぎょらい発射はっしゃかんたんそう44もん
装甲そうこう 舷側げんそく:178 - 305mm(しゅ装甲そうこう
甲板かんぱん:51mm(しゅ甲板かんぱん平坦へいたん)、76mm(しゅ甲板かんぱん傾斜けいしゃ
砲塔ほうとう:203mm(がわたて
バーベット:305mm(甲板かんぱん上部じょうぶ)、254mm(甲板かんぱん下部かぶ
司令塔しれいとう:254mm

メインUSS Maine, ACR-1)は、アメリカ海軍かいぐん戦艦せんかん当初とうしょ装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんとして分類ぶんるいされた。ほんきゅうはアメリカ海軍かいぐん自国じこく沿岸えんがん防衛ぼうえいのために建造けんぞうした砲塔ほうとう装甲そうこうかんである。ほんかん特徴とくちょうとして沿岸えんがん航行こうこう主体しゅたいモニターかん主力しゅりょくのアメリカ海軍かいぐんはつ外洋がいよう行動こうどうおこなえる主力しゅりょくかんとして建造けんぞうされた。

ほんかん内部ないぶ構造こうぞう爆発ばくはつのあった箇所かしょしめした

ほんかん基本きほん構造こうぞうかんくび水面すいめん衝角ち、ひら甲板かんぱんがた船体せんたい前後ぜんご甲板かんぱんじょうミリタリーマストを1ほんずつ配置はいちし、中央ちゅうおうはこがた操舵そうだ艦橋かんきょうと2ほん煙突えんとつ配置はいちした。

しゅ武装ぶそうほんかん船体せんたい中央ちゅうおうに2連装れんそうしき主砲しゅほうとうななめに配置はいちしており、1主砲しゅほうかんくびからかんまでかたふなばた180反対はんたい舷側げんそく限定げんていされた範囲はんい発射はっしゃできる。この配置はいち前方ぜんぽうおよび後方こうほうにはぜん主砲しゅほうけることができるが、かたふなばた方向ほうこうにはきわめて限定げんていされた範囲はんいしかけることができなかった。

近代きんだい戦艦せんかん基本形きほんけい完成かんせいするまでイギリス海軍かいぐんの「コロッサスきゅう」やイタリア海軍かいぐんカイオ・ドゥイリオきゅう」など各国かっこく主力しゅりょくかんでかなり採用さいようされたものの、のち艦隊かんたいたん縦陣じゅうじんむようになると、前後ぜんご方向ほうこうより舷側げんそく方向ほうこうたいしてぜん主砲しゅほうけたほうが都合つごういと判明はんめいし、そのもちいられなくなった。

ほんかんしゅ機関きかんは2主砲しゅほうとう弾薬だんやくはさまれるかたち船体せんたい中央ちゅうおう主要しゅよう防御ぼうぎょ区画くかく(ボックス・シタデル)内部ないぶ配置はいちされており、石炭せきたんせんしょう円筒えんとうかんかたふなばた4ずつ並列へいれつ配置はいちけい8そなえ、さらに3だん膨張ぼうちょうしきレシプロ機関きかん左右さゆう1ずつ、けい2わせた2じく推進すいしんである。最大さいだい出力しゅつりょくは9,293馬力ばりき発生はっせい速力そくりょく16.45ノットを発揮はっきできた。石炭せきたんを896トン搭載とうさいできた。

1898ねん撮影さつえいされたほんかんほんかん主砲しゅほうとうのバーベットの一部いちぶ舷側げんそく方向ほうこうしているために下部かぶかげ出来できている。

主砲しゅほうは「1895ねんがた Mark 2 25.4 cm(30口径こうけい装填そうてんほう」を採用さいようした。その性能せいのうは231.3kgの砲弾ほうだんを、最大さいだい仰角ぎょうかく15で18,290mまでとどかせられ、8,230mで舷側げんそく装甲そうこう147mmを貫通かんつうできた。このほうしん設計せっけい連装れんそう砲塔ほうとうおさめた。俯仰ふぎょう能力のうりょく仰角ぎょうかく15俯角ふかく3である。旋回せんかい角度かくど舷側げんそく方向ほうこうを0として左右さゆう150旋回せんかい角度かくどつ、しゅ砲身ほうしん俯仰ふぎょう砲弾ほうだんあげだん装填そうてんおも水圧すいあつおこなわれ、砲塔ほうとう旋回せんかい蒸気じょうき機関きかん使用しよう補助ほじょ人力じんりき必要ひつようとした。砲弾ほうだん装填そうてん形式けいしき固定こていかく装填そうてん角度かくど仰角ぎょうかく10固定こていされていた。発射はっしゃ速度そくどは2 - 3分間ふんかんに1はつ発射はっしゃできた。なお、ほんかん小型こがた船体せんたい連装れんそう砲塔ほうとうを2搭載とうさいしたために主砲しゅほう舷側げんそくけて旋回せんかいさせると船体せんたいがその方向ほうこうかたむくと悪癖あくへきがあり、ときとして仰角ぎょうかく不足ふそくする運用うんようじょう問題もんだいがあった。

ふくほう、その武装ぶそう

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ふくほう当時とうじ備砲びほうとしてやや時代遅じだいおくれのかんがあるが、速射そくしゃせい重視じゅうしして「1885ねんがた Mark 26 インチ:15.2 cm(30口径こうけいほう」を採用さいようし、これをたんそうほうで6配置はいちした。そのたい水雷すいらいていように「1880ねんがた Marks 15.7 cm(40口径こうけいほう」をたんそうほうで7、「1886ねんがた Marks 13.7 cmほう」をたんそうほうで8装備そうびした。たいかん攻撃こうげきようとして35.6 cm水上すいじょう魚雷ぎょらい発射はっしゃかんたんそうで4装備そうびした。

現代げんだいにも記念きねんとしてのこほんかんのマスト。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん1886ねん8がつ3にちにメインの建造けんぞう認可にんかした。1888ねん10月17にちニューヨーク海軍かいぐん工廠こうしょう起工きこうし、1889ねん11月18にち海軍かいぐん長官ちょうかんベンジャミン・F・トレーシー孫娘まごむすめアリス・トレーシー・ウィルマーディングによって進水しんすいし、初代しょだい艦長かんちょうアレント・S・クラウニンシールド大佐たいさ指揮しき1895ねん9月17にち就役しゅうえきした。

かんおも活動かつどう東海岸ひがしかいがんカリブ海かりぶかいついやされた。1898ねん1がつにメインはキューバハバナきた暴動ぼうどうたいしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく権益けんえき保護ほごするため派遣はけんされた。

メインごう爆発ばくはつ事件じけん

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さん週間しゅうかん2がつ15にち、2140ふんにメインはハバナわん英語えいごばんにおいて爆発ばくはつこす。調査ちょうさで5トンにもおよほうそうやくかん前方ぜんぽうばし、残骸ざんがいわんそこしずんだことが判明はんめいした。メインの乗員じょういんおおくはかん前方ぜんぽう就寝しゅうしんもしくは休憩きゅうけいちゅうで、260めい爆発ばくはつ同時どうじ死亡しぼうし、6めい負傷ふしょう原因げんいん死亡しぼうした[1]。ジーグビー艦長かんちょうはじめとする士官しかん居室きょしつかん後部こうぶ位置いちしていたためなんのがれた。

メインにはボーイコックとして日本人にっぽんじんが8めい乗艦じょうかんしていた。

  • 石田いしだ音次郎おとじろう横浜よこはま出身しゅっしん死亡しぼう
  • 鎮寺助右衛門すけえもん鹿児島かごしま出身しゅっしん死亡しぼう
  • 北方きたがた勇吉ゆうきち神戸こうべ出身しゅっしん死亡しぼう
  • 大江おおえ政吉まさきち和歌山わかやま出身しゅっしん死亡しぼう
  • 杉崎すぎさき伊三郎いさぶろう小田原おだわら出身しゅっしん死亡しぼう
  • 鈴木すずき甲子太郎きねたろう八王子はちおうじ出身しゅっしん死亡しぼう
  • 串田くしだ勝三郎かつさぶろう広島ひろしま出身しゅっしん生存せいぞん
  • 粟生あおうぼういん三河みかわ出身しゅっしん生存せいぞん

死亡しぼうしゃのうち鈴木すずき甲子太郎きねたろうキーウェスト埋葬まいそうされた。の5めい埋葬まいそう不明ふめい

メインごう爆発ばくはつ事件じけんは、1898ねん4がつはじまったべい西にし戦争せんそう原因げんいんとなった。事件じけん当時とうじスペインとの開戦かいせん要求ようきゅうするアメリカ国内こくない強硬きょうこうによって開戦かいせん口実こうじつ使用しようされた。

1910ねん8がつ5にち議会ぎかいはメインのげを認可にんかした。1912ねん2がつ2にちにメインは陸軍りくぐん工兵こうへいたいによって浮上ふじょうされ、1912ねん3月16にち栄誉えいよしき受章じゅしょうおこなわれたのちメキシコわんしずめられた。

アーリントン国立こくりつ墓地ぼち犠牲ぎせいしゃ記念きねんがある。

爆発ばくはつ原因げんいん

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原因げんいん今日きょういたるまで特定とくていされておらず、諸説しょせつがある。いずれも弾薬だんやく爆発ばくはつ沈没ちんぼつ原因げんいんとするてんおなじだが、その誘因ゆういんとして機雷きらいせつ積載せきさい燃料ねんりょう石炭せきたん)の自然しぜん発火はっかによる引火いんかせつたいスペイン開戦かいせんねらった米国べいこくによる自作じさく自演じえんせつ、のおもみっつのせつとなえられている。米国べいこくにとってはべい西にし戦争せんそう評価ひょうかとも関連かんれんするだい問題もんだいであるためか、以来いらいなんだい規模きぼ調査ちょうさ論争ろんそうかえされている。

  • 事件じけん直後ちょくごにスペイン政府せいふにより実施じっしされた調査ちょうさでは、石炭せきたん自然しぜん発火はっかせつ支持しじされたが、これは米国べいこくのメディアではひろ報道ほうどうされなかった。
  • 1898ねん3月28にちにアメリカ海事かいじ審判しんぱんしょ機雷きらい爆発ばくはつ原因げんいん断定だんていした。この機雷きらいをスペインのものとする証拠しょうこがあったわけではいが、これはべい西にし戦争せんそう正当せいとうする根拠こんきょひとつとして政治せいじてき利用りようされた。
  • 1911ねん、ハバナわんそこ放置ほうちされたままのメインごう残骸ざんがい船舶せんぱく障害しょうがいとなることが懸念けねんされ、げてべつ海域かいいきさい投棄とうきすることになった。このさいげられた残骸ざんがいについてアメリカ海事かいじ審判しんぱんしょにより爆発ばくはつ原因げんいんさい調査ちょうさ実施じっしされた。結論けつろんは1898ねんのものをおおむね踏襲とうしゅうしたが、細部さいぶ分析ぶんせき結果けっかには不一致ふいっちてんがある。
  • 1976ねん米国べいこく海軍かいぐんハイマン・リッコーヴァー提督ていとくさい調査ちょうさ指揮しきし、結論けつろんとして機雷きらいせつ退しりぞけて艦内かんない原因げんいんがあったとした。艦内かんないなにきたのかは特定とくていいたらなかったが、リッコーヴァー個人こじんとしては石炭せきたん自然しぜん発火はっかせつ有力ゆうりょくかんがえるむね表明ひょうめいした[2]
  • 1999ねんナショナル・ジオグラフィック海洋かいよう開発かいはつ調査ちょうさ会社かいしゃであるAdvanced Marine Enterprises (AME) に調査ちょうさ委託いたくし、コンピュータモデリングとうあらたな技法ぎほうもちいた調査ちょうさおこなわれた。ここでも石炭せきたん発火はっかせつ支持しじされたが、一部いちぶ機雷きらいせつ支持しじする所見しょけんられたと発表はっぴょうした。これにたいしてきゅうリッコーヴァー調査ちょうさ従事じゅうじした専門せんもんや AME 自身じしん一部いちぶメンバーからも異論いろん以後いご論争ろんそうとなった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 松岡まつおかただしつよし. “反米はんべい大陸たいりく”. 松岡まつおかただしつよしせん一夜いちや遊蕩ゆうとうへん. 2012ねん4がつ7にち閲覧えつらん
  2. ^ Rickover, Hyman George. How the Battleship Maine was Destroyed. 2nd revised edition. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press, 1995.ISBN 1557507171

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
  • 世界せかい艦船かんせん増刊ぞうかんだい28しゅう アメリカ戦艦せんかん」(海人あましゃ)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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