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有泉ありいずみ貞夫さだお

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有泉ありいずみ 貞夫さだお(ありいずみ さだお、1932ねん昭和しょうわ7ねん12月21にち[1] - 2022ねんれい4ねん8がつ15にち[2])は、日本にっぽん歴史れきし学者がくしゃ東京商船大学とうきょうしょうせんだいがく名誉めいよ教授きょうじゅせんもん日本にっぽん近代きんだい政治せいじ

略歴りゃくれき

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山梨やまなしけん西八代にしやつしろぐん市川大門いちかわだいもんまちげん市川いちかわ三郷みさとまち)にまれる。生家せいか市川いちかわ有泉ありいずみ江戸えど後期こうき巨摩こまぐん東南湖ひがしなんごむら出身しゅっしんみなみアルプス東南湖ひがしなんご)の初代しょだいひさみぎ衛門えもん)をとする。酒造しゅぞうぎょういとなみ、ちちちょくまつ市川大門いちかわだいもん町長ちょうちょう政友せいゆうかいけい県議会けんぎかい議員ぎいん祖父そふ市川大門いちかわだいもんむら初代しょだい村長そんちょう漢詩かんしじん有泉ありいずみべいまつあしどう)。あにとおる県議会けんぎかい議員ぎいん

市川いちかわ小学校しょうがっこう市川いちかわ国民こくみん学校がっこう初等しょとう卒業そつぎょうし、1945ねん4がつ山梨やまなし県立けんりつ甲府こうふ中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくする。戦時せんじには勤労きんろう動員どういんされ、陸軍りくぐん飛行場ひこうじょうロタコ)の工事こうじにも従事じゅうじする。

戦後せんご1951ねん山梨やまなし県立けんりつ甲府こうふ第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょうし、よく1952ねん京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ入学にゅうがくする。1954ねんには戸田とだかおる江口えぐち圭一けいいちらに勧誘かんゆうされ史学しがく国史こくし専攻せんこう進学しんがくし、1956ねん卒業そつぎょう卒論そつろんは「幕末ばくまつ維新いしんにおける甲州こうしゅう農村のうそん政治せいじてき動向どうこう」。同年どうねんには大学院だいがくいん進学しんがくし、1961ねん京都大学きょうとだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう国史こくしがく専攻せんこう博士はかせ課程かてい単位たんい取得しゅとく退学たいがく

1961ねんには国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん就職しゅうしょく政治せいじ関係かんけい資料しりょうレファレンスを担当たんとうし、のち憲政けんせい資料しりょうしつうつる。国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん時代じだいには職員しょくいん組合くみあいサークル『ろくがつかい』に所属しょぞくE・H・カーんだほか、にち戦争せんそう柳田やなぎだ國男くにお感心かんしんつ。ほか、陸奥むつ宗光むねみつ国家こっか祝祭日しゅくさいじつかんする論文ろんぶん執筆しっぴつしている。

東京商船大学とうきょうしょうせんだいがく助教授じょきょうじゅ教授きょうじゅ、96ねん定年ていねん退官たいかん山梨学院大学やまなしがくいんだいがく教授きょうじゅ山梨やまなしけんへんさん専門せんもん委員いいんどうきん現代げんだい部会ぶかいちょう

1983ねんほしとおる』でサントリー学芸がくげいしょう受賞じゅしょう1985ねん明治めいじ政治せいじ基礎きそ過程かてい-地方ちほう政治せいじ状況じょうきょう史論しろん」で文学ぶんがく博士はかせ京都大学きょうとだいがく)。1985ねんには浅川あさがわたもつらと『山梨やまなし近代きんだいかい』を発足ほっそくし、月例げつれい研究けんきゅう書評しょひょうかいおこなっている[3]

2022ねん8がつ15にちあやまえんせい肺炎はいえんのため甲府こうふ病院びょういん死去しきょ、89さい[2]

著書ちょしょ

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たんちょ

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編著へんちょ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 著作ちょさくけん台帳だいちょう
  2. ^ a b 山梨やまなしにちにち新聞しんぶん』2022ねん8がつ16にちづけ(23めん
  3. ^ 杉本すぎもとひとし郷土きょうど研究けんきゅう雑誌ざっししょ団体だんたい活動かつどう」『山梨やまなしけん 通史つうしへん6 きん現代げんだい2』(山梨やまなしけん、2006ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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